註(2)もともとここに「難問」と訳された原語 ἀπρία は πόρος (通路、通過手段)の欠除態 ἂπορος からでた語で、袋小路、行き詰まり、迷路、難関、困難事、不可能事などという意味。底から、アリストテレスでは、正定立と反定立との相反する回答困難な二つの設問のあいだに板ばさみにされた形で提起される問題をアポリアという。」(P.541)
第三章 第六問、事物の原理とさるべきはその事物の類なのか、あるいはその事物の内在的構成要素なのか、について。第七問、類が原理であるとしても、それは最高の類がであるか最低のがであるか、について。
註
第四章 第八問、存在するのは個々の事物のみか、あるいは個々の事物よりほかに別の或るなにものかが存在するか、について。第九問、諸原理の各々は種において一つか数において一つか、について。第十問、消滅的なものの原理と不滅なものの原理とは同じであるか否か、について。第十一問、存在とか一とかは存在する諸事物の実体であるのか、あるいは属性的なものなのか、について。
「けだし、「数において一つであるもの」というのは「個々の事物」のことにほかならないからである。なぜなら、まさにこのように、われわれが「個々の事物」と言うときには数において一つであるものを指して言っており、そして「普遍」というのはこうした、諸々の個物に共通に述語されるもののことである。」(P.78)
「さらに、(2)もし一それ自らが不可分割的なものであるならば、ゼノンの要請によると、それは全く存在しないことになる。なぜなら、それがなにものかに加えられても減ぜられてもそのものを大きくも小さくもしないところのそれ、それをゼノンはなんらの存在するものでもないと言っているからである、 むろんここでかれが「存在するもの」と言っているのは、大きさのあるものである、 そして、もし大きさがあれば、それは物体的なものである。というのは、物体的なものはいずれの方向〔次元〕においても存在するものだからである。」(P.84)
「(略)だがともかく、いったいどのようにして大きさが、一つのあのような、あるいは一つより多くのあのような〔不可分割的な〕ものから、生じるというのか、これはたしかに問題である。それはあたかも、線は点から生じ(FF)ると主張するようなものだから。」(P.84-85)
註
第五章 第十四問、数学の諸対象は実体か否か、について。
「(略)これらの物体の熱さや寒さやその他のそのような諸性質はそのものの限定〔属性〕であって、実体で(FF)はない。ただこのように限定された当の物体のみが、或る存在とし或る実体として恒常的に存続するのである。しかし、他面から言うと、物体さえも、実体たる点においては、面よりも劣っており、面は線よりも、線は点よりも劣っている。というのは、物体はこれらによって限界されており、そしてこれらは物体なしにでも存在しうるのに物体はこれらなしには存在しえないと考えられるから、というのである。」(P.86)
「というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生じ、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に〔生成過程においてでなしに一挙に〕生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときにはいままで存在しなかった二つの面が存在している。 だから点は、不可分割的であるから、分割されて二つに成るとは言われないのである。 だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、なにから生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない。しかもそれにもかかわらずつねに他なるものであるかのように思われる。このことは、「いま」が実体的な存在ではないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである。というのは、同じ論が適用されるからである、すなわち、どちらもひとしく限界であり区切りであるから。」(P.87)__NotaBene!!
註
第六章 新たな第十五問、なにゆえに感覚的な事物や数学の諸対象よりほかに諸々のイデアが存在するとせねばならないか、について。第十二問、原理は普遍的なものか個別的なものか、について。
註
Γ 第4巻
第一章 存在としての存在とその自体的属性を対象とする学があらねばならない。諸存在の最高の原因を求めるわれわれの学(第一の哲学)は存在を存在として研究しその第一の諸原理を求める。
註
(2)「この学は、他の諸学とちがってあらゆる存在を一般に存在として研究する(ゆえに後世、「存在学」と呼ばれる)が、他の諸学とのちがいは、たとえば数学的諸学(算数学・幾何学・天文学・音楽理論など)は存在を端的に存在として考察しないでそれぞれの特殊な部分について、すなわち存在を数とし図形とし等々として(要するに数学的対象として)考察しており、同様に自然学的諸学もそれぞれ特殊な自然的存在として考察しており、したがっていずれも、存在としての存在から言えば、端的に・自体的にではなく、こうした存在の特殊部分(数学的のまたは自然的な存在)に付帯的に属するものども(FF)(特殊部分から言えばその自体的属性だが)を研究している。」(P.545-546)
第二章 それゆえにわれわれは第一義的の存在すなわち実体を研究し、またそれの自体的諸属性、一と多、その他それから派生する種々の対立的根本概念を研究せねばならない。この哲学者の学は弁証家の術ともソフィストたちの術とも異なる。
「さて、「存在」というのにも多くの意味がある〔訳しかえれば、物事はいろいろの意味で「ある」と言われる〕。しかしそれらは、ある一つのもの、ある一つの自然〔実在〕との関係において「ある」とか「存在する」とか言われるのであって、同語異義的にではなく、あたかも「健康的」と言われる多くの物事がすべて一つの「健康」との関係においてそう言われるようにである、詳言すれは、その或るものは健康をたもつがゆえに、或るものは健康をもたらすがゆえに、また或るものは健康のしるしであるがゆえに、さらに或るものは健康を受け容れるものであるとのゆえに、ひとしく「健康的」と言われる。」(1003a-b、P.92)
「(けだしわれわれは、端的〔無条件的〕にこれこれは存在しないと言うか、あるいはこれこれはある類には在属しない〔或る類ではない〕と言うかであるが、後の場合には、ただの否定に含意されているもののほかにある種差がくわかっている、すなわち、否定はあの一つのものそのものの不在を意味するが、欠除においては、なおそこに一つの基体的実在が存在していて、ただこれについて或るものが欠けていると言われているだけであるから。)」(P.95)__前者は「が(は)ない」、後者は「でない」。これが印欧語の難問である。
註
(1)「これは、συνώνυμα (同一義)と ὁμώνυμα (同語異義・同名異物)との中間に立つものとも言える。同一義的(または一義的)というのは、καθ´ἕν(一つに即して)とも言われ、『カテゴリー論』巻頭(1a6)の定義によると、同一義と言われるのはそれらの名前も定義(本質)も共通なものどもの場合であり、同語異義といわれるのは名前のみ共通なものどもの場合である。この「類比的の一」「類比的に同じである」というアリストテレスの考えは、かれの思考方法の根本的なものの一つであり、中世のスコラ哲学でいう 'analogia entis' の源泉である。」(P.546)
第三章 またわれわれの学は、実体を研究するほかに、論証の諸前提・諸公理、ことに矛盾律についても考えねばならない。
「なぜなら、このような原理は、一方では必ず最も可知的な〔最もよく知られる〕ものであらねばならず、(FF)(というのは、およそ人のあやまるのはその人に可知的でない〔知られていない〕物事に関してだからであるが、)また同時に他方では、なんら仮定的でないものであらねばならないからである。」(P.100-101)
「それはすなわち、「同じもの〔同じ属性・述語〕が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じもの(同じ基体・主語〕に属し且つ属しないということは不可能である」という原理である(なお〔同時にとか同じ事情のもとでとかいう条件以外に〕その他の条件をも、用語上の不備・非難をふせぐために付加する必要があれば、付加してもよい)。」(P.101)
「それゆえ(FF)似、およそ論証をおこなう者は、この原理〔矛盾律〕を論証の終極の判断とみて、その論証をこの原理にまで還元する。」(P.101-102)
註
第四章 矛盾律に論証を求むべきではない。しかし矛盾律の否定の不可能なことは弁駁的に証明される。矛盾律の否定者に対する七つの弁駁。
「ところで、或る人々はこの原理〔矛盾律〕にまでも論証を要求するが、これはかれらが教養を欠いているがためである。というのは、なにについては論証を求むべきであるが他のなにかについては求むべきでないという区別を心得ていないのは、教養のない証拠だからである。なぜなら、なにごとについても一様に論証がありうるというわけではないからである(けだし論証の論証をと無限に追い求めれ、しかも結局なんらの論証もえられないことになろうから)。」(P.102)__NotaBene!!
「ところで、ここに私が「弁駁的に論証する」と言ったのは、普通に「論証する」というのとは区別されねばならない。というのは、論証の原理を自ら論証しようとする者は、論証さるべき原理を前もって要請するものと解されるであろうが、他のひとがわれわれにこれの論証を求めたときには、われわれのまさになすべきは論駁であって普通の論証ではないであろうから。」(P.103)
「ところで、もしかれがなにかを言ってくれれば、すでに論証は可能である。なぜなら、すでになにか意味の定まったものが〔前提として〕与えられているわけであるから。」(P.103)
「もしそうではなくて、一つの言葉があるきりで、これに無限に多くの意味があるというのだと、なんらの説明方式もありえないことは明白である。けだし同じ一つのことを意味しないということは結局なにごとをも意味しないということであり、言葉がなにごとをも意味しないとすれば、互いに話し合うことがないことになり、のみならず実に己れ自らと語ることさえなくなるであろう。なぜなら、一つのことを思惟することなしには、なにごとを思惟することも不可能であるから。しかし、なにごとかを思惟することが現に可能であるとすれば、このなにごとかに一つの言葉があてがわれているはずであ(FF)る。」(P.104-105)
「また、同じものがあり且つあらぬということは、同語異義的より以外には、すなわち、たとえばわれわれが人間と呼ぶところのものを誰かが「あれは人間ではない」〔あいつは非人情的だ〕と呼ぶような場合などより以外には、ありえない。だが問題は、同じものが同時に人間であり且つ人間ではないということが、ただ言葉〔名前〕のうえで可能か否かにあるのではなく、その事柄それ自体においてこのことが可能か否かというにある。そこで、もし「人間」と「人間でないもの」とが異なる別のものを意味しないとならば、明らかに「人間でないものであること」は「人間であること」と異ならず、したがって「人間であること」〔人間性〕は「人間でないものであること」〔非人間性〕であるということになろう。これらが一つことであろうからである。」(P.105)
「そのわけは、付帯的な属性〔付帯性〕は無数に多くあるのでそのすべてを枚挙することは不可能だからである。」(P.107)
「しかし、もしかれらの言うようにすべてが付帯的にのみ言われるということになると、これらがそれについてそう言われるところの第一のそれ〔主語たる基体〕は全く存しないことになろう(いやしくも付帯的なものが常に或る基体〔主語〕についての述語を意味するかぎり)、そうすれば、述語はさらに述語されて無限にさかのぼること必然である。」(P.108)
〔弁駁二〕「というのは、完全現実態においては存在しないで可能性においてのみ存在するもの、これは無規定なものであるから。」(P.110)
「(略)〔弁駁三〕肯定することも否定することも必要でないという結論も出てくる。というのは、もし或るものが「人間でありまた人間でないものでもある」ということが真であるなら、明らかにそのものはまた「人間でもなく人間でないものでもない」であろう。」(P.110)
〔弁駁四〕「というのは、互いに矛盾するものがひとしく各々に属するとすれば、各々は互いに他から全く区別されないであろうから。」(P.111)
「さらにまた、〔弁駁五〕もし肯定が真であるときは否定は偽であり、否定が真であるときは肯定が偽であるとすれば、同じものを真に同時に肯定しまた否定するということはありえないはずである。しかし、おそらくかれは、それは初めから定まっていることではないかと言うであろう。」(P.112)
〔弁駁六〕「あたかも病める者が健康な者よりいっそう多く健康へと配慮するように。というのは、臆断する者は認識する者にくらべると、真理に関してそれほど健康な状態にある者ではないからである。」(P.114)
〔弁駁七〕「そこで、もしなにものかをより多くもつものがそのなにものかにより多く近似的なものであるとすれば、より多く真実なものがより多くそれに近似的であるところのそれなる或る真実それ自らが存在しているにちがいない。また、たとえそれが存在していなくても、すくなくもすでにより多く確かでより多く真実に近似的ななにものかは存在している。」(P.114)
註
(7)「仮に「弁駁」と訳された ἒλεγχος というのは、一種の消極的な論証、或る主として不可論証的な見解(公理など)に対する反対または否認の不可能なことを示して当の見解を支持し弁護する帰謬法的論証。」(P.548)
第五章 矛盾律の否定と関連するプロタゴラスの感覚論的相対主義と、これに対するわれわれの論難。
「というのは、かれらのいう存在には二通りの意味があって、存在は或る意味では非存在から生成しうるが、他の意味では生成しえないからであり、したがって同じものが同時に存在しまた存在しないということもありうるからである。 ただしこのことは同じ意味においてありうるというのではない、というのは、可能性においては同じものが同時に相反する二つのもののどちらででもあるが、完全現実態においてはそうでないからである。」(P.116)
(a)「(略)すなわち一般に、なにものかが消滅するならば、そのなにものかは存在していなくてはならず、なにものかが生成するならば、このものがそれから生成するところのそれ〔質料〕や、それによってその生成過程が始められるところのそれ〔始動因〕が、存在すること必然であり、しかもこの生成過程は無限にさかのぼりえないからである。」(P.119)
(b)「ひとしく転化するといっても、量におけるそれ〔増減〕と性質におけるそれ〔変化〕とは同じことではないということである。ところで、なるほど物事はその量における転化においては恒常的ではないであろうが、しかし、われわれが物事を認識するのは、すべてそれの種類性質においてである。さらにまた、このような見解の人々に対して正当に指摘さるべき難点は、(c)かれ(FF)らが、感覚界についてさえそのわずかの部分しか見ていないのに、それから推して天界全体をもそれと同様であるかのように説いている点にある。というのは、感覚界のこのわれわれを取りまく領域だけではすべては絶えまない消滅と生成の過程にあるが、しかしこの領域は、全宇宙にくらべれば、いわばその一小部分でもないほどであるからであり、したがってこの小部分のためにあの大きな部分を共犯にするよりも、むしろあの部分のためにこの部分をも無罪放免にしたほうが当をえていよう。さらにまた明らかにわれわれは、(d)この人々に対しても、さきに他の人々に言ったのと同じことを答うべきであろう。すなわちわれわれは、この人々にも、或る不動な実在の存することを証示し、それを認めるように説得すべきである。実のところ、ものが同時にあり且つあらぬという人々は、結局、すべてのものが運動しているというよりも、むしろすべては静止していると言うべきだ、ということになろう。なぜなら、かれらによると、すでにあらゆる属性があらゆる基体に内在しているわけでであるから、転化してなにものかになろうにもなにものも存在していないはずだからである。」(P.119-120)
「(b)未来のことについても、プラトンのいっているように、たとえば健康回復の見込みがあるか否かに関し、医者の意見と医術に無知なものの意見とは決して同等の権威をもってはいないからである。さらにまた(c)諸々の感覚相互のあいだでも、自らに縁遠い感覚対象についての感覚と自らに固有の感覚対象についての感覚とは、あるいは近親な対象についての感覚と独自の対象についての感覚とは、同等の権威をもっているわけではなく、色については味覚ではなしに視覚が権威をもつが、味については視覚ではなしに味覚が権威をもっている。」(P.121)
「たとえば、同じ酒でも、酒そのものが変質するかあるいはそれを味わう者のからだ具合が変わるかすれば、ときには甘くありときには甘くないと思われるであろう、」(P.121)
「感覚は感覚それ自らについての感覚ではなく、感覚さるべき他のなにものか〔感覚対象〕が感覚とは別に存在し、このものが必然的に感覚より先に存在しているからである。というのは、動かすものは動かされるものよりも自然においてはより先にあるからである、」(P.122)
註
第六章 相対主義に対する論難の続き。
「というのは、かれらは論拠のないものに論拠を求めているからである。なぜなら、論拠の原理は論拠ではないから。」(P.123)
「なぜなら、現れは誰かに対しての〔相対的の〕現れであるから。したがって、すべての現れがただ〔端的に〕存在するというのではなくて、現れはそれが現れる人に対してそうであり、それが現れる時にそうであり、またその現れる感官やその時の事情のいかんに応じてそうあるのである、と言って自ら警戒せねばならない。」(P.123)
註
第七章 排中律とその擁護。
「けだし、存在するものを存在しないと言い、あるいは存在しないものを存在するというは偽であり、存在するものを存在すると言い、存在しないものを存在しないという言うは真であるからして、なにをあるとかないとか言う者は、真を言うか偽を言うかのいずれかである。」(P.126)
「しかるに、現に中間のものは、つねに明らかに両端のどちらかに転化する。なぜなら、対立する両端のどちらかに転化するかあるいは中間のものにかより以外には転化することはありえないからである。だがまた(b)もしそれが厳密な意味での中間のものであるとすれば、ここでもまた同様に、白への生成が、しかも非白からでない生成が、あるはずである。しかるに実際にはこのような生成は見られ(FF)ない。」(P.126-127)
「ところで、これらすべての人々に対してわれわれの出発点となすべきは定義である。というのは、なにかを語るときかれらは必然になにかを指意しており、そこに定義が生じるからである。けだし、ある言葉を指意しているところの説明方法、これがこの言葉の定義であるから。」(P.128)
註
(1)「すなわち、両端の二つのほかにその中間のものが一つだけ加わり、したがって半数だけ多くなる。」(P.550)
(2)「すなわち、もし甲でも非甲でもない乙があるなら、乙でも非乙でもない新たな第三のもの丙があり、さらに同様にして、丁が、戊が、ということになる。」(P.550)
第八章 すべての立言が真であるのでもなく、すべてが偽であるのでもない。すべての事物が静止しているのでもなく、すべてが運動しているのでもない。
「というのは、真の説は真であるという説はまた真の説であり、等々と、無限にさかのぼるからである。
明らかにまた、すべては静止していると説く人々も、すべては運動していると説く人々も、ともに真実を説いてはいない。なぜなら、もしすべてが静止しているとすれば、同じ説が永遠に真でありまた偽であるはずであるが、実際には明らかにそれは転化しているから(というのは、その説をなすもの自らが、かつては存在していなかったであろうし、またふたたび存在しなくなるであろうからである)。しかしまた、もしすべてが運動しているとすれば、なんらの真も存在しないことになり、したがってすべては偽であるということになろう。しかし、このことの不可能であることはすでに証明されたとおりである。なおまた、存在するものは転化するのが必然である。なぜなら、転化は或るものから或るものにであるから。しかしまた、すべてのものが或るときには静止しまたは運動しているというのではなく、またすべてのものが常に〔永遠に〕そうしているというのでもない。というのは、動いているものには常にこれを動かす或る者があり、しかもその第一の動者それ自らは、不動であるから。」(P.130)
註
Δ 第五巻、哲学用語辞典
第一章 アルケー(始まり、原理、始動因)。
「たとえば、都市国家においてこれを動かすものがアルカイ〔アルケーの複数形、主権〕とよばれ、また権力政治や君主政治や僭主政治などがアルカイ〔統治、政権〕と言われるがごときである。あるいはまた諸々の技術においても、ことに建築関係の諸技術を指図する棟梁の術がアルキテクトニケーと呼ばれるのはそのためである。」(P.132)
「対象事物がそれから第一に認識されるにいたるところのそれ〔認識の第一前提〕がまた、その事物のアルケーと言われる。たとえば、論証の前提する仮設は論証のアルケー〔前提〕と言われる。」(P.132)__翻訳の不可能性=>他者・他物を知る(理解する)ことの不可能性。
「しかし、これらのうち、その或るものはその当の事物に内在しており、他の或ものはそれの外にある。さて、それゆえに、事物のピュシス〔自然〕も原理であり、ストイケイオン〔元素、構成要素〕もそうであり、思考や意志もそうであり、実体もそうであり、また、それのためにであるそれ〔目的〕も同様である、というのは、善や美は多くの物事の認識や運動の始まりだからである。」(P.132)
註
(1)「「アルケー」の原語は ἀρχή (複数形 ἀρχαί )。ラテン語では principium (複 principia )、そこから近代欧州語もだいたいそのまま、英 principle, 仏 principe, 独 Prinzip 等々。これが日本語では「原理」と訳されるので、この訳書でも「アルケー」をだいたい「原理」と訳した。」(P.550)
(5)「ここでは父親だけでなく母親もそのこの外的始動因とされているが、一般にはアリストテレスでは、子に対して母親(その血液)は質料因、父親(母体に与える精子)が始動因としての形相因と解されている。」(P.551)
(10)「「思想や意志」( ἡ διάβιθα καὶ ἡ προαίρεσις )は、悪口雑言や忠告や技術などと同様、人間の行為・不行為の始動因としての原理。」(P.551)
(11)「この「実体」は、形相(または本質)としての原理。」(P.551)
(12)「「始まり」を意味する「アルケー」は、こうしてまた「終わり」「目的」をも意味する。」(P.551)
第二章 アイティオン(原因)。
「すなわち、(A)それらは(1)個別的なもの〔たとえば彫刻家〕としてか、(2)その類〔技術家〕としてか、(3)付帯的な個体〔ポリュクレイトス〕としてか、(4)この付帯的なものの類〔人間、動物〕としてか、さらにこれらが、ただこのように単独に言われるだけでなく、組み合わされて〔(5)彫刻家のポリュクレイトス、(6)技術家の人間、と〕言われるかであり、そしてこれらすべては(B)現実に働いているそれとしてか可能的なそれとしてかの二通りに言われる。ただしこの二つにはつぎのような差別がある。すなわち、現実に働いている個別的なものとしての原因は、それの結果と同時に存在し、また存在しないときにも同時的である、たとえば現に治療しつつある医者は現に健康にされつつある被治療者のあると同時にあり、後者のいないときには前者もいない〔すなわち現実に彼を治療している医者もいない〕、また建築しつつある建築家は建築されつつある家と同時に存在し、前者の存在しないときには同時に後者も存在しない。しかるに、可能的な意味での原因としては両者は必ずしも常にそうではない、というのは、この意味での家はこの意味での建築家のなくなると同時にいなくなりはしないからである。」(P.137)
註
(1)「「アイティオン」は原語では αἴτιον (複 αἴτια)。ラテン語では causa (複 causae )。これは「責めがある」という意味の形(FF)容詞 αἴτιος からの中性形の名詞で、女性形の名詞 αἰτια (複 αἰτίαι )と同じく、本来は「責」「責任」「責めを負うもの」「責めの帰するところ」を意味し、そこから「原因」「理由」などのいに用いられ、この訳語でもだいたい(中性形のをも女性形のをも)「原因」と訳す。」(P.551-552)
第三章 ストイケイオン(構成要素、元素)。
註
(1)「ストイケイオン」は原語では στοιχεῖον (複 στοιχεῖα )。ラテン語では elementum (複 elementa )。もともと言葉の音節または語節( συλλαβή )を構成する要素としての字母(アルファベット)を意味する語で、転じて一般に事物の構成要素を指す語。したがって、この語は、ラテン語に移されるに当たり、一説では、abcの代わりにlmn(当時のローマ字母二十を二行に書き二行目の頭の三文字)をとって「el-em-emのようなもの」との意で elemntum と訳されたとも言われる」(P.552)
第四章 ピュシス(自然、実在)。
(エムペドクレス)「これらを自然というは、人間の与えた呼び名にすぎない。」(P.141)
「さて、上述からして明らかなように、第一の主要な意味で自然と言われるのは、各々の事物のうちに、それ自体として、それの運動の始まり〔始動因〕を内在させているところのその当の事物の実体〔本質〕のことである。というのは、事物の質料が自然と言われるのは、質料がこの実体を変容しうるものなるがゆえにであり、また事物の生成し成長する過程が自然と呼ばれるのも、この過程がまさにこの実体から始まる運動なるがゆえにであるから。また自然的諸存在のうちに、可能的にせよ現実的にせよ、内在しているところのこの事物の運動の始まり〔始動因〕も、この意味での自然である。」(P.141)
註
(1)「この原語 'φύσις'が、のちにラテン語の学界で、 'natura' と訳され、これがそのまま近代西州語で 'nature'm 'Natur' 等々と訳され、日本語でもこの近代語の訳語として用いられる「自然」がこの φύσις の訳語として用いられる。」(P.553)
「むしろここでも、ギリシア語の「ある」が「真としてのある」の意にも用いられたこと(第六巻第四章参照)と現に本章で φύσις が実在・実体を意味したと言われたことを合わせ考うべきであろう。それはあるがままなるがままの真実を意味した。」(P.554)
(5)__「形式」μορφή。
第五章 アナンカイオン(必然、必要)。アナンケー(必然性)。
註
(1)「「アナンカイオン」( ἁναγκαῖον )のラテン語訳は necessarium. そして「アナンケー」( ἁναγκη )のは、necessitas.」(P.555)
(2)「「それがなくては・・・ない・・・それ」の原語は οὗ ἂνευ οὐκ...そのままラテン語訳して sine qua non, または conditio sine qua non といわれ、そこから「不可欠的条件」とか「必須条件」とか訳される。それが伴わなくては真の原因も原因たりえない必要条件。」(P.555)
第六章 ヘン(一つ、一、統一)。ポルラ(多)。
14B1言葉が感情・感覚そのものを表すこと。
それは不可能とか可能とかじゃなくて、現実にそうであること。それが翻訳の可能性であり、対話の可能性である。
言葉になる前のもの、第一実態。
自我にならない私。主体にならない私。
「ヘン〔一つ、一、統一〕と言われるものどもに、(一)それの付帯性において一つといわれるものと、(二)自体的に一つと言われるものがある。」(P.144)
「そしてこのように実体において一つであるというのは、〔上述のように〕(1)連続性においてか、(2)種〔形相〕においてか、(3)説明方式においてかである。」(P.148)
τὰ δὲ πρώτως λεγόμενα ἕν ὧν ἠ οὐσία μία, μία δὲ ἢ συνεχείᾳ ἢ εἴδει ἢ λόγῳ
(つづき)「というのは〔多くという場合を考えてみても明らかなように〕われわれがなにかを数えてそれらを一つより多くあるというのは、それらが連続していないか、あるいはそれらの種が一つでないか、あるいはそれらの説明方式が一つでないかのいずれかであるから。」(P.148)
「ところで、(1)量において不可分割的なもののうち、(a)いずれの方向においても不可分割的であり且つなんらの位置をも有しないものはモナス〔数の単位としての一〕と言われ、(b)いずれの方向においても不可分割的であるがしかし位置を有するものは点といわれ、(c)ただ一つの方向においてのみ可分割的なものは線といわれ、(d)二つの方向において可分割的なものは面と言われ、そして(e)すべての方向においてすなわち三次元において量的に可分割的なものは物体〔立体〕と言われる。」(P.149)
註
(1)「「ヘン」( ἓν )は、ラテン語訳では unum, その抽象名詞「ヘノテース」( ἑνότης )のラテン語訳は unitas. 」(P.556)
「「ト・ヘン」( τὸ ἓν )に対する「タ・ポルラ」( τά πολλὰ )すなわち「多」「多くのもの」はラテン語では multa.」(P.556)
(8)「「述語形態」( σχῆμα τῆς κατηγορίας )というのはいわゆる範疇。カテーゴリアは述語の意。」(P.556)
第七章 オン(ある、存在する、存在、存在するもの)。
「ものがオン〔ある、存在する、または、存在、存在するもの〕と言われるのは、(一)付帯性においてか、あるいは(二)それ自体においてかである。」(P.150)
Τὸ ὃν λέγεται τὸ μὲν κατὰ συμβεβηκὸς τὸ δὲ καθ αὑτό,
(一)「人間が教養的である」
「つぎに、(二)それら自体においてある〔または存在する〕といわれるのは、まさに述語の諸形態〔諸範疇〕によってそう言われるものどもである。なぜなら、ものが云々である〔または存在する〕というのにも、それらが種々の形態で述語されるだけそれだけ多くの意味があるからである。けだし、述語となるものども(タ・カテゴルーメナ)〔諸範疇〕のうち、或るものはその主語のなにであるか〔実体・本質〕を意味し、或ものはそれのどのようにあるか〔性質〕を、或るものはそれのどれだけあるか〔分量〕を、或るものはそれが他のなにものかに対してどうあるか〔関係〕を、或るもの(FF)はそれのすること〔能動〕またはされること〔受動〕を、或るものはそれのどこにあるか〔場所〕を、或るものはそれのいつあるか〔時間〕を指し示すものであるが、ある〔存在する〕というのにもこれらと同じだけの意味があるからである。ただし、人が「健康である」とか、人が「歩行する」とか、人がなにかを「切る」とかいうように述語する仕方もあるが、これらも実はそれぞれその人が「健康なる者である」とか「歩行する者である」とか「切る者である」とかいうのと異ならないからである。」(P.151-152)
「なおまた、(三)ものがあるとか云々であるとか言うとき、そのあるというのは真であるとの意をもち、あらぬというは真ではなくて偽であるとの意をもっている。」(P.152)
「さらにまた、(四)あるとか存在とか言うとき、上述の述語諸形態であると言われるそれぞれの存在がその可能性において存在することを意味する場合と、完全現実態において存在することを意味する場合とがある。」(P.152)
註
(1)「原語 ὃν は、「ある」または「存在する」という意味の動詞 εἲναι の中性形の分詞で、ラテン語では ens であり、いろいろの意味で「ある」または「存在する」と言われる物事を指す。」(P.557)
(2)「このように同じ「ある」でも両者はその意味・役割がちがっているので、西洋の学界では前者を「存在(エクジステンス)としてのある」と呼び、後者を「連辞(コプラ)としてのある」と呼んで区別している。これは日本語では無用の区別である。日本語では、後者の場合、「である」の「ある」を用いないで、むしろしばしば別の語で、たとえば「人間だ」「白い」「五尺です」などという。しかし、ギリシア語のみならず一般に印欧語では、どちらの場合を表すにも日本語でのような差別なく共通に「存在」を意味する同じ一つの動詞 εἲναι ( esse, be, être, sein)またはその変化が用いられて、形の上では「がある」か「である」か区別がつかない。それがため、この「がある」=「である」のὃνをめぐって、現にエレア学徒からソクラテス門下の詭弁家(ソフィスト)たちにいたる奇怪な議論も真剣にかわされたわけである。これがソクラテス=プラトンの「なにであるか」の問答活動を経て、ここにアリストテレスでは、この「である」の意味の「存在」が一般に「述語としての存在」と呼ばれ、その存在研究の重要課題となった。」(P.557)
