哲学・航海日誌 矢野茂樹著 1999/04/20 春秋社

哲学・航海日誌 矢野茂樹著 1999/04/20 春秋社

(〈補足〉をつけました。2024/08/30)


どこから来た本?

どうして本棚にあったのか憶えていないのです。矢野さんの本を読もうと思った記憶そのものがないのです。図書館リサイクル本の印もないし、古本屋から買った形跡もありません。帯もついたきれいな本です。

推測できることといえば、①図書館の人がリサイクル印を押すのを忘れた、②古本屋の100円コーナーにあったのだけど、店主が100円の表示をするのを忘れた、③誰かがくれた、かな。「誰かが貸してくれた」のだとしたら、思い当たる人は教えて下さい。たくさん線を引いてしまったので、買って返します。「記憶にないけど本屋から盗んだ」んだったら、たぶんもう時効です。なかったことにしましょう。

だけど、神様か仏様かわからないけど、素晴らしいことをしてくれました。こんないい本と出会わせてくれて。ありがとう。

お風呂本(お風呂で読む本)です。のぼせそうになるほど面白い本です(だからいつも以上に読み逃した部分が多いかもしれない)。

Amazon を見たら「増補改訂版」が出ていました。追加されているのは、

36 その後の航海
 36-1 思考と言語
 36-2 語りえぬもの
 36-3 行為空間の他者
 36-4 眺望論
 36-5 心の在りか

読みたいなあ。今年出たばかりだから、まだ安い中古本はないでしょうね。そのうち。


哲学者

哲学者というのは、ヤヤコシいことをとことん考えるんですね。心地よい程度(これには個人差がある)のものならついていけるんだけど、それを超えると「なんにもわからない」事になってしまいます。矢野さんは実例が多いし(これ大切)、なんとなくついていけている気になります。でも、すべてを実例で説明することはできないだろうし、この本にも「?」と思う箇所はあります。所詮、「哲学」なんてなくても人は生きていけるだろうし、人類が誕生してからのほとんどの時間は(もちろん、人間以外の動物や植物も)哲学なんてもっていないだろうと思います。「いやその「あり方」そのものが哲学なんだ」と言えないことはないけど、だとしたら、本当に哲学は「必要ない」ものとなってしまいます。やはりそこには特殊な(2500年前ほどに突如として生まれ、近世において大きな変節を経た)「知への意志」(フーコー)があり、それこそが問われなければならないということでしょう。

矢野さんの考えはけっして「一般的」なものではないと思います。ましていわゆる「正しい」ものなどではありません。矢野さんが考えようとしていることは、

両者(大森荘蔵とフッサール・・・引用者)に共通しているのは、大雑把に言えば、「自我から出発して他我へと到達する」という発想である。

しかし、もう私はこの発想と手を切ろうと思う。(本書 P.46、以下「本書」は省略)

「私(自我)」をまず中心に据えて、つまり、「自分をしっかりもったうえで」他者や世界を捉えようとすることをやめようという「指向」です。


他者(他人)

「他者(他人)の痛み」が分かるでしょうか。

だが、「他人の痛みを私が知覚する」とはどういうことなのだろうか。

他人の痛みを私が感じとるということ?

しかし、私が感じとったならば、それは私の痛みとなる。起こったことは、あまりにも単純に、ただ私が痛い、ということでしかない。(P.8-9)

ですから、問いは「痛ミヲ想像スルコトナク、他人ノ腹痛ヲ想像セヨ」(P.13)という禅の「公案もどき」になります。

これはもはや、「他人の痛みはどうすれば分かるのか」という、いわば認識論的問い(いわゆる「他我認識の問題」)ではない。「他人の痛み」ということでわれわれはいったい何を考えているのか、その意味、その論理の問題(他我の意味の問題)にほかならない。(P.13)

ところで「他者」とは何でしょう。

た‐しゃ【他者】
〘 名詞 〙 自分以外の者。また、あるものに対する他のもの。
[初出の実例]「主格が根本から分析して論理的に描かれるために、当然それは他者の姿でなければならないのだ」(出典:小説の方法(1948)〈伊藤整〉日本の方法)(精選版 日本国語大辞典

この「例」からすると、それほど古い言葉ではないようです。「タのモノ」と読むなら、大昔からありそうですが。

た‐にん【他人・佗人】
〘 名詞 〙
① 自分自身以外の人。ほかの人。
[初出の実例]「唯備一菴遊目、誰称他人沽哉」(出典:性霊集‐序(835頃))
「文集中に他人の詩作入る事知らるるか」(出典:江談抄(1111頃)五)
[その他の文献]〔詩経‐王風・葛藟〕
② 血縁のない人。親族でない人。また、身内でない者。
[初出の実例]「土佐守宗実〈略〉左大臣経宗卿の養子にして、異姓他人になり」(出典:平家物語(13C前)一二)
③ その事柄や、その仲間に関係のない人。何の関係もない人。
[初出の実例]「た人なれば、見もし、ききもせらればこそ。わ殿は箱根に有し時、まひの上手と聞しなり」(出典:曾我物語(南北朝頃)七)
④ =たにんぎょうぎ(他人行儀)
[初出の実例]「月をかさねてのわづらひになれば、いつとなく他人(タニン)のあらはれける」(出典:浮世草子・西鶴織留(1694)四)
⑤ 他国の人。外国人。
[初出の実例]「頼光の弓の師匠は他人なり」(出典:雑俳・柳多留‐一五(1780))(精選版 日本国語大辞典

こちらは古くからある言葉のようです。紛らわしいので、「他者」を中心に使います。「自分でない人」はみんな「他者」でしょうか。まあそうなんだけど、ピダハン(アマゾン川流域に住む少数部族)のことではなく、目の前にいて「痛そうにしている」人のことですね。この本には何度か「妻」が出てきますが、「いま私が日常的に接しているいわゆる「人間」型のこのものたち」「私の妻や同僚や街を行くものたち」(P.270)のことです。そして「他者」がいるということは「自分(我)」がいるということです。そして「私」は「自我」をもち、「他者」は「他我」をもつということになります。

デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」は「 Je pense, donc je suis 」(『方法序説』、フランス語で書かれた)です。英語にすると「 I think, therefore I am 」らしいのですが、

ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。(Wikipedia

これらが「同じ意味」なのかどうかはわかりません。日本語で「自分自身」という表現をしますが、「自分(私、 I, Je)」と「自身( self )」との違いがよくわからないのです。「私です」が「 It's me 」なのは別として、ふつうは「私」は「 I, Je 」でしょうが、「自分で考えなさい」の「自分」は「 yourself 」でしょうね。日本語の「私」は「人称代名詞」ではないからです。「私」「我」「おれ」「みども」などたくさんの言い方があるし、弟の前では自分のことを「兄ちゃんはね・・・」子供の前では「パパはね・・・」「おじさんはね・・・」等とも言いますから「人称名詞」(金谷武洋)というか「人間関係名詞」みたいなものです。

古典ギリシア語にも「自分(自己、自身) αὐτός, αὑτοῦ 」はあるし、デルポイの神殿には「なんじ自らを知れ γνῶθι σαυτόν 」と書かれていたそうです( σαυτόν は英語で yourself, あるいは thyself )。でも、プラトンにおいてもアリストテレスにおいても人称代名詞としての「私」はそれほど重要視されていないような気がします。むしろ「私から見た対象」としての「存在(存在するもの、あるもの) ὤν (あるいは実体・ウーシア  οὐσίᾱ )とはなにか」を考えるのが哲学の中心でした。デカルトは「我」と「有り」をくっつけちゃったといわれるわけですが、字面からすればそうなんでしょう。

「私」は「他者の他者」(P.376)になってしまいました。つまり「主体としての私」であると同時に「対象としての私」になってしまったわけです。「主語でもあり述語でもある私」です。これはアリストテレスの「実体」の定義とはまるで逆なわけです。

