三酔人経綸問答 中江兆民著 桑原武夫・島田虔次訳校注 1965/03/16 岩波文庫

三酔人経綸問答 中江兆民著 桑原武夫・島田虔次訳校注 1965/03/16 岩波文庫

100分de名著

今放送中です。指南役は平田オリザ(劇作家・演出家・芸術文化観光専門職大学学長)さん。まだ二回目ですが、なかなか第三回が放送されないうちに読んでしまいました。お風呂本。友人からもらった本です。

平田さんが変なことを言っているので、もう感想を書いちゃいました。

時代背景

中江 兆民(なかえ ちょうみん、1847年12月8日〈弘化4年11月1日〉-1901年(明治34年)12月13日)は、日本の思想家、政治家。本名は中江 篤介(なかえ とくすけ)。自由民権運動の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙における当選者の一人。フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。 (Wiki

本書の刊行は1887年(明治20年)。P.107に「今の愛新覚羅氏」と出てきますが、これは『ラスト・エンペラー』の「愛新覚羅溥儀」ではなくて、その先代(第11代)の「光緒帝(徳宗景皇帝)」。母は西太后の妹。光緒帝の腹違いの弟「愛新覚羅載灃」の子供が「溥儀」。この辺は図がないとわかりにくい。

アヘン戦争(1840年)、アロー戦争(第二次アヘン戦争、1856-1860年)、日清戦争(1894年)。1887年は日清戦争の前です。

伊藤博文が1841年生まれ、今話題の渋沢栄一は1840年生まれです。兆民は7歳ほど年下です。明治維新では20代後半。

言文一致運動の代表作、二葉亭四迷の『浮雲』が1887年。同じ年です。ですが、

さて最後に、私どもの記憶の中に、言文一致といふ呼び方がいつの間に消えてゆき、その言葉が死語となつていつたのは、いつ頃の事からであつたらうか、それを思ひ出して見るのは興味の深い事である。勿論、かういふ事にはつきりした境界が目に見える筈もなく、又何かの記録のある筈のものでもない。しかしいろいろの記憶をたどつて行くと概略の推定をする事は出来ると思ふ。
 それはほゞ大正年代の末期頃であつたかと私は思つてゐる。国語問題が熱心に論じられ始め、当時の小学校の国語教育が新展開してそれが盛んに考究され、実行に移され始めた前後を一くぎりとして、古い「言文一致」の呼び方は「口語体」といふ名に代つた、と、私はまづさう見当をつけてゐる。この頃には既に日本の文体は殆ど口語体になつて居て、従来の幹流であつた文語の体は、一つの特殊の領域に属してゐるものになつてゐた。それで「言文一致」といふ名が消える頃には、それをわざわざ口語体とことわるのは、何かその文体を文語の文章と対比する場合か、その他に特に説明を要する場合に限られてゐた、といふ有様であつた。(水野葉舟著「言文一致」、青空文庫

私が読んだ岩波文庫は「現代語訳」と「原文」がついています。原文は旧漢字、旧仮名遣いで、すべての漢字にふりがながつけられています。高尚な文語体です。私は読む気になれませんが、読めます。読めますが、理解するのは私には不可能です。

難解な漢字の多い文語体の文章などに接すると、よほどの熟達者でないかぎり、その古めかしい表記のみに目をうばわれて、そこにふくまれる思想の新鮮さを見のがしてしまうことは必至である。(P.265、訳者解説)

前回感想文を書いた『善の研究』は1911年(明治44年)、原文は旧漢字仮名遣いですが、文語文ではありません。20数年で大きく変わっています。この文庫本は1965年。現代の文章です。

これからこの本を読む人に一つ注意を。

いちいち照合したわけではありませんが、現代文では多くの単語が代わっています。翻訳後の多くは明治時代に作られた(あるいは当てられた)ものです。訳者は当然わかっているでしょうが、それらは明治以前と意味が変わっていますし、現代の日本語とも意味が違っているのです。たとえば、この本にたくさん出てくる「進化」は「evolution」の翻訳語で日本にはなかった言葉だと思います。「自由」は「liberty ( freedom )」の翻訳語としての意味で理解していいのですが、明治以前からの「勝手気まま」「ワガママ」の意味が現在もあります。

