まえがき
「現代、戦後もうすでに五十年あまりたって、〈無我〉というのは、特に若い世代にとって関心のある概念ではなくなっているのかもしれないが、少なくとも戦前は、いわば到達すべ(FF)き人間成長のもっとも高い段階として、「自我か、無我か」、どちらが理想なのかという問題は非常に大きなものだった。そして戦後の、思想界、文学界、広く言えば言論界では、いわば「自我派」と「無我派」に分かれて対立を続けてきたままであると言っていいのではないだろうか。」(P.4-5)
序章 自我か、無我か 日本の精神史百年の葛藤
〈自我〉と〈滅私奉公〉の混同 聖徳太子『十七条憲法』
一曰。以㆑和爲㆑貴。无㆑忤爲㆑宗。人皆有㆑黨。亦少㆓達者㆒。是以或不㆑順㆓君父㆒。乍違㆓于隣里㆒。然上和下睦。諧㆓於論㆒㆑事。則事理自通。何事不㆑成。
二曰。篤敬㆓三寶㆒。三寶者〈佛法僧也。〉則四生之終歸。萬國之極宗。何世誰〈一作㆑何〉人非㆑貴㆓是法㆒。人鮮㆓尤惡㆒。能敎從㆑之。其不㆑歸㆓三寶㆒。何以直㆑枉。
十五曰。背㆑私向㆑公。是臣之道矣。凡〈一有㆓夫字㆒〉人有㆑私必有㆑恨。有㆑恨必非㆑固。〈一作㆑同〉非㆑固〈一作㆑同〉則以㆑私妨㆑公。恨起則違㆑制害㆑法。故初章云。上和下睦。〈一作㆓上下和睦㆒〉其亦是情歟。(Wikisource)
一曰く、和をもって尊しとし、逆らわないのを教義とせよ。人は皆、群れるし、また頭の達者な者は少ない。 それゆえ、あるいは父たる天皇に従わず、背くにおいて隣の里。しかれども、上が和らぎ下と睦まじく、戯れにおいて事を論じれば、すなわち事の道理は自ら通じる。何事においても成し遂げられないことがあろうか[注釈 5]。
二曰く、篤く三宝を敬え。それは仏、法、僧である。すなわち総ての生物の終わり帰るところであり、すべての国の頂点の教義である。どういう世であれ、どのような人であれ、この法を尊ばざるを得ない。高くがなく低姿勢が良いとする法。この鮮やかに優れる悪の働き。教えると従うに至る。この三宝で二度と帰ってこない。無駄に真っ直ぐ。
十五曰く、私心に背を向け政務が、臣下の正しい道である。凡人は私心が有り、必ず恨みがある。怨みが有れば必ず同じではない、同じでなければ、すなわち私をもって政務をさまたげる。怨みが起き、害法の定めに従わない。ゆえに最初の章で述べた、上下の調和、そのわきに正しいと定めた情の安らかな気。(Wikipedia)__臣=つかえるもの。十七条憲法は民に対するものか臣に対するものか。臣=公務員に向かって書いたものではないか。民は、君でも臣でもない。
「仲良きことは美しき哉(かな)」は、武者小路実篤の言葉で、「人々が仲良く助け合って生きることは美しい」という意味です。
仏教者たちの戦争協力
「要職・重職についていた仏教界のリーダーたち、管長、宗務総長クラス、それに加えて仏教関係の大学の教師たちも、ほとんど例外なく、積極的戦争協力を語っている。」(P.21)
「君臣一体の極致は滅私である」
時代の意識水準
「日本では、西洋の影響を受けて明治の自由民権運動や大正デモクラシーがあったとはいっても、敗戦を経てようやく、なかば強制されてそうした意識水準に達したのだから、戦前、まだ集団と個人を「差異化( differentiation )」、あるいはもっと平らな言い方をすると「区別」できなかったことは、やむをえないという面がある。」(P.26)__「区別」の意味。
戦後の個人主義とミーイズムの蔓延
滅私奉公の復権?
第一章 手がかりとしての唯識とウィルバー思想
インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル本書は、2002年にトランス・ビュー社から発行された『万物の理論――ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで――』(絶版)を復刊したものです(原著: A THEORY OF EVERYTHING by Ken Wilber, 2000)。
*復刊にあたり、全面的に訳を改め、邦題を変更するとともに、監訳者によるはじめに、解説の追加および訳者による注の追加を行いました。
なぜ二つだけを選択するのか
私にとっての思想的モチーフ
「いわゆる「戦後世代」であり、戦後民主主義の圧倒的な影響下で育ったのだが、プロテスタント・キリスト教の牧師の家庭だったため、早くから「原罪」という考え方に接しており、(FF)近代的な理性・科学・進歩への素朴な信頼や期待をそのまま受け取ることができなかった。」(P.37-38)
共産主義はなぜスターリニズムに陥ったのか
人間のエゴイズムと社会の行きづまり
「きわめて大まかな捉え方だが、筆者は、「自由主義とは、人間の私的な利益追求は当然のことだから権利として認め、そのうえで必要最低限の社会的な調整を考えようという社会システムだ」と考えた。」(P.41)
東洋的無我でエゴを超える!?
