哲學概論 西田幾多郎著 旧全集第十五巻所収、1966/04/26 岩波書店

哲學概論 西田幾多郎著 旧全集第十五巻所収、1966/04/26 岩波書店
旧全集版

読んだのは旧全集版。実は岩波書店版の単行本(1953/11/25)も持っているのですが(古本屋で100円)、線引が多くて読む気になれませんでした。ただ、全集版とは異なる高坂正顕氏の後記があるので、それだけでも価値があるかも。

旧漢字仮名遣いです。現代漢字仮名遣いで「西田の哲学入門」なんて名前で出版したら、それなりに売れると思うんだけどなあ。「青空文庫」にいくつかの西田の作品が収録されています。その多くは「新字新仮名」のようですから、著作権の問題はないということですね。

西田の京都大学における講義(明治末から昭和初頭)の講義ノートや聴講者のノートをまとめたものです。とかく難しい西田の本ですが、これは講義ノートですからわかりにくいところはほとんどありません。西田自身の考えを述べているところも、西田特有の用語もほぼありません。それでも、それぞれの哲学思想の理解の仕方などに、西田の思想が垣間見えます。

「哲学史」のように、西洋哲学の思想を歴史的に並べたものではありません。哲学における様々な考え方(〜説、〜論、〜主義など)をそれぞれ対比して、その内容、その利点、その不都合な点をまとめてあります。


当時の大学講義の雰囲気

日本の大学ですから、講義は当然日本語です。ところが頻繁にアルファベットがでてきます。英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語・・・。その学説を述べた著者が書いた(であろう)原語がでてきます。その後に編者の「仮の訳語」が〈〉で書いてあるので特に問題はありませんが、西田はこれをその言葉で講義していたのでしょう。

それをノートしていた聴講生もそれがわかっていたんでしょうから、すごいですよね。私ならそんな講義は10分で退席してしまいます。

西田直筆のノートがデジタルアーカイブとして公開されています。ちらっと見たのですが、原語と日本語が混在しています。日本は翻訳文化ですが、当時はそう何でもかんでも邦訳がでていたわけではありませんから、当然ですね。

外国語はもちろんのこと、旧漢字仮名遣いですら読みたくない私は、今の時代に生きていることを幸せに思わなければならないのかもしれません。


日本語で哲学するということ

日本語しかわからない私は日本語で考えるしかないのですが、どうもその言葉がしっくりしないと感じていました。その一例を挙げてみます。「現実」です。

げん‐じつ【現実】
〘 名詞 〙 ( [英語] actuality, reality の訳語 )
① ( 空想、理想などに対して ) 事実として目の前にあらわれているものごとや状態。また、現在、実際に存在していること。〔布令字弁(1868‐72)〕
[初出の実例]「自分は空想の浜から現実(ゲンジツ)の浜に出た」(出典:波の音(1907)〈国木田独歩〉一)
② ( ━する ) 実現すること。
[初出の実例]「光明より流れ出づる趣味を現実(ゲンジツ)せん事を要す」(出典:野分(1907)〈夏目漱石〉五)(精選版 日本国語大辞典

明治以降につくられた翻訳語ですね。「リアリティーがある演技」などと当たり前に使いますが、「現実的な(現実がある)演技」とはいいません。「現実感がある」なら意味は通じるでしょうが、「リアリティーがある」と同じ意味だとは思えません。「リアリティーがある」というときには「現実じゃないけど」という前提(ニュアンス)がありますから。

「 Realy? 」は、「本当?」「マジ?」くらいの意味ですよね。「真面目に?」「冗談じゃないよね?」「嘘じゃないよね?」とも言えます。「うっそー」とか「うそだろう」とか言うこともできます(それぞれ対応する別の英語表現はありそうですが)。

「リアリズム」は「写実主義」「現実主義」などと訳されます(「真面目主義」という訳はないようです)。この本では Realismus を「実在論」と訳しています。 

確認してませんが、real の re- はラテン語の res (物、事、事実、出来事、結果)でしょうね。だから「リアリズム」は「実際にあるものごと」という意味になるのでしょう。

もうひとつの「現実」の原語「 actuality 」ですが、これはラテン語の actus です。「行為、行うこと、動かすこと」などという意味でしょう。

アリストテレースは一つのものの潜在的 potential な方向を質量と考へ、顕在的 actual な方向を形相と考へたのである。アリストテレースはすべてのものが形相と質量から成立するとした點で、二元論であつたと云つてよい。(P.139、本書からの引用は旧漢字仮名遣いのまま。ただし、旧漢字がない場合や、変換間違いもあるかもしれない。)

「質量 ὕλη (ヒューレ)」は今なら「質料」とするところでしょう。

アリストテレスが使った(つくった)単語は古典ギリシア語で「 δύναμις デュナミス、可能態」と「 ἐνέργεια エネルゲイア、現実態」です。「寝ている大工は大工か」という問いに対して、アリストテレスは「そうだ。寝ているときはデュナミスとして、実際に建築しているときはエネルゲイアとして」と答えます。

その後、potentia と actus はさまざまな変遷をするのですが、「エネルゲイア」は近代において「エネルギー」という科学用語として使われるようになります。それが日常的に「エネルギー危機」などの用語で使われます。これはペルクゼンのいう「プラスチック・ワード」です。

それらはわたしたちの知覚を閉じ込める日常的牢獄である。「エネルギー」「セクシュアリティ」「インフォメーション」のような単語を見ればよい。(ウヴェ・ペルクゼン『プラスチック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』P.32)

西欧人にとっても「エネルギー」という言葉は、「非歴史的」で「自己永続化」する単語なのです。それが日本語になったときにはどうなのでしょうか。

日本にはもともとの言葉(やまと言葉)がありましたが、文字(漢字)とともに仏教文化、中国文化の影響で、様々な仏教用語、漢語が取り入れられました。それらは「ありがたい」「高尚な」言葉です。仏教用語の一部は民衆にも浸透したでしょうが、漢語は「よそ行きの」「あらたまった」言葉です。それは明治以降の西欧文化の翻訳にも使われました。さらに西周を始めとする知識人が「翻訳のための言葉(翻訳語)」をたくさん作りました。それらは漢字が持つ意味を踏まえたものでしたが、日本にはなかった思想(あるいは物)を表現するわけですから、ぴったりとした訳ができるわけではありません。

サンスクリット語の仏典を漢語に翻訳するときに漢字の意味で当てはめたものと、サンスクリット語の音をそのまま漢字にしたものとがあるように、西欧の言葉を日本語にするときにも翻訳が困難だったり、格好をつけたりする時には音訳、つまりカタカナ語を使います。最近のカタカナ語の氾濫は目を覆いたくなるほどです。国会審議でも法律までもがカタカナ語を多用するようになっているのですが、話している本人はそれらの言葉の意味がわかっているのでしょうか。

