生きる意味:「システム」「責任」「生命」への批判  イバン・イリイチ著 デイヴィッド・ケイリー編集 高島和哉訳 2005/09/30 藤原書店

生きる意味:「システム」「責任」「生命」への批判  イバン・イリイチ著 デイヴィッド・ケイリー編集 高島和哉訳 2005/09/30 藤原書店

イリイチ晩年のインタビュー

「十五年以上もの間、あらゆるインタビューの以来を断り続けていた」(P.12、まえがき)イリイチが、編者「ケイリーの熱意にほだされ」(P.450、訳者あとがき)て応えたインタビューを編集したものです。1988(一部1992年)のことです。

イリイチがなくなったのは2002年。イリイチには「一九七〇年代末、他の人なら癌かと恐れたかもしれない隆起が彼の顔の頬の部分に出現」(イリイチ『生きる希望』デイヴィッド・ケイリー編、P.83)しました。

イリイチはこの醜い隆起物とおよそ二〇年間、共に生きた。ついには幾つかの腫瘍が集まった隆起物はグレープフルーツほどの大きさになり、彼の顎を冒し、耳がよく聞こえなくなり、睡眠が妨げられ、物事に集中できなくなった。痛みは甚大で、他者の苦しみは分からないものとはいえ、しばしばひどい苦しみ方であるのは友人たちにも明らかであった。彼はそれを針やヨガ、それと刮目すべき自制力で精一杯、コントロールしていた。彼はまた生アヘンを吸っていた。これは不法に手に入れたものであるが、彼は医者に処方してもらう瓶詰めのアヘンよりも効果が大きいと考えていた。(『生きる希望』邦訳、P.84、ケイリーによる序論)

このインタビューの時点で、その隆起物がどの程度の大きさだったのかはわかりません。本書にもそのことは一切書かれていません。本訳書のカバーにはワインを注ぐ白髪で笑顔のイリイチの写真が載っています。横顔なので、左側しか見えません。そこにはそのような隆起は見えないのですが、当時この隆起があったということです。

そう思うと「ほだされた」というより、イリイチの当時の精神状態を考えてしまいます。『生きる希望』は「イバン・イリイチの遺言」というサブタイトルが付けられています。インタビューに応じたのも、どこかにそんな気持ちもあったのかな、と。


絶好のイリイチ案内

本書の内容は、イリイチのこれまでの著作のすべてが網羅されてるといっていいでしょう。「学校化」「道具」「医療化」「シャドウ・ワーク」「ジェンダー」「文字の文化(コンピューター)」・・・。

過去の著作について質問されたとき、イリイチはこう答えます。

わたしは、鋭い筆致で、多くのことがらをうまく言い表すのには成功しました。しかし、わたしがさまざまなことがらについて語る文脈も、それらを語る方法も変化したのです。ですから、わたしはその本を閉じ、片づけてしまうのです。これが、現在わたしの味わっている奇妙な体験です。あなたはわたしに、かつて存在した人間についてお尋ねです。その人間とはもちろんわたしのことであり、わたしにはその人間に関して全面的に責任を負っています。(P.178)

しかしそれらは、もはや死に絶えた、過去に書かれたしろものなのです。(P.179)

イリイチの著作を読むと、頭がくらくらします。初期の、イリイチが「パンフレット」と呼ぶ著作は、その時々の状況に応じて書かれたもので、力強いメッセージ性を感じます。世間がイリイチを知り、世間の反響(肯定・否定両方の)を集めたのは、その現実に合わせた具体性にあるのでしょう。世間は(そしてわたしも)それを自分に都合のいい(悪い)ように解釈しました。イリイチが「本当は」何をいいたかったのか、世間はそんなことはどうでもいいのです。「何が書かれているのか」、それだけが重要なのです。それに「共感」を覚える人もいたし、「反感」も買いました。それこそが「文字の文化」の特色だと思いますが。

その後も、「シャドウ・ワーク」は「主婦の家事労働」と捉えられ、「ジェンダー」は「社会的性差(性差別)」と捉えられました。でも、イリイチはそんなことは書いていないのです。すくなくともそれを書きたいと思ったのではありません。都合よく解釈した人たちは、「家事労働への支払い」を要求したり、「ジェンダー平等」なる「わけのわからないこと」をいい続けています。ふつうに『シャドウ・ワーク』や『ジェンダー』を読めば、イリイチがそんな事を言いたいわけではないことがわかるはずなのですが。たぶんそれらのことを言う人は、読んでいないんだろうと思います。「男女平等」が「ジェンダー平等」に変わったとき、いわゆる専門家やジャーナリストがイリイチを読んでいないことは明らかです。それは「誤読」や「誤解」ではありませんから。むしろ、イリイチを批判した「女性解放(運動の)論者」のほうが、イリイチをちゃんと読んでいたんだろうと思います。

