「村上春樹を巡る音楽」のための読書 6『ゼロの楽園 村上春樹と仏教』 平野純著 2008/08/05 楽工社

ゼロの楽園 村上春樹と仏教 平野純著 2008/08/05 楽工社
本書について

図書館で「仏教」のコーナーを眺めていて偶然目に止まりました。

著者は小説家のようです。1953年東京都生まれ、東北大学法学部卒(Wikipedia)。奥付の著者略歴には「現在、仏教と現代文化の関わりについて関心を持つ」とあります。その中で生まれた著作なのでしょう。

第一章と第二章では、仏教とその日本での受容について述べられています。第三章は、その現代における一つの現象として村上春樹の『海辺のカフカ』を取り上げています。

本文よりも注や補足のほうが多い本です。モースの『贈与論』を思い出しました。

私は仏教についてはまったくの初心者で、仏教徒でもありません。仏典も読んだことがありません。なので、仏教用語の一つ一つが(読み方も含めて)わかりません。なので、注はとても役に立つのですが、その概念が120ページほどの本で分かるはずがありません。

引用の仕方が独特です。これは仏教関係の本の特徴なのでしょうか。

ちょっと困ったのは、いくつかある『海辺のカフカ』(2002年)からの引用です。文庫本から引用しているのですが、私は単行本しか持っていません。どうしてもその引用文が見つけられませんでした。明日でも図書館に行って文庫本を借りてこようかな。


仏教について

私の祖父母は仏教徒でした。多分それは当然のことだったのでしょう。父は無宗教だったのですが(多分)、いろいろあって末っ子だった父が仏壇を引き継ぎました。私は無神論者です。「宗教はアヘンである」(マルクス)という言葉がしっくりきてましたし、宗教のことは何にも知らずに「反感」とも「嫌悪感」とも言えるものをもっていました。

父は晩年、仏教徒になりました。真面目な人だったので、自分で勉強し、お寺と対立し、お寺との縁を切りました。

私はいまでも無神論者ですし、仏典や神学書を読んだこともないので、仏教のことは何も知りません。でも、宗教に対する嫌悪感はなくなってきています。歳のせいでしょうか。

ともかくも本書は初めて見る言葉が次から次と出てきて、とても理解したとはいえないのですが、その分新鮮で、面白く読みました。


空(くう)

「色即是空」という言葉で有名です。一応 Wikipedia 。

色即是空(しきそくぜくう)とは、『般若心経』等にある言葉で、仏教の根本教理といわれる。この世のすべてのものは恒常な実体はなく縁起によって存在する、という仏教の基本的な教義。空即是色と対をなす。

「もの」は「物」に近いでしょう。見えるもの、触ることの出来るものです。今使われている「実体」という言葉は英語の substance の訳語としての意味です。これが結構面倒です。

アリストテレスは「実体」を  οὐσια と呼びました。ギリシア語の be動詞(繋辞) εἰμί の現在分詞 οὖσος に由来する単語です。これが根本的に理解を困難にしています(私にもわかりません)。

仏典が書かれたサンスクリットは印欧語ですが、日本語には be動詞に当たるものがありませんから、この繋辞の「ある(在る、存在する)」という感覚がないのです。英語では「主語 + be動詞 +述語」で表すものを、日本語では「〜(リンゴ)である」「〜(リンゴ)がある」と完全に区別します。「がある」の方は「リンゴが存在する」という意味ですし、「である」は「リンゴ」という「属性」あるいは「性格・性質」を表します。前者はアリストテレスにおける「第一実体」、後者は「第二実体」です。第二実体を「縁起・関係」に置き換えると「色即是空」になります。第二実体はプラトンの「イデア」に対応しますが、プラトンやアリストテレスのように悩むこともなく、日本語では両者はまったく別のものです。問題にしようがないものを印欧語(インド・ヨーロッパ)の文献の流入によって悩むことになったのです。

仏教が輸入された最初の時期、「空」の考えはよく理解されなかった。(本書、P.54。以下「本書」は省略)

「ある・ない」の感覚、あるいは「ゼロ」という概念が日本人に生じなかったのは当然だと思います。古典ギリシアにおいても仏教(ヒンズー教)においても「あるはある、ないはない」(パルメニデス)などの論争がありました。

ナーガールジュナ(龍樹)は、

実体化思考の廃棄のために、ナーガールジュナは、テトラレンマ(四句分別)の否定をためらわなかった。:「『一切は真実である』、『一切は真実ではない』、『一切は真実であり且つ真実ではない』、『一切は真実ではなく且つ真実でないのでもない』  これが諸聖人の教えである」(『中論』第一八章の第八詩)(P.57)

印欧語話者にとっては「なるほど」とか「すごい」とか思われることなんでしょうけど、私には「分からない」というか、「それはそれでいいんじゃない」程度に思われます。ただ、村上春樹が『風の歌を聴け』(1979年)でデビューした頃以降に生まれた人にとっては、これが「問題」として感じられるかもしれないし、ポストモダニストやニューアカの人もこれに敏感に反応したわけです。「つねに/すでにある」なんて、かっこいいですよね。