文語文が口語文になり、さらに今の漢字仮名遣いになると、「自分が知っている日本語」として受け止めてしまいます。明治以前の意味、兆民が使う意味、西田が使う意味、現代の日本人(私)が使う意味、あなたが使う意味、それらは同じとはかぎりません。

「民権」という言葉は今は使わないでしょうが、「専制」「立憲制」「民主制」という言葉がたくさん出てきます。これらも今の意味とは違うかもしれません。まあ、歴史や政治の勉強をサボった私が言うのもなんですが。

三酔人

酒の好きな南海先生のところに、酒を持った二人のお客さんが来ます。名前もわからないのですが、一人は「紳士君」、もうひとりは「豪傑君」と呼ばれます。紳士君は「民主主義者(民主家)」、豪傑君は「侵略主義者(侵伐家)です。

前半は紳士君の発言です。彼は「非武装」を唱えます。

弱小国が強大国と交わるさいに、相手の万分の一にも足りない有形の腕力をふるうのは、まるで卵を岩にぶっつけるようなものです。相手は文明をうぬぼれています。してみれば彼らに、文明の本質である道義の心がないはずはないのです。それなら小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。(P.14-15)

「自由・平等・博愛」。フランス革命の精神ですね。専制・立憲制・民主制の関係について、紳士君はこういいます。立憲制は、

君主の位が尊厳なために、野心家を抑えつけることができる、という点からいえば、専制国に似ている。専制国に似ている。人民が自由である点からいえば、民主国に似ている。けっきょく、この二つの制度の美点をあわせ待ちながら、その弊害のほうはもたないもの、ということができる。(P.49)

日本は天皇(君主、元首)がいる「立憲民主国」です。「議会制民主主義国」という言い方もされますが、天皇はれっきとして存在します。実権をもたない(主権在民)象徴天皇です。よくわからないし、今議論をする気にもなれません。民主主義も自由、平等もよくわかりません。今の日本にどんな政党があるのかもわからないのですが、Wikipediaを見るとそういう名前のついた政党が多いです。自由民主党、立憲民主党、国民民主党、社会民主党。所属議員さんは、自分の政党名の意味がわかっているのでしょうね。どの政党も「民主制」を求めているのでしょう。紳士君の言う「非武装」を目指している政党がどのくらいあるのかはわかりませんが。

もう少し紳士君の言うところを引用します。彼は「進化の理法」を信じています。

そもそも進化というのは、不完全の形から完全な形におもむき、不純粋なすがたから純粋のすがたにうつる、このことをいうのです。(P.28)

人間というものは、ほかの動物に比べると、進化の理法にしたがうことが、もっともはやく、また、学者や思想家はほかの人間に比べて、進化の理法にしたがうことが、もひとつはやい、しかも民主制なるものは、まさしく政治的進化の理法の第三歩の境地である、のだからです。

立憲制というものは、完備しているといえば完備しているわけだが、なおかすかな頭痛を感じさせる点が、たしかにある。なぜそうなのか、私にはわからない。(P.41)

「進化」という西欧の思想と、「理法」という東洋的な思想が混じっています。「理法」(原文では「理」)は私の持っている漢和辞書には「物事のすじみち」(『新釈漢和』1969年)とあります。「理」には様々な意味があるのでよくわかりません。西欧の「論理」(ロジック)は、もとは「ロゴス」(言葉)ですが、そこには「発する主体」の存在があります。「理」は「ことわり」であって、発する主体よりも、「まきこまれる」「あらかじめ存在する」という意味合いが強いように思います(中国での意味はわかりません)。

紳士君は「封建制度」から解放され、「自由」を得た人民が「立憲制」を得、めざすは「平等」を兼ね備えた「民主制」だというのが「進化の理法」というのでしょう。

立憲(立法)制においては、

もし君が財産上の損害をうけることがあっても、とっくみ合いの喧嘩をする必要はなく、ただ一枚の書類をもって訴え出ればよろしい。すると公平な裁判官はちゃんとした法文によって判決して、君に賠償をとらせます。(P.54)