「自由主義であれ社会主義であれ、人間は原罪を抱えた存在であり、それゆえに戦争や環境破壊といった愚かな行為から、自分で自分を救うことはできないのだ、と。」(P.44)
無我ー滅私奉公ー戦争協力
覚りを開いても自我は消えない
発達心理学の視点
(ウィルバー)「そのときヒントになったのは、新生児についてピアジェが言っている「ここでは自己はいわば物質的なものである」という言葉だったという。」(P.50)
「ウィルバーの場合は、プレ・パーソナルからパーソナル、トランスパーソナルという整理のしかたをしている。」(P.51)
唯識との出会い
第二章 大乗仏教における〈無我〉の意味
唯識における〈無我〉と〈空〉
「まず、大乗仏教ー唯識では、〈無我〉という言葉と〈空〉という言葉は、まったく互換的に使われている。すなわち、同義語である。」(P.57)
「しかし仏教用語の〈無我〉は本来、もちろん人間のことも述べてはいるが、人間だけでは(FF)なく、「存在全体に実体がない」ことを語る言葉である。」(P.57-58)__「実体」の意味。
「〈二無我=二空〉とは、〈人無我(にんむが)〉と〈法無我(ほうむが)〉、あるいは〈人空(にんくう)〉と〈法空(法空)〉であり、〈人無我=人空〉とは、人間の個体性には実体がないことを意味し、〈法無我=法空〉とは、その他のすべての存在にも実体がないことを意味している。」(P.58)
〈空〉とは何か
「まず初めに簡単に言っておくと、〈空〉とは、すべての〈現実〉は、つながり・関わりの中で生滅する〈現象〉であって、たしかにある時、ある条件の下で、ありありと象(かたち)を現してはいるが、「それだけで、それ自身の本性を維持し、いつまでも存在するもの」という意味での〈実体〉ではない、ということを意味している。
ただ、〈空〉を語るときに注意しておかなければならないことは、第一に、〈空〉は坐禅・瞑想によって直接に体験されるべきもので、体験そのものは言葉で表現し尽くすことはできないということである。」(P.60)
「しかし第二に、表現し尽くすことはできないといっても、人に伝えるためには、何とか言葉にしなければならないので、体験した後で、いろいろな言葉で、ああでもない、こうでも(FF)ないと表現したものである。〈空〉という表現は、そういう体験を表現した代表的な言葉の一つではあっても、それだけで表現し尽くしてはいないということである。」(P.60-61)
縁起と空 それ自体で起こったいるものは何もない
「そういうふうに、すべては縁によって起こっているのだから、「それ自体で起こっているものは何もない」と言える。」(P.63)
無自性と空 変わることのない本性を持っているものは何もない
「そういうふうに、すべてのものの性格は、関係・縁によって決まるものであり、「変わることのないそれ自体の本性=〈自性〉を持っているものは何もない」。〈無自性〉である。それを言い換えると、〈空〉になる。」(P.63)
無常と空 永遠に存在し続けるものは何もない
「そうしたことが、「無常だから空である」と表現されている。いつまでも存在し続けることはできないのだから、〈実体〉ではない、つまり〈空〉である。」(P.66)
無我と空は同義語である
「もともと〈我〉とは、サンスクリット語の「アートマン」という言葉の中国語訳である。「アートマン」は、英語の「サブスタンス」に該当する言葉で、〈実体〉を意味する。」(P.66)
「つまり、〈空〉と〈実体〉とは反対語だと理解していいだろう。」(P.66)
一如と空 すべてのものはつながっている
「実体としての「個」は存在しない。無我・空である。しかし、それは、すべてが縁起・つながりによって起こっているものであり、結局は「一つ」だということでもある。
これは、言い換えると、ありのまま(=如)の全宇宙に起こっているものはつながりあっていて、結局は一つだということである。これを〈一如〉と表現している。」(P.68)
全存在、全宇宙は一体である
無我の二重の意味
〈無明〉と〈凡夫〉 自覚なき人々の意識状態
「そして、自分もほかの存在もすべて無我・空であることに無明である、普通の、平凡な人のことを〈凡夫(ぼんぷ)〉という。」(P.75)
〈無明〉から〈無我〉へ
「人間は、現段階では無明の存在だが、智慧の存在に変わることができる。そういう智慧を得た状態を〈覚り〉という。そして、智慧・覚りを達成した人のことを〈ブッダ〉という。」(P.75)
第三章 〈無我〉ではなく〈四智(しち)の主体〉
無私とスターリニズム
唯識における心の構造
「〈深層意識〉として、まず自分と自分でないものを分離していると錯覚したうえで自分に過剰に執着する〈マナ識〉という領域があり、さらにいのちといのちでないものを分離していると錯覚したうえでいのちに過剰に執着する〈アーラヤ識〉という心の領域があるというのである。
意識に五感・五識を加えて〈六識〉と呼ばれ、さらにマナ識とアーラヤ識を加えて〈八識〉と呼ばれている。」(P.82)
人間の執着する心 マナ識とアーラヤ識