「現実」や「リアイティ」という言葉は、どうも「地に足がついていない(接地していない)」ように感じるのは私のような年寄だけでしょうか。


科学

「プラスチック・ワード」は科学用語(専門用語)が日常用語化されたものです。西田がこの本で「科学」に言及している箇所をいくつか引用します。

なほ古來、哲學上の概念と科學上の概念が混同され、そのため誤解を招くことが多い。例へば、アリストテレースは「完全な運動は圓運動である」といふ意味のことを云つてゐる。しかしそれは哲學的な意味のもので、形相から出たものは質量に行くと共に再び形相に還る、卽ち圓形をなすといふ意味である。従つてそれを直ちに幾何學上の圓と考へてはならない。  以上要するに、特殊科學は根本原理を前提し、それから出發して事實を説明しやうとするに對し、哲學はかかる根本原理そのものを問題とするのである。(P.23)

まずは哲学上の概念と科学上の概念を混同してはいけない、ということです。物理学は時間と空間(あるいは運動)との関係を調べる学問だとすれば、哲学は「時間とはなにか」「空間とはなにか」を問題とします。物理学では「時間の存在」「空間の存在」は前提されています。美学、経済学、社会学、天文学、自然学、生物学などは特殊な実在を対象とする学問です。それに対して「存在(実在)とはなにか」を問うのが哲学(第一の哲学、形而上学、存在論)です。

たとえば、美学は「美とはなにか」の学問ですが、そこでは「何が美であるか」「何を美と感じるか」が研究対象になるにしても、その大前提に「美というものは実在する」ということがあります。その「美」とは端的に言えばプラトンの「美のイデア」です。何度も引用している小林秀雄の「当麻」、

美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない。(「当麻」『モオツァルト・無常ということ』新潮文庫所収 P.69)

せっかく図書館から借りてきたので、このあとも引用します。

彼(世阿弥のこと、引用者)の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。(同)

小林秀雄がどう思って書いたのかはわかりません。私はプラトンのイデアの全くの否定だと思って読んでいます。肉体(個別・具体)は観念(イデア・抽象、あるいは言語)で捉えられる(説明や理解される)ような単純なものではありません。

そう考えると、「犬」や「猫」などのいわゆる「普通名詞・一般名詞」と言われるものは、イデアに近い気がします。

さらに西田は「真理」を二つに分類します。

大軆眞理と呼ばれるものは大きくは二つに分つことができるであらう。一つは事實の眞理 truth of facts であり、歴史的眞理や自然科學的眞理はこれに屬する。他の一つは永遠の眞理であり、數學的眞理はそれである。(P.63)

「カーネーション」や「徳川家康」は「事実」として存在しています(していました)。点(大きさも長さもないもの)や線(長さがあり幅がないもの)は概念としては存在しますが、現実には存在しません。

卽ち自然科學は、かかる客觀的現實の世界が generalisierende Auffanssung 〈普遍的把握〉を通じて法則化されることによつて成立し、逆に歴史學は individualisierende Auffassung 〈個別化的把握〉を通じて個性化されることによつて成立する。自然科學は価値に無關係に無限に反復され得る法則の樹立を目ざし、歴史學は価値に關わる一囘的な個性の記述を目ざすのである。(P.71)

西田が言う(自然)科学と歴史と数学の差はよくわかりません。少なくとの科学(以下自然科学のこと)が取り扱う対象は現実に存在する(した)ものです。現実に存在するものは、「個別・特殊」なものです。それらはつねに変化したり動いたりします。科学はそれらを「動かないもの・変化しないもの」として捉えるしかありません。ソクラテスのいうように(プラトン『クラテュロス』)、動いているもの・変化しているものは認識(定義)できませんから。あるいは動きや変化も法則化し、一般化します。法則化・一般化で「固定」することが科学の本質ではないでしょうか。固定化することで、それらは「普遍性」を獲得します。

科学は「反証可能性を持たなければならない」(カール・ポパー『科学的発見の論理』、未読)と言われます。それについて私は Wikipedia 程度の知識しかありませんが、実際の反証可能なのは科学者(それもごく限られた分野の)だけです。その壁は日々高くなっていて、いまでは国家プロジェクトでなければ反証は不可能でしょう(国家にとって有益な研究しかなされないということです)。つまり、将来的に反証される可能性を残しながらも、その時点では「真実(被歴史的・固定的・永続的)」なのが科学です。少なくとも庶民にとっては「崇高」で「ありがたい」けど「わからない」ものです。だから「専門家」という「学者」と「庶民」を仲介する(と称した)人が幅を利かせます。「専門用語」がプラスチック・ワードとして「理解されないまま」流通します。


単純化
判斷とは特殊を普遍の中に入れることである、いわゆる抱攝 subsumption である。

ところがその場合二つの方法がある。

一つは、一般が先づ與えられて、その中に特殊をいれる場合、

一つは、特殊が先づ與えられて、そのを纏めるべき普遍がそこから求められていく場合、

である。」(P.29)

私には「演繹と帰納」にしか思えませんが、西田はカントの「判断力」で説明しています。でも、「一般が先ず与えられる」ということがあるのでしょうか。眼の前にいる猫の「タマ」は「タマ」であって「猫」ではありません。眼の前にいる自分の「ママ」は「ママ」であって、「母親」ではないと思います。自分の「ママ」と「舞ちゃんママ」が「ママ一般」であると理解するのはずっと後なのではないでしょうか。むしろ私には「ママ」と「舞ちゃんママ」が「同じママ」であること、いわば「交換可能であること」は一生わからない(わかりえない)のじゃないかと思うのです。「タマ」だって、「猫なら何でもいい」とは思わないでしょう。

最近、それを「交換可能だ」という言説が強まっている気がしています。「タマ」も「ミケ」も「レオ」も「もも」も「猫」だと言ってしまえば、とても単純ですが。

毎朝、この国の「住民」が、その名も「インフォメーション」と呼ばれるあらゆる滋養物にしがみついている。この食事の儀式は、一日中、きまった間隔でくり返される。それは、典礼のように決められた順序でつつがなく進行する。そして、いかなる頭脳も眼も心も理解することのできない終わりのない世界を単純化して、受信者の前に並べるのである。メディアによるニュースの儀式は時間を分析し、情報への尊敬の念をいやましに高める。(前掲『プラスチック・ワード』P.94)

私はジョージ・オーウェルの『1984年』が大好きです(映画版より本のほうが面白い)。それには「ニュースピーク」という国家が作り出した言葉が登場します。

オーウェルは、究極の全体主義国家においては、言語を通してひとびとの思考と感情が操作されると考え、不気味な「ニュースピーク」という言語を夢想した。それは極度に単純化、抽象化された言語、歴史が消去され、合理的規則のみによって支配されたことばの怪物である。(糟谷啓介 藤原書店PR誌『機』2007年9月号、Amazon から引用)

単純なものはとても美しいと感じます。「 e = mc2 」、なんと美しいのでしょうか。「人間はまた一歩神に近づいた」と思った人もいると思います。私も子供の頃からそう思っていました。それが引き起こした悲惨な「現実」も知らずに。