というのは、実体以外の述語は実体の述語となり、これ〔述語としての実体〕はさらに質料の述語となる〔しかしこの質料はもはや他のなにものの述語ともならない〕からである。(『形而上学』29a20、旧全集12、P.210)

アリストテレスとデカルトを合わせると、「私は有るけど、実体じゃない」ということになります。実体じゃないものが「有る」ということはイメージできませんが。そして哲学は、「存在の学」であったものが「他者(=自己)の学」となり、「人間の学」になってしまいました。これを主語がない(必須ではない)日本語で理解することは、とても難しいと思います。


ハチに付きまとわれる
なるほど私はいまここから眺めている。しかし、可能的にはあらゆるところから眺めている。(P.71)

テレビのモニターと違って、実際の世界は「三次元」です。ある風景を見たとき、その風景のなかの建物が「立体であること」がわかっています。つまり、横から見ることや裏から見ることができるという前提で見ているということです(それがトリックアートで平面だと気づいたときには驚きます)。

だが、他我問題に囚われた者たちは、世界の非人称的構造ということに納得しようとはしないだろう。(P.74)

「富士山が見える」と「 I (can) see Mt. Fuji 」は違います。英語と違って日本語のこの文は「可能」でもないし「能動」でもありません。もちろん受動でもありません。日本語自体が「非人称的」なのです。でも小学校から英語を習っていると「私(に)は富士山が見える」の「私」が「省略されているもの」だと思ってしまいます。日本語自体が「人称化」しつつあると思うのです(逆に最近の報道番組では何が主語だかわからない文章が目立つのですが・・・)。

昨日ハチに付きまとわれました。ハチの種類はわかりません。刺すのか刺さないのかもわかりません。私は昆虫が嫌いなので怖かったのですが、「ハチが来た」(過去形ではありません)を英語でどういうのでしょう。

A bee comes.

あるいは、

The bee comes.

でしょうか。不定冠詞 A や定冠詞 The は日本語には現れません。もちろん単数と複数の違いもありません。英語話者にはこの二つの文章の違いが肌でわかるのでしょうね。英語で単数・複数・定冠詞、もっといえば「大文字小文字」で表される語(概念)が日本語では表現できないのです。著者は学者ですから、英語(印欧語)の文献が読めるだろうし、この本を英語にすることもできるでしょう。そのときには、この本のそれぞれの名詞に「 A 」をつけたり「 The 」をつけたり、複数形にしたり、大文字にしたりするのでしょうね。


be動詞

「有る」という日本語に対応するのが、英語の be動詞です。私が中学校で初めて習った英文は、

This is a pen.

「これはペンです」つまり「これはペンである」。でも、

Here is a pen.

は、「ここにペンがある」。上の「 is 」は「である」、下は「がある」と日本語では明確に区別されているのですが、英語を含めた印欧諸語では同じです。前者は「主語の性質」を、後者は「主語の有無」を表しているように思えるのですが、印欧語の話者にとってはどうなのでしょうか。どこか同じだと思っているような気がします。ウーシアはラテン語で「 substantia 」「 essentia 」と訳し分けられるようになるのですが(Wikipedia)、日本語の「である・がある」とは違うものの、やはりもともと二面性を含んでいたのでしょう。それを「存在」という日本語にしてしまうと、せっかく明確だった区別が曖昧になってしまいます(ドイツ語の sein を「有」と訳す人もいるけど、解決しないと思う)。

この「である」としての be動詞のことを、文法や論理学では「連辞(コプラ、コピュラ)」と呼ぶそうです。私の解説など信用する人がいなさそうなので、上記アリストテレスの『形而上学』の訳者(出隆さん)の注から引用します。

同じ「ある」でも両者はその意味・役割がちがっているので、西洋の学界では前者(「がある」・・・引用者)を「存在(エクジステンス)としてのある」と呼び、後者(「である」・・・引用者)を「連辞(コプラ)としてのある」と呼んで区別している。これは日本語では無用の区別である。(中略)しかし、ギリシア語のみならず一般に印欧語では、どちらの場合を表すにも日本語でのような差別なく共通に、「存在」を意味する同じ一つの動詞( esse, be, être, sein )またはその変化が用いられていて、形の上では「がある」か「である」か区別がつかない。(旧全集十二巻、P.557)

アリストテレスが「実体(第一実体)」を、「常に自ら主語(基体)であって他のなにものの述語(属性)」でもないもの」と規定したこと自体が印欧諸語の文法に基づくもので、そこから生まれてきたものなのです。

アリストテレスは「なにがあるのか」と「なぜ・どのようにあるのか」を問うたとともに、「世界は水でできている(タレス)」「原子(アトム)でできている(デモクリトス)」「火、空気、水、土である(エンペドクレス)」など多くの説をとりあげ、

すなわち、たとえすべての生成や消滅が或る一つのものまたは一つより多くのものからであることは当然であるとしても、それがなにによっておこるか、なにがその原因であるかは別の問題である。(『形而上学』984b20、旧全集第十二巻、P.16)

と言って、四つの「原因」を示すのですが、これも「存在としてのある」と「性質(要因、コプラ)としてのある」から生じた問いの変形です。

哲学、あるいは人間の学、もっといえば自然学も含めて、それらが言語にかかわらない「人類共通(普遍的)」のものだという考え方自体が、その印欧語の文法構造から出てきたものなのです。「ソクラテスがいる(ある)」と、「ソクラテスは人間である」の「ある」が別の単語であったなら、西洋哲学も、科学も「発展」しなかったかもしれません(「発展」という言葉自体が、その印欧語そのものですが)。

「日本語で哲学する」とはどういうことなんでしょうか。


同じ(同一)

アリストテレスは上記の引用とは別に『形而上学』第五巻で哲学用語を解説しています。第七章が「オン〔ある、存在する〕」で、第八章が「ウーシア〔実体〕」、第九章が「タウタ〔同、同じ〕」です。訳者注から引用します。

(タウタの・・・引用者)原語 ταῦτά は中性複数形冠詞つき、単数中性形冠詞なしでは αὐτό(複 αὐτά )。ラテン語では idem. また「同一性(同じであること)」と訳された ταυτότης はラテン語では identitas. (旧全集第十二巻、P.560)

古典ギリシア語はわからないので雰囲気ですが、ギリシア語の「私」に似ていませんか。「 identity 」は心理学者エリクソンのことばで「自己同一性」と訳されていたものです。パソコンを立ち上げると「IDとパスワードを入力してください」と毎回訊かれます。「IDカード(アイデンティ・カード)」の「ID」です。「ある人がその人であることの証明書」が「IDカード」です。「私が私であること」「私という存在(質料)が私という性質(形相)と同じであること」くらいの意味でしょうか。「自己同一性」とか「アイデンティティ」という言葉が流行ったとき、私を含めた多くの日本人が「私が私であるなんて当たり前で、証明のしようがないじゃないか」と思ったのではないでしょうか。日本語においては明確に「である」と「がある(いる)」は明確に違うのですから、アイデンティティは問題にされないし、認識もされないのです。アイデンティティが問題になるのは、「ウーシア」を「 substantia 」「 essentia 」と訳し分けたところから生じた西欧的なものだと思います。

エリクソンの『自我同一性  アイデンティティとライフサイクル』を小此木啓吾さんが邦訳したのが1973年。三田誠広さんが『僕って何』で芥川賞を受賞したのが1977年です。その頃から日本でも本格的にアイデンティティが問題になったと記憶しています。テレビドラマ『ルーツ』が放送されたのが1977年(トヨタと日産が同時スポンサーというのが象徴的です)、「自分探し」というのも流行りました。

