グーテンベルクの銀河系 活字的人間の形成 マーシャル・マクルーハン著 高儀進訳 1968/09/15 竹内書店

グーテンベルクの銀河系 活字的人間の形成 マーシャル・マクルーハン著 高儀進訳 1968/09/15 竹内書店

デジタル時計

私はデジタル時計に慣れません。一時は「時間がはっきり正確に)わかっていい」と思っていたのですが、どうも見た目が安っぽくて。腕時計が安いと着けている人が「安っぽく」見られるようで・・・。でも、ゴツい時計は嫌いだったので、薄っぺらい、目立たない腕時計をしていました。今は「引きこもり老人」ですから、腕時計をつけることも少ないのですが、時間に縛られない分、デジタルの時間が現実の時間を表していないような気がするのです。

アナログ時計も、「時間(一日)を分割して数字で表したもの」には違いないのですが、一応「文字盤と針」という具体的な物(形)があります。デジタル時計は「実体から分離した概念(観念)としての数字」という気がします。

古典ギリシャには、一般的な「時計」はなかったのではないでしょうか。「日時計」などはありましたが、日時計を見なくても空を見れば時間はわかります。日時計はその「影」に過ぎません。それは時間にかんする感覚にも影響を与えていると思います。ガリレオ・ガリレイが振り子時計を発明したのは1583年だそうです。時計が、現実からの時間概念の分離を生み出したのかも知れません。

で、わたしがそこで俎上に乗せた議論は、わたしが歴史家であり、歴史家として知っていることは、まさにその速度の概念がガリレオ以前にはなかったことでした。ガリレオが最初に一時間幾マイルという発想、もっと正確に言えば与えられた時間に対する距離と考え、時間と距離を異なった、区別される実在として互いに関連させた時、彼はあるタブーを犯していることを知っていました。今と此処 hic et nunc は厳密に相互に関連し合っていたので、人々には、その一方だけを取り上げて語ることなどできなかったのです。しかしガリレオは時間を空間から切り離して観察できると主張したのです。(イバン・イリイチ『生きる希望』邦訳、P.305)

今は車のスピードメーターも、温度計もデジタルです。若い人は、数字が増えていくことでちゃんと「スピード感」を感じるのでしょうか。デジタルの温度計を見て、「暑い」とか「寒い」とか感じるのでしょうか。私が心配しているのは、空を見て「時間」がわからないように、温度計を見ないと「暑さ・寒さ」を感じることができなくなるのではないか、ということです。暑くなったら服を脱ぎ、寒くなったら服を着る、ということができなくなるのではないか、という老婆心です。温度計を見て冷房を点けたり、暖房を点けたりしていると、暑さ・寒さを経験しません。さらに、今はサーモスタット(センサー)で「自動的に」温度を調整してくれます。サーモスタットが壊れたとき、冷房を入れるか暖房を入れるのかを「適切に」判断できるのでしょうか。

「CD(コンパクト・ディスク)」が発売されたのは1982年です。これは「デジタル」です。それまでは「レコード(アナログ)」でした。IBM の PC (パーソナル・コンピューター)が発売されたのが1981年、Macintosh( Mac )が発売されたのは1984年です。そこから世界の「デジタル化(二進法化)」が始まったんだと、私は思います。

この本が出版されたのは1962年です。著者が亡くなったのは1980年、69歳でした。

ともかくも、そのような思考法が、数を使わぬ新しい”二元的”な電子計算機〔演算部分では二進法によって計算される〕の原理となっているのであり、またハイゼンベルクの構造主義的な物理学〔彼は不確定性原理、量子力学を提唱した〕を可能にしたのである。数は、ルネッサンス時代の分裂した視覚的世界において、測定のための、単なる触覚的な道具となったが、古代世界ではそうではなかった。(P.347)

当時もコンピューター(電子計算機)はありました。部屋いっぱい、あるいは建物いっぱいのような大きなものです。IC(集積回路)が開発されたのは1960年前後です。それからコンピューターの小型化、高性能化が進んでいきます。


「デジタル( digital )」は、ラテン語の「 digitus (手や足の指)」の形容詞形 digitalis から来ています。「指で数えること(ようなもの)」ということです。

アリストテレスは、「数」には二つの意味があると言います。

ところで、数というのにも二義があるが、(すなわち、われわれは、数えられるものおよび数えられうるものを数と言うとともにまた、それでわれわれが数えるところのそれも数と言うが、)たしかに、時間は、数えられるものとしての数であって、われわれがそれで数えるところのそれとしての数ではない。それでわれわれが数えるところのそれと数えられるものとは、異なるものである。(アリストテレス『自然学』219b、邦訳旧全集 P.170-171)

禅問答のようで分かりにくいですが、「二匹、二個」などの「数えられる(ものの)数」と、「2、3、4・・・」などの「数える(という行為に必要な)数」、あるいは「端的な意味での数」、つまり人間の側にある(人間が考えた、抽象的な、数学的な)数です。のちの言葉を使えば「客観的な数」と「主観的な数」です。あるいは「受動的な数」と「能動的な数」です。あくまでもそれは「のちの解釈」で、アリストテレスには「主観・客観」「能動・受動」という対立(反対概念)はありませんでしたが。

「暑いと思ったら摂氏35度(猛暑日)だ」ということを、天気予報では「明日は摂氏35度(猛暑日)だから暑い」と言います。アリストテレスは、この二つは違う数だといっているのです(「暑いから夏だ」と「夏だから暑い」の違いでしょうか)。

当時のギリシャ人にとって、「数は単位の多さ」(たとえば『形而上学』1052)でした。なので「1」は数ではなくて、「単位」でした。本当の数(多さ)は「2」から始まるのです。「1」は「多い」でも「少ない」でもなく、「ある(=存在)」です。なので、「万物は数である」(ピタゴラス派。万物は比率である、といったほうがニュアンスが通じるかも知れません)ということになります。物差し(棒、単位、基準)で測るものが古代ギリシャにおける数です。

物差しで測ること(物差しと比べること)、つまり、「比(ロゴス=論理・理性、ラテン語で ratio )」で表されるものが「数」です。ですから、「ある(存在=単位=1)」は「ある」けど、「ない(非存在=0)」は「ない」のです。ギリシャ人にとって(特にアリストテレスにとって)現実から離れた数(無限とか、ゼロとかを含めて)というものは、現実には(現実態としては)あってはならなかったのです。それは可能性(可能態)としてのみ考えられたのです。


