自我と無我 〈個と集団〉の成熟した関係 岡野守也著 2000/10/04 PHP新書

自我と無我 〈個と集団〉の成熟した関係 岡野守也著 2000/10/04 PHP新書
110円

ブックオフで「110円コーナー」にありました。この本のことも、著者のことも全く知りませんでしたが、タイトルが面白そうなので買いました。これもなにかの「縁」ですから。

著者は自分自身のことを丁寧に書いています。これは共感できます。「(人間なら)誰でもこういう考え方ができる」というより、「彼が〈彼〉だからこの本が書けた」のだと私は思いますから。

著者は、1947年生まれ。私より10歳ほど先輩です。ちょうど「団塊の世代」とか「全共闘世代」と呼ばれる世代です。

いわゆる「戦後世代」であり、戦後民主主義の圧倒的な影響下で育ったのだが、プロテスタント・キリスト教の牧師の家庭だったため、早くから「原罪」という考え方に接しており、近代的な理性・科学・進歩への素朴な信頼や期待をそのまま受け取ることができなかった。(P.37-38)

本書の裏表紙には、「キリスト教牧師を十一年間務めならが秋月龍珉から禅、独学で唯識、トランスパーソナル心理学を学ぶ。」とあります。

内容は、唯識とケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学の話です。

私は「ケン・ウィルバー」という名前すら知りませんでした(当然読んでいない)。


宗教とスピリチュアル

私は宗教やスピリチュアルなものは読みたくない、語りたくないと思ってきました。それこそが戦後民主教育が否定したことだからです。否定することによってのみ、「鉄腕アトム」の世界を空想することが可能だったからです。

それでもスピリチュアルなものは「科学」で「否定」することはできても「説明」することはできなかったし、六〇年代後半以降、ヒッピーや麻薬(大麻やLSD)、それに『タオ自然学』(F・カプラ)など、「スピリチュアル的なもの」の中で、私は青春時代を過ごしました。

戦後の民主主義教育においては「個性」が尊重され、それを支えていたのは「自由と平等」でした。でも、「自由と平等」を支えていたのは何だったのでしょうか。それは「人権」であり、結局は「個性」つまり「自我」や「エゴ」だったような気がします。つまり「自由・平等  個性」という危なっかしい「支え合い」です。その「自由・平等  個性」という構造(全体)、というか社会を支えていたのは何でしょうか。それは「科学」や「論理(合理)」というよりも「道徳」や「倫理」に近いもの、あえて言えば「宗教やスピリチュアル」的なもの、言い方を変えれば「一つの信仰のようなもの」だったのだと思います。別の言い方をすれば「体が快いものが科学」で、「心が快いものがスピリチュアルなもの(あるいは宗教)」でした。


〈無我〉と〈滅私奉公〉
そして戦後の、思想界、文学界、広く言えば言論界では、いわば「自我派」と「無我派」に分かれて対立を続けてきたままであると言っていいのではないだろうか。(P.5)

日本には〈無我〉という言葉があって、それは「〈自我〉の反対語」「非我」ではありません。著者は戦前・戦中(そして戦後も)それが〈滅私奉公〉と混同されていたとして、聖徳太子の「十七条憲法」にまで遡って検討しています。そして、〈無我〉と〈滅私奉公〉を混同することによって、

要職・重職についていた仏教界のリーダーたち、管長、宗務総長クラス、それに加えて仏教関係の大学の教師たちも、ほとんど例外なく、積極的戦争協力を語っている。(P.21)

とします。

戦後、日本において「戦争責任」や「軍国主義」の批判が不十分であったことには私も同感します。それでも仏教をはじめとする宗教は残ったし、「軍隊(自衛隊)」すら残りました。

〈滅私奉公〉を取り上げるのなら、戦前、あるいは明治以前の仏教を語るより、私は夏目漱石の「則天去私」を取り上げたほうが問題が幾分明確になる気がします。

著者は夏目漱石の「則天去私」をどう捉えているのでしょうか。〈滅私奉公〉のようにも取れるし、「天命に則り、私をのり超える」と解釈すると、著者の考えに近いと思います。


〈無我〉と〈空〉

まず、大乗仏教ー唯識では、〈無我〉という言葉と〈空〉という言葉は、まったく互換的に使われている。すなわち、同義語である。(P.57)

しかし仏教用語の〈無我〉は本来、もちろん人間のことも述べてはいるが、人間だけではなく、「存在全体に実体がない」ことを語る言葉である。(P.57-58)