フラワーチルドレンは過去のものになり、安保闘争や学生運動も終わり、オイルショックがあり、冷戦が終結し、ベルリンの壁が壊され、世界が「コンピューター(あるいは AI )」に覆われ始めようとしていた時期です。

一九八〇年代の日本のポストモダニズムは、「何も始まっていない」にもかかわらず「すべては終わってしまった」という自己欺瞞を伴っていた。だからこそ、それはあんなに心地よかったのだ(循環の文化)。(P.118-119)

そこで現れた新たな「閉塞感」「根拠・目的感の喪失」「新たなニヒリズム」のようなものに対する「救済」としてポストモダニズムは登場したのだと思います。

バブルが崩壊し(1991年)、リーマン・ショック(2008年9月15日、この本の出版は同年5月14日)は自由主義(資本主義)を問うことよりもむしろ新自由主義を定着させました。

世界が「一つの方向」しか見なく(見えなく)なりました。それが「真実」であろうと、なかろうと。


梵我一如、一神教、あるいは「理」
日本で「超越的人格神」と「理」の理念とを相対化したものは、同一物である。前者はインドからの、後者は中国からの輸入である。ポスト「一神教化」の時代は、同時に、「理」に対する「違和感」の時代でもあった。(P.67)

仏教には多くの仏様がいますし、日本にも多くの神様がいました。

「梵我一如」は、「ブラフマンとアートマンの一致」の日本での訳語である。とはいえ、日本の「梵」は、サンスクリットのブラフマンの「絶対性」の感じを欠いている。「理」は中国の伝統的な土壌に生まれた。にもかかわらず、それは、その「究極性」や「抽象的至高性」において、少なくとも日本の「梵」よりは、ブラフマンとの類似性を持っている。「梵我一如」の観念は、日本人の自然に対する見方を文字通り決定した。つまり、我々の素朴で曖昧な自然観を、明確な形を与えることにより「哲学化」した。(P.69)

「哲学」という言葉は否定したいと思います。「フィロソフィー(知を愛する)」とは別のことだからです。

日本仏教の決まり文句  「山川草木悉皆成仏」。その起源は、中国仏教の草木成仏説だった。一二世紀以来それは流行し、日本の中世に確立された。このことは、我々の自然観の重大な変化をもたらした。実際、あなたが、花やその上の露の滴はブッダの spirit の反映なのだ、と言うとき、支配的なのは自然との戯れの感覚であり、その背後の暴力的な何かへの恐怖ではない。畏怖感情は、自然を自己浄化  つまり、自然との一時的な同一化を楽しむこと  のための対象とみなす考えに、とって代わられている。(P.61)

これは「素朴で曖昧な自然観」のことでしょうか。「自然豊かな日本」は、東京に住む人にも感じられているのでしょうか。公園や動物園よりも「東京ディズニーランド」や「コンビニ」が「自然な存在」になってるような気がします。「自然 nature 」という言葉も「実体」に対応した二つの意味があります。第一実体(基体、存在)としての自然と、第二実体(性質、本性(ほんしょう))としての自然です。「自然がある」と「自然である」です。同様に「自由がある」と「自由である」ということも日本人には区別が難しい、というか区別する必要がなかったのです。

「理」と God は「一つ」というその特質において共通する。(P.82)

「 God 」はキリスト教における神でしょう。「真実は一つ」という名探偵コナンの名セリフは、「理」です。仏教における多くの仏様、ヒンズー教におけるさまざまな神様は「梵(ブラフマン)」という「自然(宇宙)」そのものです。それは「一つの絶対的真理」とは別のものでしょう。「一つの絶対的真理」は「理」です。

「論理(ロゴス、言葉)」はもともと「比率、法則」という意味です。

ギリシア語のロゴス logos という語を辞書で見れば、わたしたちが言葉と呼ぶものを意味するようになる以前は、均整や均衡、あるいはフィットするということを意味していたのがわかります。(イバン・イリイチ『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』邦訳、P.342-343)

キリスト教において、その「言(言葉)」は「受肉」してイエス・キリストとなります。一神教の神( God )は「絶対的存在」であり「絶対的真理」です。「存在(がある)」と「真理(である)」です。

「である」と「がある」が同じ be動詞で表されるということは、「おかしい」とか「間違い」とかというのではなく、そういう言葉だということです。日本の「素朴で曖昧な自然観」も「おかしい」とか「間違い」とか(あるいは「非論理的」、「劣っている」)とかということではなくて、日本語はそういう言葉だということです。

印欧語から当然のように生まれたのが「同一性(アイデンティティ)」ということです。この言葉が日本ではやりはじめたとき、私にはわかりませんでした。「自己同一性」「私が私であること」「この猫がこの猫であること」に何の意味があるのでしょう。

それが「真実は一つ」と同じことだと気がついたのは最近のことです。「真実」「事実」「正義」などは「善」と結びつき、「法律」や「価値」と結びつきました。西欧でもそれが結びついたのは近代以降のことですが、比率が論理に結びつき、それが「数字(性質、イデア)」という「観念」と結びついたのは当然と言えば当然でしょう。