本人同士の関係が、客観的な法と裁判で解決されるということです。そこに物理的な力は必要ないということです。このページの欄外に「裁判とAIの関係、客観性」という私のメモがあるのですが、どういうつもりで書いたのか、忘れました。たぶん、「客観的事実」に基づく「AI裁判」を連想してたんでしょうね。

豪傑君が尋ねます。

それなら、もしどこか狂暴な国が、われわれが軍備を撤廃したのにつけ込んで出兵し、襲撃してきたらどうします。(P.59)

今でもよく聞く話です。自分が暴力が嫌いでも、殴られそうになったらどうするのか。それで、自分を、ましてや家族や愛する人を守れるのか、と。紳士君は、

私は、そんな狂暴な国は絶対にないと信じている。もし万一、そんな狂暴な国があったばあいは、私たちはそれぞれ自分で対策を考える以外に方法はない。(P.59)
彼らがなおも聞こうとしないで、小銃や大砲に弾をこめて、(FF)私たちをねらうなら、私たちは大きな声で叫ぶまでのこと、「君たちは、なんという無礼非道な奴か。」そうして、弾に当たって死ぬだけのこと。べつに妙策があるわけではありません。(P.59-60)

これでは説得できませんよね。実は私もこれ以上は説得的な意見をもっていないのです。「信じる」ということは難しいことですが、神のような絶対的な力を持っていないかぎり、どこか信じるか祈るしかないような気がします。わたしたちを育んでくれているのは最終的には自然です。それ以外ではありません。陽の光や大地が恵んでくれたもので人間を含めた生物は生きています。いくら人間が空想しても、それでは生きられないのです。でも、その自然は、今回の能登半島地震のように単に恵んでくれるだけではありません。自然には逆らえないけど、人間は別?相手が野生の熊や鹿だったらどうでしょう。

ところがこれを国家に適用すると、なおのこと道理に合わない点がはっきりします。なぜなら、敵国が攻めてきたばあい、すこしでもこちらが軍隊をならべ、銃を撃って防ぐとすれば、それはすでに防衛中の攻撃というものであって、やはり悪事であるとせざるをいないからです。(P.61)相手が悪事をするからこちらもまた悪事をするというのは、あなたの説ですが、実に低級ではありませんか。(同)

戦争で戦う相手というのは「人」でしょうか「国」でしょうか。私は「人」として戦っているのでしょうか「国」として戦っているのでしょうか。

こんどは豪傑君の番です。

争いは個人の怒りである。戦争は国の怒りである。よう争わないものは、弱虫である。よう戦争しないものは、弱国である。(中略)個人に現に悪徳があるのを、どうしようもないではないか。国が現にくだらぬことをやっているのを、どうしようもないではないか。現実というものをどうしようもないではないか、と。

だから文明国は必ず強国です。戦争はしますが、争いということはしません。厳しい法律があるから、個人と個人とは争うことがない。(P.63)

してみれば、軍備は各国の文明の成果の統計表です。(P.64)

小見出しについて

ここに「豪傑君はすこし時代おくれだ」(P.69)という見出しが欄外にあります。この小見出しは目次にもなっているものですが、どうも見出しというよりは兆民のつぶやきのようです。呆れたり、笑ったり、その文章を書いたときの兆民の気持ちのように思います。書きながら書いている自分と書いた文章を客観視しているような感じです。

その節の要約のように読むと、違和感が生じます。

年齢や地域と考え方

昔なつかしの連中にとっては、すべて新式の文物、品格、風習、感情は、みな軽薄で誇張的なところがあって、見れば眼がけがれるような、聞けば耳がよごれるような感じがするし、口にすればへどが出、考えれば目まいがします。新しずきの連中は、ちょうどこの反対で、旧式の事物であるかぎり、みな腐ってなにか悪臭をはなっているように感じ、一しょうけんめいおくれじと新式ばかりを追い求めています。(P.73)

ためしに実地について調べてごらんなさい。年齢三十以上の人は、まずまずみな昔なつかし屋で、三十以下の人は、まずまずみな新しずき屋です。(P.74)

