序
(P.1)_子どもの頃、学校に行きたいと思っていたか。小学校(その前)から塾に行っていたならわからないけど、私は外で遊んでいる方がいいと思った。塾なんかなかったけど。書道教室やそろばん教室はあったかな。
一九七〇年十一月
メキシコのクレルナバーカの国際文化資料センターにて
イヴァン・イリッチ
1 なぜ学校を廃止しなければならないのか
「彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。このような論理で「学校化」( schooled )されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武器の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。」(P.13)
「臨終と死は、医師と葬儀屋の制度的な管理のもとに置かれるようになった。」(P.16)
「そして貧困とは、何か重要な点において一般に考えられている消費の理想的水準に追いつかなくなった(FF)人々のことをいうようになった。メキシコでの貧困者とは三ヵ年の学校教育を受けなかった者であり、ニューヨクでは十二ヶ年の学校教育を受けなかった者ということになる。
貧困者はいつの時代にも社会的に無力だったのであるが、制度的な世話に依存する度合がしだいに高まってくると、彼らの無力さに新しい要素が加わった。それは、心理的な不能とか、独力でなんとかやりぬく能力を欠くとかいうことである。」(P.16-17)
「今日アメリカにおいては、黒人も、また移住者でさえも、二世代前には考えることもできなかっ(FF)たような水準の、専門家による世話を受けることを期待することができる。そしてそれは、「第三世界」の多くの人々には、グロテスクにさえ思えるのである。」(P.17-18)
「しかしこのような面倒みのよさは、彼らをより多くの世話をあてにするようにするばかりであり、彼らに自分たちの地域社会の中で、自分たちの経験と資産をもとに、自分たち自身の生活を組織だてていく能力を、ますます失わせることになるのである。」(P.18)
「中産階級の児童に有利になっている点は、家庭での会話や書籍の豊富さから、休暇中の旅行や自我のうけとめ方の差異にまで及び、これらの機会を利用できる児童にとっては、それが学校の内外において有効に作用するのである。そのため、一般的に言って、より貧しい生徒は、進級や学習を学校に頼っている限り、より裕福な生徒よりも遅れてしまう。」(P.22)
「ラテン・アメリカの児童の三分の二は、小学校の第五学年を終えないうちに学校をやめてしまう。しかしこれらの「脱落者」( desertores )は、それ(FF)だからといって、アメリカ合衆国における「脱落者」ほどには具合の悪いことにはならないのである。
今日では、今なお古典的貧困 安定したもので、近代化された貧困ほどには人々を不能にしない のために悩んでいる国はほとんどない。」(P.22-23)
「つまり、それらの諸国の市民は現実には貧しい生活をしながらも、頭の中には裕福な生活を描くようになったのである。」(P.23)
「すなわち、彼らは学校で教育を受けたことによって、自分たちよりもよけい学校教育を受けた者に対して劣等感をもつようにされてしまっている。」(P.23)
「すなわち一方では合衆国の貧民が、十二ヶ年の世話を受けることによってかえって不能にされており、他方ではラテン・アメリカの貧民はいまだに十二ヶ年の世話を受けることができないでいるということで、世界の諸国の中でもずっと遅れているとみなされるようになる。」(P.24)
「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう。」(P.25)
「なぜならば、うまくいっている学校は、学校での教育を通して両親や生徒にその学校よりももっと上級の学校のもつ最高の価値を求めるようにさせるのであり、誰もが上級の学校へ進学することを欲し、その結果それが稀少なものになるにつれてその価値を獲得するための費用は、比べものにならないほどに増えるからである。」(P.28)
「教育機会を平等にすることは、たしかに望ましいことでもあり、実現可能は目標でもある。しかしこれを義務就学と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである。学校は近代化された無産階級の世界的宗教となっており、科学技術時代の貧しい人々に彼らの魂を救済数という約束をしているが、この約束は決してかなえられることはない。」(P.29)
「すべての人にとって義務であるような儀礼は、あってはならない。」(P.30)__There shall be no ritual obligatory for all.『遺言』P.46。
「しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。(FF)
ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである 両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。」(P.32-33)
「第二言語としてヨーロッパ語をかなり流暢に話せるレベルにまで教えるための費用は、合衆国では四百ドルから六百ドルの範囲であり、東洋語を教えるのに必要な時間がヨーロッパ語の場合の二倍である。それでもこれはニューヨーク市における十二ヶ年の学校教育(これは公衆衛生部門の労働者を採用する際の一つの条件になっている)の費用 ほぼ一万五千ドル に比べれば、非常にわずかなものである。おそ(FF)らく教師だけではなく印刷工や薬剤師も、彼らのような専門職業人の養成には非常に多くの費用がかかるという幻想を一般大衆に抱かせることによって、彼らの職業の利益を保護しているのである。」(P.34-35)
「技能の教師になる可能性をもつ人々が、長期間にわたって不足することは決してないであろう。なぜならば、一方では一つの技能への需要はその社会でその技能が使用されるのにつれて高まるのであり、他方において、一つの技能を使用している人はそれを教えることもできるであろうから。」(P.36)
「免許状をもっている人でなければだめだというように免許状の価値が信頼されているために、技能を教える人が不足するのである。」(P.37)
「つまり学校に通うことを義務づけることは子供たちを教師集団の中に強制的に収容することであり。その結果は疑わしい特権をもったもっと多くのそのような集団を生み出すことになるのである。」(P.40)__学校と軍隊、あるいは収容所との類似。
(P.40)__入学おめでとう!!何がめでたいのか。子供が無事育ったという意味ではめでたいけど。遅刻やズル休みを思えた。朝、お腹が痛くならないかと願った。お兄ちゃんのように早く学校に行きたいなあ、とどれくらいの子供が思ったのか。私は野原で遊んでいる方がよかった。学校が始まると夏休みが待ち遠しかった。夏休みが終わると、冬休みが早くこないかなあ、と思っていた。高校卒業するまでそうだった。大学は違った。
「したがって技能を教授するには、その技能が使われる環境の模擬(シミュレーション)に頼ることができる。しかしながら技能を探究的・創造的に使用することについての教育は、反復的練習に頼ることはできないのである。教育( education )が教授( instruction )の結果であることもあるが、その場合の教授は反復的練習とは基本的に異なる種類のものである。社会にはその社会が蓄積してきた記憶があるが、教育が成り立つかどうかは、その記憶の扉を開く鍵のうちのいくつかをすでにもっている教育者と学習者との関係がどうなっているかに依存している。教育が成り立つかどうかはまた、記憶を創造的に使用するすべての人々が批判的意図をもつかどうかに依存している。そしてまたそれは、探求者とその相手役に思いもよらない問題が突然生じて、知識の新しい扉を開くことになるかどうかにも依存している。」(P.41)
「ブラジルの教師パウロ・フレイレは、このことを経験によって知っている。彼は、成人なら誰でも、もしも最初に判読した言葉が政治的意味をもっているものであれば、四十時間もすれば読めるようになることを発見した。」(P.42)
「技能の交換も、仲間を出会わせることも、ともに次のことを前提している。すべての人に教育を与えるというのは、すべての人による教育をも意味するということである。」(P.49)__Nota Bene!!
