1
序
「特に、知性を持ち出して昆虫の行う多くの行為を説明出来ると信じた進化論は、その主張を少しも証明したとは思えない。本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されているのだ。」(P.7)
(索引)「この尨大な全体表を一目見れば、同時に演繹し帰納することによって、小さな虫の深い研究から、どれだけの限りない関係が引き出されるかわかるであろう。」(P.8)
J・H・ファーブル
一 聖(ひじり)たまこがね
二 虫籠
三 玉虫つちすがり
四 こぶつちすがり
「潜在的で受動的な生命、植物的生命があるのだ。それだけが、しばらくの間化学的な破壊力の侵入をうまくふせいで、生体を分解から守っているのだ。そこには、運動力はないが、生命がまだあるのだ。そして眼の前にあるものは、クロロホルムやエーテルが起こすような不可思議、神経系の神秘的な法則が原因とみとめられる不可思議である。
植物的なこの生命の機能は多分障害を受けて緩徐になってはいるが、ともかくもひそやかながら行われているのだ。その証拠として、ぞうむしの排便が挙げられる。」(P.79)
「その虫は運動神経を侵されているのだ。」(P.81)
五 科学的な殺し屋
「鞘翅類をさらうつちすがりの獲物選びは、一番博識な生理学と一番精しい解剖学だけが教え得るものと一致している。それを偶然の一致として片づけようとしても無理である。こんな調和は偶然などを持ち出しても、説明がつくものではない。」(P.98)
六 きばねあなばち
「あなばちでも我々同様、お国お国で気風は異なっているのだ。」(P.111)
七 短刀の三刺し
八 幼虫と蛹
九 高等なる学説
「私には生活の仕方、本能、習性を知るまでは、その虫を本当に知ったとは思えないのだ。」(P.135)
「人間を低くし、動物を高めて、接触点を作り、ついで同視する点を設ける。これが現在流行している高遠な学説の一般的方向であった。また今日でもそうだ。ああ、この至高の学説 これは今の時代の病的流行である の証明の中には、大学者エラズマス・ダーウィンのあなばちのようにお笑い草に終わるものがどれくらい、堂々と主張されていることか、実験の光に照らしてみたらわかることだろう。」(P.149)
十 ラングドックあなばち
「虫の間でも、人間の間のように、活動は伝染するもので、他人の働きぶりで励まされているのだ。」(P.158)
「歩くのに難儀な小径しかないところでは人間は離れ離れの小屋を建てる。便利な道が出来ると、人は人口の多い都市に集まってくる。」(P.158)
十一 本能のもの知り
十二 本能のもの知らず
十三 ヴァントゥ山登攀記
十四 動物の移住
十五 じがばち
「彼の行為はすべて霊感だ。動物はその為していることを少しも会得せずに、彼をそうさせずにはおかない本能に従っているのだ。だが、この崇高な霊感は一体どこから来るのか。隔世遺伝説、淘汰説、生存競争説はそれを理屈に合うように解釈する力があるのだろうか。私および私の友にとって、これは世界を支配し、無意識をその霊感の掟に従ってみちびく言外の論理の一番雄弁な顕現の一つであったし、現在もそうである。この真理の稲妻に心の底までゆり動かされたとき我々二人は瞼の下になんとも言えぬ感激の涙の流れるのを感じた。」(P.246)
十六 はなだかばち
十七 はえの猟師
「私は本能の力を信用しているし、また、巧みに解決された問題を余りにもしばしば目撃して来ている。」(P.265)
十八 寄生虫 繭
「彼女は多分こんな侵入者に対しても自分の幼虫に対すると同じ母性愛を持っているからそれを養っているのだ。彼らに餌を運んでやっているのだ。」(P.277)
「これは蜂には朝飯まえの仕事だ。けれども生物維持の調和的法則はそうすることを望まない。はなだかばちはいつまでもいじめられながら、いつの日にもあの有名な生存競争が彼に鏖殺しする徹底的手段を教えることはないだろう。」(P.283)
十九 戻り道
「言ってみれば、昆虫の中には何かしらただの記憶よりもっと微妙で我々にはそれに似寄ったものもない一種の本能的な方位感があるとも言えよう。外にそれを指す言葉がないので私は記憶と呼んでおくがこれは定義出来ない一つの能力だ。知らぬことには名のつけようはない。」(P.289)
つちすがりでの実験
「知らないことを思い出すなんてことはない。蜂と鳩とは今いる場所を知らないのだ。」(P.293)__無知の知。知らないことが大切なのか、それを知ることが大切なのか。
「我々は何もそれに似たものを持っていないから、それがどんなものだか考えることすら出来もしない。」(P.293)__本当に持っていないのだろうか。失ったのではないか。発揮出来ないのではないか。
視覚でも嗅覚でも記憶力でも触覚でもない。
二十 どろぬりはなばち
二十一 実験いろいろ
二十二 巣の取り換えっこ
追記
オランジュ、一八七九年四月三日 ジャン・アンリ・ファーブル
訳者から
ファーブル略伝
「これはルーエルグ山脈の奥の小さな貧しい村で、彼の家は貧農であった。」(P.369)
ファーブルの旧地を訪ねて
総目次
第2巻
一 アルマス
「私は虫に好かれようとしている。あなた方は研究室で虫を拷問したり、こま切りにして研究しておられる。」(P.8)__槙野万太郎(牧野富太郎)。
「最初すばらしい学問であった博物誌は室内学問となって進んだため、(FF)汚い厭らしいものになってしまった。」(P8-9)
「だから、私は真理という大切な範囲に留まりながら、あなた方のいわゆる科学的文体というちんぷんかんぷんになりがちな文体などは御免こうむることにしている。」(P.9)
「いつになったらアルコール漬けになった死んだ昆虫ではなく、生きた昆虫を調べる研究所が出来ることか。」(P.17)__解剖(分解)して分かったことから、元のものを説明出来るか。分析主義。全体と部分。
「知力と本能との境を実験的に確立し、動物系列の中で事実を比較して、人間の理性は他に還元出来ない能力であるかどうかを証明する。これは甲殻類の触覚の関節の数よりずっと勝っている筈だ。」(P.18)
二 あらめじがばち
三 未知の感覚 夜盗虫
「我々に見当もつかない感覚のための道具立てを虫はそれぞれの程度に持って生まれていないと断言出来るだろうか。物質は我々に隠されている秘密をもはや持っていないのだろうか。物質は、光、音、味、匂い、形状によってしか生物に示されないと断言出来るのか。」(P.39)__五感以外の感覚があることがどうやったらわかるのか。
「一つの新しい感覚、例えば菊頭こうもりの鼻にあるという感覚 これは滑稽なまで誇張されたことがある や多分はじがばちの触覚にある感覚は、一つの新しい世界を我々の研究に開いてくれているのかもしれないが、これは我々の体制のため、おそらく我々に調べられないように運命づけられているのだろう。」(P.39)
「我々の感覚は動物が外界との間に感じ取る関係の全体を現しているわけではない。我々自身が持っているものとはごく遠い似よりもない他の感覚が、それもおそらく数多く存在しているのだ。」(P.40)
「無限の最大多数例では昆虫は我々の支配の外にある。害虫ならそれを絶滅し、益虫なら繁殖させるということは、我々には出来ない相談だ。力と無力さの妙な対照だ。」(P.42)__それができても、バランスが崩れで別の害虫が、多分より最悪に、繁殖する。生物界の空白は埋められる。
「しかし味方は敵がいなければやって来ない。」(P.43)
「このような繁殖と没落のリズムは食う奴と食われる奴との割合を統制する不動の法則である。」(P.43)
4 本能の理論
「この議論は支えが利かない。段々と発達する本能なんて、ここでは明らかに不可能だ。幼虫の食料を用意する技術は師匠しか持ち合わせてはいない。見習いなど許されることではない。蜂は最初からこの技術をマスターしているか、でなかったらそんなことに手を出してはならないのだ。」(P.55)
「他方蜂がその技術に秀でた腕を持っているのは、蜂がその技術を使うように作られているからだ。蜂は道具だけでなく、道具の使い方までも身にそなえているからだ。そしてこの天分はもともとあったもので、最初から完全だったのだ。」(P.60)
五 とっくりばち
「母蜂はこれから産む卵の性が前以て解っていてこの見通しのおかげで、将来の幼虫の食欲の大小に合わせ食料棚を用意してやるのだ、と。」(P.73)
六 どろばち
「私は物の「なぜに」と「いかにして」には他の人たちと同じに警戒している。解釈という敷地の上の坂道がどんなに転びやすいか私は知っている。」(P.82)
「もしその行為が、起こり得る変化を伴ってよそで繰り返されなかったら、とっくりばちの例はひどく珍しいという事実だけで、私が考えているような高い価値は獲得出来ない。」(P.82)
七 ぬりはなばちの新しい研究
「この章と次の章とは、今ではウェストミンスター寺院でニュートンに向かい合って眠っている著名なイギリスの博物学者、チャールズ・ダーウィンに手紙の形で送られる筈のものだった。我々の文通の間に、彼が私に暗示した幾つかの実験の結果を、私は報告することになっていた。」(P.104)
「要するにチャールズ・ダーウィンが提案していることはこうだ。蜂を一匹ずつ紙の袋に入れ、 これは私が最初の実験で私がやったことだ それを放そうと思う場所の方向と反対の方に百歩ばかり運び、そこで俘どもを丸箱の中に入れ、それを軸中心に一方向に、次で他方向に回転させる。こうすれば蜂の方向感覚はしばらくの間駄目になるだろう。方向感を失わせるこの回転が済んだら、踵を返して放す場所にゆく。」(P.105)
「私は最初の否定的結果、ぐるぐる回しの結果をダーウィンに知らせた。彼は成功を期待していたので、この失敗には大層驚いた。」(P.124)
「で、次のようなものが私に提案された。
「蜂を感応コイルの中心に置いて、蜂がどうも持っているらしい磁性、あるいは反磁性の何かの感覚を妨害してみたら。」
蜂を磁針並みに扱い、これを感応コイルの中に入れてその磁性あるいは反磁性を破壊する。これは、隠さずにいうが、想像力が策に窮したあげくの奇想としか受け取れない。」(P.124)
「この貧弱ぶりが解ると、もう一つの方法が提案された。これは前のものより簡単であるが、ダーウィン自身の言葉に従うと、もっと確実な結果を持つものである。
「極細の針を磁化する。それを非常に細かく切断しても、そのおのおのはなお磁性を持っている。この小片を一つ実験用の蜂の胸に何かの糊で定着させる。私はこう考える。こんな小さな磁(FF)針でも、それが蜂の神経系のすぐ近くにあるということのために、地磁気よりも強く作用すると。」」(P.124-125)
八 家の猫のお話
「虫や獣のことをちゃんと話すのは誰にも出来るわざではない。その道の者でない誰かが生き物について、それは黒いというと、私はまずひょっとしたらそれは白だぞと考えて調べてみる。」(P.129)
「ともかくも一匹の動物が老年の弱りで元の古巣に帰れないため、望郷のため死ぬというのは非常に注意すべきことのように思う。」(P.134)
「したがって猫とぬりはなばちの戻りを説明するためにはダーウィンの考え方を断念せねばならない。」(P.138)
九 あかざむらいあり
「以上すべての不可思議を説明するためには、結局は一つの不可思議、言い換えると、人間の性質にはない特殊な感覚をどうしても持ち出さなければならなくなる。ダーウィンの堂々たる権威は誰一人否みはしまい。その彼も同じ結論に達している。」(P.140)
「なぜ我々にそれがないのか。それは生存競争にとってすばらしい武器であり、どれほど役に立つか解るまい。人のいうように人間を含めた動物全体が、唯一の原型である根元の細胞から出て、世代を重ねる間に進化し、よりよく備わったものを栄えさせ、それほど備わらぬものを滅ぼしたのなら、この不思議な感覚が、幾つかの卑しい動物に分かち与えられているのに、動物系統樹の頂点にある人間にその痕跡もないというのはどうしたわけか。我々の祖先はこんなすばらしい遺産をみすみすなくしてしまうなんて、よほどの見当ちがいをやらかしたものだ。尾骶骨や口ひげなんか残しておくよりずっと大切なものだったのだ。」(P.141)
十 昆虫心理に関する断章
「間違う気づかいなく彼女に教えるためには、分量を命ずる特別な先天的傾向、無意識な衝動、本能が必要なのだ。」(P.182)
十一 黒腹のどくぐも
(P.203)__変人扱いされる時代のファーブルの研究
「あなた方は前以て打ち建てられた秩序に対するこんな虫たちの明らかな裏書をかくすことは出来ない。」(P.209)
十二 べっこうばち
「このまさにぬけ目のない本能はその一族にまことに有利なものとして少しずつ獲得したというなら、それは一応認めてよろしい。ただそれはべっこうばちに劣らぬ知性を具えたえんまぐもがずっと大昔から引っかかっているこの謀計の裏を、なぜ今もってかくことが出来ないのか、説明して貰わねばならない。」(P.224)
「そこには客観的もなければ主観的もなく、適応もなければ分化もなく、遺伝もなければ進化もないのだからと。よろしい。だが少なくとも私にはそれが解るのだ。」(P.225)
十三 やぶいちごの住人たち
「世界を支配し進化させるという有名な自然淘汰の法則がもし何か根拠があるなら、もし優者が劣者を退けていくことが本当であれば、もし未来がより強き者、より優れた者のものであるのなら、つのはきりばちの一党はやぶいちごの切り残しに穴明け仕事をやり出した大昔から、共通の出口に執着している弱者を消滅させて、その代わりに強者である横孔の掘りてが取って代わるということは真実ではあるまいか。そうなればこの種の繁栄のためには非常な進歩がなされるわけだ。」(P.253)
「強者の系統は弱者を根絶やしにはしなかった。また前者は数の上でも少ないのだ。これは昔から多分ずっとそうだったに違いない。」(P.253)
「説明!私はそんなことをするつもりはない。私は知らないことを知るだけに喜んで止まっている決心だ。そうすれば少なくとも私は内容のない珍紛漢紛なんかいわずとも済む。」(P.256)
「いやこれで解るように、こんなに知らないと自状するなんて、私は現代の波に乗っていないのだ。私には何もならない大げさな文句を行列させる絶好の機会を放ったらかしにしておこう。」(P.256)
「進化がそうしなかったとすれば、我々人間は多くの人が主張しているように、細胞にふくらんで細胞となった最初の蛋白のアトムが世紀を追い、世代を経るうちに完成した進歩の一番高い表現であろうか。」(P.266)
十四 はさりはちやどり(莞青)
莞青 たぶん「かんせい」
莞青は、中国の伝統薬である芫青(えんせい)の俗称です。
芫青は、芫花(えんか)の上に生息し、体色が青色であることから名付けられました。
芫青の名称には、次のようなものがあります。莞青、莞菁、芫青、 芫菁。
古籍の「本草経集注」には「二月、三月在芫花上、即呼芫青」と記載されており、「本草綱目」では「居芫花上而色青、故名芫青」とされています。
莞 草の名前。イグサ科の多年草。また、ふとい(太藺)。カヤツリグサ科の多年草。いぐさで織ったむしろ。,にっこり笑うさま。
十五 はきりばちやどりの第一幼虫
「そして私は長い経験を経た今日、群居蜂類の中ではただ蜜蜂、すずめばち、まるはなばちだけが共同防衛を案出でき、また各個にも個人的復讐を行うため、大胆に攻撃者に襲いかかってくると断言できる。」(P.300)
十六 つちはんみょうの第一幼虫
「うっかり藁の端に飛び乗った奴を花に戻してやると、もう中々同じ罠には引っかからない。そうすると、こんな生きた点みたいなものにも、物の記憶、物の経験というものがあるわけだ。」(P.319)
十七 過変態
3
一 つちばち
二 あぶない食物
「理論をでっち上げる、そういうことは、私はあまり好ましく思わない。私は理論はすべて眉唾ものと考えている。疑わしい前提で雲をつかむような議論をすることもやはり私にはむかない。私は観察する。私は実験する。そして事実に語らせる。その事実、その語るところを、我々はいま聞きたいのだ。さあ今度はめいめいがきめる番だ。本能は先天的能力であるか、あるいはまた獲得習性であるかと。」(P.44)__ダーウィン主義と後天的獲得習性は別だと思う。
三 はなむぐりの幼虫
四 つちばちの問題
「偶然!便利な逃げ口上だ。」(P.63)
「この二重の締め縄で締めつけられまいとして、理論なるものはこう答える。つちばち類は一匹の祖先から出ている。その祖先は未定の生物で、習慣的にも形態的にも変わりうるものであり、環境、地域、気候条件に従って変化を受け、枝葉に分かれた幾つもの種族を出し、そのおのおのは一つの種となって、今日、それぞれを特質づけている属性を持つことになったのだ、と。祖先なるものは進化のデウス・エクス・マキナ( Deus ex machina からくり仕掛けの神様)だ。困難があまりにも切迫してくる、と、おいそらと取り急いで持ち出すこの祖先というやつが空所を埋めてくれる。この祖先というやつ、頭でこね上げた雲をつかむようなしろものの架空的生物だ。これは闇をも1つのもっと黒いやつで明るくしようとたくらむようなものだ。」(P.64)
「雲をつかむような文句、それを数々の世紀の秘密と生物における未知なるものと一緒くたにして手品を使えば理論なんかでっち上げるのはわけもないことだ。」(P.65)__「あと」から説明する。
(子供)「はじめ、彼は類似しか見なかった。今や彼は相違を見てとる、けれどもまたとんちんかんな並べ立てをいつも避けられるほどではない。」(P.66)
「なぜなら、要するに動物はその最も広い意味では消化する管だと定義づけられようから、この共通の要素を使ったら、未知はどんな痴言へも開かれるのだ。一つの機械はそれぞれの歯車仕掛けではなく、仕上げる仕事の性質によって判断される。」(P.68)
(進化論の大先生)「いやまったくだ、この先生はちゃんとそこが弱みだと感づいているのだ。本能は彼のてには合わない。そして彼の理論を崩壊せしめるのだ。」(P.69)
「この複雑なチャンスを、それの要素をなす四条件はきわめて稀有な成功率、ほとんど四つの不可能といってよいくらいのものだが、しかもそれが全部成功したことは偶然の結果で、そこから今日の本能が派生したというのだ。冗談も休み休み言ってもらいたい。」(P.73)
「私は二つの似た類例があるとき、他と矛盾しないように一方を説明出来ないような理論なんて大したしろものとは思っていない。」(P.75)
五 寄生虫いろいろ
「百例のうち少なくとも九十九の例外のあるこの法則とはいったい何だ。ああ、我々にわざわいあれ、だ!ある事実は、色彩との偽りの一致のうちに、その解釈を見出している。が、我々は色彩にだまされているのだ。我々は無限の未知界の一角に、真理の一つの幻影、一つの幽霊、一つのおとりをかいま見る。どうやらちょっとばかり説明がつけられると、すぐ我々は宇宙の説明を手に入れた気になる。そして我々は急き込んで、大声で言うのだ「法則だ、これが法則だ」。ところがこの法則の門口では、矛盾撞着する無数の事実の群れが、自分の居場所が見つからずにわめきき立てているのだ。」(P.87)
「物の「いかにして」と「なぜに」は忘れられている。我々が法則という大仰な錦で飾り立てているものは、我々の物の見方、ひどいやぶにらみな見方に過ぎない。我々がそれに慣れるというのはこちらの必要からだ。我々のいわゆる法則などは現実のほんの一片しか含んでいない。空虚な想像でふくらんでいることさえしばしばだ。たとえば擬態説がそれだ。」(P.82)__Nota Bene!!