明確でわかりやすいです。

まず初めに簡単に言っておくと、〈空〉とは、すべての〈現実〉は、つながり・関わりの中で生滅する〈現象〉であって、たしかにある時、ある条件の下で、ありありと象(かたち)を現してはいるが、「それだけで、それ自身の本性を維持し、いつまでも存在するもの」という意味での〈実体〉ではない、ということを意味している。(P.60)

プラトンは、世界(宇宙)を三つのものに区別しています。

まず一つには、同一を保っている形相といいうものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、(中略)理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生み出され、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思わくによって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、さらにまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種の擬(まが)いの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、われわれがこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。(『ティマイオス』52A-B、邦訳旧全集 P.83-84)

一番目は、「形相(イデア)」です。二番目は「現実にある、感覚的で、つねに変化生滅をするもの」、三番目は「場(コーラ)」です。

多分、著者がいう「実体」は二番目のものに近いのでしょう。そして、

そういうふうに、すべては縁によって起こっているのだから、「それ自体で起こっているものは何もない」と言える。(中略)

そういうふうに、すべてのものの性格は、関係・縁によって決まるものであり、「変わることのないそれ自体の本性=〈自性〉を持っているものは何もない」。〈無自性〉である。それを言い換えると、〈空〉になる。(P.63)

そうしたことが、「無常だから空である」と表現されている。いつまでも存在し続けることはできないのだから、〈実体〉ではない、つまり〈空〉である。(P.66)

著者の言う〈実体〉ですが、

もともと〈我〉とは、サンスクリット語の「アートマン」という言葉の中国語訳である。「アートマン」は、英語の「サブスタンス」に該当する言葉で、〈実体〉を意味する。(中略)

つまり、〈空〉と〈実体〉とは反対語だと理解していいだろう。(P.66)

アリストテレスは「実体」(というか「定義」)に「自体的(必然的)」と「付帯的(偶有的)」という区別を付けます。この「自体的( καθ´ αὑτό、ラテン語訳 per se )」というのがとても怪しいのです。

物事がタウタ〔同、同じ〕であると言われるのにも、(一)或る物事はそれの付帯性において同じと言われる。(アリストテレス『形而上学』1017b、邦訳旧全集 P.154)

さて、或る物事はこのように付帯性において同じであると言われるが、しかし、(二)或る物事はそれらそれ自体において同じであると言われ、あたかも一つというのがさまざまに言われたようにさまざまにそう言われる。(同 1018a、P.155)

この「タウタ」ですが、

原語 ταὐτά は中性複数形冠詞つき、単数中性冠詞なしでは αὐτό (複 αὐτά )。ラテン語では idem。また「同一性(同じであること)」と訳された ταυτότης は、ラテン語では idemtitas.(同書訳者註、P.560)

つまり「アイデンティティ(=アートマン)」です。「それそれと同じ」「それそれであるところのそれ(もの・こと)」、わかりにくい日本語です。「 This is a pen. 」は、日本語では「ペンがある」と「ペンである」とに明確に分けられますが、印欧諸語では同じ「 is 」だというところが困るのです。「ペンある」は「それが、たまたま、今ここではペンというかたちをしたもの」という〈実体〉ですが、「ペンある」というのは「それが、本でも机でも私の手でもないペンという特性・性質・性格をもっていること」、つまり「そういう関係にある」〈実体〉ということです。

私は仏教を知りませんが、これらの「である」「がある」「もの」「こと」などの「違い」を明確にしようとしているのではないでしょうか。「色即是空、空即是色」、あるいは「諸行無常」などの言葉は、「漢語・漢文・定型句」にしてしまうことにより、その区別を曖昧にしてしまうような気がします。

日本人にとって、「すべては移りゆく儚い」なんてことは当たり前で、儚いからこそ美しかったり、愛おしかったりします。

  • ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ


覚り

ただ、〈空〉を語るときに注意しておかなければならないことは、第一に、〈空〉は坐禅・瞑想によって直接に体験されるべきもので、体験そのものは言葉で表現し尽くすことはできないということである。(中略)

しかし第二に、表現し尽くすことはできないといっても、人に伝えるためには、何とか言葉にしなければならないので、体験した後で、いろいろな言葉で、ああでもない、こうでもないと表現したものである。〈空〉という表現は、そういう体験を表現した代表的な言葉の一つではあっても、それだけで表現し尽くしてはいないということである。(P.60-61)

「体験」「経験」、どちらも比較的新しい言葉です。もう一つ関連する言葉に「記憶」があります。こちらは比較的古い言葉のようですが、「体験・経験」そのものは「感覚」としては消えてしまいますが、それらの感覚が消えたあとも残っているとすれば、それは「記憶」です。記憶は感覚がなくなっても消えないだけではなく、つぎの感覚(あるいは認識)の手助けをします。これらは個人的、あるいは内的なものです。