文字

文字のある文化というのはどのくらいあるのでしょうか。まあ「文字のない文化」というのはある意味で「形容矛盾」ですが。

文字にはいろいろな分類法がありますが、著者は「表音アルファベット(いわゆるローマ字)」に注目します。

視覚的空間は、表音アルファベットの思いもかけぬ産物であった。このアルファベットのみが、視覚を強めて遂にはそれがわれわれの他の感覚を完全に支配してしまう事態を生む力を持っているのである。アラブ人、ヘブライ人、点字を用いる盲人、あるいは中国人の「文字教養(リテラシー)」は、このような影響力を全く持っていない。(中略)西欧の表音アルファベットは、文化における視覚的空間の支配という現象を生むだけではなく、専門化した知識と産業とを、十九世紀に至ってその頂点に達した形態に組織化するための不可欠の手段を提供する。

視覚的な、「文明化した」人間とは、対象を分類し、専門分化し、一つの目標に向かって進む人間のことである。(P.ⅱ、日本語版に寄せて)

絵文字も、表意文字も、象形文字も、人間を非部族化する表音アルファベットのような力を持ってはいない。表音アルファベット以外の他のいかなる書字法も、すべてが相互に依存し合い、関連し合い、あらゆるものを密接な関係に保つ聴覚的性格を持つ世界の外へ人間を移し代えはしなかった。あらゆるのもが同時的に関連し合い、音声的、聴覚的空間を持つ呪術的で共鳴し合う世界から人間が抜け出して、非部族化した人間としての自由と独立を得る道はただ一つしかない。その道は、表音アルファベットを通る道であるが、そこを通って行くと、人間は直ちに、さまざまな程度に二次元的性格を持つ精神分裂症に至るのである。(P.65)

表音アルファベットのみが、眼と耳とを分離し、言葉の意味と視覚的シンボルとを分離する。それゆえ、表音アルファベットのみが、人間を部族社会から文明社会へと移し代え、人間の耳の代わりに眼を与える力を持っているのである。(P.73)

表音アルファベットは「意味」を表しているのではなく、「音」を表しているのです。「意味」はその「綴り」から立ち現れます。

表意文字は、感覚の分離や、専門分化、あるいは文字の形と音と意味の分離(これは表音アルファベットの特徴であるが)を引き起こすことがない。(P.87)

すなわち、アルファベットは、文字の形と音とを分離し、抽象化するだけではなく、文字の持つ音から、あらゆる意味を分離し、遂には、無意味な文字と、無意味な音との結びつきにしてしまう、という事実である。表音アルファベット以外のすべての書字法の場合のように、文字の形と音に少しでも関連する意味があれば、視覚と他の感覚との分離は完全に行われてはいないのである。(P.110)

だから、

なぜなら、アルファベットのみが、人間を非部族化し、個人的存在にし、「文明」人にしたのだから。文化は、芸術の面で文明を遥かに超えたものになり得るが、表音アルファベットを持たなければ、日本や中国のように、その文化は部族的なままである〔「文化(カルチャー)」は、「文明(シヴィリセーション)」の知的方面を強く表す語〕。(P.113)

日本には、表意文字としての「漢字」と表音文字としての「仮名」があります。微妙です。

人は、文字教養を身につけることによって、映像の少し手前のところに焦点を合わせる能力を獲得し、一目で映像や画面の全体を捉えることができるようになるのである。非文字文化人は、そのような規制の習慣を持っていないので、事物をわれわれが見るようには見ない。むしろ彼らは、われわれが眼で活字を追うように、事物や映像を部分ごとに見て行く。そのために、彼らは「客観的な観点」を持っていないのである。彼らは完全に対象と共にある。彼らは対象の中に感情を移入する。いわば、眼は遠近法的に使われるのではなく、触覚的に使われるのである。触覚と聴覚から視覚をはっきりと切り離すことによって成立しているユークリッド的空間は、彼らの知らぬところである。(P.92)

映画の場合、人はいわばカメラであるが、非文字文化人は眼をカメラのように使うことはできない。(P.96)

「なぜ非文字文化社会の人びとは、多くの訓練を受けなければ映画や写真を見ることができないか」と「アフリカ人は映画を見る場合、われわれのような受動的な消費者的態度をとることができない」という名前をつけられた節に書かれている文章です。文字が持つ触覚と聴覚(著者はまとめて「聴触覚」と表現します)からの視覚の「分離(独立)」が、写真や映画を「実物らしく」見せるのです。逆に言えば、文化が「ものの見方(見え方)」を規定(あるいは規制)しているということです。


文字と言語

例として「ケア労働」を考えてみます。

ケア( care 、昔は「ケアー」と言ったと思う)は、日本語にしにくい単語です。「広辞苑第六版」には「①介護。世話。「ー・ワーカー」「高齢者をーする」②手入れ。「ヘアー」」とあります。あと「ケア・ハウス」「ケア・プラン」「ケア・マネージメント」「ケア・マネージャー」「アフター・ケア」「緩和ケア」「心のケア」「コミュニティ・ケア」「在宅ケア」「スキン・ケア」「セルフ・ケア」「ターミナル・ケア」「デイ・ケア」「デー・ケア」「プライマリー・ケア」「ヘア・ケア」「ヘルス・ケア」が載っています。

それぞれに該当しそうな「日本語(漢字)」を当てはめてみてください。私には漢字が見つからない単語が多いです。「介護する人」は、それを仕事(賃労働)にしているとは限りませんが、「介護」は「ケア労働」と言われるようになりました。「仕事(お金をもらえる)なら仕方ないけど、できればやりたくないこと」になった気がします。ドラマや映画では「ヤングケアラー」という「辛い」「大変な」「人生を壊しかねない」もの、として扱います(そうじゃない、という作品もありますが、観る人はやっぱり「大変だろうなあ」と思うから共感します)。

デヴィッド・グレーバーは、

すべての労働はケアリング労働だとみなすこともできる。(『ブルシット・ジョブ』邦訳、P.308)

人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているか、理解しようと務めなければならない。たいてい、こうしたことは、少なくともいくぶんかは他者に対するケアをふくんでいるーところが、共感や想像的同一化が総じて一方の側に偏しているようなとき、それは多分に仕事(work)となる。商品としてのケアリング労働(labor)の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。(同書、P.307)