「けれども、我々自身の悪徳が我々に吹き込む慨嘆を、動物が頂戴しなければならないだろうか。」(P.96)
「本当に重大であること、そして私が公式に否定していることは、同じ動物種の中で、あるものは他人のおかげで暮らすという属性を持っていることだ。」(P.96)
「どの昆虫も同種のものの寄生者ではない。
で、寄生ということが違った種類の動物の間に求められねばならないとしたら、それはどういうことになるか。総じて生は限りなき略奪にほかならない。自然はおのれ自身を食っている。物質はこの胃袋からあの胃袋へと過ぎながら生命を得ている。生物の饗宴では、おのおのはかわるがわるお客になり、御馳走になっている。今日の食い手は、明日の食われ手、 hodie tibi, cras mihi 一切衆生は生きているもの、生きていたもので生きている。いっさいは寄生生活である。人は偉大なる寄生者だ。食えるものならすべてのものの残忍な略取者だ。子羊の乳を盗んでいる。なきはなばちがすじはなばちの御馳走を略取しているように、蜜蜂の子の蜜を盗んでいる。この二つの例は類似的だ。それは我々が怠惰というところの悪徳だろうか。否、一つのものの生は、他のものの死を要求するという残忍な法則である。」(P.97)
「その寄生ぶりは我々以上のあさましさを持っていない。」(P.98)__人間は他種を滅ぼすような搾取を行う。
「空腹連中の残忍な争闘の中で、彼女は身にそなわっただけの力でできるだけのことをしているのだ。」(P.98)
六 寄生の理論
「そうだ、私は科学的に吹聴されているこの怠け癖というやつが大の嫌いだ。」(P.101)
「卵を宿すために彼に必要な時間と疲労との消費は、働き蜂が巣を作り、それに蜜をみたすために消費するものとかわりなく、あるいはそれより多いかもしれないのだ。」(P.103)
「過去にとっての事実、未来にとっての事実は、現在にとっての事実を排除するものだろうか。私にはさっぱりわけがわからない。」(P.120)
「どんぐりからは決して林檎の木は出来ないであろう、と、えらく常識屋のフランクリンがどこかで言っている。」(P.124)
七 左官蜂の苦労
「こうしたいたましい叙述をしていると、暗い考えが私につきまとう。あるものの幸福は他のものの不幸を踏み台にしている、と。」(P.145)
八 すきばつきあぶ類
「そもそも生とは何だ、最後の油の一滴が尽きてしまったときやっと消える豆ランプの炎にも似たこの生は?生活エネルギーの炉としての物質の中心が残っている限り、最後の腐敗に拮抗出来るとはどうしてであろうか。生物の力はここでは均衡の障害によってではなく、適用のすべての点がないということのために消滅するのだ。幼虫は物質的に無になったということのために死ぬのだ。」(P.158)
九 しりあげこばち
「なぜ、人間は調べるのか。動物のあの高い哲理、事物への無関心を人間は持っていないのか。腹のたしにもならぬことが、なんで我々の興味をひき得るのか。物を知って何の役に立つのか。有用でことたりるとき、真が何になる。」(P.180)
(P.182)__「彼」と「彼女」の違いは?
十 も一つの針さし虫
「性の二元性という問題は至難な問題である。なぜ、それは二つか。なぜ、それは一つでないのか。」(P.206)__DNAが解明されても「なぜ」は解決出来ない。
十一 幼虫の二形
「文無しと自状することは後指を指されたくない人間には大変辛いことだ。」(P.212)
「知恵の産婆役、精神の職人の私は宿とパンへの権利も持たなかったのだ。」(P.212)
「この地下倉の間取りとそれの中身について彼は何を知っているのだ。無だ。根は地の滋養について何を知っているのか。同じく無だ。けれども両者とも栄養のある場所に進んでゆく。」(P.229)
十二 とがりあなばち
「幸福な民族は歴史を持っていないという。それは本当だと私も思う。だが幸福をなくさないでも一つの歴史は持てるとも私は認める。」(P.244)__Nota Bene!!
「自分でそれとは知らないこの知識は、この蜂とその一族が何度もやって長年の間にだんだんと完全なものとし、世代から世代に伝えられる習慣によって獲得したものではない。そのようなことはあり得ない。私は百度でも千度でもそう断言する。一度で成功しないと破滅になるわざには練習したり、徒弟修業をやったりすることは絶対に出来ない相談だ。」(P.265)
「否、とがりあなばちの外科の腕前は獲得した腕前ではない。それはその中ですべてが活動し、すべてが生きている宇宙の知識からでなかったら、いったいどこからそれが出て来られるか。」(P.266)
「今日本能の起源とされている生活条件、食物の種類、幼虫の生活が行われる環境、防禦の囲い用に手に入る材料、その他進化論がよくいい立てるいろんな理由などは幼虫の工芸には事実上一つも影響していない。」(P.272)
「工事場、労働、食物は本能を決定していない。そんなものに先だち、掟に従わずに、掟を押しつけるのが本能だ。」(P.272)
十三 くしひげはんみょう、ほしつちはんみょう、きばねはんみょう
「一つの法則ができたと思い込むとき、我々の確信は一体何の上に立っているのか。我々が一つの普遍的なものまで高められたと思い込んだとき、我々は誤謬の中に沈没しているのだ。」(P.274)
十四 食物の変化
「私は昆虫の能力、食物、工芸、習性が触覚や関節の形なんかより重く見られる分類学を要求する。」(P.305)
「最初気に入らなかった一つの考えを支えるために、人はいつも後で理屈を見出すものだ。」(P.322)
「植物製品のこの変化に対して、生産者であるよりははるかに、消費者である動物は、その製品の変化のなさで対立している。」(P.322)
「正規の食い手の胃を除いて、ほかのもののどんな胃袋にとっても命取りのアルカロイドなどというものはない。だから動物質の食物はいつも同じお客一人だけに制限されていない。」(P.323)
十五 進化論へのお灸
「進化論が事の起こりといってよい。
宇宙を公式の打出鋳型の中に流し込み、すべての現実を理知の規範の下に押し込める。これは確かに人間の限りない野望にそった壮大な企てに違いない。」(P.328)
「けれども、観念の世界を離れない限り、実にこの強力な計算にほんのつまらない現実、砂粒の落下、一物体の振り子運動を出してやる、するとこの道具はもう働かない。あるいは現実的なものをほとんど全部なくさない限り働いてくれない。それには観念的な吊り点が必要だ。」(P.329)
「他のどんなつまらない問題でも同じことだ。正確な現実というものは公式から逃れる。」(P.329)__Nota Bene!!
「一粒の埃の落下の道を辿るというたったそれだけのことですら現実は我々には捉え難いのだ。しかもその我々が生命の流れをさかのぼって、その起原に到達するとうぬぼれでよいものか。問題は代数学が解釈を拒んでいるものよりずっと難解だ。」(P.330)__Nota Bene!!
「そんなに遠くまで遡るのはよそう。迷いや間違いが実に容易に罠をはれる混沌の雲の中には飛び込まないでおこう。明瞭に限界のある題目を採用しよう。これが互いに理解し合う唯一の手段だ。」(P.332)
十六 性による食糧割当
「科学的には自然は人とその好奇心にとって決定的な解決のない謎だ。仮説の後に仮説はつづき、理論の廃材は後から後から積み上げられる。そして真理はいつも逃れる。知らざるを悟る、人智の最後の言葉はこれなのかもしれない。」(P.336)
「一つの種が創設されることになるのだ。なぜなら生物の進化に作用を及ぼす諸因の中、第一位にあるのは疑いもなく食物の種類、動物の体をこしらえ上げる食物の種類だ。以上すべてはダーウィンが引用している瑣末事とはちがって、実に大切なことだ。」(P.348)
「飢餓時でも、あり余る時と同様に雌雄が現れ、その種の特徴は変わりなく維持されている。
この問題にこれ以上止まる必要はない。証明はなされたのだ。食客連中はこういっている。食物は量的に変化があっても種の変化をきたすことはない。」(P.353)
十七 つのはきりばち
十八 雌雄の振り分け
十九 母虫の思いのままになる卵の性
「どんな古巣ででもくり返されているこんな事実から、また卵はそれに応じた広さの房室に産みつけられるのだから、母蜂はこれから産む卵の性を知っていると否応なしに認めねばならない。いやそんなことでは済まない。偶然占有した巣の空間の条件の要求通りは母蜂はこの古巣からあの古巣へと産卵を雄と雌との小さな群れに刻んでいるのだ。雌雄の順序を自由に変えられると認めねばならない。」(P.410)
二十 卵の性の入れ替え
「人生の門出の頃、私は本が欲しかったが、それを手に入れることは私にはずいぶん苦労だった。今日それを手に入れることは大体出来るようになったが、私はもうそんなものは欲しくなくなりかけている。それは人生の段階の普通の歩みだ。」(P.442)
第4巻
一 るりじがばち
「世間の評判記は自己宣伝のうまい奴、うるさい奴、世の中に迷惑をかける奴らのものだ。」(P.5)
「暑い盛りの月の子ながら、この気候学の大家は自分では遭うこともない極寒の季節を家族のために予感しているのだ。」(P.13)
二 ひげべっこうばち るりじがばちの食物
三 本能のくるい
「昆虫がその技能の基礎的な点を修正すると期待するのは幼な児が乳の吸い方を変えるのを望むようなものだ。」(P.53)
「この環のぜんたいが滞りなく行われたと(FF)き、細工物はいっさいの論理を欠いた職人によって作られた極めて論理的なものである。
労働への刺激は喜びへの誘いだ。これが動物の最初の原動力だ。」(P.53-54)
四 つばめとすずめ
五 本能と識別力
「昆虫の精神でははなはだしく違った二つの領分をはっきりと区別しておかねばならない。その一つはほんとうの意味での本能、工芸の中いちばん不思議なものを、虫に完成させるように司る無意識的な衝動だ。経験と模倣とが絶対に入(FF)り込めないところ、そこを本能は不動の掟則で支配している。」(P.73-74)
「この能力は能力としては最初から完成されたものだ。」(P.74)
「これは何よりも一番固定した動物学的性質だ。それの実行は胃の消化の力と心臓の鼓動の力とがそうでないと同じように、随意的でもなく、また意識的でもない。その活動の一つ一つは前もって決まっていて、その一つの次には何が来るとちゃんと定まっている。それは一つの歯車を動かすと必ず次の歯車の運動を伴うある種の機械仕掛けに似ている。」(P.74)
「自らを知らない一本調子の知識であるこの純粋本能は、もしそれだけだったら、環境の不断の(FF)闘争の中で昆虫を途方に暮れさせたことだろう。時間におけるこの二つの時期は同一ではない。基本は一つでも細部には変化がある。思いがけない事は至る所で起こって来る。この混沌とした争いの中で、探すため、受け取るため、拒むため、選ぶため、あれよりこれを取るため、あれを見捨てるため、最後に機会が提供してくれる利用可能なものを利用するために一つの指針が入用だ。この指針、それを昆虫は必ず持っている。しかも極めて明瞭な程度に。これは虫の心の第二の領分だ。そこでは彼は意識的であり、経験による改善も許される。智力という文字があまりに高過ぎるのでこの初歩的な能力をそう呼ぶ勇気はなない。私はそれを識別力と呼んでおこう。虫はその最も高い特権として、もちろんその技術の連鎖の中でであるが、識別し、一つのものと他のものとの間に区別をたてる。そしてだいたいそれだけのことだ。
純粋本能の行為と、識別力の行為とを同じ見出しの下にごたまぜにしてしまう限り、果てしない論争に陥って論戦を尖らすだけで問題は一歩も進みはしない。昆虫は自分でしていることを意識しているか 然り、かつ否、同時にそうなのだ。もしその行為が本能の領域に属していれば然りだ。昆虫はその習性を変化しうるか もし習性上のその行為が本能に関連していれば否、絶対に否だ。それが識別力に関連していれば然りだ。」(P.75)__Nota Bene!! 人間も同じ。「意識」という単語があるかないか。
六 力の節約
「だがこれは最初の技術が忘れられて虚無の中に投げ捨てられて消失したという意味ではない。」(P.98)
「彼らにはどんな計算もない。どんな予めの考慮もない。ただ、ぜんたい調和の法則への盲目的な服従があるだけだ。」(P.100)
七 はきりばち
「卵はない、だが力は余っている。そこでこの力は最初種の安全のため要求されたように消費される。行為の歯車装置は活動理由がなくてもやはり働いている。それは惰力的な動きでずっと活動を続けているのだ。」(P.112)
「本能の長い見習い奉公だの、その徐々たる獲得だの、世紀のたんねんな作りものの才能だのとよく云々されている、はきりばちはそれの逆を私に裏書きしてくれている。彼らは私にこう云っ(FF)ている、動物はその技術の根本では不変であるが細部の革新はできる。なお彼らは同時にまた次のことを言っている。これらの革新は徐々にではなく突発的である。」(P.128-129)__突然変異ではない。
八 もんはなばち
九 樹脂を捏ねる虫々
「人は屍を相手に研究をやっていた。そして研究室のこの解剖的方法は今日なお止みそうに思われない。」(P.150)
「最初の殆ど死骸ばかりの研究は、どうしてもやむを得ないことだ。箱を串刺しにした虫類でいっぱいにする。これは誰でも手の出せる仕事だ。同じ昆虫でもその生活様式、その労働生活、その習性を辿るとなると、これは全く別な話だ。分類学者には暇がない。そして多くはそんな趣味もない。」(P.150)__博物館。歴史資料館。止まったもの、死んだものの研究。食糧にするわけでもないのに。本と同じ。それが「知識」を作る。話されることばと書かれた文字。
「私の領分からは、私はそのもしも・・・を追放している。私は何も予想しない。私は何も・・・を認めればなんて言わない。私は信頼に価するたった一つのもの、生(なま)の事実を採集する。」(P.164)
「生は到る処で、賤しい者の間ですら、二つの面、授けられた良きものと授けられた悪しきものを持っている。後者を避けて前者を求める、これが要するに諸行為の一般的な収支表だ。動物はわれわれそっくりで、和やかな運命と苦しい運命を持っている。後者をより少なくするということは、前者をより大にするということに劣らずたいせつである。なぜならわれわれにとっても同じように虫にとっても「避けがたい不幸で幸福は作られている」のだから。」(P.165)
「母虫にどんな烈しい印象が与えられたにしても、偶発的なるものは子孫に何の痕跡も残さない。本能の発生に関して偶発的なるものは何の関係もない。」(P.166)
「この例は、道具の形も職人の身形も実現された仕事を説明しないとわれわれを説伏するものだ。私はそう考えている。」(P.172)