これらは「言葉にする」こととは直接の関係はありません。「言葉」はそれを「伝えようとする時」必要になる形式を伴った行為です。つまり、言葉にするということは「話し手」と「聞き手」が居るということです。話したい人と聞きたい人を結ぶのが「言葉」です。

体験と意味内容を共有している人だけが、「イヌ」とか「イヌがいる」という言葉を有効に交換することができる。(P.140)

同じように、トランスパーソナルな領域についても、体験をしていない人がその言葉を聞いても意味をなさない。その人は、「それはある」とも「ない」とも言えないのである。(P.141)

ただし、トランスパーソナルな体験をした人々自体、「これは合理性の段階ではわからない」と言っているのだから、「合理性でわからない以上、それは存在しない」というふうに否定する権利は、実は合理性にはないはずなのだ。ただし、それが非合理かどうかは合理性の側で判断する権利がある。(P.142)

言葉にできない、合理的(論理的)には説明できないこと。「経験は〈個人(アートマン)〉に属するものだから、私の経験は言葉では説明できない・伝えられない」というのと「論理的には存在を説明できないけど、それ(その経験)は(万人に・あるいはコスモスやブラフマンに)ある」というのは意味が違います。後者は「経験しているけど自覚していない」ということです。


場(コーラ)

プラトンの「第三の種族(ジェンダー)」つまり「場(コーラ)」も後者に近いものです。「一種の擬(まが)いの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなの」「寝とぼけて主張させる、まさに当のもの」です。「言葉にできない」「言葉にすると擬いの推理になる」「当たり前過ぎて所信の対照にもならない」、つまり「定義できないもの」です。これを説明することをプラトンは放棄します。イデアや個物の容れ物、受け皿のようなものです。言葉も、それを伝えることも、その容れ物があることによって成り立ちます。プラトンのイデア論や国家論、世界生成論、人間論などは、その「場(コーラ)」の中でなされているのですが、コーラを説明できない以上、「いかにもありそうな話」として語らざるを得なくなります。

私は「コーラ」を、「母から産まれたこと」と解釈しています。プラトンは、それを自覚することなしに、何か父が自分で子供(たとえば論理や合理や言葉)を生んだような気になっていることへの「警告」を言っているのです。「母」を「文化」と置き換えたり、「歴史」と置き換えることも「祖先」と置き換えることもできます。「母語」や「故郷(故国)」と置き換えることもできます。「覚った私がいる」「覚っていない私がいる」、どちらも「母から産まれたこと」を忘れています。その体験が「合理的」か「非合理か」、論理的か、普遍的なものか、個別的なものか、そういうことではないのです。それらをすべて「受け入れ」、現代社会で「自由・平等  個性」という構造を存立させているのも、〈自我〉〈無我〉を存立させているのも、その「母から産まれたこと」です。

その「母」は「母一般」でも「母なるもの」でもありません。「その母(私で言えば私の母)」なのです。世界を「ホラーキー構造」で捉えたり、「トランスパーソナル」「コスモロジー」「グローバル」「世界宗教」「言語一般」「エコロジー」「科学」として捉えようとした時、「その母」は「母一般」や「母性」、あるいは「哺乳瓶」となってしまいます。私は「その母から」、「この街で」「この時代の」「この文化」に生まれました。「この体」を持ち「この言語」を話しています。私の言葉は私が作ったものではないし、私の考えは私が考えたことではありません。心を「心一般」、人間を「人間一般(人類)」、生物を「生命一般」、ものを「物質一般」とした時、「その心」「その人」「そのもの」は忘れられています。

アリストテレスは、「そのもの(個物)」を〈実在〉だとし、それを「質料(場・コーラも質料だと言っています)と形相の融合した存在」だとしました。彼にとって、場は〈場所〉であり、「延長」でしかなくなりました。そしてその延長の「端」や「区切り」「限界」をもって、「存在」「場所(空間)」「時間」「一(いち)」「同一性」を考えたのです。なので、彼の意図とは逆に師匠のプラトンに近づいて「それ」は「あのそれ」でも「このそれ」でもいいことになってしまいました。「この場所」も「あの場所」も「同じ場所」なのです。プラトンが言った「寝言」です。「土地も家も与えるからパレスチナ人は移住せよ」というトランプ大統領の発言は、アリストテレスが準備したと言えるかもしれません。


秩序の方向

ビッグバンによって宇宙(コスモス)が生まれ、物質が生まれ、物質から生命が生まれ、単純な生命は複雑な生物に進化し、心が(つまり人間が)生まれる。これは「合理性」の範囲内で述べられていることでしょう。プラトンも『ティマイオス』で、同じような話をしています「いかにもありそうな話」として。