「ケア」は「サービスという商品」になる、ということです。「サービス(最近は「サーヴィス」でしょうか)」というのもわかりにくい言葉ですが。

「労働」の「働」は国字です。つまり、日本で作られた漢字です。なので、中国には「労働党」はありえません。あるのは「中国共産党」だけです。

それどころか、中国政府が拠り所としている共産党、共産主義という訳語すら、日本製なのである。(豊田有恒『韓国が漢字を復活できない理由』、P.175)

北朝鮮や韓国では「労働党」という言葉がありますが、どちらも漢字を止めてしまったので(?)「音(発音)」だけが残っています。

韓国語はわかりませんが、ハングル(文字)は韓国語(朝鮮語)の「音」に合わせて作った文字なので、同じ表音文字でもアルファベットよりずっと「合理的」なんだろうと思います。まあ、「文字」は変わりませんが「言葉」は変わるので、どんどん「音」とは乖離していくでしょうが。

キリル文字はどうでしょうか。東欧諸国の多くはキリル文字を使っています。ラテン文字を使っていた地域もキリル文字化されましたが(田中克彦『言語の思想』参照)、近年、ラテン文字アルファベットを復活する国が増えてきています。文字と言語は密接な関係があります。単に音声(音・声)を「見える」形にしたのが文字ではありません。

中国には「イワシ(鰯)」という漢字がありません。漢字が作られた黃河河口地域には鰯がいないからだそうです。日本向けに作られた「イワシの缶詰」には「鰯」の字があるとか(見たことはありません)。では、中国には「働く」ということはなかったのでしょうか。そんな事はありませんね。中国語で「働く(労働)」をどう言うのか、ネットで調べてみましたが、その内容や状況によっていろいろあるようです。一般的には「工作」だそうです。日本語の「工作」とは意味が違いますね。そうすると中国語で「〜工作」と書かれたものをそのまま日本で使うと、意味(ニュアンス)が変わってきてしまいます。

幕末から明治初期にかけて、数え切れないほどの西欧語の翻訳語が作られました。西周や福沢諭吉、森鴎外など、多くの知識人が「漢語(漢字)の素養」を使って、漢字の造語をしたのです。漢字は「意味を持っている(表意文字)」ので、それで表せれば、日本人は理解しやすかった(しやすいと思った)のでしょう。でも、いくら漢字に直しても、西欧語がもつ意味(イメージ・ニュアンス)は伝わりません。それでその単語を「理解すること(理解してると思いこむこと、あるいは使うこと)」が、西欧文化を取り入れることでした。つまり、「単語」と同時に「考え方」を普及させることです。この二つは全く「別のこと」と言ってもいいのですが、切り離すことはできません。ところが、日本人は「単語(=物)」としてしか受け取らない時代が流れ過ぎました。

日本は「翻訳文化」ですから、私のように外国語の文献が全く読めない人には天国のようなところです。逆説的ですが、そのために「単語(物)」はわかっても、それが持つ「考え方」に注目することができませんでした。とくに、「わたしたち」(そこに、「話している相手」や「読者」が含まれるかどうかは別として)というものが「人間(近代西欧的にんげん。じんかん、ひとまではない)として同じである」という考え方は、翻訳文化の基礎でもあります。翻訳とは、鰯を食べたことのない人に、「鰯の味を理解してもらう」ようなことです。

なぜなら、人間は言語を持たぬ生物だからである。人間が言語なのである。(P.437、原書P.231、R・N・アンシェン『言語  その意味と機能の探究』からの引用)

そういえるでしょう。でも、「人間は文字ではない」と思います。


表音アルファベット文化においては人間は、経験を説明的、間接的に表現するという習慣に陥りやすいものである。書かれた符号〔文字〕は、読者に「内容」(つまりスピーチ)を伝えるものであるという潜在意識が絶えず強く働いているからである。しかし、非文字文化にはそのような潜在意識はない。神話をよく理解することがむずかしという理由は、神話が、文字文化とは異なり、経験のどんな面をも除外しないからである。(P.156-157)

「「内容」(つまりスピーチ)」の原文は「 the "content" which is speech. 」(原書、P.72)です。英語はよくわかりませんが、「内容」と「(話し言葉としての)スピーチ」は異なります。

中世の後期に言葉をはっきりと句読点を打って分かち書きするようになってからも朗読の習慣は続いていたし、ルネッサンスになって活字が登場してからさえも、それは続いた。だが、これらすべての新しい事態は、読書の速度を増し、視覚を強調することになった。(P.179)

古代と中世を通じて、「読書」が朗読を意味していたこと、あるいは一種の呪文を唱えることを意味する場合さえあったということを示す証拠に不足しているわけではない。(中略)ローマ人にとって、公衆の前で朗読するのが主な本の発表の仕方であったということは、朗読としての読書のこのような性格を間接に説明するものである。(P.180)

イリイチは、

ユーグ(サン・ヴィクトルのフーゴー、1096-1141年・・・引用者)より前の時代の人々にとって、書物は著者の話や口述の記録である。しかしユーグ以後になると、書物は徐々に著者の思想を蓄えたもの、つまりまだ声になっていない考えを映し出すスクリーンとなってくる。(P.103)

彼らは書物をもはや、ぶどう畑であるとか、楽園であるとか、あるいは冒険に満ちた巡礼行にとっての景色であるといったように考えることはなかった。むしろ彼らにとっては書物は、財宝置き場であり、貯蔵庫であった。すなわちそれは検討することのできるテクストだったのである。(P.103-104)

キリスト教書物の読書が長く続き、声を出して読書する信仰厚き人々にとって譜面として存在した書物は、突然、論理的な思索者のための視覚的に組み立てられたテクストへと変貌したのだった。(P.ⅹ)

清少納言が『源氏物語』を書くとき、あるいはそれを読む人が「声に出していた」かどうかはわかりません(私は知りません)。ひょっとしたら「かな文字」は、「声に出すこと(音)」ことと関係があるかも知れません。少なくとも「万葉がな」のような文字は「声に出して(音にして)読まれるため」の文字です。逆に「漢文を読む」ということは、「漢音」や「呉音」で読むことではなかったかも知れません(読み下し文のように「テニヲハ」を加えて)。

表音アルファベットも、古くは句読点や単語の区切りがなかっただけでなく、母音がないものでした。つまり、読む人は母音を加えて単語を作りながら(区分けしながら)読んでいたのです。声に出さずには読むことができませんでした。