「観念は物質を支配するということだ。原動的な一つの啓示、形に先立つ一つの才能が道具に支配されるのではなく、道具を支配している。道具は手芸形式を決定しない。道具は職工を作らない。最初に一つの目的、一つの設計がある。虫は無意識にそのために活動しているのだ。われわれは見るために目を持っているのか、目があるから見るのか。機能が器官を作るのか、器官が機能を作るのか。この二つの岐路の中、昆虫は前者を拍手喝采を以って迎える。彼はわれわれに言う。「私の芸は私の持っている道具のため私に強いられたのでありません。私は持って生まれたままのこの道具を身に備わった才能のために利用しているのです。」彼は彼式にわれわれに言っている。「機能は器官を決定する。視像は目の原因である。」彼はかくしてウェルギリウスの深い考え、「精神は物を揺り動かす、」をわれわれに繰り返している。」(P.176)
十 どろばち
十一 みつばちはなすがり
「すべての生物はその初期の段階では肉食である。生物はタンパク質が主となっているその卵のおかげで体を作り育つのだ。一番高い哺乳動物は長いあいだこの食餌をつづけて取っている。それは母乳を持っている。これは蛋白の他の異性体であるカゼインを豊富に含んでいる。穀粒をついばむ小鳥の子ははじめ、胃の弱さにより適した小虫を貰う。もっと卑しい輩のあいだでは幼児の多くはすぐに自分で暮らしを立てるが、彼らも動物食を用いている。」(P.232-233)
「日が経って胃がしっかりして来たとき、化学的処理にはもっと骨が折れるが、手に入れるのは楽な植物性の食物が採用される。乳の次には牧草、小虫の次には穀粒、巣穴の生餌の次には花の蜜となる。
幼虫が肉食する蜂類の二重の食餌 最初は生餌、ついで蜜 の説明のいとぐちはこれでついたようだ。しかしそうなると疑問符は位置を変える。それは別のところに立っていた。いまそれが立っているのはここだ。つのはきりばちの幼虫は蛋白でもいっこうに迷惑はしないのに、なぜ最初密で養われるのか。他の蜂仲間が動物食なのに、蜜蜂類は、卵から出たとき植物食であるのはどうしたわけか。」(P.233)
「無知はいつも悪口の源である。」(P.235)
「結果はそれに添わないにしても、目的は行為を許してくれるだろう。
私はそれ故、私の形容語をとり消して、この蜂の母性の論理を称え、また人にもほめて貰おう。蜜は幼虫には有害なのだ。だが母蜂は自分にはごちそうであるシロップが幼虫に毒であるといったいどうして知っているのか。」(P.236)
十二 じがばちの方法
「本能の本質を考えあぐむ哲学者は刈蜂の仕事ぶりに桂冠を授けてくれるだろう。私も後者に賛成する。この発見、日づけからも最初のもので一番なつかしい思い出を持っているこの発見のためなら、残り全部の私の昆虫学の知識の鞄をなんの惜しげもなく捨てて、いささかも悔いないであろう。本能という天賦の才能がより明瞭な論証の輝きを示しているところはどこにもない。どこでも進化論はこれ以上に厄介なつまずき石にはぶつからないのである。」(P.238)
「だがこのダウンの哲人はすべての議論よりすぐれた方法、(FF)実験に基礎をおいた討論が始まるか始まらないうちに逝去したのだった。この時期に私が彼にわずかながら知らせたことは、彼にはまだ説明の望みをいくらか残していた。彼にとって本能はどこまでも獲得習性である。」(P.238-239)
(ダーウィン、一八八一年四月十六日づけの手紙。ロマーニズに)というのは本能は化石状態では存在しないのですから。唯一の道しるべは同じ目の他の連中の本能の状態でしょう。(中略)ファーブルの論文はその後彼の嘆称すべき『昆虫記』の中でさらに深められています。」(P.239)
「われわれが明瞭を望むかぎり、観念論はここでは何の用もないのです。」(P.240)
十三 つちばちの方法
「彼らの腕前はわれわれの知識を呆然とさせるほどだが、そのやっている事については意識の片鱗すらない。」(P.258)
「秩序は秩序を呼ぶ。そして偶然に規則があるものではない。」(P.263)
十四 べっこうばちの方法
十五 反対論とお答え
「思いつきの世界はなんとでもいえる世界で、てんでに自分の頭ででっち上げたことを勝手に持ち出してよいのだ。しかし事実の前ではかれこれいうわけには行かない。」(P.282)
十六 みつばち類の毒
「よく知られた化学上の特性、あるいはその他のことが欠けているとき、この二つの毒を実際に比較する手段は一つしかわれわれは持ち合わしていない。それはよび起こされる苦痛の程度だ。その他は全部解っていない。またどの毒も、がらがら蛇の毒にしたところで、あんな恐ろしい作用の原因がどこにあるのか、今までのところ教えてはいない。」(P.301)
「地質学者が古代の骸骨の暮らしぶりをわれわれの頭の中に描かせてくれるのは、現代の世界から推してではあるまいか。」(P.309)
「習性は化石として保存されてはいないが、それに関して長々と述べ、しかもこれは信じる値打ちがある。というのは現在が彼に過去を教えているからである。」(P.310)
「ところで無数に異なったこの本能は段階的な推移についていったいどんなことをわれわれに教え得るのであろうか。」(P.312)
「数一つずつの進みなどなんの用があるのか。一滴の水の中に宇宙は見出だせるのだ。論理的な槍一刺しの中に普遍の論理がまざまざと見られるのだ。」(P.313)
「一からは確かに二になる。しかし狩蜂の一本突きはけっして二本突きにはならない。
各自が生活するためには、生活させてくれる条件が必要である。これはラ・パリスの有名な言葉にふさわしい真理だ。狩蜂は彼らの才能で暮らしを立てている。もしその才能を完全に持っていなければ、彼らの子孫はできないのだ。過去の歳月の闇にかくれた化石ではない本能という議論は、現在の現実の光に他のもの以上に耐えることはできない。それは事実がちょっと肩でついたら崩れてしまう。」(P.314)
十七 かみきりむし
「二十歳の私は三段論法を信頼しきって、この哲学の推理の手品を楽しんでたどったものだ。」(P.315)
「ところが虫けらという私の一番良い先生に教わって、私は幻から醒めたのだ。問題あの坊さんがいっているよりはもっと濃い闇に包まれている。」(P.315)
「ひょっとして体制は環境以外の他の法則に従っているのではあるまいか。」(P.319)
「それはしばし犬の粗野な脳で物を考え、世界をはえの複眼で眺めてみたいということであった。物の姿はどんなにか変わることであろう。虫の知力で解釈されたならなおもっと変わってくるだろう。」(P.322)__基本的には、人間は人間の目、人間の思考しかできない。擬人化とはそういうものだ。昆虫が「生き延びたい」植物が「生活範囲を広げたい」と考えているわけではない。そう考えるのは仕方ないにしても、それが人間の見方であることを考えていないと、とんでもない人間中心主義(西欧中心主義)になる。自分が殺されるときに、「殺されたくない」と思うのはなぜか。それも西欧中心主義的自我であることを忘れないように。他者との関係を他者との状況共有で日本人は捉える。それも一つの考え方だ。共感はそれを西欧的な目で表現しているだけだ。
「食ってさえいればよいわけではない。外に出てゆかなければならない。道具も立派なら筋肉も逞しい幼虫にとっては、木に孔をあけて好きな場所にゆくのは朝飯前だ。しかし短い生涯を外気の中で過ごさねばならぬ将来のかみきりむしは同じ特権を持っているのか。」(P.323)
「私には合理的な推論はできても、この裸虫ほど将来のことに通じていないので、この問題を解くのになんどか実験に頼ってみた。」(P.324)
「そうしたら早速彼はこう認めたことであろう。感覚の概念の外で、動物は 人を含めての話であるが、獲得したものではなく、生得的な若干の心の動き、いくつかの霊感を持っていると。」(P.330)
十八 きばち(木蜂)の問題
「道具は職人の手法を決めるのか、あるいは職人が道具の使い方を決めるのか。本能は器官の派生物なのか。あるいは器官は本能に使われているのか。枯れた桜の枯木がその答えを授けようとしている。」(P.331)
「われわれは十分の感覚手段を身につけていないので、それを思いつくこともできないのだ。それはある場合にはわれわれの器官が何も知覚しない別の世界、われわれには閉ざされた一つの世界である。」(P.352)
「未知はどんな国語にもその名はありはしない。それは闇の中の隠居虫は最短路を通って光を見出すことを心得ているだけの意味である。それは無知の告白である。しかし、正直な観察者なら、誰も顔を赤くすることなく持っているといえる無知である。本能の進化論的解釈がいずれも空虚なものと解ったとき、われわれは私の研究を簡明に要約するアナクサゴラスの次の優れた言葉に達するのだ。
精神は万象を統ぶ。 Νοῦς πάντα διεκοσμήε. 」(P.354)
第五巻
はしがき
「昆虫類は我々にこういっている。「本能を呼びさます最高の力は母性である」と。個体の保存よりも重大な利害のある種の維持をつかさどっている母性は、最も愚昧な知性の中に、驚異すべき先々までの用意を呼び起こす。母性は三重にも神聖な炉といえる。謬ることのない理性の幻想を我々に見せるあの不可解な精神の微光は、その中でひそかに燃えはじめ、やがて突然にぱっと輝いて出てくるのだ。母性が強まれば強まるほど、本能もまた高められる。」(P.5)
「我々のいう美と醜、清潔と不潔とが、自然にとっては何であろう。自然は汚物をもって花を創造し、わずかばかりの糞尿から我々のために祝福された麦の穂を取り出してくれる。」(P.7)
一 聖たまこがね 団子玉
「これは転がる。だから丸くなる。丁度同じように転がされたいびつの粘土のかたまりが丸くなるのと同じように、と考えるだろう。この考えは見かけはいかにも論理的であるが、全然まちがっ(FF)ている。我々が今述べたように、この正確な球形は、毬が仕事場から動かされるまえに、でき上がっていたのである。」(P.21-22)
「持ち運びのできないものは引き摺って運べる。引き摺ることのできないものは転がして運べる。」(P.24)
「この形は実に将来転がす必要のために肉付けされるもので、そうすれば重い荷物がこの虫の力でも運べるからなのだ。」(P.24)
「掠奪、強いもの勝ちという憎むべき権利は、人間というけものだけが持っている専有物ではない。虫もまたこれを持っている。」(P.25)
「決着はいつも権利のある方に有利とはかぎらない。」(P.26)
「泥坊は獲物をしばらく転がした後で捨ててしまうことがかなり多いのだから。掠奪の楽しみのために掠奪するのだ。ラ・フォン(FF)テーヌがうまくいっているように、そこには
二重の利得がある。
第一にわが身の利益、それから他様(ひとさま)の迷惑。」(P.26-27)
(P.29)__臭いと臭覚は同一物の2側面である。虫と花の関係とも同じ。蚊と二酸化炭素。
二 聖たまこがね 梨玉
「類推はもちろん貴重な手段ではある。だが直接に観察された事実には及びもつかないものである。生物のつきることのない多種多様の世界に分け入るには、当てにならないことの多いこの案内者にだまされて、私はこの誤りをながびかせる手伝いをしたわけである。」(P.38)
「世界は、ただ我々がこれについて作る思想によってのみ我々の興味をひく。思想がなくなれば、一切は空しくなり、混沌となり、虚無となる。事実を積み上げるということは知識ではない。それは冷たい目録である。魂の炉火でその冷たさに熱を与え、それにいのちを与えなければならない。思想と理性の微光を呼び入れなければならない。解釈を加えなければならないのである。
たまこがねの細工物を説明するために、我々はこのけわしい道にわけ入ってみよう。ひょっとすると、我々は昆虫に、我々自身の論理を当てはめていることになるかもしれない。が、とにかく、理性が我々に告げるところのものと、本能が虫に告げるところのものとが、驚くほどうまく一致するのが見られたならば、この素晴らしいことといえよう。」(P.43)
「花はそのすばらしい花弁について何を知っているであろうか。雪は見事のその六放射形について何を知っているのだろうか。この花や雪のように、たまこがねも、その細工物を作りながら、美というものを知らないのかもしれない。
美はいたるところにある。ただし、これはその美を認める能力のある眼があるということを特に条件としての話である。」(P.52)
「一般的に考えた場合、そもそも美とは何であるか。それは秩序である。秩序とは一体何であるか。それは全体おける調和である。調和とは一体何であるか。 それは・・・まあ、そのくらいにしておこう。答えは問に果てしなく続きながら、しかも決して最後の礎石、堅固不動な立脚点に到達することはないであろう。」(P.52)
三 聖たまこがね 肉付け
四 聖たまこがね 幼虫
五 聖たまこがね 蛹、解放
「糞虫の鈍い脳味噌の中では、この輝きわたる光の最初の浴みの間、どんな考えが起こっているのだろうか。多分何も起こっていないのであろう。彼は陽を浴びて開く花の無意識な幸福感を持っているだけであろう。」(P.96)__陽を浴びることの幸福感。あると思う。
六 大頸たまこがね、、くろひらたこがね
「本能は将来を見ている。それは過去を知らない。」(P.116)__時間は、空間と同じであり、今ここしかない。
七 イスパニアだいこくこがね 産卵
「私は野蛮な言葉を使わずとも、良い事はいえると革新している。はっきりいうことは、ペンを執るものの最高の礼儀である。」(P.117)
「だから、この母虫は地下で子供との対面のよろこびを味わったわけで、これ(FF)は昆虫の世界では、きわめて稀な特権といわねばならぬ。」(P.129-130)
「私はそれを幾度もいってきたし、またここでも繰り返しておくが、昆虫はその行う仕事と調和したこの上もなく、精妙な感覚器官を持っている。この能力は我々にそれと似たものがないので、推しはかることさえ許されない。生まれながらの盲人は、色彩の観念を持ち得ない。我々は我々を囲んでいる測り知れない未知の世界に対しては、生まれながらの盲人である。幾千も幾千もの疑問が湧いてくる。しかもその答えは可能でない。」(P.141)
八 イスパニアだいこくこがね 母虫の習性
「しかも、監視の母虫はこの無言の音を聞き分ける。それは沈黙を聞き、見えないものを見るのである。」(P.155)
九 くろまるこがね、きあしつのこがね
「一種族の繁栄は衣食の不自由の上に打ち立てあることはできない。」(P.176)
「端麗と醜怪との間の境、そんなものは存在しない。すべては評価するもの次第である。」(P.178)
「親は子に対面しないというのが、昆虫界の通則である。親はひとたび子の未来が保証されると、死ぬものである。」(P.185)
十 せんちこがね 一般衛生
「田舎の保健については、多くの配慮を惜しまない自然も、都会の福祉のためには、敵意を示さないまでも、無関心である。」(P.190)__Nota Bene!!