「その結果、仕事と余暇が相互に疎外されている。つまり見物人も仕事をする人も同様に、すでに彼らのために準備された決まりきった仕事に適合できる状態になって仕事場に到着すべきだということになっている。製品のデザインに適応することとか、指示や広告の形式に適応することとかは、彼らを彼らの役割にふさわしいものに形づくるのである。」(P.49)
「偶発的な教育は、もはや農村や中世都市で学習がとった形態にもどることはできない。現代人は、彼が周辺的にのみかかわっている多くの構造の中にどのようにして意味を見出すかを学ばねばなら(FF)ないのに対して、伝統的な社会は有意味な構造からなる一組の同心円の集まりに近いものだった。農村では言語、建造物、仕事、宗教および家族の慣習といったものが互いに説明し強化し合いながらならび立っていたのである。その中の一つに入り込むことは、他のものにも入り込むことを意味した。」(P.49-50)
「ほとんどのすべての教育は複雑で生涯続くものであり、計画的なものではなかった。
現代社会は諸々の意識的な構想によってできあがったものであるから、教育の機会もそれらの中に適合するように構想されなければならない。」(P.50)
「私は、彼らの行動を見ていて、百年前にカール・マルクスが児童労働を禁止しようとしたゴータ綱領の中の一説に反対して企てた抵抗を思い出したのである。彼がその提案に反対したのは、若者の教育のためという観点からであった。若者の教育は、仕事をしているときにしか生じ得なかったのである。もしも人間の労働の最大の成果が、彼が労働から受ける教育であり、また仕事から得られるところの他人を教育するためのイニシアティヴをとる機会であるならば、教育的意味における現代社会の疎外は経済上の疎外よりも、一層悪いものなのである。」(P.51)
「義務的な学校の存在そのものが、すべての社会を二つの領域に区別するのである。すなわち特定の時間帯、特定の方法、特定の処置や世話、および特定の専門的職業は「学術的」( academic )または「教育的」( pedagogic )とされ、その他のものはそうではないとされるのであり、このように、社会の現実を二分する学校の特権には際限がない。教育は非世俗的なものとなり、世俗は非教育的なものとなる。」(P.52)
2 学校の現象学
「たとえば子供の保護、選抜、教化、および学習のような、近代学校制度によって遂行されている潜在的機能をリスト・アップすることから始めてもよいであろう。」(P.58)
1 年齢
「そして彼らが自分の分を知り、子供らしく行動することを期待する。自分もまた子供であった時代を思い出してはノスタルジアにふけったり、にがにがしい思いをしたりする。われわれは子供の子供らしい行為に対して、寛大であることを期待されている。人類とは、子供を育てる任務によって苦しめられると同時に祝福されてもいる種族だと考えている。しかしながら、われわれは現在抱いている「子供時代」の概念が、西ヨーロッパにおいてつい最近、アメリカにおいては、さらに最近になってから発達したということを、忘れているのである。」(P.60)
「子供時代はブルジョアジー(市民階級)のものであった。労働者の子供も、農民の子供も、そして貴族の子供も、みな自分の父親と同じ服装をし、父親たちが遊んだように遊び、父親と同等に絞首刑に処せられもしたのである。」(P.60)
「第二次ヴァチカン公会議が開かれるまでは、(FF)一人一人の子供は次のように考えられていた。つまり、キリスト教徒は七歳になれば道徳的判断ができるようになり、自由に行動することができる年齢になったとみなされ、それ以後に特定の罪を犯せば、永久に地獄行きとなる罰を受けるというものである。」(P.60-61)__「第二次ヴァチカン公会議」1962-1965。
「産業社会となってはじめて「子供時代」の大量生産が可能となり、また大衆にも手の届くものとなった。学校制度は、それがつくり出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである。」(P.61)
「つまりマルコスの息子は、まだ子供時代へのあこがれを知るにいたっていないのに対して、ニューヨークの住人の子供は、それを奪われていると感じているのである。」(P.62)
「彼らのうちの多くは、やむをえずその時代を通過しているだけであって、子供の役割を果たすことが全然楽しくないのである。子供時代を経て成長するということは、この子供にとっては自我の意識と社会から課された学齢期を通過する役割との間の非人間的な相克の過程にむりに縛りつけられることを意味する。スティーヴン・ディーダラスもアレクサンダー・ポートノイも子供時代を享受しなかったし、またおそらくは、われわれのうちの多くの者も子供として取り扱われることを好まなかったであろう。」(P.62)__Nota Bene!! 子供を学校に縛り付けて、子供が自殺したとき、その責任は学校や社会にあるというのだろうか。
2 教師と生徒
「学校は、学習は教授の結果であるという公理に基づいて設けられた制度である。」(P.64)
「誰もが、学校の外で、いかに生きるべきかを学習する。われわれは、教師の介入なしに、話すこと、考えること、愛すること、感じること、遊ぶこと、呪うこと、政治にかかわること、および働くことを学習するのである。」(P.64)
「それに対して、中産階級の親たちは、貧しい人々が街で学ぶようなことを自分の子供には学ばせないようにするために、子供を教師の保護に託するのである。」(P.64)
3 フルタイムの通学
「こうして次に、教師は保護者、道徳家、および政治家となるのである。」(P.67)
「現代の学校を基礎にしてリベラルな社会を築くことができるという主張は、逆説的である。個人の自由に関する保護条項は、教師が生徒を取り扱う際には、すべて無視されるのである。」(P.68)__子供だから自由(身体の拘束)を奪われても仕方ない。
「子共に対して、教師は司牧者、予言者、司祭として、儀礼を執行する 彼は案内人であると同時に、教師であり、神聖な儀礼の執行人でもあるのである。」(P.69)__「将来、大変苦労するぞ」。
「学校教育のこの潜在的カリキュラムがあるため、社会は一部の人々に対して行っている差別にさらに偏見と罪とが加わり、また特権をもっている他の人々は優越感を意識しながら、特権をもたない多くの人々に親切にしてやる新しい資格を得るのである。それと同じくらい必然的に、この潜在的カリキュラムは、富める者も貧しい者もを同時に、経済成長を指向する消費者社会へ入会させる儀礼として役立つのである。」(P.71)
3 進歩の儀礼化
「大学は、学習のための資金や人材だけでなく社会的役割を与えることも独占しているので、発見者となる者や、将来その普及者となる者も大学によって選び出される。」(P.74)
「しかし消費者の目標を決めるという大学の能力は、新しいものである。多くの国において大学は、公教育への機会均等という幻想が広がり始めた一九六〇年代にこの能力を獲得したのである。それ以前には、大学は個人の言論の自由を守ったが、個人の知識を自動的に富に変えるということはしなかった。中世において学者になるということは、貧しい者、否、乞食になることさえ意味したのである。その職業がらから、中世の学者はラテン語を学び、農民や貴族、市民や牧師から尊敬とともに軽蔑をも受ける社会のアウトサイダーになったのである。」(P.75)__Nota Bene!!