その後のイリイチは、その「メッセージ性」や「現状把握(ある意味暴露)的」なものから、もっと「学問的(?)、内省的」なものへとシフトしていきます。それらは、イリイチの著作を「あとから」読むと、「すでに書かれていたもの」であり、その深化したものだと気づかせてくれます。そういう意味で、「それらは、もはや死に絶えた、過去に書かれたしろもの」ということでしょう。


イリイチの入門書?

ですから、本書は「イリイチ入門書」とはいえません。編者の問いかけに応じて、イリイチは過去の著作についても多くを(編者の導きによって時系列的に)語っています。でも、それらを「肯定的」に語っているのではありません。イリイチの書こうと思っていた思いを知るためにも、それらの著作をぜひ個別に読んでほしいです。

むしろ、編者の「序論」、80ページほどのその序論は、イリイチの人となりと過去の著作をコンパクトに、そして多分正確に纏めているので、「入門書」っぽい価値があります。

Wikipediaには、「オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家」とありますが、わたしはイリイチは、終生「宗教家(神学者)」であり、「キリスト教信者」であったと思います。

西欧の学問は、(たとえ宗教(キリスト教)批判であっても)キリスト教の枠の中にあるのですから、当然です。たとえそれが「堕落したキリスト教」だとしても。西欧(欧米)人が「自分は無神論者」だと自認していたとしても、それは「歴史を忘れている」にすぎないのではないでしょうか。自分が歴史の中で、(言語を含めた)文化や家庭の中で育った(育ってきた)ことは否定できません。わたしは「無神論者」ですが、わたしの考えていることは「仏教思想」の枠から大きくハズレてはいないでしょう。わたしがそれを知らないだけです。そしてその仏教思想は、インドで発生した仏教ではなくて、日本語で捉えられた「仏教」です。


分水嶺

「分水嶺」ということばが何度も出てきます。原語がなんなのかはわかりませんが、イリイチは「歴史的」な断絶のようなものを表しているのだと思います。

いまやわれわれが到達するにいたったのは、ある人間とかれが必要とするものの間に存した主観的な結びつきが洗い流され、消え失せてしまった世界なのです。(P.256)

思索や探求をおこないながら、〔分水嶺に沿って〕歩みつつ、わたしは、非対称的でありながら相補的な二つの領域、あるいは非対称的であって根本的に異なる二つの領域の間を進もうと努めています。思索というものは、現実を一面的にしか眺められなくなった時点で、終りを迎えるのです。(P.360、〔〕は訳者による補注)

イリイチは若い人に、十二世紀の文献を(ラテン語で)読んでほしいと言います。

すなわち、昔のテクストを注意深く読むことによって、学生たちを、われわれが自明視している世界から連れだすことはいまでもなお可能であるし、十二世紀のラテン語のテクストを、現代英語、つまり、われわれがふだん使っている英語に翻訳することはもはやできないということを彼らに示すことも可能であると。(P.189)

たえずバランスと求めるように、そして、すべての考え方をバランスよく受け入れるように若者たちを教育することは非常に悲しむべきことです。そのような精神的にどっちつかずでいる状態は、中道を歩むこととは正反対のことであり、中庸 mesotes の理想、あるいはキリスト教的に言えば、賢者の理想とは、まったく正反対のことなのです。わたしは分水嶺に沿って歩みたいと思っています。そして、左手に見える世界と右手に見える世界が、互いに根本的に異なっていること、非常に両立しがたいものであることを意識していたいと思います。セックスの世界が成立しているとすれば、それは、ジェンダーのなごりがその中で生きのび、芽を出しているからにほかなりません。コンピューターが知覚の根源的なメタファーであるような、サイバネティックスによってモデル化された世界が、危険で深刻な意味をもつとすれば、それは、そうした世界のただ中に、なおもテクストの文字文化が存在するかぎりにおいての話しです。輸送システムは、車まで歩いていき、そのドアを開けるための足が人びとにないかぎり機能しません。病院というシステムが意味をもつのは、人びとがいまなお、まったく他者に頼ることなくおこなう活動、すなわち生きるという活動に従事しているかぎりでの話しなのです。(P.359-360)