「都会で我々のからだのやむを得ない必要をみたしにゆくあのアンモニアの臭いのする辻便所というものは、村ではほとんど見られない。その辺にあるあまり高くない塀、生垣、木の繁み、百姓が一人になりたいと思うとき、(FF)人目をはばかる場所として求めるものはそれだけである。」(P.190-191)
「遠近を問わず、この利益を受けるものをすべて数えあげるということは、生物のつながりが解けないほどしっかりと絡み合っているため、不可能である。」(P.197)__Nota
「動物の微妙な感受性は、水銀柱のような重いばかりで感じのない代物などよりずっとました。」(P.201)
「それは偶然の暗合であろうか?それは原因と結果との関係であろうか?十分な数だけ参考資料が(FF)ないので、この?をもっておしまいにしよう。」(P.202-203)
十一 せんちこがね 巣のいとなみ
(P.210)__標本でしか見ていない。
「ただ一つの点ははっきりと現れている。本能はからだの構造に支配されているのではない。」(P.223)
__性欲とモテ具合が比例すればいいのに。
十二 せんちこがね 幼虫
「人間の考えしか反映していない言葉は、現実を表現する場合、あやまりを犯し易く、また不忠実になり易い。」(P.226)__Nota Bene!! 深海魚の眼は退化したのか、人間の目は進化したものか。
「成虫の耐寒力は裸虫の耐寒力よりも弱い。体制が微妙になるにつれて、それは丈夫さを失うのである。」(P.235)
十三 蟬と蟻との寓話
「蟻からそっけないもてなしを受けた蟬の話は、利己主義と同じく、いいかえれば、世界と同じく古い。」(P.241)
「ラ・フォンテーヌよりもけしからぬことは、このギリシャの寓話作家は、自分の近くでシンバルを鳴りひびかしている本当の蟬を調べもしないで、書物にある蟬を語り伝えたのである。事実をさしおいて、伝説に従ったのである。彼自身もまたもっと古い作家の模倣をやった。彼はもろもろの文化の貴ぶべき母胎、インドから来た何かの伝説を繰返したのだった。先見のない生活からどんな災厄が生まれるかを示すために、インド人が書き記したテーマが何であったかは正確にはわからないが、引き合いに出されたその動物達の小景が、蟬と蟻の会話などよりはずっと事実に近いものであったことは信じられる。鳥や獣の偉大な味方であるインドに、こんなまちがいは起こり得ない。」(P.243)
「こうしたことはすべて伝説にあることで、それは時代のうつりかわりにともなって、話(FF)、をその時と場合との事情にそれぞれ合わせることから起こる。
ギリシャ人はインド人の語る昆虫がギリシャの野原にいなかったので、丁度近世のアテナイともいうべきパリで、蟬がきりぎりすにかえられたと同じように、大体似ているところから、蟬を持って来たのである。」(P.243-244)
「お前はそのいいわけに、先取権があると言い張るだろう。私が来るまでは、この二本のフラタナスの木は(FF)梢から根本までお前のものだった。」(P.244-245)
「全く反対に、蟻こそ食糧が欠乏して困ったあげく、この歌姫に哀願するのである。いや、哀願するなどと言えようか!物を借りて返すということは、この略奪者の習性にはない。」(P.245)
十四 蟬 地下の穴からどうして出てくるか
「そこに余土が少しもないのは、粉状の廃物が、通過してきた土質よりもっと緻密は、もっと等質な漆喰として、その場で、用いられるからである。
だから、裸蛹は、粘々した泥の中で仕事をしているわけである。そしてそれが、からだのよごれている理由で、人は乾ききった地面からそれが出てくるのを見て、ひどくびっくりする。成虫になると、もう坑夫の苦役を免れたわけであるが、それでもこの小便袋をすっかり棄ててしまったのではない。その名残りは、防御手段として保存されている。」(P.265)__蟬のしょんべん。
十五 蟬 変態(羽化)
十六 蟬 歌
「数限りない虫を調べてみると、大てい雌雄の接近は沈黙の中に行われる。私はきりぎりすのヴァイオリンや雨蛙の風笛やかんかんぜみのシンバルには、生のよろこび、動物の各種族がそれぞれの仕方で祝っているこの宇宙的なよろこびを表明するのに適当な手段を見るだけである。」(P.299)
十七 蟬 産卵 孵化
十八 かまきり 猟
十九 かまきり 恋
「多分、これは石炭紀、昆虫がわずかに畸形の生殖行為しか持っていなかった地質学的時代のかすかな名残りであろう。かまきりの属する直翅類は、昆虫の世界では一番早く生まれたものである。」(P.349)
二十 かまきり 巣
「これは本能の手際をぜひとも必要とする器用な細工ではない。それは道具により、体制に(FF)よって定められた、純粋に機械的な仕事である。あんなに複雑な構造をした巣は、ただ器官の働きだけで、出来るのであって、これは丁度我々の工場で多くの品物が機械的に加工され、それを完成するに指先の器用さは要らないのと似ている。」(P.360-361)
「私の村では、またもちろん近辺の村では、ティニョ いうまでもなくこれはかまきりの巣を指している がそのほかすばらしい歯痛薬としてふいちょうされている。」(P.367)
「我々はこの途方もない歯痛薬を笑ってはならない。新聞の第四面に堂々と並べ立てられている多くの売薬もこれ以上の効果はないのである。」(P.368)
二十一 かまきり 孵化
「かまきりについていわれたと同じく、我々は桜についてもこういい得るだろうか。「過度の漬滅は次第に過度の生産をよび起こした」と。誰が敢えてこんな無茶なことを放言できるだろうか。」(P.379)
「世界は己れ自身の上に立ち帰る一つの環である。一切は一切がまたやり直すために終わる。一切は一切が生きるために死ぬるのである。」(P.384)__仏教的。
二十二 くしひげかまきり
「実際には休息などというものは、生命に終止符を打つ休息のほかには、どこにも存在しないのである。闘争は止むときはない。いつもどこかの筋肉は働き、ある腱は引っ張られている。虚無の静けさへ帰ったような睡眠は、目ざめているときと同じく、ここでは肢、巻いた尾の先、かしこでは爪、顎による一つの努力である。」(P.396)__東洋的。
「おたがい同士で喧嘩など決してしない。おがみかまきりの得意な、あの突然翅をひろげ亡霊の姿をして、驚いた蛇のような息音を出すことは決してない。拳闘で負けた同胞を食べるあのとも食いの饗宴をやろうなどいう下心など少しもない。こうした怖ろしいことはここには全くないのだ。
悲劇的な恋愛もない。」(P.397)
「すなわち、いろいろの傾向、いろいろの性向は体制だけに支配されているのではない。物質を支配する物理学的法則の上に、本能を支配する別な法則が高く立っている。」(P.400)
第六巻
一 しながたまおしこがね 父性の本能
「父親としての務めは、高等動物以外にはほとんど課されていない。鳥類はこの役にひいでている。毛皮を着込んだ連中はそれをちゃんと果たしている。」(P.5)
「もしも科学が上下を脱いで子供たちに解りやすくなれたら、もしもわれわれの大学で本にある屍の研究に野外の生きた研究をつけ加えようと考えてくれたら、もしもお役人の大切がる教案という縛り網が一切の善い計画を窒息させなかったら、博物学は子供たちの頭にどんな美しい楽しいことを宿らせるであろうか。私の小さいポルよ、野の迷迭香(まんねんろう)やいちごの木の中でできるだけ勉強しよう。そうすれば体も丈夫になり精神も強壮になる。本の中にあるものよりももっとよい真と美がそこには見出されよう。」(P.9-10)
二 つきがただいこくこがね やぎゅうおおつのこがね
「今日のように世智辛くない昔のよい時代には、地を掘り動かす国民(くにたみ)、国のほんとうの礎である農民は家族の増えることを財産の増加だと考えていた。家中は働いていた。そしててんでに自分のパンをつましい食卓に持ち寄っていたものだ。兄さんが畑を鋤く馬の口を取れば、初めて半ズボンをはくくらいの一番下の弟は、家鴨の子を沼に連れて行っていた。
こんな大家族の習わしは珍しくなってきている。世の中が進んでそうなったのだ。いや確かにそうだな、二輪の輪の上に死にかけの蜘蛛のようにへたばりついて両足でペダルをじたばた踏むなどは、まさに羨望に値する運命だ。しかし進歩にも楯のも一つの半面がある。それは贅沢を連れてくる。お金のかかる欲望を生み出すのだ。」(P.30)__Nota Bene!! 女性は会社で働きたいと本当に思っているんだろうか。そして男性も。お金があっても働くか。欲望は多分それを超えて大きい。
「若者たちは若者たちで、昔の居酒屋なんかとは較べ物にならない贅沢なカフェに日参だ。」(P.31)
「収入は費用に追いつかぬので、お金がもっと楽に蓄まると考えて畑を見捨てて都へ出て行く。ところがここでも前より以上にお金など蓄まりっこありはしない。工場ではお金使いの機会が無数に見張っていて、畑仕事よりもっと残らない。だがもう間に合わない。都の空気が染み込んで、都会の貧乏人になり、そして子供の殖えるのを怖がってくるのだ。」(P.31)__今はテレビが、田舎の貧乏人を作る。
その間に気候も地味も地理的な位置も何一つ申し分のないフランスには、世界を股にかけている奴、ペテン師、あらゆる種類の山師たちが雪崩のように押し寄せている。昔、この地に誘われて来た民族には海上往来者であったフェニキア人もいる。アルファベットと葡萄と橄欖とをもたらした平和なギリシャ人もいる。荒々しい支配者だったローマ人は今でもなかなか抜けない荒々しさをわれわれに残している。この恵み豊かな土地に垂涎して地の四方からキンブリ族、テュー(FF)トン族、ヴァンダル族、ゴート族、フン族、ブルゴント族、スエヴィ族、アラニ族、フランク族、サラセン人などの部族が襲って来たのだった。そしてこれらの異民族が混合し、ゴール民族に吸収されたのだ。
今日、異邦人が緩慢にわれわれの間に潜入しつつある。第二の蛮族侵入がわれわれを脅かしている。それは平和裏に行われてはいるが、しかし迷惑なことに変わりはない。明晰と調和とでできているわれわれの国語は外国渡りのゴツゴツした不明瞭な訛り言葉になるのであろうか。先祖伝来のこの国は祖国ではなくなって、諸国商人御宿になるのであろうか。古くからのゴール族の血がもう一度この侵入に凌ぎ勝つ力を持っていなかったら、これは恐るべきこととなろう。
その力はまだあると信じておこう。」(P.31-32)
「子沢山の家族は食物を必要とする。しかし進歩は新しい欲求を道連れとし、それを満たすのはなかなかお金の掛かることだ。そしてわれわれの収入は同じ速度で追っついては之けない。六人、五人、四人分に十分なものを持っていないので、三人、二人に減らして暮らすのだ。あるいはひとり暮らしのままでやっていく。こんな原則では、進歩に進歩を重ねていくと一民族は自殺に追いやられてしまう。
だからして昔に戻ろう。拵えた欲求なんか行き過ぎた文明の禍の木の実だ。そんなものは刈り取ってしまおうわれわれの先祖のように、田舎のつつましさを昔通り尊ぼうではないか。田舎(FF)に残っていよう。われわれが好き勝手をいうのさえ慎めば、土はわれわれを十分に養ってくれるのだ。そうすれば、そしてそうした時にだけ、家族は昔のように栄えるであろう。その時、都会とその誘惑から解放されて、農民はわれわれを救ってくれるであろう。」(P.32-33)
三 隔世遺伝
「だがこの遺伝という言葉の背後にはなんという闇があることか。理論はそこに光を投じようと試みた。それは粗野な仲間言葉を作ることにしか成功しないで、分からなかった事をいっそう分からなくして残しただけだ。われわれのように明晰を欲しがる者は、わけの分からぬ高論などはそれを道楽にしている連中に委せて、野心を観察できる事実に止どめ、原形質の秘密を説明しようなどと乗り出すことはしないことだ。われわれの方法は確かに本能の起源など説き明かすことはないであろう。だがそれはどこにその説明を求めに行ったら無駄足になるかぐらいは教えてくれよう。」(P.42)
「しかし誰も自分をほかにしては一つの存在の奥底まで調べることはできないのだ。自分を材料にしても強靭な記憶力と思考能力のお陰で探り針に適度の正確さを与え得たら十分に幸いとせねばならない。他人の皮膚の中には入り込むということは誰の力にも(FF)ないことなので、この問題についても自分のことに止どまらねばならない。」(P.42-43)
「ダーウィンが比類なき観察者という名を私に授けて以来、この言葉は一再ならずここかしこで私のために使われている。もっともなんでそんな名を授かるほどのことがあるのかこの私には未だに理解できないのだ。自分のまわりにうようよしているものに興味を持つというのは、どうも極く当たり前のことではあるまいか。誰にでもできることだし、それに面白くはあるのだから。まあそんなことはそれとして、この讃め言葉が嘘でないとしてみよう。」(P.43)
「平民は歴史を持たない。その日その日に追われ通しで過去の思い出を保存することなんかてん(FF)で考え及びもしない。」(P.43-44)
「しかし時世の成り行きのため、家は見捨てられ、子供たちは飛んで行ってしまい、古巣のことは忘れられてしまうのだ。」(P.44)
「もし教育を受けて、例によってその火花を燃え立たせ、習練によってそれを発展させねば恐らくは消えてしまうだろう。そうなら遺伝が説明できなかったことを学校が説明してくれよう。この点を今調べてみよう。」(P.53)
四 私の学校
「この学校ではどんな本を読んでいたか。 フランス語ではせいぜい、聖者のお話の抜粋だった。ラテン語はもっと頻繁だった。」(P.60)
「それから歴史と地理は? われわれの誰も一度もそんな話を聞いたことはなかった。地球が丸かろうが四角だろうがわれわれは一向平気だった。土地に物を育てて貰うむずかしさはどちらにしても同じだった。」(P.61)
「言葉を正しく書いたり話たりするのはやっている中にひとりでに覚えられるべきものだった。それにわれわれの誰もそんな心配はしていなかった。学校を出たら羊の群れのお守りだ。そんなに学者になったって何になるのか。」(P.61)
「私は十二までと言った。というのはフランスの古い計算が十二進法であったため掛け算の表を十二までやるのが当時の習慣だった。」(P.61)
「学校で受ける科学的教育などは絶対にないのだ。私は試験の計尺に掛かるためを除いては一度も大学に足踏みしたことはない。教師もなく、指導者もなく、怖ろしい窒息機である貧苦にも拘らず、私は前進し、志を変えずに試練を凌いで行った。こうして何も押しつぶせなかった才はその貧弱な内容を遂に見せることになったのだ。(中略)私は生き物好きとして生まれて来た。なぜに?またどうして?それに答えはありはしない。
われわれはこのように各々異なった方向にまた大小の程度にわれわれに特殊な標徴(しるし)をつける特(FF)別な性質を持っている。その性質がどこから来たのかは測り知ることができない。この天賦は遺伝されない。才能ある者も子供に馬鹿者を持つこともある。それは獲得されることもない。それは習練によって発展される。その萌芽を血管に持たない者は、温室的な教育の手をどんなに尽くしても、それを持つことはないであろう。」(P.77)