二分法

「ある」と「ない」という二分法がインド・ヨーロッパで問題になったのはすでに述べました。インドにおけるその解決法の一つが「空」なわけです。

結局のところ、一度空っぽの鏡を覗いたものは、その鏡像から逃れられない。それは、「空」という空っぽの鏡にもあてはまる。この二人(三島由紀夫と村上春樹・・・引用者)の卓越した小説家を分けるのは、それへの対処のやり方における相違である(中略)。ゼロの楽園において、救済は不可能である。そもそも、それは、救済と非・救済の二分法の廃棄の名において、拒絶されている。同様に他者の喪失を論じる余地もない。なぜなら、それは、そもそも、不在だからだ。この意味で、何人かの日本人たちがジャン・ボードリヤールによる見解  消費資本主義における他者の喪失に伴う「自他未分化への移行」というをありがたるのは、私には滑稽に見える。日本で自他が分化していなかったときなど、一度もなかったからだ。(P.109-110)

これは「自他がつねに分化(分離)していた」ということではありません。「自己・他者」「主体・客体」「主語・述語」「人間・自然」などの「分化」そのものが「あたりまえ」のことで、問うまでもなかったのです。「私が(猫が)いる」つまり「私がある」ということと「私である」ということは問うまでもなく別のことです。

「人間」という概念は、西欧近代において生じました。そしてそれは「非人間」という概念とともに生まれてきたのです。「非人間」は「自分(アイデンティティ)にとっての他者」であり、それは自分自身の中にもあります。「理」「理性・合理」に対する「非理性」「非合理」や「野蛮」「動物(獣)」を同時に生み出します。自己(アイデンティティ)という「絶対的一者・単一者」が存在するという考えが確固たるものになります。「人間(主体)」は「非人間(客体)」を支配・所有する事が可能になります。というよりも、「主語」には「述語」が必要なのです。それがセットでなければ、理解(認識)できないと考えるのです。神が人間を支配し、人間が非人間を支配し、非人間は動植物を支配する、という図式が「必要」なのです。

分化したものを結びつけるもの、be動詞にあたるもの、それが「愛」です。分化を「認識」したときに、「愛」は当然に必要とされるのです。私はまだどこか「愛」という言葉が「恥ずかしい」気がします。でも、小学校から英語を教えられる時代です。若い人はきっと「愛」という言葉に抵抗がないのでしょう。そしてそれは「価値」「お金」に抵抗がなくなることだし、「愛」を伴わなければ「他者」を「物(述語・対象)」だと見ることになるでしょう。

男と女、「僕」と「君」、現実と夢。「主体」と「客体」の境界を気がつけば溶解させるゼロの迷宮。この楽園に対するアンビバランスは、文字通り、『海辺のカフカ』の最も頻繁なリフレインだ。(P.104)

このアンビバランス(どうしてフランス語を使うのでしょう)は『海辺のカフカ』だけではなくて、村上春樹の作品には一貫していることだし、それは「迷い」ではなくて、二分法の「戸惑い」のようなもので、彼の作品の面白さそのものです。「迷い」はどの時代の文学にもありますが、それを「戸惑い」として表現するのは夏目漱石以来一貫した日本文学の特徴ではないでしょうか。

村上春樹の父親は教師であるとともに僧侶でした。日本文化は、仏教によって形付けられているのも間違いありません。でも、村上春樹の作品に仏教思想を読み込むのは違う気がします。

本書は、どこまでが仏教的なのか、どこまでが西欧的なのか、どこまでが近代的なのか、その切り分けのための試論としては面白いと思います。ただ、そのためには自分自身の考え方・物の見方の中のその切り分けが必要です。そして、困難はそこにあるのです。




[著者等]

平野純(ひらの・じゅん)
作家。1953年東京生まれ。82年、「日曜日には愛の胡瓜を」で文藝賞を受賞。現在、仏教と現代文化の関わりについて関心を持つ。
著書に、『上海黙示録殺人事件』(双葉社)、『上海バビロン』(河出書房新社)、『上海コレクション』(筑摩書房)。


概要
村上文学を〈仏教〉から読み解く。
父親が僧侶だった村上の作品は、仏教的世界観から根深い影響を受けている。そしてそれこそが彼の作品を世界文学にしたものでもある。
春樹文学の核心を突く画期的評論。

本文より──「村上の普遍性は、その非伝統的性格やましてやアメリカ的性格ゆえではない。そのコズモポリタニズムは、「自己同一性」、「国」そして「歴史」からあらゆるリアリティを剥奪する仏教に由来している。仏教の諸経典をかじった者が村上春樹を読んだならば、そのほとんどの者が、印象的に表現された中観派の核心的な諸観念を、いたるところに、発見するだろう。」

目次
●第1章 文明という災厄
迷いの生存のために 8
註 18

●第2章 快楽主義者たちのあるべき運命
ミネルバのふくろう 32
両極端を避ける 37
スプーティ長老よ! 42
ダイヤモンドの経典 47
註 50
補足 75

●第3章 楽園の日々
海辺のカフカ 94
前・二分法思考 102
メリー・ゴーラウンドの上の政治学 105
註 112

凡例・参考文献 118



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4903063201]

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