『方法序説』にこんな一節があります。

というのは、それらの一般的原理が私に教えるところでは、人生にきわめて有益なもろもろの認識にいたることが可能なのであり、学院で教えられる理論的哲学の代わりに一つの実際的哲学を見いだすことができ、これによりわれわれは、火や水や風や星や天空やその他われわれをとりまくすべての物体のもつ力とそのはたらきを、あたかもわれわれが職人たちのさまざまなわざを知るように判明に知って、それらのものを、職人のわざを用いる場合と同様それぞれの適当な用途にあてることができ、かくてわれわれ自身を、いわば自然の主人かつ所有者たらしめることができるのだからである。(デカルト『方法序説』 中央公論社「世界の名著」22、P.210)

資本主義の発達に伴う工場の機械化には、職人の技術を分析・分解・単純化・標準化することが必要でした。そのために必要なのが科学的な知識です。それぞれの職人が持っている技術を「知識(知)」として学問のなかに取り入れること、それは職人がもつ「特殊な(個別的な)」技術を「一般化」することです。そのことによって、自然(対象、客観物)を「支配」し「所有」することができる、そう言っているように思います。

ところがデカルトはこうも言っています。

あることを他人から学ぶ場合には、みずから発見する場合ほど十分に、そのことを理解しそれをわがものにすることができないものだからである。(同書、P.215)

実際私自身のことをいえば、もし私が若いときすでに、そののちになって私が証明を求めた真理のすべてを、人から教えられ、それを学ぶのになんの労苦もいらなかったのであったなら、私はおそらくその他のどのような真理をも知るにはいたらなかったであろう。(同書、P.217)

これは前の引用文とは逆のことを言っているように思えます。前掲の小林秀雄の思いにも通じるものがあるのではないでしょうか。「泳ぎは図書館では学べない」と誰かがどこかで言っていました。

デカルトを「我思う、ゆえに我あり」、パスカルを「人間は考える葦である」、ヘーゲルを「正反合の弁証法」と単純化してしまうのはとても楽なことです。同様の単純化は交通標語やスローガン、キャッチコピーなど、現代では至るところに見られます。ヒトラーが単純でわかりやすい(響きのよい)演説を心がけたのはよく知られています(オーウェルのニュースピークの発想もそこから来ました)。

それらの哲学者の書物を読む(もちろん邦訳書。原書を読むのは私は不可能)のは大変なことです。原書を読もうが、翻訳書を読もうが、入門書を読もうが、(なにがしかの)得るところがあるのは同じです。そこに共通しているのは「書かれたもの」だということです。つまり、「文字として固定されたもの」だということです。「我思う」は「実際にデカルトが考えた」「実際に私が考える」こととは全く違います。「タマ」と書いた文字は実在の私のペット「タマ」ではなく、実在から離れた全く別のものです。

「文字にすること(文字化)」は、一般化であり、単純化であり、個別性・特殊性の喪失だということです。成文化された法律などはその典型です。単純化すればするほど「例外」が生じるのです。


ソクラテス・プラトン・アリストテレス

これは補足ですので、読み飛ばしてください。

ソクラテスは著作を残しませんでした。彼も本を読んでいたし、文字や外国語にも詳しかったのですが。プラトンとアリストテレスはたくさんの著作を書いています(残っています)。この文字化が意味するものをソクラテスは批判し、プラトンは(師の教えを理解せず?)イデアまで高めました。それは変化する世の中(ヘラクレイトス)で、何か不変(普遍)なものを見いだす試みです。「変化するものは認識できない」という師の教えを逆説的に捉えたとも言えます。プラトンにとって「書くこと」は認識のために「固定化すること」であり、イデア論の実践です。ポリス(『国家』、未読)というのは、師がそれに従い、その命に従って死んだものです。プラトンは師の有罪判決後(他の弟子とともに)、ソクラテスに「お金を払って国外に逃げましょう」と言います(『ソクラテスの弁明』)。師は当然拒否し、その理由を説明するのですが、その説明をどう聞いていたのでしょうか。

プラトンの頃、その師を殺したポリスは衰退の過程にありました。アテネの貴族の出身であったプラトンはそのことに気づいていたのでしょうか。当然気づいていたと思いますが、アカデメイアを創立し、多くの弟子を集めて哲学を説いていたプラトンは、それを切実な問題としては感じていなかったのかもしれません。

アリストテレスは、プラトンと違って田舎者です。アリストテレスにとって、ソクラテスは見たこともない過去の人でした。プラトンが必死で描いた(文字にした)ソクラテスも、アリストテレスにとっては「現実の人」ではなかったのです。アリストテレスがソクラテスに言及する時、「ソクラテスは人間である」「ソクラテスは教養がある」などの例文であって、とてもクールです。プラトン(プラトン学徒)に言及する時の熱量はありません。その他の過去の哲学者について語るときも、とてもクールで単純化されています。

アリストテレスもイデア(エイドス)を認めます。でも、イデアの前に個物(たとえば質料)がある、少なくとも個物(特殊)がなければイデア(普遍)は存在しえないじゃないかと考えます(イデアのイデア、つまり「神」は別)。個物(個)を大切にするということは、ポリス(全体)よりもその住民(個人)を基本だと考えるということです。そのポリスは、アリストテレスの弟子のアレクサンダー大王によって征服されることになるのですが。

ソクラテスはポリスの中でしか生きられませんでした。プラトンはポリスを普遍なものと見ることで、その崩壊を考えないようにしました。国家(イデア)は変化はあっても普遍なものなのです。普遍なものは作ったり壊したりすることはできません。だから、プラトンは「製作」に対して否定的でした。

逆にアリストテレスは「個物を作ること」を大切にしました。「不動の動者(神)」を認めたうえで、個物同士の関係(相互作用)、生成や消滅も存在すると考えました(「無」は「有の欠除態」あるいは「可能態としての有」としました)。

アリストテレスの『形而上学』を読んでいますが、とても複雑です。私にはほとんど理解できなく、ただ字をなぞっている程度です。理解できないからこそわかるのは、「質料と形相で実在(個物)ができている」などという単純なことは言っていないということです。それは思索の過程そのものを記述している感すらあります。ある事物(単語や概念)を説明する時、「 A の意味がある、B の意味もある、C の意味もある・・・。A の意味では、AA ということがあり、AB ということもある・・・、でも AX というのは間違いである・・・、・・・だから Z の意味ではありえない」。こんな調子です。一つの単語で数章(あるいは一巻)を費やしたり、同じ単語が別の巻で再度考察されたりします(この辺は『形而上学』の成立事情もあるようです。訳者解説参照)。ここで言う「単語」というのは、「犬」とか「天体」とかではありません。第五巻(哲学用語辞典)で挙げられている単語を列挙してみましょう。アルケー(始まり)、アイティオン(原因)、ストイケイオン(構成要素)、ピュシス(自然、実在)、アナンカイオン(必然)、ヘン(一つ)、ポルラ(多)、オン(ある、存在する)・・・。そこには「善」や「美」はありません。「猫」や「天体」などは自然学の対象ですからないのは当然ですが(善は倫理学の対象?)、これらの用語は「イデア」ですらありません。「美とはこういう存在である」ではなくて、「存在そのもの」を考えるのが「形而上学」(後世の人が名付けたのですが)、「第一の哲学(知を愛する)」です。