音読が黙読になることで、書物はテクストになりました。文字よりもその文が表している意味、声よりもその声が表現しているその人の心、「どんな本を持っているか」ではなく「どんな本を読んだか」、書物自体よりも「本の内容」が大切になります。アリストテレスの言葉を借りれば、「数えられる数」よりも「数える数」が大切だ、ということです。これは「アナログ時計(時間)」に対する「デジタル時計(数字)」の発端です。

内容が同じであれば、「入れ物(容器)」が変わってもいいということですが、スーパーで買った惣菜であっても、発泡スチールのトレーのまま食べるか、気に入ったお皿があればそれに盛り付けて食べるかは、違うと思います。なんかそういう感覚は薄れてきていますが。極端に言えば、栄養が取れるのであれば、見栄え(「見え」・「映え」)はどうでもいいし、錠剤でも、血管注射でもいい、と思っている人も増えてきているでしょう。私も、「宇宙食なんて栄養剤でいいじゃん」と思った時期がありました。

特に、本は「本という物自体」よりも「本の内容」とされることで、羊皮紙でなくても、紙の質がどうであっても、単行本でも、大型本でも、文庫本でも「内容が同じ」ならいい、ということになります。これが「グーテンベルクの印刷術」の基礎にあります。


成文法

内容が大切、ということは本に「誤字や脱字」があってはなりません。

逆説的なことだが、使われている言葉の微妙なニュアンスに深く注意を払うということは、視覚的特性ではなく、口述的特性なのである。事実、印刷された言葉は、必然的に、全体的な視覚的前後関係〔個々の言葉の微妙なニュアンスや響きではない、「全体的な意味」〕を中心とするものなのである。活字は言葉の微妙な働きを弱め、逆に、綴の画一性と意味の画一性を強力に推し進める。なぜなら、綴と意味の統一ということは、印刷業者と印刷本の読者の直接的で実際的な関心だからである。(P.309)

同じ内容が「容れ物」を変幻自在に変えて出てくるとすれば、文(本)が「意味」していることよりも、それが「正確」であるか、「粗探し」がはじまります。そして「言葉狩り」が始まります。

言葉は「声」ではなく「意味」を伝えるのですから、「正確な文章」は、その単語や文にある多くの意味(多重性)が極力削がれていきます。「一つの文章」が「一つの意味」を伝えること、「それそれであること」、つまり「自己同一性」が問題となります。。そのためには、言葉の「均質性」が必要です。ある一つの(つまり「存在」である)意味を、できるだけを正確に伝える方法、それが「文法」です。

ローマ法(成文法)の発展は、それに磨きをかけます。曖昧であったり、いろいろな解釈ができてはならないからです。多重性(重層性)を持つ「話し言葉」ではなく、単一の意味を表す「書き言葉」が生まれます。コンピュータープログラムは、何万個(あるいはそれを遥かに超えた)「0」と「1」でできています。そのうち1つでも間違っていたら、そのプログラムは役に立ちません。いわゆる「バグ」です。バグをなくすことは難しいのですが、それ以上に「新しい機能」を付け加えることを求められます。伝達時(転送時)の「ノイズ」を消すために、「冗長性」を持たせると、さらにデータは大きくなります。

人間の心は複雑です。それを表す言葉、あるいは自然(存在そのもの)もやはり複雑なものです。それを「均質化・単純化」すること、その極端な例が「ベーシック・イングリッシュ」や『1984』の「ニュースピーク(新語法)」です。単純化された言語は、逆説的ですが、話し手(書き手)の「心情」や「意図」を、そして「事実」でさえ、表すことができません。その結果、話し手(書き手)の「心情」や「意図」を単純化していきます。でも、話し手(書き手)がある「状況(環境や、身体を含めて)」は複雑なままですから、「言いたいことを表せない」だけではなく「こころ(主体)とカラダ(客体)の分離」が必然なのです。

文字化されたもの、肉付けのない(重層性のない)文章に、作者の心情(意図)を読み取ろうとしても、それはとても心もとないものです。なので、漫画化やドラマ化、映画化、演劇化が可能なのです。

中世において、

聴衆は、波乱万丈の物語を欲しがったが、その物語は大抵の場合、人物の性格がしっかりと描かれてはいなかった。この人物描写ということは朗読者に任せられていて、朗読者は声や身振りの変化でそれを表現した。(P.186)

作者の心情を読むということは、作者の心情とは別に、「自分の心情」があるということです。そして、さらにそれとは別に、その共通点(西欧で「人間(の本質)」と言われているもの)を見つけることで、理解したり、納得したり、共感(感動)したりできるのです。

その共通点が、「集合的無意識」「社会的認識」として、「個人の意識(心理)」とは別に存在すると考えるようになります。フーコーがいう「生権力」もその一つだと思います。それは「成文法」「政治制度(機構)」「政治権力」が、「表せないもの」「自らを削ぎ落として捨てたもの」「視覚(文字)から漏れたもの」「残余」全てです。そしてそれは成文法を「補完」するものとして、初めから予定されていたものです。それなしでは成文法は成り立たないのです。

成文法から外れるもの(異端者、異端児)、周縁の者は排除されるのですが完全にはなくなりません。それらは成文法を補完・成立させる存在として、なくてはならないものです。かつ、成文法という「生活の一部を表現したもの」がある限り、それから漏れたものは、常に存在し続けます。

成文法(イギリスなどでは判例)が増えつづけることによって、「法に規定されていない物事」は減っていきますが、その分、「法を犯さざるを得ない行為」が増えていきます。


テクスト

「綴と意味の統一」という「印刷業者と印刷本の読者の直接的で実際的な関心」は、「閉じられているという感覚」を生みだします。本書に何度も出てくるオングは、

印刷は、〔テクストが〕閉じられているという感覚 sense of closure を〔われわれがもつようにと〕うながした。つまり、テクストのなかに見いだされるものが、ある終わりによって区切られ、ある完成の状態に達しているという感覚である。(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』邦訳、P.270)

印刷されたテクストは、著者のことばを、決定的な、あるいは「最終的な」かたちで示すと考えられている。というのも、印刷は、最終的なものでないと具合がわるいからである。いったん活字の組版が閉じられて締めつけられ、あるいは、写真リトグラフの平板がつくられ、それが紙に印刷されると、テクストは、手書きのものほど簡単には(削除や証入などの)変更がきかなくなる。対照的に、手書き本は、その書き込みや欄外注をとおして、本がもっている境界の外部の世界とたえず対話をかわしていた(そうした書き込みや欄外注は、つぎに書き写される写本において、しばしばテクストのなかに組みいれられた)。(同、P.271-272)