病気を治すのは、医者や病院や薬ではなく、本人(自分自身の身体)だということを忘れがちです。ウィルスの電子顕微鏡写真を見てしまうと、わたしたちのからだの中にそれがうじゃうじゃいて、それが「発熱」していると思ってしまいます。薬などでそれを「殺せ」ば、病気(発熱)は治まるのだと。でも、だれでもわかるようにウィルスが「熱く」なるのではありません。発熱は自分の身体の「自然な」反応です。病状というのは「身体の反応」のことです。死んでいる人には病状はありません。生きている身体の反応です。走った後にはハアハアと「息が切れ」ます。心拍数も上がります。血圧も上がるでしょう。もしもその時、息切れを止め、心拍数を落とし、血圧を下げる薬を飲んだらどうなるでしょうか。風邪などで発熱したときに「解熱剤」を飲むというのはそういうことです。薬が身体の反応を「助ける」ことはあるでしょう(解熱剤は逆です)。イリイチは病院という制度を批判しましたが、病院や薬がいらないと言ったわけではありません。学校という制度を批判しましたが、教育そのものを否定したわけではありません。ただ、車社会になったから「足は必要なくなった」わけではなく、足の存在を忘れてしまってはいけないと言っているだけなのです。

足の存在(体の存在)はどうやって見つけるのか、分水嶺に立って「自動車のない社会」と「車社会」を見ればいいのです。それが「歴史的に見る」ということです。そして、その二つの世界は「根本的に異なって」いるのです。人びとが自分の足をどう見ているのか、どう考えているのかは「翻訳できない」ほどに違います。「車がなかったら不便だったろうなあ」「急病のときは困っただろうなあ」とか「スーパーやコンビニに行くんだって車が必要だよなあ」とか、「慮(おもんばか)る」ことはできます。でも、その当時の人が感じていたことを感じることはできません。今年の大河ドラマ『光る君へ』は、歴史考証的にツッコミどころが満載ですが、吉高さんが好きなので観ています。勘違いしてはいけないのは、現代の恋愛と平安時代の「恋する(愛しい・恋しいと思う)気持ち」は根本的に違うということです。それは「わたしとあなたは違う」という相対的な意味ではなく、根本的に違うのです。そこに「階級社会の弊害」「人権意識の不存在」を見てとって、「いまの日本は(平和で平等で)進歩したなあ」なんて今の現実を肯定するなんていうのは論外です。


文字の文化

「歴史ドラマ(時代劇)」や小説とはそういうものだ、と一般化できるかもしれません。

〔抽象的な〕思考が成立するためには、文字を書くというテクノロジーが内面化される必要があります。たとえわたしが文字の書き方を知らなかったとしても、わたしには他の人びとが文字を書けることはわかるし、文字を書くということがどういうことかはわかります。記憶というものが存在するためには、そうしたことが必要なのです。(中略)嘘をつくということは、相手を欺く意図をもちながら、心で思っていることと口で言っていることが一致していない状況のことです。嘘もまた、文字の存在によってかたちづくられた概念なのです。〔たとえば〕文学とは一種の嘘です。(P.337-338)

聖職者たちはペンをとって文字を綴る能力を普及させようと努力しましたが、アルファベットの存在とその使用によって民衆の精神が影響を蒙ったことは、かれらの努力の成功いかんとはまったく関係がありません。読むことは、自分の目を使ってできることであり、あるいはまた、他人の目を使ってもできることです。それは、南米におけるこんにちの状況と同じなのです。書くことについて言えば、それは筆記することと、口述することに分けることが可能です。その技術をもったものが筆記をおこない、支配者はペンをとらずに口述するのです。それゆえ、支配者は口述者 dictator 〔 dictator には、「命令者、独裁者」の意味もある〕となるわけです。農民も書記を雇って、かれに口述することができます。したがって、書記は支配者を欺くことができるように、農民を欺くこともできるのです。(P.350-351)

文字がない社会を、わたしは想像することができません。なんせ記録がない社会のことは知りようがないですから(歴史と有史は違います)。多分その時代にも「嘘をつく人」はいたでしょう。だまされる人もいたでしょう。でも、それは「ネット詐欺グループ」やその被害者とは違うのです。

イリイチといっしょに『ABC―民衆の知性のアルファベット化』を書いたバリー・サンダースの著書に『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊』があります。アメリカの若者のギャング化(いまの日本での半グレのようなもの)を「識字」の観点から描いた本です(いい本です)が、わたしが抱いたその本に対する違和感の原因は「文字(識字)」と「文字の文化」との差だと気づきました。本書でもとりあげられている『声の文化と文字の文化』(原書1982年)の著者オングがその前年に出版した『生への闘争 闘争本能・性・意識』では、同じような問題意識に立ちながらも、まったく異なる結論になっています。