戦後30年、明治維新から100年(世代でいうと一世代から三世代程度です)経った頃です。日本人が「私とはなんだろう」と本気で考え始めた時期とも言えるでしょう。それを「長い」と感じるか「短い」と感じるかはそれぞれですが、日本人の思考、あるいは日本語そのものが「西欧化(印欧語化)」してきました。それから現在までさらに半世紀がすぎています。森有礼のように「英語を公用語化」しようと明確に言う人はもう出てこないのかもしれんません。義務教育(小学校から)英語を習い英文法に基づいた日本語文法で標準語(「共通語」などと偽装されているけど)、日本人の思考そのものが(物事によっては欧米以上に)「欧米化」していますから。

「他我問題」と「世界の人称的構造(主語ー述語構造)」とは、同じことです。「私は私である」というのは、日本語にとっては「同義反復」「循環論法」、もっといえば「意味がない」わけです。この「A=A」は「同一律」と呼ばれて、「無矛盾律」と「排中律」とともに論理学の古典的な三原則となっています。私にはこの同一律が必要だという感覚が少ないのですが、いまの若い人には「当然の原則」のように思えるのでしょうか。ひょっとすると「である」と「がある」とが「同じ」だと思っているのかもしれません。

「美しい花の存在」と「花の美しさの存在」について、小林秀雄はこう言っています。

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。(小林秀雄「当麻」筑摩書房 日本文学全集42 『小林秀雄集』所収 P.366)

「イデア論」や「観念論」を批判しているように見えますが、「美しい花がある」と「美しい花である」とは違うよ、という日本語としてあたりまえのことを言っているにすぎません。当然だから、日本人は逆にそれを違うと意識することもなかったんだと思います。逆に意識しちゃったからこそ、西欧では「形として有るもの」、たとえば「目の前に広がる山や川」「古くから残っているお城や遺跡」「伝統文化」などを大切にせざるをえなかった。それらが「なくなる(がなくなる)」ことは「自分たちがなくなる(でなくなる)」ことだということを感じていたのではないでしょうか。

日本では、それらがなくなることと自分たちがなくなることとは結びづらかった。「がある」ことと「である」こととは全く別のことでしたから。もちろん、多くの人が「なくなる」ことに反対したのですが、いつも行っていた神社やお寺がなくなること、公園がなくなること、近所の雑貨店がなくなること、魚を獲っていた川から魚がいなくなること、・・・それらは寂しいことではあるけれど、日本では「力(ちから、行動)」にはなりませんでした。日本で「近代化」「文明開化」が急激に進んだ原因はここにあると私は思っています。

イリイチは日本の若い学者についてこう言っています(ちょっと長いけど引用します)。

そのセミナーには、情報工学やコミュニケーション科学やシステム管理といった分野を専門とする多数のドイツ人学者にまじって、情報工学を専門とする二、三名の日本人学者が招かれていました。〔そこにおいて〕ドイツ的な教養を培った同僚たち、つまりゲーテを愛読するような同僚たち〔ドイツ人学者たち〕はみな、かれらがやろうとしていることにある特別な意義を見出そうとしていました。それに対して日本人学者たちは、かれらがおこなっていることによって脅かされたり、促進されたりしている事態の意義にまったく気づいていない様子でした。(イリイチ『生きる意味』、邦訳 P.402-403)

それは、かれらの生徒たちの世代、すなわち、かれらが「コンピューター世代の子どもたち」と呼ぶ、十七歳から二十三歳くらいまでの若者たちのほうが、かれらよりはるかに平然と、何の疑いももたずに、こうしたことがらを受け入れているという事実です。かれら三十歳くらいのドイツ人研究者たちでさえ、なおも、こうした新しい認識形態が自分たちの想像力や感覚や空想力に与えたインパクトについて意識せざるをえないのです。ヨハネス・ベックは、中産階級に属する(中略)現在三十歳の人びとと、現在十八歳の子どもたちとの間のジェネレーション・ギャップに驚いています。というのも、現在十八歳の子どもたちはほとんど日本人と変わるところがないからです。(同書、P.407-408)

「SDG's」あるいは環境問題に西欧諸国が関心をもつことと、それを破壊する「科学」を作り出すことは、同じ根をもっているのです。


全体と部分

「私は私である」と「我思う、ゆえに我あり」が「同じことを言っている」のだ、ということを書いてきたつもりです。

あの、子どもの発する「ボクの生まれるまえには、なにがあったの。どうして世の中は、いまあるようになったの」、という問に発していることを。(P.267、アンドレ・ビュルギエール「自白による証拠   『知への意志』をめぐって  」、『ミシェル・フーコー 1926-1984 権力・知・歴史』新評社、所収)

それは、「ボクはどこから来たの」という問いであり「どうしてボクはいるの」という問いであり、『僕って何』という問いです。「コウノトリが運んできたのよ」というもう子どもでさえ信用しない答えは、西洋から伝わってきたにもかかわらず、とても非西洋的です。

「私」の存在に気がつくということは、「私以外」と「私」を「区別」することです。それが「存在論」です。「なぜ花はあるのか=花の存在とはなにか」「(花の)美しさは存在するのか」「美・善とはなにか」などが哲学の中心(形而上学)でした。それを探求するための素材が「自然学」などの諸学です。その段階ではまだ、その探求( ιστορία 歴史)の中心点としての「私」はなかったように思います。「私」は「私の私」でもあり「あなたの私」もありました。「個人( individuality )」は「分けられないもの」であって「固有のもの」ではありません。それは「一本の花」「一匹の犬」と同様にひとつの「全体」であって、「全体の一部(部分)」ではないのです。個人から頭や手を取ってきてこれが「個人」だとは言えないのです。肉体でなくても、その人の習性や記憶などを失ったとしてもそれは元の「個人」ではありません。いまは髪の毛のDNAだけでも「〇〇さんだ」ということになるので、個人が一つの全体だというニュアンスは伝わりにくくなっていますが。

ソクラテスは人間である。

では、ソクラテスを連れてきて、

これが人間だ。

と言ったらどうでしょうか。まちがっているわけではないけど、なんか変ではありませんか。DNAを検査して「〇〇さんだ」というのもまちがっているわけじゃないけど、なんか変だと思います。この「異様さ」が最大限に発揮されたのがコロナ禍でのPCR検査です。新型コロナウィルス(この呼び方をするのは日本だけだと思います)が「こういうDNA型をもっている」といことが事実だとしても、「このDNA型をもっているのは新型コロナウィルスだ」ということは違うのです。PCR法を開発したキャリー・マリスが「PCR法をウィルスの特定に用いてはならない」と言った意味を私はそう解釈しています。もちろん、「体内に新型コロナウィルスがいる(がある)」ということと、「新型コロナウイルスにかかっている(である)」こととは全く別のことですが。

アリストテレスはこうも言っています。

けだし、かれらの定義の仕方は皮相的であり、またかれらは或るものの定義で第一に述べられるものを直ちにその当の或るものの実体であると思いこんでいる。それは、たとえば、二という数の定義で二倍ということが第一に述べられるからとの理由で直ちに二倍を二そのものと同じであると思うようなものである。(『形而上学』987a20、邦訳書 P.26)

私が言っていることとは違うけど、言いたいことは似ていると思います。「二」という数がないというのではなく、「花が二本ある(花は二本である)」ということと「二がある」ということは違うのです。

主語と述語の関係は、「特殊と普遍」、「部分と全体」、「固有名詞と普通名詞」の関係です。人間でいえば「個人と社会」との関係です。「美しい花」があるということから、「花の美しさ」もあると思ってしまった、その関係です(これは「普遍論争」として中世以降のヨーロッパを賑わせました)。日本語でしたら、あろうがなかろうがいいのです。「人間がいる(がある)」ことと「人間である」こととは全く別のことですから。「人間(人類)」という言葉は西欧においても近代以降にできた言葉ですが、あったほうが便利です。「犬」や「猫」と区別できるし、「あいつは犬のようだ」という使い方もできますから。でも、どこを探しても「美しさそのもの」「犬そのもの」「人間そのもの」などというものは見つかりません。同様に「私(そのもの)」などというものも見つからないでしょう。