「本音はエゴイストの指導者と献身的で無私な追従者の組み合わせは、しばしば悲惨な結果を招く。さらに、指導者と追従者のどちらもが本音はエゴイズム、建前は高遇な理想という人間からなる集団が、ほかの集団と敵対した時、いっそう恐るべき事態を招く。」(P.85)
八識から四智へ
「心のもっとも底の領域は〈アーラヤ識〉であるが、それが〈大円鏡智〉に変容する。これは一言で言うと、宇宙のありのままをそのまま完全に映し出す大きな鏡のような智慧、つまり空ということが心の底からほんとうにわかっている智慧ということだ。」(P.86)
「そういう他者と自己との一体性・平等性を覚る智慧を〈平等性智(びょうどうしょうち)〉という。マナ識は平等性智に変容しうる。そして平等性智の働きが〈慈悲〉なのである。
心の奥底から自分と自分でないもの、いのちといのちでないものが、実はまったく一つだということが分かると、当然ながら、そのことが意識的にもはっきり捉えられる。そういうすばらしい観察の智慧のことを〈妙観察智(みょうかんざっち)〉という。意識は、妙観察智に変容しうる。
無意識も意識も変容すると、五感も変容する。五感は〈成所作智(じょうしょさち)〉という智慧に変わる。これは「作されるべきことを成し遂げる智慧」という意味である。ごく自然に、見るべきものを見、聞くべきことを聞き、するべきことをすることができるようになるという。
このあたりのことを詳しく述べていると、唯識そのものの解説になって別に一冊分の本が必要になってしまうので省略するが、一言で言えば、空、縁起といったことが心の底から意(FF)識の表面まで全部わかったパーソナリティに人間はなれるのであり、そいうパーソナリティのことを〈ブッダ〉というのだ。」(P.88-89)
〈無我〉というより〈四智の主体〉
「その場合、生きた人間としての覚った人=仏には、身体や思考や意志は残り続ける(唯識には、人間としての身体を持った仏を〈化身仏(けしんぶつ)〉、イメージとしてのかたちを持った仏を〈応身仏〉、かたちのない仏すなわち空を〈法身仏〉と呼んで厳密に区別する「三身説」もあるが、ここでは必要以上に複雑になるので触れない。」(P.89)
「だから、〈自我〉という言葉を正確に定義すれば、覚りを開いて仏になっても、「身体をコントロールする思考や意志の主体」という意味での〈自我〉はなくなるわけではない。」(P.89)
「このアーラヤ識とマナ識は、現代的に言えば人類が人類になって以来ずっと積み重ねられてきており、個人としてもゼロ歳から今の年齢までずうっと作ってきたものだから、今日、空について何頁か読んで、読んだその時は納得しても、マナ識もアーラヤ識も変容などしないのだ。」(P.92)
段階を踏んだ覚りへの変容
「唯識を学んでもう一つ明快になったのは、8式から四智への変容はジャンプではないということだ。」(P.92)
「第一段階は、〈資糧位(しりょうい)〉という。迷いのこちらの岸から覚りの向こうの岸へと旅をするための資金や食糧にあたるものを集める段階である。
第二の段階は、〈加行位(けぎょうい)〉という。準備を終えて、本格的に修行を加えていく段階である。
第三段階は、〈通達位(つうだつい)〉という。ひとまず最初の覚りに到達した段階である。(FF)
第四段階は、〈修習位(しゅじゅうい)〉という。ひとまず経験した覚りを、さらに習い修めて完全に自分のものにしていく段階である。
そして第五段階が、〈究竟位(くきょうい)〉という究極の覚りの段階である。」(P.93-94)
覚るまでにかかる時間
日本の仏教が唱えた仏への道
〈自我〉と〈無我〉という表現の誤解
〈無我〉と〈無欲〉 欲望とは何か
「つまり、一般的な言い方をすれば、〈自然な欲求〉はあっていい、それどころかなければならない。それに対して、〈病的な欲求〉は自分にも他人にも迷惑をかけるものであって、あってはならないし、なくしていくべきである。」(P.102)
菩薩も仏も無欲ではない
〈無我〉と〈忘我〉 エクスタシーへの欲求
「〈エクスタシー〉という言葉の語源的な意味は「外に立つ」ということだが、私たちは社会(FF)の中で自力で生きることのあまりの苦しさや煩わしさに、何とか自我の外に出たいと思うことがある。自我の外に出たいという欲求、エクスタシーへの欲求は、人間にとって本質的な欲求の一つだろう。」(P.106-107)
「しかし筆者は、有害な〈忘我〉は、どんなに魅力的であっても、正当化することなく、否定し避けるべきだと思うが、自我の疲れを癒やすための一時的で無害な〈忘我〉は、人間にとって必要・不可欠なものであり、一定の意味と機能を持っていると考える。わざわざ〈無我〉と同一視・混同して意味づけようとする必要はないだろう。」(P.108)
ファシズム、カルトにつながる忘我の危険
無我は全宇宙との一体化である
第四章 自我中心性の克服としての発達
ピアジェーウィルバーの発達論