「現在の大学の機構上の目的は、伝統的な探求とはほとんど関係がないのである。グーテンベルク以来、訓練された批判的探求は、その大部分が大学の「講座」から印刷物に移った。現代の大学は人々に出会(FF)いの場 その出会いは自治的で上からの統制をはばむものであり、焦点があってはいるが活発で計画には縛られていないというものであった を提供するチャンスを放棄し、その代わりにいわゆる研究と教授とを生み出す過程を管理することを選んだのである。」(P.75-76)
「今日学校制度は、有史以来の有力な宗教が共通にもっていた三重の機能を果たしている。それは社会の神話の貯蔵所、その神話のもつ矛盾の制度化、および神話と現実の間の相違を再生産し、それを隠蔽するための儀礼の場所という三つの役割を同時に果たしている。」(P.78)
「歴史上のどんな社会も存続するためには儀礼または神話を必要とした。しかしわれわれの社会ほど、その神話への非常に退屈で費用のかかる入会の儀礼が必要であった社会はなかったのである。また現代文明は、その基本的な入会の儀礼を教育の名において合理化する必要があることを認識した最初の社会である。われわれはまず第一に、個人的学習も社会的平等も学校教育という儀礼によって促進されることはないことを理解しなければ、教育改革を始めることはできない。またそこで何が教えられようとも、義務制の公教育が必然的に消費者を再生産するということを第一に理解しなければ、われわれは消費者社会を乗り越えることもできない。」(P.79)
制度化された価値についての神話
「学校はまた「終わりのない消費という神話」( the Myth of Unending Consumption )を創り出す。」(P.79)
「学校の存在自体が学校教育の需要を生み出すのである。一たび学校を必要とするようになると、われわれはすべての活動において他の専門化された制度の世話になることを求めるようになる。一たび独学ではだめだということになると、すべての専門家でない人の活動が大丈夫かと疑われるようになる。」(P.80)__Nota Bene!!
「実際には学習は他人による操作が最も必要ではない活動である。学習のほとんどは必ずしも教授された結果として生じるものではない。それはむしろ他人から妨げられずに多くの意味をもった状況に参加した結果得られるものである。」(P.80)
一度学校の必要性を受け入れてしまうと、人々は学校以外の制度の必要性をも容易に受け入れるようになる。」(P.80)
「なぜならば、彼らは希望を期待で代用することを教えられたからである。」(P.81)
「教えられる習慣に中毒した男は、自らも神経質に夢中になって教えることのなかに心理的安定を求める。一つの過程の成果としての知識を得る経験をした女は、それを他の人々の中に再生産したがるのである。」(P.81)
価値測定の神話
「自分の人間的成長の測定に他人の標準が用いられることを甘受していると、人々はまもなく自らもその同じ尺度を自分自身に適用するようになる。」(P.81)__他人にも。
「学校において何でも測定するように教育されてきた人々は、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。」(P.82)
価値を詰め込む神話
無限に進歩するという神話
儀礼的ゲームと新しい世界的宗教
「現在では「終わりのない消費という神話」(FF)が霊魂不滅の信仰にとって代わるのである。」(P.87-88)
「学校が子供をこの博打的儀礼に導き入れるということのほうが、学校で何が教えられるかとか、あるいはそれがどのようにして教えられるかということよりも、はるかに重要なことなのである。学校が人々に教育するもの、すなわち人々の血の中に入り、習慣となるものは、ほかならぬゲームそのものなのである。制度に(FF)よる世話を受けることの「終わりのない消費という神話」を社会のすべての人々が信じ込まされていく。このことは、ついには終わりのない儀礼への象徴的な参加が、どの国においても義務的かつ強制的なものとなる事態にまで至るのである。学校は、儀礼の参加者に国際的ゲームに参加するよう指図する。このゲームは、競技の参加者にプレイのできない者、あるいはプレイをしようとしない者を世界の悪者として非難することを義務づける。学校は、漸進的に消費をふやすという神聖なレースに新参者を導き入れる入会の儀礼である。」(P.88-89)
未来の王国 すべての人が期待をするようになる社会
「貨物崇拝といえば私には一九四〇年代にメラネシア群島全体にひろまった一つの祭式が思い出される。それは熱狂的な信者た(FF)ちに、もしも彼らが裸の胴体に黒いネクタイを着けさえすれば、イエス・キリストが汽船でやってきて彼ら一人一人に冷蔵庫、ズボン、およびミシンを運んできてくれると信じ込ませたのである。」(P.90-91)__貨物崇拝 cargo cult 。
「その儀礼は、きびしい労働習慣になじむようにつくられている。その目的は終わることのない消費の行われる楽園を地上に実現するという神話を祝うことである。そのような楽園を地上に実現するということは、不幸な者や財産を持たないものの唯一の希望なのである。」(P.91)
「他方、学校がよび起こした王国への期待は、予言者によるものというよりもむしろ非人格的なものであり、特定の地方だけのものであるよりはむしろ普遍的なものである。人間は人間自身の救世主をつくり出す技師となってしまったのであり、人類が繁栄している限り、進歩する工学を受け入れる者には科学のもたらす無限の報酬を与えることを約束する。」(P.91)
新しい疎外
(P.93)__学校は行きていくのに必要なものではない。「学がなくたって生きていけりゃ〜」
「新しい「世界的宗教」は知識産業であり、アヘンを調達してくると同時に、アヘンに加工を加えることもするのである。そしてその活動は、個人の生涯の中でますます多くの年月にわたるものとなってきている。それゆえ脱学校化は、人間解放のためのすべての運動の基礎なのである。」(P.94)
脱学校のもつ革命の潜在的能力
「自称革命家の多くもまた、学校の犠牲者である。彼らは「解放(リバレーション)」さえも制度をどうにかすることによってもたらし得ると考える。」(P.94)
「われわれ一人一人は、自分自身の脱学校化に個人的に責任を負うのであり、また、われわれだけがそれを行う力をもっている。自らを学校教育から解放しなければ、誰もいいわけができないのである。少なくとも、自らを英国の国教会から解放する人々が現れるまでは、人々は英国王の支配から自らを解放することはできなかったのである。同様に、自らを義務制の学校から解放するまでは、自らを、増加する消費から解放できないのである。
われわれはみな、生産の側からも、消費の側からも、学校教育に巻き込まれている。」(P.95)
「学校は、すべての雇用者の中で最大の雇用者であり、またそうであることを最も気づかれない雇用者である。」(P.95)
「これらの企業は、すべての人々にそれを消費しなければならないと感じさせる仕方でそのサービスを提供する。またそれらの企業は国際的に標準化されており、定期的に、またどこででも、ほぼ同じリズムでのそのサービスの価値を決めなおすのである。」(P.96)__消費しなければならない商品が他にあるか。