「本能は一族の不可侵の遺産で、すべての者は差別なく授かっている。相違はそこまでである。構造の類似とはなんの関係もなく、本能はここあるいはかしこで目につくなんの理由もないのに突然閃き出る。何もそれを予想させるものはない。生体の中の何もそれを説明しない。」(P.77)
「”本能とは虫の世界での天才である”と。」(P.77)
五 パンパスの糞虫類
「もし環境があまり無理をいい出したら、動物の方は迷惑な暴力に抗議して、変化するよりもむしろ死んでしまうのだ。もし環境が穏やかにやってくれたら、虫の方はこの試練にどうにかこうにか順応するが、しかし現在通りのものでなくなることは頑として拒否する。自分が出てきた鋳型通りに暮らしていくか、でなかったら滅亡する。そこには他の解決策はありはしない。」(P103)
六 色彩
七 しでむし 埋葬
(P.137)__消化は体内の細菌が行うのではないか。違う細菌が違う種を造るというか、種(宿主)は細菌(借家人)とセットで種なのではないか。店子は変わることがあるが、店子がいなくなれば、大家はなくなってしまう。
八 しでむし 実験
「言葉の耳触りなどはその先祖のラテン語同様一向に構わないプロヴァンス語は私の翻訳よりなおもっと実感的にこう言うのだ。」(P.142)
「彼らがそんなことは考えないというのは進化論という不健康なお世辞使いが自分の理論の突っかい棒のため虫に授けているものを虫が持っていないからだ。」(P.162)__虫はこうしたら逃げられるとか、こうしたほうが便利だとか、こうしたほうが生存に有利だとか考えない。人間がそう考えたとしても、虫は考えない。人間はなぜ考えるのか。
九 かおじろからふとぎす 習性
十 かおじろからふとぎす 産卵 孵化
十一 かおじろからふとぎす 発音器
「古えの微妙さに対する感覚は世紀の流れの中に窒息し、私の友達には失くなっていた。またわれわれ皆に失くなっているのだ。」(P.199)
十二 あおやぶきり
「一、二世紀の後になったら、物識り以外にバスチーユ占領なんていうことが問題とされるだろうか。それはきわめて疑わしいことだ。その時、我々には違った喜び、そしてまた違った悩みがあるだろう。」(P.223)
十三 こおろぎ 住居と卵
「本能は、体つきがすっかり同じであっても、ここでは現れ、あちらでは消えていて、我々に決してその原因を語ることはないであろう。それはほんのわずかしか道具と関係がないので、どんな解剖学上の事実もそれを説明することは出来ない。いわんやそれを予想させるなどはなおできない。」(P.245)
「釣り合いという理由から、時によると人は住居の壁に窓まがいのものを作って本当の窓と対にする。美の最高の条件である秩序はこのようにそれを命ずるのである。同様に生物もそれの釣り(FF)合い、一つの一般原型のいろいろの写しを持っている。生物は、不要になった一つの器官を抹消するとき、それを痕跡として残しておいて、基本構造を維持しておく。」(P.252)
十四 こおろぎ 歌 番(つがい)
十五 ばった類 その役目 発音器
発音器
「目先ばかりの人間は干杏十ほどとっておくために宇宙の秩序をみだしかねない。」(P.280)
「この食物の黄金時代は私に深い疑念を抱かせる。新しい毒物に関する場合、科学はおそろしく巧みである。我々の研究室の陳列棚は毒薬の倉庫だ。もしそれが一つの蒸留装置を発明して、馬鈴薯を利用して我々を人でなしに変化させ得るアルコールの大河を流れ湧かせるのであったら、工業はその活動手段に限りを知らない。
しかし、人工によって真実に栄養的な物質をたったひとくちでも作るということになると、そ(FF)れはぜんぜん別なことである。大々的に決してこんな加工物はいままで試験管の中で気ながに準備されたのではなかった。未来も疑うべくもなくよりよきものを作らないであろう。唯一の真実の食物である有機物質は、研究室の調合ではできない。生命の営みがその科学者である。
それゆえ、我々は農業と家畜とを保存しておくほうが賢い。我々の食物はゆっくりした働きで準備する植物と動物とにまかせておこう。荒っぽい工場なんかは信用しないでおこう。我々は微妙な手段、とりわけクリスマスの七面鳥に協力するばったの胴にいままで通り信頼を払っておこう。この胴はその調理法を持っていて、レトルトはそれをとうていまねできず、常にそれを羨望するであろう。」(P.287-288)
「人は我々にこんなことを断定する。動物は必要の刺激のもとに試みから試みへ、一進歩から次の進歩へと進んで、遂にそれぞれの器官を獲得する、と。人は必要の干渉以外に他の創造的な干渉を認めない。」(P.293)__飛べるから飛んだ。人間は飛べないから飛ばない。
「どういう理由でからだちばったはその飛び道具の見すぼらしい下ごしらえを越さないように定められたのか。彼もまたきっと幾世紀もを通じて必要の刺激を感じてきたに違いない。」(P.293)
「あなた方の理論をおうかがいすると、切迫した必要、食物、気候、習性の同じ条件の中で、あるものは成功して飛べるようになり、他のものは失敗してどたどたした徒立ち虫のままでいる。言葉を並べたて、膀胱を提灯と取りちがえない限り、私は与えられた説明に熨斗をつけてお返しする。生の無知のほうがずっとよい。それは何も偏見を持たないから。
しかし、その同族の中でどういうわけか一段おくれているこの半人前の虫のことはこれくらいにしておこう。生体の中には我々の好奇心の理解し得ない退歩や停止や飛躍が存在している。起原というはかり知れない問題を前にしたら、帽子を脱いでていねいに挨拶して、さっさと行ってしまうことだ。」(P.294)
十六 ばった類 産卵
「瞑想をさそう夜ふけた時刻に彼らの役目に関するこれらのノートを炉の傍で書き記しながら、彼らが直接にあるいは間接に物の魔法の鏡である観念のめざめに貢献していないとは断言し得ないであろう。彼らはできるだけ繁栄し数を増すために世に生まれ出たのである。それは栄養物質の製造を掌る昆虫の最高の法則である。」(P.295)
十七 ばった類 最後の脱皮
「生物は物理的化学的力の葛藤にほかならないとする博学な一研究家が、いつか人為的に有機物質、しかつめらしい言葉で言うと Protplasme (「原形質」)を作ることを絶望していないと聞いたことがある。」(P.327)
「あなたはあなたの器械から蛋白、数日経たないうちにすぐ腐敗しとほうもない悪臭を出すもの、ひとくちで言えば一つの汚いものを取り出された。あなたの作り物をどうしようとなされるのか。」(P.327)
「生は決してこの化学的汚物から湧き出ることはないだろう。」(P.327)
十八 松の行列毛虫 産卵 孵化
(P.336)__自然を理性的に解釈し、それ(理性)を当てはめようとするのではなく、自然を理性に当てはめるようにする。当たり前だけど、本末転倒。子供に大人を当てはめようとすると、子供が幼稚に見えてしまう。でも、大人に子供を当てはめようとするのも同じ。違うんだから。
十九 松の行列毛虫 巣 社会
「細胞と繊維との材料はいつか人為的に作れる日がくるかもしれない。だが、細胞そのもの、繊維そのものについては断じて否だ。」(P.348)
「おお、なんという幸せな連中だ。闘争の母胎である私有財産を知らない彼らは!おお、なんとうらやましい共同生活者であろう、彼らは一から十まで完全な共産主義を実行しているんだ!
毛虫のこんな習性はいくらかの省察をうながす。論理よりも幻想に富んだ高潔な人間は、人類の貧困のこの上もない根治法として共産主義を我々に提議している。人間の間でそれは実行できることだろうか。人生の辛さを共同にいくらか忘れさせ得る集団というものは、幸せなことに、昔から存在し、今日なお存在し、将来も常に存在することであろう。だが、それを一般におよぼすことが可能であろうか。」(P.355)
「争わずとも腹が満たされると保証されている時平和が支配する。」(P.356)__希少性を作り出す支配者。
「松の毛虫はこの災禍から免れている。彼にとっては土地は大気と同じように物惜しみしない。食物摂取は呼吸以上の努力を必要としない。完全な共産主義の例は他にも引用できるであろう。」(P.357)__生産性の向上が共産主義をもたらすという幻想。
「松の行列毛虫は飢餓を知らない。それはもう一つの恐ろしい競争の泉である家族ということを同じく知らない。」(P.357)
「種の保存は個体の保存よりももっと重大な関心事なので、子孫のための闘争は我が身のための闘争よりもっと苛烈である。すべての母親は家族の繁栄ということを根源の法則としている。自分の子供が繁栄しさえすれば他のすべてが死んだってかまうことはない。各人は各自のために、それが一般の争闘の激しさによってできた母親の定則である。」(P.357)
「母性愛とそれの命令的な義務とがでてくると共産主義は実施されることをやめる。」(P.358)
「恋愛はこれもまた烈しい闘争の中心である。」(P.359)__擬人化とは何か。恋愛、母性愛。
「もしも松の行列毛虫から教えを受ける方が良いということなら、彼らは我々の平等主義的及び共産主義的理論が内容のないものであることを示すであろう。平等、これは壮大な政治的標語だ。だが、それっきりのものである。いったい、どこにそれがあるのか、この平等というのは?我々の社会でも、たとえばたった二人でも、力も健康も知力も労働能力も、みとおしもそれからその他繁栄の大きな動因である数々の能力をすっかり同じに持ったものを見出だせるであろうか。どこに我々は毛虫の間の正確な画一性に似たものを見られるであろうか。どこにもない。不平等は我々の運命である。そしてこれはしごくしあわせなことである。(FF)
一つのいつも同じ音はどんなにそれを増してみたところが調和を構成することはない。違ったもの、弱い音と強い音、低い音と鋭い音、調和にはこれが必要なのだ。なお不協和音さえ必要である。これはこれの荒々しさで調和音の快感をくっきりとさせてくれる。人類の社会も同じく、あい似ないものの協力によってしか調和は得られない。もしも平等の夢が実現され得るとしたら、我々は毛虫社会の単調にまで堕落するであろう。芸術、科学、進歩、等の高い飛躍はぼんくらという大凪の中に無限に眠り続けることであろう。
それにこの全体的の水平化が行われたにしても、我々は共産主義からなおずっと遠いところにいるであろう。これに到達するには、松の毛虫とプラトンとが説いているように、家族を除いてしまう必要がある。これにはちっとも努力しないで手に入る食糧の山が必要であろう。一口のパンを手に入れるのにもやっかいで、我々すべてが平等に与えられていない知力とか労働力とかを必要とする限り、また家族が我々の未来の備えの神聖な動因である限り、万人は各人のために、各人は万人のためにという高潔な理論は絶対に実施不可能である。
それに、我々のためおよび我々の一族のための日々のパンの努力をなくして得るところがあるであろうか。これはどうも疑問である。我々はこの世界の二つの偉大な喜び、労働と家族、人生におけるなんらかの価値を与える唯一の喜びを失うだろう。我々は我々の偉大性をなすところのもの、そのものを窒息させるだろう。」(P.360-361)
二十 松の行列毛虫 行列
二十一 松の行列毛虫 天気予報
二十二 松の行列毛虫 蛾
二十三 松の行列毛虫 いら痒さ
二十四 いちごの木の毛虫
二十五 昆虫の毒性
「笑われることを覚悟で、私はもう一つ白状しておこう、だんだんと事柄をよくのみ込めるようになってゆくにつれて、神の偉大なる国に住む動物を殺したり苦しめたりすることが気になってきた。ごくつまらないものの生命も尊敬すべきだ。が、我々はこれを奪うことはできても、与えることはできない。我々の研究に無関心なあどけない者どもに平和あれ。我々の掻き立てられる好奇心が、彼らの神聖な安らかな無知になんの関係があろう。もし我々が知りたければ、可能の範囲内で自分の体で支払おうではないか。一つの観念の獲得は、そのわずかばかりの肌の犠牲に値する。」(P.447)
第七巻
一 おおひょうたんごみむし
二 死んだ真似
新田真子
三 催眠 自殺
「およそ知らないことはこれを真似るわけにはいかない。」(P.36)
「まだ混沌とした無意識にある小児と同じように、動物は未来の心配なんかしないで現在を享楽しているのだ。やがては来る最後の日の悲哀から解き放たれて、無知のなごやかな安心のうちに暮らしている。生命の短さを予知しているものは我々だけ、不安げに最後の眠りの墓穴に目を向けるのは我々だけだ。
それに、不可避な破滅のこの見通しはある程度の精神の成熟を必要とし、したがってかなりおそまきに現れるものだ。」(P.36)
「いつの世にも、りんごは腕白小僧のよろこびでとりわけ自分のものではない木からもぎっとってきたときにそうだ。ポケットは禁断の果実をつめこんでふくらむのだ。」(P.38)__アダムとイヴの頃から、あるいはそれをりんごと考えた人。盗むのはその日、そのとき食べる分だけ。売ってお金にしようなどとは考えない。お金のあり方が違っていた。最近のトラックで野菜を盗んだり、米を盗んだりするのは、自分が食べるためではない。
「いうまでもなく、それらのうちのどれも死んだふりをしようとは思っていない。この鳥たちは実際に深い昏睡状態におちいっているのだ。一言で言えば、催眠術にかかったのだ。」(P.41)
「たしかに本からではない。どこから知ったのかわからないが、これは子(FF)供の遊びに入って来るすべてのものと同じように、滅びることなくずっと大昔以来、最初にそれを覚えたものから、次々に伝えられてきたのだ。」(P.41-42)
「動物が自分で生命を絶つということについて、正真正銘のいかなる例も私の知る限りではこれまで与えられたことがない。感情的に最も秀れたたものが、ときどき悲哀のため憔悴して身を滅ぼすということはある。それは否定しない。だが、それと、自刃したり咽喉を掻き切ったりすることとはまるっきり話が別だ。」(P.45)__自刃(じじん)。自殺や、小学生に突っ込む車。それは「エゴ」のなせる業。
「生活の苦しみを逃れる可能性を身に持つということは、我々人間の崇高な特権、卑しい動物の群れの上にあるしるしとして考察すべき秀れた特権だ。だが、それの可能からそれの行為に移ったら、これは要するに卑怯者と呼ばねばならない。」(P.49)
「その最初の困難に出会ったからといって、邪魔なぼろのようにこれを投げすてるべきものではない。我々は人生を快楽としてではなく、また、悲哀としてではなく、一つの義務として、暇(いとま)が与えられるまではできるだけ完全に履行すべき義務として考えねばならない。」(P.51)__Nota Bene!! ファーブルの人生観。義務(快楽、悲哀)が西欧キリスト教的であることを考えなければならない。その前に「孔夫子」の言葉もあるが。
「我々だけが人生の祝宴がいかにして終わるかを知り、我々だけが我々の死をあらかじめ知り、我々だけが死者の崇拝を持っている。」(P.51)
