
図書館から借りてきました。街の図書館で「システム理論」と検索すると8冊の本がでてきました。それを列挙はしませんが、「システム入門」というような本はありませんでした。「はやわかり」だから、多分入門書としていいだろうと。そして気になることがあれば、参考文献にそれらしい本が書いてあるでしょうから。
著者は出版当時、筑波大学構造工学系教授(工学博士)で、この本はその大学の初学者のために書かれたようです。理科系の学生向けですから、途中数式がでてきます(偏微分程度の高校レベルのものですが)。その時点で私はお手上げです。これまでは数式がでてきてもそれなりに理解しようという気があったのですが、今はそんな気も起きません。その部分はスルーしました。ですから、この本が理解できたなんて到底言えません。数式以外の部分について、読みながら思ったことを書きます。
この本が書かれたのは約30年前です。この先生の教えを受けた生徒ももう「システム関係」の部署で一定の役職になっているでしょう。
「ドレフュス事件」(1965年、実際にフランスでおきた「ドレフュス事件」は1894年)の項目で、
ドレフュスはこのチェスや碁のような直感が必要な問題を「複雑で形式的な分野」とよんでいる。(本書、P.93)
と書いています。現実には、
1996年にIBMのコンピュータであるディープ・ブルーがガルリ・カスパロフと対戦し、1つのゲームとしては、初めて世界チャンピオンに勝利を収めた。ただし、これは6戦中の1勝に過ぎず、全体ではカスパロフの3勝1敗2引き分けであった。しかし、翌1997年に、ディープ・ブルーは、2勝1敗3引き分けとカスパロフ相手に雪辱を果たした。(Wikipedia)
ということになりました。囲碁の世界では、
(・・・)、Google傘下の英国・Deepmind社が開発した人工知能コンピュータソフト「AlphaGo(アルファ碁)」が、2015年10月に樊麾(中国系フランス人)との対局で、史上初となるプロ棋士相手の互先での勝利を収めると、翌2016年3月には世界トップクラスのプロ棋士である李世乭(イ・セドル、韓国)との五番碁にも勝利、2017年4月には人類最強と言われる柯潔(中国)との三番碁に三連勝し、名実ともに人類を追い越した。(Wikipedia)
いまではプロ棋士も「AIで勉強する」のが当たり前になっています。『NHK杯テレビ囲碁トーナメント』では「形勢判断」(50対50、83対17といった数値での評価)と「AI候補手」(三つ)が表示されています。囲碁には「ルール」はあるけど「答え」はない、と言われていましたが、(対局者には見えませんが)「答え」が表示されています。その答えのとおりに打つかどうか、それを視聴者は観ています。なんか不思議です。まるで学校のテストのようです。オセロや五目並べも「必勝手順」があるそうです。それまでは「より強くなる」ということをめざして碁を勉強していたのですが、「答え」があったら、なんか意味が変わってくるのではないでしょうか。「負けるのは答えを知らないからだ」ということです。
コンピュータにおける「検索」も答えを探すものですが、「探す」というのは「検索結果に基づいて考える」ということでした。検索結果自体が「答え」ではなかったはずです。そこには探す人の「判断」という行為が必要でした。ただ、「コピペ」するだけで自分で考えないのはいけないことだと。ところが「 ChatGPT 」(2022年)は「答え」を表示するものと考えられつつあります。それが表示するものは「正しい答え」、あるいは「妥当な答え(十分有効な準最適解、ヒューリスティックス、本書P.93)」だと思われています。
私はChatGPTを使っていないのですが、一度子供に教えられて試したことがあります。いまでもプログラムのデバックに苦労しながらも、頭の体操(ボケ防止)だと思ってやっているのですが、ChatGPTに自分のプログラムを入れるとデバッグしてくれます。それどころか「Javascript(プログラム言語のひとつ)で〜〜するプログラムを教えて」と入力すると、あっという間にそのコードを示してくれます。驚きました。もう人間がプログラムをあれこれ考える必要はないのです。Javascriptを勉強する必要もなくなるかもしれません。
自分が覚えたり、考えたりする必要はなくて、それらは「情報(データ)」として「メモ紙」や「紙の本」や「ハードディスク」にある(あるいは保存できる)、という考え方は、イリイチによれば西欧では12世紀に生まれたようです(イリイチ『テクストのぶどう畑で』)。この「考え方」が「システム論」にまでつながっています。
最近では、「ChatGPTを使った文章かどうかを判断するプログラム」もあるようです。
同様のことは「フェイク画像」や「フェイク動画」でも起こっています。写真は「真を写す」ものだと考えられてきました。それは「人間が手で描いた絵」とは違うものだったのです。