途中で「切れている」のは、小説であろうと、専門書であろうと、ドラマや映画であろうと、いやですね。気持ちがもやもやします。

象徴的な話をします。

このような事情から、ドゥーデンはイリイチとともに、このボックとの共同論文の全訳を強く希望していた。ところがボックは、この論文が発表されて以来、家事労働史の研究が急速に深まりをみせ、また彼女自身の考え方も変化して、もはや当時の立場をそのまま保持することは不可能になったとして、どうしても彼女が執筆した部分についての日本語訳を許可しようとはしなかった。(B。ドゥーデン、C・V・ヴェールホーフ『家事労働と資本主義』P.Ⅴ、訳者まえがき)

私も、1年前、あるいは1週間前に書いたものですら、読み返したくもありません。そのときに書いたものは、いくら不十分で未完成であっても「一つの全体」です。でも、その時の私はもういないのです。

若い頃に書いたものが、その人の「主著」になる人がいます。ハイデガーなんかはそうですね。『存在と時間』は「第一部」しかない未完の作品ですが、彼の主著です。西田幾多郎の『善の研究』なんかもそうですね。その後、いろいろな思想の深まりがあったとしても、どこかそれを「予感させる」ようなものが含まれています。そういう人は「ラッキー」な人です。たまたま、印刷術が持つ性格と、その人の性格が一致していたのです。その人達のうちのある人は、その部分を深め、またあるひとは、それに縛られてしまいますが。


光(視線)

古典ギリシャ、古代や中世の西欧において「見ること」は、眼から光(視線・触手)が出て、対象を抱きかかえ、捕らえるという触覚的な行為でした。なので、それは「触覚」に近いものです。また、対象からなにかが分離して飛び出し、それが目に入ることによって見えるという人もいました。いまで言えば「匂い(嗅覚)」に近いものでしょう。いずれにしても「正しく見る」ということが「善く見る」ということで、それには修練が必要でした。

近代になると、「見る」は「見える」に近づきます。目は「頭蓋骨にあいた二つの穴」で、目の構造は「カメラ」のようなものと考えられるようになります。まぶたを開ければ、誰にでも、同じように、光が水晶体(レンズ)をとおして入ってきて、網膜(フィルム)に映るのです。

ルネッサンス時代に、

すなわち、当時の人びとは、カーメラ・オブスクーラ〔現在は「暗箱」のことであるが、本来は「暗い( obscura )部屋( camera )」の意である〕と呼ばれた遊びを楽しんだのである。(P.259)

「見る」ではなく、「見える」ものとして外界を捉えるようになると、「見方(みかた)」は「見え方」になります。「見方」にあった「主体的」なことが忘れられ、主体とは別の「客観的」実在が鮮明化します。「見え方そのもの」には、個性的なものや、ヴァナキュラー(地域や文化に特徴的)なものはない、ということになります。あるいは「世界(人類)共通の(客観的な、科学的な、物理的な)見え方」があって、その見え方が文化や時代によって「異なった意味をもつ(異なった形をとる)」という考え方です。客観的なものの存在と、認識する主体とが別に存在するということです。

それでも「画家の目」や骨董商のような「目利き」に見えているものと、私に見えているものは違うように思います。私(人間)に見えているものと犬や猫に見えているもの、トンボに見えているもの、魚に見えているものはきっと違います。

「書かれている言葉」の持つ意味が次第に、いわば頁を透過する光としてよりも、頁の表面に当たる光として考えられてくるにつれ、本を読む場合、「観点」あるいは「自分のいる場所から見る」という固定的立場ということもまた強調されるようになった。そのような視覚の強調という現象は、書かれた言葉の視覚性が活字によって完全な画一性と反復可能性を持つものにまで強められる以前には全く起こり得ないことであった。(P.230)

ステンドグラスを透して見る光は、「見える光」ではなく、それを透して(通して)神の国(世界・教え)を「見る」敷居(イリイチ)のようなものでした。テキストになる前の本(書物)、仏像や伽藍、あるいはイコン(アイコン)も同様でした。この「見る」は「能動的に見る」「主体的に見る」の「見る」とは違うと思うのです。「他動詞としての見る」でも、「自動詞としての見る」でもないし、「受動的」「客観的」というのとも違います。日本語で言えば「見える」に近いかも知れません。この「見える」は「可能」でも「必然」でも「義務」でもありません。「見えた」というのは「過去形」ではありません。「見えてる」というのは「現在進行形」ではありません。うまく表現できないのですが。

今でも多くの人は、仏像を単に「削った木材」だとは考えないでしょう。でも、そこに「仏」を見る人は少ないかも知れません。「これは鎌倉時代に作られた」とか「一木造りだ」とか「〇〇の作だ」とか、さらに「炭素年代測定」や「レントゲン撮影」などを行ったりして、「物(物質)」あるいは「文化財」として仏像を見ることが増えてきています。

それでも、アイドルの「アクリルスタンド」は、「アクリルの塊」以上のものだし、アイドルの「写真集」は「自分に微笑んでいる」と感じてしまいます。映画、ラジオ、テレビの出現は、その傾向を強めているようにも見えます。俳優が語りかけているのは、私ではなくて「カメラ」や「マイク」で、周りには監督やスタッフがたくさんいて、部屋は片方の壁がなくて、BGM も流れていないことを「知って」いても、役者は「私に(あるいは相手の俳優に)話している」と感じます。そう感じなければ、番組を楽しむことができません。それは一種の「判断中止」かも知れません。

今日の科学とその方法は、観点を獲得する方向にではなく、いかにして観点を持つことを避け、閉じられた方法あるいは遠近法的な方法ではなく、開かれた「場(フィールド)」の方法と判断中止の方法を発見するかという方向に進んでいる。それが、”同時的情報移動と完全な人間の相互依存関係”という”電気的条件”のもとにおける唯一の有効な方法なのである。(P.515)

つまり、芸術と物理学における二十世紀の偉大な発見である判断中止という技術は、十九世紀の芸術と科学の非個性的な流れ作業方式の反動であり、変容である。(P.518)

マクルーハンは、この「判断中止(エポケー)」を「中世への回帰」ではなく、「電気(エレクトロニクス)の時代」と関連付けています。

「写本(筆写)時代」から、500年続いた「グーテンベルクの銀河系(活版印刷の時代、1450年代以降)」から「エレクトロニクスの時代(19世紀以降?)」へ、という時代区分(文化区分)こそが本書の主題です。それは「技術(テクノロジー)」による区分のようですが、そのテクノロジーが人間の「感覚(の比率)」をどのように変えたかが描かれています。それが現代文明をどう捉え、どう評価する(価値づける)るかの鍵なのですが、それについては後で考えます。