後世の人々は、たくさんの「アリストテレス注解書」を書きました。それはアリストテレスの著作に基づき、それを「わかりやすく」「理解しやすく」するためでしょう。アリストテレスを単純化しようとしたのです。それは仕方のないことです。アカデメイアにはたくさんの書物がありました(現在は失われたものも多いでしょう)。プラトン以前の著作もたくさんあったでしょうが、その蓄積された「知」をすべて理解し、記憶することは不可能だと私は思うのです。人間の能力には限界があるからです。それは私の理解力や記憶力から推論するしかないのですが、私の何十倍・何百倍・何千倍の理解力や記憶力があったとしても不可能だと思うのです。どんなに能力がある人も、その人はひとりの人間に過ぎないので、同じような能力の人がいたり、あるいはその人の十分の一の能力の人が十人いれば、やはり、その人は全体から見ると「部分」でしかありませんから。部分である人間が全体になれるわけがないのです。

書物(文字)はどんどん蓄積されます。今でいえば「データ」はどんどん蓄積されていきます。それを利用する一つの結晶が ChatGPT です。それは便利だし、普通に正しい(ように見える)答えを出してくれます。どうして正しいように見えるのか、どうしてそれが正しいと認められるのか、などは別として、私が懸念するのは人間が「記憶すること」も「考えること」も機械に委ねてしまうのではないかということです。ロボットやAIの反乱の映画ではなく、人間が自分で作った道具に使われ支配される状況です。苦労して何かを憶える必要もないし、考える必要もない。便利で楽ですが、それが人間の幸せなのでしょうか。何にもせずに寝て過ごすこと、それが生きていることなのでしょうか。「そうだ。それに越したことはない」と思う人もたくさんいると思います。

私は、その思いの背景には学校で「いやいや」覚えさせられたり、「しかたなく」考えされられたりした経験があるのではないかと考えています。そんなことは「辛くて苦しい」だけで、楽しくないですからね。そして身の回りは「便利なこと」「楽なこと」を推める広告で溢れています。「それがあなたにとって幸せなことですよ」と言い続け、それ(商品やサービス)がない社会を「可哀想な社会」とし、さらに「恐怖の対象」と決めつけています。

データが蓄積される社会、進歩し続ける(成長し続ける)社会を「良い社会」「正しい社会」であるといい、古いこと(歳をとることを含めて)は「劣ったこと」だと思う社会、いくら進歩しても溜め込んでも満足することのない社会、つねに渇望しいつも欲求不満な社会、そんな社会で生きる人で幸せを感じるのは「ごく一部の人」あるいは「ごく一部の時間」なのではないでしょうか。


ことば(言語)

(補足の続き)

一つの単語の意味は一つではありません。アリストテレスの複雑さもそこにあります。単語の意味は輪郭を持たず、範囲を持つという意味ではなく、反対の意味すら持ちます。言語を「構造」というよくわからないもので捉え、言語を言語で説明しようとすること、生成文法や論理学やアルゴリズムなどはそれを行おうとするわけですが、それが可能かどうかではなく、その行為がどのような意味を持っているかということが大切です。それはある文化、ある時代に独特なものではないでしょうか。それは現在でも地球上の限られた文化のものであるし、それも限られた時代のものらしいということは想像できます。それが西欧を中心に支配的になったのは200年程度だし、西洋で明確になったのは500年程度、古代ギリシャまで遡っても2500年程度です。人類の歴史、あるいは生物の歴史と比べてもなんと一瞬のことでしょうか。それを「人間らしさ」や「生物進化」、果ては「永遠の真理」などと考えることは、人間の「おごり」と「愚かさ」以外の何物でもありません。

日本語は「状況依存型言語」だと言われます。どの言語でもそうなのですが、日本語(に代表されるような)では、その文や単語の意味がそれが発せられた状況によって決まってきます(完全に決まるわけではありません)。つまり状況に関わりなく存在する文字(プラトン『パイドロス』参照)では意味を伝えにくいということです(だから日本の文学はすごいと思う)。ただ、最近50年の日本語を聴いていると、どんどん文字化しているように感じます。つまり、文字文化が文字にふさわしいように言語と思考を変化させているように思うのです。状況に依存しない、状況から浮いた言葉と思考方法、それは前述のような「一般化(普遍化)」「法則化」「単純化」「論理化」された言語で、「個別性」「特殊性」「歴史性」を失った言語(思考方法)です。

自然科學は価値に無關係に無限に反復され得る法則の樹立を目ざし、歴史學は価値に關わる一囘的な個性の記述を目ざすのである。(P.71、前出)

自然科学(の法則)には個性がありません。自然科学が優先されるにつれて、個性の場所は小さくなります。機械は個性(職人の個人的技術)をまね、そこから個性を捨象することによって成立します。自動車は個人の走る能力を否定します。そこから「平等」という概念も生まれます。平等は、平等であることそのものがいいということではなくて(同じではありえませんから)、個性を否定しようとします。西欧において、個人(デカルトの「我」)から社会へ、世界(自然)へと広がった関係性は、個人(我)の中に縮小されてしまいます(ライプニッツの「ノマド」)。世界は「我」にとっての「他者(汝)」になります。

アリストテレスの複雑さは、印欧語も状況依存型言語である(あった?)ことを表現しています。アリストテレスは当時使われ始めた定冠詞(τὸ, the )を多用します。例えば「ἕν(one、一つ)」を「τὸ  ἕν(the one) 」とすれば「一つであること」という「範疇( κατηγορία 、カテゴリー)」になります。カテゴリアは「述語」という意味でもあります。つまり、アリストテレスの存在論は印欧語の「主語ー述語構造」という文法そのものだということです。これが混乱を招きます。主語と述語を結びつけるものの一つが繫辞(コプラ、コピュラ)です。英語では be動詞(εἶναι, esse, être, sein 等)の存在です。私が中学校で初めて習った英文は、

This is a pen.

「これはペンです」つまり「これはペンである」。でも、

Here is a pen.

は、「ここにペンがある」。上の「 is 」は「である」、下は「がある」と日本語では明確に区別されているのですが、英語を含めた印欧諸語では同じです。「ペンが存在する」というのと「ペンという性質(エイドス)をもつものである」が「 A = B 」という構文では同等なのです。日本語での「これはペンです」という文は、「ペンがある(ペンの存在)」という段階を一つの前提として、次の段階としてそれが持つ性質を「ペンである」と表現します。定冠詞は、その存在とその性質の同等化を表現したものです。「 the one 」と言わなくても「 one 」は形容詞であり、名詞です。「 red 」も同じです。

This flower is red.