「また、医療のサービスに対する支払いが国家と個人のどちらによってなされるにせよ、「医療」の器具一式によって特殊な種類の健康が定義される。」(P.96)
「われわれが今すぐに、われわれの教育学的傲慢さ 人間は神にさえできないこと、すなわち自分を救済するために他人を操作すること、ができると信じていること からわれわれ自身を解放しなければ、人々を全面的にだめにし、かつ絶えず増える性質のある義務教育はその究極の論理を実現することになろう。」(P.99)
「今日の多くの若者の特徴となっている不調和は、認知的なものであるよりはむしろ態度の問題 彼らが最低限我慢できる社会はどのようなものであるかということについてのフィーリング なのである。この不調和について驚くべきことは、非常に多くの人々がそれに耐える能力をもっていることである。
人々が調和しない目標を追求する能力をもっているということは説明を必要とするであろう。マックス・グルックマンによれば、どんな社会もそのような不調和をその構成員から隠す手段をもっているのである。彼は、その不調和を隠すことこそ儀礼の目的であることを示唆している。儀礼はその参加者から、社会の原理と社会の組織の間の分裂や衝突さえも隠すことができるのである。」(P.100)
4 制度スペクトル
「しかし彼らはその際不可避的に生じてくる社会的な結果については考えようとしない。その社会的結果というのは、将来もなお少数の者が特権的にしか利用しできない商品やサービスであり続けるようなものをすべての者が一層強く求めるようになるということである。」(P.104)__南米のブラジルなどでイリイチが実際に見たものだと思う。その商品は、将来低価格化してどんどん下層階級に手が届くかもしれない。つねに遅れて。サービスはどんどん高価になるけど。遥かに見える高層ビルにいつか住みたいという気持ち。ウォークマン、たまごっちなどの互換品。粗悪品。全員が所有するという不可能を求める。負け組意識の埋め込み。物がある貧困と疎外感。
「そしてこれらを「相互親和的」制度( convivial institution )と呼び、制度スペクトルの一番左におくことにした。これはこのスペクトルの両極の中間にも様々な制度があることを示すためでもあり、歴史的に形成されてきた制度が、活動を容易にする働きから生産を組織する制度に移行するにつれて、どれだけスペクトル上の色彩を変えていけるかを示すためでもある。
一般的に左から右へ移動するこのようなスペクトルは、今までに人々やそのイデオロギーの特徴を示すために用いられてきたが、社会制度やその様式を説明するために用いられることはなかった。」(P.105)
「たとえば、刑務所は二世紀ほど前までは、人々が刑の宣告を受けるとか、不具にされるとか、死刑に処せられるまで、あ(FF)るいは追放されるまで人々を留置しておく手段として役立った。そして、ときには、故意に、拷問の一形態として使用された。最近になったはじめて、われわれは、人々を獄舎に閉じ込めておくことは、彼らの性格や行動に有益な効果をもつものだと主張するようになった。だが今や、多くの人々が、刑務所は、犯罪を質、量ともに増加させているということ、そして、実際、それはただの不同調者を犯罪人にまでしてしまうということを理解しはじめている。しかしながら、精神病院、療養院、および孤児院もそれとまったく同じことをしているのを理解している人々は、はるかに少数である。」(P.106-107)
「スペクトルの右端の制度に共通な特徴は、強制参加にせよ、サービスの選択にせよ、強圧的な性格をもっていることである。」(P.107)
「使用されるための制度を運営する規則は、その制度が誰にでも利用しやすくなっていることの裏をかくような乱用をさけることを主たる目的としている。」(P.108)__法律が「国民すべての福祉のため」とうっている制度を実施するために設けられる、規則や政令は、使用の制限を設定する。
「このように相互親和的制度の規則は、その制度をある程度制限するものである。」(P.108)
「そしてその過程の中では、その制度の努力と支出の大部分は消費者に、その制度が彼らに提供する製品または世話なしには彼らは生きていけないと信じ込(FF)ませることに向けられる。左側にある制度は、顧客のイニシアティブで行われるコミュニケーションや協力を便利にするネットワークとなる傾向がある。
右側にある操作的制度の場合は、人々がそれを利用すると、その利用に関して社会的または心理的に「中毒」に陥らせる性質をもつ。社会的中毒というのは、換言すれば規模拡大(エスカレーション)であり、少量の使用が目的とした結果を生じない場合、その処置量の増量を処方する傾向にほかならない。心理的中毒ということは、換言すれば習慣化することであり、それは消費者が生産過程や生産物をもっともっと必要とするようにさせられたことの結果なのである。左側の自己活動的制度は、同時に自己限定的でもある。これらのネットワークは、単に消費の行為を満足と同一視する生産過程とは異なり、それを反復して利用すること以上の目的に役立つのである。」(P.108-109)__Nota Bene!! 自分は要求し消費するだけで、生産に関わらない。体も頭も動かずに消費する。無痛文明。
「それに対して右側にある制度は、学校の場合にはっきりするように、強迫観念に繰り返し用いることをさせるとともに、同じ目的を達成するための他の方法を阻害するのである。」(P.109)__パンやぶどう酒に対する要求があっても、スマホやゲーム機に対する欲求がない社会があった。そこでの生活は、今より満足したものではなかったか。
偽りの公益事業
「公益事業は、人々のコミュニケーションのためにある。ところが高速道路は、制度スペクトルの右側にある他の制度と同じように、生産されたもののためにある。」(P.113)
偽りの公益事業としての学校
「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである。」(P.117)__Nota Bene!! 生きる技術(力)の喪失。
「世界の官僚制度が似たものになるという現象は、このように諸制度が制度スペクトル上の右端のほうに集中したことの結果なのである。コスタリカやアフガニスタンの学校企画委員会までが、学校の様式、等級制度および付属品(教科書からコンピュータにいたるまで)の標準を、西ヨーロッパのそれらをモデルにして定めるのである。」(P.118)__日本も。
「郵便局長は郵便がかなりのところまで利用されても、これを全くコントロールできないし、電話交換手、あるいはベル電話会社の執行部には、姦通、殺人、あるいは政治転覆の計画が彼のネットワークを通して行われたとしても、これを止めさせることはできなのである。
二つの制度的タイプのうち右を選ぶか左を選ぶかという問題は、人間生活の本質に関わる問題である。人類は物質を豊富にもつか、あるいはそれらを使用する自由を豊かにするかのどちらかを選ばなければならない。人類はこれまでの生活様式にとって代わる生活様式を選ぶか、あるいはこれまでと同じ相互に関連している生産の諸計画を選ぶかのどちらかを選択しなければならない。」(P.119)__「X」がそれを行えるとすれば、というより、人がそれを求めるということは、「X」を右に移動させるということ。
