言語の獲得 鈴木敏昭著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

サルの言語と人類の言語 伊谷純一郎著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

子供(幼児)の言語獲得

著者については何も知りません。赤ちゃんがことばを獲得する過程についての研究論文です。買ったままでまだ読んでいない今井さんの『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書 2756)』の新しいカバーに「なぜAIは赤ちゃんに敵わないのか?ヒトの知性に深く迫る、壮大な冒険」とあります。

確かに、言語は人間にとっては本質的なものだし、その能力はコンピュータでは再現できない、と私は思います。その理由は、コンピュータを創り、プログラムをしたのが人間だからです。コンピュータは「人間の論理の再現」であり、「人間の再現」ではありませんから。

シンギュラリティ(技術的特異点)

「人工知能の性能が2045年に人類の知能を超える」といわれる「シンギュラリティ」が2045年と予想されています。まあ、私はその頃生きていないので勝手なことが言えます。走る能力は自転車や馬車が登場した時点で人間の能力を越えていますが、「知能」はどうなんでしょうね。電卓が出たときに、計算能力(その速さ)は人間を超えたんだと思います。

人間を定義するのに「道具を使う動物」から「道具を作る動物」に変わりました。人間以外の動物も道具を使うことがだんだん明らかになってきたからです。道具を作る道具はあります。プログラムを作るプログラムというのも考えられます。ChatAIに、「〜するプログラムを〜言語で作って」というと作ってくれそうです(デバグ「debug」はやらせたことがあります)。コンピュータがプログラムをしてくれたら、プログラムをする苦労と同時にプログラムをする楽しみもなくなってしまいます。

野菜を食べる楽しみは、野菜を作る楽しみ(苦労)でもあるはずです。究極的には、生きることは苦しみだけでなく楽しみでもあるはずです。私はなぜそれがわからなくなっちゃったんでしょうね。歩けなくなって、はじめて歩く楽しみがわかるようになります。でも、歩かずに自動車でコンビニにいってしまいます。店に行くこともなく、ネットで買物をします。辞書を引かずにググってしまいます。

「便利」や「効率」を優先してしまうのです。人生の楽しみは、死んでから分かるのでしょうかね。

ある事柄を「苦」と「楽」の二つに分けて、「楽」のみを選び、「苦」は棄てるか他人に任せる。そんな生き方を何故しているのか、私にはいまだに分かりません。そんなことを考えるのは一部の人間かもしれない、と最近は考えたりしています。

能力 ability

知能 intelligence は「知的能力」です。intelligence は

From Middle English intelligence, from Old French intelligence, from Latin intelligentia, which is from inter- (“between”) + legere (“choose, pick out, read”), or Proto-Italic *legō (“to care”). Doublet of intelligentsia. (Weblio)

ということですから、「何かを区別すること」、日本語で言えば「分別(ふんべつ)」に近いでしょうか。

「ごみの分別(ぶんべつ)」というのは、ごみの種類ごとにに分けることですね。もともとは仏教用語で、知識による理解(または誤解)のことです。「道理をわきまえる」ことでもあります。「分かる(わかる)」は「分ける(わける)」ということです。混沌としたものから明と暗を分けたり、目に見える景色から空と山、川、草、魚、馬などを「分ける」こと、それが「知識」となります。それを「能力」と見るかどうか、これは多分歴史的文化的な背景があるでしょう。

能力 ability が able からきているのは明らかです。able は「できる(可能)」とか「適する」ということですから、「適う(かなう)、能う(あたう)」ということです。「能力」という訳語はなるほど、と思います。

「能」は「能動 active 」の能でもあります。対義語は「受動 passive 」。ですから、これらの単語を印欧語話者は主体の行為と結びつけます。能力や知能を、「主体が努力して身につけるもの」のように考えやすいのです。もう一つ「能」がつく単語として「本能 instinct 」というのがあります。こちらは逆に「(努力とは関係なく)もともともっているもの」です。

私が考えるに、どちらも同じようなことを含んでいますが、日本語(和語)の世界では、能力や知能を「生まれながらの(先天的な)」ものと考える傾向が強く、印欧語では「本人の努力次第」という傾向が強いのではないでしょうか。それは日本語(和語)の世界では、主体が努力して能動的に何かを得るという感覚よりも、そういう状況の中に置かれているという感覚が強いように思うからです。日本の会社が「永年雇用」「年功序列」から「能力主義」に変わってきているのは、西洋化が進んでいるということです。