つまり、種のうちでも雌に比べて雄は消耗してかまわない性として、進んで危険を受け入れるように進化の過程で遺伝子が組み立てられた結果、人間の男性も女性より果敢に危険に立ち向かうようになっているのである。(『生への闘争 闘争本能・性・意識』法政大学出版局、P.75)

すでに述べたように、男性はすでに誕生する以前から生存のために「環境」と闘うように仕向けられている。(同書、P.243)

闘争は人類の進化の遠い過去から存続し、自我意識に近接し、その頂点を極める段階にさえ到達しているのである。(同書、P.263)

今日の私たちには、宇宙の進化の頂点である生物進化のその頂点に人間が位置しているとわかっている。実際、それは頂点と言う以上のものである。なぜなら、女性であれ男性であれ人間には、言葉では表せないほど神秘的な自我があり、その人間の内面、すなわち名前以上のものである、「私」と各々が言うときの「私」は生物進化からはるかに飛躍したものであり、その飛躍の結果、生物学的起源を持ち、生物学的に機能しながら生物学的には特定できない、徹底した内省を性格としてもつ意識が誕生したのである。(同書、P.265)

サンダースが言う「男性・女性」は「生物学的な性」、イリイチのいう「(経済的)セックス」です。


プラスチック・ワード=「歴史を喪失したことばの蔓延」

イリイチが「進化(あるいは進化ということば)」をどう考えていたのかはわかりません。すくなくとも、古典時代や古代ローマ時代より中世が、中世より近代(現代)が「進んでいる(発展している)」と考えていたわけではないようです。「進んでいる・遅れている」あるいは「善(良)・悪という価値」ではなく、「根本的に異なっている」と考えていました。 仮に、生物学的なセックスに「進化」があるとしても、そこに「歴史」はありません。100年前も、1,000年前も、10,000年前も「同じ」です。「発展・価値・サービス・コミュニケーション」などの「実体と結びつかない・歴史を喪失したことば」をウヴェ・ペルクゼンは「プラスチック・ワード」と名づけました。歴史を喪失しているという点では「(生物学的・経済的)セックス」も同じです(本書でイリイチは「アメーバことば」と言っています)。

昨日の「わたし」と今日の「わたし」が同じだと思うこと、20年前の「イリイチ」と現在の「イリイチ」が同じだと考えること、西欧ではそれが「アイデンティティ(自己同一性)」であり、「自我(自己)の実在」です。

わたしはグラビアアイドルの「イメージビデオ(IV)」や「アダルトビデオ(AV)」をよく見ます。アイドルや女優のプロフィールをよく見ることになるのですが、「名前、生年月日、出身地、身長・スリーサイズ、趣味・特技」などが書かれています。これらが「アイデンティティ」です。でも、あたりまえですが「趣味・特技」などはだれでも変わります。身長やスリーサイズもどんどん変る、というか、朝と晩でかなり違いますよね。名前はたいてい「芸名」です。これが変わる人も結構います。同時に10個以上の名前を持っている女優さんもいます。生年月日や出身地が「本当」のこと(事実)だという保証はありません。プロフィールが事実だとしても、それは変わるものなのです。それでも視聴者はその「情報(データ)」を知りたいのです。なので、女優は自分のこと、自分の過去、をどんどん話します(鈴木涼美著『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』参照)。その数字や情報が「その女の子」を表しているわけではないことは明らかなのですが。

今日、NHKドラマ『舟を編む』の第6回を観ました。新社長が「デジタル版の中型辞書にする」と言い始めます。「今はスマホで本を読んだり、検索したりする時代。紙の辞書は、重いし、データを加筆修正することができない」と理由を述べます。「それに、作る側も項目数や文字数の制限がなくていいだろう」とも。それに対して編集員の一人は、「それが紙の辞書の良さだ」と言います。「ことばやその解釈は変わっていくけど、紙の辞書はその時代の最高の記録なんだ」と。編集員は「辞書は歴史だ」と言い、社長は「辞書に歴史は必要ない。必要なのは事実だ」と言っているように聞こえました。実際、わたしが子供の頃から使っている辞書の多くは『日葡辞書』(1603−1604年)と同様の「歴史的価値」しかありません。古本屋では、「旧版」の辞書が100円・200円で売られています。多くの人が「歴史のない現在の意味」を求めているのです。電子(ネット)の世界では、不要のものはどんどん捨てられ、新しいデータで上書きされます。そこに前に書かれていたことは失われてしまいます。新しいビルが建って、以前そこに何があったか思い出せないように。


