珍文漢文: やさしい漢文入門 竹内 肇著 1990/09/20 聖文社

珍文漢文: やさしい漢文入門 竹内 肇著 1990/09/20 聖文社
アレルギー

私は文字がちがう韓国語や中東系の言語は読もうとも思いません。ローマ字(アルファベット)は、街中に看板が溢れているのでそれほどアレルギーはありませんが。

漢文は漢字でできているので、いくぶん「わかる」ような気がしますが、それでもアレルギーがあるのは、学校で勉強させられたからでしょう。

図書館で、たまたま見つけたのでパラパラとめくったら、面白そうなのでかりてきました。受験生(高校生)向きに書かれたようです。

したがって、本書は、最初から順序よく読んでもらってもよし、もしも、漢文や書き下しの部分を読むのがめんどうならば、口語訳の部分だけを適当に拾い読みしてもらってもよし、特に重要な自行と語法については、数箇所に分けて、まとめてあるから、そこだけ読んでもらっても、実力の向上に十分役立つに違いない。(P.1-2)

結局全部読みました。

ただ、肝心の漢文の(読み方の)知識は、読み終わったとたんに消えてしまいましたが。


迫力満点

「背水之陣」とか「完璧」とか、いわゆる故事成語も、原文で読んだ(ような気になる)とやっぱり違います。スリリングで、情景が思い浮かぶのは「漢文で読んだせい」というよりは、著者の「文章力」でしょう。

陶淵明『桃花源記』(「桃源郷」のはなし)は、あらためて読むと「いろんな民族にある話だなあ」と感じました。「浦島太郎」の話にも似ているし、アイヌ神話にも、ギリシャ神話にも似たような雰囲気の話があります。「未知のもの」に対するあこがれというのは、どこから来るのでしょう。

秦の始皇帝の「実父」(だといわれている)「呂不韋」の話は、「権力・政治とお金の話」として読めば、まるで現代(新自由主義)社会です。中国ではそういう考え方が古来からあったのかもしれません。

「殷」とは、もとはといえば、周がつけた呼び名であって、「商」が本来の国名なのだ。商の国の人々が行ったから、「行商」であり、行う人は「商人」であり、行うという行為自体は「商業」であり、「 (あきない)」ということになるわけだ。(P.137)

殷の遺民(国を失った民をいう)が「文化的には、(周より・・・引用者)遥かに進歩」(P.127)していて、その「国を失った民」が商業に長けていたという話は、ユダヤの民を連想させます。土地(生産手段)を失った民は、商業や金融で生きていくしかない。そう考えてみれば「なるほど」とも感じますが、そう思うのは「商品(貨幣)社会」で生きている自分を投影しているのかもしれません。牧畜や農業と商業、どちらが早くできたのか、生活の中心はどちらだったのか、それはわかりません。メソポタミア(シュメール)を考えると、商業は「人間の本性」よりも「数の概念」に関連があるように思います。そしてそれは「文字」です。実際地球上には「数をもたない民族」や「文字を持たない民族」がたくさんあります。数と文字をもつ「文化」でさえ、実際には「数とは何か」「文字とは何か」を明確に分かる人はいないでしょう。

数と文字の文化が当たり前だと思い、それを一般化したり「普遍化」することは、呂不韋にイーロン・マスク氏を重ねてしまいます。

親の気持ちも、子どもの気持ちもわからないのが当たり前の時代に生きていながら、数千年前の人の気持は「自分と同じだ」と感じてしまうのは不思議です。漢文を読むとき、いや読むという行為そのものが、そこに「自分と同じもの」を見つけようとすることなのかもしれません。「分かろう」ということそのものだからです。そのとき感じた「ちがうもの」「違和感」は、ほとんど記憶されません。それに引っかかってしまうと、容易に先に進めないからです。

読む(読める)という行為がもつ危険性は、冒頭の漢字を使った単語や文の意味が日本と中国で異なるということにも現れています。それでも私(わたしたち)は文字(数)から逃れられないのでしょうか。


追加

図書館で、本書の隣りにあった本も借りてきたので紹介します(読んでいません)。

漢文が読めるようになる 論語篇 幸重敬郎著 2010/05/25 ベレ出版

漢文の文字サイズが大きいので、なんか易しく(優しく)感じられます。きっと読みやすいんだろうなあ。第一部は返り点や送り仮名をつけた文章で、第二部はそれらがない「白文」です。

返り点、送り仮名のない白文を訓読することはなかなか難しいことですが、訓読の基本的なきまりと知識があれば、あとは慣れることです。(P.172)

たしかにそうですね。『陳文漢文』を一通り読んだことで、アレルギーが少し減った気がします。





[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4792201364]

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