「詳しくはこれから述べていくが、重要なポイントをあらかじめ言っておくと、〈エゴ〉は、広い意味では、〈事故〉あるいは〈主体〉を意味しており、ピアジェの発達心理学の成果によれば、他者や周りの環境と自分を差異化・区別のできる〈自我・エゴ〉が確立されることによって、かえって「自我中心性(エゴセントリシズム)」が克服されるということである。」
「ピアジェは、子どもの認識の発達段階を四つに分けて捉えている。そしてウィルバーは、それをゲプサーという思想家が述べた人類の発達の段階と対応させながら、どのように自我中心性が克服されていくかを明らかにしている。」(P116)__文化によって、「発達の段階」なるものは異なると思う。「自我」も「社会」も異なるから。「人類の発達段階」を進化論のように「劣ったもの」から「すぐれたもの」だと捉えると大きな間違いが起こる。「犬・猫の進化論的発達段階」が無意味なのと同じように。環境も人間自体も変化しているが、たまたま西洋文化は見方によっては(特に物質的・技術的)には大きく変化しているが、それを「進化(前進・発達)」と捉えると、「冷たい社会」は「遅れた、劣等の、進化していない、前進しない、発達していない社会」ということになる。植物も同じ。西洋だって、「発達・発展・進化」がそのような意味を持ち、中身を伴わずに流行しているのは2・300年ではないか。それを「意識的に変えるべきだ」というのは恐ろしい「自社会中心主義・自己中心主義」ではないか。覚る人と無明の人という区別も同様に感じる。自分が覚っていないからそう思うのかもしれないが。
感覚ー運動期 自分と他者の区別がつく
「新生児は、心といっても感覚と運動だけの状態にあり、まだ自己と世界の区別ができてい(FF)ないと思われる。そういう意味では、世界と融合状態にあると言ってもいいが、しかしそれは分化したうえで統合されているというのではなく、単純に未分化であり、いわば混融しているのである。」(P.116-117)__言葉にできないもの、言葉にするときにそれがあると思えるもの、分かるということの根本にあるもの、あるともあらぬとも、言葉にしようがしまいが、当たり前のもの。当たり前だから、言葉にしようとも考えようともしないもの。わからないもの。
「赤ちゃんは、「自分の指をかむと痛い、毛布をかむと痛くない」というかたちで、運動ー感覚を通じて外の世界と自分とのちがいを知っていく、つまり差異化・区別していく。」(P.118)
戦後の民主教育が植え付けたものを否定して、父母の声を聞く。しかし、父母は忙しく祖父母もいない。自分も9年、12年、あるいは16年以上学校生活をしている。父母のかわりが教師であり、マスコミである。それらも戦後民主主義(標準語・文法)でできている。それは母語ではない。
「そして二歳の終わり頃になると、言葉を覚えるのと並行して、自分と他者や物理的な世界との区別がわかってくる。
そういうかたちで、心の中にお母さんとも物理的環境ともちがう「自分」が感覚ー運動的に確立されてくるのが、発達の第一段階だという。」(P.118)
前操作期 ものごとをコントロールする思考が身につく
「(略)「私は〇〇ちゃんだ」という自我の始まりの意識が次第に形成されてくる。」(P.119)
「それから自分と外界が混同されている状態では、世界は自分の感情や自分の欲望に対応してできているように感じられ、外界は自分の思いどおり・欲望どおりになるはずだと思われている。私がこういうことを思い、そしておまじないをすると世界はそうなるのだと思っている段階である。」(P.119)
「こういう段階の子どもがとても可愛いのは、たとえばイスにつまずいてワーンと泣いた時、お母さんがまず「悪いイスね。ぺんぺん」とイスをたたいて見せる。それから子どもの足をなでながら「痛いの痛いの飛んでけ」と言うと、それで気が済んで痛いのが治ってしまうことである。大人は、そういうのはただの子どもだましたと思うかもしれないが、大人自身がかつてそういう世界を体験してきたからそれができるのだ。」(P.120)__「悪いイスね」と言われたことがない。それは西欧文化の影響のような気がする。
具体操作期 他者の視点を推測できる
「以前の段階ではきわめてエロ中心的だったものの見方が、この段階になると次第に社会中心的・役割中心的になってっくる。そういう意味では、エゴ中心性が克服されつつあるのだが、また特定の社会・役割に強く同一化しているという。」(P.122)
形式操作期 自我の確定と自己中心性の克服
「こうしたあらゆる形式すべてを心の中で想定し、操作することができるような認識の段階を「形式操作」と呼ぶ。自我が確立する、大人になるというのは、認識のしかたとしてこうした形式操作が完全にできるようになった段階である。こうした発達は、平均的には十二歳(FF)くらいから次第に完成されていくという。」(P.123-124)
「これは人類の意識の発達とも対応しており、人類もまさに自我ー理性段階に達した時に初めて、ほかの民族やほかの階級の人たちの立場や考えを認められるようになり、ほかの階級やほかの民族の人たちと自分たちが同じ人間だということが見えるようになった。」(P.125)__これこそが問題だ!!