(3)「なおまた、δοκεῖν, φαίνεσθαι など云々の「ように思える」「ように見える」に対して云々で「ある」という場合の εἲναι (したがって ὃν )は、ただ、「云々である」と述べるだけでなく「云々であるのは本当だ」「本当に云々である」の意をもっている。「あらぬ」の場合も同様である。」(P.558)
第八章 ウーシア(実体)。
「ウーシア〔実体〕と言われるのは、(一)単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、または一般に物体やこれら諸物体から構成されたものども、およびこれらの諸部分のことである。これらすべてが実体と言われるが、そのわけは、これらが他のいかなる基体〔主語〕の述語〔属性〕でもなくてかえって他の物事がこれらの述語であるところの〔基体的な〕ものどものことであるからである。しかし他の意味では、(二)このように他の基体の述語となることのない諸実体のうちに内在していてこれらの各々のそのように存在するゆえんの原因たるものを実体という。たとえば生物では、それに内在する霊魂〔生命原理〕がそうである。さらにまた、(三)あのような諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々をこのように限定してこれとして指し示すところのものをも実体と呼ぶ。そしてこれは、これがなくなればその全体もなくなるに至るような部分である。たとえば、或る人々の言っているように、面がなくなれば物体がなくなり、線がなくなれば面がなくなるがごときである。また一般に、かれらの考えでは、数もそのような実体である、というのは、数がなくなればなにものも存在しなくなり、数がすべてを限定しているというのだから。さらに、(四)もののなにであるか〔本質〕, このなにであるかを言い表す説明方式がそのものの定義であるが、 これがまたその各々のも(FF)野の実体と言われる。
これを要するに、実体というのには二つの意味があることになる。すなわち、その一つは、(一)もはや他のいかなる基体〔主語〕の述語ともなりえない最後の基体〔個物〕であり、他の一つは、(二、三、四)これと指し示されうる存在であり且つ離れて存在しうるものである、すなわち各々のものの形式または形相がこのようなものである。」(P.153-154)
註
(1)「原語 οὐσία はラテン語では、多くの場合、 substantia (そこから、英・仏 substance, 独 Substanz, 日本語訳「実体」)、ただしこの語は諸義に応じ、とくに ὑποκείμενον を意味するばあいには( sybstabtua とも訳されるが)さらに substratum (基体)または subjectum (主語)とも訳され、また τὸ τί ἦν εἶναι と同義の場合には esseentia (したがって英・仏 essence, 独 Wesen )とも訳される。」(P.558)
「この原語 ὐσία は動詞 εἶναι の女性形 οὖσα と関連した名詞で、「ある物」「存在」の意を含むが、普通の用法では、あたかもこれと同じ動詞の中性形の分詞 ὄν が名詞として使われる場合、τὸ ὄν (複 τὰ ὂντα )が「あるもの」「存在するもの」または「存在」途方や腐れはするものの、じつはむしろラテン語の res ( thing, Ding)、日本語なら「物」「事物」「物事」というほどの意味であるように、この οὐσία も、「物」「実物」「現物」の意をもち、ことに日本語で「田地持ち」「金持ち」などが「物持ち」と言われる場合の「物」の意に近く、もともと、 τὰ ἀγαθά ( goods, Güter )がそうであったように、それの持ち主の価値(存在理由)がそれの有無・多少によって決定されるような「大切なもの」すなわちその持ち主が持ち主であるゆえんのその「所有物」「資産」を意味した。」(P.558-559)
(2)「これがアリストテレスの「第一実体」と言われるものの有名な定義(簡単には「常に自ら主語(基体)であって他の何者の術後(属性)でもないもの」)である。これに対して「第二実体」と言われるのは、他のものの述語となる類・普遍、すなわち述語形態としての実体。 ついでながら、この定義で「主語のうちに」あるというのは、普遍が特殊(主語)に対する関係を意味するとともに、属性がその属性の所持者(基体)に対する関係をも意味している。すなわちここでも同じ ὑποκείμενον という語が主語( subjectum )と基体( substratum )と(FF)の両義を含んでいる。」(P.559-560)
第九章 タウタ(同、同じ)。へテラ(異、異なる)。ディアポラ(差別、差異、差異性、種差)。ホモイア(同様、類似)。アノモイア(不類似、不同様)。
「物事がタウタ〔同、同じ〕であると言われるのにも、(一)或る物事はそれの付帯性において同じと言われる。」(P.154)
「さて、或る物事はこのように付帯性において同じであると言われるが、しかし、(二)或る物事はそれらそれ自体において同じであると言われ、あたかも一つというのがさまざまに言われたようにさまざまにそう言われる。」(P.155)
「したがって明らかに、物事の同一性〔同じであること〕は統一性〔一つであること〕の一種である。そしてこのことは、その物事が一つより多くある場合いついてはもちろんのこと、一つきりである場合でも、これが一つより多くの物事として取り扱われているかぎり、同様である、たとえばこのものはこのもの自らと同じであるというような場合がそうである、すなわちこの場合、ものは二つあるものとして取り扱われているからである。」(P.155)__自己同一性。「自我」と「他者の他者」の二つ。identityは、まさに他人から見たわれが割れであることであり、自分から見た我ではない。それは自分が他者を他者〔他の自我〕と見ることと同じである。そして他者、たとえば親を「他人としてみる度合い」は、私の世代と親の世代では違うように思う。
(つづき)「これに反して、物事がヘテラ〔異なる〕と言われるのは、それらの種、またはそれらの質料、またはそれらの実体〔本質〕の説明方法が、一つより多くある場合である。そして一般にそれらは、「同じ」というのと対立的な意味で「異なる」と言われる。
ディアポラ〔差別、差別性、種差〕があると言われるのは、(一)それらのものが互いに異なるものではあるがなんらかの点で同じものである場合、すなわち、数的には同じではないが、しかしその種において、あるいはその(FF)類において、あるいは類比によって、同じものであるものどもの場合と、つぎは、(二)その類が異なるもの、互いに反対のもの、そのほかおよそそれらの実体のうちに異他性を有するものどもの場合である。
ホモイア〔同様、類似的〕と言われるのは、(一)それらの諸属性があらゆる点で同じであるものども、あるいは同じ属性のほうが異なる属性よりもいっそう多くあるものどもの場合、または(二)それらの性質が一つである場合である。なおまた、(三)それらに変化の生じうるゆえんの反対のものどもの大多数を、あるいはそのいっそう多く重要なそれを共有しているところの二つの事物も類似的〔または同様〕であると言われる。なお、不類似〔不同様〕というのは、類似的というのと対立的な意味で言われる。」(P.155-156)
註
(1)「原語 ταὐτά は中性複数形冠詞つき、単数中性冠詞なしでは αὐτό (複 αὐτά )。ラテン語では idem。また「同一性〔同じであること)」と訳された ταυτότης は、ラテン語では idemtitas.」(P.560)
(2)「たとえば、「二本足である」ことや理性的であることは「人間」なるものにとって自体的な属性であるから全称的に「すべての人間は二本足である」と言われうるが、色白いことや教養的であることは「人間」なるものにとって付帯的であるからただ特称的に「或る人間(たとえばソクラテス)は白くある」としか言われない。」(P.560)
(3)「「差別」「差異」と訳される διαφορά は、ラテン語では differentia 同じ類の差異を表す場合には「種差」とも訳される。」(P.560)
(4)「「同様」「類似的」と訳される ὃμοια (複数形では ὃμοιον )のラテン語訳は simila.」(P.560)
(5)「主なる反対のものどもとは、熱と寒、乾と湿、そのほか粗と滑、硬と軟、白と黒、甘と辛など。」(P.560)
第十章 アンティケイメナ(対立、対立するもの)。エナンティア(反対、反対のものども)。へテラ・トー・エイデイ(種において異なる)。タウタ・トー・エイデイ(種において同じ)。
「アンティケイメナ〔対立したものども、対立物〕と言われるのは、矛盾する判断、反対のものども、相対関係にあるものども、欠除と所有、生成や消滅の始まりと終わりなどである。そして、およそ二つの属性で、この両属性を受容しうる同じ或るもの〔同一の基体〕に同時には現在しえないような二つの属性は、それら自体においてか、あるいはそれら各々の要素において、対立していると言われる。たとえば灰色と白色とは同時に同じものに属することはできない、それゆえにこれら各々の要素〔黒と白と〕は対立的である。
エナンティア〔反対、反対のものども、相反するもの〕と言われるのは、(一)それらが類において異なるがゆえに同時に同じ基体に現在することの不可能なものどもであるか、(二)同じ類に属するものどものうちで最も(FF)異なるものどもであるか、(三)同じ基体の受け容れうるものどものうちで最も異なるものどもであるか、(四)同じ能力の部に属するものどものうちで最も異なるものどもであるか、または(五)およそそれら相互の差別が、端的にあるいはその類においてあるいはその種において、最も大であるものどものであるかの場合である。なおそのほかにも、(六)ものどもが反対のものと言われるのは、上述の諸義での反対のものをそれらが所有しているがゆえにか、またはそれらがこうした反対のものを受け容れうるものどもであるがゆえにか、またはそれらがこうした反対のものに能動しあるいは受動しうるかあるいは現に能動しあるいは受動しているものどもであるか、またはそれらがこうした反対のものの消失か獲得か、またはその所有か欠除かであるがゆえにである。 さて、一にも存在にも多くの異なる意味があるからして、必然にまたこれらによって述語されるものどもも、したがってまた同じものとか異なるものとか反対のものとかも、一や存在の諸義に照応せざるをえない。したがってこれらのものどもはそれぞれ存在の述語形態の異なるに応じて異なるはずである。
ヘテラ・トー・エイデイ〔種において異なるもの〕と言われるのは、(一)同じ類のものどもでありながら互いに他のものには属していないものども、または、(二)同じ類のうちにありながらそれらのあいだに差別をもつものども、または、(三)およそそれぞれの実体のうちになんらかの反対的性質を有するものどもである。なおまた、(四)あらゆる反対のものども、あるは少なくとも第一義的にそう言われるものは、互いに種において異なるものどもである。また、(五)それらの説明方式がその類の最下の種において異なるものども、たとえば人間と馬との場合、これらはその類において不可分であるがそれぞれの説明方式は異なっている。さらにまた、(六)同じ実体のうちにありながら差別をもつものどももそうである。 なお「種において同じもの」といわれるの(FF)はこれらと対立的に言われるものどもである。」(P.157-158)
註
(1)「単数中性形では ἀντικείμενον. ラテン語訳では opposita.」(P.560)
(2)「単数中性形では έναντίον. ラテン語訳では contraria.」(P.560)
(4)「ἑτερα τῷ εἴδει. ラテン語訳では diversa vero specie.」(P.561)
第十一章 ポテロン(より先、前)、ヒュステロン(より後、後)。
「或る物事が他の物事よりもプロテロン〔より先、前〕またはヒュステロン〔より後、語〕であると言われるのは、(一)或る意味では、その各々の類のうちになんらかの第一のものすなわち或る始まりがあるとした場合に、どちらがこの始まりにより近くにあるかによってそう言われる。」(P.158)
「(略)しかしまた、他の意味では、(二)知識においてより先であるものどもがまた端的により先であるとされている。」(P.159)
「なぜなら、説明方法においては普遍的なもののほうがより先であるが、感覚にとっては個別的なもののほうが先だからである。なおまた説明方式においては、付帯性のほうが全体より先である、たとえば「教養性」は「教養的な人間」よりも先である、というのは、説明方式は、全体としては、まずその部分がなくてはありえないからである。 とは言え、教養的であることそのことは教養的なる誰かが存在しなくてはありえないことではあるが。
なおまた、(三)より先なる事物の諸限定もそうである。たとえば「まっすぐであること」のほうが「平くある(FF)こと」よりも先であると言われるが、それは、前者が直線それ自体の限定であるのに後者は平面のそれである〔そして線は面よりも先である〕からである。」(P.159-160)
「すなわち、或るものは可能性においてのほうが先であり他の或ものは完全現実態においてのほうが先である、たとえば、可能性においては、或る線の半分はその全体よりも先であり、部分は全体よりも先であり、質料は実体〔結合体〕よりも先であるが、しかしそれらはそれぞれの完全現実態においてはより後である、なぜならそれらが完全現実態において存在するのは全体がふたたび解体して後のことであるから。さて、それゆえに、或る意味では実に、より先とかより後とか言われるのはすべてこの〔第四の〕言い方で言われるのである。けだし、或るものは、その生成において他のものなしには存在しえない、たとえば全体はその部分なしには存在しえない、しかし他の或ものは、その消滅においてそうである、すなわちここでは部分は全体なしには存在しえない。その他の場合もまたこれと同様である。」(P.160)
註
(1)「πρότερον と ὓστερον. ラテン訳では prior と posterior. ともに比較級「より先」「より前」と「より後」であるが、単に「先」「前」または「後」とも訳した。」(P.561)
第十二章 デュナミス(能力、可能性)。デュナトン(能がある、可能な)。アデュナミア(無能力)。アデュナトン(無能な、不可能な)。幾何学でいうデュナミス(冪、累乗)。
「デュナミス〔能力、可能性〕と言われるのは、まず(一)ある物事の運動や転化の原理〔始動因〕のことで、これはこの物事とは他なるもののうちに存し、あるいは他なるものとしてこの物事それ自らのうちに存するものである。たとえば建築術は一つの能力であるが、これは建築される家のうちには存しない。しかし医術は、同じく能力であるが、治療される患者のうちに存することもありうる、ただし治療される患者としてのかれのうちに存するのではないが。そこで、このように、デュナミスというのは、一般に物事の転化や運動の原理としてその物事とは他なるもののうちに存し、あるいは他なるものとしてその物事それ自らのうちに存するものを言うのであるが、しかしそれはまた、(二)或る物事がそれとは他なるものによって、あるいは他なるものとしてその物事それ自らによって運動転化させられることの原理をも意味する。これのゆえに或る受動するものがなにかを受動するとき、それがなにをどのように受動しようと、そのものをわれわれは受動する能があると呼ぶ、しかしときには、あらゆる任意の受動についてではなしに、とくにより善い方向に受動するものであるとき、そのものをわれわれは能がある〔有能な〕と呼ぶ。さらに、(三)その事柄を巧みにまたは意図のとおりに遂行しうる能力を意味する。というのは、ときとしてわれわれは、ただ歩きただ語るというだけで巧みにも思いどおりにも歩けず語れない者を、語る能がないとか歩くことができない〔可能でない〕とか言うからである。なおまた、(四)これの受動の場合も同様である。さらにまた、(五)それのゆえに物事が端的に非受動的であり不変化的であるか、または容易には(FF)悪く転化させられないような性を所有せる状態〔所有態〕がその物事の能力〔性能〕と言われる。」(P.161-162)
「というのは、たとえば道具のような無生物にもそのような能力が内在しているからである。」(P.163)
「アデュナミア〔無能力〕というのは、上述(一)のような原理としてのデュナミス〔能力)の欠除である。この欠除にも、一般に任意のなにものかの欠けている場合と、自然的には所有しているはずのものの欠けている場合と、さらに自然的にはすでに所有しているはずの時間にそれを欠いている場合とがある。」(P.163)
(P.164)__可能。「可」客観的な状況のもとで可能。「能」主観的な判断によってなしうる能力。「漢字字典」。
註
(1)「 δύναμις. ラテン訳では potentia. 本章では、アリストテレス哲学で主要な対立概念の一つ、現実態(または完全現実態)に対する可能態としてのこの語の意味にはほとんど触れていない。この意味での δύναμις については第九巻第六−九章で詳説されている。」(P.561)
(2)「たとえば自分を、ただし医者としての自分でなく患者としての自分を、治療する場合の医者。」(P.561)
(3)「 δυνατόν. ラテン訳では possibile.」
(4)「 ἀδυναμία. ラテン訳では imotentia.」
(5)「 ἀδύνατον. ラテン訳では impossibile.」
第十三章 ポソン(どれだけ、いかほど、量)。
「もののポソン〔量、本来の語義はどれだけ、いかほど、等々の意〕というのは、それらの各部分が自然的にある一つのものであり、またはこれと指し示されうるものであるところの或る幾つかの内在的構成部分に分割されうるところの或る幾つかの内在的構成部分に分割されうるもののことである。そしてそのどれだけあるかが〔すなわちその量が〕(一)数えられうるときには、この数えられうる量は「多さ」であり、(二)測られうる量であるときには、この量は「大きさ」である。多さというのは可能的に非連続的な部分に分割されうるものの場合であり、大きさというのは連続的な部分に分割されうるものの場合である。大きさのうち、一次元的に連続なそれは「長さ」であり、二次元的なそれは「広さ」であり、三次元的なそれは「深さ」である。またこれらのうち、限られた多さは数であり、限られた長さは線、広さは面、深さは物体〔立体〕である。」(P.163)
「というのは、運動や時間もまた、これを自らの限定とするところのものそれ自らが分割されうるものであるがゆえに、この意味で量であり連続的なものであると言われるからである。ただしここで「分割されうるもの」とわたしが言うのは、運動しているもの自らのことではなくてこのものの運動する場所のことであり、そしてこの場所が或る量であるがゆえに、そこでの運動もまた〔付帯的に〕量なのであり、またこれが量であるがゆえにそれの〔運動する〕時間もまたそうなのである。」(P.166)
註
(1)「この ποσόν (男性形 πσός, 女性形 ποσή )は、ラテン語の quantum (男性形 quantus, 女性形 quanta )と同様、ものの量(多さ・大きさ)を問う形の不定詞で、「どれほど(多く)」「どれだけ(大きく)」などの意。」(P.562)
第十四章 ポイオン(どのような、性質)。
「もののポイオン〔性質、本来の語義はどのような、いかような、等々の意〕というのは、(一)或る意味では、実体の差別性のことである。」(P.167)
「(略)(二)或る他の意味では不動な数学的諸対象の場合にも使われる。すなわちこの意味では数がある性質のものである、すなわちたとえば、単に一次元的な数ではなくて平面または立体がそれの模写であるところの複合的な数がそうである、すなわち平面の数は二因数性〔または二次元性〕をもち、立体の数は三因数性をもっている。なお一般に、数の実体〔本質〕に属するもののうち、量でないものは性質である。けだし、各々の数の実体はまさにそれだけだからである、たとえば六の実体はそれの二倍でも三倍でもなくて六それだけ〔の量〕である、というのは六は六の一倍にほかならないからである。
さらにまた、(三)およそ転化する実体の諸属性は、たとえば熱さや寒さ、白さや黒さ、重さや軽さ、その他その物体の転化するに応じてそれぞれがそのように変化すると言われる諸属性は、すべて性質と呼ばれる。なおまた、(四)徳や罪過、一般に善いことや悪いことについても、そう言われる。」(P.167)
(P.168)__せんたくびより。人生は永がびく病気になってしまった。
註
(1)「この ποιόν (男性形 ποιός, 女性形 ποιή )も、ラテン語の quale (男・女性形 qualis )と同様、物の性質を問う形の不定詞で、「どのような」という意味。これがそのまま「性質」を意味する名詞として用いられ、またこれから抽象名詞 ποιότης も作られ、これがラテン語で qualitas.」(P.562)
第十五章 プロス・ティ(相対的、関係的、関係)。
「プロス・ティ〔関係、相対性、関係的、相対的。字義的には、なにかに対してどうあるかという意味〕と言われるのは、まず、(一)たとえば、二倍が半分に対し、三倍が三分の一に対し、あるいは一般に何倍かのものがその何分の一かのものに対し、またはどれだけか超過しているしているものがそれだけ超過されているものに対してのような場合、つぎは、(二)あたかも熱するものが熱せられるものに対し、切るものが切られるものに対してのように、(FF)一般に能動するものが受動するものに対しての場合、(三)測られるものがこれを測るもの〔尺度〕に対し、認識されるものが認識に対し、感覚されるものが感覚に対してのような場合である。」(P.168-169)
「さて、このように、数において関係的なものも能力において関係的なものも、すべてこれらが関係的と言われるのは、これらがこれら自らの本質において他のものへの関係をもっているからであって、他のものがこれらに対して関係的であるからではない。しかるに、(三)測られるものや思惟されるものが関係的〔相対的〕と言われるのは、或る他のものがこれらに対して関係的であるからである。そのわけは、思考されるも(FF)のというのはそのものについての思考があると の意味であるが、しかしこの思考はこれがそのものの思考であるところのそのものに対して関係 的であるのではないからである(もしそうであるとすれば同じことを二度〔それの思考であるものの思考、すなわち思考の思考、というように〕繰り返すことになろうから)、同様にまた、視覚は在るものについての視覚であって、これがそのものの視覚であるところのそのものに対する視覚なのではない〔もっとも、これも真実を語るものではあるが)、実は視覚は色とかその他のような他のものに対して関係的なのである。」(P.170-171)__対象に対する思考(主体)と、思考を思考する客体としての思考はない。
註
(1)「 πρόςτι ラテン訳 adaliquid. さらに relatio. これも問いの形、関係概念の原形である。」(P.562)
第十六章 テレイオン(全くの、完全な)。
「テレイオン〔全くの、完全な〕と言われるものは、まず、(一)それ以外にはそれのいかなる部分も、その一つの部分さえも、見いだされえないようなものである。たとえば、それぞれの物事の全き時というは、その時より以外にはそれの部分なるいかなる時も見いだされえないような時である。また、(二)巧みさ〔卓越性〕や良さ〔善良性〕の点においてそれの類のうちにはそれを超える何者もないようなものを完全なものであると言う。」(P.172)
註
(1)「 τέλειον. ラテン語では completum または perfectum.」(P.563)
第十七章 ペラス(限り、限界)。
「ペラス〔限り、限界〕というは、まず、(一)それぞれの事物の終極の端、すなわち、そこより以外にはその事物のいかなる部分も見出されない第一の〔最後の〕端であり、それのすべての部分はその端より以内に存在するようなその第一の〔最初の〕端である。つぎは、(二)或る大きさの、あるいは或る大きさを有するものの、なんらかの形相を意味する。さらに、(三)それぞれの事物の終わりも限界と言う。」(P.173)
「さらにまた、(四)個々の事物の実体、個々の事物の本質をも意味する。というのは、その事物の本質がその事物の知識の限界だからである。」(P.174)
註
(1)「πέρας. ラテン語では terminus または finitum.」(P.563)
第十八章 カタ・ホ(それでのそれ)。カタ・ハウト(それ自らで、自体的に)。
「カタ・ホ〔それでのそれ。「そこで」には、「それゆえに」「それによって」「それにおいて」「それのために」「それについて」等々の意がある〕というのには多くの意味がある。」(P.174)
「したがって、カタ・ハウト〔それ自らで、それ自体において、自体的に〕というのにも必然的にそれだけ多くの意味がある。すなわち、(一)その一つは、そのものがそれ自体において〔自体的に〕その本質である。(中略)(二)他の一つは、およそそのもののなにであるか〔を言い表す説明方式〕のうちに含まれているあらゆるもの、(中略)さらに、(三)ある基体がなんらかの属性をそれ自らのうちに第一の〔最も近い直接的な〕基体として受容しあるいはそれ自らの部分の一つのうちにそれを受容している場合。」(P.175)
「さらに、(四)自らより以外には他にいかなる原因をも有しないものを言う。」(P.175)
「さらに、(五)ある基体がそれのみ自ら離れて単独にそれ自体でそのようにあるとき、ただこの基体にのみ属するそのような属性をそれの自体的な属性と言う。」(P.176)
註
(1)「καθ´ ὅ. ラテン訳では secundum quod.この前置詞 κατά のもつ多義性のゆえに、これも一本調子には訳せない。」(P.563)
(2)「καθ´ αὑτό. ラテン訳では secundum seまたは per se.」(P.563)
AIによる概要
ラテン語の「secundum」は、前置詞としては「~の次に、~に沿って、~に従って」という意味で、形容詞としては「第二の、次の」という意味を表します。
解説:
前置詞の場合:
「secundum」は、あるものに続いて、またはそれに従って行動する、という意味を表します。例えば、「secundumlegem」は「法律に従って」という意味になります。
形容詞の場合:
「secundus, a, um」は、数詞の「第二の」という意味や、「次の」という意味で使われます。例えば、「diessecundus」は「二日目」という意味になります。
動詞の派生語:
ラテン語の動詞「sequor(追う、従う)」の動形容詞に由来しており、元々は「追われるべき、従うべき」という意味から派生したとWikipediaに記載されています。
第十九章 ディアテシス(状況、配置、案配)。
「ディアテシス〔配置、案配、状況〕というは、部分を有する事物の・それの場所または能力または種に関しての・配列〔または秩序〕のことである。」(P.176)
註
(1)「διάθεσις. ラテン訳では dispositio.」(P.563)
第二十章 ヘクシス(所有、所有態、状態)。
「ヘクシス〔所有、所有態、持前、状態〕は、或る意味では、(一)なにものかを所有しているものと所有されているそのなにものかとのあいだの或る現実活動、すなわち一種の行為または運動をいう。たとえば、或るものがなにものかを制作しなにものかが制作される場合、これら両者の中間に制作〔制作活動〕があるが、そのように衣服を所有しているものとこのものの所有している衣服との中間にはある所有〔所有関係、所有状態〕があると言われる。しかしこのような意味での所有は、これをさらに所有することの不可能なことは明白である。というのは、もし所有されたものの所有をさらに所有することができるとするなら、この所有過程は無限にさかのぼるであろうか(FF)らである。しかし他の意味では、(二)事物のある種の状況」(P.176-177)
「さらに、(三)ヘクシスと言われるのは、その事物にこのような配置をもった部分がある場合である。」(P.177)
註
(1)「ἕξθσ. ラテン訳では habitas. このギリシア語は、動詞 ἔχειν から出た語で、ここにあげられた(一)の意味はこの動詞の他動詞としての意味(所有するの意)から、その(二)と(三)とはその自動詞としての意味(或る態度をとる・振舞うなどの意)から出ている。」(P.564)
(2)「或る種の διάθεσις は ἕξις である。すべての ἕξις は或る διάθεσις であるが、διάθεσις のすべてが ἕξις なのではない。」(P.564)
第二十一章 パトス(受動相、様態、属性、限定)。
「パトス〔受動態、受態、様態、属性、限定、等々と訳される〕というは、或る意味では(一)それによって或る事物に変化が生じうるところのその事物の性質、たとえば、白さと黒さ、甘さと辛さ、重さと軽さ、その他このような諸性質のことである。また或る意味では、(二)こうした諸性質の現実態、すなわち現にそのような性質に変化していることである。なおまた、(三)これらのうちでもとくに有害な諸変化や諸運動、ことにそのうちでも最も苦痛な害悪〔悩み〕。さらにまた、(四)不幸や苦痛のうちの大なるものがパトス〔受難〕と言われる。」(P.177)
註
(1)「πάθος. ラテン語では passio または affectio. この語は「受動する」(働きかけられる)の意をもつ動詞 πάσχειν から出た名詞で、「能動」(働きかける、作用する、作る)の意の名詞ποίησις(その動詞は ποιεῖν )に対置されるが、しばしばラテン語で attributum (属性)またはproprium (特有性・特質)と訳される意味にも用いられ、また一般に、実体と関係との両範疇を除く他の六つの述語的存在(性質・量・能動・受動・場所・時)が、実体の受けた受け方、受けた様式 passio (受動)または modus (様態) であるとの含みで、 πάθος と言われる。」(P.564)
第二十二章 ステレーシス(欠除、欠除態)。
「ステレーシス〔欠除〕というは、或る意味では、(一)或る事物が、自然的には所有していないがしかし自然的に所有していてもよさそうな或る属性を所有していない場合、たとえば「植物は目を欠いている」と言われるがごときである。だが或る意味では、(二)或る事物が、それ自体においてかあるいはそれの類において所有しているのが自然的であるところのものを、所有していない場合。」(P.178)
「さらに、(三)自然的にはそれを所有すべきものでありかつそれを所有している時期にありながら、しかもそれを所有していない場合。」(P.178)
「また、(四)各々の事物の強制的除去も欠除と言われる。」(P.178)
註
(1)「 στέρησις. ラテン語では privatio. しばしば「欠除」「欠存」とも訳される。」(P.564)
AI による概要
「privatio」はラテン語を語源とする言葉で、英語の「privation」に対応します。意味は、「剥奪、取り上げ、喪失」や「(生活の)切り詰め、耐乏、節約」などです。文脈によって意味が異なります。
詳細:
剥奪、取り上げ、喪失:
何かを奪われた状態、または何かを失った状態を指します。例えば、財産を失うことや、権利を剥奪されることなどが該当します。
(生活の)切り詰め、耐乏、節約:
贅沢をせず、質素な生活を送る状態を指します。Weblio辞書によると、これは「deprivation」よりも、より積極的に節約しようとするニュアンスが含まれる場合もあります。
文脈:
例えば、「privation of sleep」であれば、「睡眠の剥奪」または「睡眠不足」を意味します。また、「privation of liberty」であれば、「自由の剥奪」を意味します。
この言葉は、英語の「deprivation」と似ていますが、Weblio辞書によると「deprivation」は、単に欠乏状態を指すのに対し、「privation」は、より積極的に何かを奪われたり、切り詰めたりするニュアンスが含まれることがあります。
第二十三章 エケイン(もつ、たもつ)。
「エケイン〔もつ、たもつ〕には多くの意味がある。まず、(一)なにものかを自らの自然または自らの衝動にしたがって処理するという意味がある。」(P.179)
「だが或る意味では、(二)或る事物がこれを受容しうる(FF)或るもの〔質料〕のうちに内在している場合に、この或るものはその或る物事をもっていると言われる。」(P.179-180)
「また或る意味では、(三)包含するものがこれによって包含されるものどもをのようにである。」(P.180)
「さらにまた、(四)それ自らの衝動によって或るものが運動しまたは行為するのを防ぎ止めるところのものは、その或るものをたもつ〔支える〕と言われる。」(P.180)
註
(1)「 ἔκειν. ラテン語では habere. 」(P.564)
前者の例として,昨日,形容詞 able の語源と関連して取り上げたラテン語動詞 habēre と英語動詞 have の関係を挙げよう.両語とも音形が似通っており,「もっている」という語義を共有していることから,常識的には語源的に関連があると思ってしまうだろう.しかし,「#2297. 英語 flow とラテン語 fluere」 ([2015-08-11-1]) でも指摘したとおり,別語源である.