「私は私であって、あなたではない」、「私の私」と「あなたの私」は違うということですが、「このバラとあのバラは違う」となぜ思わなければならないのでしょうか。

それは「私」は「意識をもち、意志(主体性)をもち、意図するから」にほかなりません。

いつも通りネット辞書から引用。

い‐しき【意識】
〘 名詞 〙
① 仏語。六識、八識の一つ。眼、耳、鼻、舌、身の五識が五根を通してそれぞれとらえる色、声、香、味、触の五境を含む一切のもの(一切法)を対象(法境)として、それを認識、推理、追想する心の働き。狭義には前五識の対象である色境等の五境を除いたもの(法境)を対象とする心の働き。この心の働きが眼から身までの五識を伴って起こるのを、五倶(ごぐ)の意識といい、単独で起こるのを独頭(どくず)の意識という。第六識。第六意識。
[初出の実例]「諸法は意識の成す所や」(出典:宴曲・宴曲集(1296頃)五)
② 目ざめているときの心の状態。狭義には、自分や自分の体験していることやまわりのことなどに気づいている心の状態。哲学では中心課題であり、特に観念論では自然や物質の独立性を否定し、これを根源的なものとする。〔解体新書(1774)〕〔哲学字彙(1881)〕
[初出の実例]「饑死などと云ふ事は、〈略〉意識の外に追ひ出されてゐた」(出典:羅生門(1915)〈芥川龍之介〉)
③ ( ━する ) 何事かを気にとめること。
(イ) 心に悟ること。わかること。また考えること。〔論衡‐実知〕
(ロ) ある意図をもってすること。
[初出の実例]「これまでの新聞の発展は、社主が意識(イシキ)して遂げさせた発展ではなかった」(出典:青年(1910‐11)〈森鴎外〉一三)
(ハ) 自分やまわりのようすがどうなっているかに気づくこと。
[初出の実例]「健三は相手の自分に近付くのを意識(イシキ)しつつ」(出典:道草(1915)〈夏目漱石〉二)
(ニ) 特別にある人や物事を気にかけること。
[初出の実例]「此為替を出奔の路用にする不孝を意識(イシキ)せずには居れなかった」(出典:黒い眼と茶色の目(1914)〈徳富蘆花〉八)
④ ある物事に対してもっている見解、感情、思想など、社会的、歴史的な影響を受けてかたちづくられる心の内容。多く、内容を示す連体修飾句がついて用いられる。
[初出の実例]「階級的意識によって導かれて始めて、それは階級のための芸術となるのである」(出典:自然生長と目的意識(1926)〈青野季吉〉)(精選版 日本国語大辞典
意識 (いしき)
日本でも,この語は長い間そうした含蓄の仏教用語として用いられていたと思われるが,幕末以後,西洋の諸学が輸入されるにつれて,ヨーロッパ語の訳語という性格を強めながら今日に至っている。その端緒は,西周にあったと考えられる。彼はアメリカ人ヘーブンJoseph Havenの《Mental Philosophy》(1857)を翻訳して,《心理学》上下巻(1875-79)として出版したが,それに付された〈翻訳凡例〉の中で,訳語を案出する苦心に触れながら,〈意識〉等の語については〈従来有ル所ニ従フ〉と述べている。それからほどなく,井上哲次郎らの手によって刊行された《哲学字彙》(1881)には,〈Consciousness意識〉とあり,この語がほぼこのころ哲学,心理学等の用語として定着したことが知られる。
 英語のconsciousnessは,接頭辞cumとscire(知る)の過去分詞sciusとからなるラテン語consciusを語源とする。cumは一般に共同的な含意を作る語であるから,con-sciusは,(1)ある知識をだれかと共有したり,共犯関係にあること,あるいは(2)ある行為や思考,感情などに,それについての知,すなわち自己意識が伴っていることを意味していた。(3)その際,その自己意識が欺瞞を含まない限り,それは〈良心conscientia〉と呼ばれてよいであろう。スコラ哲学では,この用法がしだいに重きをなしていったと言われている。このconscientiaが英語のconscience(良心)やフランス語のconscience(意識)になるわけであるが,ドイツ語でも,古形のGewissenからBewusstsein(意識)が独立したのは,やっと18世紀のC.ウォルフからであるという。
 意識という語のとくに近代的な意味は上述の(2)にあると考えられるが,その確立はデカルトとともに始まったと言ってよい(彼は多くはコギタティオcogitatioという語を使ったが)。彼が精神を〈考えるもの(レス・コギタンス)〉と規定したとき,そのコギトとは自己意識にほかならなかったからである。意識という語で,さめた心の状態や意図的な何かを意味する今日のわれわれの用法も,そこに通ずるであろう。ちなみに,西周の邦訳した前述のヘーブンも,意識を〈みずからの諸現象を認知している心の状態ないし作用〉と定義している。

執筆者:滝浦 静雄(改訂新版 世界大百科事典、一部を抜粋)
い‐と【意図】
〘 名詞 〙 ある目的をもって、何か事をしよう、実現しようとすること。また、その目的、ねらい。
[初出の実例]「常に上官の意図を明察し大局を判断して」(出典:歩兵操典(1928)綱領)(精選版 日本国語大辞典
意図
いと
Absicht; intention
ゲシュタルト心理学の用語。適当な機会がくれば,ある目標達成のための特定の行動を実行しようとする決意。目標の選択に関する場合と目標達成の手段の選択に関する場合とに分けられ,一般に前者は態度に,後者は意図に関係する。意図によって生じる人間の心的緊張は,食欲や性欲のような自然的要求によって生じる緊張と類似の働きをもつものとし,K.レビンはこれを準要求と名づけた。 (→意志 )(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
い‐し【意志】
〘 名詞 〙
① 目的のはっきりした考え。あることをしたいという思い。こころざし。
[初出の実例]「意とは、意志とつづきて、心の内にたくわへおもふことなり」(出典:訓幼字義(1717)七)
[その他の文献]〔淮南子‐繆称訓〕
② ( ━する ) 物事を思慮し、選択、判断して実行しようとする積極的な心ぐみ。また、その心ぐみを持つこと。特に、心理学で、知識、感情に対立する精神作用の一つ。〔哲学字彙(1881)〕
[初出の実例]「随分気の確な女、むづかしく謂へば意志が強いといふ質(たち)で」(出典:葛飾砂子(1900)〈泉鏡花〉八)
「私が意志して生れたわけではないのだから」(出典:青鬼の褌を洗ふ女(1947)〈坂口安吾〉)
③ 哲学で、多くの動機、目標、手段から一つを選択し、その実現を意欲すること。広義にはある目的を実現しようとする人間または人間集団の、行動を触発する過程または原因をいう場合もある。
意志の語誌
日本では、「哲学字彙」(一八八一)に収録され、定着を見た。明治中期から後期にかけて「意思」との混同が起こったが、「意志」は、主に哲学、心理学また、日常生活で、「意思」は主に法律関係で多く用いられ、今日に至る。(精選版 日本国語大辞典
いし
意志
will,volition(英),volonte´(仏),Wille(独)