「「というのは、行為が製作の一部分でも、製作が行為の一部分でもないのである。『建築術』( techne )は製作の一つの方法であり・・・ものを創る場合その原型が製作者の頭の中にあってその材料の中には存在しないようなものを創り出すことである。製作は常にそれ自身のほかに目的をもっているが、行為はそうではない。というのは、善き行為は、それ自身が目的だからである。製作における完成は芸術であり、行為における完成は善である」アリストテレスが、製作という意味で用いたことばは、” poesis ”であり、行動する意味には” praxis ”ということばであった。制度スペクトルの右のほうに移動することは、制度の「製作する」能力を高めるように制度構造の再編成がなされることを意味するのに対して、左に移動することは、より多くの「行動」( doing )すなわち” praxis ”を許すように制度構造の再編成がなされることを意味するのである。」(P.120)__『ニコマコス倫理学』1140,邦訳 P.190。だけど、見あたらない。
「ウェーバーによれば、余暇は人々が働けるようになるために必要である。アリストテレスにとっては、労働は、余暇をもつために必要なのである。」(P.121)
「時間を過ごす第一の方法は、商品の消費需要を高めるだけでなく、それと同時にサービスの生産需要をも高めるように刺激することである。」(P.121)
「時間を過ごす方法として、第一の方法と根本的に異なる第二の方法は、一方では耐久性のある限られた種類の製品を作り、他方では人々の相互行為の機会を増やし、その行為をより望ましいものとすることのできる制度を利用可能にすることである。」(P.122)
5 不条理な一貫性
「今日なお疑われないままになっている教義のいくつかをあげることはたやすいことである。第一に、教師の監督下に生徒たちが身につけた行動は生徒にとって特別な価値をもつとともに、社会に対しても特別な利益をもたらすという共通の信念がある。この信念は人間は青年期においてのみ社会的人間になるのであり、かつ学校という特別なところで成長しなければ、そのための過程が適切に行(FF)なわれないという仮定と関連がある。」(P.128-129)
「そして、また、若者についてのもう一つの見方がある。それは心理的にはロマンティックで、政治的には保守的な見方ということができる。この見方によれば、社会の変革をもたらす責任は若者に負わせなければならないが、彼らが最終的に学校を出た後にのみ というものである。」(P.129)
(P.129)__フーコーと同じボルヘスの分類の引用。
「教育者と被教育者の関係が供給者と消費者との関係として続くかぎり、教育研究は堂々めぐりをつづけるであろう。」(P.132)
「この枠組みに構文論的に(FF)とって代わるものは教育のネットワーク、すなわち一人一人の学習者が自らの管理下に、自律的に学習用の資金と人材を集めるためのネットワークなのである。教育制度において学校にとって代わるこのような構造がありうることが、今までわれわれの操作的研究では心理的盲点に入っていた。」(P.132-133)
「教育研究においてこれが盲点となっていたということは、テクノロジーによる資源の支配と統制が増えることを、技術が発達することだと誤解してきたわれわれの文化面での偏見を反映していたのである。テクノクラシーの主張者にとっては、個人とその環境との間の接触のしかたについて計画し得る部分が増えるにつれて、その環境の価値が高まるのである。そのような世界では監視者あるいは計画立案者の管理できる選択の範囲が、結局は管理下にあるいわゆる受益者の選択できる範囲となってしまう。そこでの人々の自由は、専門家によってパッケージにされた商品の中から選択する自由という狭いものにされてしまう。」(P.133)__制限された自由、選択の自由は「自由」か。電気を使わない自由、水道を使わない自由などは相当の金持ち(支配者)にしか許されていない。自動車を持たない(持てないではなく)ということは自由か。何かを諦めることによる自由。
「対抗文化は構文論がもつ富をつくり出す能力よりも、意味のもつ富のほうを重要なものと考える。」(P.133)
6 学習のためのネットワーク
「むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。この新しい様式を育てるためには成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造とが同時に変革されなければならないであろう。」(P.136)
「第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代(FF)わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである。」(P.136-137)__フレイレ「銀行型教育」と「課題提起型教育」。
一つの意義、どこにも到達しない橋はいったい誰に役立つのだろうか
「われわれは、学校を政治的、経済的構造に従属する一つの変数として考えることに慣れている。」(P.137)
「つまりどこででも、学校制度は近所の非職業的奉仕活動よりも、専門の制度によって生み出されるもののほうが価値があると思うような消費者をつくり出すのである。」(P.138)
「学校制度がこのように同じであることがわかれば、われわれは、神話集の内容が非常に多様であるにもかかわらず、神話、神話の生産様式および神話による社会統制の方法は、全世界的規模で同一であることを認めざるを得ない。」(P.139)__アメリカもロシアもウクライナも、韓国も北朝鮮も強固な学校制度(義務教育制度)をもっている。イスラム諸国は知らないが。
「世界市場による支配や強大国の政治的支配に抵抗することは、貧しい社会や貧しい国々の能力を越えたものかもしれない。しかし、そうであればこそなおさら、その教育構造のあり方を逆転させることによって、それぞれの社会を解放することの重要さを強調しなければならない。というのは、それはどんな社会でもその資力の範囲内でできる改革だからである。」(P.140)
新しい正式(フォーマル)な教育制度の一般的特徴
「すぐれた教育制度は三つの目的をもつべきである。第一は、誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること、第二は、自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるよ(FF)うにしてやること、第三は公衆に問題提起をしようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやることである。」(P.140-141)
「学校は、次のような仮説に基づいてつくられている。第一は、人生の何ごとにも秘訣があるということ、第二は、人生の質はその秘訣を知っているかどうかによって決まるということ、第三は、その秘訣とは秩序のある過程を連続的にたどることによってのみ知りうるということ、第四は、教師だけが適切にこれらの秘訣を明かすことができるという仮説である。」(P.141)