いずれの語も各言語ではきわめて基本的な本来語の動詞であるから,語源的には have はゲルマン系,habēre はイタリック系に遡る.グリムの法則 (grimms_law) について学んだことがあれば,語頭 h のような音が,同法則の音変化を経たゲルマン系の語形と,それとは異なる経緯をたどったイタリック系の語形とのあいだで共有されることのないことが,すぐに分かる.グリムの法則から逆算すれば英語の h は印欧祖語の *k に遡るはずであり,一方でラテン語の h は印欧祖語の *gh に対応するはずである.つまり,英語本来の h とラテン語本来の h の起源は一致しない.
英語 have は,印欧祖語 *kap- (to grasp) に遡る.この祖形は子音を変化させずにラテン語に継承され,capere (to hold) などに残っている.その派生語に由来する caption, captive, capture などは,中英語期以降に英語へ借用されている.
一方,ラテン語 habēre は印欧祖語 *ghabh- (to give; to receive) に遡り,これはなんと英語 give と同根である.「与える」と「受ける」という反対向きの語義が *ghabh- に同居していたというのは妙に思われるかもしれないが,「授受」や「やりもらい」はそもそも相互行為であり,第3者からみれば同じ一つの行為にみえる.このような語は (contronym) といわれる(「#566. contronym」 ([2010-11-14-1]) や「#1308. learn の「教える」の語義」 ([2012-11-25-1]) を参照).語源的に関連する語はラテン語から英語へ意外と多く入ってきており,昨日の able はもちろん,habit, exhibit, inhabit, inhibit, prohibit なども語根を共有する.もちろんフランス語,スペイン語の基本動詞 avoir, habere もラテン語 habēre の系列であり,英語 have とは語源的に無関係である.(「#4072. 英語 have とラテン語 habere, フランス語 avoir は別語源[etymology][have][grimms_law][cognate][contronym]」hellog~英語史ブログ)
第二十四章 ト・エク・ティノス・エイナイ(或るものから・・・ある)。
「ト・エク・ティノス・エイナイ〔或るものから・・・ある〕という言い方は、或る場合には、(一)質料としての或るものから〔成るもので〕あるとの意をもっている。」(P.181)
「つぎは、(二)運動の第一の始まり、〔始動因〕としての或るものからの場合である。」(P.181)
「さらに、(三)質料と形式〔形相〕との結合体からというような場合もある。」(P.181)
「しかしまた、(四)形相がその部分からという場合もある。」(P.181)
「(略)さらに他の或ものは、(五)この或ものの部分がこれらの諸義のいずれかに適応している場合にもそう言われる。」(P.181)
「さらにまた、(六)時間的に或るもののつぎにという場合にも、たとえば、昼から夜がとか、晴天から雷雨がとか言われるが、それは前者のつぎに後者があるという意味である。
註
(1)「 ἐκ τινος εἶναι. ラテン語訳では ex aliquo esse.」(P.565)
第二十五章 メロス(部分)。
「メロス〔部分〕というは、或る意味では(1)それにまで或る量的なものがなんらかの仕方で分割されるところのそれである(略)。」(P.182)
「さらにまた、(二)それらにまで或る種類のものがその量とは無関係に分割されるところのそれらをそのものの部分という。この意味で種は類の部分であると呼ばれるのである。さらにまた、(三)それらにまで全体が分割されるところの、あるいはそれらから全体が合成されるところのそれらを、この全体の部分と言う、 ここで全体というのは形相のこと、または形相を有するもののことであるが、 」(P.182)
「さらにまた、(四)それぞれの事物の本質を明らかにする説明方式の要素〔類と種差〕も、その全(FF)体の部分である。それゆえに、他の意味では種が類の部分であるが、この意味ではまた類が種の部分であるとも言われるのである。」(P.182-183)
註
(1)「 περος. ラテン語では pars. 次章の ὅλον に対す。」(P.565)
第二十六章 ホロン(全体)。パン(総体)。タ・パンタ(あらゆるもの、すべてのもの)。
「ホロン〔全体〕というのは、(一)全体が自然的にそれらからなっていると言われるところのそれら諸部分のいずれの一つもそれには欠けていないそれのこと、および(二)それのうちに包含されている諸部分が或る一つの統一的なものであるようにそれらを包含するところのそれのことである。ただし後者にはさらに二つの場合がある。すなわち、それら諸部分の各々がそれぞれ或る一つの統一的なものである場合と、ただそれらから〔それら相互のあいだに〕或る一つの統一ができているだけの場合とである。」(P.183)
「さらにまた、(三)それに始めと中間と終わりとのある量的なもののうち、それらの位置のいかんがそのものになんらの差別をも生ぜじめないものが総体〔すべて〕と言われるのに対し、差別の生じるものは全体と言われる。そしてこられのいずれでもありうるものは全体でもあり総体でもある。」(P.184)
註
(1)「 ὅλον. ラテン語では totum.」(P.565)
(2)「「普遍」とか「普遍的」とか訳される καθόλου は、前置詞 κατά と ὅλον との結合語で、「全体について」「全体において」「全体的に」「全称的に」などという意味をもち、 ὅλον の副詞形 ὅλως とほぼ同義なので、ここでは、τὸ καθόλου (普遍、普遍的なもの、普遍概念)は文字通り特殊の各々を全体的・全称的に( ὅλως )述語するものである、との意。」(P.565)
第二十七章 コロボン(毀損された、不具の)。
「コロボン〔毀損された、不具の〕と言われうるのは、任意の量的なものではない。それは部分に分かたれうるものでしかもある全体的なるものであらねばならない。」(P.184)
註
(1)「 κολοβόν. ラテン語では mutilum.」(P.565)
AI による概要
「mutilum」はラテン語で「不具の、欠損のある」という意味です。具体的には、体の器官の一部が欠けていたり、機能が失われている状態を表します。
例えば、以下のような使われ方をします。
mutilum cornu:角が欠けた、という意味。
mutilum membrum:手足などの器官が欠損した状態。
また、比喩的に、精神的な欠損や不完全さを示す場合にも使われることがあります。
第二十八章 ゲノス(種族、類)。ヘテラ・トー・ゲネイ(類において異なる、類を異にする)。
「ゲノス〔種族、類〕と言われるのは、まず、(一)同じ形相をもつ事物の連続的な生成の存する場合、たとえば、「人間どもの種族の存するかぎりは」というのは、「かれらが相継いで生成しているかぎりは」という意味でそう言われるのである。つぎには、(二)或る事物の存在がそれに由来するところのそれらの第一の〔最初の〕動者について言われる。」(P.186)
「さらにまたゲノス〔類〕というは、(三)平面が平面的諸図形の類であるとか、立体が立体的諸図形の類であるとか言われるような意味にも用いられる。」(P.186)
「さらにまた、(四)事物の説明方式に含まれる第一の要素、すなわちその事物のなにであるか〔本質〕を言い表すものが、類と言われ、その諸性質は種差と言われる。(FF)
さて、ゲノスというは、これだけ多くの意味で言われるが、これらは要するに、(一)同じ形相を有するものどもの連続的な生成に関して言われるか、(二)動かされるものどもと同種〔同形相〕の第一の動かす者に関して言われるか、あるいは、(三)質料の意味でそう言われるからである、 ここに質料の意味でというのは、種差または性質の属するのは基体〔類〕にであり、この基体をわれわれは質料と言っているのだからである。」(P.186)
註
(1)「 γένος は、 γένεσις や γίγνεσθαι などと同様に「生殖」「生成」を意味する語根 'γε' から出た語で、ラテン語の相応語 'genus', 'generatio', 'gnascor' もこれと同様である。この語が、「生まれ」(たとえば、アテナイの生まれ、イオンの子孫、部族、種族)の意から、論理学での「種」( εἶδος,ラテン語で species)に対する「類」( γένος, ラテン語でも genusu )の意に転用された。ドイツ語の Gattung も同様。」(P.566)
第二十九章 プセウドス(偽、虚偽、誤謬)。
「プセウドス〔偽、虚偽、誤謬〕というは、ある場合には、(一)事態としての偽を意味する。そしてこの意味で偽である物事のうち、その一つは、(1)その物事が実はそう結合されていないか、あるいはそう結合されえないか(FF)であるがゆえに、偽である場合、(中略)もう一つの場合は、(2)事実そうある物事でありながら、しかも自然的にはそれのそうあるがままではないように表象され、あるいは存在しないもののように表象されがちな物事の場合である。」(P.187-188)
「しかし、(二)偽なる立言〔判断〕は、これが偽であるかぎり、あらぬ物事〔非存在〕についての立言である。」(P.188)
「さて、これらがこのような意味で「偽」と言われるが、さらに、(三)「偽なる人間」〔虚言者〕というのは、容易に且つ有意図的にそのような偽なる立言をする者、しかも他のことのゆえにではなくただそうすることそれ自体のゆえにかかる偽なる立言をする者のことであり、またその偽なる立言を他の人々にうまく信じこませる者のことである、」(P.189)
註
(1)「 ψεῦδος. ラテン語では falsum. 」(P.566)
(7)「故意に(有意的に)悪をなす者は、知らないで悪をなす者よりも、道徳的にいっそう悪い者であるように。」(P.567)
第三十章 シュㇺベベーコス(付帯的、偶然的)。
「シュㇺベベーコス〔付帯的、偶然的〕と言われるのは、(一)或る物事に属しそれの事実を告げはするが、しかし必然的にでもなく多くの場合にでもないこと、たとえば、誰かが植樹のために穴を掘っていて宝を発見したというような場合である。」(P.190)
「しかしまた、(二)シュㇺベベーコスにはもう一つ別の意味がある。すなわちそれは、それぞれの物事にそれ自体において属するものではあるが、その物事の実体〔本質、定義〕のうちには存しないこと、たとえば三角形にとってその内角の和の二直角なること〔三角形の特質〕のごときである。」(P.191)
註
(1)「 συμβηβηκός. ラテン語では accidens. 動詞 συμβαίνειν ( convinire, ecenire, concludi posse )から出た語。τὸ συμβεβηκός は accidenta, τὸ καθ´αὑτὸ は proprium.」(P.567)
E 第六巻
第一章 われわれの求るは存在としての諸存在の原理や原因である。理論と実践と制作。理論学の三部門。自然学や数学に対してわれわれの学は第一の哲学である。
(P.192)__温暖化=氷河期。砂漠は緑、人間は森から草原に出てきたから二本足で立ったのではなく、二本足で立てたから草原にでた。ー>森には木の上と地上に猿がいたー>森がなくなっても人間は草原に残った。ー>平行進化、変わるべくして変わる、主体の進化論、仏教的ー>変わるべくして変わるー>自然環境が変化する、自然、おのずからしかるべき、nature, φυσιςー>息、プネウマ、ブラフマン<ー>アートマン、Je、アート、ego、自我と我は違う。
(P.192)__DNAによる人類の母=アダムとイヴー>始まりと終わり(現在)ー>キリスト教的(ユダヤ教的)思考=進化論ー>単純<ー>複雑
「われわれの求めているのは、諸存在の原理や原因である、ただしここでは、言うまでもなく明らかに、存在としての諸存在のそれらを求めているのである。」(P.192)
「(略)すな(FF)わち、「シモン」はその質料との結合体であるが(というのは、「シモン」は「凹んだ鼻」だからであるが)、「凹みそのもの」〔凹み性〕は感覚的質料なしに〔全くの形相として〕存するものである。そこで、もしすべての自然的事物がこの「シモン」のごとき結合体であるならば(というのは、たとえば、鼻・目・顔・肉・骨および一般的に動物や、葉・根・樹皮および一般に植物など、これらの自然的事物は、いずれもその説明方式のうちに運動が含まれねばならず、つねに質料〔運動の可能性〕と結合されているからであるが)、そうだとすれば、このような自然的事物についてそれらのなにであるかをいかに探求し定義すべきであるかは明らかであり、またなにゆえに自然学の研究者が霊魂についてもそのある部分を、すなわちその質料から離れては存しないものとしてのかぎりの霊魂を、研究対象とすべきであるかということも明らかである。」(P.193-194)
註
(2)「アリストテレスは人間の知能を「見ること」( θεωρία, 観照・考察・研究・理論)と「行うこと」( πρᾶξισ, 行為・行動・実(FF)践)と「作ること」( ποίησις, 生産・制作)とに大別し、見ることを行うことよりも、そして行うことを作ることよりも、優位に置いた。この分かちに応じて、諸学・諸技術を理論的の学(理論学または理論哲学)と実践的の学(実践学または人間のことに関する哲学=政治学・倫理学)と制作的の技術とに分け、さらに理論学を自然学(第二の哲学)と数学と神学(または第一の哲学)とに大別した。」(P.567-568)
(4)「「シモン」の原語 σιμόν は英語では snub. これが日本語では「獅子鼻」とも訳されるが、適訳ではないのでそのまま「シモン」または「シモン的」として、この語(男性形 σιμός, 女性形 σιμή, 中性形 σιμόν )は、とくに人間の鼻について言われる・鼻と不利不可分な・形容詞で、 γρυπός, γρυπή, γρθπόν (かぎ鼻・わし鼻の凸性を形容する語)とは逆に鼻柱の凹んだ・鼻頭のそりあがった鼻(仮に凹んだ鼻 κοίλη ῥίς と呼ぼう)の凹みを指す形容詞であり、またそのまま名詞として凹んだ鼻を指すにも用いられる語。」(P.568)
(6)「事実、かれの『霊魂論』ではいわゆる植物的霊魂の栄養能力から動物的霊魂の感覚能力にいたるまで、さらに「受動的な理性」の働きまでも、「質料(肉体器官)」から離れては存しないもの」とされながら、これらのほかに、「非受動的な理性」(いわゆる「能動理性」)があり、この霊魂だけは全く質料を伴わない純粋で永遠的な存在だとされている。」(P.569)
第二章 存在の四義、 (一)付帯的存在、(二)真としての存在、(三)述語形態としての存在、(四)可能的存在と現実的存在。 まず付帯的存在について。この存在については認識(学)はありえない。
「しかし、この端的に言われる存在にも多くの意味があるので、 すなわち、その一つには(一)付帯的な意味での存在であり、他の一つは(二)真としての存在と偽としての非存在であったが、これらのほかになお(三)述語の諸形態、たとえば、なにであるか〔実体〕、どのようにあるか〔性質〕、どれほどあるか〔量〕、どこにあるか〔場所〕、いつあるか〔時〕その他このような〔あるものやり方についての問いに答える〕述語の諸形態があり、されにこれらすべてとならんで(四)可能的な存在と現実的な存在がある、」(P.196)
(付帯的存在)「(略)これにはなんらの理論もありえないことを説明せねばならない。その証拠としては、いかなる学問も、制作的のも実践的のも理論的の諸学も、この付帯的な意味での存在には全く無頓着であるという事実があげられる。すなわち、まず(1)家を作る者〔建築家〕について見るに、かれは家を作るが、しかしこの家の作られると同時にこれに付帯しておこるかぎりのいかなるものをも作りはしない。というのは、このようなもの〔付帯的な存在(ある)〕は無限に多くあるからである、すなわち、その作られた家は或る人々にとっては快適なものであり、或る人々には邪魔なものであり、或る人々には有用なものであろうが、それはどうであってもかまわないわけで、それがなにであろうとあるまいと、そうしたあるはいわばいかなるあるとも常に異なる他のものでありうる。しかしこれらはいずれも、建築術という制(FF)作的な術の関するところではない。」(P.196-197)
「だが明らかにこうした付帯的な意味での存在は非存在にきわめて近いものである。なおこのことは、つぎのような論拠からしても明らかである。すなわち、他の意味での存在には生成や消滅の過程があるが、この付帯的な意味での存在にはそれがないからである。」(P.197)
「そのわけは、付帯的に存在しまたは生成する物事においては、それらの原因もまた付帯的だからである。」(P.198)
註
(1)「「端的に言われる存在」というのは、自然的のとしてのとか線としてのとかでなく無条件に存在と言われる「存在としての存在」のこと。そしてこの「存在としての存在」がここでは四種に区別され、(一)の「付帯的存在」に対して(二)と(三)と(四)との三つは(一)に対しては「自体的存在」とも呼ばれる。」(P.569)
第三章 付帯的存在の在り方とその原因。
「(中略)したがってこの人は、必然によって死ぬかあるいは死なないかである。同様にまた、誰かが、さらに飛び越えて過去にさかのぼっても、道理は同じである。というのは、このことは、すなわち過去にあった条件は、すでに現になにかのうちに内在しているからである。だからして、未来にあるであろうことはすべて必然によってそうあるであろう。」(P.201)__西田。
註
第四章 真と偽。真としての存在と偽としての非存在。この存在も本来の意味での存在ではなく、第一の哲学の対象からは除外されてよい。
「このように、偽とか真とかいうのは、たとえば善は真であるとか悪はただちに偽であるとかいうように、事柄そのもののうちに存するものではなくて、ただ思考のうちにあることにすぎない、のみならず単純な概念や事物のなにであるかを示す実体概念については、その真偽は思考のうちにさえ存しない。 だからして、このような意味での〔真としての〕存在や〔偽としての〕非存在に関しては、そのいずれの点が研究去るべきであるかは後に検討されねばならないが、しかしこのように結合も分離も思考内でのことであって事柄そのもののうちに存することではないからして(というのは、なにである〔実体〕とかどのようにある〔性質〕とかその他そのような述語を結びつけたり切り離したりするのは思考のすることだからであるが)、このような(真であるという)意味での存在は本来の優れた意味での存在とは異なることである。だからそれゆえに、付帯的意味での存在とこの真としての存在とは除外されるべきである。というのは、前者の原因は不定だからであり、後者〔真としての存在〕のそれは思考のある様態だからであり、また両者とも或る他の類の存在〔自体的意味での存在〕との関連においてのみ存するもので、それ以外に〔客観的に〕存在するいかなる実在を指し示すものでもないからである。」(P.202)__Nota Bene!!
Z 第七巻
第一章 述語諸形態としての諸存在のうち第一義的に存在するのは実体である。存在についてのわれわれの研究は、なによりも第一に実体についての研究である。
(ある〔または存在〕)「すなわちそれは、(一)或る意味では、もののなにであるかを、またはこれなる個物を指し、(二)他の意味では、そのもののどのようにあるか〔性質としての存在〕を、あるいはどれほどあるか〔量としての存在〕を、あるいはその他のように述語される物事のそれぞれを意味する。」(P.204)
「というのは、これらの各々はいずれも、本来それ自体で存在しているものではなく、またそれぞれの実体〔基体)から離れて存しうるものでもないが、しかし、もし「歩行するもの」とか「座せるもの」とか「健康なるもの」というなにものかが存すれば、こうしたものはいっそう優れて存在の部に属するであろうから。たしかにこれらの方がいっそう優れて存在である、なぜならこれらにはそれぞれの基体としてある一定のものが存在し(これがあの実体であり個物であるが)、これが明らかにこれらの述語のうちに含意されているからである。というのは、たとえば「善いもの」とか「座せるもの」とかは、それぞれの基体を含意することなしには無意味だからである。」(P.205)
註
(2)「本章では、まずこの述語形態(範疇)としての存在が主題的に取りあげられ、それらのうちの第一の最も真に存在すると言われるべきは「実体」としての存在であるとのことが証示され、「存在とはなにか?」という古くからあり常にある永遠の問いは「実体とはなにか?」に帰せられる、と言って、第二章以下、「実体」の研究が本巻の主題となる。」(P.570)
第二章 なにが実体であるかについての諸説。これについて検討さるべき諸問題。
「さて、実体は、(一)その最も明瞭な形では、物体に属するものと思われている。」(P.206)
「ところで、(二)或る人々は、物体の諸限界(すなわち面や線や点や単位のごとき)を実体だと考えている、」(P.207)
「(略)(三)他の或る人々は感覚的諸物体よりもさらに多数の且つさらに優れて実在する永遠的なものどもを実体であるとしている。たとえばプラトンは、諸々のエイドスと数学的諸対象との二種の実体をあげ、第三種の実体として感覚的諸物体をあげている。」(P.207)
註
(1)「「実体」はいろいろの方向から考察・分析されるが、この章では一般人や学者の考えているそれを、いわば感覚的・物体的か抽象的・非物体的なによって、次のように(1)(a)(b)(c)、(二)、および(三)に種別され、次章では言わばこの語の意味・適用範囲から(1)本質、(2)普遍、(3)類、(4)基体の四義に分けられている。」(P.571)
第三章 一般に実体と認められているのは、本質、普遍、類、基体の四つである。まず基体について、 実体としての基体は形相か、質料か、両者の結合体(具体的個物)か。質料と結合体とが第一義的の実体ではありえない理由。それゆえにわれわれは、まず感覚的な事物について、その形相すなわち本質を研究しよう。
「実体という語は、それより多くの意味でではないにしても、少なくとも主として次の四つの意味で用いられている。すなわち、(1)もののなにであるか〔本質〕と、(2)普遍的なもの〔普遍的概念〕と、(3)類とが、それぞれの実体であると考えられており、さらに第四には(4)それぞれの事物の基体がそれの実体であると考えられている。ところで、基体というのは、他の事物はそれの述語とされるがそれ自らは決してのなにものの述語ともされないそれ〔主語そのもの〕のことである。」(P.208)
「ところで、(1)或る意味では、質料がそうした基体と言われ、(2)他の意味では形式が、また(3)或る他の意味では、これら両者からなるものがそれである。 ここに私が質料と言っているのは、たとえば銅像について言えば、青銅がそれであり、形式というのはその銅像の型であり、両者からなるものというのはこれらの結合体なる銅像のことである。」(P.208)
「さて、いまここに、実体とはそもそもなにかということの概略が述べられた、すなわちそれによると、実体というは他のいかなる基体〔主語〕の属性〔述語〕でもなくてそれ自らが他の述語〔属性〕の主語〔基体〕であるところのそれであった。しかし、ただこのように定義しただけではいけない、これだけでは十分ではない。なぜなら、この定義はそれ自体不明瞭であるだけでなく、これでは質料こそ実体であるということになるから。」(P.209)
「というのは、実体以外の述語は実体の述語となり、これ〔述語としての実体〕はさらに質料の述語となる。〔しかしこの質料はもはや他のなにものの述語ともならない〕からである。」(P.210)
「なぜなら、離れて存するものであること〔離在性・独立性〕とこれと指し示しうるものであること〔個体性〕とが最も主として実体に属すると認められているからであり、またそれゆえに形相と両者からなるものとの方が、ただの質料よりもより多く真に実体であると思われがちなのである。」(P.210)
註
第四章 事物の本質についての言語形式上および事実上の考察。いかなる事物に本質は属するか、すなわち本質の定義されうるのはなにものか。それは第一には実体である。
(一)(1)「というのは、君の君であること〔君のなにであるか、君の本質〕は、君が教養的であることではないからである。すなわち君は、君自体で教養的であるのではないから。かえって君は、君自体で或るなにかなのであり、このなにかがまさに君の〔君たるゆえんの〕本質なのである。
しかし、(2)このように〔自体的に〕言われるすべてがその事物の本質であるわけではない。」(P.212)
「さらに、(3)実体以外の述語形態との複合体でもあるからして(すなわち、性質にも量にも時間にも場所にも運動〔能動、受動〕にも、その他こうした述語諸形態の各々に、なにものかがそれぞれの基体として存在するからして)、このような複合体についてもまたわれわれは、果たしてこれらの各々のなにであるか〔本質〕を言い表す説明方(FF)式があるか否かを、」(P.212-213)
「しかし、そもそも、「衣の本質」というようなものが或るなんらかの本質なのであろうか、あるいはなんらの本質でもないのではあるまいか。というのは、或るものの本質というのは、そのものがまさにそれであるところのそれのことだからである。」(P.213)
「すなわち、あたかも或る人々がただ言語形式の上から、「あらぬもの」をもあると主張する場合、実はこの「あらぬもの」が端的にある〔存在する〕というのではなくて、「あらぬもの」も「あらぬものである」という限定された意味である〔すなわち云々である〕と言っているにすぎないように、そのように、ものの性質も〔端的に存在する本質ではなくて〕ただ限定された意味でそうなのである。」(P.215)__「である」と「がある」が、「存在」の問題を引き起こした。それは日本語話者には問題ではなかったが、私自身が混乱しているように、その違いがわからなくなりつつあるのではないか。「ない=0(=空?)」があるか。「プラス」が「より多い」で、「ゼロ」が「同じ」で、「マイナス」が「より少ない」と考えてしまう。量(性質)と存在との混同。空集合= empty set.
empty(adj.)