「生成AI」は「絵(写真)」も作ってくれます。「秋 山 京都 水彩画」などと入力して「生成ボタン」を押すと、数秒で「水彩画風の秋の京都の風景」が三枚出来上がります。取材も必要ないし、著作権フリーです。サインすれば「わたしの作品」とすることもできます。でも、それは「わたしの作品」でしょうか。
「システム」ってなんでしょう。あんまり当たり前の言葉なので考えたことがありませんでした。最初に「あれっ」と思ったのは、はるか昔( A long time ago ... )のことですが『スター・ウォーズ』を観てたときです。英語はわからないので字幕で見ていたのですが、「なんちゃらシステム」と言っているのが聞こえました。なんのことだろうと思ったのですが、「太陽系 Solar System 」などの「系」のことでした。それまでは「システムキッチン」とか「この飲み会のシステム」とか無意識に使っていたのです。
前者は、「組み立てられてひとまとまりになった」くらいの意味だと思ってたし、後者は「決まり・規則」ぐらいの意味だと思っていました。
改めて考えると、よくわかりません。そういうときは辞書。
システム
〘 名詞 〙 ( [英語] system ) ある目的のための秩序だった方法、体系、組織。
<出典>物理学術語和英仏独対訳字書(1888)
「男女共学というシステム」(出典:花ひらく(1953)〈伊藤整〉あほう鳥)(精選版 日本国語大辞典)
これからうかがえることは、明治以降に日本に入ってきた言葉であること。そして一般に使われ始めたのは戦後だということです。
もう一つ。Weblioから、
systemとは 意味・読み方・使い方
意味・対訳
(複雑な要素から構成されながら一つの統一体を作っている)組織、(政治・経済・社会などの)機構、制度、(支配)体制、(学問・思想などの)体系、(通信・輸送などの)組織網、(山・河川などの)系統、系統、器官、系
その他たくさんの意味や用例が載っています。それが「物」を表しているのか「関係」を表しているのかすらよくわかりません。
語源としては、
印欧語根
ksun with「…と一緒に」の意を表す印欧語根。
stā- 立つこと、さらに派生して立っているものや場所を表す印欧語根。その他に、種馬(例steed, stud)、主張(例obstinate)を表すこともある。他の重要な派生語は、語幹sistを持つ語(consist, existなど)、語幹stanceを持つ語(instanceなど)、語幹stituteを持つ語(constituteなど)、arrest, destiny, post, styleなど。(Weblio)
ジーニアス英和大辞典には、
sys-tem 〔初17c; ギリシア語 synístanai (結合させる). sy- (共に)+ -stem (配置すること、組み立てること)〕(カシオ電子辞書)
オックスフォード新英英辞典には、
- ORIGIN early 17th cent.: from French système or late Latin systema, from Greek sustēma, from sun- 'with' + histanai 'set up'.(カシオ電子辞書)
とあります。「何か複数のものを一つのものに組み立てること」くらいの意味でしょうか。英語としてもそれほど古くからある言葉ではないようです。一般に(つまり庶民に)使われ始めたのがいつかはわかりません。これも「プラスチック・ワード」かもしれません。「うちはこういうシステムだから」といわれたら、ボッタクリでも反論が難しくなります。
この本では「日本工業規格(JIS)」から2つの定義が引用されています。
オペレーションズリサーチ用語(Z8121)「多種の構成要素が有機的秩序を保ち、同一目的に向かって行動するもの」
日本工業規格信頼性用語(Z8115)「所定の任務を達成するために選定され、配列され、互いに連係して動作する一連のハードウェア、ソフトウェア、人的要素の組み合わせ」(本書、P.2)
前者は、何かシステム自体が「目的」を持っているように読めます。普通「擬人化」と呼ばれるものです。後者は、「(操作する)人」もシステムの一部だと言っています。「擬人化」から一歩進んで、「人がシステム(の一部)」になっているのです。
(十二世紀・・・引用者)道具とその使用者との区別は、この時代の特徴であると思うのですが、この時代は一九八〇年代に終わったと、わたしは主張したいのです。手と道具を操作する人間と、その仕事を達成する器具との間には距離わたしは遠位性ということばを使いますがあります。この遠位性は、ハンマーと人間、あるいは犬と人間によって握られたリードが一つのシステムとして考えられるや、ふたたび消滅します。もはや、オペレーターとデヴァイスとの間に距離があるとは言えません。なぜなら、システム理論に従えば、オペレーターはその中で彼が操作し規則付けるシステムの一部だからです。(イバン・イリイチ『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』邦訳、P.373-374)