視点

「視点」( point of view、 viewpoint )は「視線」( visual line; line of sight?、オランダ語 Gezichetslijn の訳語らしい)の「端っこ」、あるいは、「視線の向かう方向(目標)」か、「視線のはじまり」でしょう。「何(どこ)を見る」のか、「何(どこ)から見る」のか、です。「視線の先」「目の先(眼の前、眼前)」などの言葉もあります。「見る」ということは、その文化、どの時代にもありますが、「視線」「視点」という言葉は、明治以降、あるいは江戸末期にできたのではないでしょうか。当たり前に使う「点」や「線」ですが、どちらも「音(漢音・呉音)」だけで「訓」はありません(「すじ」とか「とも・す」とか読めないこともありませんが)。一応調べてみました。

「線(綫)」は「糸」と音符「戔」、「点(點)」は「黒」と音符「占」、糸のように細長いものと、墨をつけた筆を「チョン」と置いたときのポッチ(印、しるし)です。

ユークリッドの『原論』では、

一 点とは、部分をもたないものである。

二 線とは、幅のない長さである。

三 線の端は点である。(世界の名著9 P.255)

定義されています。当たり前のように思えますが、「点 σημεῖον 」は「しるし」くらいの意味で「線 γραμμή 」は「ふであと」ぐらいの意味です。「筆」と「ペン」の違いはありますが、どちらも「現実の(具体的な)」点や線です。それを「部分をもたない」とか「幅のない」とか考えるのがすごいです。

ユークリッド(エウクレイデス)は、アリストテレスのちょっと後の人(実在したとすれば)で、アレクサンドリア(エジプト)で活動していました。『原論』には幾何学以外の事も書いてありますが、メインは幾何学で、「幾何学の父」と言われています。『原論』自体を読んだことがないので「推測」ですが、「そういうものがある」ということではなくて、「そう決めておいて、話(幾何学)を進めましょう」という「仮定」あるいは「前提」のようなものかも知れません。それは「導かれ」たり「説明され」たり「証明され」たりするものではなく、「直観」のようなものとしてあります。

  • ソクラテスは人間である。

という定義は、「ソクラテスは何か」という問いに対する答えで、「定義」は「それそれであるところのそれは何か」という問いそのもの、あるいはそのものの「本質」です。「点ある」「部分をもたないものある」(性質)という定義は、「点ある(存在する)」「部分をもたないものある(存在する)」という「存在」と「同じこと」ではありません。でも、「点を定義する(名前をつける)」と「それが存在する」と思ってしまいます。「お化けある」と「お化けいる」は違います。アリストテレスの「数える数」と「数えられる数」の違いです。

別の言い方をすれば、抽象的な数(線・点)と具体的な数(線・点)、現実的な数(線・点)と可能的(観念的)な数(線・点)です。

視点を考えるということは、「空間」を考えるということです。

時間を重視するメディアは、羊皮紙、粘土、石のような永続的性格を持つメディアであり・・・、空間を重視する〔広く伝播されることを目的とする、の意〕メディアは、パピルスとか紙のようなそれほど永続性を持たない、軽いものになる傾向があった。(P.237、ハロルド・イニス『帝国とコミュニケーション』からの引用)

なるほど。傾向としてはそうかも知れません。文字(に書くこと)は、時間を超えることであり、空間を超えることです。つまり「いま・ここ」を超えることです。空間を超えるのには自動車や飛行機があり、時間を超えるには「タイムマシン」があります。その「超えるもの」はなんでしょうか。

それを「自分」と考えると、飛行機に乗っても宇宙船に乗っても自分の「ここ」は変わらないし、タイムマシンに乗っても自分の「いま」は変わりません。

自分のいる「地点」や「時点」を考えるということは、「自分」というものの特殊な考え方です。そういう「自分」を考えたときに、「自分という視点」や「視線の先という視点」が現れます。つまり、点が「自分の中(内)にある(実在する)」という考え方が生まれます。


視覚

人間の感覚は5つに分けられ、「五感」と言われます。

ご‐かん【五感】
〘 名詞 〙 目、耳、鼻、舌、皮膚の五官を通じて外界の物事を感ずる視、聴、嗅、味、触の五つの感覚。
[初出の実例]「五感(ゴカン)の鋭利に過る者を鈍くし、架空の想像をおさゆる事是なり」(出典:当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉一九)(精選版 日本国語大辞典「五感」)

前述のとおり、著者は活版印刷術(テクノロジー)における感覚のバランス(比率)の偏り、「視覚」の重視に注目しています。

ロック〔十七世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックのこと〕の気絶とは、経験の視覚的要素が強まり、遂にすべての注意力の場を占めてしまうことによって引き起こされる催眠状態であった。心理学者は、催眠状態を、注意力がただ一つの感覚によって占められることと規定している。(P.55)

アルファベットであれ、ラジオであれ、新しいテクノロジーの影響を最初に経験する人びとは、最も強い反応を示すものである。その理由は、眼や耳が技術によって「拡張」されると直ちにわれわれの諸感覚間の比率が新しいものに変わるために、われわれは驚くほど新しい世界を経験することになるのであるが、その新しい世界は、われわれの感覚全体に、力強い新しい「閉鎖(クロージャー)」の現象〔固定した一定の様式が生み出されること〕あるいは相互作用の新しいパターンを喚起するからである。しかし、最初の衝撃は、新しい知覚の様式が社会全体にすっかり吸収され、社会の活動と組織の場に使われるようになると、次第に弱まって行く。(P.66)

私はこの「新しいテクノロジー」を経験したことがあります。「ウォークマン」です。当時の私にとって、音楽は「部屋」で聞くものでした。もちろん、盆踊りや、街頭放送、行ったことはなかったけどコンサートもありました。音は、特定の場所で、特定の方向から聞こえてきたのです。なので、視覚と聴覚で(あるいはそれ以外の感覚を総合して)、「自分がどこにいるのか」「自分がどのような状況にあるのか」を感じていたのです。それが、外でウォークマンで音楽を聞いた瞬間、視覚と聴覚が明確に「分離」したのです。その「めまい」のような「車酔い」のような感覚は、今でも忘れられません。足が地面から浮いたようで、うまく歩けないのです。「初めて自転車に乗れた時」「初めて自動車や汽車に乗った時」「初めてジェットコースターに乗った時」、のような感覚です。視覚と聴覚、そして体の動きやその感覚は、連動しているというか、切り離されることはなかったのです。私は今でもヘッドホン(イヤホン)で音楽を聞きながら歩くことが怖いのです。車が来ても、話しかけられても「聞こえない」のですから。