「ここでテーマに戻れば、「自我と無我」を対立する概念と捉えるのではなく、〈無我〉という言葉を「自我中心性を脱したパーソナリティ」と定義しなおせば、むしろ自我が発達する(FF)ほうが無我に近づいていくということになる。」(P.125-126)
形式操作とエコロジカルな認識
「さらにもう一点つけ加えておくと、形式操作ができるようになると、自我中心性の克服だけでなく、ものごとを「あれはああ、これはこうなっている」と差異化して捉えることができるから、差異化して捉えたうえで、それぞれがどういうふうにつながっているかを見ることもできる。」(P.126)__これはつけ加えではなく、別問題。私は形式操作ができないのかもしれない。
「たとえば、この森林がどのくらいの量の炭酸ガスを吸収し、酸素を発生させているか、したがって、それを伐採すると周りの人間やほかの生物の生活にどんな影響が及ぶか、といったことは、まさに理性・科学が確立しなければ認識できないことである。」(P.127)__確立しなければ認識できないのか。それでは永遠に認識できないだろう。その必要がなかったというのか。必要をもたらしたものこそ理性・科学なのではないか。それは理性・科学ではなくて「欲望」だというのか。覚りを開けば(たとえ科学がなくても)「認識」できるのか。
「〈無我〉に関して言えば、神話的に自然と自分が一体化しているという考え方の中で神話的行動をするよりも、理性的自我が確立し、自分と環境とがどう調和できるかを理性的に考(FF)えられるようになるほうが、より高次の調和を生み出す可能性がある。」(P.127-128)__なぜそう言えるのか、思えるのか。それこそが問題だと思う。唯識にそう書いてあるのだろうか。理性・科学の「発達」によって、より破壊的になる可能性もある。
歴史を変える理性的自我
「日本人が、「自分たちは自然を愛する民族だ」と思っていながら、「こんなに自然を破壊している民族はいない」と言われるような状態になった理由はどこにあるかというと、神話的な「母なる自然」といった観念を抱いていて、差異化されたかたちでほんとうの自然の認識ができていないために、「人間がどう手を加えればどう壊れる。だからどういうふうにしなければならない」という理性的な認識が、政治・経済を含む社会全体として十分確立できていなかったからだと言えるだろう。」(P.129)__それは理性で認識し、確立することか。
「これから、エコ・システムとの関係でほんとうに持続可能な社会を創り出していくためには、エコ・システムの認識が不可欠であり、されにそれにどう接していくのかという方法の認識や、それを実行できるパーソナリティや、社会システムをどう変えているかが問題になるが、それにはまず形式操作ーエコロジカルな認識のできる理性的な自我の確立が必要なのである。」(P.130)__だれが認識するのか。だれがそれを判断するのか。
ヴィジョン・ロジック段階 総合的理性
(P.131)__仏Aと仏Bは異なるか、区別できるか。多分Aが選ばれた状況とBが選ばれた状況がA・Bの存在(あり方)を決める。それは状況そのものである。
「その合理性の次の段階は「ヴィジョン・ロジック」と呼ばれている。たとえば早いところではすでにヘーゲルあたりで構想された、ただ部分部分を合理的に見るだけでなく、総合しながら全体を見渡していくような、より高次の理性のあり方、部分理性ではなく、総合理性的に世界を捉える認識のあり方である。」(P.132)
ヴィジョン・ロジックと人類の未来
「私たちはたいてい、私にとって合理的か、私の所属する組織にとって合理的かくらいまで考えるのが精一杯で、今、日本にとって合理的かを考える人でさえ少ない。まして、人類にとって合理的か、生態系にとって合理的かというレベルまでものを考える人はきわめて少ない。」(P.133)__「ヴィジョン・ロジック」はわからないけど、自然から「ロジック」を見つけ出す(引き出す)のではなく、人間の「ロジック」を自然に押し付けるということがわからない。
個人性を越えた発達段階
「ただきわめて合理的な論理を駆使して、合理性を超えた世界があることを語っている。」(P.136)
神話と靈性(スピリチュアリティ)
「このかけがえのない私が、しかもやがて消えてしまう私だという自覚に達する。そのとき、消えてしまわない永遠なるものを発見したいという思いが出てくる。その時にまさに、個人性・パーソナルを超えたトランスパーソナルな領域が開けてくるのである。」(P.137)__プラトン。
トランスパーソナルな体験の妥当性
「体験と意味内容を共有している人だけが、「イヌ」とか「イヌがいる」という言葉を有効に交換することができる。」(P.140)__「平和」や「平等」は?