「事物、模範、仲間および年長者が、学習に必要な四つの資源である。」(P.142)
四つのネットワーク
教育的事物等のための参考業務
「工業の発達によって、人々はその内部の働きについては専門家でなければわからないような人工の所産にとり囲まれてしまった。」(P.148)
「人間がつくりあげた環境が、かつての原始時代の人間にとって自然がそうであったと同様に不可解なものとなってしまった。」(P.148)
「学校は、それらに教育上の道具というレッテルをはることによって、事物を日常生活から取り去ってしまう。」(P.149)
「運動家自身が十分自覚しているように、戦争に似たトーナメントの形式をとる活動は、スポーツの楽しさを損ない、学校の競争的性格を強化するのに用いられる。」(P.150)
「つまり、理論体系は交換可能な原理を基礎にして組織されており、概念の操作はゲームに似た(FF)性格をもっているという事実である。それらは、また簡単で、安価で そして、かなりの程度まで プレイヤー自身によって組織できるものでもある。」(P.150-151)
「あるタイプの性格の子供には人間性を解放するような練習問題も他の性格の子供にとっては人間性を拘束するものとなることがある。」(P.151)
「彼らは、助言を必要とする人々を、助言のできる「年長者」のところに差しむけることができよう。」(P.156)
「われわれは、ユダヤ教の成人式あるいはキリスト教の堅信礼の伝統にもどるべきである。私がこのようなことをいう意味は、若者から公権をうばう(FF)ことをはじめのうちは制限し、後にはそのようなことを全面的に廃止し、十二歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任をもつ人間であると認めることである。「学齢」にある児童の多くは、近隣について社会事業家とか議員などよりもよく知っている。もちろん、彼らは、むずかしい質問をしたり、官僚主義を脅かすような解決策を提案したりもする。」(P.156-157)
技能交換
「非常に多くの人々がもっている技能の大部分について、その技能を実地に示してみせる人が、われわれが必要とする、また、実際にわれわれが手に入れることのできる唯一の人的資源であった。」(P.162)
「安く買えても修理ができないトランジスタ・ラジオが出回り、彼らの仕事がなくなってしまうまで、彼らはラテン・アメリカでがんばっていたのである。かつてのラジオ修理工たちはトランジスタ・ラジオに負けないくらい役立ち、もっと耐久性のあるラジオを修理していた。」(P.164)
「もちろん、技能を公式にテストすること自体が必要であるかどうかが問われる。しかし、私個人としては、他人にレッテルをはることでその人の名声を不当に傷つけることがないようにするためには、能力の検査を禁ずるよりも、むしろ検査のしかたを規制するほうがより有効だと思う。」(P.168)
仲間選び
「たしかに、学校によって子供たちは家庭を離れ、新しい友だちに出会う機会が与えられる。しかし、それと同時にこの過程を通して、子供たちは一緒にされた同年齢の中から友だちを選ぶべきだという観念を教えこまれる。これに対し、若者に、彼がまだ幼い頃から他の人に会い、その人を評価し、あるいはまた他の人を捜し出すなどの魅力を感じさせるならば、彼らに新しいことをするために新しい相手を見つけるということへの関心を一生涯、持ち続けさせる準備となろう。」(P.168)
「技能を教えることは訓練を何度も繰り返すことであり、それゆえそれを最も必要とする生徒を相手にする場合は、実際それだけ一層退屈なものとなる。技能交換を実際に機能させるためには、技能を教える人がその報酬として教育用の通貨を与えられるほかに、それを奨励するための通貨、クレジット、あるいはその他の目に見える奨励物資を与えられることが必要なのである。」(P.169)
「もちろんわれわれは、そのような公的な仲間選びの方法が、電話や郵便がそうであったように、搾取的あるいは不道徳な目的のために濫用される可能性のあることを認めなければならない。それらのネットワークの場合と同様に、何らかの防禦策が必要である。」(P.173)__出会い系サイト。防禦策や宣伝・報道・教育が有効性をもつのだろうか。基本にはそれによる金銭の獲得(経済的なもの)が原因であり、それは社会制度そのものに原因がある。それが変革されるまでの間の防禦策が必要ということか。その対策にかかる費用や労力がそのメリットを上回ることはないのか。目的と手段が矛盾していないか。
「都市の生活を、最小限度生活可能にするだけでも、それは非常に費用がかかる。それに対して都市で仲間選びをするこの仕組みは、市民が官僚主義的な都市のサービスに依存することを打ち破る第一歩となれるであろう。」(P.175)
専門的な教育者
「これまで様々な社会が、これら偽りの教師から自分自身を護るために、様々の措置を講じてきた。すなわちインド人は、そのためにカーストという血統に依存したし、当方のユダヤ人たちは、律法博士(ラビ)に精神的に弟子入りすることに依存した。また全盛期のキリスト教は、禁欲的な徳を模範的に実践する生活に依存し、その他の時期には、聖職階級制の秩序に依存した。今日の社会は、学校の出す証明書に依存している。」(P.183)
7 エピメテウス的人間の再生
「本来のパンドラ、すなわち「すべてを与えるもの」( All-Giver )は、有史以前の女家長的ギリシアにおける大地の女神であった。彼女は、自分の壺( pythos )から、あらゆる悪を逃した。しかし、彼女は、希望が逃げないうちに蓋をしめた。近代人の歴史は、パンドラ神話の堕落からはじまり、自ら蓋を閉める小箱で終わりとなる。それは、はびこっている諸悪の一つ一つを閉じこめようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰(FF)退し、期待が増大してくる歴史である。
これが何を意味しているのかを理解するためには、われわれは希望と期待との区別を再発見しなければならない。積極的な意味において、希望とは自然の善を信頼することであるのに対して、私がここで用いる期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する。希望とは、われわれに贈物をしてくれる相手に望みをかけることである。期待とは、自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している。人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている。
本来のパンドラは、あらゆる悪を詰めこんだ壺を携えて、地上に送られた。よいものといえば、それはただ希望だけを入れていた。原始時代の人類は、この希望の世界に住んでいた。」(P.190-191)__. It is the history of the Promethean endeavor to forge institutions in order to corral each of the rampant ills. It is the history of fading hope and rising expectations.