個体発生と系統発生

子どもの言語獲得を調べることによって、人間の言語獲得の仕組みが分かるでしょうか。

ヘッケルの反復説は、生物発生原則とも言われる。往々にして、簡単に「個体発生は系統発生を繰り返す」という風に言われる。つまり、ある動物発生の過程は、その動物の進化の過程を繰り返す形で行われる、というのがこの説の主張である。ここで個体発生とは、個々の動物の発生過程のことであり、系統発生とは、その動物の進化の過程を意味する表現である。ともにヘッケルが提唱した言葉。

具体的には、彼が1866年にその著書『一般形態学』に記した以下のような文が元である。

「個体発生 (ontogenesis) 、すなわち各個体がそれぞれの生存の期間を通じて経過する一連の形態変化としての個体の発生は、系統発生 (phylogenesis) 、すなわちそれが属する系統の発生により直接規定されている。個体発生は系統発生の短縮された、かつ急速な反復であり、この反復は遺伝および適応の生理的機能により条件付けられている。生物個体は、個体発生の急速かつ短縮された経過の間に、先祖が古生物的発生の緩やかな長い経過の間に遺伝および適応の法則に従って経過した重要な形態変化を繰り返す(Wikipedia『反復説』

有名な「反復説」です。同じような考え方の例をもう一つ挙げます。

言い換えるなら、概念の一部は個々の発達段階(個体発生)のごく初期に生まれ、されにはわれわれの種族や近縁種(系統発生)に古くから共有されているように思われるのである。(ケイレブ・エヴェレット著『数の発明』みすず書房、P.107)

ヘッケルの反復説はダーウィンの進化論を支持したものですが、、「輪廻」の思想と似ているようでまったく違います。

さらにセムに共通するのは「直線的な歴史観」だ。歴史はまっしぐらに進む、ということだ。(ヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』日本放送出版会、P.199)

キリスト教の世界創造にとっては、宇宙はどんどん広がっているとする発想がいちばんしっくりくるのだ(同書、P.649)

キリスト教に「輪廻」はありません。そのかわりにあるのが「終末論」です。歴史は進み、いつか終わります。宇宙論でいえば、エントロピーが最大化し、熱力学的平衡状態に達して、宇宙全体が静寂に包まれるということです。

宇宙は常に進化し続けます。そして、その最高の状態(形態)が人間であり、それを発見した「キリスト教」であり「西欧文化」です。これが簡単に「人類至上論」「社会ダーウィニズム」につながることは想像できます。

ここで私の大好きな今西先生に登場してもらいましょう。

もうひとつは、進化は系統発生といいますが、それに対して個体発生ですね。この生ということは、生まれるがいいのか、成るというのがいいのか知りませんが、要するにお母さんのお腹の中に入っている間は抜きにしても、みんな赤ん坊から出発して、子供になり、青年になり、大人になり、年とって死ぬ、これはどうしても経ねばならないことでして、さかさまにするわけにはいかない。これは、やはり変わるべくして変わっているのではないか。(F.A.ハイエク、今西錦司著『自然・人類・文明』NHKブックス、P.166-167)

同じように見えますが、ここにあるのは「進化論」ではなくて、輪廻的な世界観です。個体は死にます。種も変わっていき、あるいは滅びます。でも、個体は別の個体に取って代わり、種は別の種に取って代わります。終末はありません。子供が大人になる説明がつかないのと同じように、どうして進化するのかも説明がつかないのです。

進化を「突然変異」や「適者生存」で説明するのは「きわめて」論理的です。でもそれは、「適者が生存する」と言いながら、実際は「生存しているのが適者だ」と言っているにすぎません。「先進国」といわれる国が支配する世界経済の状況(資本主義経済)を見れば明らかではないですか。

ひとつ大切なことは、子供という概念が近年に「発見(あるいは発明)」されたものだということです(アリエス『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』)。同様に個体発生や系統発生も近年の発明です。それに論理的説明(因果関係)をつけようというのが近代科学です。「親を見れば子が分かる」、なるほど。では、「子を見れば親が分かる」というのはどうですか。同じことだと思いますか。

子どもの言語獲得を知れば、人間の言語、あるいは「人間というもの」が分かるというのは(この論文の著者がこのように書いているわけではありませんが)、「人間の論理が分かれば人間が分かる」つまり、シンギュラリティの到来を信じているということです。







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