英語のwillやvolitionの語源はいずれもラテン語のvelle(望む)である。日常的には,意志はまず「~したい」あるいは「~しよう」という欲望desireの主観的体験subjective experienceとして意識される。矢田部達郎の『意志心理学史』(1942)によると,近代以降の実験を基礎とする実証主義的心理学においては,意志の語はほとんど使用されなくなったとされる。その主たる理由は,行動主義以来,意識consciousnessが心理学の直接の研究対象ではなくなったことである。人間の情報処理の多くは意識されない過程として進行しており,また意識は神経活動の随伴現象epiphenomenonと考えられるようになったために,主観的体験として意識される意志もまた,自動的で無意識的な神経活動の過程に還元されることになり,実証的な心理学においてはその地位を失ったということであろう。
 もう一つの理由は,歴史的に見て意志の概念が多義的であったことが挙げられる。また,心理学の分析的方法論によって,意志という曖昧な心の働きが多数の,操作可能な要素へと分解されてきたこととも関連しているだろう。哲学の歴史,また心理学の前史を見ると,意志は最も広義には欲望と同義であり,行動を引き起こす原因として考えられてきた。ジェームズJames,W.は『心理学Psychology:Briefer Course』(1892)の中で,「感覚的刺激によって生じる行為はいずれも有害物を避け有益なものを得ようとするものであって,反射から,本能と意志の両者からなる半反射を経て,意志の作用である随意的行動voluntary actに至るが,その間に明確な区切りはない」と述べている。反射reflex,動因drive,動機づけmotivation,欲求needなどの心理学用語はすべて行動の原因を説明する欲望的概念であるが,そこには脊髄における感覚神経と運動神経の結合から,自己実現self-actualizationの欲求に至るまでのさまざまな水準が含まれている。
 歴史の中で人びとが考察の対象としてきた意志は,欲望的な側面に限定されていたわけではない。西周が『心理学』として翻訳したヘブンHaven,J.の著書『Mental philosophy』(1859)の中で,ヘブンは「手の意志的運動においてはまず目標物があり,次いで動機があり,第三に選択があり,最後に意志を実行に移せば,妨げがない限りまた身体の機能に損傷がない限り,手が動く」と述べている。現代の心理学の用語に直せば,意志とよばれうる日常の体験には,少なくとも誘因incentive,動機づけ,意思決定decision makingと遂行performanceという四つの過程がかかわっているといえるだろう。さらにこのほかにも,欲求の対象を獲得するうえで妨害が存在する場合にあきらめずに努力を続ける粘りperseveranceや,選択した欲求を保持しつつ行動を抑制する自制self-controlとよばれる過程も,意志に含めることができるだろう。つまり,現代の心理学において意志の研究が行なわれなくなったのは,日常生活の中で意志ということばが当てはまる心の働きに意義が失われたからではなく,心の働きを要素に分けて精密に探究しようとする心理学の努力の中で,多様な過程や現象を,意志という一つの概念で代表することができなくなったからであるということができるだろう。
 しかし,意志の概念が心理学からまったく失われたというわけではない。臨床心理学の一部や,近年その重要性を増してきたポジティブ心理学positive psychologyにおいては,選択に関連して,自らの行動を自らの意志で選ぶことができるという自由意志free willの存在が広く認められていると考えてよい。自由意志は,歴史的に見るとアクイナスAquinas,T.によって,またデカルトDescartes,R.によって肯定されたが,スピノザSpinoza,B.によって,またヒュームHume,D.によって否定された。それでも自由な意志の存在を前提とする心理学が求められるのは,われわれが,自分自身を見る視点と他者を眺める視点とを使い分ける必要に迫られているからであろう。
 前述したように,近年は意志という術語そのものも使われることが少なくなった。一方,法律用語として責任能力の所在を示す「意思」が導入されていたが,この語はしだいに一般に浸透し,意志と混用されるに至った。心理学界にもその流れが波及し,意志の使用頻度が減衰して,同様な混用が起こっている。そこで無用な混乱を避けるために,たとえば,意志は情動の抑制や制御によってより倫理的または社会的目標を選択し遂行する過程や機能を指し,willまたはvolitionに対応するものと規定する。これに対し,意思は認知的・計算論的情報処理によってより合理的・適応的目標を選択し遂行する過程や機能を指し,intentionに対応するものと規定する。今後の展開を図るためには,このような使い分けが望ましい。 →意思決定 →動機づけ →ポジティブ心理学 →欲求(最新 心理学事典

私は未だに「意志」と「意思」をうまく使い分けられません。

引用が長くなってしまいました。「意味」や「価値」についても引用したいけど省略。

なんでいつも引用するかと言うと、わたしたちがあたりまえの日本語として使っている語彙が、明治以降に翻訳語としてつくられたり、少なくとも現在の使い方が印欧語の翻訳語としての用法だということを確認したいからです。そうすると、結構新しい言葉だということが分かったり、分かっているふりをして使っていても、改めて考えてみると分かっていなかったりします。そういう言葉は根が地についていないので(接地していない)、独り歩きします。それらは表向きの言葉だったり、お堅い・公式の言葉だったりします。中身がないからこそ「力」をもったりもします(ウヴェ・ペルクゼン『プラスチック・ワード』参照)。

「アイデンティティ」などのカタカナ語もそうです。「コミュニケーション」ってどんな意味だか分かりますか。「コミュニケーションはコミュニケーションだろう。」「英語を話す人なら分かるんじゃないか。」そんな言葉が返ってきそうです。外国人の友達がいないので聞いたことはありませんが、説明できないことが多いのではないでしょうか。「アイデンティティ」同様学術用語だからです。日本人が「素粒子」の説明ができないのと同じです。この本を読んでいて意味を調べた単語がいくつかあります。そのひとつが「プロトタイプ」です。

プロトタイプ
〘 名詞 〙 ( [英語] prototype ) 原型。標準。手本。また、試作品。
[初出の実例]「日本のスターも外国のスターのプロトタイプによって生産されてゐた」(出典:花影(1958‐59)〈大岡昇平〉一)(精選版 日本国語大辞典

こういう単語は知らないと言うのが「恥ずかしい」し、なんか知っている気になってるから調べることもありません。

「素粒子」はプロトタイプによってではなく、厳格に外延的に規定された用語なのである。そしてこれまでの言語哲学の主たる流れを支配してきた外延的言語観は、「言語」のパラダイムを物理学言語のようなものに置いていたことに根ざしていると思われる。だが、そのパラダイムは変更されるべきである。日常用語は外延によってではなく、プロトタイプによって規定されている。


このことは、言語学習が「常識」の学習を含まざるをえないことを意味している。(P.353)

ついでなので、

じょう‐しきジャウ‥【常識】
〘 名詞 〙
① 一般人の持つ考え。普通の見解。
[初出の実例]「此常識之所下以必至レ此而与二聖人一自相違上也」(出典:童子問(1707)中)
② ( 英 common sense の訳語 ) 社会人として当然持っている、持っているべきだとされる知識・判断力。〔哲学字彙(1881)〕
[初出の実例]「常識(ジャウシキ)のない奴だと思はれる丈だから」(出典:彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉報告)
③ 哲学で、人類全体に共通する能力で真理、道徳をとらえる直覚をさす。常識学派(スコットランド学派)で真理の最終根拠とした。
常識の補助注記
common sense の訳語としては、他に「常見」「常情」なども用いられていたが、明治の後半から「常識」に定着した。

普段は①の意味と②の意味とどちらにも使っていますが、著者が使っているのは②の意味でしょう(ある意味で③かもしれない)。①の意味では「ある」「ない」などと言えないですから。

そこで、ふつうのものたちのみが登場するふつうの世界という非現実的な虚構が重要な物語となる。そこで私はそうした物語を「常識的世界像」と呼ぶことにしたい。

「常識世界像」という考え方は、ウィトゲンシュタインの「世界像」という概念の延長上にある。世界のあり方を探求するとき、その探求はすでに世界のあり方に関するなんらかの基本了解を枠組としてもっている  ウィトゲンシュタインはそれを「世界像」とよんだ。(P.354)

これが「世界像」であり、ウィトゲンシュタインはそれをまた「神話」とも呼んだのである。ウィトゲンシュタインは探求が神話を必要とすることを示した。そして私は、言語習得にも神話(常識という名の神話)が要求されることを指摘したいのである。(同)