この文章が、今回この本を読もうと思ったきっかけです。十二世紀までは道具とそれを握る人間(の手)は区別されていなかったのです。とすると、今わたしが「物」「客観的存在」あるいは「操作対象」だと思っている感覚は、十二世紀以前の人の感覚と全く違うということです。いまでは想像もできないことです。わたしは「道具は身体の延長」だとか、「わたしの身体も私の精神の道具」というように考えてしまいます。「わたし」とは別に、「客観的存在」があるのだという感覚です。
わたしの子供の世代は、「物」に対する感覚が違うのかもしれません。たしかに、子供の部屋には「本」があまりありません。マンガが大好きなはずなのに、「どうしてないの?」と訊くと、「ネットで読むから」という答えでした。電子書籍を買っているのです。今流行りの「サブスク」もそうですが、「物を持つ(所有する)」とか「物を使う」という感覚が違っているのでしょう。「手に触れることができないもの」「手触りも匂いも重さも感じないもの」を使ったり所有したりしているのです。私にはとても観念的に思えるのですが、観念が実体を取り込んでしまっている状態、それがシステム論の本質かもしれません。
これがまたわかるようでわからない言葉です。
じょう‐ほうジャウ‥【情報】
〘 名詞 〙
① 事柄の内容、様子。また、その知らせ。
[初出の実例]「佐藤君は第三の情報(ジャウハウ)を得た」(出典:藤鞆絵(1911)〈森鴎外〉)
「誰かが砲兵工廠が今焼けて居る。と云ふ情報をもたらした」(出典:明治大正見聞史(1926)〈生方敏郎〉関東大震災)
② 状況に関する知識に変化をもたらすもの。文字、数字などの記号、音声など、いろいろの媒体によって伝えられる。インフォメーション。
③ 高等学校の教科の一つ。コンピュータや情報通信ネットワークなど、情報および情報技術を活用するための知識・技能の習得を通して、情報に関する科学的な見方を養い、情報化社会に対応できる能力と態度を育てることを目標とするもの。平成一五年(二〇〇三)から設けられている。情報科。
情報の語誌
( 1 )明治期には、様子の報告というほどの意味であった。例えば金沢庄三郎の「辞林」(一九〇七)の語釈は「事情のしらせ」、山田美妙の「大辞典」(一九一二)の語釈は「事情の報告」となっており、「英和口語辞典(第三版)」(一九〇四)でも report の訳語の一つとして挙げられている。
( 2 )現在のように information と緊密に結びつくようになったのは、一九五〇年代半ばに確立した information theory が「情報理論」と訳され、普及したことによる。(精選版 日本国語大辞典)
つまり、「(いまの意味の)情報」があって「情報理論」ができたのではなく、「情報理論」から「いまの意味の情報」ができたのです。そのもともとの英語「 information 」ですが、これもよくわかりません。「 form (形)」を「 in- すること」なのですが、これを「形を与える」とか「形作る」という意味でとるのが普通です。でも「 in- 」には反対の意味もありますから、「形を壊す」というオヤジギャグにも使えそうです。まあ、何か「真実・事実」に「形を与えること」が「 information 」なんでしょう。ウヴェ・ペルクゼン『プラスチック・ワード』に助けを借りましょう。
「情報= インフォメーション」はラテン語から派生した語である。古典ラテン語で informatio は、「教育、伝授、指示」あるいは「想像、表象」を意味していた。(『プラスチック・ワード』邦訳、P.96)
こうしてみると、どうやら Information という単語は、一九二〇年代までは抽象語ではあっても、日常言語で使われる単語の特徴を持つ言葉であったようだ。(同、P.97)
このような意味のあり方は、もはや過去のものだ。一九七〇年代以降、意味に根本的に変化が起こったことが辞書に反映している。(中略)「教授」「調査」「探求」「指示」「査定」などの定義は、もはやまったく掲げられなくなった。それに代わって登場したのが「ニュース」である。
意味の主眼は、時間的経過の側面から目標地点へと完全に移行した。 information は、ひとえに結果あるいは対象を指示することばとなったのである。(同、P.98-99)
ここでわれわれの関心を引くのは、一九七〇年代以降、かなり不十分なものとはいえ、「情報」の科学的定義が辞書の記述に反映していたにもかかわらず、それと同時に、「情報」という語が、科学の雰囲気をかもし出す慣用表現、すなわち
見かけ倒しの述語として、日常言語のなかで華々しい成功を収めたということである。(同、P.100)