c. 1200, from Old English æmettig, of persons, "at leisure, not occupied; unmarried" (senses now obsolete), also, of receptacles, "containing nothing," of places, "unoccupied," from æmetta "leisure."( etymonline )
1200年頃、古英語のæmettigから、人に対しては「余暇があり、忙しくない; 未婚の」(現在は廃用)、 receptacles(容器)に対しては「何も含まない」、場所に対しては「占有されていない」から、æmetta「余暇」。
「(略)(1)第一義的・端的には、実体に属するであろう、そしてつぎには、(2)実体以外の述語的諸存在にも属するであろう(ただしこの場合には、端的な意味での「本質」が属するのではなくて、どのようにあるか、どれだけあるかというような意味での「なにであるか」が属するのであるが)。そのわけは、われわれがこれら〔実体としての存在とその他の述語的諸存在とを〕等しく同様に「ある」〔または存在〕と呼ぶのは、(a)同語異義的にであるか、あるいは(b)〔何かを「ある」の意味に〕加えるか抽き去るかによって(たとえば「不可知なるものも可知的である」と言われる場合のように〔あるに可知的でを加えることによって〕)であるか、のいずれかであらねばならないからであるが、しかし実を言えば、われわれは〔この「ある」という語を〕同語異義的に用いているのでもなく同一義的に用いているのでもなくて、(c)あたかも「医術的」という語が或る同じ一つのものとの関係において用いられるが必ずしも同じ一つのものを意味しもせずまた同語異義的に用いられるのでもないように、そのように「ある」もまた或る同じ一つのものとの関係において用いられているのである。」(P.216)
「ところで、「ある」〔または「存在」〕というは、或る場合にはこれと指し示されうる個体を意味し、或る場合にはどれだけあるとかどのようにあるとかいう量や性質のある〔すなわち量的存在や性質的存在〕を意味する〔そのように一つのものというのも個体的な実体を指す場合もありその他の諸属性を指す場合もある〕。」(P.217)
註
第五章 複合的に言われるものには定義も本質もありえない。
第六章 事物とその本質とは同じであるか。その事物が付帯的存在ではなくて自体的な実体であれば両者は同じである。
(一)「(略)たとえば、「白い人間」〔実体〕と「白い人間であること」〔その本質〕とは異なるものであろう。」(P.220)
「しかし、(二)自体的に存在すると言われるものの場合には、そのものとそれの本質とが同じであることは必然的ではあるまいか。」(P.221)
(A)(1)(a)(b)(2)(a)(b)(a)(b)(3)
(B)「というのは、この付帯性が属する当のもの〔白いもの〕も、またこの付帯性それ自ら〔白いこと、白さ〕も、ともに「白」と言われるがゆえに、それの本質とそれ自らとは、後の意味では〔すなわち付帯性それ自らとしては〕同じであるが、前の意味では同じではないからである。」(P.223)
(C)「のみならず、もし一の本質と一それ自体とが相異なるとすれば、本質を求めて無限にさかのぼることになろう。というのは、一方には一それ自体があり、他方にはそれとは別に一の本質があるわけだから、一の本質の側についても同じ論が適用されるであろうからである。」(P.224)__アリストテレスにとって、論理学(形而上学)は文法であり、定義は述語である。言葉で述べるしかない以上、言葉(つまり名前)が本質であり、実体である。唯名論。
註
(1)「この推理はつぎのような二つの三段論法から成っている。すなわち、白い人と白い人の本質とは同じである(大前提)、しかるに、人と白い人とは同じである(小前提)、ゆえに、人と白い人の本質は同じである(結論)。つぎにこの結論を大前提として、人と白い人の本質とは同じである(大前提)、しかるに、人の本質と人とは同じである(小前提)、ゆえに、人の本質は白い人の本質と同じである(結論)。しかし、ここではこのように両項を結ぶ媒概念としての人が同一義的にでなしにその付帯性と本質との二義に用いられているので、この推論には必然性がない、との意。」(P.572)
(4)「その根拠は、ともに「自体的」と「付帯的」とを区別した点にあるが、ただわれわれ(アリストテレス自ら)とかれらとのちがいは、この区別を明らかにしたか否かにある。」(P.573)
第七章 〔本章以下三章は生成に関する論文〕自然による生成と、技術による生成と、自己偶発的生成。これらの生成の諸条件。
「生成する事物のうち、或るものは自然により、或るものは技術により、或るものは自己偶発によって生成する。そして、すべての生成するものは、或るものによって、或るものから、そして或るものにである。」(P.224)
「というのは、或る欠除態の実体〔形相〕はその反対のものの実体にほかならないからである、たとえば健康はその欠除態なる病気の実体〔形相〕である。なぜなら、病気は健康の不在であり、そして健康というは医者の心のうちにある概念である認識であるから。」(P.226)
「というのは、医術や建築術は、それぞれ健康のまたは家の形相であり、そして質料のない実体〔形相〕と私が言うのはその本質のことだからである。(FF)
このようにこの生成や運動の過程には、推理〔思惟〕と呼ばれる過程と制作と呼ばれる過程とがあって、その出発点〔始動因〕なる形相からの過程は推理であり、この推理の結論から始まる過程は制作である。」(P.226-227)
「だからして、人も言うように、もし前もってなにものも存在しないなら、なにものも生成しえないのである。」(P.228)
註
(2)「「自己偶発」と訳した αὐτόματον (ラテン訳 casus, 英訳 spontaneity )については、」(P.573)
(3)「この句には二つの意義がある。一つは、ここにあるように、或る人間(父)がそのその子なる人間の形相として、すなわち他なる父に内在する精子が始動印たることによって、(質料としての母体、その月経を介して)、この人間(父)とは他なる・しかし同種同形の・人間(子)を生む、との意、すなわち形相(始動因)から形相(目的)への思想であり、もう一つは、このように人間は人間を、猿は猿を、馬は馬を生んで、個体は滅びながら同種族の生成系列は永遠無限であるとの思想、この支配下ではダーウィニズムは許されなかった。」(P.573)
(4)「「自己偶発」と「偶運」( τυχή )とのちがいについては、『自然学』第二巻第六章参照。」(P.573)
(5)「「種子なしに」は「自己偶発的に」である。たとえば鰻または昆虫が泥水または糞芥からわく(単性生殖する)とアリストテレスは考えている。」(P.573)
(7)「「制作」「生産」と訳される ποίησις もその動詞 ποιεἶν も、もともと「受動」「受動する」( πάθος, πάσχειν )に対する「能動」「能動する」の意で、日本語でなら、行動・行為・生産・製造、する・なす・作る・おこなう・等々の諸義に広く用(FF)いられる。逆に、「実践」「行為」と訳される πρᾶξις やその動詞 πράττειν も、この ποίησις や ποιεῖν の諸義と同様に広く用いられる。」(P.573-574)
(8)「その意味は、つぎの本文でも知られるように、建築家(または医者)の頭の中にある家(または健康)の形相が始動因( ἀρχή )として、この形相としての家(または健康)から質料を伴う具体的な家(または健康)が作り出されるというにある。」(P.574)
46G ソクラテスは人間である。
ソクラテスは人である。
人は二本足である。人は二本足がある。人は二本、足がある。人は二本の足がある。
象は鼻が長い。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず (福沢諭吉『学問のすゝめ』青空文庫)
第八章 形相は、生成消滅の過程にあることなしに存在し、質料において現実的に存在する。生成するのは質料との結合体(具体的個物〕であり、その生成の始動因は生成する個物と同種の他の個物に内在する形相である。
「だからして、明らかに、〔質料が生成しないと同様に〕形相もまた(あるいはこれを〔形相と呼ばないで〕なんと呼ぶにせよ、とにかく感覚的事物における形式のことだが、これもまた)決して(FF)作られも生成もしない、すなわち形相にはなんらの生成も属さない。そのようにまた本質にも、生成はない。なぜなら、これ〔形相すなわち本質〕は技術か自然か能力かによって他の或るもの〔質料〕のうちにあらしめられるものだから。」(P.230-231)
「さて、上述からして明白なことは、まず(1)形相または実体〔形相としての実体〕の意味で言われるものは生成せず、生成するのは〔質料と形相との〕結合した実体(すなわち形相としての実体の名で呼ばれる個体的個物)であるということ、および(2)およそ生成した事物にはすべてそれに質料が内在しており、そしてその一部分はこれ〔質料〕であり他の部分はあれ〔形相〕であるということである。」(P.231)__新しいものを作ってそれに名前をつける時、形相が生成したことにならないのか。命名によって形相ができる?名前がない形動があるのか。「本」「文字」。
註
第九章 自己偶発的生成のおこる理由。実体の生成より以外の生成の諸条件。
「形相は生成しないということを実体について説明してきたが、このわれわれの論はたんに実体につてのみで(FF)なく、同様に他のすべての第一のもの〔最高の類〕、すなわち、量、性質およびその他の述語諸形態、についても均しく妥当する。」(P.235-236)
「しかるに、性質や量などの場合には必ずそうであるのではなくて、ただ可能態においてそうであるだけである。」(P.236)
註
第十章 事物の部分とそれの説明方式の部分との関係、部分と全体との関係。部分の説明方式が全体の説明方式のうちに含まれるのは、その部分が形相の部分である場合にである。
「けだし「円」という語は同語異義的で、或る場合には端的〔抽象的〕に用いられ、或る他の場合には個々の具体的なものを意味するからであり、しかもこの個々の円を呼ぶ特別の名前はないからである。」(P.239)
「され、部分と言われうるは、(1)形相(というのは本質のことであるが)の部分であるか、(2)形相と質料の結合体であるか、あるいは(3)質料そのものの部分であるかである。しかるに、(1)説明方式の部分たるは、ただ形相の部分あるのみであるり、そして説明方式は普遍的なものを言い表すものである。というのは、円のなにであるか〔円の本質の説明方式〕は円そのもの〔普遍的な円〕と同じであり、同様に霊魂のなにであるかを言うのは普遍的に霊魂のことを言うのと同じだからである。しかし、(2)結合体については、 たとえばこの円、あるいはこうした個々のそれらのいずれかで、それは感覚的な円でも思惟的な円でもいい、そして思惟的な円というのは数学者の思惟している円であり、感覚的な円というのはたとえば青銅あるいは木製の円であるが、 こうした個々の結合体にはそれの定義は存しないで、かえってこれらは思惟〔理性での直観〕または感覚の助けで認められる。そして、これら〔思惟または感覚〕がその完全現実態から消え去ったときには、これらの個物は果たして存在するのか存在しないのか明らかでない。しかしこれらは、常にこれらの普遍的な説明方法によって語られ(FF)また認識される。だが、(3)質料は、それ自らは、不可認識的である。質料のうちにも感覚的なそれと思惟的なそれとがあって、感覚的な質料というのは、たとえば青銅とか木材とかその他のあらゆる運動変化しうる質料のことであり、思惟的な質料というのは、感覚的なもののうちに、ではあるがそれ自らは感覚的なものとしてではなしに、内在しえるもの、たとえば数学的対象などである。」(P.242)
「けだし、(1)もし仮に霊魂そのものが動物であり、あるいは生物であるとすれば、すなわちこれら各々の個体の霊魂が各々の個体そのものであるとすれば、そしてこのように円なものが円であり、直角なるもの(すなわち直角の本質)が直角であるとすれば、われわれは、(a)ある意味での全体はある意味での部分(たとえば、直角の説明方式の部分および個々の直角の部分)よりも後であると言わざるをえない、というのは、質料と結ばれた直角、〔たとえば感覚的な質料と結ばれた〕青銅の直角も、〔思惟的な質料と結ばれた〕個々の線を部分として含む直角も、ともにその部分よりは後だからである。しかし、(b)質料なしの直角は、それの説明方式に含まれる部分よりは後であるが、個々の直角に含まれている部分よりは先であると言わざるをえない。しかしそれゆえに、簡単に一義的なは答えられない。なのまた、(2)もし霊魂が動物ではなくて動物とは他なるものであるとしても、この場合にも同様に、いま述べたとおり、或る意味では(FF)先であり或る意味では先ではないと言うべきである。」(P.242-243)__鶏と卵。
註
(5)「 ἐμψυχον (男性形では ἐμψυχος )という語は「生命ある」(形容詞)、または「生命あるもの」「生き物」「生物」の意に用いられるが、語の由来が ἐν + ψυχή であるのでもわかるように、「プシュケー(霊魂・生命)」を自らの内に含むもの」の意。」(P.576)
(6)「ここに「実体( οὐσα )ではなくて、或る意味での結合体( σύνολον )」という場合、この「実体」というのは第一的の具体的な実体すなわち「結合体」(この質料とこの形相との結合したこれなる個物)としての最も普通にいう実体であるが、これではなくて「或る意味での結合体」( σύνολόν τι )というのは、具体的・感覚的なこれ( τόδε τι )なる個物としてではなくて、或る普遍的・思惟的な質料(類)と形相(種差)との結合体のこと。」(P.576)
(8)「ここに「思惟的な質料」( ὓλη νοητή )というのは、ここに略説されているような数学的対象がそれであるが、定義の説明方式の要素(類と種差)のうち、類もまたそう言われる。」(P.576)
第十一章 どのような部分が形相の部分であり、どのような部分が結合体の部分であるか。実体の説明方式のうちには質料的部分は含まれず、この部分を含むのは結合体としての実体である。
註
第十二章 定義が、二つの要素(類と種差)を含むのに、一つであるのはなにゆえか。類と種差との正しい結合の必要。
(P.250)__母は子が愛しい、子は母が恋しい。男は女が愛しい、女は男が恋しい。愛はするもの(行為)、恋は落ちるもの(状態、受動ではない)。愛「する」、恋「する」というのは、大和言葉に「する」をつけたもの。電話「する」出席「する」と同じ。
註
(3)「「それの説明方式( λόγος )がすなわち定義( ὁρισμός )であるとわれわれが言うところのそれ」というのは「本質」のことである。」(P.577)
(4)「「分割法」( διαίρεσις )というのは、或る概念を上位の類から順に下にその種から種へと最下の種まで分割してそれの定義を決める方法。」(P.577)
第十三章 実体と認められているもの 基体(質料)と本質(形相)と両者の結合体(個物)と普遍と のうち、普遍は実体ではない。その理由。普遍は実体の述語であり属性である。
「さて、基体と本質とこれら両者からなるものとが実体であると言われるように、普遍的なもの〔普遍〕もまた実体と言われる。ところで、これらのうち、その二つ、すなわち本質と基体とについてはすでに述べられた。そして後者については、それが二通りの意味で基体的であるということ、すなわち(a)これと指し示される個物の意味で、たとえばある動物がそれの諸属性に対して基体的であるような意味で、および(b)質料が完全現実態に対してそうであるような意味で基体的であるということが述べられた。」(P.252)
「というのは、(1)われわれの見るところでは、普遍的な述語であればなにでも実体を示しているとすることは不可能なことのようだからである。そのわけは、第一には、(a)個々の事物の実体はその事物に特有なものであり、なにものにも属しないものであるのに、普遍は他のものにも共通なものであるから。」(P.252)
「だがしかし、(2)たとえ普遍がこのように個々の事物の本質としての実体ではありえないにしても、普遍は各々の本質のうちに〔その説明方式の要素として〕内在しておりはしないか、たとえば、動物が人間とか馬とかに内在しているように。だが、(a)そうだとすれば、普遍〔たとえば動物〕は、明らかに、事物の本質〔例えば動物の種なる「人間」の本質〕を表す説明方式〔二本足の動物〕の一要素ではないか。(中略)しかしまた、(b)たとえこの普遍があの事物の実体に含まれている諸要素のすべてについての説明方式ではないにしても、結果には変わりはない。というのは、いずれにしても普遍はそこに含まれている特殊なものどもの実体であるというのだから。(中略)なおまた、(c)もしこれなる個物すなわち実体が或る〔このような普遍的な〕なにものかから成るのだとすれば、それは実体(FF)からなるのでもなくこれと指し示される個物から成るのでもなくてどのようなと言われるもの〔性質的・属性的存在〕から成るのだとせねばならないが、このことは不可能であり不条理である。なぜなら、もしそうであるとすれば、より先なのは実体ではなくて、性質のほうが実体よりも個物よりもより先であるということになろう。しかしこのことは不可能である、なぜなら、属性は、説明方式においても、時間的にも、あるいは発生順においても、その実体より先ではありえないからである。なおまた〔もし属性のほうが先であるとすれば〕属性もまた離れて独立に存するという〔不条理なこと〕になろうから。さらにまた、(d)〔普遍がこのように実体であるとすれば〕或る実体〔たとえば動物〕に含まれている他の実体〔人間〕がこのソクラテスのうちに含まれているということになろう。これを要するに、(e)つぎのように結論される、すなわち、もし「人間」またはおよそこのように言われるものども〔最下の種〕が実体であるならば、これらの説明方式のうちに含まれる諸要素は、すべていかなるものの実体でもなく、またこれらから離れては存在せず、他のなにものかのうちに内在してもいないであろう。というのは、たとえば人間の説明方式のうちに含まれる動物にしても他のいずれの要素〔例えば二本足〕にしても、或る特殊の動物〔すなわち人間〕から離れては存しないとの意である。」(P.253-254)
「(略)このことはまた、(3)諸事物に共通に述語となるものども〔普遍、普遍概念〕が、いずれも事物をこれとして指し示す〔個別的な〕ものではなくて、事物をこのようなものとして指し示す〔類的な〕ものであるとのことからするも、明白である。」(P.254)
「さらにまたこのことは、(4)つぎのことからも明らかである、すなわち、かかる一つの実体も、完全現実的に存する諸実体から成りこれらを自らの内に含むということは不可能だからである。」(P.255)
註
第十四章 イデア論者は、各々のイデアを、離れて独立に存する実態であるとしながら、その各々をば類なるイデアと種差なるイデアとから成るものとしている、しかしこれは不可能である。
註
第十五章 個別的なものは、感覚的なそれにせよ思惟的なそれにせよ、定義されも論証されもしない。
「実体は二種に、すなわち結合体と説明方法とに、区別されるが、 そして前者は、私の意味するところでは、それの説明方式〔形相〕が質料と結びついているものとしての実体であり、後者はその全くの説明方法そのものであるが、 結合体の意味での実体には消滅がある(というのは、これには生成があるからであるが)、しかし説明方式としての実体には、それが消滅過程にあるというような消滅は決してない。というのは、それには生成もないからである。すなわちたとえば「家なるもの」〔家の説明方式〕は生成しないで、生成するのはただ「この家」〔質料と結合した家〕の存在だからである。のみならず、生成も消滅もないのだから、家なるものは存在しているがまた存在してもいない、というのは、先にも証示されたように、なにものもそれを生みもせず作り出しもしないからである。され、それゆえにまた、(1)個別的な感覚的諸実体には、定義もなく論証も存しないのである。そのゆえは、これら感覚的個物はそれぞれ質料を有し、しかもこの質料なるものは、本来、これを有するがめに感覚的個物が存在することもしないことも可能なものであるゆえんのものだからである。そして、このように可能なものであるがゆえに、個々の感覚的実体はすべて消滅的なのである。ところで、論証は必然的な〔他ではありえない〕物事に関することであり、学的な定義もまたそうであるとすれば、そして、あたかも学的な認識が、ときには認識であり、ときには反対に無知であるというようなことはなくて、かえってこのようなのは意見〔臆見〕であるように、そのように、論証や定義もまたこのような事物に関するものではなくて、かえってこ(FF)のような他でもありうる事物に関するのは意見〔臆見〕であるとすれば、個々の感覚的な実体に関してなんらの定義も論証もありえないことは、明らかである。」(P.259-260)__個物そのものの認識不可能性。
「とかく定義をしたがる人々が、誰でも個々の感覚的事物のいずれかを定義しようとする場合に、常にこのことに失敗するのを自ら認めざるをえないのは、これがためである、それは、定義されえない事物だからである。
だがまた、実に、(2)いかなるイデアも定義されない。なぜなら、(a)イデアも、かれらの主張するところでは、一種の個別的なものであり離れて存するものであるから。ところで、説明方式は幾つかの語から成らざるをえず、しかも定義するものは新語を造ってはならない(なぜなら、新語は人々に理解されないから)、しかるに既成語はその表すすべての事物に共通である、だからして必然に、或る事物の説明方法をなす諸語は、その事物より以外の事物にも属し適用される。」(P.260)__Nota Bene!! 新語を造ってはならない。
τῶν γὰρ καθ᾽ ἕκαστον ἡ ἰδέα, ὡς φασί, καὶ χωριστή: ἀναγκαῖον δὲ ἐξ ὀνομάτων εἶναι τὸν λόγον, ὄνομα δ᾽ οὐ ποιήσει ὁ ὁριζόμενος (ἄγνωστον γὰρ ἔσται), τὰ δὲ κείμενα κοινὰ πᾶσιν' ἀνάγκη ἄρα ὑπάρχειν καὶ ἄλλῳ ταῦτα' οἷον εἴ τις σὲ ὁρίσαιτο, ζῷov ἐρεῖ ἰσχνὸν ἢ λευκὸν ἢ ἕτερόν τι ὃ καὶ ἄλλῳ ὑπάρξει.
(b)
註
(3)「このようにイデアも個別的なものであり且つ共通の述語であるから、イデアは定義されない。」(P.578)
第十六章 感覚的な事物もその多くの部分は可能的な存在である。一や存在は、一つと言われ存在すると言われる事物の実体ではない。
「しかし、とにかく、これらの諸部分は、これら緒部分が自然によって一つであり連続的であるかぎり、ただ可能的に存在しているものとせねばなるまい。」(P.263)
「ところで、「一」というのは「存在」というのと同じように用いられる、そして一つであると言われる事物の実体は一つであり、その事物の実体が数において一つであるところのその事物は数において一つであるからして、(FF)したがって明らかに、「一」は「存在」と同じく、これによって事物が一つであるとか存在するとか言われるところのこの当の事物の実体ではありえない。このことは、あたかも「元素」とか「原理」とかいう概念がそう言われる事物〔たとえば水や空気〕の実体ではないのと同様である。」(P.263-264)
(エイドスを語る人々)「それがためにかれらは、消滅的な事物はわれわれにも知られているので、この消滅的な事物とその種〔形相〕において同じ事物を〔不滅な実体として〕作り出した、たとえば「人間自体」とか「馬自体」とかを、ただそれぞれの感覚的な事物の名に「自体」という語を付け加えることによって。」(P.264-265)__「多様・多様性」「白い・白さ」。
註
(3)「強制または自然的合成によって連続的一体をなすものの場合、たとえば接ぎ木のごときは、「別である、」すなわち、部(FF)分のほうがかえって全体よりもより多く現実的である。」(P.578-579)
第十七章 実体は一種の原理であり原因であるが、真の実体は、質料を一定の存在状態にあらしめるところの原因すなわち形相である。
「ここでわれわれの問い求めているのは、「なにゆえに或るものが他の或るものに属するか」である。」(P.266)
「そして原因は、これをその説明方式から言えば本質であるが、この本質というは、或る事物の場合には目的因である。たとえば家や寝台なども場合にはそうであろう。しかし他の或る物事の場合にはそれを動かした第一のものである(というのはこれもまた原因だからである)。そしてこの種の原因〔始動因〕は物事の生成しまたは消滅する場合にその原因として問い求められるが、前者〔目的因〕はその物事の存在する理由としても問い求められる。」(P.267)__主語は存在していることが前提。「私は〇〇である」が「私がある(いる)」という問いでも説明でもない。「私」ははじめから「有る〔存在する)」のである。なぜデカルトは「我がある」ことに「我思う」という「原因(あるいは後には・同時に目的)」が必要だったのか。「私の存在」に対する疑問がなぜ生じたか。
「ところで、問い求められる物事がそうあるというその存在の事実は、すでに問うわれわれの手元にあり、われわれに与えられているのでなければならないからして、明らかにわれわれの問いは、「この質料はなにゆえにこのあるものであるか?」と問うにある。」(P.267)
Η 第八巻
第一章 前巻所論の要約。一般に実体と認められている感覚的事物において、それの質料も形式〔形相〕も両者からなるその事物〔結合体〕もそれぞれ基体としての実体であるが、まず質料は事物のあらゆる転化の基体である点で実体である。
「(略)ところで、本質は実体であり、定義は本質を言い表す説明方式であるから、それゆえにわれわれは定義に関し、また自体的な属性に関して検討した。また、定義はある説明方式であり、説明方式は部分をもっているから、部分に関しても、そのいずれが実体の部分でありいずれがそうでないかを知り、また果たして実体の部分が同時に定義の部分でもあるか否かを知らねばならなかった。さらにまた、普遍も類もともに実体ではな〔ということが示された〕。」z8p.270-271)
「ところで、基体は実体であるが、(1)或る意味では質料が基体である(ここに「質料」というのは、私のいう意味では、現実的にこれ〔と指し示されうる個体〕ではないが、可能的にはこれであるところのもののことである)。また(2)いま一つの意味では、説明方式または形式〔形相〕がそれである(それは、一種のこれではあるが、説明方式の上では〔概念的に抽象されて〕離れて存しうるものである)。そして(3)第三の意味では、これら両者からなるものがそれであって、この意味での基体にのみ生成または消滅があるのであり、これのみが端的に離れて存するものである。というのは、説明方式〔形相〕としての実体のうちでも或るもの〔たとえば理性のごとき〕はそうであるが、その他の多くは〔説明方式の上で離されうるのみで〕端的に離れて存するものではないからである。
しかし、(一)、質料もまた実体であることは、明らかである。なぜなら、反対のものへの転化のあらゆる場合において、これらの転化にとっての基体となっている或るなにものかがある〔そしてこのなにものかがあらゆる(FF)転化の質料である〕からである。」(P.271-272)
「しかし、質料もまた実体であることは、明らかである。なぜなら反対のものへの転化のあらゆる場合において、これらの転化にとっての基体となっている或るなにものかがある〔そしてこのなにものかがあらゆる(FF)転化の質料である〕からである。」(P.272)
転化=場所・移動、増大・量、変化・性質、実体・生成消滅
註
第二章 質料としての実体は可能的存在であるが、現実的存在としての実体はなにか。差別性(種差)、形相あるいは現実態の諸相。質料による定義と形相による定義と両者による定義との区別。
「さて、感覚的事物の基体をなしている質料としての実体は一般に認められているものどもであるが、これは可(FF)能的存在としての実体である。すると、残るところは、(二)感覚的事物の現実的存在としての実体がいかなるものであるかを語るにある。」(P.172-273)
(A)
「だから、(B)これらからすれば、明らかに、その質料が他であればその現実態も他であり、またその説明方式も他である。」(P.275)
註
第三章 事物の名前は質料と結合した個体を指し示すのか、あるいはそれの形相(現実態)をか。個々の構成要素のほかにこれらを結合されるなにものか(形相)が存在する。定義についてのアンティステネスの説を駁す。数と類比的な定義の仕方。
「しかし、(C)注意しなくてはならないことは、事物の名前が果たしてその事物の結合体としての実体を指すのか、あるいはそれの現実態または形式を指しているのかが、ときとして不明な場合もあるということである。」(P.276)
「しかし、(D)誰でも〔前章の問題を〕よく検討してみれば、語節がたんに幾つかの字母と複合からなるものでもなく、あるいは家が煉瓦その他と複合とからなるものでもないことを、認めるであろう。」(P.277)
「なおまた人間も、実は、たんにただ「動物と二本足と」であるのではなくて、かえって、もしこれら〔動物と二本足と〕が質料であるとすれば、これらより以外になお或るなにものかが存在しなくてはならない。しかもこの或るなにものかは、人間の構成要素でもなく構成要素から成るものでもなくて、これこそその実体〔形相または本質〕である。」(P.277)
(E)(1)(2)
(3)「(略)すなわち、実体はわれわれの言うような意味で一つのものなのであって、決してあの人々の説くようにたとえば或る一種の単位または点のごときものではなく、かえっていずれの実体もそれぞれ完(FF)全な現実態であり、或る一つの実在なのであるから〔したがってそれの定義もひとつなのである〕。」(P.279-280)
(4)
註
(1)「動物の原語 ζῶον は、 ζωή (「生命」と訳される)を有するものの意、したがって、ἔμψυχον (霊魂( ψυχή )を有するもの・生物、第七巻第十章1035b15, 同章註(5)参照)であるので、直ちにここに見えるように、「動物」は「身体における霊魂」のかまたはただの「霊魂」なのかという問題も提起されえたのである。」(P.580)
第四章 事物の第一の最も遠い質料と最も近い直接の質料。諸原因の正しい追求の仕方。限定を受けるもの(属性の基体)は質料ではなくて具体的個物である。
「さらに、(三)(A)質料的実体に関してわれわれの忘れてはならないことは、たとえすべての事物が第一の同じものから、また第一のものどもとしての同じものから生じるとしても、すなわち同じ質料がそれらの生成の原理として働いているとしても、しかもなお各々の事物にはそれぞれに最も近い固有の或る質料があるという事実である。」(P.280)
「さて、それゆえに、(B)誰でも原因を研究する場合には、原因というのにも多くの意味があるから、ありうべきすべての原因について説かねばならない。」(P.281)
註
第五章 事物の転化とそれの質料との関係。
「しかし、或る事物は生成しもせず消滅しもしないで、あり〔存在し〕またはあらぬ〔存在していない〕からして、たとえば線のごときが(もし線があるとすれば)、あるいは一般に形相がそうであるが、 というのは、白さ〔形相〕は生成しはしないのであって、ただ木が白くなるのだからである(もし事実、ものの生成するのはすべて、「ある質料からある形相のものに」であるとすれば)、 だからして、それゆえに、すべての反対のものども〔たとえば白さと黒さとは〕互いに他から生成するのではなくて、黒い人から白い人が生じる〔色の黒い人が白くなる〕というのと黒さから白さがというのとはその意味が全くちがっている。なおまた、それゆえに、すべての物事に質料があるわけではなくて、ただ生成があり互いに他への転化があるところの事物にのみ質料がある。およそ転化の過程にあることなしにただありまたはあらぬ物事には、質料はない。」(P.283)
(C)「だが実はそうではなくて、むしろ、これらの消滅態〔酢または死者たること〕は酒または生きものにとっては付帯的にであって、ただ生きもの〔または酒〕の質料が、その所有態の消滅〔腐敗〕のゆえに、それ自ら、死者〔または酢〕の可能態なのであり質料なのである。」(P.254)__Nota Bene!!