聡明な才能も持ち、ずば抜けた見識をそなえた人物というものは、もちろん普通の理屈で論ずることはできませんが、それ以外のものは、地域的特殊性に制約されないものはきわめてめずらしいのです。だから昔なつかしと新しずきとの二つの元素は、だいたい地域的特殊性で分類することができる、といったのです。(P.77)

風習や言語はもちろんのこと、文化が思考(感性)に与える影響から逃れることはできません。私がいま大切だと思っているのは、逃れることではなくて、思考や感性が文化の影響でできていることを知ることです。多分、それを否定することは難しいでしょう。なんせ、自分の喜びや苦しみ(痛み)も文化の影響を受けているからです。ある事柄が、ある文化のもとでは苦しみであり、ある文化のもとでは楽しみであることは皆さんも御存知でしょう。

もちろん、同じ文化のなかにいても苦しみや楽しみ(つまり感性)が異なる人もいます。いいではありませんか。その異なる感性もきっと文化の影響を受けているはずですし、お互いに認め合うことが必要なんだと思います。認めるということは、付き合うということではなくて、付き合わないというのもあるのではないでしょうか。

その思考や感性も同じ文化のなかでできているのですから、共通点・響き合う点があるかもしれません。それより深い部分では、人間として、生物として響き合う点があるかもしれません。

年代によって違うというのは、言いえて妙です。歳を取ると保守的になるといわれます。私も丸くなったかなあ。心の中では若い気がしていても、いろんなことを知れば知るほど「できない」事が増えてきます。頭や体が動かなくなるということもありますが、だんだん物事の背後にあるものが見えてくるのも要因です。何も考えずに行動することができなくなります。それは「分かる」ということではなくて、「わからないこと」が増えてくるということでもあります。べつにいつ死んでも良くなるんですけどね。

自由党と改進党

当時は二大政党として自由党と改進党があったのでしょう。

両者が真正面からあい争ったばあい、もし昔なつかしの元素が勝てば、政府の命令にもきっと決断力があらわれ、もし新しずきの元素が勝てば、政府の命令にもきっと周到さがあらわれます。(P.82)

まあこの辺は、兆民の偽ざる気持ちでしょうね。

私は、この保守対革新の対立図式というのが戦後も綿々と続いていると思います。それは紳士君と豪傑君の対立がずっと続いているということです。

世のなか万事、みな理論と技術との区別がある。討論の場で力をふるうのは理論です。現実の場で効果をおさめるのは技術です。(P.87)

平等の主義や経済の説は、政治理論です。弱を強にし、乱を治に変えるのは、政治技術です。君はどうか理論を研究してください。ぼくは技術のほうを論じます。(同)

保守派には理論がないということではありません。実践において「悪いこと」「汚いもの」をどのように担うのかのちがいです。自分の欲望に素直に従って、悪いとこ、汚いことも身に受ける、お高く止まっている理論家にはない魅力が保守派にはあるような気がします。

南海先生

ほとんど何も言わずに聞いていた南海先生が発言する番です。二人の説を受け止めながらこう言います。

どちらも現在の役にたつはずのものではありません。紳士君の説は、全国の人民が一致協力するのでなければ、実行はできない。豪傑君の説は、天子や宰相が独断専行するのでなければ、実施できない。(P.93)

それでは一方、進化の神の憎むところのものはなにか。その時、その場所において、けっして行い得ないことを行おうとすること、にほかなりません。(P.96)

政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見あいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。(P.97)

それに紳士君の言う進化の理法によって考えてみても、専制から立憲制になり、立憲制から民主制になる、これがまさに政治社会の進行の順序です。専制から一挙に民主制に入るなどというのは、けっして順序ではありません。なぜかと言えば、人々の頭のなかには、まだ帝王思想とか公爵伯爵的イメージが、その奥底につよく刻印されていて、眼にこそ見えないが、まるでその人の御本尊様かお守札のようになっているとき、にわかに民主制をはじめるならば、大衆の頭はすっかり混乱させられてしまう。これはまさに心理的法則なのであります。(P.98)