「同じように、トランスパーソナルな領域についても、体験をしていない人がその言葉を聞いても意味をなさない。その人は、「それはある」とも「ない」とも言えないのである。」(P.141)
「ただし、トランスパーソナルな体験をした人々自体、「これは合理性の段階ではわからない」と言っているのだから、「合理性でわからない以上、それは存在しない」というふうに否定する権利は、実は合理性にはないはずなのだ。ただし、それが非合理かどうかは合理性の側で判断する権利がある。」(P.142)
スピリチュアルな発達の四段階
「まず〈心霊(サイキック)段階〉では、心の中に一種の光と力が降り注いてきて、すべてを包む大霊(オーヴァー・ソウル)がすべての存在の中にあって一つであること、すべての現れているもの・顕現、他者とか自然とか物理的な宇宙が自分と一体だということを体験する。」(P.144)
「それが本格的になったものを、ウィルバーは「自然神秘主義」と呼んでいる。」(P.144)
「つぎは〈微妙(サトル)段階〉と呼ばれ、感覚できるような自然との一体感からさらにその奥にある何者かとの一体感の段階があり、それを覚る段階である。
さらに〈元因(コーザル)段階〉と呼ばれる段階がある。微妙段階では、自分を超えたより大いなるものは対象として自分の向う側にあるのだが、この段階では完全に一体となって、「自分を超えたより大いなる何者か」といったことさえ言えないような一体感を体験する段階で、こ(FF)れは普通にいう〈覚り〉の段階である。
だがこれは、『般若心経』の言葉を使えば「色即是空」となった段階である。ところがほんとうの覚りは空になっただけで終わりではなく、「空即是色」ともう一度この世界に戻ってくることになっている。
最後の段階は〈非二元(ノンデュアル)段階〉と呼ばれ、いったん自分もすべてのものも、ありとあらゆるかたちが消えて一体化する段階があり、それから最後に、それとさまざまなかたちに現れているものとが別ではないことが自覚される。」(P.144-146)__覚れる素質を持った人だけが覚ればいいのか。
唯識との対照
不可欠な必要条件としての菩薩的パーソナリティ
第五章 全宇宙(コスモス)の構造
全体としての宇宙(コスモス)
「それを全部偶然だというふうに考えるのは、あまりにも幼稚な考え方だ。そうではなく、宇宙にははっきりとそこへ向かっていく方向性というか道というか、深層の秩序があると考えるほうがより成熟したものの見方だ」と言う。」(P.154)
「そうした生命固有の性質は、自己複製、自己維持を含めて「オートポイエシス」という言葉で表現されている。そうした「オートポイエシス」というものは物質だけの世界には見られない、生物の世界において始まった新しいことがらなのだ。そうした、それ以前にない新しいものが発生する状況は「創発的(エマージェント)」と呼ばれる。」(P.155)__自ずから作る。
「そうしたことを見ていくと、この宇宙は物質の複雑化・組織化があるレベルを超したときに、一種のジャンプを起こして、それまでになかったまったく新しい性質を持った〈生命〉を生み出し、その生命がある複雑化のプロセスを遂げると、ただ生命だけには還元できない〈心〉というものを生み出したと言えるだろう。」(P.156)
自己組織化能力 物質自体が新しい秩序を生み出す
「近代科学は、一九五〇年代までは一貫して、高次のものをより低次のものに還元すれば科学的であるかのように考えてきた。」(P.157)__ものを言葉にすることが、そのもっとも低次あるいは高次=抽象的なもの。
宇宙には明確な秩序と方向性がある
ホロンの階層 ホラーキー構造と全体
「ウィルバーは、科学思想家アーサー・ケストラーの用語を使って、そうした低次の部分に対しては全体であり、高次の全体に対しては部分であるといった単位を〈ホロン〉と呼ぶ。」(P.162)
「しかしさらに、それがわかると宇宙の「全体」がわかったことになると考えるだろうが、誰かが「これが宇宙のすべてだ」と思った時、心圏にさらにその思いがつけ加わる。そもそも、物理的な宇宙のすべてだけでも膨大な情報を含んでいて、それを誰か個人が知り尽くす(FF)ことはありえないだろう。」(P.164-165)
コスモロジーの二つの根拠
「一つは、現代科学の水準を十分に踏まえるというアプローチである。ウィルバー・コスモスは、現代科学の成果とけっして矛盾しない構造になっている。
しかしもう一方では、瞑想を実践することによって、自分自身で直接に元因段階や非二元段階の意識体験をするというアプローチをとる。」(P.166)
コスモロジーがなければ倫理も実践もない
「その(FF)理屈に説得力があったから、みんなが共有してそれを実現しようということで実現したのであり、人間は言語の動物だから、理屈を抜きにして実践など不可能なのだ。
ただ自分の理屈は深く思い込んでいるので強い実感がともなうため、ほかの人の理屈とちがって理屈ではないと感じられて、「理屈ではない、実践だ」という言葉が出てくる。」(P.167-168)
「宇宙はこういうふうになって、世界はこういうふうになっているのだから、だから私はこうするべきだ。宇宙はこういうふうになっているのだから、私の生きていることには意味があるのだ・・・というふうに、倫理は必ずコスモロジーに支えられている。」(P.168)