註
第六章 定義が一つであることの原因はなにか。それは、その定義における類は種差の可能態であり種差はまさにこの類の現実態であるからである。
「では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの〔丸くありうる青銅〕が現実的に存在する〔現に丸くある〕にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動者を除いては、そのほかになにがあるのだろうか?というのは、可能的に球であるものが現実的に球であるということには、他になんらの原因もなくて、まさにこうあることがこの両者の本質なのであったのだから。ところで、ある質料は思惟的でありある質料は感覚的である、そして説明方式には常に〔その要素として〕一方には質料〔類〕があり他方には現実体〔種差〕がある、」(P.286)
「だが、このような〔無意味な〕ことになる理由は、かれらが事物の可能態と完全現実態とを一つにする説明方式を求めるとともにこれらのあいだの差別を問い求めているからである。しかし実際には、さきほど言ったように、事物の最後の〔最も近い〕質料とその形式とは、前者は可能的に、後者は現実的に、同じであり一つである。だから〔かれらのように問い求めるのは〕あたかも一の原因はなに(FF)かと問い、さらにその一であることの原因はなにかと問い求めるがごときである。」(P.287-288)
Θ 第九巻
第一章 デュナミスにおける存在(可能的存在)とエネルゲイアにおける存在(現実的存在)について。まず、本来の意味でのデュナミス、すなわち運動の能力としてのそれ。能動的な能力と受動的な能力。能力とその欠除態。
「さて、いままで述べてきたのは、第一義的にあるもの あると言われる他のすべての述語がそれに帰せられるところのそれ〔第一義的の存在〕 についてであった、すなわち実体についてであった。というのは、その他のすべてのある〔または存在〕が、すなわち、どれほどある〔量〕とかどのようにある〔性質〕とかその他そのようにあると言われるすべての物事〔実体以外の述語的諸存在〕が、そのようにあると言われるのは、この実体の説明方式のゆえにだからである。」(P.289)__第一義的の存在=がある。そのたのすべてのある=である。
「しかし、(a)同じ種に属する〔本来の意味での〕それらは、いずれもみな、或るなんらかの原理であり、それぞれ或る一つの第一の原理との関連においてデュナミスと言われるのである。そしてこの原理というのは、他のもののうちにあり、または他のものとしてのそのもの自らのうちにあるところの、それの転化の原理〔始動因〕のことである。けだし、(b)或るものは受動する能力であるが、」(P.290)
「だがまた、(c)悪への転化の原理としての他のものによりまたは他のものとしてのそのもの自らによっての悪への転化や破滅に対して非受(FF)動的な状態であるからである。」(P.290-291)
「さらにまた、このような意味で言われるこれらのデュナミスは、ただたんに能動しまたは受動する能力であるか、あるいはさらにうまく能動しまたは受動する能力であるかであるが、この後者〔うまくの方〕の説明方式のうちにもなんらかの仕方で前者の説明方式が含まれている。」(P.291)__上手にできる、より適している。
「ところで、欠除と(FF)いうのにもいろいろな意味がある。」(P.291-292)__第五巻第二十二章
註
(1)「原文では Περὶ... τοῦ πρώτως....εἴρηται (第一義的にあるもの・・・について述べられた)とあるのを、「いままで述べてきたのは第一義的にあるもの・・・についてである」と訳した。」(P.582)
(3)「「完全現実態」または「完成態」と訳されるアリストテレスの術語 ἐντελέχεια は、これとほとんど同義的な ἐνεργεια (現実態と訳される)とともに、「可能態」「可能性」と訳される δύναμις に対して用いられる。ただこの語の ἐνέργεια と異なる点(FF)は、この語 ἐντελέχεια が、語形からも察せられるように、 τέλος (終わり・目的)、 ἐν τέλει ἔχει (終わりにおいてある・目的を達成している)、ἐντελής (完了せる・完成する・完全なる)などと関連した意味をもつのに対し、ἐνεργεια の方は、 ἐργάζεσθαι (働く)、 ἔργον (働き・効果)、 ἐνεργεῖν (活動する)、ἐνεργός (活動的)などと関連した意味をもつ語とみられる。このかぎりでは、前者が主としてある転化過程を完了した状態、その転化の終わりに達しその目的を完成している状態を表すのに対し、後者はより多くその転化の過程、転化している現実の動き・働き、いわゆる現実活動の側を表すものとの言えよう。(中略)しかし実際には、多くの場合、後者が前者と同義的に用いられ、また逆に前者がしばしば後者と同義的に用いられている。けだし、「働き」という日本語でも(またはドイツ語の Wirkung や Wirklichikeit でも、さらにあのギリシア語 ἒργον にしても)そうであるように、「働き」とか「活動」とかの過程の側と結果の側とは(すくなくともそれらがそのあのその可能態に対して考えられているかぎり)実際にはそう簡単には区別されないからでもあろう。ことに本巻の第六章や第八章で読まれるように、それらの現実の活動態が同時にそれの完成体であり、それを表す動詞の現在進行形が同時に現在完了形でもあるような活動(活動それ自らがその終わり・完成でもあるような活動、活動というよりも静止)を ἐνέργεια とか ἐντέλέχεια とか呼んで、これを優位に置くアリストテレスでは、この両語の同一視はむしろ当然の無意識的からくりであったと言えよう。」(P.582-583)
(4)「第六巻(第二、第三、第四章)で存在を、(一)付帯的存在、(二)真としての存在、(三)可能的存在と現実的存在、 以上三つの自体的存在に対してさらに (四)付帯的存在、の四つに大別している。」(P.583)
(5)「「運動との関連において言われる場合」での ἐνέργεια は、「働き」「活動」「現実活動」と訳されよう(本章註(3)参照)。そして、これに対応して、(FF)この場合の ἐνέργεια は、「現実活動」と訳していい場合もあるが、むしろ「現実性」または「現実態」としたほうがよかろう。」(P.583-584)
第二章 非理性的な能力と理性的な能力。理性的な能力は反対のものどもの両方に関係しうるが非理性的な能力は一方的である。
「ところで、(1)相反する二つの物事が同じ一つのもののうちに生じることはありえない。しかるに、(2)認識は、説明方式〔理性〕を有することのゆえにある能力なのであり、そして霊魂は運動の原理を含有している、〔それゆえに〕(3)、(a)健康によいものはただ健康のみを作り出し、熱くするものはただ熱さのみを、寒くするものはただ寒さのみを作り出すのに、(b)認識を有するもの〔学者・技術家〕は相反する両方の物事を作り出す。」(P.293)
註
(2)「なお、このロゴスの「理性」(説明能力)の面と「説明方式」(説明内容・本質)の面とがいかに密接不離な関係にあるかは、次節(1046b7 f.)でも知られるであろう。
第三章 能力(可能性)を否定するメガラ学徒の逆説に対する反論。そこから、つぎに、新たな意味でのデュナミス、すなわち現実活動・現実態としてのエネルゲイアに対する可能力・可能性・可能態としてのデュナミスについて。
「というのは、(一)、明らかに〔この説からすると〕なんぴとも、現に建築していないならば建築家ではない、という〔不条理な〕ことになるからである(なぜなら、建築家であるとうことは建築する能のある者であるということだから)。」(P.294)
「そこで、もし盲者というのが視力を所有していないもののこと(詳しく言えば、自然的には視力を所有すべき者でありながら、しかもそれを所有しているのが自然的である時期に、そしていまも生存しておりながら、その視力を所有していないもののこと)であるとすれば、〔かれらの説からすると〕同じひとが一日のうちに幾度も幾度も盲者である!(同様にまた〔幾度も幾度も〕聾者である!)というような〔不条理な〕ことになろう。
さらにまた、(二)、もし能力の欠除されたものが無能なものであるとすれば、生成していないものは生成することの無能なもの〔不可能なもの〕であるということになろう。」(P.295)
「そこで、もしこのような説をなすことが許されないとすれば、明らかに能力〔可能性〕と現実活動〔現実態〕とは異なるものである(しかるに、かれらの説は、能力と現実活動とを同じことであるとし、それによってまた、些細なこととして棄ててはおけない事実をあえて無視しようとしている)、そして、これらを異なるものであるとすれば、或るものが存在することも可能であるが〔現実には〕存在していない、ということも許されるし、また逆に、それが存在しないことも可能であるが〔しかも現に〕存在している、ということも許されるようになる。」(P.296)
「エネルゲイア〔現実活動・現実性・現実態〕という語は、エンテレケイア〔完全現実態〕と関連した意味で用いられており、その他の意味にも広げられているが、それは主として運動の意からである。というのは、普通には、エネルゲイアというのは主として運動のことであると考えられているからである。」(P.297)
註
第四章 無能である、不可能である、能がある、可能である、等々について。
「実をいうと、偽であることと不可能であることとは同じことではないからである。たとえば、君がいま立っているということは偽であるが、しかし立つことが不可能なわけではないから。」(P.298)
第五章 能力・可能性の獲得方法と可能性・可能態の現実化される諸条件について。
「あらゆる能力は、その或るものは生得的な能力、たとえば感覚のごときであり、或るものは習性によるもの、たとえば笛を吹く能力のごときであり、或るものは学習によるもの、たとえば諸技術上の能力のごときである。」(P.299)
「だから、後者のような〔非理性的な〕能力にあっては、能動するものと受動するものとがそれぞれの能に応じた仕方で相接すると、必然的にその一方は能動し他方は受動するが、前者〔理性をともなる能力〕似合っては、必然的にではない。なぜなら、非理性的な能力は、すべて、そのいずれの一つもそれぞれただ一つの結果を作り出す〔能動する〕だけなのに、理性を伴う能動は相反するものどもをであり、したがって〔もし必然的にであるなら〕相反する二つのものごとを同時に作り出すでもあろうから。だが、このことは不可能である。」(P.300)
「というのは、かれがその能力をもっているというのは、まさにこの能力が能動することの能力であるとの意味においてであり、しかも、それはあらゆる場合にといいうのではなくて、特定の条件のもとでというのであって、そのうちには外部からの妨害がないならばという条件も含まれているからである。」(P.301)__Nota Bene!!
「けだし、ひとは、ただその能力に適応した物事をしか能動しないであろうから。」(P.301)
註
(1)「習性による( ἒθει )能力というのは、ならわし・練習・熟練などによってえられる能力。」(P.586)
(2)「たとえば学童が文法的に( γραμαικῶς )語る能力(これが「理性による( λόγῳ )能力」といるためには、かれはそれに先だってなにか文法的なことを、すなわち文法学的知識をもってではないが文法にかなったことを、語ること(これが「先立つ現実的活動( προενεργήσαντα )」)をする者であらねばならない(中略)なお、この「先たつ現実的活動」を必要だとする考えは、現実態〔形相〕を可能態〔質料〕に先行し優先するとするアリストテレスの根本思想(本巻第八章に見える)につらなるもの。」(P.586)__チョムスキー的能力というのではなく、親が話す言葉があるということ、行為があるということ、または、子供に文法的ではなくても「話そうとする」行為があるということ。
第六章 エネルゲイアに対するデュナミス(可能性・可能態)。エネルゲイアの二義、すなわち運動とし現実活動としてのそれと完了的な現実態(エンテレケイア)と同義的なそれとについて。
「(略)そしてまた一般に人はあらゆるものについてその定義を求むべきではなくて、〔場合によっては〕ただ類比関係をひと目で見るだけでたれりとすべきである。」(P.302)
「しかし、無限なものとか空虚なものとかその他そのようなものも、可能態においてある〔可能的にある〕とか現実態においてある〔現実的にある〕とか言われるが、これらは多くの他の事物(例えば、見るもの、歩行するもの、見られるものなど)とは異なる意味でそのように言われる。というのは、これらの事物にあっては、そのまま端的にそう言われても真でありうるが、(すなわちたとえば、なにものかを「見られるもの」という場合、それが「現に見られているもの」という意味でも、あるいは「見られることのできるもの」という意味でも、真であるからであるが、)しかし、無限なものは、いつかは現実的に離れて存するでもあろうという意味で可能的に存在するというのではなく、ただ知識において〔抽離されて存する〕だけである。分割過程が〔無限に続いて〕終結に達しないという事実は、この分割活動が可能性においてあるということを証明しはするが、無限なものが離れて存するとのことを証明しはしないからである。」(48b、P.303)
「ところが、行為〔少なくとも完全な行為〕は、それ自らのうちにその終わり〔目的〕を含んでいるところの運動である。たとえば、ひとは、ものを見ているときに同時にまた見ておったのであり、思慮しているときに同時に思慮しておったのであり、思惟しているときに同時に思惟していたのである。これに反して、なにかを学習しれいるときにはいまだそれを学習し終わってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終わっていない。よく生きているときに、かれはまた同時によく生きていたのであり、幸福に暮らしているときに、かれはまた同時に幸福に暮らしていたのである。そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった。そこで、これらの過程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言われるべきである。けだし、およそ運動は未完了的である。」(P.304)
「そこで、このような〔現在進行形と現在完了形とが同時的な〕過程を私は現実態といい、そしてさきの過程を運動という。」(P.304)
註
(3)「事物の δύναμις と ενέργεισα については、質料と形相の場合と同様、アリストテレスによると、論証的には説明し定義しえないもので、一般にこれら各々の異義や相互の関係は、ただそれぞれの事物・事例のうちにこのような類否関係( ἀναλογον )を見いだすことによって了解する以外に道はなかった。」(P.587)
(4)「ここに、静的には質量と形相との関係にあるものが動的には能力(可能態)とその発現(現実態)との関係にあるという一つの類否関係がみえる。」(P.587)
(7)「ὁρᾷ = ἑώρακε, φρονεῖ = πεφρόνηκε, νοεῖ = νενόηκεν. 治療(または建築)し終わったときには治療(建築)していないような活動、 すなわちその活動が表す動詞の現在完了形と現在形(現在進行形)とが同時的( ἅμα )には妥当しないような活動とはちがって、みる、( ὁρᾶν )・思慮する( φρονεῖν )・思惟する(νοεῖν )などのようにその現在完了形(見ておった等々)と現在進行形(見ている等々)とが同時的であるような活動。アリストテレスは、このような活動や行為そのことが同時にその終わりであり目的であるところの自己完結的・自己充足的な活動であり行為であるとのゆえをもって、これをもっと優れて完全な活動であり幸福な生活であると考えた。そしてかれは、この見るや思惟する(直視する)のような活動(芝居見物から学者の研究生活、ついには神の自己思惟のごとき観照(テオーリア)の生活)を ἐνεργεια または ἐντελέχεια の典型とした。ただし、このような活動は、実は、もはや活動とも行為・実践とも呼びえない全く非現実的・非実践的な静止態である。](P.587)__訳者の感想?
「同時的(ハマ)というのは一緒にと同義。」(P.588)
第七章 どのような場合に或るものは他のものの可能態であり質料なのであるか。
「ところで、この可能態においてあるものが完全現実態においてあるものに成ることの決定条件は、(1)思考〔たとえば医者の〕によってそう成る事物の場合には、(a)そうなることが〔医者によって〕意図されており、外部からすこしも妨げられないこと、そして(b)他方、すなわち健康になるもの〔患者〕のがわでは、このもの自らの内部にそのことを妨げるなにものもないことである。また〔たとえば建築の場合でも〕これと同様の条件において、或るものは可能的に家である、すなわち、この或るもののうちに、言いかえればこの材料のうちに、このものが家になることを妨げるなにものも含まれていないならば、そしてこのものよりほかにさらになにかをこれに加えたりこれから減じたりこれを変えたりする必要がすこしもないならば、このものがすなわち可能的に家である。」(P.305)
「だが、(2)それ自らの内部にこれを〔すなわちそれの生成・現実化の原理を〕もっている事物の場合には、外部からそれを害するなにものもないかぎり、すべてそれ自らで〔現実的なそれに〕成りえよう。」(P.306)
「けだし、述語される当のもの〔主語〕または基体は、このことによって、すなわち、「これ」なる或るものであるかないかによって、区別される。(1)たとえば、諸属性で述語される当の基体は「人間」であり、「肉体と霊魂」であり、その属性は「教養的なこと」とか「白いこと」とかである。(中略)そこで、およそ〔基体・主語と属性・述語との関係が〕このようである場合には、その最後のもの〔最近の主語・基体〕は実体である。しかるに、(2)このようではなくて、述語となるものの方が、ある種の形相であり、或る「これ」なるものであるような場合には、その最後のものは質料であり、質料的実体である。」(P.307)
註
(6)「ここに初めて明らかに、事物の「質料」がその事物の「可能態」と同義的に解し用いられている。」(P.588)
(9)「「質料的実体」( οὐσία ὑλική ) 質料として基体としての実体。」(P.589)
第八章 現実態は、その説明方式においても、時間的にも、またその本質においても、可能態より先である。永遠的・必然的な実体は可能態において存することなく、永遠的な運動にもたんなる可能性は存しない。
「まず、(1)説明方式において現実態〔現実活動〕の方が先であることは明らかである。なぜなら、第一義的に能のあるものがそのように能があると言われるのは、このものが活動する〔その能力を現実に働かせる〕ことのできるものであるがゆえにであるから。(中略)したがって必然的に、〔現実活動についての〕説明方式または知識が、〔その活動の可能なものについての〕知(FF)識のうちに、前もって含まれている。
だが、(2)時間においては、(a)(中略)すなわち、その種において可能的なものと同一であるところの現実的なものは、〔可能的なものよりも〕より先である、という意味では先である、しかし、(b)数的な意味では、先ではない。」(P.308-309)
「(略)およそ生成する或る事物の生成するのは、或るものから、或るものに、或るものによってであり、そしてこの最後の或るものは、これによって生成するその或るものと種において同じものである。」(P.309)
「というわけは、弾筋を学習するものが弾琴を学習するのは、弾琴することによってだからである、」(P.309)
「(略)現実態はその可能態よりも、このような意味で、すなわちその生成〔の順序〕に関し、時間に関して、より先である。
しかしまた、(3)現実態は、実体においても、より先である。そのわけは、第一には、(a)まず一般に、その生成において後であるものどもは、その種〔形相〕またはその実体においてはより先であるからであり〔というのは、たとえば、成人は子供よりも、人間はそのたね〔精子〕よりも先である、けだし前者はすでにその形相〔種〕をもっているのに、後者はそうなっていないからであるが)、(中略)けだし、動物は、視能力をもたんがために視活動をするのではなくて、視活動をなさんがために視能力をもつのである。」(P.310)
「さらにまた、質料もこれがその形相の中にはいってゆくでもあろうという意味では、可能的な存在である。そしてこれは、ひとたび現実態において存在するにいたれば、そのときにはその形相の中に存在しているのである。」(P.311)
「ところで、或る能力の場合には、その使用そのことが終極のものである。たとえば、視力の場合には、見る活動〔視力の使用〕がそうである、すなわちここでは、活動よりほかには別のいかなる結果も視力からは生じない。しかし、或る他の能力からは、別の結果が生じる。たとえば、建築術〔建築能力〕からは、建築活動とは別に、家が生じる。」(P.311)
「(略)だからまた、幸福も霊魂のうちにある、というのは、幸福はある種の生命だからである。
それゆえに、明らかに、実体または形相は現実態である。そこで、この理由によって、或る現実態がその可能態よりも、実体において先であることは明らかである。(P.312)__なぜ読まなくてはいけないと考えるのか。「成らない」と思うことで、いつも不幸、満足できないと思ってしまう。よりいいもの、より満足できるものを求めてします。他者を憎みながらも「救わなくてはならない」と思ってしまう。TVの影響。それは自己満足にすぎず、それは満足することがない。ルフィーや孫悟空と同じで、どれだけ強くなっても満足しない。満足できない。資本主義社会はおかしい、革命を起こさなければならないとどうして思うのか。民衆はなぜ立ち上がらないのか。より可愛い娘、より若い娘がいいとどうして思うのか。マスコミに踊らされてアイドルを好きになる。
「しかし現実態は、(b)さらにいっそう優れた意味においても、可能態より先である。というのは、永遠的なものは消滅的なものよりも実体において先であるが、可能態において存在するものはなにものも永遠的ではないからである。」(P.312)だから、存在しうることの可能的なものは、存在することもありうるし、存在しないこともありうるものである。」(P.312)
「こうして、不滅なものどもはすべて現実態において存在する。なおまた、必然性によって存在するいかなる事物も〔可能態において存在することはありえない〕、しかるに、こうした事物は第一のものである、なぜなら、これらが存在しなかったなら、いかなる事物もないであろうから、〔それゆえに、ここでも、現実態が可能態よりも先である。〕」(P.313)
「というのは、これらのもののほうがいっそう多く現実態であって、あれらのイデアどもはかえってこれらのものへの可能態たるにすぎないからである。
さて、それゆえに、現実態が可能態よりも先であり、転化の原理のいずれよりも先であることは、明らかである。」(P.314)__可能的存在としてのイデアと現実的存在としての形相(エイドス)。言葉(単語)よりも現実が先。現実に名前をつけるのであり、名前に合わせて現実が有るのではない。当たり前だけど。新しいもの(輸入されたもの、他地域から持ち込まれたもの)には名前が必要だけど。新しい考え方には新しい名前が必要だけど、「新しい考え」は有るのだろうか。新しい考えがあり、それに新しい名前をつけたとしても、アリストテレスのいうように、造語は理解されない。
註
(13)「アリストテレスが自然(したがって自然界のすべて)の目的性を強調したこと、かれの全哲学が目的論的であることは、周知の事実である。」(P.590)__ダーウィンに近く、ファーブルから遠い、かも。目的=結果(テロス、終局)という意味では、目的論的であるが。
第九章 善の現実態は善の可能性より優り、悪の現実態は悪の可能態より劣る。幾何学的定理は現実化によって発見される。
「たとえば、健康であることの可能なものと言われるものは、病気であることの可能なものと同じものであり、しかも同時に〔これら相反する可能態をもっている〕。」(P.315)
「ところで、反対の物事への可能性は、たしかにこのように、同時に〔その同じ可能的なものに〕存属している。しかし、反対の物事それ自らは同時に現存すること不可能であり、またそれらの現実態(たとえば現に健康であることと病気であること)も同時に存属することは不可能である。したがって必然的に、これらのうちのどちらかは善いものである。しかし、その可能態は、ひとしくそのどちらでもあるか、どちらでもないかである。それゆえに、現実態のほうがいっそう善い。そのようにまた必然的に、悪い物事の場合には、それの終わりすなわち現実態のほうが可能態よりもいっそう悪い。」(P.315)
「そしてその理由は、〔導き出す幾何学者の〕思惟がすでに現実態であるからである。」(P.316)
註
第十章 真としての存在。非複合体および複合体の真と偽について。
「事物がある〔あるいは存在〕と言われ、またはあらぬ〔あるいは非存在〕と言われるのは、まず、述語の諸形態についてであり、つぎには、これらそれぞれの可能態と現実態とにおいて、またその反対〔すなわち非可能態と非現実態と〕においてであり、そして第三には、真としてまたは偽としてである。」(P.317)__述語として結びつけられているか、述語となっていない・分離されているか。
「けだし、君が白くあるのは、われわれが君は白くあると真に思うがゆえにではなくて、かえって君の白くあることのゆえに、このことを主張するわれわれは真を語っているのである。」(P.317)__我思う故に我ありの逆。我あるがゆえに我思う。
註
(8)「数の系列において、かりにその「第一の数」(数系列における最初の数または素数 prime number )を「一」であるとすれば、偶数の二、四、以下「いかなる偶数も第一の数ではない」と考えるのは真である。しかし、アリストテレスによると、数( ἀριθμός )というのは一どもまたは単位どもの多さ(単位が幾つあるか)であり、したがって「一」そのものは、数の単位であり数の原理(初め)であって、数ではない。かえって「二」が第一の(最初の)数である。だから、この数の定義からすれば、偶数(二、四、六、等々)のうちの「或るもの(すなわち二)は第一の数であるが他の或るもの(四、六、等々)はそうではない」と考えるのが真である。」(P.593)
Ι 第十巻
第一章 一について。一と言われる四つの場合。一は最も主として性質または量の尺度である。諸種の尺度。
「まず、(1)連続的なものが一般にそう言われるが、そのうちでもとくに、接触によってでもなしに自然によって連続的なものが、そう言われる(そして、これらの事物のうちでも、いっそう多く一つであり第一であるのは、それの運動がいっそう多く不可分割的であり単純であるところのそれである)。つぎに、(2)さらにいっそう多く一つであるのは、全体的なもの、すなわち、或る一定の形式または形相を有するものである。」(P.321)__私たちは一つだ。
「そこで、(3)数においては、個別的なものが不可分割的であり、そして、(4)種においては、知識や認識のうちにあるもの〔普遍的なもの〕が不可分割的である、したがって、それぞれの実体が一つであることの原因〔すなわち形相〕は、第一義的に一つであるとすべきであろう。
このように、一つであると言われるのは、自然的に連続的なものと全体的なもの、および個別的なものと普遍的なものである。そして、これらすべては、不可分割的であることのゆえに一つなのであり、そのうちとくにその或るもの〔前の二者〕はそれらの運動の、他の或るもの〔後の二者〕はそれらについての思惟または説明方式の不可分割的であることのゆえに一つなのである。」(P.322)
「それゆえに、また「一つである」というあり方そのことは、(1)「不可分割的なること」そのことであり(というのは、これこそまさに「これ」と指し示されるものであり、場所的に、または種において、または思考のうちで、離れて存するものだからである)、あるいはまた、おそらく(2)「全体にして不可分割的なること」そのことであろう、しかし、最も主要な意味では、(3)「各々の類の第一の尺度なること」であり、さらに厳密に言えば、(FF)「量の第一の尺度なること」である、(P.323-324)__不可分割的なることと、分けられるが不可分割的な全体として考えること。「長さ一尺」。
「され、それゆえに、「一つである」ということが、最も厳密には、その語義に忠実に定義する者にとっては、或る尺度であり、ことに最も主として量の尺度であり、つぎに性質の尺度である、ということは明白である。そして、なにものかがそうした尺度でありうるのは、そのものが量において、あるいは性質において、不可分割的なものである場合にである。こうしてそれゆえに、「一つ」であると言われる事物は、その事物は、その事物がそのまま端的に不可分割的であるか、あるいはそれが或る一つのものであるかぎりに置いて不可分割的である。」(P.327)
註
(3)「移動が第一の転化(そして増減は第二、変化は第三、生滅は第四の転化)であることについては本書第八章第一章1042a32-b8参照。つぎに、円運動が、第一の運動(第一の転化)のうちでも第一(最も先)であるというのは、他の転化としがっ(FF)て円運動には方向の転化がなく、しかも同じく方向の転化を伴わない直線運動は途中でさえぎられないためには無限の空間の存在(それは不可能)を必要とするのに、円運動は自らに還帰する(出発点が終点でもある)運動だから無限の空間を必要としないから、あらゆる運動・転化のうちで第一であり最も先である、というにあった。」(P.593-594)
(4)「「4つの様式」のうち、上述の(1)と(2)とは、当の事物の運動の不可分割性のゆえに「一つ」とか「一」とか言われ、つぎに述べられる(3)と(4)は、その事物についての説明方式(本質・形相)または思惟(思想)の不可分割性のゆえにそう言われる場合である。」(P.594)
(9)「これと指し示されうる形相。「これ」( τόδε )という語で、一般にアリストテレスは、質料と結合した具体的個物を示すだけでなく、とくにそうした個物の形相の側を示す語としても用いてる。われわれは、ここにあるこれなるこの机を呼ぶとき、その質料の側に即して「木」とは言わないで、かえって、木製であろうと石造であろうとその質料に関わりなく、むしろその形相〔本質〕の側から「机」と呼ぶ。」(P.594)
(10)「一は、数ではなくて、諸々の数がそれから始まりそれで測り数えられるところの数の出発点とし尺度(単位)としての原理である。」(P.594)
(16)「これらは言い方はちがっても、その言う意味はだいたい同じで、要するに「数」と訳される ἀριθμός は、今日われわれの言う数の概念とはちがって、アリストテレスにかぎらず一般に古代ギリシア人がこの語で考えているところのものは、幾つかの単位の集合であり、単位または一がどれだけ多くあるか、幾つあるか、を表すもの、たとえば五という数は、それぞれ、単位が五つだけある、または単位百個(ママ)を含んでいる、とのことを表すものである。そして、数をどれだけかの(幾つかの)多さと解するので、一は数ではないと考えられ、とくにアリストテレスでは、一は、諸々の数(単位の多さ)を測る尺度・単位であり、数の原理・出発点であって、一それ自らは数ではなく、第一の(最初の)数は、二であると解されている。」(P.595)
第二章 一は、ピュタゴラス学徒やプラトンの説くような実体ではなく、また自然学者たちの説くような基体でもないこと。一が普遍であるということの論証。一は、存在と同様に、普遍的な述語である。
註
第三章 一と多さの対立について。一と多さとに関連する諸概念 同一性、類似性、異他性、差別性 の解明。
「しかし、一〔または一つ〕というのにも、さきにわれわれが反対諸概念の区別をした個所で列記したように、同〔または自〕、類似〔同様〕、等〔等しい〕などの諸義があり、多さというのにも、異〔または他〕、不類似、不等などの諸義がある。」(P.331)
ἔστι δὲ τοῦ μὲν ἑνός, ὥσπερ καὶ ἐν τῇ διαιρέσει τῶν ἐναντίων διεγράσψαμεν, τὸ ταὐτὸ καὶ ὅμοιον καὶ ἴσον, τοῦ δὲ πλήθους τὸ ἕτερον καὶ ἀνόμοιον καὶ ἄνισον.
λεγομένου δὲ τοῦ ταὐτοῦ πολλαχῶς, Eva μὲν τρόπον κατ᾽ ἀριθμὸν λέγομεν ἐνίοτε αὐτό, τὸ δ᾽ ἐὰν καὶ λόγῳ καὶ ἀριθμῷ ἕν ἢ, οἷον σὺ σαυτῷ καὶ τῷ εἴδει καὶ τῇ ὕλῃ ἕν" ἔτι δ᾽ ἐὰν ὁ λόγος ὁ τῆς πρώτης οὐσίας εἷς οἷον αἱ ἴσαι γραμμαὶ εὐθεῖαι αἱ αὐταί, καὶ τὰ ἴσα καὶ ἰσογώνια τετράγωνα, καίτοι πλείωἀλλ᾽ ἐν τούτοις ἣ ἰσότης ἑνότης. ὅμοια δὲ ἐὰν μὴ ἐν ταὐτὰ ἁπλῶς ὄντα, μηδὲ κατὰ τὴν οὐσίαν ἀδιάφορα τὴν συγκειμένην, κατὰ τὸ εἶδος ταὐτὰ ᾖ, ὥσπερ τὸ μεῖζον τετράyavov τῷ μικρῷ ὅμοιον, καὶ αἱ ἄνισοι εὐθεῖαι: αὗται γὰρ ὅμοιαι μέν, αἱ αὐταὶ δὲ ἁπλῶς οὔ.