南海先生も「進化」というものを認めます。そして、それは段階を経るものだと。これも西欧進化論的な考えです。マルクスも最初はそういう考えでした。でも、『ザスーリチへの手紙』で、封建制から資本主義(資本蓄積)を経て社会主義(共産主義)へというルートに疑問を呈しています(まだ読んでないけど、佐藤正人著「『ザスーリチの手紙への回答』およびそれの『下書き』考」あたりが参考になるかも)。

ヘーゲル的、つまりキリスト教的な「歴史の直線性」に対する疑問です。輪廻的である日本的思考とは相容れないものですが、明治維新という急激な変化は当時の知識人である南海先生にも「進化論的」思考を与えていたのでしょう。そしてそれは当時の日本の雰囲気でもあったのではないでしょうか。

南海先生(兆民)の「このあたり、いささか自慢の文章」

紳士君、紳士君、思想は種子です、脳髄は畑です。あなたが本当に民主思想が好きなら、口でしゃべり、本に書いて、その種子を人々の脳髄のなかにまいておきなさい。そうすれば何百年か後には、国じゅうに、さわさわと生え茂るようになるかもしれないのです。(P.99)

だから人々の脳髄は、過去の思想の貯蓄場です。社会の事業は、過去の思想の発現です。だから、もし新しい事業を建設しようと思うなら、その思想を人々の脳髄のなかに入れて、一度過去の思想にしておかねばなりません。なぜかと言うと、事業はいつも現在において、結果という形で姿をあらわすが、思想はいつでも過去において、原因という形をとるものだからです。(P.100)

時代は絹、紙、思想は絵具、事業は絵です。一時代の社会は一幅の絵なのです。(同)

名言ですね。今は実現できないけど、将来に向けて種を蒔く。死んでから有名になる画家、文学者、哲学者は多いです。

古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでゐることである。


我我の  あるいは諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでゐることである。(芥川龍之介『侏儒の言葉』全集第七巻、1978/02/22 岩波書店、P.396)

生きている人、たとえそれが親でも、その言葉には反発を覚えがちです。そして彼らがいなくなったとき、はじめて素直にその言葉を聞く(読む)事ができたりします。一種のライバル心ですかね。それをどう解釈しようと、もうその解釈を否定する人はいないし、直接の実害もないから安心です。責任は死者に、利益は自分に、というところでしょうか。

西欧にも同様の傾向はあるのでしょうか。多分あるでしょうね。進化論的な思考は、いつでも自分が「進化の頂点」と考えますから、若い人は老人より優れていると思わなくちゃいけないし、そのために年長者を認められないですから。

戦争について

要するに、わがアジア諸国の兵隊は、それで侵略しようとするときには不十分だけれども、それで防衛するには十二分なのです。(P105)

多くのばあい、国と国とが恨みを結ぶのは、実情からではなくてデマから生ずるものです。(P.108)

何をもって実情・デマとするのか、これは自分で体験(経験、感覚)したものではないものを判断できるのかという問いです。噂話や「大本営発表」はもちろんのこと、昨今のフェイクニュースやフェイク画像(動画)の氾濫は、「法規制」「厳罰化」という動きになっています。

それらはは本質的なところを見つけていません。私は、他人の言うことを信じられないということと、嘘を信じることとは同じことだと思います。どちらも自分が経験していないことだからです。自分が経験していないことを信じたり、信じなかったりすること、それが問題となることも文化と関わりがあります。すべてを経験し、知っていない以上、「信じる・信じない」ということは不可避です。ただ、それが問題になる社会(文化)というのは限られています。その社会に共通するのは、「主体」の存在です。まあ、これ以上書くのはやめておきましょう。

「南海先生はごまかした(南海先生胡麻化せり)」

三人の意見

さて、三人の意見は対立するようであり、また、紳士君と豪傑君の意見を南海先生が仲裁したようにも見えます。そして、それらの意見は、今日まで対立したまま継続(反復)されています。