To understand what this means we must rediscover the distinction between hope and expectation. Hope, in its strong sense, means trusting faith in the goodness of nature, while expectation, as I will use it here, means reliance on results which are planned and controlled by man. Hope centers desire on a person from whom we await a gift. Expectation looks forward to satisfaction from a predictable process which will produce what we have the right to claim. The Promethean ethos has now eclipsed hope. Survival of the human race depends on its rediscovery as a social force.
The original Pandora was sent to Earth with a jar which contained all ills; of good things, it contained only hope. Primitive man lived in this world of hope.(deschooling society) hope=希望、expection=期待。
「ヘシオドスが、古典的な形で再話した頃までには、ギリシア人は道徳的な女ぎらいの家父長となっており、最初の女性を考えるだけで恐怖をきたすようになっていたのである。彼らは、合理的で、権威主義的な社会を築いた。人々は、はびこる悪に対処するつもりで制度をつくりあげた。彼らは、世界を人為的につくり、そしてその世界にサービス それを期待することもまた彼らは学習したのである を生み出させるおのれの力を意識するようになった。彼らは、自分自身の要求や将来における子供たちの要求が、人為的につくられたものによって形成されることを望んだ。」(P.192)
「原始時代の人々は、個人を神聖な儀礼に神話に従って参加させることを通して、社会のならわしや知識を個人に教えていた。これに対して古代ギリシア人は、「パイデア」(教育)によって、前の世代の人々がつくり上げた制度に自らを適応させる市民だけを真の人間として認めたのである。」(P.192)
「人々は、彼らの生活を規定する法律をつくることや、環境をおのれのイメージに合わせてつくることに責任をとった。「母なる大地」によってなされる神話的生活への原始的な導入の儀礼は、市民の教育( paideia )に変えられていった。」(P.194)
「彼らは、運命として与えられた自然環境に挑むことはできるが、そのためには自分自身に危険のふりかかることを覚悟していなければならないことを知っていた。現代の人々は、それをさらに一歩進めるのである。彼らは自分のイメージにあわせて世界をつくり、全面的に人工でつくられた環境を築き上げようとする。しかし、その後彼らは、それはむしろ環境に自分自身を適合させるよう、たえず自分を作りかえるという条件のもとでのみ可能であることに気づく。」(P.194)__まさにそれが「強制的・義務的教育」。無痛文明論。
「ニューヨークの町で、子供がふれるものはすべて、科学的に開発され、作られ、計画され、そして誰かに売られたものなのである。植木でさえもが、公園管理局がそこに植えると決定したから、そ(FF)の場所にあるのである。子供がテレビで聞く冗談も莫大な費用で作りあげられたものである。」(P.194-195)
「欲望と恐怖までもが、制度によってつくり出される。権力と暴力が組織され、運営されている。たとえば、ギャング対警察という具合である。学習自体が、教科内容を消化することと定義される。」(P.195)
「制度が生み出すことのできないものを要求するならば、おろかなことであろう。そして都市の子共は、何らかの制度的過程の開発の可能性を越えたものを期待することはできない。彼の空想力さえもが、科学小説を創作するように刺激される。彼は、「きたないもの」、へま、失敗、に出会うことによってのみ、非計画性にともなう詩的な驚きを体験することができる。溝の中のオレンジの皮とか街の水たまり、あるいは秩序や計画や機械の崩壊などに遭遇することが、創造的に空想するための唯一の出発点となるのである。「ずるけること」が、唯一の手近な詩情となる。
望ましいものはすべて計画されたものなので、都市の子供はやがて、人間は人間のどんな欲求を満足させるためにも、そのための制度を作れると考えるようになる。彼は、過程が価値を創造する力を当然にもつのだと考える。」(P.195)__現在のSFの発想。He can experience the poetic surprise of the unplanned only through his encounter with "dirt," blunder, or failure: the orange peel in the gutter, the puddle in the street, the breakdown of order, program, or machine are the only take-offs for creative fancy. "Goofing off" becomes the only poetry at hand.
Since there is nothing desirable which has not been planned, the city child soon concludes that we will always be able to design an institution for our every want. He takes for granted the power of process to create value.
「すなわち、もしも、月への乗り物が考案されれば、月に行くという需要もまた作り出されるということになる。行くことのできるところへ行かないということは、人々の考え方を逆転させることになるだろう。それは次のような前提、つまりすべての需要はいったん満たされるとその結果として次にもっと大きな需要を生み出すという前提、が愚かなことであることを明らかにするであろう。」(P.196)
「高まりつつある期待」(rising expection )(P.196)
「たえず需要の増大する世界は、単に不幸というだけでは言いつくせない。 それは、まさに地獄にほかな(FF)らないのである。
人は、制度が自分のためになしえないことがあるなどとは考えることができないので、何でも求めるという欲求不満の原因になる力を発達させてきた。万能の機械に取り囲まれながら人間は、自分の道具の道具になりさがっている。」(P.196-197)__熊の檻とサメの檻。自然化した動物園(無痛文明論)。
「われわれの制度は、それ自体の目的を作り出すばかりでなく、それ自身、およびわれわれの生存にも終わりをもたらす力をもっているということである。」(P.197)
「古代の人間は、世界というものが人間の計画によって創られるということを発見した。この洞察を通して、人々は世界というものが本来不安定でドラマティックで、また喜劇的であることを知った。民主主義の制度が発展し、その枠組の中では人間は信頼できるものと考えられた。しかるべき過程から生じた期待と人間性への信頼とは、お互いにバランスを保ってきた。伝統的な専門職業が発達し、それとともに、その活動のために必要な制度も発展した。
制度的過程に依存することがいつのまにか個人の善意に依存することにとって代わってしまった。」(P.199)
「原始人は、何か恐ろしい、ものもいわない絶対的なものを非難するのであるが、旅行者は車の容赦のない論理に畏怖の念をもっているのである。原始人は責任を感じないが、旅行者は責任を感じている。ただ、それを否定しているのである。」(P.200)
「ノイローゼにしてしまいそうなコンピュータや病院で育てられた伝染病、道路であろうと空であろうと、あるいは電話であろうと交通のあるところはどこででも起こる渋滞現象というにがい思いをあまりにも多くの人々が経験した。」(P.202)
「製品を公平に分配する問題は、製品を豊富につくり出すことによって避けることができるという望みは消え去っている。近代的嗜好を満足させ得る最小限のパッケージをつくり出す費用はうなぎ登りに上昇している。そして近代化された嗜好の特徴は、まだそれを満足させもしないうちに時代遅れとなってしまうことである。」(P.202)
「最後に、教師、医者、および社会事業家は、彼らの専門職的仕事が少なくとも一つの共通する側面をもっていることに気づいている。その共通点は、彼らが制度的世話を提供すると、それに対する需要が一層高まっていくということである。しかも、その需要の高まりは、彼らがサービスのための制度を拡充できる速さよりも一層速いのである。」(P.203)__一度やってあげると、一生もっとやらなくてはならない。
「たしかに、お金は、もっとも安い通貨である。しかし、それは、通貨の尺度で測られる効率に関連づけられるときにのみそういえることである。資本主義国も共産主義国も、国家の形態は様々であっても、いずれもドルで表現される費用と利益の比率で効果を測定している。」(P.203)__Money is, indeed, the cheapest currency, but only in an economy geared to efficiency measured in monetary terms. Both capitalist and Communist countries in their various forms are committed to measuring efficiency in cost-benefit ratios expressed in dollars. 「お金」=紙幣?