アイデンティティ

「アイデンティティ」というのは、わたしが物心ついてから日本で使われ始めました。それまで一般には使われていなかったのです。ですから、私はこの単語に今でも違和感を感じます。

エーファ・オトマー(福岡大学人文学部講師)はこう言っています。

日本は国際的になり、グローバルなプラスチック・ワードの命令に従うようになった。わかりやすいように翻訳できないこと、つまりはまったく具体的でないことが、プラスチック・ワードの本性である。翻訳者は頭をかかえたあげく、カタカナ語に助けを求める。ある高名な翻訳者は「困ったときはカタカナを使う」とさえ言っていた。たとえば identity は、翻訳者泣かせの言葉のひとつである。「自己同一性」と訳されたこともあるが、この造語をもってしても、何のことだかさっぱりわからないという事実に変わりはなかった。そこで翻訳者は降参し、こう書きつけるのである。「アイデンティティ」と。(「日本語版に寄せて」『プラスチック・ワード』藤原書店、P.215-216)

アイデンティティは、例えば「私は〇〇です」ということです。「犬は哺乳類です」と同じ構造です。「 A is B. 」、あるいはむしろ「 A is A 」ということです。文法的には「S-V-C」あるいは「S-V-O」です。印欧語の文法構造から必然的に生まれるものです。

「私(犬)」という主体を「〇〇(哺乳類)」という対象で表現するものです。日本語でも似たような表現をします。「この花は桜だ」とか。でも、この文での「この花」は「主語(S、あるいは範囲を広げて主格)」ではありません。有名な「こんにゃく文」、「こんにゃくは痩せる」で、「こんにゃく」が主語ではないのと同じです(こんにゃくが痩せるわけではない)。もうひとつ有名な「うなぎ文」、注文するときに「僕はうなぎ」と言ったときの「僕」は主語ではありません(僕がうなぎなわけではない)。

自己紹介で「私は〇〇です」というのと「 I am 〇〇」というのとでは感覚がまるで違うのです。

この言語構造が思考形式にまで影響を与えます。ソクラテスは文字に否定的でした。対象の運動についても、運動(変化)しているものは認識が追いつかないじゃないか。少なくとも認識するあいだは対象が運動(変化)しないと想定しなければならないと考えました。

いや、そればかりか、そのようなもの〔決して同一状態にないもの〕は、何者によっても認識されえないことになるだろうね。なぜなら、認識しようとする者がそれに近寄った瞬間に、それはもう別のもので別の性質のものになっているので、それがどのようなものであるのか、あるいはどのような状態にあるかは、もはや認識されえないだろうからね。そして、いかなる認識も、それが認識しようとする対象がいかなる一定の性状をももたないならば、これを認識することはないだろうからねえ。(プラトン『クラテュロス』439,プラトン全集第2巻、P.168)

しかし、もし一方において認識するもの〔認識の主体〕が常に存在しており、他方において認識されるもの〔客体〕が常に存在しており、美が存在し、善が存在し、もろもろの有るもののそれぞれが〔常に〕存在しているのであるならば、われわれ〔ぼく〕が今あげたこれらのものは流動にも運動にも全然似ても似つかぬものであることが、ぼくには明白だね。(同書、440,P.169)

ここで言われているのは「対象の自己同一性」にほかなりません。「自己同一性」は人間だけに使われるのではありません。対象(客観的存在)があってそれを認識しようとする主体は、自己と対象(他者)の両方に「自己同一性」を求めざるを得ないのです(主体も認識するあいだ同じでなければならないから)。イリイチの自分の過去の著書に対する態度は、まさしくこの「自己同一性」の絶対性の否定です。

イリイチはいろいろな言語をマスターしていましたが、日本語をマスターできずに終わったようです。残念です。


文字を前提とした社会

世界には「文字を持たない文化(言語)」がたくさんあります。文字は人びとの生活の必需品でないのは明らかです。イリイチのいうように、「文字の文化」は「自分が読み書きできる(識字)」とは別のことです。さらにもう一つ、社会(民衆)が文字(の文化)にどう対応したかということがあります。文字がない社会は想像できませんが、そこで生きることと文字の必要性ということです。

その就学率によって、一九〇〇年を境に、その前後一〇年ほどの間に文盲率が急に減ったと言われているのである。(中略)就学率から文盲率を推定するのが容易に過ぎることは言うまでもないが、明治からは皆が文字を持っているはずのものという前提で、社会が動き生活が営まれるという体制になったことを重視したいのである。(池上禎造著「識字層の問題」、『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28所収、 P.79)