は、「この花は赤い」とも、「この花は赤い存在である(赤く存在する)」とも取れます。 

This flower is the red.

といえば、「この花こそ『赤』というものである」という意味が強調されます。これは、

 This flower is (the) Red.

と「大文字」を使うことでさらに強調することができます。大文字はまさに文字文化です(文字文化としては太字や斜体、装飾体などたくさんあります)。

日本語でも、名詞化する接尾辞「さ」「み」「め」「き」などがあります。

美しい -> 美しさ、甘い -> 甘み・甘め、痛い -> 痛さ・痛み、ときめく -> ときめき

なんか定冠詞「 the 」に近い気はします。でも形容詞(品詞というのも印欧語文法から来た言葉ですが)がそのままで名詞と同格になることがあるでしょうか(「本がある・本である」を「本・ある」と言って、状況に委ねることもできますが)。

私は文章を書くときに「です・ます体」を使うようにしています。普段使う言葉に近いものをと思っているからです。それで困っているのは「花は美しい」をどう書くか、ということです。「美しい」のままだと「だ・である体」のような気がするので「花は美しいです」と書いてしまって、違和感を感じます。「美しいです」は「美しい」の丁寧語ではなくて「美しいである」というこです。「ペンです=ペンである」と同じです。つまり「美しい」という形容詞をそのまま名詞として使っているのです。だからといって、「花は美しさです」などというと意味が違ってきます。どう書けばいいのでしょうか。

違和感の原因はそこにあるし、そこに違和感を感じなくなってきているということが、日本語の西欧化だと思います。


純粋経験

昨日、久しぶりに「ゆる言語学ラジオ」を流していました(ちょっとトラブルがあってスマホが使えなくなったので、修復のため何かを流している必要があった)。昔聞いていたときと違って、とても専門的になっていて、内容は全然解らなかったのですが、「言語は何のためにあるのか」という話になって、ゲストの先生(チョムスキアンらしい)は「コミュニケーションのためにあるのではなくて、思考のためにある」と言っていました。本気か、ノリかはわかりませんが。

私は「文字文化」に侵されているので確実ではないのですが、他の人はどうなのでしょう。ほかの文化ではどうなのでしょう。言葉で考えて行動しているのでしょうか。普段、行動(頭を掻くなど体を動かす)時には99.99%言葉は必要ありません。なにかに迷っている時、「どうしようか、右に行こうか左に行こうか」などとドラマのように頭の中で言葉で考えていますか。よくわかりません。なぜなら「考えている(迷っている)自分」を「客観的に見ている(考えている)自分」が存在しないからです。あとから「右に行こうか左に行こうか迷っていた」と考えることはできるのですが、それは「考えている自分」そのものではありません。西田は言います。

自己は自己の對象となることはできない。自己の對象となるものは自己ではない。(西田幾多郎「四 デカルト哲學について」『哲学論文集 第六』所収、旧全集第十一巻、P.148)

自己は自己自身を見ることはできない、眼は眼自身を見ることはできないと一般である。然らばと云つて超越的に佛を見ると云ふのではない。さう云ふものが見られるならば、それは妖怪であらう。(西田幾多郎「二 場所的論理と宗教的世界観」『哲学論文集 第七』所収、旧全集第十一巻、P.424-425)

この主体と対象との関係を西田は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で言おうとしたのではないでしょうか。この主体( ὑποκείμενον )と客体との関係は「基体(実体)と形相」「主語と述語」の関係です。

(・・・)実体というのは他のいかなる基体〔主語〕の属性〔述語〕でもなくてそれ自らが他の述語〔属性〕の主語〔基体〕であることころのそれであった。(アリストテレス『形而上学』1029a、旧全集12巻 P.209)

ここでの属性の原語はなんだかわかりませんが、属性は πάθος (パトス)でもあります。つまり受動(態)で、 ποίησις (作ること)や ἑνέργεια (現実化)、つまり能動(態)に対応するものです。ただ、当時は受動態と中動態がまだ混在していたので、現在の意味での「する・される」というものではありません。中動態は、「する」でも「される」でもなく、「そういう状態になる(ある)」くらいの意味でしょうか(「なる」と「ある」の関係は前述の「可能態」と「現実態」の関係だと思います)。日本語で「雨が降る」は「雨を降らす」でも「雨に降られる」でもありません。それと似てるかもしれません。

「考える」でも「考えられる」でも「考えさせる」「考えさせられる」でもない主体(自己)と客体、「考えさる」「考えてしまう」でもなく、単に「考える」。そんな主体を考えた時、それはもう主体(自己 = ego = 近代的主体のこと)とは言えない気がします。これを西田は「純粋経験」と表現します。

純粹經驗の狀態では主觀と客觀とは全く一致してゐるのである。否、いまだ兩者の分裂がないのである。例へば自分が物を知覺してゐる時の精神狀態のやうに、唯ある性質をもつた經驗があるのみである。見てゐる自分もなければ見られる物もない。(P.188)

併しデカルトでもアウグスチヌスでも、 cogito, ergo 〈我考ふ、故に〉といつて law of causation 〈因果の法則〉に由つて sum 〈我あり〉を推論したものならば、眞に直接の眞理とはいはれぬ。眞の直接經驗の事實は、我がそれを知つてゐるのではない。我が知るといふのではなく、ただ知るといふことがあるだけである。否、知るといふことがあるのでもない。赤ならばただ赤といふだけである。これは赤いといふのも既に判斷である。直接經驗の事實ではない。直接經驗の事實は、ただ、言語にいひ現すことのできない赤の經驗のみである。赤の外に「知る」とか「意識」とかいふことは不要である。赤の赤たることが卽ち意識である。(P.180)

「思考のために言語がある」とすると、言語化する前のものを想定しなくてはなりません。それを日本語や英語にするわけですから。例えば「痛い!」「 Ouch! 」と言語化する前の「痛み」(「赤い」と判断する前の「赤」)のようなものです。「右に行こうか左に行こうか」という「考え」も日本語や英語にする前の状態があり、それを日本語で表現するのではないでしょうか。だとすると、言語は思考活動そのものではなく、それを表現する道具(手段)でしかないということになります。

言語化(構造化)する前の「何か」もアリストテレスは「第一実体(あるいは質料)」と呼びました。それを言語化するのですが、この言語化(構造化 κατηγορέω カタゴレオ)をするための要素が「質」「量」などの十種類の「カテゴリア κατηγορία 」つまり「カテゴリー、範疇」です。私の感覚としては、「何か(痛み)」が「言葉(範疇)」をまとって現れる、という感じです。質料と形相の関係も「質料が形相をまとう(アリストテレス的には、形相が質料をまとう)」という風に解釈しています。