「だからこそ、「異なる」ということは存在しないものについては言われないのである」(P.333)
「さて、「異」と「同」とは、以上のような仕方で対立しているが、しかし、差別性〔ちがい〕とこの異他性〔他であること〕とは互いに他である。」(P.333)
「(略)そして、それらが類によって差別されるのは、それらが共通の質料をもたないものどもであり、互いに他からは生成しないものどもである場合(たとえば、他の述語形態に属するものどもである場合)にであり、種によって差別されるのは、それらが同じ類のものどもである場合にである(ここで「類」というのは、差別される両者に共通の実体として、それらの述語となるところのあの同一のもののことである)。」(P.334)
註
(2)「「対立」( ἀντιθέσεις )の四つの仕方として『カテゴリー論』11b17-19には「反対関係」と「反対」と「欠除と所有」と「肯定と否定」とがあげられ、本巻第四章1055a38-b1には、同じことだが、「矛盾(矛盾的立言)」と「欠除」と「反対性」と「相対関係」とがあげられている。」(P.596)
第四章 反対性は完全な差別性であること。反対性と欠除態および矛盾的対立との関係について。
「(略)したがって最大の差別性もあり、そしてこれを私は反対性と呼ぶ。」(P.334)
「けだし、完全な差別はある終わりを持ち(あたかも、その他の物事でも、それがその終わりをもったときには完全である〔完了・完成した〕と言われるように)、そして、終わりより外にはなにものもないからである。なぜなら、いかなるものごとにおいても、それらの終わりは終極〔最後〕のものであり、それらすべてをうちに包含するものであり、それゆえに、この終より外にはなにものもなく、したがってこの終わりのものはさらにそれ以上になにものをも必要としない完全なものである。」(P.335)
「事実このようであるから、一つのものに対しては一つより多くの反対のものはありえないということは、明白である。というのは、(1)一つの終極よりもさらにより先の終極というようなものはありえず、また一つの間隔には二つより多くの終極はありえないからであるが、また一般に、このことは、(2)もし反対であることが一種の差別性であり、そして差別性が、したがってまた完全な差別性が、二つの極のあいだでのことであるとしてば、然るかぎり、明白である。」(P.335)
「しかし、第一の反対性は、或る所有態とそれの欠除態とのそれである。ただし、ここで欠除態というのは、あらゆる意味での欠除態ではなくて(というのは、欠除態というのにも多くの意味があるからであるが)、ここではそれが完全な欠除態であるかぎりにおいてである。」(P.336)
「ところで、ものどもの反対する仕方に、矛盾と欠除と反対性と相対関係とがあるとすると、そして、これらのうちで第一の対立は矛盾であり、矛盾にはなんらの中間のものも存しないのに、反対のものどもには中間のものが存しうるとすると、矛盾と反対とが同じではないことは明らかである。しかし、欠除〔所有態とその欠除態との対立〕は矛盾の一種である。けだし、なにものかを欠除しているということは、そのなにものかを全く欠除していることか、あるいは或る限定された仕方でそれを欠除していることかであるが、いずれにしてもこのことは、それを所有することの全く不可能な〔無能〕なもののことか、あるいは自然的には所有しているはずのなにものかを欠除していることであるからして、(ここにすでに、さきに他の個所でわれわれの区別したとおり、この語の多くの意味が見えるが)、だからして、欠除は、一種の矛盾である、あるいはそれ自らで決定的な無能力であるか、あるいはそれの受容体との結合関係によるそれであるかである。それゆえに、矛盾には中間のものは存しないのに、ある種の欠除には中間のものが存しうるのである。
註
(8)「矛盾的に両立する両項の中間にはなにもない(排中律)。しかし反対のものども(たとえば白と黒と)の場合には「中間のもの」(たとえば青白、薄黒)がある。」(P.597)
(9)「こうして、アリストテレスでは、反対は欠除の一種であり、欠除は矛盾の一種である。」(P.597)
(13)「たとえば、だいじな右手を失っているひとは、左手があっても「手がない」と言われるように。」(P.598)
第五章 大と小とはどのような対立か。一に対する反対のものは一つであるが、等は同時に大と小に対立する。
「そして等はこれら両者に対して欠除的否定として対立しているものである、それゆえに、また、両者の中間のものでもある。ところで、善でもなく悪でもないものは、これら両者に対立しているものである、しかしこのものには名前がない。そのわけは、善ということも悪ということもそれぞれいろいろの意味で言われるし、またこれら両者の受容体も一つではないからである。」(P.341)
註
(6)「欠除は、矛盾的対立(肯定と否定)の一種、したがって欠除的否定とも言われうる。」(P.598)
(8)「「善くも悪くもないもの」は、前註(7)からも明らかなように、実体でも性質でも量でもその他なにものでない(すなわち無限定である)、しかるに「白くもなく黒くもない」と言われるものは、白と黒の中間のいずれかの色(青白い(FF)とか薄黒いとか)という性質的限定をもっている。」(P.598-599)
第六章 一と多の対立。少と多(少数・少量と多数・多量)の対立について。
「(略)相対的〔または関係的〕というのに二つの意味がある、その一つは、反対のものども相互の関係としてであり、他のひとつは、認識されるものに対してのこのような関係で、ここでは、或るものが相対的と言われるのは、〔この物自体のゆえにではなく〕他のものがこの或るものに対して相対的であるがゆえにである。」(P.344)
「しかし、これと同様に相対的な対立(FF)関係にあるものと言われていても、認識と認識されるものとの関係は、この一と数との場合と同様には取り扱われない。というのは、なるほど認識は測るものであり、認識されるものは測られるものであると考えもしようが、しかし、たとえすべての認識が認識されるものであっても、認識されるもののすべてが必ずしも認識であるというわけではないからである、というのは、ある意味においては、認識が逆に認識されるものによって測られるからである。
多さは、少に対する反対のものではなく(むしろ少に対する反対のものは多である)あたかも超過した多さが超過された(不足的な)多さに対してのように)、また一に対しても、多は、あらゆる意味において反対のものなのではない。かえってただ、これらは、一面においては、さきに述べたように、多さの方は可分割的なものであり、一の方は不可分割的なものであるという意味で、相互に反対のものであるが、他面においては、もし多さが数であり一がそれを測るものであるとすれば、あたかも認識が認識されるものに対してのような意味で、相対的な関係にある。」(P.344-345)
註
(5)「それによると、複数形の πολλά は一つ二つと数えられる非連続的なものの多さ、すなわち数の多さで、英語の many (数多くの)に相当し、その単数形 πολύ は水のような連続的なものの量の多さで、英語の much (多量の)に相当する。」(P.600)
(14)「(略)この両箇所のちがいは、「認識されるもの」の意味のちがいによるもので、ここでは「認識」という概念の方が「認識されるもの」すなわち「認識可能なもの」という概念よりも先であるとの意味で「認識」がその尺度とされ、先の第五巻では、「認識可能なもの」すなわち「認識される対象そのもの」は、これが認識され思惟されると否とにかかわらず、認識や思想より先にそれ自ら独立に存在しているとの意味で、「認識されるものや思惟されるもの」が尺度だとされたのである。」(P.601)__認識が認識されるものを測る=生まれつきのイデア・認識能力で識別する。しかし、認識は認識されるもの(対象)によって限定される。という意味ではないか。見えるものをまず「顔(であろう)」と認識し、それを「誰々の顔」と認識するように。
第七章 反対のものどもののあいだにある中間のものどもについて。それら相互の関係、およびそれらと反対のものどもとの関係、それらが反対のものどもからなるということについて。
「まず、(1)およそ中間のものどもは、それがそれらの中間おものであるところのそれら〔両端(FF)のものども〕と同じ類に属している。」(P.345-346)
(2)(3)
「さて、これで、中間のものどもが、(1)すべて、同じ類に属するものであるということ、(2)反対のものどものあいだにあるということ、および(3)そのすべてが反対のものどもから合成されるものであるということは、明らかである。」(P.349)
註
第八章 種において異なる(差別される)とはなにか。種における差別性はその類のうちでの差別性であり、異他性である。
「これが、だからして、ものどもが「種において異なる」ということなのである、すなわち、同じ類に属するものどもであるとともに、それぞれ自らは不可分なものでありながら反対性をもつということである。〔なお、「種において同じ」と言われるのは、不可分なものでありながら反対性をもたないものどもである。〕」(P.350)
註
第九章 どのような反対性が或るものには種における差別をもたらし、他のものにはもたらさないのか。
「(略)なにゆえに女は男とその種において差別されないのか、(中略)なにゆえに雌の動物と雄の動物とはその種において異なっていないのか、しかもこの差別(FF)性は、白さと黒さとのように〔付帯的に〕ではなしに、自体的に、動物のものであり、動物としてのかぎりのいかなる動物にも雌性か雄性かが属しているのに、」(P.351-352)
「この難問は、しかし、だいたいつぎのと同様であろう、すなわちそれは、なにゆえに、ある反対性はものどもをその種において異なるものどもとするのに、或る他の反対性はそうしないのか、たとえば、足の有無や翼の有無は(動物をその種において)異なるものとするのに、なにゆえに白さと黒さとはそうしないのか、という難問である。
それゆえは、おそらく、前者〔足や翼〕はその類に本来固有の属性であるのに、後者はそれほど特有的な属性ではないからではあるまいか。ところで、〔ものの構成要素として〕一方には説明方式があり、他方には質料があるが、説明方式のうちにあるところの反対性は種における差別性を作るけれども、質料と結合されたもののうちにみられる反対性はそうした差別性を作らない。それゆえに、人間の〔顔色の〕白さや黒さはその種における差別性を作らないのであり、また白い人間と黒い人間とのあいだにも たとえこれらの両者がそれぞれ或る一語で言い表されるものであっても 種における差別は存在しないのである。というのは、ここで人間というのは質料としての人間であるが、質料は差別性〔種差〕を作らないからである。そのわけは、個々の人間が人間という種であるのは、このことによってではないからである、たとえこの人間やあの人間を構成する〔質料としての〕それぞれの肉や骨は互いに異なるとしても。」(P.352)
「というのは、白い人間と黒い馬との間にも〔或る反対性が〕あるが、それは、しかし、種における反対性であって、前者が白くあり後者が黒くあるという点においてのそれではない。というのは、たとえ両者が白くあったとしても、やはり同様にかれら両者は種においては異なっていようからである。しかし、雄というのと雌というのとは、動物に本来固有の属性ではあるが、それの実体〔説明方式〕に関してのことではなくて、それの質料すなわち肉体のうちにあることである。だから、たね〔精子〕は同じでも、その働きを受ける受け方のいかんによって、雄にもなれば雌にもなるのである。」(P.353)
註
(2)「説明方式のうちに含まれている反対性は種における差別をつくるが、人間の説明方式のうちには「白」や「黒」のような反対性は含まれていないから、こうした反対性は種における差別を作らない。」(P.603)
(7)「雌雄の別は、受精する母体の受精の仕方にあり、ゆえに質料の側にその原因がある、したがって、動物にとっては本質的(形相的)な差別ではない。」(P.603)__月経が質料、精子が始動因(形相)。
第十章 消滅的なものと永遠的(不滅的)なものとは類を異にしている。そこから、イデア説が排撃される。
「そうだとすると、消滅的なものと不滅なものとがその類〔種類〕において異なっていることは必然である。」(P.354)
「(略)或る他の種の反対のものどもはそのような付帯的な属性であること不可能である、そして「消滅的」と「非消滅的」とは、この種の反対のものどもである。」(P.356)
「それゆえに、或る人々の言っているような種〔形相、すなわちイデア〕の存在しえないことは、明白である。というのは、〔かれらによると〕、その或るもの〔感覚的個物としての人間〕は消滅的であり、他の或るもの〔イデアとしての人間〕は不滅である、ということになるからである。しかも、それぞれの形相〔イデア〕はそれぞれの個物と、たんに同語異義的であるだけでなく、その種〔形相〕において同じであると言われている。だが、しかし、その類〔種類〕において異なるものどもは、種〔形相〕において異なるものどもよりも、遥かに遠く離れている。
註
(2)「とくにこの章では、εἶδος と γένος が(後世のわれわれの区別で見ると)厳密に「種」と「類」との意には区別されず、前者には「形相」の意を含め、後者は広く「種類」というほどの意で用いられているので、場合に応じて種〔形相〕、形相〔種〕、形相〔イデア〕、類〔種類〕というように補訳した。」(P.603)
Κ 第十一巻
第一章 本書第三巻第二、第三章の概要。
「だが、(一)この知恵は果たして一つの学と解さるべきか、」(P.356)
「さらに、(二)論証上の諸原理を研究するのは、一つの学のすることなのか、」(P.356)
「さらに、(三)果たしてそれは諸実体のすべてを対象とするのか、」(P.356)
「さらに、(五)果たしてそれはただ実体のみを対象とするのか、あるいはさらに実体に付帯する諸属性をも対象とするのか?というのは、実体に付帯する諸属性については論証がありうるけれども、実体については論証はありえないからである。」(P.357)
「また、(B)一般に、(四)感覚的な実体をも、どうかすると、いまわれわれの求めている学が、その対象としはしないか、あるいはそうではなくて或る異なる種類の実体を対象とするのではあるまいか、」(P.357)
「ところで、(a)エイドスについては、その存在しないことは明らかである。」(P.358)
「なおまた、(b)いまわれわれの求めている学は、数学的諸対象を対象としてもいない(というのは、これらはいずれも離れて存するものではないからである)。しかしまた、いかなる感覚的実体でもない、というのは、これらは消滅的だからである。」(P.358)
「だがまた、(六)いまわれわれの求めている学は、或る人々はストイケイア〔構成要素・諸元素〕と呼ぶところの諸原理をその研究対象とすべきではないか、という難問を提起するひともあろう、」(P.359)
「しかし、これらよりもむしろ、普遍的なものどもが、いまわれわれの求めている学の対象とされるべきではないか、という意見もあろう。というのは、あらゆる言論〔説明方式・立言〕、あらゆる認識〔学問〕は普遍的なものについてであって、最後のもの〔個別に最も近い最下の種〕についてではない、したがって、そのように(七)いまわれわれの求めている学も、第一の諸類についてであろう、そしてそれれは存在と一とに還元されよう。けだし、これらは、他のなにものにもまさって、あらゆる存在事物を包括しているものと考えられ、また、その自然において第一の者〔最高位のもの〕であることのゆえに、最もすぐれて原理のようであるとも考えられようからである。というのは、もしこれらが消滅すれば、残るべてのものも滅亡するであろうから。なぜなら、すべてのものは存在であり一であるから。」(P.359)
註
(12)「第一巻第九章(イデア論批判)で証示されたとおり、エイドスの存在しないことは明らかである。」(P.605)
(14)「数学的諸学の対象の基礎にある思惟的質料。第七巻第一〇章036a9-12参照。」(P.605)
第二章 本書第三巻第四ー第六章の概要。
「さらに、(八)果たしてわれわれは個々の事物とは別に或るなにものかが存在すると想定すべきであるか、あるいはそうではなくて、かえってこれら個々の事物をわれわれの求めている学の対象とすべきか?だが、これらは無限である。しかし、そうかといって、個々の事物とは別に存在するあるものというのは、類か種であろうが、これらはどちらもわれわれのいま求めている学の対象ではない。」(P.360)
「だが、質料は、現実態においては存在しないで、ただ可能態において存在するだけである。」(P.361)__元のもの(形相が備わっていない物質)は想定として(可能態として)存在するにすぎない。
「のみならず、もしもある永遠的な・離れて存する・恒存的ななにものかが存在していないとしたら、どうして〔この世界に〕秩序が存しえようか?
さらに、(一〇)もし或る実体があって、これがわれわれのいま求めているようなその本性をもった原理(FF)であるとし、そしてこの実体がすべての事物に通じて一つの原理であり、永遠的な事物にとっても消滅的な事物にとっても同じ原理であるとすれば、そこにはつぎのようなな問が出る、すなわちそれは、原理が同じであるとされるかぎり、いったいなにゆえに、その同じ原理のもとに立つすべての事物のうちのある部分は永遠的であるに他の部分は永遠的でないのか、」(P.361-362)
「しかしまた、(一一)もしも、とくにすぐれて不動な原理と考えられているものを、すなわち存在と一とを、〔われわれの求めているような原理だとして〕あげようとすると、(中略)しかし、もし実際にこれらの各々がこれなる個物すなわち実体を意味するものであるとすれば、あらゆる存在事物〔あるまたは存在すると述語されるすべての物事〕はいずれも実体である。というのは、ある〔または存在する〕という述語はあらゆる事物に与えられうるからであるが(そして一もまた幾つかの事物についてそうであるが)、しかしこうした存在事物のすべてが実体であるということは偽である。」(P.362)
「さらに、どうして一とか点とかいう実体があると想定すべきであろうか?なぜなら、およそいかなる実体にも生成過程があるが、点にはそれがないからである。けだし、点はある分割にほかならないから。
なおまた、(一二)およそいかなる認識〔学〕も普遍的な物事に関し、このようなと言われる〔類的な〕ものどもに関するものであるのに、実体は普遍的なものではなくて、むしろこれと指し示される或る離れて存するものである。」(P.363)
「さらに、(九)果たして原理は、種において同じであるか、数においてか?もし数において一つであるとすれば、すべてのものが同じだということになるが。」(P.364)
註
(3)「形相は、形相としてのかぎり、生成消滅の過程にあることのないものである(略)しかし、ここの「形相」は「質料を具有する形相」( ἔνυλον εἷδος )、たとえば動物の霊魂(生命力)で、これは動物の肉体とともに亡びる。」(P.605)
(10)「一と質量(不定の二)とからまず第一に数を生成させ、つぎに幾何学的諸対象(点・線・面・立体)を生成させた。」(P.606)
(13)「点や線や面は、時には存在し時には存在しないが、生成し消滅する過程をもってはいない。」
(15)「この学の対象が原理であるとすれば、学は一般に普遍的なものを対象とするがゆえに、その原理も普遍的なものでなくてはならないはずである、そうだとすれば、どうしてその原理がこれなる個物的な実体でありえようか、の意。」(P.606)
第三章 本書第四巻第一、第二章の概要。
「(略)すべてのこのような場合においては、説明方式全体の欠除態がではなくて、ただ最下の種の欠除態があげられねばならない。」(P.366)
註
第四章 本書第四巻第三章の概要。
註
第五章 本書第四巻第四章の概要。
「ところで、諸存在〔あると言われるものども〕のうちに或る原理、それについては偽であることはありえず、かえってその反対が、すなわちそれの真であることが、常に必然的であるような或る原理、がある。すなわちそれは、同じ事物が一つの同じ時にあり且つあらぬということはできず、またいかなる事物も、この同じ条件のもとで、或るなにかであるとともにこのなにかに対立する他のなにかであるということはできない、というのである。そして、このような原理に関しては、端的には論証はありえない。しかし個々人に対してのそれ〔弁駁的な論(FF)証〕はありうる。というのは、こうした原理それ自らをこれよりもいっそう確実な前提原理から推理するということはありえず、しかもそれが端的に論証されるためにはこうした前提原理が必要だからである。」(P.368-369)__Nota Bene!! 前提(公理)は常になければならないが、それを説明する前提(公理)が存在するなら、それ自体が前提(公理)ではないから。矛盾律や背反律は、印欧語に関わる前提(公理)か。A is B 以外に存在を表す日本語でもそれが前提か。反駁は印欧語で可能か、日本語では可能か。「我思う、ゆえに我あり」は一つの公理である。
「けだし、およそ相互に言葉を交わそうと欲する者どもは、相互になんらか他を理解していなければならない。もしこのことがなかったなら、どうしてかれら相互のあいだに言葉の交通がありえようか?そうだとすれば、各々の用語はそれぞれ可知的なものであり、なにものかを明らかに指し示すものであらねばならない、しかも多くのものごとをではなしにただ一つの物事を、そして、もし一つより多くの物事を意味する語であるならば、その多くのうちのいずれの一つを意味するものとしてこの語を用いているかを明らかにしなくてはならない。」(P.369)__Nota Bene!!
(1)(2)(3)
註
第六章 本書第四巻第五ー第八章の概要。
「けだし、このような見解は、(1)或る人々には、自然学者たちの意見から生じてきたもののようであり、(2)他(FF)の或る人々には、必ずしもすべての人が同じ物事について同じことを認識するわけではなくてかえって或る特定の者が或る特定の人々には快と現れ他の特定の人々にはその反対に現れるという事実から生じてきたもののようである。
(1)「なにものもあらぬもの〔非存在、無〕からは生成せず、すべてはあるもの〔存在、有〕から」というのが自然について論じた人々のほとんどすべてに共通した意見である。」(P.371-372)
「だがしかし、(2)(a)相争う諸家の意見や想像に対して同等の信頼をよせるのはお人好しのすることである。」(P.372)
「また、(b)一般に、この地上の事物が常に転化しており決して自己同一に止まっていないように見えるというこの現象の事実をもとにして真理についての判定をくだすということは、不条理である。なぜなら、真実を追い求めるには、永遠に自己と同一を保っていて決して転化することのない事物から出発すべきであり、そして宇宙の諸象〔諸天体〕こそはそうした事物であるから。」(P.373)
「さらに、(c)もし運動があるなら、そこには運動するなにものかがあり、そして運動するものはすべて或るものから或るものに運動するのである。」(P.373)
「なおまた、(d)かりに地上の事物がその量においては絶えず流転し運動しているとしても(そして、むろんこの(FF)ことは真ではないが、誰かがこのことを主張するとしても)、なにゆえにそれらが性質においても同一に止まっていてはならないものか?」(P.373-374)
「だが、ものの実体〔すなわちそのものの何であるか〕は、それの性質に関することであり、そしてこれ〔性質〕はある規定された自然〔実在〕に関するものであるが、ものの量は無規定なそれに関するものである。
さらに、(e)医者がかれらに或る特定の食物〔たとえばパン〕を摂取するようにと指定したとき、なにゆえに彼らは自らそれを摂取するのか?すなわち、なにゆえにそれがパンではあらぬというよもむしろパンであるというのか?」(P.374)
「さらにまた、(f)もしわれわれ自らが常に変化していて決して同一に止まることがないとすれば、たとえ事物がこのわれわれにとって、あたかも病人にとってもそうであるように、同一に現れないにしても、なんら驚くに値しないのではないか?」(P.374)
「だがしかし、もしもわれわれが転化しないで同じわれわれとして存在し続けるならば、同一に止まるなにものかが存在しているはずである。」(P.375)__自己同一性、アイデンティティ。
「(略)また、もしすべてが偽であるとすれば、こういうことを主張することそのことさえ真ではありえず、すべてが偽であるということそのことが偽ではありえない、ということになるがゆえにである。」(P.376)
註
第七章 本書第六巻第一章の概要。
「ところで、自然学はそれの運動の原理をそれ自らの内に含んでいるところの事物を対象とし、数学はそれ自らに止まってはいるが離れて存しはしないところの事物を研究する理論的な学である。そうだとすると、離れて存するとともに不動なる或る存在を研究するものとして、これら二つの学とは別に或る他の学があるはずである、もしもそのような実体 というのは離れて不動な実体のことだが が存在しているなら。」(P.378)
註
第八章 本書第六巻第二ー第四章の概要。 (第七節以下)『自然学』第二巻第五、第六章からの抄録、 偶運について。
「しかし、端的に言われる存在にもいろいろの意味があり、そのうちの一つは付帯的な意味での存在であるから、(一)まず第一にこの意味での存在について検討しなくてはならない。」(P.379)
「ところで、およそわれわれが云々であると言うところの物事は、(1)常に且つ必然によってそうあるか(ここに必然によってというのは、強制によってという意味ではなくて、われわれが論証の場合に用いる意味においてであるが)、あるいは(2)多くの場合にそうあるか、あるいは(3)多くの場合にもなく常に且つ必然によってでもなく、たんに偶運的にそうあるのかのいずれかである。」(P.380)
「(二)真としての存在と付帯的意味での存在とについてみるに、前者は思考の結びつきのうちにあり、思考内のある様態である(そしてそれゆえに、このような存在については、原理は探求されず、〔学によって〕原理の探求されるのは、〔思考の〕外に離れて存する事物についてである)。後者は、すなわち付帯的意味での存在は、必然的ではなく不定である、そして、このような物事においては、それの原因は無秩序であり無限である。
なにかのためにであること〔目的適合性〕は、自然によって生成する物事のうちにも思考からの物事のうちにも認められるが、しかし(三)偶運は、こうした物事のうちの或るものが付帯的に生成する場合に認められる。というのは、あたかも物事の存在するのがそれの自然によってであるかあるいは付帯性によってであるかであるように、そのように物事の原因もそうだからである。そして、偶運というのは、或る意図に従っておこるところの目的適合的な物事のうちに認められるある付帯的な原因である。だから、偶運の関係する範囲は思考のそれと同じなのである、というのは、意図は思考から離れて存しえないからである。だが、偶運的なものごとを引きおこすところの諸原因は不定である。したがって、偶運は、人間的な思量にとっては不明であり、付帯的な原因であり、端的に言えばなにものの原因でもないのである。運がよいとか悪いとかいうのはその結果が善であるか悪であるかにより、そして幸福とか不幸とかいうのはその結果がもっと大規模な場合である。
付帯的な物事は、いずれも、自体的に存在する物事よりより先ではない、だからして、付帯的意味での原因も(FF)より先ではない、したがって、たとえ偶運または自己偶発がこの世界のなんらかの原因であるとしても、理性と自然とはそれよりも先である。」(P.382-383)__思考(その原因である理性)と、実体(外部にある)と思惟の中にある存在。
註
第九章 『自然学』第三巻第一ー第三章からの抄録。 可能態、現実態、運動について。
「或るものは現実的にのみ存在し、或るものは可能的に、そして或るものは可能的にも現実的にも存在するが、それらのあるものは存在〔実体〕として、或るものは量として、またその他の仕方で〔その他の述語形態において〕存在する。ところで、いかなる運動も事物から離れて別には存在しない。というのは、転化するのは常に存在の述語形態のいずれかにおいてであり、しかもこれら〔存在の諸述語形態〕に共通していてそのいずれの一つの述語形態にも属しないようなものは全く存在しないからである。」(P.383)
「そして、存在の諸類の各々には、それぞれ可能的なものと完全現実的なものとの区別があるが、可能的なものとしてのかぎりにおける可能的なものの現実態〔現実活動〕を私は運動と言う。」(P.383)
「(略)可能的なものの・可能的なものとしてのかぎりにおいてのそれの・完全現実態、これがすなわち運動なのである。」(P.384)
「(略)けだし、或る人々は運動を異他性、または不等性、または非存在であるとしているが、これらは、いずれの、必ずしも運動するものではなく、また転化も、これらにまたはこれらからであるに劣らず、これらに対立するものどもからでもある。」(P.385)
「そしてそう思われる理由は、運動がそれの現実態であるところの可能的なものは未完了的だからというにある。」(P.386)
「したがって、残るところはただわれわれの言ったとおり、すなわちそれは、ある現実態であり、いま述べられたとおりの現実態である、そしてそれは、見知ることの困難あものではあるが、存在することの可能なものである。」(P.386)
「そして、この動かしうるものの現実態〔現実活動〕は動かされうるもののそれにほかならない。というのは、それはこれら両者の完全現実態であらねばならないからである。」(P.386)
「(略)それはあたかも、一から二への間隔と二から一へのそれとが同じであり、上り坂と下り坂とが同じであるが、しかしそ(FF)れらのあり方〔説明方式〕は一つでないのと同様に。」(P.386-387)
註
(2)「神や純粋な思惟的存在は現実的にのみ存在し、空虚や無限なものは可能的にのみ存在し、自然物その他の結合物は可能的に現実的にも存在しうる。」(P.611)
(6)「健康でもあり病気でもありうる質料・可能態としての基体は、その反対どもにも 形相としての健康にもその欠除としての病気にも 通じて同じである。」(P.611)
(8)「すなわち、自同性、等性、存在。」(P.611)
第十章 『自然学』第三巻第四、第五、第七章からの抄録、 無限について、現実的に無限なもの(ことに無限な物体)は存在しないということについて。
「無限なものは、(a)そのものがもともと〔その本性上〕行き過ぎられないものであることのゆえに通り過ぎられることの不可能なもの(略)」(P.387)
(b)(c)
「さらにまた〔ものが無限なと言われるのに〕加えてゆくことによっての場合と、抽き棄ててゆくことによっての場合と、これらの両方によっての場合がある。
ところで、(A)無限なものは、それ自らで離れて存するものであることはできない。」(P.387)
(1)(2)(3)
「そしてまた、(4)無限なものが現実態において存在するものではないということも、明らかである。けだし、もしそうであるとすれば、そのいずれの部分をとってみてもそれぞれみな無限であろう(略)」(P.388)
「(略)だからして、無限なもの〔無限性〕はなんらかの基体に付帯的に属するもの〔属性〕である。しかし、そうだとすると、上述のとおり、それは原理ではありえないで、かえってそれが付帯的に属する当のもの、たとえば空気とか偶数とかが、原理である。
さて、以上の探求は普遍的であるが、さらに、(B)無限なものが感覚的事物のうちには存在しないということ(FF)は、つぎの諸点からみて明らかである。すなわち、(1)もし物体の説明方式が「幾つかの面によって限定されているもの」というのであるなら、無限な物体などというものは、感覚的なそれにせよ思惟的なそれにせよ、存在しないはずであり、また、(2)数も、離されて存在する無限なものとしては、存在しえない、というのは、数、または数を有するものは、数えられうるものだからである。
だがまた、(3)自然学的に見ると、」(P.388-389)
「というのは、まず(a)物体の構成要素がその多さにおいて有限であるからには、無限なものが結合された物体であることはありえないからである(中略)もし無限なものが物体であるなら、この物体はあらゆる方向に無限であることになろうから)。なおまた、(b)」(P.389)
「さらにまた、(4)感覚的な物体はある場所を占め、それぞれの物体の全体とその部分とは’たとえば土とその部分〔土塊〕とは)同じ場所を占める。」(P.390)
(5)
「さらにまた、(6)感覚的な物体は、すべて、なんらかの場所にあり、そして場所の種類は六つであるが、これら六つは無限な物体のうちには、存在することが不可能である。」(P.391)
「たとえば、運動は、ものがその大きさで運動し、変化し、増大するところのその大きさのいかんによって、無限であると言われ、時間がそう言われるのは、〔それだけの時間のかかる〕運動のゆえにである。」(P.392)
註
(1)「ここでは、結局、無限なものが可能態においてのみ存在し、現実態においては存在しないとのことが論証されている。」(P.612)
(26)「すぐあと1067a29にあるように「場所の種類は六つ、」すなわち、上と下、右と左、前と後ろの六つに限られている。この意味で、場所は有限。」(P.613)
(31)「「時間」は『自然学』第四巻第十一章219b1-2では、「前と後ろに関しての運動の数」と定義されている。」(P.614)
第十一章 『自然学』第五巻第一章からの抄録、 転化について、運動について、生成と生滅は運動ではないことに関して。
「さて、基体にあらぬもの〔非甲〕からこれに矛盾的に対立する基体〔甲〕への転化は、生成である、(中略)逆に、基体〔甲〕から基体にあらぬもの〔非甲〕への転化は、消滅であって、」(P.393)
「さて、およそ運動は転化の一種であり、そして転化には上述の三つの場合があって、これらのうち、生成と消滅の意味での転化は運動ではなく、これら両者は矛盾的に対立するものへの転化であるからして、必然的に、基体〔甲〕から基体〔乙〕への転化のみが運動である。」(P.394)