つまり、その社会が「文字(識字)を前提」としているかどうかです。文字を前提とした社会では、文字を識ることが生きるための「ニーズ(稀少性、渇望)」となります。時代劇によく出てくる「御触書」、庶民には「お達示」が看板のようなもので知らされました。それを読めるのは学のあるお坊さんか庄屋さんだけです。だから読んでもらう。でも、それに依存することはありませんでした。いまでは「法律を知らない」ということは、法令侵犯の理由(言い訳)にはなりません。法の中で生きていかなければなりません。それが「議会制民主主義」の根底にあります。

ヴァナキュラーなジェンダーと性役割のちがいは、ヴァナキュラーな話しことばと教えられた母語とのちがい、生活の自立・自存と経済本位の生活とのちがい、になぞらえることができる。(『ジェンダー』岩波現代選書、P.171-172)

文字を前提とした社会では文字なしでは生活できません。商品(お金)を前提とした社会では、それなしに生活することができないのと同じことです。

でも、すべての法律を知ることはできません。そこで専門家(プロフェッショナル)が必要となります。人びとは、政治権力に従うのではなく、専門家の言うことに従わざるをえなくなります。足(身体)は「医者」という専門家に依存しなくてはなりません。


青い地球と受精卵
「六、七人の大学院生たちが共同で暮らしているアパートのキッチンで、わたしはそのことに思いあたったのです。そこにあった冷蔵庫の扉の上に、二枚の写真が貼られていました。一枚は青い惑星〔地球〕の写真であり、もう一枚は受精卵の写真でした。それらはほぼ同じサイズの二つの円形で、一方は青みがかった円、他方はピンク色の円だったのです。〔その時〕一人の女学生がわたしにこう言いました。「わたしたちにとって、これらは生命を理解するための入口 doorway ですね」と。(P.394)

多分女学生は、自分の目で丸くて青い地球やピンク色の受精卵は見たことがないでしょう。でも、その写真には「生命」「地球」「環境」が写っていると信じていたのです。

ヴォルフガング・ザックスが非常に巧みに表現したとおり、〔人類が〕これまで獲得してきた眺めのうち、もっとも暴力的な〔暴力的に獲得された〕眺めとは、地球をその外部から見た眺めです。ハッセルブラッド・カメラを地球から打ち上げ、それを使って外部から地球を撮影するために、どれほど大量の爆薬が必要であるか想像してみてください。われわれはいまやそうした場所から地球を眺めることができると主張するわけですが、実際には、たんにそのようにして撮影された写真を手にしているにすぎません。あの受精卵を撮影するために女性たちはどれほどの暴力を、しかも恥知らずな暴力を蒙らねばならなかったのか想像してみてください。忘れてはいけないのは次のことです。すなわち、われわれが地球をその外部から眺めた瞬間、また、妊婦の体内に存する〔本来〕目に見えないものを、すでにこの場所で目にすることができるものとして眺めた瞬間、伝統的な、そしておそらく必要不可欠な境界線が一挙に取り払われたということを。(P.396-397)

前園社長が宇宙に行くために、どれほどの人々の汗や涙があったか。それによって仕事(商売)を失った発展途上国の人がどのくらいいたのか。商品を作るのにどれだけの自然が破壊され、どれだけの残留物(廃棄物)を出したのか。ロケットや宇宙船をつくるために、どれだけの(費用ではなく)資源が失われたのか。わたしには計り知れません。社長にも「そんなことは知ったことじゃない」でしょう。

わたしには想像できませんが、女性の子宮検診(子宮頸がんワクチンも)は残酷の極みだと思います。専門家(医者や看護師)の前で下着を脱ぐ。触られ異物を入れられる。異常がなければ「よかったですね」と言われます(検査・辱めは無意味だった?)。そして異常があれば「子宮を摘出しなければなりません」ということになります。自覚症状(病状)があろうがなかろうが、です。「手術は無事成功しました」と言われてホッとするのですが、では、手術しなかったらどうなっていたのでしょうか。だれにも(医者にも)わかりません。何しろ「すでに子宮はない」のですから。

生命は、敷居としてのこれら二つの映像を通じて、世界の全面的な管理を正当化します。それはこの空虚な概念がもつ聖性によって正当化されるのです。(P.397)