そうした「常識的(ふつうの)世界(像)」はいつからあったのでしょうか。「普通」「一般」「普遍」は前述のように「特殊」「個別」とともに、「美しい花」と「花の美しさ」との混同から生まれたものです。ですから、「非現実的なもの」いわば「異界のもの」も日常の中にありました。

それらはどんどん排除されていきます。「(現実の)世界」は「対象としての(主体とは別の)世界」だからです。旧約聖書「創世記」に、

神は御自分にかたどって人を創造された。

神にかたどって創造された。

男と女に創造された。

神は彼らを祝福していわれた。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1-27,29)

とあります。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますから、印欧語ではありません(コプラもない?)。それがギリシアを通って西欧に伝わり、新約聖書は古典ギリシア語で書かれました。「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物」は「対象(自然、φύσις )」となりました。すべては「管理・制御(=所有)されうる対象」となったのです。そして近代的「我」はそれらを「されうる」ものよりも、「私(自己)」同様に「されなければならない」ものとなりました(自己への配慮)。「異界のもの(予測不可能なもの)」は、排除されなければ「私」と「世界」は成り立たないのです(そのとき「希望」は「期待」になります。イリイチ『学校化社会』邦訳 P.191、『生きる意味』邦訳 P.30、参照)。もし「他者」が「予測不可能な存在」であれば、それも排除しなければなりません。神話は「科学(学問)」に置き換えられ、「予測不可能な他者(狂人等)」は「隔離」され日常から追い出されます。先日「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表されました。いまは大きな台風が近づいていますが、進路や降水量や風速を「予測」し、予測通りの結果を「期待」し、結果が違えば「責任」をとる(最近は観測機器や台風自身のせいにしてとらないのかなあ)。そういう社会が出来上がります。

異界も他者も存在し、それが存在することが「問題」ではなかった世界、言い方を変えれば「常識がなかった世界」はなかったのでしょうか。それは想像することも不可能でしょうか。私はそうは思わないのです。日本でも(地域によって差はありましたが)私の幼少期まであったと思うし、西欧で「暗黒時代」として「否定(排除)」されている中世もそうだったのではないでしょうか。いや、今でもあると思っています。「どこかの国や地方にある」というのではなく、わたしたちの現実世界にあると思うのです。それはファンタジーやオカルト映画として表面化するときもありますが、もし物語に「本質」なるものがあるとすれば、それでしょう。

自動車が「自動運転」し、ロボットが料理を運ぶ時代です。だからといって、「人間の足はもう必要ない」わけではないのです。

輸送システムは、車まで歩いていき、そのドアを開けるための足が人びとにないかぎり機能しません。病院というシステムが意味をもつのは、人びとがいまなお、まったく他者に頼ることなくおこなう活動、すなわち生きるという活動に従事しているかぎりでの話しなのです。(前記『生きる意味』邦訳 P.360)

足があれば水虫になったり、骨折したりします。でも、水虫を治すのは「薬」じゃないし、骨折した骨を再びつなぐのは「医者」ではないのです(死体を考えてみてください)。

自分の体が治るのは生きているからだ、と当たり前に思える世界。みんなが「生きる力」を放棄しない世界。「常識」や「非常識」が「個人」に還元されない世界。そんな世界は「非現実的」でしょうか。

ある人たちには、いまのわれわれの周囲には「変」なものが満ちあふれているように見えるかもしれない。だが、私めにはたんに多様化したさまざまな「ふつう」が満ちているように見える。多様化されつつもなお、それぞれにそれぞれの「らしさ」を演じようとしているように見える。それは細分化され、自閉しつつ、最後には「自分らしさ」というなんだかわけの分からないものに行き着くのである。

伝統的な神話はたしかに弱体化した。だが、神話への呪縛は圧倒的にわれわれを縛り続けている。そうして伝統的な神話からはみ出した者たちは、自分を「ふつう」の者として位置づけてくれるような新たな神話を作ろうとする。それはそれで別にかまわない。神話は不可欠なのだから。だが、自ら選びとった神話というものは押しつけられた神話よりもはるかにタチが悪いことを忘れてはならない。押しつけられた神話であれば、それへの反発からそれを逆手にとる力も生まれてくるだろう。それに対して自ら選びとった神話を逆手にとることは難しい。自分らしさへの偏愛は、態度をかたくなにし、足取りを重くする。(P.356-357)

「押しつけられた神話」も「自ら選びとった神話」も「私」を形作っています。「私(主体)」があるかぎり、どちらも否定することはとっても難しいと思います。ここでいわれている「ふつう」や「らしさ」は「主体=自己(自己同一性)」の別の表現であるように思えます。

昨日観たドラマ(『GO HOME』)で「承認欲求」「居場所」という表現が出てきました。懐かしいなあ。私も探していました(今でも探しています)。『新宿野戦病院』でも描かれている「東横キッズ」を見ていると、しっかりと「消費文化」の中にいるのがわかります。そのため、彼らが嫌っている人たちと同様に「生きる力」というか「生きる方法」を学んでいないように思えます。「商品(あるいはお金)」によって「自己」は「生きる(がある)」ことはできるけど、「生きる力(である)」は失われていきます。私はそう感じます。


文と文字

しかし、こうしたことはすべて成立した意図的行為にたいする事後的な分析にほかならない。そして、分析はいつまで続けてもかまいはしない。終わらないのは分析であり、分析されている意図的行為はもう終わっているからである。(P.244)

そしてその問答は、すべて問題のコミュニケーション行為が終わった後のことであり、そこに潜む無限性は、けっしてコミュニケーション行為そのものを不可能たらしめるようなものではない。(P.304)

「文字」は古典ギリシアの哲学者が活躍した頃よりさらに1000年以上前(多分)にシュメールあたりでできていたと考えられています。何かを「記録」すること、それは口に出さない(態度に示さない)かぎり、他者には(あるいは自己にも)伝わらないなにかを「実体化」したものです。木の枝を折って、通り道(帰り道)を知らせる、犬が電信柱や壁におしっこをする、ミツバチが蜜のありかをダンスする、・・・。それは自分がそこにいなくても、死んでしまっても残ります。ラスコーの洞窟絵画が「何のために」書かれたのかはわかりません。残そうと思った「意図」があったのか、あるいは「欲求(意志)」があったのか。それも私にはわかりません。これらの「実体」の中に「意図や意志」を読み込むのは、「描かれた後」のことです。

それらが「心の中」の「観念」を実体化したものだとしても、そう思うのは「行為がなされた後」です。

(声、文字等・・・引用者)それら物理的実体をもったものたちが、言語行為における道具として働くのであり、その点において言葉はフライパンやノコギリとなんら変わるものではない。(P.337)

文は、発話者と発話状況を離れては意味をもたないのである。(P.338)

だが、伝えられるべき「意味」などありはしないのである。言語使用においては、あくまでもその音や文字模様といった物理的実体が道具として働く。それは文という形をとるが、「文の意味」という自律した体系などは存在せず、たんにそれら音やインクの染みに対する標準的使用と変則的使用があるだけでしかない。(P.366)

著者の言う「文」は「音や文字模様」ですから、「文字そのもの」ではありません。しかし、「対象化されたもの」なんだろうと思います。

対象化される、言い換えると言語化(構造化)される前に「伝えられるべき「意味」」は存在しないのでしょうか。

こうした構造化に先立つ所与、という抽象的語彙はアリストテレスの時代、存在しなかった。彼は表現に事欠き、苦し紛れの比喩としてヒュポケイメノン(下に横たわるもの、前提されるもの)という手近な語彙に頼った。