心は覚りに到達する可能性を秘めている
コスモスと天命 人間としての使命とは
「なぜ人間はほかの生命の世話をしなければならないかというと、私たち人間は今知るかぎりでは宇宙の頂点であり、そういう意味で宇宙全体に対して気配りをする責任があるのだ。」(P.172)
歴史の不条理とコスモス
「地震も落雷も台風も、そのほかどんな自然災害も、自然の法則に反して起こることはないのであり、不条理とは言えない。
そう考えると、〈不条理〉という感じは、物質科学主義でもコスモス主義でもない、生命(中心)主義、人間(中心)主義的な考え方をした時に起こるものだということがわかる。」(P.177)__自然の中にある自然法則から、自然現象が異なるはずがない。
「相対的には階層的、絶対的には平等というのが、コスモスの本質なのである。その場合の相対的な階層性はけっして恣意的なものではない。コスモスがそう決定したというか、そう進化してきたのである。」(P.177)
高位のホロンと低位のホロン
「すなわち、よりベーシックな低位のホロンがなくなると、高位のホロンもなくなる。ところが、高位のホロンはなくても低位のホロンはあり続けることができる。そういうふうに、階層になっているのである。」(P.179)
「個人は部分、集団は全体」ではない
「集団がまったくない時に個人は存在するだろうか。個人がまったくない時に集団は存在するだろうか。どちらも存在しえないことがわかる。ということはすなわち、個人と集団は、どちらかがより高位のホロンで、どちらかがより低位のホロンという関係にはない。同じレベルの別の局面だというふうに考えることができるのである。
ここがきわめて重要なのだが、「個人が低位で集団が高位ではない」ということは、言い換えるとつまり、「個人が部分で集団が全体ではない」ということを意味している。」(P.180)
「ホロンの階層構造をなすコスモスの二つの面なのである。」(P.181)__進化してきたのではなかったか。心ができる前もあるのではなかったか。
外面と内面 脳と心のレベルのちがい
コスモスの四つの象限
「システムというのは、外側から観察するとわかる。しかし、そのシステムの中で生きている人たちの文化が何であるから共感的に共有しなければわからない。」(P.184)
「すなわち、コスモスの中で何かが起こっている時は、必ず外面と内面、個と集団という四つの象限があるのだという。そして、四つの象限は分かちがたく関わってはいるが、それぞれほかに還元することのできない独自の面なのだという。」(P.186)__右上(第一象限)=外面的・個的、左上(第二象限)=内面的・個的、左下(第三象限)=内面的・集合的(文化的)、右下(第四象限)=外面的・集合的(社会的)。
第六章 〈個と集団〉の成熟した関係 バランスの取れた進化へ
個と集団のバランス関係
「コスモスが、なぜ個人の内面を創出したかと考えてみると、コスモスの自己認識は個人の心の中にしか起こらないからだと言っていいだろう。」(P.188)__プラトンを思い出す。
「しかし、もちろんコスモスは個人の内面だけでできているのではないから、個人の内面の成熟が、社会の内面・文化の成熟や、社会の外面・システムの維持や改善に対してどういう関係性をもつかという問題がなくなるわけではない。」(P.189)__文化とシステムの関係がはっきりしない。コーラ。
「ところが、今、私たちは、「侵略せず侵略されない国家を確立し、グローバルな世界秩序の中にきちんと位置づけされた、自己絶対化しない国家に成熟していこう」、というよりはむしろ、「そうした世界秩序の形成をリードする国家に成熟していこう」という理想を掲げることができる歴史段階にようやく達していると思われる。」(P.191)__戦前の人もそう思っていたと思う。日本も西欧も。日本は「西欧に追いつけ追い越せ」という気があったかもしれないが、少なくともアジアにおいては「リードしていこう」と思っていた気がする。それが現代と同じ問題点を含んでいるのは明らかだが。
人生の意味を支える世界観を取り戻す
(P.193)__私が極端に走っていたことは認める。いまでもバランスが取れていると思わないし、バランスをとる気もない。しかし、人生に「意味」などあるのだろうか。それはだれにとっての意味で、だれが決めるのだろうか。私の人生の意味は私が決めるのだろうか。
神仏儒習合のコスモロジー
「つまり日本のトップは、聖徳太子以来、神仏儒習合の方向に向かっており、その体系は空海の『十住心論』と宮中の真言院というかたちで、すでに平安時代に確立していたと考えられる。(FF)
そうした神仏儒習合のコスモロジーは、典型的には高野聖などによって全国津々浦々まで伝えられ、特に徳川幕府のキリシタン禁令と寺請性(キリシタンではなく、どこかの寺の檀家であることを寺に証明してもらう制度)によって社会制度として権威づけられ、庶民たちは、生きることと死ぬことの意味や倫理は、神の道=仏の道=天地自然の道=先祖の道にあり、そして、そういう道にしたがって、正しく生きると幸福になれる、悪いことをすると不幸になる(因果応報)と信じるようになった。」(P.197-198)