今の若い人は、そういう「テクノロジー」に慣れているんでしょうね。耳で音楽を聞きながらネットニュースを読んでいる、そういう「〜しながら」ということができないのかも知れません。不器用なので。でも、そういう人たちを見ると、自分の世界に閉じこもっている(エンクロージャ)ようにしか思えません。話しかけられても、近くで事件が起こっても、気づきません。あるいは、気づいても「聞こえないふり」をすることができます。「関わらない」ことができるのです。

しかし、「内部志向」は、「固定的観点」の上に成立するものであるということだけは、ここで直ちに言うことができる。安定した、一貫した性格をもつということは、動揺しない見解をもつということ、いわば、ほとんど催眠状態で一つの視点に立っているということである。写本というのは、固定的観点や思想と知識とを平面的に機能的に処理する習慣をつくり上げるには問題とならないくらい、その作られる速度はあまりに遅く、出来上がりはあまりにむらのあるものであった。(中略)写本文化の世界においては、人は一歩離れて対象を冷たく視る代わりに、対象に感情移入し、すべての感覚を働かせて対象に向かう。(P.75)

写本から活字印刷本に変わることで、現実から一歩引いて(感情移入して現実と一体化、つまり「共感」するのではなく)、「視覚」だけを用いて「主観を残したまま客観視すること」が「正しい(冷静な)ものの見方」になります。

三次元的遠近法は、人間の正常な視覚の様式では全くなく、アルファベットの文字を見分けたり、年代記風に語られる物語を理解する能力と同じように、人間が一つの「約束」として身につけた、ものの見方である。(P.53)

一六〇〇年までには、ヨーロッパ諸国の画家たちは、それを遠近法上の問題を解くために使うようになっていた。彼らのうちには、三次元の実物を模写するよりは、カーメラ・オブスクーラの二次元の像を写したほうが楽であるということを発見した者もいた。(P.260、エリック・バルノウ『マス・コミュニケーション』からの引用)

フェルメールもこの「暗箱」を利用したのではないか、と言われています。描かれるのは「心象風景」ではなくて、視覚にもとづいた「外界の風景」です。モナドの壁(自分の中)に写っている風景を「外界のもの(そのもの、あるいはその複写)」だと思っているということです。

複写(射影)なのか、実物(本物)かどうかを考える必要はありません。「本そのもの(一体化した容れ物と中身・内容)」ではなくて「テクスト(中身・内容、何が書かれているのか、作者の心情・思想)」が重要なのですから。この「射影」というのは、現代数学の基本です(私は理解できていませんが)。「どれが本物でどれがコピーなのか」、ということをなくしていき、つねに「相対化」していく。相対性理論はまさにこれですが、コペルニクス(1473-1543)的転回以来のことです。

数世紀もの間「存在の鎖」〔宇宙は神を頂点とする連鎖的な整然とした秩序を持つという中世の世界観〕の端にぶら下がっていた人間の「線条性」は、ダーウィンによって断ち切られた。線的な思考をする彼は、その鎖が繋がったものではなく、途中の環が欠けているということを強調したのである。ともかく、ダーウィンは人間中心的意識を破壊したのであるが、それはコペルニクスが空間に対してなしたことと同じことであった。(P.470)

ダーウィンがそれをなしたのか、私は疑問を持っていますが、それは別稿で。

ちなみに、私が大好きな『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)が長年続いているのは、「良いもの」「悪いもの」ということではなく、それが「評価額」という単一指標で判断されるというところです。光はもの(お宝)が放っているのではなく、光(評価額、貨幣価値)が反射したものなのです。


エレクトロニクス

でも最近、ちょっと状況が変わった気がします。近くで困っている人、痛がっている人がいても「避けて通る」というのは、新約聖書以来の西洋的なものですが(『ルカによる福音書』10-30〜10-37、「善きサマリア人」)、いまではスマホを取り出して撮影する人が取り囲みます。助けるわけでもなく、警察や救急車を呼ぶわけでもなく、けしかけるわけでもなく、無言で撮影しています。後で友人・知人に見せるか、ネットにあげるか、マスコミに売るのでしょう(後で一人で楽しむため、という人もいるかも知れませんが)。スマホは事件(現実)と関係する手段なのではなく、外界との壁です。その壁を作っているのは「法」であり(後で証拠となる)、マスコミに象徴される「世間の感情(無意識)」です。それは撮影者の中にあり(フーコーがいう「生権力」)、撮影者の鎧(モナドの境界・壁)が拡大されたものです(モナドは部分をもたない、大きさを持たない点のようなもの、つまり拡大できないものとして想定されたのですが)。ライプニッツの微積分とは、この大きさのない点(ゼロは何倍してもゼロ)の探究そのものです。

このスマホに代表される「エレクトロニクスの時代(同時性の時代)」が、「グーテンベルクの銀河系」の後の画期(イリイチに習って「分水嶺」と呼んでおきましょう)です。

この本にはいくつかの分水嶺が描かれています。非文字文化(口承文化)と文字文化、写本文化と活版印刷文化、そして「エレクトロニクスの時代」です。

その変遷を支えているのが「表音アルファベットの存在」で、「表音アルファベット」が引き起こしているのが、「諸感覚の比率の変化・分離」と「視覚の優位性」です。

グーテンベルク以前には、聖書は画一的で均質的な性格を全く持っていなかった。十六世紀以降、芸術や、産業や、政治を侵し始めたのは均質性という概念であり、それは活字が人間の感性のあらゆる面に育て上げるものなのである。

しかし、われわれは、活字文化のこの影響を漠然と「悪いもの」と考えるのではなく、均質性というものはエレクトロニクスの文化とは全く相容れないものであると考えるべきなのである。(P.270-271)

文字教養の経験が長期にわたって広範囲に浸透していないところでは、われわれのような価格体系や配給制度を作り上げる方法はまだ知られていない。しかし、われわれはエレクトロニクスの時代の到来とともに、こうした問題を急速に認識しつつある。なぜなら、電信やラジオやテレビは、活字文化に対して均質化を促進する影響を及ぼすものではなく、非活字文化の性格についての認識を深める働きをするのであるから。(P.325)