註
(1)転化(生滅・変化・増減・移動)
第十二章 『自然学』第五巻第二章からの抄録、 性質における運動(変化)と量における運動(増減)と場所における運動(移動)について、実体についての運動はないことについて。 (第十節以下)『自然学』第五巻第三章からの抄録、 場所的・物理的関係を表す諸概念の定義。
「さて、実体の運動も関係の運動も能動と受動の運動も存在しないからして、残るところ、運動は、性質と量と場所に関してのみ存しうる(というのは、これらの各々には反対的対立があるからである)。」(P.397)
(P.398)__同じと同一。同じは別のものが同じであることで、同一は、それらが同じで一つのものであること。deferenceは、異なるであって、差ではない。差は同一の観点から見て異なるということ、速さ、順位。異なるは同じものが別の時間、別の場所、別のものに対して言う。日本語においては、異なるー差と同じー同一は対応しない。
(P.398)__一緒にἅμα (ラテン語では simul )ある、離れて χωρίς (ラテン語では separatis, separatum )ある、接触する ἅ῀τεσθαι tangere 、中間 μεταξύ medium にある、場所的な意味で反対のもの ἐναντίον κατὰ τόπον contrarium secundum locum 、継続的 ἑξῆς consequens 、接続的 έχομενον attiguum, contiguum、連続的 συνεχες continuum
「(およそ転化は、いずれも、対立的なものどものあいだでおこなわれるが、対立的なものどものうち、あるものは反対的に対立し、あるものは矛盾的に対立している。そして矛盾的対立には中間項がないからして、明らかに、中間のものは反対のものどものあいだにある。)そして連続的と言われるものはいずれも或る接続的なものである。私が或る〔二つ以上の〕事物を連続的であると言うのは、これらの事物がその各々の限界において接触し連続して、その各々の限界が同じになり一つになっている場合にである。」(P.399)
「また、諸事物が連続的であれば接触しているが、接触しているからといって必ずしもそれらが連続的であるわけではない。」(P.399)__実数の連続性、実数と実数の「あいだ」はない。
「また、点と点とのあいだにはある中間のものがあるが、単位と単位とのあいだに(FF)はない。」(P.399-400)
註
(6)「生成と消滅は「或る特定の仕方だ対立してるものへ」というのは、非存在から存在へまたは存在から非存在へのように「矛盾的に対立しているものへ」であり、生滅以外の転化すなわち運動(変化・増減・移動)は矛盾的でない「別の仕方で」すなわち「反対的に対立しているものへ」である。」(P.616)
(9)「実体に内在する種差・形相としての性質には運動はない。実体の種差(いわば本質的属性)の転化は生成または消滅である。」(P.616)__点は単位ではない。点を集めたのが線(長さ)ではない。
Λ 第十二巻
第一章 われわれの研究対象は実体である。実体は他のすべてに優先する。実体の三種(消滅的で感覚的な実体、永遠的な感覚的な実体、および永遠的で不動な実体)。まず感覚的な実体について。
「ところで、実体には三種類ある。その一つは、(A)感覚的な実体で、そのうちの或るものは(1)永遠なものであるが、他の或るものは(2)消滅的なもので、後者は、すべての人々によって一般に認められているところの実体、たとえば植物や動物などである、 この両種類の実体については、それの構成要素を、(一種であるにせよ多種多数であるにせよ)とらえねばならない。 だが、いま一つの実体は、(B)、(3)不動な実体であって、これを或る人々は離れて存すると主張している。そしてこの人々のうちの(a)或る者は、これを二つに〔エイドスと数学的対象との二種に〕分け、(b)他の或る者は、エイドスと数学的対象とを同じ一つの実在に帰し、さらに(c)他の或る者は、これらのうちただ数学的対象のみを認めている。」(P.402)
註
(3)「たとえば性質としての存在(白くある)は、その性質の属する(付帯する)ところの実体(白いものそのもの)がそれ自体で存在するがゆえに付帯的に存在する(白くある)と言われるので、それ自らで存在しているのではない。実体が第一義的に存在であると言われるのもそのゆえにである。」(P.618)
(9)「感覚的な実体(これが本巻第六章では自然的な実体とも呼ばれている)のうちに(1)永遠的な実体(可視的な永遠的なもの、すなわち諸天体)と(2)消滅的な実体(月の下の世界にあるすべての結合体)との二種類が区別され、これに対して不動な実体(中略)が第三種の実体とみられている。前二種を「感覚的」と言うのに対しては第三種のは「思惟的」(理性的・超感覚的)とも言われよう。そして前二種が「自然的」と言われたことから第三の思惟的実体は後世「超自然的」とも言われるにいたる。」(P.618)
(16)「音と白のように対立するものどものあいだには転化はない。」(P.619)
第二章 転化には、その原理として、形相とその欠除態のほかに、質料が必要である。
「ところで、転化というものにも四通りあるので、 すなわち、(1)実体におけるそれか、(2)性質におけるそれか、(3)量におけるそれか、(4)場所におけるそれかであり、そして、端的な意味でのそれ、すなわちこれと指し示される個物〔実体〕におけるそれは生成と消滅であり、量におけるそれは増大と減少であり、属性〔性質〕におけるそれは変化であり、場所におけるそれは移動であるが、 もしそうであるとすれば、一般に転化は、これらの各々の場合における〔それぞれの与えられた一つの状態から〕反対の状態へ〔の移行〕であろう。」(P.403)
「したがって、なにものも、ただたんにあらぬもの〔非存在〕から付帯的に生成することができるというだけでなく、すべては、あるもの〔存在〕から生成するのである。ただし、この〔あるものからという〕意味は、可能的にであるものからというのであって、現実的にはまだそれであらぬものからである。」(P.403)
「けだし、存在しない〔またはあらぬ〕というのにも三つの意味があるからである。」(P.404)
「こうして、それゆえに、原因・原理は三つある。そのうちの二つは反対的に対立するもので、その一方は説明方式または形相であり、他方はその欠除態である。そして第三の原因は質料である。」(P.405)
註
(10)「述語形態としての存在に対する非存在と、真としての存在に対する偽としての非存在と、現実的非存在としての可能的(FF)存在との三つ。」(P.619-620)
第三章 最後の質料や形相には生成過程は存しない。実体の三義(質料、形相、両者から成る個物)。事物の始動因はその事物より先に存在しうるが、その形相は同時的に存在する。人間のような自然的事物以外は、いかなる事物の形相もその事物より先には存在しない。
「そのつぎに〔注意しておきたいこと〕は、質料も形相も生成するものではないということである、ただしそれは、最後〔最近〕の質料や形相がそうだというのだが。」(P.405)
「そのつぎには、各々の実体はそれぞれそれと同名異義のものから生成するということ、というのは、自然によっての事物のみでなくその他の事物もそうした実体だからである。けだし、事物の生成するのは、(a)技術によってか、(b)自然によってか、(c)偶運によってか,(d)自己偶発によってかであるが、そのうち、技術は、そ(FF)れによって生じる事物〔たとえば家〕と異なる他のもの〔たとえば建築家〕のうちにある原理〔始動因〕であり、自然はその事物それ自らのうちにある原理であり、 というのは、人間は人間を生むから、 そして残りの二つの原因〔偶運と自然偶発〕は、それぞれこれら〔技術または自然〕の欠除態であるから。
実態には三つある、(1)その一つは質料で、その現れにおいてはこれ〔と指し示されるもの〕として存在している。(中略)(2)そのつぎは自然で、これはすでにこれ〔と指し示されるもの〕として存在しているものであり、〔これに向かっての生成が〕まさにこれに向かってであったところのこれなる一定の状態である。(3)さらに第三のは、これら両者からなる個別的な実体、たとえば、ソクラテスまたはカㇽリアスである。」(P.405-406)
「明らかに、それゆえ、少なくとも〔生成の事実を説明するためにという〕ただそれだけの理由では、イデアを存在するとする必要はすこしもない。」(P.407)
註
第四章 事物の構成要素はその事物の異なるに応じて数的(個別的)には異なるがその種においては同じである。それらはすべて三種の構成要素(形相、欠除態、質料)をもち、さらにそれらの事物は最近および最遠の外的な始動因(動者)をもつ。
「しかし、事物に内在する要素のみがその事物の原因なのではなくて、外からの原因、たとえばそれを〔外から〕動かすものがるからして、明らかに原因と構成要素とは異なるものである、しかし、どちらも原因である。こうして、〔広義の〕原理は、これら二つに分けられる、そして、ものを動かしまたは静止させるものとしてのそれは、〔狭義の〕原理であり実体である。したがって、類比的には構成要素は三つ、原因または原理は四つある。」(P.409)
註
(5)「前述(1070b17-20)のように類比的には構成要素(または原理)は形相と欠除態と質料の三つ、そして一般に原因(または原理)はこの三つのほかに始動因としての原理を加えて四つ。普通の(後期の)アリストテレスの四原因と異なるのは、形相のほかにその欠除態が数えられたことと、目的は形相のうちに含められたことである。」(P.621)
(7)「自然物(たとえば人間)の場合には形相と始動因とは同一であるから、原因は三つ〔形相=始動因、欠除態、質料)、家などその始動因が外的な始動因である場合(たとえば建築術とか医術とかの場合)には四つ。」(P.621)
第五章 事物の可能態と現実態もある仕方ではすべての事物に共通の原理であるが、その仕方は場合の異なるに応じて異なる。原理・原因が異なる事物に通じて同じであるのは類比的にであって一義的にではない。
「なるほど普遍的には人間は人間から生まれる〔と言われはする〕が、しかし〔そうした普遍的な人間なるものは〕一人も存在していない、」(P.411)
註
(4)「この例にもみえるように、アリストテレスでは、普通に実体と考えられるのは自然物であり、自然物のうちでも最も典型的な実体は生物(霊魂と身体との結合体)ことに人間(理性と欲求と身体との結合体)であると考えられていたようである。」(P.622)
(12)「人間一般が人間一般を生むのではなくて、このペレウスがこのアキㇽレウスを生むのである。」(P.623)__アキㇽレウス(アキレスとも呼ばれる)
第六章 つぎに永遠的で不動な非感覚的実体について。こうした不動な実体は存在すべきである。運動が永遠的であるかぎり、永遠的な動者が存在すべきであり、この動者はその本質に可能態を含まない全くの現実態であらねばならず、世界に斉一的な運動の存するためには永遠に斉一的に動く原理があらねばならない。
「なぜなら、「より前」ということも「より後」ということも、時間が存在しないなら、存在しえないからである。そうだとすると、運動もまた、時間がそうであるように、そのように連続的である。というのは、時間は運動と同じであるか、あるいは運動の或る限定であるかであるから。ただしこの運動は、これが連続的であるためには、場所における運動〔移動の意味での運動〕であるより以外ではありえず、しかもこの場所的運動のうちでもとくに円運動でなくてはならない。」(P.413)__連続的であるということは「(他と離れた)点(自体)」はないということ。
「そうだとすると、それの実体〔本質〕が現実態であるようなそのようなある原理が存在しなくてはならない。」(P.414)
註
(5)「場所的転化(移動)以外の転化は連続的ではないというこの論証は『自然学』第八巻第七章261a31-b26でなされた。その論旨は、移動以外の転化はすべて対立物相互間でおこなわれ、しかも対立する方向への転化は同時にはおこなわれえず、その転化はその端(極限)をなす対立物のところで止まらねばならない、それゆえにその転化は連続的ではありえない、というにあった。つぎに、移動のうちでも円運動のみが連続的であるということの論証は同巻第八章261b27-263a3, 264a7-265a12でなされた。その論旨は、円運動以外の移動(直線運動など)は、移動以外の転化と同じく対立物から対立物への移動であるから、移動以外の転化の場合と同様、連続的ではありえない、というにあった。」(P.623)
第七章 永遠的な運動をおこす第一の永遠的な動者は、全くの完全態であるからそれ自らは全く不変不動な実体であり、あたかも思惟の対象や欲求の対象が思惟者や欲求者を(あるいは愛人が愛者を)動かすように、自らは動かないで他のすべてを動かす。この第一の不動の動者に世界のすべては依存する。これは善であり、生命であり、不断に自らを思惟・観照している純粋理性であり、神である。その観照の生活は全く完全であり、快である。
「したがって、この第一の天界は永遠的なものであろう。だが、それゆえに、さらにこの第一の天体を動かすところの或るものがある。動かされ且つ動かすものは中間位にあるものであるから、動かされないで動かすところの或るものがあり、これは永遠なものであり、実体であり、現実態である。〔では、どのような仕方で動かすか?〕それは、あたかも欲求されるもの〔欲求対象〕や思惟的なもの〔思惟対象〕が、〔欲求者や思惟者を〕動かすような仕方で動かす、すなわち動かされ〔も動きもし〕ないで動かす。」(P.417)
「しかるに、われわれがそれを欲求するのは、それが善美であると思われるがゆえにであって、われわれがそれを欲求するがゆえに美であると思われるのではない。」(P.418)__「あばたもえくぼ」ではない。善美であると思っても欲しないこともある。
「ところで、なにかがそれのためにであるそれ〔すなわちそのなにかの目的〕が不動のものの部に属することは、それの意味を分割すれば明らかにされる。すなわち、なにがそれのためにであるといわれるそれ〔目的〕には、(a)或ることが他のなにものか〔の利害・善悪〕のためになされるそのなにものかを意味する場合と、(b)或ることがなにものかを目ざしてなされるところのそのなにものかを意味する場合とがあるが、これら両義のうち、後者は不動なものの部であるのに、前者はそうではない、だからして、後者は、愛されるものが動かすように、動かすのである。そして、他のものは、動かされて動かす。」(P.418)
「すなわち、第一のものはたねではなくてこの完全なものであるから。だからわれわれは、たとえば、たね〔精子〕よりも人間のほうが先にある、と言うべきである、というのは、たねから生まれた人間〔子〕の方がというのでなくて、たねを生んだ他の人間〔親〕の方が、というのだか。」(P.421)
註
(4)「この「或るもの」は、恒星の第一の天球を自らは動きも動かしもしないで動かすところの「第一の不動の動者」(本巻第八章1074a37)。これが本章の主題であり、また言うまでもなくアリストテレスの目的論的世界観の根本原理である。」(P.625)
(5)「「動かされないで動かす」(οὐ κινούμενον κινεῖ )というのは、実は「他から動かされもせず自ら動きもしないで、他を動かす」の意。」(P.625)
(6)「この同じ仕方が、後の箇所072b3では「愛されるものが(愛するものを)動かすように」とも言われている。それは、たとえば砂糖に蟻がたかる(砂糖はじっとしているのに、その方に蟻が動かされる)ように、あるいは「桃李、物言わざれど、下おのずから蹊をなす」というようにである。」(P.625)
(20)「神の思惟が「自体的な思惟」であるというのは、人間の思惟活動のように感覚や表象を介してでなしに、思惟それ自体での思惟であるとの意。したがってそれは、つぎに読まれるように、その思惟者(神自らなる理性)思惟者それ自体を直接不離に対象とする思惟、思惟者 νοῦς と思惟対象 νοητόν とが全く同一であるところの「純粋思惟」「思惟的直感」であり、アリストテレスの有名な表現(本巻第九章1072b34)で言えば、この神の「思惟は思惟の思惟」である。」(P.627)
第八章 諸天体の運行を司る多くの天球の諸運動のためには、第一の天球を動かす第一の不動の動者(神)のほかに、多くの不動の動者が存在すべきである。エウドクソス、カㇽリッポスの諸天球の設定。アリストテレス自らの設定。その天球の数は、合計五十五または四十七であろう。第一の不動の動者はただ一つであり、世界も一つである。
「だから、運行させる天球とこれらに逆方向の天球との数は総計五十五あるはずである。そして、もし月と太陽とにわれわれの言った運動を加えないなら、天球の総数は四十七になろう。」(P.425)
註
(34)「ソクラテスは数においては多なる人間のうちの一つである。そしてそのわけは、ソクラテス(という個人)には人間一般の説明方式のほかに、ソクラテスを他の人間と区別する固有の質料をもているからである。」(P.633)
(38)「もちろん、今日の研究では、これらの名で知られる神々が星の神々であったことはなく、またそれらの星があの神々の名をえたのも古いことではない。」(P.634)
第九章 神の理性につての問題。その思惟対象はそれ自らであらねばならない。神の思惟は思惟の思惟である。非質料的・非物質的なものにおいてはその思惟と思惟対象とは同じものである。
(1)(2)(3)(4)
「(5)「思惟する」と「思惟される」とが互いに他であるなら、この両者のうちのどちらのゆえに理性にその善さが帰せられるのか?というのは、思惟することと思惟されるものであることとは、それぞれのあり方〔本質〕が同じではないからというのである。だが〔これに対してはこう答えられよう〕ある認識の場合には、その認識はその対象そのものである、すなわち、制作的認識〔製作技術〕の場合には、その認識は、これで制作されるもの〔対象〕の、質料を抜きにしての、実体であり本質である。そして理(FF)論的認識〔理論的諸学〕の場合には、その説明方式が、すなわちその思惟が、その対象そのものではないか。そうだとすれば、およそ質料をもたない物事についての場合には、理性で思惟されるものとしいするものとは、互いに他ではなくて、同じものであり、その思惟は思惟されるものと一つであろう。」(P.429-430)
「(略)およそ質料をもたないものは不可分割的である〔からである、と〕。」(P.430)
註
第十章 善は世界の諸事物に対してなにであるか。それは、それらすべてに内在する秩序の原理であるとともに、それらを超越する統一的支配の原理である。このことに関する自然学者や哲学者たちの諸見解とその難点。
「なおまた、もし感覚的事物より以外には他のなにものも存在しないとすれば、原理も秩序も生成も天界の諸運行も存在しないで、或る原理には常に或る他の原理があるというようなことになろう、あたかも神々のことを語る人々やあらゆる自然学者においてそうであるように。しかしまた、たとえエイドスとか数とかが存在するとしても、(a)これらはいかなる事物の原因でもないであろう。あるいは、それほどではないにしても、すくなくも運動の原因ではありえないであろう。さらに、(b)いかにして大きさのないものどもから、大きさのあるものが、すなわち連続的なものが、作り出されえようか?というのは、数は、動かすものとしても形相としても、連続的なものを作り出しはしないからである。のみならずまた、(c)いかなる反対のものも、反対のものとしてのかぎり、作り出す原理であることや動かす原理であることはありえないであろう、なぜなら、それは存在しないことも可能なものであるから。」(P.434)__数はデジタル(非連続)である。その集まりを「一つ」と見ることはできても(集合)、やはりデジタルであることには変わりはない。
「しかしさらに、(d)なにによって諸数が一つであるのか、あるいは霊魂と肉体とが、または一般にエイドスと事物とが、なにによって一つであるのか、誰もこのことについてすこしも言っていない。また事実、誰にしても、われわれの語るように、動かすものがそれらを一つにするのだというよりほかには、なんと言うこともできない。そしてまた、(e)或る人々は、数学的の数が第一のものであると語り、そしてそのように常に或る実体に接続して或る他の実体があり、これらの各々にはそれぞれ異なる原理があると語っているが、これは全宇宙の実体をただの挿話とするものであり(というのは、ここでは一つの実体は他の実体に対して、それが存在しようと存在すまいと、なんの関するところもないからであるが)、またその原理〔元首〕を多数とするものである。だが、全存在は悪く統治されることを願わない。「多数者の統治は善ならず、一つの統治者こそあらまほし。」」(P.435)
註
(3)「ここの「奴隷」の原語 ἀνδράποδον は、語源的には「人間の足の(動物)」の意であり、」(P.436)
(4)「自由人(自由市民)にとっては、かれの自然(自然的本性、生まれつき)が、かれをあのように自らの義務を守って秩序ある生活をさせる原理(始動因)であり、奴隷や家畜にとっては、かれらの自然が、かれらをあのように勝手なことをして暮らさせる原理である、との意。」(P.636)
(5)「というのは、自由人も奴隷や家畜もすべていつかは必ずそれらの諸構成要素(諸元素)に分解されて、奴隷や家畜などのように全体に共同奉仕することをしない者どもも、つぎの世には新たなより善い結合体として生まれて自由人と同じく全体に共同奉仕するであろうから、との意。」(P.636)
(8)「反対のものども(たとえば白さそのことと黒さそのこと)は相互に働きかけはしない、白さは黒さになりはしない、すなわち非受動的である。受動的なものは反対のいずれかであるもの(たとえば白いもの、白い基体)である、すなわち白くあるものが黒くなるのである。」(P.636)
(17)「われわれ(アリストテレス〕の説明の仕方では、始動因と目的因とは別のものではないのだが、の意。すなわち医術または建築術は健康または家についての知識すなわち健康または家の形相であり、それは健康または家の始め(始動因)でもあり、それぞれの術のもたらす終わり(目的)としての健康または家でもある。」(P.637)
(31)「ホメロス『イリアス』第二巻二〇四行目。」(P.638)
M 第十三巻
第一章 感覚的な実体のほかに不動で永遠的な実体が存在するか否かの研究。こうした実体として数学的対象とイデアとがあげられているから、われわれは、まず(一)数学的対象について、つぎに(二)イデアについて、最後に(三)数やイデアが感覚的事物の実体であるか否かについて検討しよう。
「すなわち、数学的諸対象 たとえば、数とか線とかその他これに類するもの を或る人々は実体であると主張しているが、しかしまた諸々のイデアが実体(FF)であるとしている人々もある。」(P.436)
註
(3)「しかしこの「不動なそして永遠な諸実体が存在するか否か」「存在するとすればそれはなにであるか」についてのアリ(FF)ストテレス自らの積極的な見解は、かれの残存の著作のどこにも見当たらず、結局この二巻は、「他の人々の諸説」(主としてプラトンとその学徒の見解)の検討・批判たるより以上には出なかった。晩年にもかれは決定に迷っていた。」(P.638-639)
第二章 (一)数学的対象について。それらは感覚的事物のうちにある特定の実体ではなく、また感覚的事物から離れて存在する実体でもない。
「ところで、なるほど説明方式においては数学的事物のほうがより先であるとしてもよかろう。だがしかし、説明方式において先であるものが必ずしもすべてその実体においても先であるというわけではない。」(P.442)
「、この「白」は、その説明方式においては「白い人」よりも先であるが、しかしその実体においてはそうではない。」(P.443)
「さて、数学的諸対象が、物体とくらべてより以上に実体であるのではないということ、またそれらが、そのあり方においては感覚的事物より先ではなくて、ただその説明方式においてのみそうであるということ、そしてまたそれらが、離されて、どこかに存在することの可能なものではないということ、これらのことは以上で十分に述べられた。」(P.443)
註
(6)「以上の(A)では、数学的対象が感覚的事物の内に存在するものではないということが説かれ、つぎに(B)では、それが感覚的事物から離れて存するものでもないということが説かれ、そして次の章の(C)で、(A)の内在説と(B)の超越説とが否定され綜合されて、数学的対象は感覚的事物からの・思想によっての・抽象物であるということが示される。」(P.640)__抽象されたもの(思想)が現実に存在するとなぜ思うのか。
(13)「感覚的事物の大きさが現実的な大きさであるのに対し、数学的の大きさ(数学的対象の数学的対象としてのかぎりでの(FF)大きさ)は可能的な大きさであり、感覚的のそれが完成した大きさと言われうるとすれば、数学的のそれは未完成な大きさと言われる。」(P.641)
第三章 それらは、ただ抽離されて、思想のなかに存在するのみであり、数学的諸学課は、感覚的事物を、ただ数とし大きさとして考察する。だが、数学が美の考察と無関係であるという非難は不当である。
「そこで、最もよくそれぞれの問題が考察されるのはこのようにすることによってであろう、すなわち、離されて存在してはいないものを離れて存在するものと仮定することによってであろう、あたかも算数学者や幾何学者のするように。」(P.446)
「さて、善と美とは互いに異なるものである(すなわち、善は常に行為のうちにあるが、美は不動なもののうちにもある)、」(P.447)
「美の最も主要な形相〔形式〕は秩序と均斉と被限定性とであるが、これらをとくに主として数学的諸学課が示している。」(P.447)
註
(6)「すなわち、算数学のほうが大きさを前提しないだけ、幾何学よりも厳密。」(P.641)
第四章 (二)イデアについて。イデアが想定されるにいたった理由、イデア説の由来。ソクラテスは普遍を感覚的事物から離れて存在するとはしなかった。イデア説批判、 イデアの想定は、感覚的事物の存在理由の説明には、或る意味では余計であり、或る意味では不足である。
「ところで、このエイドスについての意見がその主張者たちに生じるにいたったのは、かれらが、真理の問題に関して、ヘラクレイトスの言説に服したからである、すなわち、その言説によると、およそ感覚的な事物は絶えず流転している。したがって、いやしくも認識または思慮〔知恵〕が或るなにものかについてであるならば、感覚的事物より他に或る他の常に同一に止まる実在が〔認識の対象として〕存在すべきである。というのは、流転してやまない事物については認識はありえないからである。」(P.448)
「だから、二つのことが、正当にソクラテスに帰せられよう、すなわち、(FF)帰納的な論法と普遍的な定義をすることとが。というのは、これらは両方とも認識〔または学〕の出発点だからであるが。 そのときには、ソクラテスは、その普遍的な諸概念あるいは諸定義を、離れて存するものとはしなかった。しかるに、あの人々は、それらを切り離した、そしてそのように切り離されて存するものどもをイデアと呼んだ。」(P.449)
(一)(二)(三)
「さらにまた、(四)かれらがイデアを存在すると主張するゆえんの予想に従えば、ただたんに実体〔基体〕にだけでなく多くの物事〔属性〕にもそれぞれのエイドスがあるということになる、」(P.450)
「だがこうして、(b)この世の実体〔感覚的個物〕を指し示すその同じものが彼方のそれ〔永遠的実体〕を指し示すのにも用いられねばならなかった。」(P.451)
註
第五章 イデア説批判の続き、 イデアの想定は、感覚的事物の転化を説明しえない。
註
第六章 (三)数を感覚的事物から離れて存在する実体であるとし、感覚的事物の原因であるとする諸見解について。数学的の数は比較可能的であること。イデアと数学的数との両種の実体をあげるプラトンの説と数学的の数のみを実体とするスペウシッポスの説その他につての検討。
註
(4)「だいたい、種において同じものども(種の差別のない、άδιάφορος なものども)は互いに他と συμβλητός (比較可能的・加算可能的)であると言われ、種において異なる者どもは互いに他と ἀσὐμβλητος (比較不可能・加算不可能)であると言われる。たとえば二と三または二尺と三尺は互いに比較することができ寄せたり引いたりすることができるが、二尺と三貫目またはエイドス的の二と数的の二または三とは加えることも比較することもできない。ただし、寄せることの可能なものどもは、引くことも掛けることも割ることもできる関係にある。したがって、一般には、二つのもののうちの一つが他に対して互いに加・減・乗・除のできる関係にあるとき(言いかえれば fraction として表しうるとき)、それらは互いに他に対して συμβλητός であると言われる。」(P.646)__fraction 破片、断片、小部分、ほんの少し、少量、わずか、分数、端数
第七章 プラトンの数論、とくにエイドス的数について。 各々の数をなす単位どもが相互に比較可能的であるべきなら、数学的な数よりほかにエイドス的の数はありえない。同じ数のうちの単位どものみが比較可能的であるとしても、エイドス的の数はありえない。
(A)(1)(2)(3)(a)(b)
(c)「かえって、あたかも二人〔人間ふたり〕がこれら両者の各々とは別の或る一つのものではないように、そのように単位どもの場合も必然的にそうなる。そして、これらが不可分割的のものだからといって、それがためにこれらになんの区別も生じはしない。たとえば、点は不可分割的なものであるが、だからといって決して二点〔点ふたつ〕がその二つの点の各々とは別の或る他の一つのものであるわけではない。」(P.463)
(d)
「また一般に、(e)単位どもを相互に差別あるものとすることは、どのように差別するにしても、不条理なことであり、作りごとである(ここに私が「作りごと」というのはある仮定に合致するように強いて作られたもののことであるが)。」(P.464)
(f)(α)(β)「ところでわれわれは、要するに一と一とで、たとえそれらが等しいものであろうと不等なものであろうと、二になると解している、たとえば、善いものと悪いものとであっても、人と馬であっても。しかるに、あのような説をなす人々は、二つの単位でさえも二になるとは考えない。」(P.465)__りんご一個とみかん一個で二個だと言えるか。
(g)(h)
「、すなわち、われわれがものを数えて「一、二、三、・・・」と言う場合、われわれはなにかを付け加えていきながら数えるのか、あるいは部分に区切りながら数えるのか、果たしてそのどちらかであるかという問題そのものを、さらに一つの難問にしているものと認めざるをえないであろうから。しかるに現にわれわれは、そのどちらの数え方をもしているのである。だから、この差別をさらにさかのぼって重大な実体の差別にまでも持ちこむことは、笑うべきことである。」(P.466)
註
(16)「「単位的な数」( μοναδικός ἀριθμὸς )というのは、本巻第六章 1080a19 にもみえるように、古いピュタゴラスの徒が大きさのあるもの(たとえば小石)のように表象していたところのいわば幾何学的な単位からではなく、大きさをぬきにした抽象的な、いわば算数学的な単位から成る数。」(P.650)__小石を点とする非ユークリッド幾何学。ペアノの整数。りんごの幾何学とみかんの幾何学。「幾何学を知らざるもの、この門をくぐるべからず」。幾何学を知らざる者,入るべからず。(αγεωμέτρητος μηδείς εισίτω.)
第八章 スベウシッポスやピュタゴラス学徒などの実体としての数の論にもプラトンのと同様の難点がある。ふたたびエイドス的の数の説に対する反論、 いかにして数の諸単位が不定の二から生成しえようか、数の系列は無限家有限か、一それ自体がいかなる実体でありえようか。
「というのは、あの一には性質はないし、あの二は量を作るものであるから。けだし、この二なる本性は事物が多であることの原因であるから。ところで、事実はこのようではなくて、なんらかちがっている。」(P.467)__りんご二個とみかん二個は量的に同じか、性質において同じか。
「さて、もしこのように数が、それ自体で存するなにものかであるとされるかぎり、必然的に上述のいずれかで存在すべきであるならば、しかもこれらのいずれの仕方ででも存在しえないとすれば、明らかに、数は、(FF)数を離れて存するものとする人々の作りあげているようなそのような実在性をもつなにものでもない。」(P.469-470)
(一)
(二)「だがしかし、(1)数が無限ではありえないということは、明らかである。なぜなら、(a)無限の数は奇数でもなく偶数でもないが、数の生成は常に奇数の生成であるか偶数の生成であるかのいずれかだからである(略)」(P.471)
(b)
(2)(a)(b)(c)(b)(たぶん(d))(f)
(三)「、すなわち、果たしてどちらが先か、あの一が先か、それとも三とか二とかのような数のほうが先か?ところで、数が〔諸単位の〕複合体であるかぎりにおいては、あの一のほうが数よりも先であるが、しかし、普遍的〔全体的〕なものまたは形相が先であるという意味では、数のほうが先である。というのは、諸単位の各々が数の部分であり、その質料に相当するものであるとすれば、数そのものはそれらの形相に相当するものだからである。(中略)だからして、質料としての意味では、鋭角または構成要素または単位のほうが先であるが、その形相においては、すなわち説明方式としての実体においては、直角のほうが、または質料と形相とからなる全体のほうが、先である。(中略)だた、不可分割的と言えば、普遍的〔全体的〕なものもそうであるが、また部分的〔特殊的〕なものや構成要素も不可分割的である。しかしそれらは互いに異なる仕方で〔原理または始まりな(FF)の〕である、すなわち、前者はその説明方式において〔原理なの〕であり、後者は時間的関係において〔始まりなの〕である。(中略)なぜなら、一方〔普遍的なものや数〕は形相として実体としてであり、他方〔構成要素や単位〕は部分とし質料としてであるから。」(P.473-474)__Nota Bene!!