他方、彼は構造化・言語化を指して動詞 κατηγορέω 〔カテゴレオー〕を使った。こちらは前置詞 κατά〔カタ〕(英 toward)と動詞 άγορεύω 〔アゴレウオー〕(アゴラで発言する)の合成型、原意は「アゴラに向かって発言する」。(古田裕清著『西洋哲学の基本概念と和語の世界』P.4)

すなわち、目の前のリンゴやソクラテスなどは、ヒュポケイメノンの述語とはならず、自らがヒュポケイメノンとなる。(同)

「 ὑποκείμενον 」ラテン語で「 subiectum 」、「第一実体、主観、主語」等と訳される語の説明です。もしそういうものがあったとしたら、イギリス人は英語、ドイツ人はドイツ語、日本人は日本語をその手段(道具)として、それを表現することになります。

すなわち、言語行為の意図と文の意味とは相互に依存し合っている。ここで「意味の自律性」を言うことも、逆に「意図の自律性」を言うことも、ともに事実に反しているだろう。(P.340)

「客観的」にも「主観的」にも「伝えられるべき「意味」」を確認することはできません。態度(ジェスチャー)で示すことはどうでしょう。たとえば声を出せない状況で「痛い」ことを示すジェスチャーは、見ることもすることもあるでしょう。これも「声や文字」と同じ「表現」であることには変わりありません。表現する人と、表現される人がいて、「同じ言語ゲーム(ルール、規則、規約、規範)」のもとでその意図(意味)は伝わります。

アスペクト盲には、私の知覚と言語使用を揺るがす他者が決定的に欠けているのである。たしかにそこにはクワス的可能性が排除され、均質化した共同体たる「われわれ」があり、実践における共同体の一致がある。だが、よどみを欠いた一枚岩の言語ゲームという非現実的な幻想は、他者性なき他者を現出させるにすぎない。同じ見方、同じ意味、同じ規範のもとに盲目的に生きる者たちは、かえってその規範の姿を見失うだろう。彼らは他の規範の可能性にたいする感受性をまったく欠いているために、自分たちを特定の見方、特定の意味、特定の規範のもとに生きるものとして自覚することがない。たんに、自分にとってもっとも自然な本能的ふるまいに従っているだけでしかない。

それゆえ、アスペクト盲の地平を「規範の独我論」と呼ぶこともできるだろう。独我論が徹底されることによって自我を消失させたように、規範の独我論もまた、徹底されることによって規範を消失させてしまうのである。(P.169)

普段、つまり「よどみ」がないときには言語化することもあまりないのです。「頭がかゆいな」と言語化して頭を掻くことも、そのために手を上げることもあまりないでしょう。「右足を出して、左足を出して」と言語化しながら歩くのは「リハビリテーション」(P.266)のような時です。

猫の意志・意図を確認することができないように(自分のペットなら分かるという人もいるけど)、それが表現(たとえ脳波や筋肉の動きであっても)されなければ、意味とは呼べないのです。意味や思いは言語化によって存在(存在化、生成)する、と言ってもいいでしょう。そういう意味で、

言葉は何も表現していない、そう言ってもよい。(P.366)

と思います。

「意味の自律性」、私の言葉で言い換えれば「意味が客観的に存在すること」は、それに対応する「心」が自分の中に存在するということです。

(十二世紀・・・引用者)すなわち、人は自分の心を羊皮紙の上に投影できるという考え方、あるいはその世紀の終わり頃ならば、自分の心を紙の上に(中略)投影できるという考え方です。書物のページは、わたしの内部に存するものの指標となりました。(前記『生きる意味』邦訳 P.347)

そうした〔転換の〕結果、自己というものが新たなしかたで思い描かれるようになります。(中略)人と社会の関係性や、人と人との関係性も、テクストという見地からとらえられるようになります。人はコンテクストの中で行為するようになるのです。(同書 P.348)

そうした中で、新たな個人が登場します。それは、われわれが会話の中で、自分とは反対の性を有する個人とコプラ〔繋辞〕によって結べれうる者として語っているところの個人です。ラテン語でコプラとは、主語と述語をつなぐ動詞を意味するのです。

(聞き手・・・引用者)つまり、結婚の契りとは  

コプラのことなのです!

(聞き手・・・引用者)それゆえ、〔結婚の契りとは〕文字文化の概念なのですね。

まさしくそうなのです。わたしたちは契約というものについて、またテクストのイメージについて話しをしてきました。法律の世界では、証書こそが最終的なことば〔権利や義務を保証するうえで最終的に効力を発揮することば〕となります。(同書 P.349)

たしかに声と文字は違います。「文の意味」と「発話の意味」(P.323)も違います。ただ、「意味の自律性」は文字によって成立するのです。「黙読」というのは比較的新しいものです(近世以降。時期は忘れた)。それまでは文字を書ける人でさえ、声に出さずに読むことはできなかったのです。

われわれはけっして、純粋な身体動作を基本的な行為のレパートリーとして学ぶのではない。むしろ環境との呼応の仕方を学んできたのである。腕の伸ばし方を学んでそれをさまざまな状況に応用するのではなく、扉の開け方を学び、握手の仕方を学び、目の前のものを取る仕方を学んできた。紐がなければ紐を結ぶような身体動作は行為のレパートリーにはなっていなかったであろうし、針と糸がなければ針に糸を通す仕草も存在しなかっただろう。新しい道具、新しい環境こそが、新しい身体動作を生み出すのである。(P.218)

身体も行為も環境の一部と捉える、私も同感です。読み書きができるかどうかにかかわらず、文字という文化(道具・環境)が人々の行動も、思考方法をも変えたのです。そして、それによって得たと同時に失われた身体動作・思考方法があることを忘れてはいけません。けっして「進化」や「進歩」あるいは単純に「増加」しているのではないのです。

ただ、いままでになかった環境に適応するために、「学校制度」ができたことや子供期が延長されたこと、そして新しい身体動作が、「自分のため」ではなく「他者(資本・商品・貨幣)のため」になっていることも。そしてなによりも「痛む技術」「生きる技術(ちから)」をどう回復するかを考えなければならないでしょう。

「他者の痛み」、あるいは「自分の痛み」でさえも「感じたり、分かったり」するものではないのかもしれません。「感じたり、分かったり」するということは、それが「客観的に存在していること(自律性)」を前提としていますから。

行為とは、身体と環境とが呼応しあい一体となって作り出すできごとの姿にほかならない。われわれは世界の中で行為するのではなく、世界とともに行為するのである。(P.219)


〈補足〉痛みについて

「お腹が痛い」というとき、痛いのはお腹でしょうか、(自己)意識でしょうか。痛いのは「お腹」です。お腹が痛いときにはたいていお腹を押さえます。頭を押さえる人を見たことがありません(「頭に意識がある」というわけではないけど)。普通の説明は「痛みの刺激が神経を伝わって脳に達し、脳が痛みを意識する」というものでしょう。客観的なもの(刺激・受容体・痛覚・伝達神経・伝達物質や電気信号等)が主観的なもの(意識)に変換されるわけです。あるいは、受容体までを含むめた全身が「意識」である、という人もいます。手が届かないところ、目で見えないところを棒を使って探したり、引き寄せたりするときには、「身体が延長されている」と言うこともあります。

私は生理学の本をよんだこともありませんが、いくつかのことを考えてみたいと思います。

切断した脚(ない足)が痛い(かゆい)ということがあります。これは幻肢痛などと呼ばれるそうですが(切断をした人の60〜80%で生じるとされています)、ない足を押さえることもかくこともできません。さまざまな治療法が試されていますから、たんに「幻覚だ」と思われているわけではないようです。

逆に、痛みを感じない人(無痛症)もいます。なにかにぶつかっても、怪我をして出血していても痛みを感じない人です。痛みを感じる人は、その原因となるもの(机の角や飛んできたボール)を避けますが、それができません。気が付かなければ血が流れっぱなしになります。