「責任」

長い間、法的な説明責任 legal accountability という意味で用いられてきた責任ということばは、もはや第一義的にはそうした意味をもたなくなっています。(中略)このことばは次のような社会的想定と密接な関わりをもっています。すなわちその想定とは、われわれは世界を、自分たちが欲するかたちにつくりかえることができる、あるいは、自分たちがかくあるべしと考えるかたちにつくりかえることができるという想定です。「われわれは世界にたいして責任を負っている」と主張するとき、われわれはそれによって同時に、自分たちは世界を支配する力があると言っていることになります。ですから、いわゆる科学的な企てを追求することによって世界をつくりかえていかなければならないと確信することによって、われわれはますます、自分たちが世界に対して責任を負っていると信じなければならなくなるのです。〔それゆえ〕われわれが生命に対して責任を負っているとすれば、われわれは生命を改善したり、回復したり、救うことができなければならないことになります。(P.404-405)

正気を失っていないかぎり、わたしが責任を負うことができるのは、自分がそれに関して何かをなしうるようなことがらだけです。(P.424)

あなたが責任を感じうるのは  わたしはごくあたりまえの英語を話しているつもりです  あなたがそれに関して何かをなしうる場合です。(中略)それは一つのキャッチワードなのです。理にかなった行動をとろうとする場合、あなたが無理やり儀礼に参加させられることはありません。しかし、責任ある行動をとろうとするやいなや、あなたは自分自身の健康に対して責任を負わされ、かりに健康に留意しない場合には罰を受けてしかるべき存在にされてしまうのです。(P.427-428)

これをイリイチは「新たな宗教心」(P.426)と言っています。まさしく日本で某政党が主張している「自己責任論」です。今日、病院で医師に「タバコをやめないと、〇〇になって、〇〇を切断することになって、死ぬよ。検査を受けなさい」と脅かされました。「恐喝だよね。それで別の壺を売ろうとしてるんだから」と妻に言いましたが、妻にはわかってもらえませんでした。(笑)

「戦争責任」と「一億総懺悔」。日本人一人ひとりが戦争に責任があるのでしょうか。「何かができた」のでしょうか。

わたしは、「環境汚染」や「異常気象」「戦争」「飢餓」などに対する人間としての「自分の責任」を感じています。そして、何もできない自分の「弱さ」を痛感しているのです。責任を感じならが電気を使い、石油を使い、プラスティックの商品に囲まれている自分を、です。いまこの文章を書いているのも、「なんにもならない」と思いながら「何かを期待」しているからにほかなりません。

選挙は議会制民主主義の基本です。わたしは選挙には参加しません。だれかを応援することも、投票することもしません。わたしは投票することは「責任を負うこと」だと思っています。だから、「政治が悪い」「社会が悪い」と「無責任」に言うことができます。つまり、投票した人にはそういう事を言ってほしくないのです。それはその人たちの責任ですから。政治や社会からつらいことを押しつけられているとすれば、それはその責任に対する「罰」です。その罰を受けているのは、その人だけじゃなく、その人の子どもや親、そしてわたしも受けているのです。

自然や社会に対して「何かができる」と考えること、そしてそれに対して「責任を取れる」と考えることは、「傲慢」なのではないでしょうか。私は親によって生まれ、親や周りの人達によって育てられ、生かされています。そして、「自然の恵」がそれを可能にしています。自然の恵みに囲まれて、そのなかで生きているのです。そんなことは誰にでもわかっていることです。ただ、その自然を「なんとかできる」と思うのは、親や周りの人を「どうにかできる」と思うことと同様に、「傲慢」なことに思えます。むしろ、わたし(人間)は徹底的に無力なのではないでしょうか(「親ガチャ」という言葉をどう思いますか)。

明日というものはあるでしょう。しかし、それについてわれわれが何かを言えるような、あるいは、何かの力を発揮できるような未来というものは存在しないのです。われわれは徹底的に無力です。われわれは、芽生えはじめた他者との友情をさらに拡大していく道を探ろうとして対話をおこなっています。そして、その場合の他者とは、自己の無力さや、われわれの結合された無力さをともに味わいうるような他者なのです。(P.423)


希望・期待

希望と期待の違いをイリイチは『脱学校の社会』でこう言っています。

積極的な意味において、希望とは自然の善を信頼することであるのに対して、わたしがここで用いる期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する。希望とは、われわれに贈り物をしてくれる相手に望みをかけることである。期待とは、自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。(『学校化社会』邦訳、P.191、本書、P.30)

