async 坂本龍一 2017/03/29

async 坂本龍一 2017/03/29

葉加瀬太郎が坂本龍一の曲をアレンジして弾いていました。「ピアノを使わないで」というコンセプトです。5曲の最後が、『async』(2017年)の「 sandata 」です。弦楽アンサンブル(洋楽器)が坂本のピアノのパートを弾きます。小泉文夫記念なんちゃらのガムランが後を演奏し(芸大時代、坂本は小泉の講義を受けていた)、シンセサイザーがノイズや電子音でその「仲を取り持つ」、という趣向です。

これがちっとも善く聞こえないのです。弦楽器のリズム・音程とガムランのリズム・音程はまったく「シンクロ」指定ません。たしかに、「 async 」は「シンクロしていない」という意味ですが、「バラバラだ」という意味ではありません。葉加瀬太郎の坂本理解が疑われます。

アルバム名『async』は“asynchronization”=非同期の略になります。世の中の音楽の99%は同期しているし、人を同期させる力を持っている。同期するのは人間も含めた自然の本能だと思うのですが、今回はあえてそこに逆らう非同期的な音楽を作りたいと思いました。もともと僕は、工事や工場の音が好きで、道路工事の現場があると、立ち止まって録音したりもすることもあります。YMOのときも工場の音をドラムとしてサンプリングしたことがあります。今回のアルバムでは、そういったノイズやかつて作られた”音響彫刻”、さらには映画のセリフなど、いろいろな音も使っています。ある人にとってはただの騒音でも、僕にとっては音楽。ノイズもサウンドも人の声もすべての音が音楽なんです(GQ「坂本龍一、新作『async』を語る──「いちばんわがままに作った」

坂本が弾くピアノは、美しく優しいメロディーです。それが途中からオルガンの音に変わります。オルガンというと、私はバッハをイメージします。坂本の弾くメロディーはバッハ由来の西洋音楽です。バッハは、シンクロ(調和=ハーモニー)をどう思っていたのでしょうか。「ド」の音を弾く、同時に「ミ」と「ソ」を弾く。「ドミソ」ハ調のCの和音です。美しい。一つの楽器が「ド-ミ-ソ」と弾いている間に、別の楽器が「ミ-ソ-ラ」と弾く。美しい。その音はバッハが創ったものではなくて、神が「示し」バッハに「作らせたもの」です。その調和こそ、神の御業だったのだと思います。

葉加瀬太郎の演奏を聴く直前に、大粒の夕立が降っていました。雨だれの音が「ポツン、ポツン」と聞こえています。同時に別の雨だれが「ポツ、ポツ、ポツ」と鳴っています。そのテンポは「1:2」とか「1:3」とかの「整数比」ではありません。他の雨だれの音も聞こえます。そんな音が集まったのが「雨の音」です。ある音は大きく、ある音は小さく、ある音は早く、ある音は遅く・・・。その「全体」が雨の音です。その音が「心地良い」と思う人もいれば、「雨は嫌だなあ」と思う人もいるでしょう。いずれにしてもそれは人の心の中に、何か「感情」を抱かせます。

家の花壇に咲いている菊も、一見同じ種類の菊はおなじ花のように見えますが、一つ一つ大きさも形も違います。それが「自然」です( nature ではありません)。自然には自らの意志があるように見えます。手に持った石が、地面に向かって落ちようとしているように。もちろん、それは人間が勝手に思っていることですが。

自生している野草や実を取るのではなく、農作をすると、その意志がすぐに分かります。畑や田んぼは放っておくとすぐに雑草だらけになります。庭も同様です。作物を育てるため、庭をきれいにするためには、雑草を抜かなければなりません。

野草や木の実を採る能力、野菜を育てる能力、狩りをする能力、家畜を育てる能力、これらは技術( τέχνη)です。そして、この能力を使うためにはもう一つの能力が必要です。次もこの技術(採集、狩猟、飼育、栽培)を使えるようにするための能力、採り尽くさない、狩り尽くさない、土地を痩せないようにする、食べ尽くさない、などの能力です。これは「知恵( σοφία )」でしょう。知恵と知識( επιστημη )は違います。「哲学者」は「知恵を愛するもの」であって、技術や知識を愛するものではありません(技術はラテン語で artis と訳され、知識は scientiase と訳されちゃったので混乱しますが)。

雑草を抜くのは面倒です。「また生えてきてぇ」と思うか「せっかく生えてきたのにごめんね」と思うか。この「ごめんね」は、生えてきた草に対するものであると同時に、生やした自然に対するものです。この「知恵の残存」は、「生産(産業)」によってなくなりつつあります。


クマ

今年は野生のクマによる人的被害が過去最多だそうです。ドングリが例年より少なかったせいだ、といった報道もされます。それを異常気象と関連付ける報道は見たことがありません。

昔は開発による森林伐採、郊外化によってクマの居住域が減少し、そこに人間が住むせいだとも言われていました。森林伐採(開拓・開墾)や、植林は古くからおこなわれています。最近は個人所有の森林の放置が問題にもなっています(輸入木材の増加で)。戦後の復興期・高度成長期には、さかんに植林がおこなわれました。

昭和20年〜30年代、戦後の復興等のため木材需要が急増し、政府は、広葉樹林の伐採跡地等に成長の早い針葉樹を植栽する「拡大造林」政策を全国的に実施。そのスギやヒノキが、今、一般的な「主伐期」である50年生を超え本格的な利用期を迎えています。(森ナビ・ネット「世界と日本の植樹プロジェクト」)