「(略)例えば二なる数をなすところの単位どもの各々は、ただ可能態において存在しているだけで、完全現実態において存在しているのではないのである。」(P.474)
註
(1)「この問題についてのアリストテレス自らの見解は、数のあいだには差別があっても、それぞれの数をなす単位どものあいだには差別はない(したがって比較可能的である)と言うにある。」(P.650)
(16)「この一節の意味は、 大きさは不可分的なものどもからは成りえない、単位的(数学的)な数は不可分な単位どもから成る、したがって大きさのある物体は数(算術学的な数)からは成りえない。ところでピュタゴラスの徒は、かれらの数に関する諸命題(算数学的諸定理)を直ちに大きさのある物体に適用している(換言すればその算数学を幾何学に適用している)が、それはかれらがそうした物体を数から成りうると解したからであり、そう解しえたのはその数を大きさのある存在と考えていたからである、との意。」(P.651)
(26)「かれらの前提によれば、イデアは限るもの(限定する原理)であるから。」(P.652)
(37)「一または単位が「位置のない点」( στιγμή ἄθετος )と定義されたのに対して、点は「位置をもつ単位」( μονὰς θέσιν ἔχουσα )(『霊魂論』第一巻第四章406a6)と定義された。」(P.653)
第九章 数学的諸対象、とくに点・線・面・立体など(幾何学的諸対象)の生成の原理に関する諸見解の検討。数を一と多さとから生成するとする説、大きさを一と多さとから生成するとする説などの批判。エイドス的の数に対する批判の総括。ふたたびイデア論について。イデア論者は結局、イデアを普遍的なものだとすると同時に個別的なものであるとするものである。
(四)(1)
(P.476)__「ない」をいくら足しても、掛けても(何倍しても)「ある」にはならない。だから「ない」は存在ではない。存在しない。be動詞の二義性。静止がないなら動きもない。
(2)(a)
(b)「すなわち、面は線を含んでいないということになるか、あるいは面は線であるということになるか、そのいずれかであるから。」(P.477)
(五)(1)(2)(3)
(4)「なぜなら、数は不可分割的なものども〔諸単位〕から構成されるが、諸々の大きさはそうはいかないから。」(P.479)__単位は不可分割だから。
「かれらは、感覚界の個別的事物は流転していて、それらのなにひとつも同一に止まるものはないと考え、そして普遍的なものはそれらよりほかに存在し、それらとは異なるものだると考えた。もっとも、こうした考えを誘発したのは、先の個所でも語ったとおり、ソクラテスその人であり、かれの求めた定義によってである。ただし、かれはその諸定義を個別的事物から切り離さなかった点では、かれの考えは正しかった。このことは、その諸結果からみて明らかである。というのは、もちろん普遍的なものなしには認識はえられないが、これを個別的事物から切り離すことは、あの困難な諸結果がイデアに関して生じてくることの原因であるからである。(中略)あのように〔個別的事物について〕普遍的に述語されるものどもを離れて存する実体であるとした。その結果、普遍的なものと個別的なものとはほとんど同じ本性の実在だというようなことにならざるをえなかった。」(P.481)
第十章 実体をどのような意味で離れて存するものとすべきか。諸実体の原理はどのような意味で普遍的であり、どのような意味で個別的であるか。
(1)
「しかし、(2)もしこうした諸原理〔または構成諸要素〕を普遍的なものであるとすれば、これらから構成される実体も普遍的なものであるということになるか、あるは実体でないもののほうが実体よりも先であるという〔不条理な〕ことになるか、そのいずれかである。」(P.483)
(a)
(b)「というのは、「認識」というのにも、「認識する」というのもそうであるように、二つの場合、すなわち可能態におけるそれと現実態におけるそれとがあるからである。ところで、可能態は、質料として、それ自ら普遍的であり無規定的であるとともに、普遍的なものや無規定的なものに関するものであるが、現実態は、それ自ら規定されたものであるとともに規定されたものに関するものであり、それ自らこれなる或る特定のものであるとともにこれなる或る特定のものに関するものである。ただし、付帯的には、視力〔の現実態〕も普遍的な色を見る、という意味は、その見ているものはこれこれの特定の色であるが、この色も一種の色〔普遍的な色の一つ〕だからである。」(P.484)__〜がある、と、〜である。
Ν 第十四巻
第一章 原理は反対的に対立するものではありえないこと。プラトン学徒はその原理を反対的に対立するものであるとし、その一方を質料(不定の二)であるとした。この説の諸形態。一と多さについての解明。
「すなわち、(a)その或る人々は、大と小とを一とともにあげ、これら三つが数の構成要素であって、これらのうちの二つはその質料であり、一はその形式であるとしており、(b)或る他の人々は、大と小は、その本性上、数のというよりもむしろ大きさの構成要素たるにふさわしいとの理由で、多と少をあげており、さらに、(c)或る他の人々は、むしろこれら〔大と小及び多と少〕に共通する普遍的なものが、すなわち超過したものと超過されたものとが、それだとしている。」(P.487)
(1)「、すなわち性質の場合には或る一定の性質が、量の場合には或る一定の量が(そしてその尺度は、性質の場合にはその種において不可分割的であり、量の場合には感覚に対して不可分割的である)、そしてこのことは、一がそれ自体ではいかなる事物の実体でもないということを指し示している。」(P.488)
「尺度は常にこれで測られるあらゆる事物にあてがわれうる或る自己同一的なものではなくてはならない。」(P.489)
(2)「けだし、(a)それらは数または大きさの(すなわち、多と少は数の、また大と小は大きさの)基体ではなくてある様態であり付帯的属性である、あたかも奇と偶、滑と粗、直と曲がそうであるように。さらに、この誤謬に加えるに、また(b)およそ大と小とやその他のこのようなものは、関係的なものであらねばならない。しかるに、関係的なものは、あらゆる事物のうち、或る実在または実体であることの最もすくないものであり、性質や量よりも後のものである。そして、関係的なものは、すでに語られたように、量のある様態であって、質料ではない。」(P.489)
「、ただ関係に関してのみはこれに特有の生成・消滅または運動が存しないという事実である。すなわち、量に関しては増大と減少があり、性質に関しては変化があり、場所に関しては移動があり、実体に関しては端的な生成と消滅があるのに、これらに相応するような生成・消滅または運動が、関係に関しては存しない。」(P.490)
かん‐けいクヮン‥【関係・関繋・管係】
〘 名詞 〙 二つ以上の物事が互いにかかわりあうこと。また、そのかかわりあい。
① ( ━する ) ある物事が、他の物事に影響すること。また、その影響。
[初出の実例]「天下の大事に関係した者は」(出典:史記抄(1477)一五)
「職業の貴賤は、人品の高下に関係せざる事を知るべし」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉九)
[その他の文献]〔鶴林玉露‐一五〕
② ( ━する ) ある物事が、他の物事につながりを持つこと。また、そのつながり。
[初出の実例]「此事於二吾道一関係尤為レ大焉」(出典:藤樹文集(1648頃)四)
「イヤイヤどうでも医業に関係(クヮンケイ)しておっては」(出典:安愚楽鍋(1871‐72)〈仮名垣魯文〉三)
③ 人と人との間柄。かかわりあい。
[初出の実例]「しかし君と我輩とは親友の関繋(クヮンケイ)ぢゃ無いか」(出典:浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉二)
④ ( ━する ) 男女が肉体的な交わりをすること。情交。
[初出の実例]「笹村はそも何時(いつ)頃から夫人と関係して居たのであらうか」(出典:地獄の花(1902)〈永井荷風〉一四)
⑤ ( 多く名詞の下に付けて ) その方面。そういう分野。「教育関係の仕事」「繊維関係の会社」
⑥ 集合A、Bの直積 A×B の部分集合のA、Bに対する称。すなわち、A×B の部分集合Rを、Aの元とBの元との関係という。A×B の元(a, b)は、Rに属するとき、関係Rにあるといわれる。AとBとが等しいときは、Aの上の関係ということがある。
関係の語誌
( 1 )中国、宋代以降の口語語彙と思われる。
( 2 )中世以降、日本でも「史記抄」などの抄物では中国の用法に沿う①の意の例が見られる。しかし、幕末に、蘭学系統の人たちが②の意味に用いはじめ、その後、「哲学字彙」を経て定着した。(精選版 日本国語大辞典)
(c)「しかし、この関係的なものは、その可能態においても現実態においても実体ではない。だからして、実体でないものを或る実体の構成要素としたり、実体よりも先のものとしたりすることは、不条理である。あるいはむしろ不可能なことである。なぜなら、実体以外の叙述形態は〔関係のはむろんのこと〕すべて実体よりも後のものであるから。」(P.490)
註
第二章 永遠的な実体は構成要素から成るものではありえないこと。プラトンの任務は、パルメニデスが存在の唯一性を唱えたのに対して、その事実上の多様性を説明するにあったが、一と不定の二ではその説明はできなかった。エイドス的の数も数学的の数も離れて存する実体ではありえないということについて。
(3)「というのは、〔もしこのことが可能であるならば〕永遠な事物が質料をもっていることになるからである、なぜなら、およそ構成要素から成るものは〔質料と形相の〕結合体だから。ところで、なにものかから構成されて存在する事物は、たとえその事物が常に〔永遠に〕存在するとしても、いつか生成した事物であるかぎり、かならずこのなにものかから生成したものであらねばならないからして、そして、およそ事物の生成するのは、それが生成すればその事物であることの可能なあるもの〔可能的な存在〕からであるからして(というのは、そうあることの不可能なものからは、なにも生成しないであろうし、また〔それ(FF)から構成されて〕存在しもしないであろうからである)、」(P.491-492)
「そうだとすれば、限りない時間を通じて存続しうるものもまた、そのとおりである。それゆえに、〔このような可能的な存在は〕永遠な存在ではないはずである、もしも(他の諸論文でもたまたま論究したように)存在しえないこともありうるようなものは永遠なものではないとすべきであるならば。」(P.492)__確率的に存在するものは永遠ではない。進化論の自然選択。「さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎはなねる<->はねるはうさぎ」 The rabbit jumps. Rabbits jump. A rabbit jumps. Jump is Rabbit. Jump is the rabbit. The jump is the rabbit. The Beatles.
「すなわち、かれらには、もし誰かが「あるものがあらぬということ、このことはどのようにしても証明されない、」というあのパルメニデスの命題を論破しないでこれに歩調を合わせるならば、あらゆるあるもの〔すべての存在〕が一つであり、この一がすなわち存在それ自体であるということになると思われ、したがってかえってむしろ、あらぬもの〔非存在〕のあるということを証示する必要があると思われた。」(P.493)
「だがしかし、(1)まず第一に、もし「存在」というのに多くの意味があるとすれば(すなわち、或る場合には「実体」を意味し、或る場合には「性質」を、或る場合には「量」を、その他そうした述語諸形態を意味するが)、」(P.493)
(2)
「だが実はそうではなくて、非存在というのにも、その諸様相においては述語諸形態の数と等しく多くの意味があり、さらにその他に偽としての非存在があり、また可能態における存在も〔現実的には〕非存在であるからして、諸存在の生成はまさにこの意味での非存在〔すなわち可能態における存在〕からである。すなわちたとえば、人間は、〔現実的には〕人間ではあらぬものから、だが可能的には人間であるものから、生成するのであり、白は、白でないものから、だが可能的には白であるものから、生成するのである、そしてこのことは、それから生成するところの存在が一つであろうと多であろうと同じことである。」(P.494)
「そこで必要なことは、先にもわれわれの言ったように、これらの各々に対してそれぞれの可能態における存在を仮定することである。」(P.496)__確率。
註
(3)「およそ構成要素をもつものは複合的である、複合的なものは質料をもつ、質料をもつものは存在しないことも可能である、存在しないことも可能なものは永遠的ではない、ゆえに、構成要素をもつものは永遠的なものではない。」(P.658)__在るもの(ここでは質料)は不在(ないこと、在ることの欠除態)が可能である。構成要素をもたないアトムは永遠である。
(15)「もしプラトンが或るものを「これ」と言われる個物と解したりまた同時に「これのような」と言われる類的・普遍的な実在(すなわちイデア)とも解するようなことさえしなかったならば、の意。」(P.659)
第三章 数を実体であるとする諸見解に含まれる種々の難点について。ピュタゴラス学徒は数学的諸対象を永遠的なものであるとしながらそれを生成するものであるとしている。
(a)(b)
(c)「ところで、ピュタゴラスの徒は、この点ではなんらかの非難されるところもないが、しかし、かれらが数から自然的な諸物体を作り出した点では、すなわち、重さや軽さをもたないものから重さや軽さをもつものを作り出した点では、かれらは或る他の天界や諸物体について語っているかのようで可視的な天界や感覚的な諸物体について語っているものとは思われない。しかし、数を離れて存するものだとする人々は、数学上の諸公理が感覚的事物の場合には妥当しないからとの理由で、しかも数学上の諸命題は真実であり霊魂におもねるがゆえに、数を存在するものであり離れて存するものであると想定している。」(P.499)
(d)「けだし、(ⅰ)(FF)これらの諸極限は実体ではなくて、かえってむしろこれらはすべて〔或る他のものの〕限界である。」(P.499-500)
「、(ⅱ)仮にこれらを実体であるとしても、これらはすべてこの感覚界の諸事物の実体であるはずである(なぜなら、この説はこうした事物の場合に適用されるのだから)。そうだとすれば、なにゆえにこれらが離れて存するものでありえようか?」(P.500)
(B)
註
第四章 事物の構成要素または原理と善や美との関係について。原理は善であろう、しかし善は実体ではなくて述語なのではないか。もし一と不等(大と小)とが原理であるなら、一は善で不等は悪か、しかし原理は善ではないか。善は原理か、原理からの結果か。
「(というのは、常に〔永遠に〕あるものより以前にはなにものもないからであるが)、」(P.503)
(C)
註
(21)「善の実現される場(すきま)または可能的質料の意。プラトン『ティマイオス』52A-B、『自然学』第四巻第二章209b11、本巻次章註(三)参照。」(P.663)
第五章 またかれらは、諸々の数をいかにしてかれらの原理・構成要素から生成させうるか。また数がいかにして他の存在諸事物の原理でありうるか。要するに数は、いかなる数にせよ、事物の始動因でもなく、質料でも形相でもなく、目的でもない。
「同じくまた、もしひとが、動物や植物などの場合、不定で不完全なものどもから多く完成したものの生じるのが常であるという事実から、全宇宙の諸原理をこうした動物や植物の諸原理と比較して考えるならば、 しかもそのひとは、まさにこの事実を根拠として、第一のものどもの場合でも事情はその通り〔不完全なものから完成したものへ〕であると唱え、したがって一それ自体はいまだなんらの存在するものでもないとするのだが、 もしこう考えるなら、諸原理や諸実体のことは正しく把握されてもいない。というのは、実は、この動物や植物の世界でもそれらを生み出す諸原理は完成したものだからである。けだし、人間が人間を生むのであって、たね〔精子〕が第一のものなのではないから。」(P.506)
(D)
「果たしでそれは(1)混合によってか?そうではないであろう、なぜなら、(a)必ずしもすべてのものが混合可能なものではないから。また、(b)混合によって生じたものはその構成諸要素とは異なっているが、そうすると一はその構成諸要素から離れて存するものでもありえずまたそれと異なる実在でもありえないということになろうから。しかもかれらは一がそうしたものであることを欲しているのに。
そうではなくて、(2)結合によって(たとえば、語節がそうであるように)であろうか?だが、もしそうだとすると、(a)それ〔語節をなす字母、すなわち実は数の構成要素〕が或る位置をもたねばならなくなり、そして(b)数を思惟する者は一と多さとを話して思惟しうることになろう。そうなると、これが、すなわち単位と多さとが、また一と不等とが、数であるというようなことになる。」(P.507)__位置をもたない数(集合)と、位置(関係)をもつ集合。
「けだし、できた事物に内在する構成要素からであるのは、ただ生成によってできた事物の場合だけである。」(P.508)
(E)
「だからして、数は、一般的にいう数にしても単位的な数にしても、事物の能動的原因ではなく、またその質料でもなく、比〔または説明方式〕でもなく、形相でもない。いわんや、目的としての原因でもない。」(P.509)
註
(6)「混合( μῖξις )と結合( σύνθεσις )とのちがいは、いわば化学的な結合と機械的(力学的)な結合とのちがいである。」(P.663)
(8)「種子というのに二つの意味がある。その一つは、普通にいう植物のたねのように、それのうちでそれから生成するもの(すなわち植物)の雄的要素と雌的要素とが結合されており、それから生成したものにおいてはそのものに内在するそれの構成要素であるとも言われるような意味での種子であり、もう一つは、植物の花粉または動物の精子のように、それによって生成するものの雄的すなわちそのものの生成の始動因とし形相因としての意味での種子である。アリストテレスが「種子から」というのは、多くの場合、この始動因・形相因としての原因から、の意であり、いまここでもこの意味においてである。」(P.664)
第六章 数を事物の原理としてなんの役に立つか。ピュタゴラス学徒の数論(数の思弁)について。かれらの考えた数と事物事象との関係は、比喩的・空想的であって、そこには原因結果の関係は存しない。結語。
「、すばる星座の場合は、その星を七つあるとわれわれが数えるがゆえにであろう(現に熊星座のはわれわれはこれを十二あるとみており、他の人々はどちらの星座をももっと数多くあるとみている)。」(P.511)
「それゆえに、これらは偶然の一致と思われる。」(P.512)
「、数学的諸対象が、かれらのうちの或る者の言っているような感覚的諸事物から離れて存するものではないということの、またそれらがこれら諸事物の原理でもないということの、証拠であると思われる。」(P.513)
〔完〕
註
訳者解説
一 アリストテレスについて
二 アリストテレスの著作
三 『形而上学』の成立と構造
「、この本が、一つの計画のもとに一つのまとまった全体として著述されたものとしては、あまりにも異様な構造をもっているのに気づかれるであろう。(中略)現在この本に集められているところの諸論文は、最初から計画的・組織的に一つの全体として、その各論文はその全体の有機的部分として、執筆著述され一つの本の諸部分であったのではなく、もともとはかれの後半生の或る幾つかの相異なる時期に、相異なる機会に、それぞれ多かれ少なかれ別々に執筆され、しかもその或るもの(またはその或る部分)は他のものの原案とされ、またその或るものは他のものの略述、詳説または反復でもあったりするところの、或る幾つかの論文ないし講義用の草稿の類であり、」(P.687)
(P.692)__形而上学の編者は、私のように、後で使うかもしれない、後で見るかもしれない。意味や価値は、自分ではわからないから、使う人、後世の人、未来の自分のために、草稿でもメモでも、残しておこうと思った。アリストテレスや芸術家はそうは望まなかったであろうが。デュシャン、再作成、私(わたし)的だから好き?
「、他方、アカデメイアに対抗するリュケイオンの学頭として、当時ますます数学を偏重し抽象的な数を実体化し神秘化する傾向にあったアカデメイアの連中を相手に、いまこのΜの巻で論争の火ぶたを切っているとも言えよう。」(P.697)
「ア(FF)リストテレスは(本訳書第二巻第一章の訳者註(3)でも見られるように〕しばしばその聴講者に対して、「われわれにとって先のもの」「われわれにとってより多く明らかなもの」から「それ自体において(自然において)先のもの」「端的(絶対的)に明らかなもの」へと進むのが学習・研究の正しい道であると注意している。そこで、おそらくその後のリュケイオンでも、学祖のこの学習上の心得が守られて、第一の哲学は、まずわれわれにとってより多く明らかな感覚的・自然的な物事についての学習(自然学=第二の哲学の学習)を終わってのちに、自然学のつぎに、学習さるべきものとされていたのではあるまいか。」(P.700-701)
「なお、われわれの日本語では、明治時代から「形而上学」と訳されているが、これは、自然的・感覚的なもの(具体的な形のあるもの)を超越した超自然的・超感覚的(形より以上のもの)というこの中世スコラ以来の意味応じて訳されたもので、『易経』の繋辞伝に「形而上者謂之道、形而下者謂之器」(形より上のもの、これを道と言い、形より下のもの、これを器という)とあるのからとったものと言われる。」(P.702)
四 この『形而上学』の梗概
「、しかしこの学については、その定義も名称も確定的・最後的・一義的には与えられていない。そして、まさにこのように一定の名称も確定的な定義も与えられていなかったからこそ、やがてこの『形而上学』と呼ばれた本で求められていると認められた学が、この本の名称で「形而上学」と呼ばれるに至ったのである。」(P.703)
「あるいは、同じく中世のスコラ学者以来の存在学(オントロギア)としての形而上学、または今日なお学校の哲学概論などで認識論(認識主観・認識作用の側の研究)と対置される形而上学(認識対象としての客観的存在の側の研究)の萌芽は、」(P.703)
「さらにまた、ヘーゲルに始まり、マルクスとエンゲルスにより以来広く用いられている意味での形而上学または形而上学的 すなわち物事を動的・発展的・相互関連的に見る弁証法的な考え方に対置されるところの永遠不動的・固定的・個々独立的・機械的に見る見方・学説・思想態度としての形而上学または形而上学的 」(P.704)
「しかし、ΖΗΘなどのかれには、逆に弁証法的思考の萌芽、のみならず弁証法的唯物論の萌芽さえも、見える。すなわちそこでは、あらゆる存在が他の存在との連関において、そのあらゆる原因・条件から、考察さるべきだとすすめられ、あらゆる存在とその運動がその形相と質料との不離なる結合体であり、その可能態から現実態への転化であるとして理解さるべきだとされていた。」(P.704)
「、結局、回答の書ではなくて問題の書であるということである。」(P.705)
αの巻「それによると、自然(ピュシス、客観的真理)の探求は困難であるが容易でもある。けだし、なんぴとも、的確に真理を射当てることは不可能だとしても、全くこのことに失敗するというわけではなく、各人それぞれなんらかの真理を語っており、これら片々の真理の集積からすでにかなり多くの真理が現にされているからである。」(P.705)
Γの巻「まず第四章では、矛盾律についてはそれ以上の論証を要請すべきではないとのこと、あえて矛盾律を否定するものども(ソフィストたち)に対しては、その否定そのことの不条理・自己矛盾を弁駁的に論証しうるし、また弁駁的な仕方で矛盾律を擁護すべきであるとのことが説明され、(中略)、さらに第七章では排中律について説明され、これが先のと同様の仕方で擁護されている。そして最後の章には、必ずしもすべての立言が真なのでもなく偽なのでもなく、またすべての事物が静止しているのでもなく運動しているのでもない、という注目すべき発言がある。」(P.709)
Εの巻「、そして第一に付帯的・偶然的な意味での存在について、その意味やその原因が例証的に解明され、この意味である(存在する)と言われる物事についてはいかなる認識、いかなる学もありえず、したがって存在としての存在の研究(われわれの学)からは除外さるべきであるとのことが証示される。」(P.710)
「そして、まさにそれゆえに、この真であるという意味での存在は、本来の優れた意味での存在(思想外になる客観的事実としての存在)ではなくて、われわれ判断者の思想の或る様態にほかならないから、これも存在としての存在の研究からは除外されるべきであるとされている。
こうして、残る二つ、すなわち述語形態としての存在と可能的または現実的な存在とが、第一の哲学の研究対象ときめられた。」(P.710)
Λの巻「、簡単にはこの一巻だけでアリストテレスの哲学体系ないしはその世界観の大要がうかがわれるが、さらにそれれを、その前半についてはΖΗΘでその後の発展を比較し、その後半(超感覚的な実体についての諸説)についてはΜΝでの批判的追加と比較しながら、読まれることが望ましい。」(P.711)
ΖΗΘの巻「さきのΕの巻で残された自体的な(付帯的でない)意味での存在 述語形態としての存在と可能性とし現実性としての存在 が研究されているが、」(P.711)__これがこれである(存在する)ためのこれ(理由)、これがこのようにあるためのこれ(形相)性質。
「たとえば、本訳書で「実体」と訳さrている原語 οὐσία のごときがそうである。この語は、一方、すでに自然学者たちからソクラテスやプラトンを経て後のアリストテレスの時代には、かなり多義的な(含みが多いだけに曖昧な)語になっていたとともに、他方、まさにその多義性のゆえにいま始めてこのアリストテレス自らの「実体研究」によってその多義が分析され、そして結局、後世のわれわれの訳して実体・基体・主語・本質・形相・質料・等々と呼ぶところの 'substantia', 'substratum', 'subjectum', 'essentia', 'forma', 'mareria', etc. の別々の術語で表される諸概念に分化するにいたる(FF)ところの多義を含む一語なのである。」(P.712-713)
「、原文の 'τίς ἠ οὐσία' (英訳では 'What is substance ?')を「実体とはなにか」と邦訳したが、 こう訳してはすでに問題はないようなものの、実は、このギリシア語原文では、のみならずそれに相応する近代欧州語でも、なんらかの微小詞( particle )でも加えて限定しないかぎり、少なくともこのままの文面では、日本語で区別されているような区別 「実体はなにか」(または「なにが実体か」)と「実体とはなにか」(実体の定義いかん)との区別 はつけられないのである。」(P.713)
「、これがプラトン以後、物事の「定義」とか「概念」とか「本質」とか「実体」とか「それ自体」とか「イデア」とかいう、かなり術語化された語で表されるようになったのである。」(P.713)
「だが、そうだとすれば、それは要するに「実体とはなにか」の研究であって、「実体はなにか」「なにが実体なのか」は問われもせず答えられもしなかったのであろうか。」(P.714)
「、すくなくともこのΖΗΘの著者としてのアリストテレスは、その期待に反して、「これが実体だ、この机が、この人が、たとえば君が、実体ではないか」とでも答えるであろう。そして、「これなるこの具体的な個物、これが実体である、そこでこれからわれわれはこの実体(これなる個々の事物)について一般にこれのなにであるか(本質)を、またそこに君の求める実体もあるのかどうかをも、探し出そうというのだ」と付言するでもあろう。
アリストテレスによると、およそ誰でも、自分がなにを探しているのか知らないでただ探すというようなことはなく、なにものかを探しているものは一応そのなにものかを知っていなくては探そうにも探せない。」(P.714-715)
「「その事物の第一の基体(それは「他の事物はそれの述語とされるがそれ自らは決したのなにものの述語ともされないそれ」と定義されるそれ)」であり、質量と形相との両者からなる「結合体」としての基体であり、そしてそれはまた「離れて存すること〔離在性・独立性〕とこれと指し示しうるものなること〔個別性・個体性〕とが最も主としてそれに属すると認められる」ところのそれなる「結合体」(具体的個物)であると言われている。
こうして、かれの実体研究は、これから出発する。すなわち、こうしたことしての実体を各人の感覚に直接自明な客観的実在(すなわち実体)として前提し、この実体の直観から出発する。しかし、これから出発してこれより外にこれとは別の或る実体をと探し求めてゆくのではなくて、まさにこれなる実体に即して、これの内に、これのなにであるか( τὸ τί ἐστι )を すなわちこれに内在するその本質、本質的要素、本質的諸属性、諸原理諸原因を 探し出そうというのであった。」(P.715)
「ただし、プラトンのしたようにその普遍的な実体を個物の外にではなく、かえってむしろ自然学者たちのしたようにそれを感覚的な個物の内に求め、したがってまたそれを、個物から離れて存するある普遍的なもの(多の上に立つ一者、イデア)であるとするのではなしに、むしろ自然学者の水とか空気のように個々の事物に内在する普遍的なものとするにあった。」(P.716)
「かえって、普遍と個物との関係については、アリストテレスのは、むしろ普遍概念を個物に内在するとする「概念実在論」( conceptualism )に近いと言えよう。」(P.717)
「、基本的には、形相を質料よりも優位に捉え、始動因よりも目的因を、可能態よりも現実態を優先させたこと、結局、形相・概念・精神が根源的・支配的であって質料・物質・自然は第二次的・従属的であるとしたところにある。」(P.718)__人間が考えている(言葉で考えている)のだから、そのバイアス(と言っていいのかどうか)をどう見るか。人間や言語をカッコの中にいれること、それはできない。カッコも、言語や人間を外しても、他の言葉は残るから。
「、この場合、ほとんど常に、形相を質料よりも、また現実態を可能態よりも、より多く本質的なもの、より多く優れて尊いものであるとし、前者は規定し統括し支配するもの、後者はそれだけでは無規定・無秩序で隷属的なものとみられている。この見方は、すでに現に一定の形をもち・規定され・秩序づけられ・完成しているもののほうが無定形・未規定・未完成なものよりも優れたものと見る常識的・現実主義的な考えによるものであるが、それは同時に、作ること・作る者・作られる素材よりもそれで作られた結果を使用し享楽しながら作ることや作る者どもを見さげる優者(アリストイ、貴族)・支配者階級の思想に通じるものである。」(P.718)
「、人間は理性的霊魂(形相〕と肉体(質料)との結合体であると言い、人間は理性的動物であると言う場合、人間においてその肉体よりも霊魂のほうが概念的にも目的観的にも優先的であり根源的であるだけでなく発生論的にも時間的にも先であり根源的であると考え語ることは、かれには容易であった。」(P.719)
<書き抜き終わり>