言語がコミュニケーションのためにあるとしても、そこに言語化する前の「伝えたいもの」があるはずです。「痛い」とか「好きです」と言う前の「痛み・痛さ」や「好き」です。それを「言語化」あるいは「構造化」したものが言語です。この過程は「思考するためにある言語」と同じではないでしょうか。ただ、コミュニケーションでは「相手(他者)」が必要です。違いはその「現実態(言葉)」が相手に伝わったとき、相手はその言葉の中にある「何か(痛み)」を可能態にもどし、自分の中にある「何か(痛み)」として取り出す必要があるということです。今の言葉でいえば「エンコード・デコード」でしょうか。この構造化の規則が違うとき(日本語か英語かなど)それを取り出すことができません。

他人の意識は直接に知ることができぬといふが、リップスいふ様に、他人の意識を知るのは Analogie 〈類推〉ではなく Einfühlung 〈感情移入〉である。自己の客觀化に由るのである。我々は反つて自己の表現を知らない。(P.182)

この「自己」は、上記の「自分の中の何か」「言語にいひ現すことのできない」何かでしょう。

その自分が「昨日」も「今日」も「同じ」だと考えるのが「アイデンティティ(自己同一性)」です。

昨日の意識と今日の意識の連結を許すならば、之と同一の意義に於いて自他の意識の連結を許さねばならぬと思ふ。

それで意志が内容的に結合せられれば、一の意識といふことができるのである。我々は普通に意識を時間空間によつて区別して考へて居るが、意識は時間空間によつて頒かつべきものでない、又之に由つて結合すべきものでもない。(P.183)

「べきものではない」と言われても、やっぱり「自分と他者はちがう」「他人のことはわからない」「自分のことはわかってもらえない」と思ってしまいます。自分が「主体」で、他者などの自分以外のものは「客体(対象)」だと思ってしまいます。それは何が原因なのでしょう。

我々の意識の始、卽ち生まれたばかりの子供の意識は全く純粹經驗の狀態である。コンディヤックのいつたやうに、單に光の感覺だけである。此時には固よりまだ主觀と客觀との別はないが、經驗の發展するに従ひ、經驗と經驗の中に種々の矛盾衝突を生じて來る。これが主觀と客觀との分離の本である。(P.191)

かういふ風に經驗の中に衝突が起こつてくると、主觀と客觀との区別がこれから起つてくる。卽ちその中に比較的大きな強い經驗が客觀的となるのである。(P.193)

その分離は必然的なのでしょうか。

經驗の變化といふことは不可説明的であり、直接的である。反つてヘラクレイトスが云つたやうに、變化が實在の眞相である。唯この純粹經驗の中に、一つの個軆的中心ができると、之より統一するものとせられるものとの区別に由つて、能動的と受動的、主觀と客觀などといふことがでてくるのである。(P.187)

我々に客觀性の感情を與ふるものは、經驗論でいへば經驗の事實であり、合理論でいへば論理的必然性である。先づ經驗論の方から考へてみると經驗論の方で或る知識が客觀的価値を有つといふことは經驗の事實に合ふといふことである。而して經驗の事實といへば此の純粹經驗の事實の外にないのである。(P.189)

ここには歴史的〔近代的〕思考と、特定文化的〔ギリシア的〕思考が同居しています。つまり、時間的空間的に限定された思考です。西田がいう「限定」はアリストテレスでいえば可能態が現実態になるということでしょう。何かを表現する(した)時点で、時間的(時代的)・空間的(地理的)、つまり「個別(個性)的」にならざるをえません(イリイチはこれを「ヴァナキュラーなもの」と呼びます)。ただ、それを認識しているかどうか。認識せずに表現すると、その表現(言説)は「普遍性」を帯びてしまいます。

普遍性を帯びた言説(「科学的」というのがその現代における衣装、それは「宗教的」だったり「政治的」だったりします)は、(他者がある文化であれば)他者に強制されます。西田の言説を普遍的に「正しい」と解釈したとき、たとえば他者との関係を「つながつている」「もともとひとつで、分けられないんだ」と言ったとき、それを拡張すれば動植物と人間(としての自己)も同じだということになります。それは「人類みな兄弟」と同じで、それが民族主義に容易につながることは想像に難くありません。それは「なにも言っていない」のではなくて、(その時代その地方の)体制(支配者側)の言説です。戦後、西田(京都学派)の言説が帝国主義的・全体主義的だと批判されたのは、批判する側も含めて西田の言説を普遍性の視点(正しいか誤っているか、正義・善か悪か)から眺めているのです。

西田は最新の物理学や数学の知識も豊富に持っていました。アインシュタインの相対性理論・ミンコフスキーの時空論や、カントールの無限集合論などその知識は私を遥かに超えているものです。そのうえでこう言います、

完全に數學化された物理學は、もはや物理學とは云へないのではないか。少なくとも、經驗的事實と呼ばれるものには、火は熱い、水は冷たい、といつた類の知識が根柢にあらう。(P.65)

物理化學的の説明にしても、同一の事實を別の言葉に譯したまでのことである。(P.187)

物理學といふものは主觀的である。客觀的實在を理解する Symbol にすぎない(ブートルー)。

我々の動かすことのできぬ客觀的實在は純粹經驗の事實である。機械的法則は客觀的であるといふが、やはりこの事實で檢證せられるのである。縦し我々を離れて獨立の客觀的實在があるとしても、之を知るのは此の經驗の事實を通じて知られる外はないのである。(P.189)

物理学は主観的?「主観・客観」という対立関係を「普遍的」であると捉えたときには、「客観的なものは主観的ではない(逆に主観的なものは客観的ではない)」という「排中律(無矛盾律)」が成り立ちます。でも、この「主観・客観」という関係が時代的・地域的に限定されたものだと考えるなら、それ以外の考え方もありえます。思考は言語と同じ一つの文化です。今の社会(法制度、政治体制、経済制度、学校制度)に批判的な人が、「物理学(科学)の客観性」に疑問を抱かずに普遍性を信じているようなこと自体に西田は疑問を感じているのです。

アリストテレースは主語の側に超越することによつて實軆に達しやうとした。しかし判斷はすべて主語と述語からなり、A is B の形をとる。してみればアリストテレースのやうに主語の側卽ち個物の側を重んずるだけではなく、述語の側卽ち一般者の側も省みられなければならないであらう。アリストテレースの實軆の定義に倣つてそのことを考へれば、「述語となつて主語とならぬもの」がある筈である。それは絶對に述語となつて主語とならぬものであるから、更にそれを他の述語で規定し得ないもの、卽ち絶對無であらう。私はこのやうにアリストテレースを逆にし、述語の側に超越することによつて同時に主語の側に超越することもでき、そこに眞實在に觸れ得ると思ふのである。(P.171)

これは「述語制言語」にも通じるものです。「西田幾多郎は哲学者である」「西田幾多郎は日本人男性である」など、「西田幾多郎は〜〜である」の「〜〜」について、「〜〜は・・・」と言えないもの、それはすべてを含むか、なにも含まない形相です。つまり、それは「言語化できないもの」「言語化する前のすべてのもの」です。それを西田は「絶対無」つまり「すべてでありかつなにもない」ものだと言うのです。まさに「色即是空空即是色」です。