ドングリは落葉広葉樹の実ですから、針葉樹ではできません。

人間と野生のクマ、シカ、イノシシ、サルなどはどんな関係を保っていたのでしょうか。あるいは魚、植物、雑菌やウィルスとの関係もそうです。数百年、数千年ほどの歴史でいえば、変わったのは野生動植物の方ではなくて、人間の方でしょう。それも人間の体が変わったというよりは、人間の文化、人間の側の動植物への対応の仕方(見方)が変わったのだと思います。

私は、アイヌ文化のクマやサケに対する対応の仕方をよく知りません。「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(略称 アイヌ文化振興法)」がアイヌ文化を振興(復興)するとも思われません。

先住アメリカ人について、デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウは、

人間のクランは、それぞれ、ある種の動物を「所有(オウン)」しているとされる  つまり、「クマ・クラン」、「ヘラジカ・クラン」、「ワシ・クラン」などである  が、しかし、その意味するところは、クランのメンバーは、その「所有」する動物を狩ったり、殺したり、傷つけたり、消費してはならぬ、ということである。実際には、かれらにもとめられているのは、その動物の生存を支え、繁殖を促すための儀礼に参加することなのである。

ローマ法の所有概念  現在のほとんどすべての法制度の基礎となっている  が独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 possession にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、 fructus (所有物の産物を享受する権利)、 abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもっていないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有していることなのだ。(『万物の黎明』邦訳、P.182)

アイヌ文化振興法は、これらの権利をどれも認めていないし、そもそも(ローマ法由来の)法で、別の「法概念」をもつ文化を、振興したり、復興したりすることはできないのです。


テリー・ライリー

NHKの「クラシックTV」で「巨匠 テリー・ライリー降臨!変わり続ける音」をやっていました(2023年6月15日のアンコール放送)。

影響を受けた音楽家の中に坂本がいました。どの曲かは出てなかったけど。たしかに、この拍子(リズム)の対位法は坂本の中に多くあります(YMOにも)。

私も『ア・レインボー・イン・カーヴド・エア』を聞いたときは衝撃的だったなあ。はてしなく繰り返され、変化していくリズムとメロディ。お教で「南妙法蓮華経・南妙法蓮華経・・・」を唱え続けているような感じです。ライリー自身が言っているように、一種の「トランス状態」に近づきます。

これは見方によっては『 async 』と対極にある「同期」だともいえるでしょう。

自然は(人間も含めて)、見方によっては一定のリズムやパターンをくり返しているともいえるし(昼と夜、春夏秋冬、原子配列など)、その「比( ratio )」が「ハーモニー」を作っていると、西欧では古代ギリシャ以来、そしてバッハ以降も考えられてきました。

でも、昨日と今日の一日は違うし、去年の夏と今年の夏も違います。私とあなたは違うし、坂本と細野と高橋も違います。同様に、今日殺された(駆除された)クマと昨日殺されたクマは違います。

「同期」と「非同期」は、どちらもあって、それが気持ち良かったり、気持ち悪かったりします。言葉が「体系(文法)」でありながら、つねに「創造」であるように(コセリウ『言語変化という問題』)、音楽もどちらでもあって、音の変化と連鎖が音楽なのですから、

逆に、言語体系に固有の体系性  それは動的な体系性である  を否定するのは静止性であり、静止性こそは、言語が言語として機能することを不可能にし、やがてはそれを「死語」にしてしまうものである(第二章1・1参照)。(コセリウ、前掲書 P.394)


移動

多くの野生動物は長距離を移動します。高い山や広い川も越えて(その方法は知りません)。もちろん、越えられないものはあって、それがあると孤立化する動物もいます。鉄道や(高速)道路がその障壁になることもあるでしょう。シカやクマも長距離を移動します。ヒグマが知床から稚内まで移動するという話を聞いたことがあります。それが季節ごとなのか、何年もかけてなのかはわかりません。季節ごとに気温や食糧分布が異なりますから、当たり前です。

人間も同様に、季節ごとに、あるいは数年をかけて移動していました。狩猟採集民や放牧民だけではなく。それが、「農耕によって定住生活をはじめた」と言われることがあります。でも、農業というのは定住に向いていないのです。たとえば稲作であれば、「田植え」と「稲刈り」のときにはたくさんの労働力が必要です。その間にも、雑草取りなどの様々な仕事があり、収穫後も脱穀や籾摺りなどの作業がありますが、田植えや稲刈りほどではありません。そして、春・夏・秋・冬で人口が変わるわけではないですから。そこで「出稼ぎ」(農家が農閑期に、農家以外が農繁期に)などが起こるのですが、「出稼ぎ」の意味や内容は時代によって違います。

そういうこととは違って、人は移動(つまり旅を)していました。「ストーンヘンジ」は、一定の時期に遠くから(海を渡ってまで)人が集まった場所だと考えられています(そしてまた戻っていった)。つまり、経済事情や食料事情とは別に、人はつねに移動してきたのです。

シカやクマも、ただドングリ(食糧)のために移動しているのではないのかもしれません。植物だって、「増殖」のためだけに種子をばらまいているのではないかもしれません。それは人間には計り知れないものかもしれないし、少なくとも、現在の西洋的な合理主義( rational )を投影して、推し測ることには慎重でなければならないと思います。

「同期」と「非同期」という(近代)西欧的な基準を「無効にする」こと。『 async 』を聴いていると、そんな世界が聞こえてくる気がします。




坂本龍一8年ぶりのオリジナル・アルバム!

【収録内容】
01. andata アンダータ
02. disintegration ディスインテグレーション
03. solari ソラリ
04. ZURE ズレ
05. waiker ウォーカー
06. stakra スタークラ
07. ubi ユビ
08. fullmoon フルムーン
09. async アシンク
10. tri トゥリ
11. Life, Life ライフ、ライフ
12. honj ホンジ
13. ff エフエフ
14. garden ガーデン

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