情報理論という科学では、情報の定義はそれによって「不確かさが減る度合い」(本書、P.66)と定義されています。いま伝わってくる「情報」は、「不確かさが減る」ようなものでしょうか。むしろ「不安を増大させる」ようなものが多いのではないでしょうか。
西洋においての使われ方も、「行為・経過」を表す言葉から「結果・物」を表す言葉に変化したということです。そして「情報科学(理論)」の洗礼を受けて変化した「情報番組」は「文化鍋」と同じように、何か「雰囲気だけ」の言葉になったのです。
毎朝、この国の「住民」が、その名も「インフォメーション」と呼ばれるあらゆる滋養物にしがみついている。この食事の儀式は、一日中、きまった間隔でくり返される。それは、典礼のように決められた順序でつつがなく進行する。そして、いかなる頭脳も眼も心も理解することのできない終わりのない世界を単純化して、受信者の前に並べるのである。メディアによるニュースの儀式は時間を分析し、情報への尊敬の念をいやましに高める。(『プラスチック・ワード』、P.94)
その結果、どうなったでしょうか。SNSが政治の世界を動かすまでになっています。そこで流れる「情報」は吟味されることなく受け入れられています。誰にだってわかりそうな「闇バイト」に手を出す若者が増えています。その人たちは、わたしの子ども世代、あるいはそれより下の世代で、「手触りも重さも匂いも感じないもの」を「存在(実在)」と感じている人たちです。
ChatGPTが「正しい(実用的な)答え」を出すのは、それが与える「情報」を「真実」「実在」だとする(思う)社会だから、「正しい」・「実用的」なのです。
情報理論は、情報と通信を扱う工学では重要なものであるが、情報のもつ「意味」については、この理論は感知しない。今日「情報科学」または「コンピュータ科学」とよばれている分野は、人工知能のように人間的な意味と深く関係する問題を対象としており、この情報理論の上に、この「情報科学」すべてを築くことは困難であろう。また、このシャノンの通信モデルには、送り手と受け手が統一した符号と通信装置をもっている、という大前提がある。したがって、この前提が崩れる一般社会におけるコミュニケーションに関しては、この情報理論は有効性を失う(西垣通著『デジタルナルシス』(岩波書店))。(本書、P.66)
この「意味」という言葉も、・・・・。止めておきましょう。
本書の後半(第Ⅱ部)では、「経済学モデル」という社会現象、「人工知能」という「知能(能)」のシミュレーション、そして「人工生命」という「生物そのもの」のシミュレーションの話が書かれています。それぞれ面白いのですが、この30年間の間にそれらは大きく「進歩」しています。内容についてはそれぞれの最新の本を読んだほうがいいでしょう。
経済学や、生理学、分子生物学などを「システム」として理解する、という根本思想、考え方は変わっていません。「フレーム問題」「ニューラルネット」「遺伝子アルゴリズム」など、キーワードはいくつもあります。著者は「従来の生命研究のアプローチ」に対する「人工生命のアプローチ」の特徴を次のように列挙しています。
ボトムアップ、合成的モデル。時間的に発展する動的過程。局所的制御(自律分散)。非明示的。集団の並列行動生成。(本書、P.114から)
そして、
神になり代わって法則を押しつけるのではなく、神が実際に行ったであろうように生命を合成して見ること、それが「人工生命」の方法である。明示的と非明示的は、人工生命と従来のアプローチの違いをもっとも端的に表すキーワードである。(本書、P.115)
この「非明示的」というのは、私の理解では「途中経過がわからない」ということです。「プログラムあるいはデータ」という「入力」をすると、「コンピュータ」という「ブラックボックス」が処理を行って、「結果(情報)」という「出力」をする、ということです。これは検証できない、という意味ではありません。同じ入力をすれば、たとえ違うコンピュータでも同じ結果が出るでしょう。多分です。というのは、いつ誰がやっても(手作業でやっても)同じ結果が出るというのが「明示的」ということだからです。その前提の一つが「送り手と受け手が統一した符号と通信装置をもっている」ということです。通信には必ず「ノイズ」があります。またタイムラグがあります。そして、それの機器が「物理的」にできている以上、「まったく同じもの」は存在しないのです。「多分」というのが「非明示的」ということです。そして「どうしてそんな結果が出たのかはわからないけど、そうなった」という「情報」だけが重要視されます。「時間的経過の側面」ではなく「目標地点(結果)」が重要なのです。
人間もシステムとして考えられます。水分を飲んでおしっこをする、食べ物を食べて排便する、ある刺激に対してある反応をする。たしかにその現象を「システムと入出力」と見ることはできます。そしてその過程としての「わたし(の脳・体)」は「非明示的(ブラックボックス)」です。