地震も落雷も台風も、そのほかどんな自然災害も、自然の法則に反して起こることはないのであり、不条理とは言えない。

そう考えると、〈不条理〉という感じは、物質科学主義でもコスモス主義でもない、生命(中心)主義、人間(中心)主義的な考え方をした時に起こるものだということがわかる。(P.177)

人間は自然から、その中にある自然法則( law =法)を導き出したのです。自然現象が自然法則と異なるはずはありません。

しかし、ウィルバーは、神話ー合理性の崩壊から合理性への移行は進化の段階として捉えるべきで、後戻りはできないと言う。個人の発達と同じように、いったん合理性を獲得した人間が神話に戻ることは、原則としてはできないし、してはならない。(P.202)

子どもは大人になります。そして老人になり死んでいきます。逆戻りはできません。残念なことに。

著者もウィルバーも「進化=善(の増加)」と捉えているように思えます。私もそう思って生きてきました。『明日はきっといい日になる』と。単細胞生物が複雑な生物になることや、神話が合理的になることは「進化」なのでしょうか。未開の人が文明人になること、無明の凡夫が〈覚りを開く〉ことは進化なのでしょうか。トランスパーソナルはパーソナル(自我)から進化したものなのでしょうか。その逆は「できない」「してはならない」ものなのでしょうか。

私は毎日煩悩に苛まれ、迷い、悩んでいます。〈覚りを開く〉ことなどできないでしょう。もう覚ることは諦めています。昔は極端にはしっていて、「全てか、ゼロか」と考えていました。いまでもバランスが取れているとは思わないし、取ろうとも思いません。覚れる素質を持った人だけが覚ればいいのでしょうか。そうも思いません。多分悟りを開いた人は(修行をした人が多いのでしょうが)いわば「覚るべくして覚った」のではないでしょうか。「覚りゲノム(遺伝子)」のようなものはないと思いますが。

〈覚った人が進化した人〉とも思いません。ましてその人の言うことを「信じたり」「従ったり」することもしたくありません。「その覚り」は「あの覚り」と同じ「覚り一般(トランスパーソナル)」だとは思えないからです。私は「無明の凡夫」ですが、「この無明の凡夫」です。それはアイデンティティやエゴ(自我)のことを言っているのではありません。「この無明の凡夫」が「この覚りを開いた無明の凡夫」でもいいじゃないですか。

私は「この場(コーラ)」で生きていること、つまり「あの母から産まれたこと」を否定できないのです。

近代日本の精神は、近代以前の精神と西欧化のせめぎあいの中で生まれたものです。そこに残されているもの、あるいはその「葛藤そのもの」が日本的なものです。それは解消されるものではなく、むしろ復活すべきもの(逆戻りすべきもの)と言えるかもしれません。現代から見ざるを得ないし、(近代)西欧的〈自我〉から見ざるを得ないのだけど、その目で見極められないもの「(近代西欧的な)合理性」の中に解消できないものはあります。西欧でも日本でも方法は別だけれども、それを模索しているのが近代文明なのではないでしょうか(科学もその一つです)。「場(コーラ)」を述べること、それ自体は論理(言語)ではできないから、批判的にしか、あるいはそれを棚に上げて「ありそうなこと/もの」のみ、それを語ることができるのだと思います。それを語る必要があるかどうか、「語らなければならないか」という問題は残りますが。




「自我の確立」と「無我の境地」。どちらをめざすべきか。仏教の唯識学とウィルバー思想を基礎に、エゴイズムを越えた精神のあり方を考える。
「自我の確立」と「無我の境地」。めざすべき人格のあり方はどちらか? 現代人は自我を強調するあまりエゴイズムに陥ってしまった。一方、無我とは滅私奉公であるとの、歴史的誤解への反省も、いまだ曖昧である。本書では、大乗仏教の唯識学と現代アメリカの哲人・ウィルバー思想、さらにスイスの発達心理学者・ジャン・ピアジェの理論などを手がかりに、自我と無我の本来的意味を整理する。「無我の空の関係」「自我とエゴイズムの違い」「未我→自我→無我の成長プロセス」などをわかりやすく解説。その上で、自我と無我の対立概念を超えた大いなる宇宙観(コスモロジー)を提唱。人間の心は誰でも覚りに到達する可能性を秘めていることを理論的に証明する。東洋宗教と西洋心理学を統合し、理想の人間性を追求した思想的メッセージの書である。まさに、日本精神史百年の葛藤を解消する好著である。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4569612973]

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