三人の意見の違いは、それぞれの読者に委ねましょう。私が注目したのは、三人とも(「昔なつかしの元素」や豪傑君も)「旧体制(封建時代)」は望まないということです。軍国主義か民主主義かの争いです。他国を攻めるか武器を捨てるかということで、みんな自国が「富むこと」を望んでいます。封建社会より、資本主義社会がいいと思い、裕福な国になることが人民の幸福だと考えているのです。それを前提として議論をしています(同じことですが、立憲制を前提としています)。

この後、日本は日清・日露戦争に突き進み、勝利し、国は「豊か」になります。日中戦争、太平洋戦争(第二次世界大戦)では負けましたが、その後の高度経済成長が続きます。物(あるいはお金)が人民を豊かにしたといわれました。そしてお金が暴走し、バブルを迎えはじけた後が現在です。その時期に老後を迎えた私は思うのです。高度成長期にその恩恵を受け、民主教育を受けた私は「進化(進歩)」というものを疑いませんでした。封建制よりも資本制が「優れて」いて、それでいて今もある苦しみから抜け出るためには「さらに優れた社会」を作るための「革命」が必要なのだと。

今でもほとんどの人(先進国と言われる国の人々)は、進化的な視点から「今より良い社会」のため、ある人は「改良」、ある人は「改革」を目指して闘っているように思います。

コンピュータ

私はプログラムが好きです。パソコンがマイコンといわれていた頃から、プログラムを趣味としています。コンピュータプログラムのいいところは、自分がコンピュータを「制御(支配)」できるということです。コンピュータに支配されるのではなく、自分がコンピュータを動かすという優越感や征服感や達成感です。目標を定めてプログラムを作り走らせたときに、「動く・動かない」の白黒がはっきりしています。もしちゃんと動かなければ、それは(ほとんどが)自分の責任です。もちろん、プログラム言語やハードウェアのバクがあることもありますが、それを「回避」するのも面白い。

ただ、最終的には言語やハードが決めたことを超えることはできません。その「言語ゲーム」の中での楽しみです。それはコンピュータ・ゲームと同じで、その制作者の意図の中での楽しみなのです。そして制作者もまた、文化に支配されています。南海先生の言葉をもじれば「時代はコンピュータ、思想はプログラム言語、事業はプログラム」とでもなるでしょうか。

今のプログラムは5年ほど前に作り始めたものですが(この文章もそれで書いている)、今でもどんどん修正し、改良し、便利にしています。一度プログラムすると自分が苦労して行ってきたことが不要になります。つまり、行わなくなります。

最近感じているのは、「行わなくなる」と「できなくなる」ということです。それは不要なものだったのでしょうか。「ググる」ことに慣れてしまえば、図書館にもいかなくなるし、辞書を引くことも調べ方もわからなくなります。蛇口を捻って水が出れば、水汲みや井戸の掘り方、水の入手の仕方がわからなくなります。自販機やコンビニでお茶を買えれば、お茶の淹れ方がわからなくなります。カットケーキが当たり前になれば、ケーキの切り方がわからなくなります。ウォシュレットがなければ、トイレができなくなります。睡眠薬が当たり前になれば、自然な眠り方を忘れてしまいます・・・。スマホ、水道、自販機、コンビニ、ウォシュレット、睡眠薬に「依存」し、それらはイリイチの言葉で言えば「稀少性」となります。それらは「冨」とか「財」と言われてきたものです。そして、それらが奪うのは「生きる技術」「生きる力」です。

バブルが弾けたあとに生きるわたしたちは、そのことを考えられるようになってきたのかな、とも思ったのですが、「新型コロナウイルス」といわれるものが流行し、多くの国が「ワクチン」を「稀少性」として、厖大な支出で奪い合いました。そして、「ワクチン」に依存する社会が生まれようとしています。それが奪ったのは「免疫」という「生きる力」でしょう。






一度酔えば、即ち政治を論じ哲学を論じて止まるところを知らぬ南海先生のもとに、ある日洋学紳士、豪傑君という二人の客が訪れた。次第に酔を発した三人は、談論風発、大いに天下の趨勢を論じる。日本における民主主義の可能性を追求した本書は、民権運動の現実に鍛え抜かれた強靱な思想の所産であり、兆民第一の傑作である。現代語訳と詳細な注を付す。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003311011]

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