この人たちの脳の反応はどうなっているのでしょうか。私は知りません。幻肢痛はきっと脳が反応していて、無痛症の人は脳が反応していないんでしょうね。

極端な例でなくても、「痛みに強い人・弱い人」ということもいわれます(私は医者に「痛みに弱い」と言われました)。寝ているときに怪我ややけどをして、起きたときに「なんか痛い」と思うときもあります。また、切羽詰まった状況や何かに熱中しているときに、痛みや熱さを感じないこともあります。「火事場の力持ち」というやつです。

ちょっと違いますが、知らないうちに鼻血が出ていた、ということはありませんか。鼻をかんだり、ぶつかったり、興奮したわけでもないのに。

イリイチはこう言っています。

二〇世紀の苦の園においては、痛みは異常な介入によって処理されるべき緊急の偶発事件として扱われるのである。

脳によって受け取られた痛みの情報から生じる痛みの経験は、その性質と量において、遺伝的所与およびその刺激の性質と強度のほかに、少なくとも四つの要素、すなわち文化、不安、注意、解釈に左右される。これらのすべては、社会的決定要因、イデオロギー、経済構造、社会の性格によって形づくられるのである。子供が生まれたとき、母か、父か、それとも両方ともに苦しむべきかは文化が決める。状況、習慣が苦悩する人の不安のレベルと、自らの身体感覚への注意を決定するのである。訓練と確信が身体的感覚に与えられた意味を決定し、痛みが経験される程度に影響を与える。(イヴァン・イリッチ『脱病院化社会 医療の限界』P.105)

ちょっとぶつかっただけですぐ泣き出す子供がいます。お母さんが「そんなの泣くほどじゃないでしょ」と怒ります。なかなか泣かない子供もいます。そういう子供は「子供らしくないねえ」と言われたりします。いずれにしても大きくなるにつれて泣く頻度は低くなるのではないでしょうか(歳を取ると逆に涙もろくなったりもしますが)。

痛いところをお母さん(他者)に押さえてもらったとき(いわゆる「手当て」)、痛みが治まるわけじゃないけど、心が軽くなって気持ち(意識)が楽になりませんでしたか。「生気(バイタリティー、エネルギー)」のようなものがあるとは思わないけど。

どこかの部族で、妻などの出産(分娩)の痛みを男が代わって痛んでいるようすを見た記憶があります。にわかには信じられないし、自分がそうできるとも思えません。それでも他者の痛みを想像する、感じることはできます。普通「共感する」と言われることです。

そんなことを考えていると、痛みは客観的に存在するものではないと思えてきます。つまり「痛い(痛んでいる=痛んである)」ということと「痛みがある」ということは違う(全く別次元)ということです。私は戦後の民主主義教育(科学的教育)を受け、唯物論者として「客観的に存在しないものは存在しない」「頭の中(意識)にだけあるもの(科学的に証明できないもの・論理的に明確ではないもの)は存在しない」と考えてきました。それは今でも変わりません。

それでも、絵を描けば「美しい花」ではなく「花の美しさ」を描きたいと思ってしまいます。それをめざすのが「芸術」だと。それができれば、多くの人が「美しい」と思ってくれるはずだから。でも、偶然ではなく意図してそんな事ができるのは天才か、かぎりなく努力した人だけです。それは写真でも同じです。「美しい花」を撮るのではなく、「花の美しさ」や「生命感」を撮ったものが「いい写真」だと言われます。「心や体の痛み・不安」「戦争の悲惨さ・残酷さ」などは「自然の美しさ」「生命の素晴らしさ」等と同様に「撮す(写す)ことができる」ということです。「撮す・写す(あるいは描く、書く)」ということは、「撮される・写される(描かれる、書かれる)」ものがあると考えている、ということです。「目に見える個物(特殊)としては存在しないけど、存在するもの」つまり「変化や運動をしない一般的・普遍的なもの」、つまりプラトンのイデアであり、アリストテレスのエイドス(形相)です(アリストテレスはちゃんと読んでいないので憶測です)。

この「する・される」の関係が「能動・受動」です。これも印欧諸語の文法構造から出てきたものですが、それを日本語に当てはめれば日本語にも「能動・受動」があることになります。それらがプラトンやアリストテレスの頃から「相反(対立)」するものだったかどうかはわかりません(金谷武洋『述語制言語の日本語と日本文化』参照)。ただ、「する・される」主体、つまり「主語」のことを「実体(あるいは質料)」としてアリストテレスは様々な考察をしているのです。「どんな言葉(言語)だって、主語と述語、能動と受動はあるだろう」「どんな文化だって、主体と客体、自我と他我があるだろう」と思うのは「ひとつの神話」です。それが「自ら選びとった神話」なのか「押しつけられた神話」なのかはわかりません。どちらであってもそれに気づくことは難しいし、それを否定することはもっと難しいのです。

「主語・述語、能動・受動」「主体・客体、自我・他我」がない文化があったっていいじゃないですか。どうしても自我を否定できない私は、せいぜいそう考えることくらいしかできないのですが。




[著者等]

1954年、東京都生まれ。1985年、東京大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学大学院総合文化研究科教授を長く務め、現在、立正大学文学部哲学科教授、東京大学名誉教授。専攻は、哲学。主な著書に『論理学』(東京大学出版会)、『心と他者』(勁草書房/中公文庫)、『論理トレーニング』(産業図書)、『哲学の謎』『無限論の教室』(ともに講談社現代新書)、『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』(哲学書房/ちくま学芸文庫)、『哲学・航海日誌』(春秋社/中公文庫)、『大森荘蔵――哲学の見本』『語りえぬものを語る』(ともに講談社/講談社学術文庫)、『心という難問』(講談社)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』(岩波書店)、『言語哲学がはじまる』(岩波新書)、『増補版 大人のための国語ゼミ』(筑摩書房)など多数。訳書に、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)など。



他者の心、行為の意味、コミュニケーションの可能性…。現代哲学の根底に渦巻く数々の謎を、アスペクト論、物語としての意図、言語ゲーム間コミュニケーションなど、独自の視座から考えて考え抜いた著者の哲学的考察。

増補改訂版

他者の心、規範、行為の意味、コミュニケーションの可能性など現代哲学の根底に渦巻く謎に挑んだ名著が帰ってきた!
思索の発展による変更点を補注に付し、現在の野矢哲学への道のりを「その後の航海」として追補した本書は、野矢哲学23年の歩みの軌跡。

【増補改訂版の目次】

増補改訂版のまえがき
文庫版のまえがき
I 他我問題
 1 他者という謎/2 「他人の痛み」の意味/3 大森荘蔵の「他我の意味制作」論/4 フッサールの「他我構成」と大森の「意味制作」
/5 「自我から他我へ」という袋小路/6 逆転スペクトルの懐疑/7 無痛人間の「痛み」理解/8 世界の眺め/9 感覚と知覚/10 身体の人称性/11 知覚因果説の誤り
II 規範の他者
 12 「意味」という幻想/13 クリプキの誤謬/14 根元的規約主義/15 論理の作成/16 言語ゲームと他者/17 アスペクト論/18 反転する世界/19 自己知の謎
III 行為の意味
 20 行為のアポリア/21 身体と環境/22 意図の在りか/23 行為の構造/24 理解と裁き/25 殺害時刻問題/26 行為における身体/27 行為する他者
IV 他者の言葉1
 28 コミュニケーションという行為/29 グライスのパラドクス/30 根元的解釈/31 デイヴィドソンの「墓碑銘」/32 意味と使用/33 常識という神話/34 解釈かゲームか/35 言語ゲーム間コミュニケーション
36 その後の航海
 36-1 思考と言語
 36-2 語りえぬもの
 36-3 行為空間の他者
 36-4 眺望論
 36-5 心の在りか


補注
文献
索引



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4393323014]

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