「死についての明瞭な心象は人間だけのものだ、死後についてのすばらしい本能も人間だけのものだ。ここで、昆虫学は、自分のささやかな立場から声を出して言う。「安心なさい。本能は決してその約束を破ったことはないのです」と。」(P.51)__「死の心象」は時代によって変化している。今の人は「死は自分の喪失」だと思っている。人を殺しても自分は助かろうとしている。快楽(というより「便利」)を求め、苦痛を受けないようにしている。それは「種」を守ることとはズレている。つまりダーウィンからもズレているのだ。たとえダーウィンにその原因があったとしても。
四 むかしの象鼻虫
「むかし人は苦しんでいた。今日も人は苦しんでいる。将来も人は苦しむであろう。人にとっても「歴史」は、ただそれだけにつづめられる。その他は無駄言だ。なまけ者の暇つぶしだ。」(P.52)
「こんな章紋の発明者は、熊の掌、隼の翼、豹の犬歯を髪にさして頭の皮はぎの腕前を見せびらかすインディアンに、一体、勝ってるだろうか。そう疑いたくなるのが当然だ。」(P.54)
五 ほしごぼうぞうむし〔ララン・マキュレ〕
「昆虫は自分に強制された新条件に順応し得るかぎり、いつものやり方で労働する。それができない場合には、技能を修正するよりはむしろ死んでしまうも(FF)のだ。」(P.90-91)
六 くまごぼうぞうむし
「厖大な未知の一つの点を最初に認識して、それを他人に示した者は、実りのない仕事をしたのではない。」(P.92)
七 植物本能
「記憶能力の点で人はかなり恵まれている。だが、その我々のうちの誰が母の乳の味を少しでも憶えているか。もし我々が母の腕に抱かれた赤ん坊を一度も見なかったら、我々も最初はそんなだったなどとは夢にも思えまい。」(P.112)__Nota Bene!! 本能の代わりに記憶があると言えるのではないか。
「彼らはこれをときには湿度計に応用している。カルリナを羊小屋の大戸に釘つけにしておくと、(FF)それは空中に湿度のあるときには花を閉ざし、空気が乾いていると金色の麟ほう(艹 + 包む)は見事なひまりのように開く。これは有名なジェリコの薔薇、湿ると開き、乾くと縮む、あの嫌な花をきれいにしてあべこべにしたようなものだ。」(P.114-115)
「彼、虫は生まれながらに知っている。私は覚えるのだ。」(P.118)
「人は長い研究の後で、世界の分布植物を知るのだ。本能は世界の一つの点であり、叡智の世界は宇宙である。」(P.119)
八 かししぎぞうむし
九 はしばみのしぎぞうむし
十 どろちょっきり
「われわれの真理はかりそめのものだ。それは明日の真理に無惨に打ちくだかれて、多くの矛盾した事実で紛糾してくる。そこで知ることの最後の言葉は疑いということになる。」(P.172)
十一 ぶどうのちょっきり
十二 その他の巻葉虫たち
「昆虫の工芸は使用する道具の形に規定されているのだろうか。反対にこの二つは別々のものだろうか。本能を支配するのは生体の構造なのか、それともいろいろの能力は解剖学の与件だけでは説明のつかない源に発しているのか。」(P.185)
「与えられた新しい条件に虫が順応できれば、その技術、習性、体制はそのままなんの変化も起こりません。順応できないとき、虫は死にます。もとの通りで存在するか、あるいは存在しなくなるか、これが他の多くの(FF)ことの後で流れに翻弄されたこの遭難者がわれわれに物語っているところです。」(P.190-191)
「工芸は身体の構造と無関係である、道具は仕事の種類を決定しないと。」(P.196)
「彼らは我々に告げる。本能の源は器官とは異なった場所にある。それはもっと上にさかのぼっている。それは生物の原初の法典に刻み記されている。本能は道具に従っているのではない。かえってその道具を駆使して、ここではこの仕事のため、かしこではあの仕事のためと同じ巧みさで身についた道具を使用する能力を持っているのだ。」(P.196)
「あしながおとしぶみの幼虫は四、五ヶ月の間、生死の間を彷徨していても、そのパンに水をかけてやれば、元気を盛り返し、がつがつ食べはじめる。こんな中休みができるなんて、生命とは一体何だろう。」(P.200)
十三 とげもものちょっきり
「彼らは能力が同じで器官が相違しているということはありえないことではないと裏書きしてくれた。逆に、同じ道具をもって異なった職業に従事することもできる。形が同じだからといって、必ずしも同じ本能があるとは限らない。」(P.201)
「石の書庫は形は保存してくれるが、本能は伝えてくれない。それは虫の工芸について何も語るところがない。というのは、しつこいほど繰り返すが、虫の道具は職業については教えるところはないのだから。同じ嘴を持ちながら、象鼻虫は非常に違った職業を営むことができる。
巻葉虫の祖先が何をしていたか、我々はそれを知らない。また、いつの日にかそれを知りうるという希望もない。そのときだ、理論が想定という漠然とした敷地の上に根を下ろすのは。理論は(FF)こう言う。・・・と仮定すればとか、・・・と想像してみればとか、・・・ということも起こらないとは限らないとか、その他、等々々。理論よ、そんなことは何でも思い通りの結果に到着する便利な道具だよ。適当に寄せ集めた仮定の束があれば、大した巧緻な論理学者でない私でさえも、白は黒だ、闇は光だと、いばって立証できるよ。」(P.208)
「いまここに述べた三職業組合の本能にしても一つの共同起源に還元されないのだから、それぞれのちょっきりは体つきこそ非常によく似てはいるが、同じ根源から出た枝葉ではありえない。おのおのの種族は、形と能力との工場で特別な鋳型で打ち出された別々な型だ。だとすると、本能が似ていない上に形が似ていなかったら、どういうことになるだろう。」(P.209)
「頭の中で、愚にもつかない考えをひねくりまわすより、次のように言う方が、どのくらい単純であり、またとくに真実らしいかしれない。「ひとつの至高なる秩序が物質を指導している」と。」(P.225)
十四 くびほそはむし
「私は聖トマスの頑固な弟子である。「そうだ」というまえに、自分で見て、自分で触りたいのだ。一度はおろか、二度、三度、また無限に、私の疑いが証言の圧力でつぶされるまで。そうだ、形態は本能を定めるものではなく、道具は職業を強いるものではないのだ。」(P.226)__Nota Bene!! 遺伝子も同じかもしれない。見てくれが怖いからと行って、怖い人とは限らない。
十五 くびほそはむし(続)
「胃袋の圧力は、世界を強盗の洞窟にしてしまう。食うこと、それは殺すことだ。虐殺のため奪い去られた生命は、胃の仕掛けで生命を与えられる。万物は飽くなき死のルツボの中で元通り融合され、再びやり直されるのだ。
食の点からゆけば、強盗の中で筆頭である人間は、およそ行きているもの、もしくは生きられるものを貪り食っている。いってみれば幾粒かの小麦である。これは芽生えて、太陽の下に青菜を輝かし、茎を伸ばして穂を頭にいただくことしか求めないのだ。しかしそれは我々を生活させるために死ぬのだ。」(P.241)
「不断のこの虐殺は生の波を永久に続けさせる。
この虐殺に心を痛めて、心あるものは、口腹の恐ろしさのない世界の状態を空想した。我々のあわれな生まれつきから考え出された、この他を傷つけることのない理想郷は、必ずしも不可能なことではない。それは部分的には、人にしろ虫にしろ、我々すべてに実現されている。
呼吸するということは、必要のうち一番欠くことのできないものだ。我々はパンで生活する前に空気で生活している。しかもそれは苦しい事でもなく、骨の折れる仕事をするまでもなく、ほとんど気づかぬほどに、ひとりでに行われている。我々は戦時の武装をし、略奪、暴力、計略、取り引き、必死の努力によって空気の征服に出かけるのではない。この問題についてはちっとも心配しないでも、皆はたっぷりとその分け前にあずかっている。
それにこの上もなく良い事には、それはただだ。そしてこれはいつもなんとかかとか思いつく税務署が、空気を配給する蛇口や空気の缶詰を発明して、ポンプ一押しいくらという値段で我々に(FF)割り当てないかぎり、無限にこのように続くであろう。この方向への科学の進歩などまっぴらだ。そうなった日には、空気税で納税者を殺すということになる。」(P.242-243)__乳を飲むことは殺すことじゃない。他者に殺させればいい。支配者、カースト。
「植物はこの秘密を一部分知っている。そして葉一枚一枚を取り巻く大気から、成長と繁茂とに必要なだけの炭素を静かに汲みとっている。が、植物は活動しない。だからあの潔白な生活ができるのだ。活動には闘争によって獲得したもっと刺激の強い香料が必要だ。動物は活動する。だから殺すのだ。己を知る智慧では恐らく第一位にある人間もそれ以上に出ることはできずに、その活動の不可抗的動因として、動物と同じく胃の暴力をわかち持っている。」(P.243)
十六 あわふきむし
十七 よつぼしはむし
「鳥は飛ぶ必要から、エネルギーをたくさん消費するものだ。この寒がりやは熱の保存のためには、他のどんなものよりも特によくできている。」(P.274)
十八 よつぼしはむし 卵
十九 沼
「最初の学校服と最初の考えとを持つときのよろこびは、最初の一度っきりのものである。」(P.307)
二十 いさごむし
二十一 みのむし 産卵
二十二 みのむし みの(鞘)
二十三 おおくじゃく蛾
二十四 おびしめかれは
(P.404)__死・止まっているものを、生・動いているものと同様に(代表として)扱う西欧。状態(動き)を表す日本語と、過去・現在・未来をそれぞれ静止(レントゲン、化石)として表す印欧語。文法だけじゃなく、文字(図版)の影響もあると思うが。
二十五 におい
「目下、物理学では、不透明体を通じて、見えないものを写真にとるレントゲン光線がもっぱら評判だ。」(P.418)
「動物のこの優越性は多くの場合、どのくらいうらやむべきものであろう。それは我々が情報を集める力が欠けているかを知らせている。それは我々の感覚上の道具がきわめて平凡なものであることを裏書している。それは我々の天性にはない知覚のあることを証拠立てている。それは、我々の属性以外に存在する我々を驚倒させるような現実のあることを公言している。」(P.418)__人間の中にその能力を持つ人がいても不思議ではない。
「虫は振動を起こし、その波動は本当の物質の伝播ではできないような距離まで伝えられるのである。」(P.439)
「第二のものは、その空間範囲ではあるかに優れたもので、それに必要な感覚器官がないために、我々には全然わからない。」(P.440)
人名注
本巻は岩波文庫版『昆虫記』の第十三分冊(山田吉彦・林立夫訳、一九三〇年九月発行、一九五九年五月改版発行)、第十四分冊(山田吉彦・林達夫訳、一九三一年一〇月発行、一九六四年一一月改版発行)にあたる。 (岩波文庫編集部)
第八巻
一 はなむぐり
(子どもの虫遊び)「こんな年頃は情も容赦もない。まだ解らないのだ。何も知らないほど残酷なものはない。」(P.8)
「私だって経験を積んで成熟し、少しは文化的になり、物事がわかり始めたとはいっても、私も同罪であることは認めないわけにはいかないのだから。彼らは遊び興じるために苛める。私は学ぶために苛める。結局同じことではあるまいか。学問のための実験と、幼い者のいたずらとの間に、はっきりとした区画線があるだろうか。私にはわからない。
被告に口を割らせるのに、むかし野蛮な人間は、拷問という手をつかったものだ。私が虫にものを訊ね、幾らかの秘密を、彼らから無理にでも引き出すために、ぎゅうぎゅう問いつめるとき、私は一人の拷問役人以上のものであろうか。」(P.9)
二 えんどうまめぞうむし 産卵
「なお、われわれの食用植物の大部分についても、同じように何も解っていない。われわれにパンを恵んでくれる祝福された禾本科植物の小麦は、どこからやって来たのか。誰も知らない。我が国では、人の栽培地以外のところで、この植物を探すことはしまい。またそれを外国で探すことも止そう。農業が生まれた東の国々でも植物採集家たちは、この聖なる穂が鍬の掘り起こさない(FF)土地に、ひとりでに殖えているのには、一度もぶつかったことはない。」(P.30-31)
「食糧庫としての穀物と野菜は、大部分人間の手で作り出されたものだ。これらの植物の元祖は、最初われわれが植物の自然の宝庫から借りたままの状態では大して人間の助けにならない。完成された栄養豊かな品種はわれわれの技術の賜物だ。
しかし一方、小麦、えんどうその他はわれわれにとってどうしてもなくてはならないものだが、同時にわれわれの世話は、これらの種を維持するのに絶対に必要だ。人間の必要が作り上げた現在のようなこんな植物は、生物の烈しい争闘の中では、抵抗力がないので、栽培せずに放ったらかしておいたら、種子の数が尨大でも、ちょうどばかな羊が、番人がいないと、忽ちのうちに消えてしまうように、消えてしまうだろう。
こんな植物はわれわれが作ったものだ。だがいつもわれわれだけのものとは定まっていない。(FF)どこでも食糧が貯えられている場所には、天の四隅から食い手が駆けつけてくるものだ。」(P.31-32)__自然のままの植物を利用している人も多い。栄養という概念。確かに進歩というものを受け入れたいが。原住民は食物を栽培しているのだろうか。
「もっと味のよい、もっと豊富な食物を作れば、千も万もの餓鬼どもが、招かれざる客として、その貯え倉に集まることになる。」(P.32)
三 えんどうまめぞうむし 幼虫
「われわれは潰しえんどうを作るとき、その皮、養分などちっともないこんな余計物を取り去ってし(FF)まう。それはおいしくない。まめぞうむしの幼虫もわれわれみたいだ。」(P.51-52)
四 いんげんまめぞうむし
五 かめむし
生物がその作品に授ける形の中で、一番単純で、一番典雅なのは鳥の卵の形だ。生体の幾何学的基礎である円と楕円との優美さを、これ以上手際よく組み合わせたものは、他のどこにもない。その一方の極は球形。これは最小面積の中に最大量を包み込める最もすぐれた形だ。他の端は楕円形の乳房で、太い端の単調なきびしさを柔らげている。」(P.77)
六 せあかくろさしがめ
「家に火事があっても、この時の私は身動き一つしなかったろう。」(P.111)
「この土屑装束は、戦争の駆け引き、生餌にこっそり近づく擬装手段など、一つの目的意識の下に生まれた細工だ、とする考えが浮かんだら、そんな迷いはさっさと棄てることだ。」(P.116)
七 ひめはなばち 寄生虫
「そして強盗振りを一段と発揮するため、人間は戦争を発明している。これは平民どもがやったら、絞首台に曳かれることを、大量に、しかも栄光をもってやる殺人技術だ。」(P.137)