生命に於いては、主軆が環境を、環境が主軆を限定し、主軆と環境との相互限定として、世界が自己自身を形成すると考へられる。それは時間卽空間、空間卽時間的に、一が多に於いて自己を有つとともに多が一に於いて自己を有ち、内が外、外が内に、世界が自己自身を映すことによつて自己自身を形成する、形が形自身を形成すると云ふに外ならない。かゝる軆系を創造的と云ふ。(西田幾多郎「一 物理の世界」『哲学論文集 第六』所収、旧全集第十一巻、P.20)

これは生命について述べたものですが(生物と無生物については別稿に書きます)、西田らしい文章です。「絶対矛盾的自己同一」の世界です。


線が線でなくなること(補足)

先日録画していた『日曜美術館』(2023/12/3放送)を観ていたら、漫画家のしりあがり寿さんが、「線の目的は、線を見せなくすること」だと言っていました。線で「鼻」を書いたり「顔の輪郭」を書いたとき、それは「鼻」や「顔」を見せるためのもので、そこに「鼻」や「顔」を見ることができる絵では線は存在しなくなるのです。文字も言葉も同じでしょう。文字や言葉も「何か」を表すためにあるのであって、その「何か」を取り出せるような文字や言葉では、「何か」を取り出した後には「文字」や「言葉」としては存在しなくなるのです。

言葉が感情や感覚そのものを表すことは不可能でしょう。それが可能かどうかではなくて、現実にそうであること、それが翻訳の可能性であり、対話の可能性です。

自我になる前の「私」、主体になる前の「私」があるかどうかはわかりません。それを言葉で表すことはできません。言葉にした途端にそれはなくなってしまう(別のものになってしまう)からです。でも、それが他者に伝わるという現実、あるいはそれを自覚するという現実はあります。


主客分離の文化
ギリシャに於ては、眞の個人の自覺と云ふものはない。プラトンの哲學には、個と云ふものがない。アリストテレスの個も、意志的ではない。無論、印度に於ては尚一層個人の自覺と云ふものはない。(西田幾多郎「二 場所的論理と宗教的世界観」『哲学論文集 第七』所収、旧全集第十一巻、P.428)

そこには「自覚した自己」としての「主体」はなかったと西田は言うのです。

主語=述語構造でない言葉(それは述語制言語でもない)があるとすれば、それは文字を知る前の幼児の言葉のように純粋であり、かつ豊かなものなのではないでしょうか。それは生(なま)の特殊(個別)の文字化されないような言葉です。経験としての言葉、能動でも受動でもない感覚・純粋経験としての言葉です。それは音となり、さらに文字になることによって、その感情的で純粋な要素が薄れていきます。その言葉が論理的・数学的なものとなったとき、そこから感覚や感情は完全に失われてしまいます。その言葉は「冷たく」聞こえます。論理は「ロゴス」です。つまり「言葉」でした。それが「論理」や「理性」になり、幾何学と結びついて「数学 μαθηματικὴ 」となります。「 μαθηματικὴ 」はピタゴラス学派が「学課」「学ぶこと」としたもので「数」という意味はありません。「理性」はラテン語で「 ratio 」つまり、「比率」です。これらがどうしてロゴスと結びついたのかはよくわかりませんが、当時のギリシアの家父長制度、奴隷制に基づいたポリスの市民(つまり奴隷ではなく、自由な人々。哲学者もそれ)が思索したり討論(弁論)したりしていたことと関係しているのでしょう。

ソクラテスの哲學もギリシャ時代に於て懐疑的自覺の立場に於て始まり、自己自身を限定する實在の原理はプラトンのイデヤに於て把握せられた。しかしギリシャのポリス的世界の時代に於ては、いまだ眞の個人的自覺と云ふものはなかつた。それは働くものの世界ではなかつた。(前出「四 デカルト哲學について」、P.156)

「働く」というのは、「労働する」ということだけではなくて、「相互作用」という意味も込めているのでしょう。

中世に於て人格的に自覺した歴史的實在の世界は、さらに自然的自覺を求めて來たとも言い得る。我々の自己は、そこに深く自己自身の根柢に返つて、新たなる實在の把握を求めた。これがデカルト哲學の課題であつた。(同書、P.157)

コギトー・エルゴー・スムと云つて、外に基軆的なものを考へたとき、彼は既に否定的自覺の途を踏み外した、自覺的分析の方法の外に出たと思ふ。(中略)我々の自己自身を、デカルトの如き意味に於て一つの實軆と考へるならば、それに於ての内的事實として、いわゆる明晰判明なる眞理も、主觀的たるを免れない。(同書、P.158)

矛盾的自己同一なる我々の自己の眞の自覺から、對象認識の方向へ行くと云ふことは、必ずしも論理的必然ではない。そこには西洋民族の主觀的性向が潜んでゐると云ふことができる。(同書、P.174)

「主体的性向」が古典ギリシアで明確になった「自己」そして「主体と対象」を、デカルトにおいて「内的事実である自我と外部の対象」「実体としての自我」にしたのです。

でもそれは西洋民族における事実であって、「論理的必然」ではありません。

ギリシャにはギリシャの論理があつた。日本には日本の論理がなければならない。(同書、P.188)

これを「国粋主義」と捉えるのは行きすぎでしょう。日本には日本独特のものがあると言っているだけで、「日本西洋よりも優れている」と言っているわけではないですから。「ヴァナキュラーなもの」だと言っているのです。西田にそういう傾向があるのは否定しませんが、これが書かれた当時は日本の敗戦が濃厚になってきた頃です。そしてその情報は西田にも(多分、日本全国に)届いていました。

私は主客の分離は「経験相互の矛盾」というよりも、主客の分離を前提にしている特殊な社会狀況でのみ、その分離はあると考えています。中世日本(この呼び方も西欧を真似たものですが)、いや中世のヨーロッパも、近現代でいう主客の分離した社会とは違ったと思います。デカルトの「コギト(『方法序説』はフランス語で書かれているので " Je pense "の" Je "ですが)」が近代的自我だと読むのは、むしろ近代的自我を持っている人です。子供期の延長が「青春時代」をつくり、それが「思春期」や「反抗期」を作りました。それが近代的個々人の「自我の目覚め(自覚)」です。自我は「必然的」に形成されるようなものではなく「学習」されるのです。強烈な反抗を伴ってですが。

その反抗も「制度的に」抑えられつつあります。六〇年安保、ベトナム反戦運動、学生運動、七〇年安保、反原発運動、暴走族、闇バイトと若者の反抗が変わってきています。それは社会の問題だとして「社会(文化)」に向けられることから、「個人」の枠の中に収められてきています。それはあくまでも「個人の問題だ」と言われるようになりました。「自己責任」であると(その対策は「自助」)。