「日本では、江戸期に神話ー合理性の段階が確立していて、それが江戸二百数十年、三百年弱の社会的安定を保証していたのだと思われる。」(P.198)
合理性のプラスとマイナス
「合理性の段階について述べるに際して、人類が合理性の段階から神話の段階に後戻りできない理由を、ウィルバーはていねいにあげている。それも大まかに見ておこう。
まず合理性というのは、仮説を立てて帰納的に、あるいは実験的に検証していく、という方法をとる。」(P.199)__ナチスは合理的か神話的か。全身(進化)と後退(退化)という基準が怪しい。
「神話の場合、誰かが「信じられない」と言った時、もう一度信じさせ、信仰を共有するには、最終的には拷問にでもかけるしかない。そういう意味では神話の妥当性には限界があり、合理性には決定的な妥当性があるのだから、神話には戻れないし、戻ってはならない。」(P.199)__「ならない」がわからない。
「それから、それ以前は自分が農民なら農民、父親なら父親、兵士なら兵士というアイデンティティを超えて、自分自身のアイデンティティというものを見出すことができなかったが、兵士でもなければ父親でもなく、何でもなく、「私は私」ということは合理性の段階で初めて自覚できる。そこで、「私は私なのだから、職業選択は自由だ。どう生きるかは私の自由だ」という近代的な自由が発見されるわけだ。」(P.200)__私はアップルの社長になる、アメリカ大統領になる、天皇になる、という職業選択の自由があるか。特に老人を見れば。
「合理性というのは、単に人間だけが世界の中心ではなく、いろいろな生き物がいて、いろいろな物質があって、それぞれの法則性や存在のあり方を持っていて・・・ということを見ることができるので、当然の成り行きとして脱人間中心的になってくる。
しかし、脱人間中心的になり、特に「すべてのものと人間は、モノというレベルでは同じだ」というふうに見え始めた時、意味の次元が見失われる結果になった。合理性が、四象限で言えば右側の外面だけを見る合理性に陥った時、すべてには意味がないように見えてきたのである。」(P.201)
神話ー合理性の崩壊と精神の荒廃
「しかし、ウィルバーは、神話ー合理性の崩壊から合理性への移行は進化の段階として捉えるべきで、後戻りはできないと言う。個人の発達と同じように、いったん合理性を獲得した人間が神話に戻ることは、原則としてはできないし、してはならない。」(P.202)
「しかし、近代の理性は、コスモスの物質的な側面、四象限でいうと右側しか見なくなったために、意味や倫理の次元である左側が見えなくなった。」(P.203)
自発的倫理の確立
「しかしそれは、コスモス的な倫理の視点からいうと、「滅私奉公しなければならない」という意味での義務的な倫理ではない。あえて言えば、〈自発的倫理〉なのである。」(P.205)
コスモス的な生き方の提唱
「けっして押しつけるべきではないが、誰でもよく見、よく話し合えば共有できる宇宙的倫理の基準がある。「コスモス」の進化の方向に沿うことが善、それることが悪である」、「人生の意味は悪である」、「人生の意味はコスモスの進化の一過程を担うものとして生き死にするということにある。つまり天命を果たすことが私の人生の意味だ」というかたちで、倫理と意味の原点は明快に示されるのではないだろうか。
そして、こうした倫理と意味の明快な方向性が見えてくると、近代日本の精神史の中で引きずられてきた「自我か、無我か」という対立・葛藤は、解決というより、完全に解消・止揚されてしまう、と私は思う。」(P.207)__方向性が見えるのか。善が目指すものが天命であるとすれば、天命をどう知るのか。自分の行動がそれに沿っていると確かめる方法はあるのか。「近代日本」と限定したところに意味がある。内容は仏教伝来まで遡っているように見えるが、それは現在から見て「聖徳太子の思想」を考えているだけではないか。近代日本の精神は、近代以前の精神と西欧化のせめぎあいの中で生まれたものである。そこに残されているもの、その葛藤そのものが日本的なものである。それは解消されるものではなく、むしろ復活すべきものと言えるかもしれない。現代から見ざるを得ないし(近大)西欧的〈自我〉から見ざるを得ないんだけど、その目で見極められないもの「合理性」の中に解消できないもの、西欧でも日本でも方法は別だが、それを模索しているのが近代文明ではないか。それを(コーラ)述べること、それ自体は論理(言語)ではできないから、批判的にしか、あるいは「ありそうなこと/もの」とてのみ、それを語ることができる。それを語る必要がある稼働は、という問題は残るが。
あとがき
二〇〇〇年八月 岡野守也
〈書き抜き終わり〉
〈メモ〉
子どもは「未熟な大人」であり、老人は「衰えた大人」なのでしょうか。アリエスによれば「子ども」という概念ができたのは近代においてです(『〈子供〉の誕生』)。それまで子どもはある意味で「ペット扱い」でした。つまり、「ペット(動物)が人間と同等に扱われていた」ということです。イヌは「イヌ一般(イデアとしてのイヌ)」ではなく、「そのイヌ」として扱われていたということです。いまでも自分が飼っている「イヌ」は、固有名を持った「代えることのできない」「かけがえのない」イヌでしょう。