「もしも戦争が人類の間だけのことだったら、未来はいつかわれわれに平和をもたらすとも考えられよう。崇高な精神を持つ人々は心をつくしてそのために働いているのだから。しかしこの災厄は強情張りで聞き分けのない虫の間でも(FF)暴威を振るっている。このように一般の条件として強制されているところを見ると、この災禍は癒やすことのできないものかもしれない。未来に於ける生活、それは今日ある通りのもの、恐らく永遠にわたる殺戮ではないかという心配がある。
そのとき、絶望的な空想の力をふりしぼって、天体を手玉に取れる巨人を考え出す。彼は不可抗的な力だ。彼は同じく正義、人道だ。彼は地上の戦、殺し合い、大火事、獣の勝利を知っている。彼はわれわれの爆発物、水雷艇、巡洋艦、その他われわれの死の道具立てを知っている。彼は同じく、きわめて賤しい動物に至るまでの食慾の競争を知っている。でこの正しいもの、この偉大なるものが、もしも地球をその拇指の下に持ったら、彼はそれを押し潰すのをためらうであろうか。
彼はためらわないであろう!彼は物事をその自然の流れに委ねておくだろう。彼はこう考えよう。「いにしえの信仰は正しい。地球は禍の虫に囓られた虫食いのくるみだ。これは未開野蛮な一つの下図だ。もっと恵まれた運命への一つの宿場だ。放っておこう。秩序と正義とは、その道の涯にある」と。」(P.138)
八 ひめはなばち 門番
「生まれ故郷を離れる、これは若いうちは何とも思わないものだ。お祭りぐらい嬉しいものでさえある。新しい世界、われわれの幻影である魔法のランプを見に行くのだから。年と共に懐かしさがやってくる。そして人生は思い出を掘り起こし掘り返して終わっていくのだ。その追憶の走馬灯の中に、懐かしい故郷が、最初に芽生えたいろんなみずみずしい印象で飾られ、姿を変えて浮かんでくる。そのとき現実よりも美しい理想的なこの故郷の姿は、驚くほど、隅々まで、はっきり浮彫のように浮かんでくるものだ。昔の、ずっと昔のことが昨日の日付をつけて浮かぶ。それは目の前に展開して来る。それは手でさわれるほどの鮮やかさだ。」(P.139)
九 ひめはなばち 処女生殖
「まだ幼い子供たちを残してゆく苦しみがなかったら、私は喜んで死んでいたことだろう。死の彼方にはもっと崇高な、もっと朗らかな多くの学ぶべきものがあるに(FF)違いない。私の時はまだ来なかった。」(P.174-175)__人間は知りたいと思うのか。そうではないと思う。自然に立つように、自然に話すように、自然に乳を飲むように、自然に知るのだ。少なくとも「教えられる」のではない。学ぶのだ学ぶべくして学ぶのだ。知るべくして知るのだ。経験するのだ。それはファーブルが「本能」と呼ぶものに近い。
「雌雄の協力からは雌しか生まれない。処女生殖からは雌と雄とが生まれる。」(P.179)
十 テレビントのわたむし 虫癭(むしこぶ)
十一 テレビントのわたむし 移住
十二 テレビントのわたむし 交尾、卵
「時に抵抗して遠い将来まで生の能力を休眠状態で保存するために、卵は種子と同じように雌雄二つのエネルギーを結合させ、より有効にその潜在力を集中させることが必要だ。この必要の第一原因は何かとなると、われわれは何も知らない。また恐らく知る日はなかろう。そう白状しておくほうが聡明だ。」(P.222)__わたむし=雪虫。トドノネオオワタムシ「カメムシ目・腹吻亜目・アブラムシ科」
十三 わたむしを食う虫たち
十四 きんばえ
「消化するということは、要するに液体に変化することだ。だから蛆虫は食物を呑み込む前に消化する、といっても奇妙な言葉ではなかろう。」(P.260)
十五 にくばえ
十六 つやえんまむし、かつおぶしむし
十七 欧州こぶこがね
十八 昆虫の幾何学
「神は常に幾何学す Αεί ὁ θεός γεωμετεῖ とプラトンは言った。すずめばちの問題の本当の解決はそこにあるのだ。」(P.319)
十九 すずめばち
「熱の消失を防ぐため、空気という不良導体を使い、蒲団技術でわれわれに先んじ、最小表面の中に最大容積を取り込む形を巣房の仕切りとし、場所と材料の経済から六稜形を房室に採用する。こんなことはわれわれの物理学と幾何学の教えるところと一致した知的行為だ。人はこういう。すずめばちは進歩に進歩を重ねて、この丹念な建築物をひとりで工夫したのだと。そんなことは信じられない。私は巣全体が私の仕掛けの犠牲となって全滅するのを見ている。そして、もしこの蜂が少しでも考えることを知っていたなら、その裏をかくことも易しかったのだ。」(P.326)
「こんな愚かさがあんなに精妙なものを啓示するとは私には全然信じられない。こんな技術はもっと高い起源を持っている。」(P.331)
二十 すずめばち(つづき)
二十一 べっこうあぶ
二十二 こがねぐも
「分類学が理解するところではくもは昆虫ではない。そしてかかるものとしてこがねぐもがここに顔を出すのは場所違いのように思われよう。だが分類学なんか馬に食われろ。虫に六本ではなく八本の足があろうと、気管ではなく肺があろうと、本能の研究はそんなことに構ってはいられない。なお、くも類は体節の付いた動物、順々に端と端とを寄せた切れ端からなる体制を持つ。すなわちインセクト きりこみあるもの (昆虫)という名前、およびエントモロジ ーきざみあるものの学 という名前が暗示しているものの構造をもつ群に属している。(FF)
この群を指すために昔は関節動物(アルティキュレ)といったものだ。これは耳ざわりが悪くないし、誰にも分かるという欠点を持っていた。これは旧式の学問でのことだ。今日ではアルトポロポダ(節足類)というえも言われぬ言葉を使っている。しかもその進歩を疑う人間がいるのだ。ああ、何という出来損いだ。まずアルティキュレと発音して御覧なさい。それからアルトロポダと鼻にかけてやってごらんなさい。すると分かったでしょう。虫の科学がいかに進歩しなかったかが。」(P.372-373)
二十三 ナルボンヌの毒ぐも
人名注
本巻は岩波文庫版『昆虫記』の第十五分冊(山田吉彦訳、一九四二年二月発行、一九六二年一月改版発行)、第十六分冊(山田吉彦訳、一九四二年三月発行、一九六二年五月改版発行)にあたる。 (岩波文庫編集部)
第九巻
一 ナルボンヌのどくぐも 棲み穴
二 ナルボンヌのどくぐも 子の群
「あー!太陽の光線で朝食をすませるような世界があったら、どんなにすばらしいことだろう!」(P.35)__植物は光と水で朝食をとる。
三 ナルボンヌのどくぐも 木登り本能
四 くもの旅立ち
五 かにぐも
六 こがねぐも類 網のかけ方
七 こがねぐも類 お隣の住人
八 こがねぐも類 もちの罠
九 こがねぐも類 電信線
十 こがねぐも類 くもの巣の幾何学
十一 こがねぐも類 番(つがい) 猟
「恵まれた幾つかの生物だけが食の悩みを免除されて、豊富に、しかもそれを手に入れるため闘争することもなく、食糧を得ている。」(P.146)__そうかなあ。動物園やペットは?子供は?年金生活者は?
「希望を持とう。生活の中の一番良いものは現在にあるのではなく、また過去になどはなおさらない。それは希望の国、未来にあるのだ。」(P.146)
「しかも本能は普遍性とは根本的に別なもので、本能の知識はいつも限られたある点にとじこめられている。」(P.156)__私が変われば世界は変る?世界を変えることができる?無力感。マル秘の密子さん。
「動物はやや我々に似ている。動物がある技術に熟達するには、専門化することが必要になる。」(P.157)
十二 こがねぐも類 所有権
「我々が野獣の獣性から解放されるには、南半球に集まっているオセアニア諸島が、ヨーロッパの方に流れて来、大陸の表面が変わり、となかい及びマンモスの氷河期が再び来るのを待たねばならないのだろうか。事によるとそうかもしれない。道徳上の進歩と言うものは、それほどおそいものだ。
我々は成るほど自転車、自動車、航空機その他我々の骨を打ちくだく驚くべき手段を持ってはいる。だが、こんなものはすべての道徳を一段だって上げてくれはしない。道徳は我々が物質の奴隷になればなるだけ、だんだんと退歩するとさえ言っていい。」(P.259)__Nota Bene!!
「ここに強者の道理と言うものが、そのすべての恐ろしさを発揮してあらわれ、その同胞を食い、財産を奪っている。昔、人間も同じことをやっていた。人はその同胞をおそって、食っていた。現在も、個人の間と同様、国民の間でも、互いに強奪しつづけている。ただ互いに食い合うことはもうほとんど止んだ。羊の肋肉のほうがもっとおいしいと知られて以来、こういうことはなくなった(FF)のだ。」(P.162-163)
「力は法に勝ると獣は言う。いやむしろ、法なんて獣の中には存在しないのだ。獣の世界は混乱した食慾の世界で、それをひかえさせるのは力の無いということしかない。本能のどん底から浮かび上がることのできる人類だけが、法を作り、良心が明らかな姿をとってくるにつれて、それを徐々に作り上げてゆくのである。今日、なおおぼつかなくはあるが、年とともに光を増してゆく神聖は微光で、人類は輝かしいたいまつを作りあげるであろう。この炬火は我々の間に野獣の法をほろぼし、いつの日か、社会の様相を変えてしまうであろう。」(P.167)
十三 数学思い出話 ニュートンの二項式
「わかりにくいテキストはどこまでもわかりにくさを守っていた。これは一般的に本の欠点だ。本は印刷された事だけしか言わない。もし解らなくても、本は相談相手になってくれないし、光明に導く他の道に案内してもくれない。何でもない一言だけで、ときには、正しい道に結構つれて行ってくれるものだ。それなのに、本は編まれたままに固まってしまっていて、その言葉を言ってはくれない。」(P.175)__ソクラテス。
「この技術について、誰も何も私に教えてくれなかった。それに、これは学校で覚えることだろうか。これはひどく疑わしい。もし我々自身の脈管の中に生まれつき具わっている火が、もしインスピレーションが助けてくれなかったら、我々がどんなに言葉をさがしてみても無駄だ。欲しい言葉は出て来ないだろう。我々の中にかくれている貧しい芽を成長させ、花を開かせるためには、どんな教師についたらいいのか。それは読書だ。
若い時分、私はいつも熱心な読書家であった。しかし、うまく操られた言葉のあやは私には少しも興味がなかった。私にはそれは解らなかった。かなり後、十五歳近くなったとき、私はおぼろげながら文字がそれぞれ人相を持っていることを感じた。ある文字はその意味の浮き出し方と調子のひびきのよさが、他の字よりも私の気に入った。そんな文字は私の頭に明瞭な像を描いた。それはそれなりに、描かれた対象の絵を見せてくれた。名詞はその形容詞によって色をつけられ、その動詞によって生命を吹きこまれ、生きた現実となっていた。その言っていることを私は見た。」(P.184)
十四 数学思い出話 私の小テーブル
十五 ラビリントぐも
「辛抱してほじれば、いちばん下らない生き物も、生の大調和にその持ち分を加えているものだ。」(P.199)
十六 クロトぐも
十七 ラングドックさそり 住居
十八 ラングドックさそり 食べ物
十九 ラングドックさそり 毒
二十 ラングドックさそり 幼虫の免疫性
「しかし、新しい状態は、初めのときのように頑健な安定性を持っていない。安定性を犠牲にして、完全性が獲得されたのだ。そのために、成虫は、幼虫が大したこともなく堪えしのべる試練にもたおれるのである。」(P.305)
二十一 ラングドックさそり 恋愛序奏曲
二十二 ラングドックさそり 交尾
二十三 ラングドックさそり 家族
「本の知識は生物の問題では大して頼りどころにはならない。豊富な書庫よりも、事実を相手に熱心に会話をするほうがずっとよい。多くの場合、知らないということはきわめてよいことだ。精神は探求の自由を保ち、読書で暗示を受けた出口のない道に迷いこむことがない。」(P.342)
「そして隅々本を開くようなときには本に読まれないように頭の中に疑いの枠をたっぷりとっておく。それほど私がいま耕している地面には、見当ちがいや間違いの草や茨が一杯生えているのだ。」(P.347)
「生命の進化は平凡なものからよりよいものへ、よりよいものから優秀なものへと順につづいた段階は知らない。それはある場合には前へ、ある場合は後ろへ、と飛びとびに飛ぶのだ。」(P.351)__Nota Bene!! ダーウィン批判。
二十四 かいがらむし
(かいがらむし)「虫だって人間だって同じだ。必要は腕をみがいてくれる。そしてときには我々の考えを転倒さすような発明をみせてくれる。私はそんな虫を一番卑しい、一番目立たないものの中に知っている。彼女はその子孫をまもるため、次のような奇妙な問題を解決している。すなわち、産卵期にふだんの身長の三倍となり、前の方は栄養をとり、消化し、歩き、太陽の歓喜に加わるため自分用に残し、後ろの方はこの養育室、子が孵り、静かに散歩させながら育つ乳母車にする。」(P.363)
「蜂に頻繁に見られる寄生虫、欧州こばち Mondontomerus は同じように雄が少ないという例を前に見せてくれた。こんな取るに足らない二つの虫が、生殖理論にはこれからなお開拓されねばならない広野のあることを我々に語ってくれている。多分、いつか、性というくらい問題を解きほごす上に、我々の助けになるかも知れない。」(P.373)
二十五 かしのたまかいがらむし
本巻は岩波文庫版『昆虫記』の第十七分冊(山田吉彦・林達夫訳、一九三〇年八月発行、一九六四年二月改版発行)、第十八分冊(山田吉彦・林達夫訳、一九三一年八月発行、一九六八年四月改版発行)にあたる。 (岩波文庫編集部)
第十巻
一 みつかどせんちこがね 巣穴
「虫というやつはそんな栄誉など構っていはしない。虫は生の現れの限りない変化をわれわれに見せてくれるだけだ。そしてすべての本のうちでいちばんわかりにくい本、われわれ自身という本をいくらか判読させるのに力を貸してくれる。」(P.7)
二 みつかどせんちこがね 最初の観察装置
「緑なり青なり赤なりのも一つの太陽に支配されている宇宙のその一隅の遊星群では、生命は悲しい残虐行為の泉である醜い胃袋の煩いから解放され、放射体だけで活動力を維持しているというようになってはいないものだろうか。私はそうあることを願っている。地球はよりよき一つの世界、真実の幸福が物の不可測の問題をますます深く探って行くことにしかありえない一つの世界へ進む途上の一段階でしかない。」(P.36)
三 みつかどせんちこがね 第二の観察装置
四 みつかどせんちこがね 道徳
「われわれの科学が規則的な歩みを持つ曲線であったらこの比較も当てはまろう。しかし科学は進んだり退いたり、上がったり下がったり、曲がったりくねったりする。それは漸近線に近づく(FF)かと思うといきなりまた離れてしまう。それとは気づかずに漸近線と交差することもあり得る。真理の完全な把握はわれわれからは逃れているのだ。」(P.73-74)
「虫は道徳は持たない。人だけがそれを知り、それを表現し、われわれの中のいちばんよいものが集中している微妙な鏡である良心の光が教えるにつれて、それを向上させるのだ。
すべてのうちいちばん高いこの進歩の歩みは極度に緩慢である。最初の殺人者であるカインはその兄弟を殺したときいくらか考え込んだといわれる。これは彼なりの後悔であったろうか。もちろんそうではない。むしろ彼の拳よりもっと強い拳にたいする恐怖である。仕返しの一撃の恐怖は知恵の始まりであった。