わたしは「システム」として、「同一目的に向かって行動する」(本書、P.2)、つまり「機能」している限りで存在を許されるようになります。教育というプログラムをされ、実行中に「故障(機能不全、バグる)」を起こしたとき、犯罪であれば排除され、病気とみなされれば治療することを強制されます。
網膜から脳へ信号を伝え、脳で情報処理しているのは無数の神経細胞である。(本書、P.100)
当時であれば、脳に電極を刺して電位差を測定しました。今なら MRI などで脳の活動がわかります。なにか刺激を与えると、脳がどのように反応したのかがわかります。わたしが不思議なのは、その時、誰も「足の指」の変化を測定しないことです。つまり、「知能は脳にある」という前提を誰も疑わないのです。たとえば誰でも知っている「条件反射」は、信号が脳に届く前に体が反応することです。熱いものに触ったとき、とっさに手を引っ込めます。熱いと感じるのはその後です。そして「熱い」と感じているのは「手」でしょうか「脳」でしょうか。わたしたちの行動は、そのほとんどは「判断をした後」に起こるものではありません。「自律分散的」つまり、「集中管理に否定的」な考え方の割には「脳」という「集中管理室」を前提しているのです。コンピュータの「 CPU 」がそれの表現形態です。
「心臓移植をした人が、元の持ち主の記憶をもっている」というような話をしているのではありません。
個別の局所的な運動の原理ではなく、それが総合的に合成されて、システムとしての生命がどのように発生し適応し遺伝するのか、なぜそのような絶妙なシステム動作ができるのか、そのようなうまいシステムがどのようにしてでき上がったのか、という疑問に答えることなのである。(本書、P.105-106)
下位のミクロなレベルでの知識をいくら集積しても、上位のシステム階層において問われている疑問(生命や知識とは何か)の答えは得られないのである。(本書、P.106)
ここで問われているのは「全体」と「部分」の関係です。全体を分割したのが「部分」、部分をまとめた(総合した)のが全体、ではないのです。単純な話、手足や内臓や脳を集めても「人間」にはならないのです。一見、「システム」という概念は「個別(部分、個人)」と「その関係」と「全体(社会)」のすべてを一緒に表現して、その難題を克服しているかに見えます。でも、その「非明示性」に代表されるように、「雰囲気だけ」なのではないでしょうか。
人工生命の遺伝的アルゴリズムには、ダーウィン流の「適者生存」「自然選択」あるいは「突然変異」などが含まれています。
たとえば、資源をもっとも有効に消費する「自然保護主義動物」とか、自分の遺伝子をできるだけ子孫へ伝えようとする「利己的遺伝子動物」とか、「変わるべき時が来たら変わる種」などは、典型的な天下り学説である。(本書、P.114)
最後の「変わるべき時が来たら変わる種」というのは「今西進化論」の批判でしょう。ダーウィン流の進化アルゴリズムのプログラムがダーウィン流の結果を示すことのどこが「ボトムアップ」なのか、私にはわかりません。「生き残った生物個体(偏差値秀才)」(本書、P.107)が「利己的ではない」「自然保護主義的ではない」というのは、だれが判断したのでしょうか。それも「非明示的だけどコンピュータが」というのでしょうか。
道具とそれを使う人の分離、それは「自我 ego 」の発生です。そして、「システム理論」によるその再融合(非明示性)は、「個別(部分)」と「全体」の壁を乗り越えたのではなくて、その壁を「見えなくしている」のではないでしょうか。
そして、手工業的な創造を行っていた時代は終わりつつある。ソフトウェアもシステムも知能でさえも、人間が設計するものではなく、まるで畑に草が生えるように「生え、育ち」、虫のように「わき、進化する」のである。
「生命はそれを理解するよりも、創り出すほうが簡単」というのが人工生命のスローガンである。(本書、P.120)
だれもが理解することや判断することを止める(そうしようとする人を押し留める)世界、それが「システムの世界」なのではないでしょうか。システムを理解していないわたしがシステムを批判するのは間違っているかもしれません。でも、わたしは「システム」ではないのです。
わたしはシステムではない。世界システムの中で独立したサブシステムである免疫システムでもなければ、システム分析家によって分析されるあのシステムに完全に吸収されもしない。(中略)システム理論はある種の事柄を分析するには、優れた道具です。しかし、もしそれに制限を与えなければ、人間はこれまで考え出されたもっとも質の悪い姿格好をもつことになります・・・三つのボックスと四本の矢印を描き、それらがいかに相互に関係を結ぶか示しなさいというわけです。(前掲、イリイチ『生きる希望』P.377)
わたしは、四角でも箱でも、矢印でも、それらの関係性でもありません。(終わり)