明晰さ

「ポチ(犬の名前)、おいでおいで。」

この文(文字でも言葉でも)がわかる(あるいは真か偽かを判断できる)のは当たり前でしょうか。私がハッとした映像がありました。どこかの国の少女が何かを言っている映像です。その言葉は全然わかりません。するとしっぽを振りながら犬が少女に近づいてきました。そうか、犬を呼んでいたんだなあ、と思いました。私には解らなかったけど、犬にはわかったのでしょうか。上記の文も日本語を知らない外国人にはわからないのです。

それは言語の問題だけじゃなくて、「犬」や「桜」などが「明晰判明」にわかるというのは単なる思い込みで、実際は学習(経験)したからにほかなりません。

あらゆる能力は、その或るものは生得的な能力、たとえば感覚のごときであり、或るものは習性によるもの、たとえば笛を吹く能力のごときであり、或るものは学習によるもの、たとえば諸技術上の能力のごときである。そしてこれら諸能力のうち、習性による能力または理性による能力をうるためにはそれに先立つ現実的活動が必要であるが、このようなのではない能力や受動するもののそれにおいてはそれを必要としない。(アリストテレス『形而上学』1048a、邦訳 P.299-300)

では「犬という言葉がわかる」とはどれに当たるのでしょうか。わかりませんが、「生得的な能力」でないことは明らかです。アリストテレスは「犬という形相(エイドス、イデア、現実態)」があって先にあって、それが「個々の犬という質料(可能態)」に宿ると考えているということです。

どうも私の感覚としては、「現実態」が眼の前にあるもの、「可能態」がまだ自分の頭の中にだけあるもの、という気がしてしまいます。それがはじめに書いた「現実」という言葉の根無し感と結びつきます。逆にその根無し感がある内はまだ大丈夫なのかなあ、とも思います。これが「明晰判明 clare et distincta 」になってしまえば、つまり「当たり前」になってしまうことのほうが恐ろしいのです。

アリストテレスは「形相 = 現実態 => 質料 = 可能態」などという単純なことは言っていません。形相と現実態は全くちがう概念なのです。それが使われる場面に応じて、この等式は変化します。

A is ◎, B is △.

が、別の場面では

B is ◎, C is △.

となります。しっかり読んで、ちゃんと整理しなければならないなあ、とは思っているのですが、私にできるかどうか。

形容詞や動詞などを名詞化したり、その逆を行うことはどの言語にもあるでしょう。日本語でも「バズる」とか「バズり」とか簡単です。「美しい」を「美しさ」と名詞化したときに、「美しさがある(有る、存在する)」と感じてしまうこと。そう感じること自体が西洋化(西洋文法化)した思考のような気がします。「名前があるんだからそのものもあるんだろう」というのは唯名論です。

理性的概念的に知られたものが眞實在であるとした。こうした立場の人々を Realist 〈實念論者〉と呼ぶ。それに對し、他の一方の論者は、 particularis 〈個別的〉なるものが眞に存在するものであり、普遍者とはそれから抽象されたもの、云はば單なる名前にすぎないとした。かゝる立場の人々を Nominalist 〈唯名論者〉と呼ぶ。そして中世哲學の長きに亙つて實念論者と唯名論者が論爭を續けたのであるが、それが「普遍者論爭」と呼ばれるものなのである。(P.116-117)

名詞 noun は ラテン語の 「 nōmen (名)」、英語の「 name 」です。プラトンは「動詞(述べ言葉 ῥῆμα )」と「名詞(名指し言葉 ὄνομα )」についてこう言っています。

一方は、さまざまの行為に対応してそれを表示するものであり、これをわれわれは動詞(述べ言葉)と呼んでいるはずだ。(中略)これに対して、行為しているその当の者たちに対応してつけられた音声による表示記号は、名詞(名指し言葉)と呼ばれる。(プラトン『ソピステス』262、旧全集 3、P.147)

この名詞と動詞がつながって〈言表〉ができて、真偽の判断ができるようになるということです。 これはパルメニデスの「あるはある、あらぬはあらぬ」という議論に対する反論として語られているのですが、たとえば「馬」と「走る」を結びつけて、「馬が走っている」、別の日本語で言い換えれば「馬が走って有る」ということが真か偽か、と問うたときに実際に馬が走っていれば「真」、走っていなければ「偽」になります。アリストテレスなら「馬は走る能力(可能態)があり、走っている状態は現実態、いま走っているかどうかは偶有性」などとなるでしょう。

日本語における「いる(有る)」は、印欧語の能動や受動ではありません。性質あるいは「状況」を表しています。それを「存在」だと思うのは、やはり印欧語の繫辞(コプラ)の影響だろうと思います。「UFOという言葉があるんだからUFOはいる」「幽霊という言葉があるんだから幽霊はいる」「美しさという言葉があるだから美しさはある」というのは、「である・がある」の混同です。これらの言表が「真か偽か」という議論は西欧においても日本においても昔からあったでしょう。でも、その意味するところは同じではないのです。

「言葉があるんだからそのものもある」は「言葉があるからそのものはなければならない」「あるはずだ」「あるかもしれない」は、「ないことの証明の不可能性」であり「反論可能性」でもあります。

いま「100分de名著」は福岡伸一さんが講師で『ドリトル先生航海記』をやっています。先ほど第3回を観たのですが、「人間が決めた枠に自然を当てはめようとする」という話をしていました。「言葉があるからそれは存在する」と思うのはそのひとつなのではないでしょうか。人間(自分)の思考を自然(他者)に当てはめるのではなく、「ナチュラリスト」のように自然から学ぶという姿勢が失われつつあります。自然を人間(自己の思考)の枠の中におさめて「制御」「支配」しようとします。人間は「時間」や「季節」の中で「時間・季節」とともに生きてきました。農耕社会では朝日が登ると畑に出て、日が沈む前に帰ってきます。作業は季節が教えてくれます。狩猟社会はちょっと違うようですが、狩りは獲物の習性に合わせることによってなされます。機械時計がつくられた後も一日は等間隔に区切られていたわけではありません。季節に合わせて文字盤の間隔は変えられていたのです。それは現実の時間であり、抽象的(イデアル)な時間ではありません。現在考えているようなイデアルで等間隔に区切られた(分割された)時間は昔からあるわけではありません。その人間が考えた時間に人間はどれほど縛られているでしょうか。いま、時間というイデアは世界を支配し、昼も夜もない世界を作り出しています。イデアは無限に増殖が可能です。「時は金なり Time is money. (18世紀、ベンジャミン・フランクリンの言葉)」、抽象的な時間というイデアがお金(価値)というイデアを増殖します。

日本語の印欧語化は「主体・主語」を明確化し、行為を「能動・受動」のなかで捉えようとします。形容詞や動詞の名詞化(あるいはその逆)は概念(性質)と存在を同質化します。文字や映像やVRと存在を混同させます。それが「当たり前」になることが、私は恐ろしいと感じているのです。   





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