「人々にその生産物が必要だと思い込ませるために使われた教育費は、その生産物の価格に含まれる。
学校は、人々に現状のままの社会が必要だと信じ込ませるための宣伝機関である。そのような社会においては、限界価値は、どんどん大きくなっていく。そのため、少数の最大規模の資源消費者たちは地球を枯渇させかねないほどの能力を自分のものにしようと競争し、彼ら自身の太りつつある腹をみたし、自己よりも弱い消費者を規律に服させ、自分のもっているもので満足するような人々を無理になくそうとしているのである。」(P.204)
「人々の中には、人間全体の意識の変化について話すことを好む人がいるであろう。この意識の変化によって、最終的には、人間は自然や個人によりもむしろ制度に依存する有機体だと考えられるようになるのである。このように本来の価値を制度化すること、すなわちある処置を行うように計画された過程が、究極的にはその処置を受ける人々に彼らの望んでいた結果をもたらすという信念は、消費者のエートスであり、このエートスがプロメテウス的誤謬の中心的なものである。」(P.205)
「私は、これら希望に満ちた兄弟姉妹たちをエピメテウス的人間とよぶことを提案する。」(P.209)
解説
Ivan Illich: The Deschooling Society. ( Harper & Row, 1970. 1971)
(エーリッヒ・フロム)「「ヒューマニスティック・ラディカルズ」というのは、「人間の本質についてのダイナミックな洞察と、人間の成長と全面的な発展への関心に導かれての根本的な疑いを抱くことである」という。」(P.218)
(相互親和 conviviality 「自由の奪回」1973)「相互親和とは、「産業の生産性とは対立する」もので、「人々の間、および人々とその環境の間での自律的で創造的な交流」のことであり、「一人一人の人間が相互に依存することの中に実現される個人の自由」(同書一一ページ)のことだという。
また「相互親和的社会」とは、「その社会の構成員一人一人に、その社会の中にある道具( tools )を最大限に使用できるような保証を与える措置がとられた結果生じる」もので、そこでの各人の自由への制限は、他の人が彼と平等に自由を行使できるようにするためにのみ課せられる社会だという(同書一二ページ)。」(P.223)
「しかし彼が広い意味で用いる「道具」の一部である科学技術や諸制度には、それが本来の目的を果たすためにはそれに一定の限界(リミット)があるという。彼は現代文明の危機の根源は、諸制度がこの限界を超えて発達したことにあるという。たとえば人間は人間のために働いてくれる機械をつくり、それらを使いこなすための準備教育をする学校を設けてきたが、現実には人間が機械の奴隷になってしまっており、学校は人間が人工的につくりあげた環境に逆に自分自身を適合させるための機能を果たすものになってしまっている。」(P.223)__アリとアブラムシ。とうもろこしが人間を使って繁殖している。見方を変える。しかしそれも主観の範囲内にとどまる。でも、そうやって自我を相対化していくしかないのではないか。共感から共視へ。
「希望」「期待」(P.225)__「希望」、西欧人が言うとキリスト教的に感じてしまう。
「母家長制社会の文化の特徴は、血のつながり、土地へのつながりを強調し、受動的にあらゆる自然現象を受けいれることにあり、愛、統一、平等、平和の原理を重視する。そして人間の生存をこの上なく重視し、人間の幸福を生活の目標とする。これに対して父家長制社会の特徴は、人間のつくったもの(たとえば法律や制度など)を重視し、理性的思考の優越を認め、自然現象を変化させようとする人間の努力を高く評価する。これは進歩の本質とみなされている。」(P.226)__男でないものとしての女、またはその逆。相互補完性。「それは「人間的なもの」という抽象的でジェンダーのない基準でもって偏倚を説明する一つの診断(ギリシア語にいう「区別立て」)の結果としてあらわれる。セックスは、曖昧でない科学用語で議論される。これに対しジェンダーは、解きがたく非対称な一つの相互補完性を表す。暗喩法(メタファー)だけがジェンダーに手をさしのばせるものなのだ。」(『ジェンダー』P.3)「私の提示する二元性では、ジェンダーという非対称の相互補完性が、社会的セックスをなす同質的特性の分極化にたいして対置させられる。」(P.41) In the duality I propose, the asymmetric complementarity of gender is opposed to the polarization of homogeneous characteristics that constitutes social sex. (P.20)対照的=complementarity、対照的=symmetry。ジェンダー同士のあいだの対照的補完性は、非対称的であると同時に両義的である。非対称性は、大きさ、(FF)価値、力、あるいは重さの不均等であることを意味しているが、両義性はそうではない。非対称は相対的な位置を指しているが、両義性は、二つのものが同じものとなって適合することのないという事実を指している。」(P.157-158)The complementarity between genders is both asymmetric and ambiguous. Asymmetry implies a disproortion of size or value or power or weight; ambiguity does not. Asymmetry indicates a relative position; ambiguity, the fact that the two do not congrruously fit. (P.75)「父母」は言語学上の gender 同様、オス・メスとしての「性」ではなく、その文化にとっての女性的なもの、あるいは男性的なものであって、それがイリイチのジェンダー論なのだと思う。日本には日本の(ヴァナキュラーな)ジェンダーがあったはず。あるいは別なものが。
小澤周三、小澤滋子
あとがき
一九七七年八月
訳者を代表して 東 洋
〈終わり〉