そしてこの恐怖は正しかった。というのはカインの子孫たちは殺人道具を作る技では恐ろしく器用であった。」(P.74)
「唯物論万能の今日、いま正しく物理学は物質を破壊しようとしている。それは原子を粉砕し、それがエネルギーに変わって消失するまで微粒化しようとしている。手で触り眼で見られる物塊の姿は外見でしかない。本能では、万物は力である。」(P.75)
五 はしらぞうむし
「こいつの名前をその道の学者について調べることは大して私に興味はない。私は虫に”お前のなはなにか”と尋ねることはないのだ。私はこう尋ねる。”お前は何ができるのか”と。」(P.95)__唯名論。唯名論が形相(述語)につながる。
六 ひろむねうすばかみきり コッスス
「先々のことをほとんど考えない法律は、美しい樹木を殺すものを放っておくので、考え足らずの連中は一握りの貨幣のために森の威風を損じ、田園の王者を滅ぼし、雨雲を涸らして土を乾きにあえぐ鉄滓に変えてしまっている。」(P.107)
「光は習俗を温和にし、闇はそれを悪化させる。精神が闇黒だと結果はもっと悪くなる。そしてその妻を殴る無頼漢は蒙昧な奴だ。」(P.123)
七 うしくろまるこがね 房室
「本能の研究はその日その日の運次第で今日はじめても明日やめ、もっと後になってまた取りあげ、またやめねばならないので捗り方は実に鈍(のろ)々としている。季節の移り変わりのためにも余儀なく長い長い間手をこまねいて退屈せねばならない。待たれる返事はもっと遠い先でないにしても来年までは延ばされる。その上、だいたい一つ一つはさして興味のない偶然の出来事に導かれて問題は不意に、しかもちゃんとして質問の手がかりもつかぬような渾沌とした形で飛び出してくる。まだ考えたこともないようなことにどうして質問ができるか。問題にまっすぐに突撃するには資料が欠けている。」(P.124)
「私が海岸の砂を幾粒か掘ったからといって、大洋の深さがわかるであろうか。生は測り知れない秘密を持っているのだ。人間の知識はわれわれが蚊の最後の秘密を解く前に世界の記録から抹殺されるであろう。」(P.130)
「ぎっしり詰まった卵の内容は広がって生物となり、これはいろんな職能の器官を持っていること自身のため、卵のときより嵩が大きくなる。同じ理屈で工業の作り物である機関車はその材料である鉄を一つの鉄塊に溶かしたときよりも大きい場所を占める。」(P.140)
「人生で間違いをやらかさぬ方法はたった一つしかない。それは何にもしないことだ。分けても思想を耕さないことだ。」(P.141)
八 うしくろまるこがね 幼虫と蛹
「その形の倉庫は限りなく豊富なので、古いものを修繕して新しくするような吝臭さはない。それは使い古しの鋳型はすべてこわしてしまって、くだらない修理などせず、捨ててしまうのだ。」(P.155)
九 松のこふきこがね
十 菖蒲ぞうむし
「だからして植物と知り合いになったのはわれわれの疾患とわれわれの食欲と同じくらい大昔からだ。
昆虫と知り合いになったのはこれと反対につい最近のことだ。古代の人たちはこんなちっぽけな虫けらなぞは無視していた。」(P.173)
十一 虫の菜食主義者たち
「生物のうち、文明人だけが物を食う道を知っている。この言葉をわれわれは、人間が自分の餌のことに手間ひまをかける唯一の動物だという意味に理解しよう。」(P.182)
「動物にはこんな悪癖はない。動物は端的にただ食うだけだ。これが要するに堕落しない唯一の手段かも知れない。彼は物を食らう。そしてそれだけで十分なのだ。彼は生きるために食っている。そしてわれわれのうちの誰彼は何よりもまず食うために生きている。」(P.182)
「というのは、食物は単に消費者の食欲によって決められるものでないからだ。経済の法則が食い物を規定し、おのおのの種は、組織できる物質の倉庫の中で何一つ使用を受けないものがないようにと自分の縄張りを持っているのだ。」(P.189)
「頭で考えているうちはこれはすばらしい。しかし科学の厳格な記録に加えられる値打ちのある唯一のものである観察できる諸事実、実験によって確かめられるもろもろの事実は、原虫ほどもすばやく歩きはしない。それはわれわれにこう言うのだ。食は生の第一根源の要因である以上、口腹の諸能力は触角の長さや鞘翅の色やその他きわめて大事でない他の細部よりもっと遺伝によって伝えられるはずのものである。食物がいろいろまちまちな今日の状態を起こすため、先駆者たちは何でもかでもちょっぴりずつ食っていた。彼らは一族繁盛のすぐれた原因である雑食をその子孫に残していなければならないのだ。」(P.198)
「胃袋のこの独立は起源の独立を声高らかに裏書している。」(P.199)
十二 ちび虫
「食の不足は体を小さくするにしても、これは限りない裕かさが目につくほど体を大きくするということにはならない。」(P.206)
「われわれは香味料でわれわれの食欲を刺激する。昆虫も彼らの香(FF)味料をたしかに持っているに違いない。たとえば聖たまこがねについて言うと、海風という胡椒だの、恵み豊かな太陽という辛子だの、そんなことがアフリカのたまこがねの体を大きくし、セリニアンの仲間の体を大きくさせない理由のように私には思われる。」(P.206-207)
十三 変則
「常則とはそれと一致した事実の全体から取り出されるものだ。変則とはそれの例外をなすところのものである。」(P.212)
「通則は通則だから通則なのだ。それは検証される。それだけである。通則の存在理由については、われわれは知らないで平気なのだ。
反対に変則はわれわれを不安にし、われわれの考え方をでんぐり返すものだ。」(P.212)
「それを解決しようという大望はなくとも、いくらかは探っておく方がよい。」(P.212)
「足萎えは歩き、足の達者な奴は動かずにいるのだ。」(P.214)
十四 きんいろおさむし 食べもの
「はらわたを食い破られた虫の悲痛な叫び声を聞くには、心の耳を持たねばならない。その耳、それを私は持っている。そしてこんな無情の仕業を引き起こした悔いが、私を捉えるのだ。」(P.230)
「シカゴの畜殺所とおさむしの饗宴とは、我々に一体何を教えているか。次のことだ。徳の高い人間は今のところかなり稀な例外でしかない。文化人の上っ皮の下には、殆どいつも我々の祖先、第四紀の洞窟熊と同時代の野蛮人が隠されている。真実の人類は未だ存在していないのだ。それは幾世紀も酵素と良心の訓練と働きで、徐々に作り上げられて行く。それはより良い方へ絶望的な鈍さで進みつつあるのだ。(FF)
現代では殆ど、古代社会の土台となっていた奴隷制はやっとなくなった。人間はその肌が黒くとも真実に一個の人間であって、人間としての尊敬に値することを認めたのだ。
むかし、女性はどうだったか。現在、なお近東諸国でそうである通り、霊のない美しい家畜だった。神学者たちは長い間、この問題について議論を闘わした者だ。十七世紀の偉大なる司教ボシュエでも、女性はすなわち縮小された男性なりと考えていた。これはアダムが最初持っていた余計な骨、十三本目の肋骨からエバが生まれたことでちゃんと証明されていた。最初に男たちは女性が男性と等しい霊を持っていて、愛情と献身では男性を凌いでさえいると認めた。男たちは女性に教育を受けることを許し、女性は少なくとも、兢敵の男性と等しい熱心さでそれを受けている。だが法典という今日なお数々の蛮俗が巣をくっている洞窟では、女性は無能力者、未成年者扱いを受けつづけている。法典もやがては真理の寄せ潮に結局膝を折るだろう。
奴隷制の廃止と女子教育、これは道徳の進歩のコースにしるしづけられた巨大な二歩だ。我々の子孫はもっと遠くまで進むだろう。彼らはどんな困難でも乗り越せるほど明瞭な理解力で解るに違いない。戦争こそ我々の気違い沙汰のうち一番気違い的なものだ、戦争をおっ始めて他国民を搾取する征服者は、憎んでも憎み足りない禍だ。銃撃よりも握手の取り交わしの方が、どの位ましなものか。一番幸福な民族というものは、大砲を一番沢山持っている民族ではなく、平和に労働し、豊富に生産し得る民族だ。平和な生活には、国境なんて要りはしない。そのむこうに行くにも帰るにもポケットの捜し屋、荷物を掻き廻し屋の税官吏のいやがらせが待っている国境など。(FF)
彼等、我々の子孫は、以上のことや、今日では気違いの夢としか思えない、いろんな不思議を見るであろう。この理想の青空へ、どこまでも登れるだろうか。たいして上までは行かれないだろう。それが気がかりだ。我々は現在どうしても拭い消せない業、我々の意志の外の物の状態を罪と呼んでよかったら、一種の原罪であるこの業に悩んでいる。我々はこのように作られ、それを如何ともすることができない。それは我々の口腹の業、野獣化への尽きない泉だ。
腸(はら)が世界を支配している。我々の一番重大な問題の底から、茶碗と飯との問題が厳として突っ立っている。消化する腸が存在している限り そしてこれは近い将来になくなるというのではない それをみたすべきものが入用だ。そして強い者は弱い者の不幸で生きて行くだろう。生とは死だけしか塞ぐことの出来ない深淵だ。だからこそ、人間であれ、おさむしであれ、その他のものであれ、互いに食い合う際限のない殺戮が行われるのだ。地球を途方もない畜殺所に変える不断の殺戮は、そこから起こってくるのだ。それに較べたら、シカゴの畜殺所などは物の数ではない。
けれども弱肉を食うものは数限りなくいる。そして食物はそれに応ずるほど豊富ではない。持たない者は持つ者を羨み妬み、飢えた者は食い飽きたものに牙をむく。そこで、所有権を決定する戦いがおっ始まるのだ。その時、人間は軍隊を繰り出してその収穫、その食糧庫、その納屋を防禦する。それが戦争だ。そして戦争はなくなるものだろうか。悲しいことに否だ。七度も否だ。世の中に狼のいる限り、羊小屋を守る番犬が入用だ。」(P.231-233)__「意志の外の物」=「無意識・欲求・本能」?
「私はいつも虫の苦しみを可哀そうに思って来た。一番ちっぽけなものの生命にしても、それは尊いものだ。このあわれみの情から私の心を外らすには、科学的研究の要求、時としては惨酷なその要求が必要であった。
私が調べたかったのは、庭の小さな番人で、そのために「庭つくり虫」という名を貰っているきんいろおさむしの習性だった。益虫というこの立派な看板は、どの程度まで当たっているか。」(P.234)
十五 きんいろおさむし 婚姻の習わし
「我々の利害関係から見て有益なものが、有益なものに亡ぼされている。これは万物が我々のためだけに作られているという、我々の子供らしい考えをたしなめるのによい、ちょっとした教訓だ。」(P.248)
十六 肉のくろばえ 産卵
「人生の無情を我々に説得しようという目的から、教会のお坊さんたちは、墓の蛆をやたらに持ち出したものだ。彼らの陰鬱な言葉をうっかり信じてはならない。我々の死体分解の科学は十分雄弁に我々の果敢なさを語っている。それに想像上の恐ろしい事まで付け加える必要はないのだ。墓場の蛆虫なんてものは、事実通りに物を見られない、偏屈な人間の発明である。地下数センチだけのところでも、死者は静かに眠れるのだ。はえがそれを荒らしに行くことはあり得ない。」(P.271)
十七 肉のくろばえ 蛆
「消化とは要するに液化することに外ならないのだから。」(P.279)
十八 はえ蛆の一寄生虫
「生はどこでも、糞中の体の中だろうと、人間の体の中だろうと同じだ。虫を尋問することは人間を尋問することだ。それはなおざりに出来ぬ発見への一歩を進めることだ。こんな希望が、私の惨酷な研究の罪滅ぼしをしてくれる。それは一見子供だましのようであっても、本当は真面目な、考慮に値する研究なのだ。」(P.306)
十九 幼年時代の思い出
「そうだ。あの日、私はおやつに林檎を一つ大事にかかえて、むこうの小山の頂に行ってみようと思い立った。そこは私にとっては、世界の果てだった。」(P.313)__果てを越えたときには達成感があった。今はバスに乗れば寝ていても越えられる。それも「冒険」だが。
二十 昆虫と茸類
「こんな事実から、予めよくゆでれば、時々起こる茸中毒には、一番の安全策だということになる。」(P.239)
「第二に、味もちっとも落ちはしないし、香気も弱くならない。そのうえずっと消化はし易くなってくる。概して胃にもたれ勝ちのこの食物にとっては、これは何よりの条件だ。そのために私の家では何でもかでも、評判高いたまごだけでさえも、熱湯でゆでこぼすのが常である。」(P.340)
二十一 忘れられぬ授業
「窓を開いて、外に楽しい一瞥を投げるということは、我々には拒まれていた。文法が人生を扼殺していた。」(P.343)
「機械のように規則ずくめで動く学校機械というものはなかった。私は自分の思う通りに教えることが出来た。」(P.251)
「今度は水素の時間がやって来た。これは本を読んで十分に考え廻らし、肉眼で見る前に精神の眼で見た上にもまた見ておいた。」(P.356)
二十二 応用化学
(督学官・文部大臣デュリュイ)「「私は『博物学年報』に載った君の論文を読んだのだ。君は観察的精神、研究心、生々(いきいき)とした言葉を持っている。それから、ペンも君の指には対して荷にはならなそうだ。大学の良い教授になれるのだがなあ。」
「いや、実はそれが私の追っている目的なのです。」
「諦め給え。」(FF)
「必要な学力が足りないのでしょうか。」
「足りても、君には財産がないからね。」
大きな障害の正体が私にはっきり解った。貧しいものに不幸あれ。大学で教えるには、何よりもまず個人的な資産からの年収が必要なのだ。」(P.360-361)
(P.372-)__皇帝への謁見(学者拝謁)
「パリなど、もうまっぴらだ。人間のこの巨大な渦の中にいる時くらい、孤独を味わったことはない。」(P.374)
「化学はあかねの染料物質を人工的に作り出すことに成功したのだ。私の地方の農業と工業とは、徹底的に破壊された。」(P.375)
「万事は休した。私の希望は完全に打ち砕かれた。」(P.375)
ここまでがファーブルが生前に刊行した第十巻
二十三 つちぼたる
二十四 キャベツの青虫
「昆虫の串刺し屋さん」(P.421)__標本で研究する学者。
本巻は岩波文庫版『昆虫記』の第十九分冊(山田吉彦訳、一九五二年二月発行、一九六八年五月改版発行)、第二十分冊(山田吉彦・林達夫訳、一九三四年九月発行、一九六二年三月改版発行)にあたる。 (岩波文庫編集部)
<抜書終わり>
<メモ>
進化論者・書斎研究家 頭で考えたものが現実にあると思ってしまう。
科学
科学は変わらないものだと思っている。確かに彼が見ていた昆虫は変わっていない(かもしれない)。でも、社会は大きく変わり、ファーブル以前も以後も変わり続けている。人びとが考えていること(考え方)も変わっている。昆虫に関する知識は変わっています。ファーブルがプリニウスやレオミュールを尊敬しながらも訂正しているように。
トイレ本の読み方