少し神学的な表現ですが、期待とは「自分たちは世界を支配(コントロール)する力」があると信じ、計画し実施した結果を「待つ」ということです。ですから「望み通りの結果」が出なければ、そこに「責任」を感じます。期待通りの結果を求めるためには、世界(物や人)を強制的に従わせなければなりません。というか、「期待」とは強制的に従わせる行為そのものです。患者は自分の体を、医師は他人の体を強制的に従わせます。親と教師は子供を強制的に学校に行かせます。子供は強制的に学校に行かされていることを自覚せず、いじめに会えば、それを自分の責任だと思います。子供が自殺をすれば、多くの親はそれが自分の責任だと思います。そうでない親は、学校や社会の責任だと思います。政治や社会の責任にすることと、環境破壊は自分の責任だと考えることは同じだ、とイリイチは言っているのです。それは自然(地球)も、生命(受精卵)も自分(これを「人間」と言います)がコントロールできるのだ、という「信念(あるいは堕落した信仰)」をイリイチは疑問視しているのです。

では、そうした責任という概念は実際のところ何を意味しているのでしょうか?それはある独特なタイプの倫理にほかなりません。すなわちそれは、自分が責任を負っているものに対して、自分は何をなしうるのかという信念と結びついた、独特な倫理なのです。(P.425)

しかし、ちょっと考えてみるだけで、こんな話しはペテンにほかならないということがわかります。それは、わたしのいう新たな宗教心の基礎をなす考え方としてうってつけのものであり、この新たな宗教心によって、人びとはかつてないくらい支配されやすく、管理されやすい存在になるのです。

それゆえわたしは、〔人びとに〕いまを生き生き生きよう let's be alive と呼びかけます。あらゆる痛みや災いをかかえつつ、この瞬間に生かされてあることを祝福し、  心から祝福するのです  そのことを自覚的、かつ儀礼的に、また、率直に楽しもうと呼びかけるのです。わたしには、そのように生きることが、絶望や宗教心  あの非常に邪悪な種類の宗教心  に対する解毒剤になると思われます。」(P.426)

完全に司祭や牧師の説教に聞こえます。そこには正統派カトリックとは違うものの、イリイチの信仰心があることをわたしは疑いません。でも、それを「キリスト教信者のたわごとだ」と切り捨ててしまう気持ちにはなりません。無神論者であるわたしも、その堕落した信仰にどっぷりと浸かっています。自分が抱きつづけてきた「正義感」「違和感」「反抗心」「痛み」や「苦しみ」は、神が与えたものではありません。「自然(地球)なるもの」が与えたものでもありません。あえて言えば、「堕落した信仰」が、つまり「わたしがわたしに」与えたものです。でも、もがいてももがいても、そこから抜け出すことはできないのです。私は、医療(薬)などの制度(システム〕に「依存」してきたので、「痛む技術」「苦しむ技術」を持っていません。商品としての医療(薬)に完全に依存していて、その商品を買うには「お金」を出すしかありません。「お金」は「依存」「稀少性」「渇望( needs )」の象徴です。


イリイチの幸運

イリイチは私にめまいを与えます。今までわたしが考えてきたこととほぼ真逆なのです。ですから、彼の文章を読みながら「ふむふむ、そうだな」と思っていて、文章の最後の「ではありません」に出会うことがしょっちゅうです(笑)。それはわたしがイリイチを理解していないせいでもあるし、日本語の特徴でもあります。

イリイチは印欧語で考え、わたしは日本語で考えます。イリイチはキリスト教で考え、わたしは(日本の)仏教で考えます。わたしは仏教徒でないうえに無神論者ですが。

最近読んだ『歎異抄』は、人間の無力を説き、阿弥陀の本願(他力)に救いを求めます。案外イリイチの思いとつながるところがあるのではないでしょうか。

私は「ボランティア」という言葉が嫌いです。どうしても「偽善」のような気がするのです。「他人のため」というのが信じられないのです。それは私の業(煩悩)が強いからで、私自身が良いことをしようとすると「他人からよく見られたいからじゃないか」「褒められたいからなんじゃないか」と思ってしまうからです。良いことをするのが「心苦しく・恥ずかしく感じる」のです。悪いことをしないようにはしてきたつもりですが、たくさんしてきたんでしょうね。

聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。

では、聖人の「善人」とは、どんな人をいうのであろうか。

”善を励んで助かろう””念仏称えて救われよう”と努める人である。励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから、「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。

”諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願を疑っている人だから、「疑心の善人」とも言われている。(高森顕徹『歎異抄をひらく』一万年堂出版、P.198-199)

「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」(『歎異抄』第三章)

私も弥陀に救われるかもしれません。(笑)




[著者等]

イヴァン・イリイチ(Ivan Illich、1926年9月4日 - 2002年12月2日)は、オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家である。現代産業社会批判で知られる。イヴァン・イリッチとも表記される。(Wikipedia






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