その中にあるとき(テクノロジーが一般化しているとき)には、それに気づきにくいのです。電気が当たり前になっている(ライフラインとすら呼ばれている)とき、電気以前の生活を想像することは、「災害を想定すること」になっています。日本に電気が普及したのは(たぶん西欧においても)それほどむかしのことではないので、私は何となくその時代がわかります。

はっきりと記憶していることもいくつかあります。ウォークマンはその一例です。あと「カラオケ(マイクとスピーカ)」については別のところで書きました。「コンビニ」が登場したときの違和感も覚えています。

視覚は、絵画、詩、論理学、歴史において、明確さと、画一性と、連続性を促進する。非文字文化的様式は、原始時代においても、エレクトロニクスの時代においても、暗示的であり、同時的であり、非連続的である。ジョイスはそれを「空間内部の一回性」( eins within a space )と呼んだ。(P.128)

つまり、シャルダンが説明しているように、印刷のメカニズムの発展がその極に達してので、生物電気学的現象が、活字の世界を覆っているのである。われわれの時代が、非文字文化と、いわば「同種」のものになっているのは、文明の性格が、このように逆転し始めたためである。われわれはもはや、未開人や、非文字文化人への経験を理解するのに何の困難も感じない。それはただ、われわれが、自分自身の文化の内部に、非文字文化的経験をエレクトロニクスによって再創造したからである。(P.107)

活版印刷時代(グーテンベルクの銀河系)について書いている部分については、だいたい「なるほど」と思うのですが、「エレクトロニクスの時代」については、私はどうもよくわからないのです。むしろ私が気がつくのは、1980年代に起こった「デジタルの時代」あるいは「コンピューターの時代」です。

数とは、言いかえれば、それ自体聴覚的符号であり、それを補う高度に発達した表音的文字文化がなければ無意味なものなのである。文字と数とが一緒になると、それは、人間の認識様式を、ルネッサンス時代の初期の人文主義者に強く訴えたような「二重移し代え」というやり方で移し代え、それをまた更に元へ移し代えるための、いわば強力な「収縮・拡張」作用を起こす機関(エンジン)の働きをするのである。しかし今日、数は表音アルファベットと同じように、経験と知識とを伝えたり、実際面に応用したりする手段としては時代遅れである。われわれはいまや、エレクトロニクスの時代の「文字文化以降」の段階にあると同時に、「”数”以降」の段階にある。(P.346-347)

「聴覚的符号」としての数と、「文字と一緒になった」(視覚的符号)としての数はアリストテレスの「数の二義」とどのような関係があるのでしょうか。むしろ「感覚的な数」(数えられる数)と「非感覚的な数」(数える数)といったほうがいいのかも知れません。そして、「デジタルの時代」の「デジタル」は、「指で数える数」つまり「数えられる数」といった意味を失い、「デジタル時代」とは「純粋な数える数の時代」だと言えるのではないでしょうか。そしてそれは「具体性を持たない文字」つまり「表音アルファベット」が生みだした世界だと思うのです。


本という〈商品〉

本がテクストになったというイリイチの「第一の分水嶺」は十二世紀前半です。黙読がはじまり、「道具」とそれを使う「使用者・その手」が分離した時代。それから数百年後、「グーテンベルクの銀河系」がはじまります。

活版印刷術の発明は、知識の応用という新しい視覚的偏向を強め、その規模を拡大し、史上最初の流れ作業による大量生産品である、画一性と反復可能性を持つ〈商品〉を生み出した(P.253)

本からのテクスト分離、道具と使用者の分離が「商品」を生みだします。

ローマ法の所有概念  現在のほとんどすべての法制度の基礎となっている  が独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 possession にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、 fructus (所有物の産物を享受する権利)、 abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもっていないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有していることなのだ。(デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』、邦訳 P.182)

経済学(あるいは社会学や一部の人類学、民俗学)において、商品とその売買(商品は売買されなければならない)は、「交換」の一形態だと考えられています。それは、このローマ法の「処分権」に基礎をおいていますが、売買においては「その後に何も残らないこと」つまり「物に未練がないこと」、「買った人に使用権や処分権も譲渡されること」が必要です。それがモースのいう「贈与」、あるいはグレーバーのいう「負債」によって、「空想」である、あるいは「そう思い込もうとする(志向する)文化」であることが明らかになったのではないでしょうか。

商品(数えられる数)を貨幣(数える数)とみなす「表音アルファベット」の社会は、それにふさわしい「産業社会」「商品生産社会」「資本主義社会」になりました。「口述的」なソ連(ロシア、東欧諸国)も「表音アルファベット」をもたない中国も日本も、「商品生産社会」になりました。それらの社会が持つ「商品・貨幣」の意味は、表音アルファベットの社会が持つ商品の意味とは違うのかも知れませんが。それらの社会はすべて「エレクトロニクスの時代」を経由し、「デジタルの時代」に入りました。


閉鎖性

「ウォークマン」によって引き起こされた「内向性」、言いかえれば「引きこもり」は大きな社会問題となりました。

「引きこもり」との言葉は1970年代から1980年代にかけての不登校児が部屋から出てこなくなった、または家から出られなくなったことを表現したもので、当時は「閉じこもり」「引きこもり」「立てこもり」と表現されていて一定ではなかった。報道での利用では朝日新聞記事データベースによると1982年に登場(石川良子,2015年)、公的な利用では総務庁の青少年問題審議会が1989年に注意を促したものが最初期である。(Wikipedia「引きこもり」)

最近は、「引きこもり」が一般化したので、つまり、地域との結びつきや家族との結びつきがないこと(個室があること)が「ふつう」の事になったので、「引きこもっている」だけでは問題とされません。

人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。(芥川龍之介『侏儒の言葉』、青空文庫から)

オングが活版字印刷(組版)について書いたように、一部(芥川の文章では「部分」のことではなくて、一つの全体。一巻)をなしていないものは認められにくいのです。「独立・自律した個人」でなければならないという「志向性」は活版印刷が求めているものかも知れません。それが「活版印刷」の持つ「閉鎖性」とマッチしています。

さて、逆説的なことだが、印刷術の最初の時代は、最初の「無意識の時代」をもたらした。活字は感覚のほんの僅かな一部が他の諸感覚を支配することを可能にするので、活字の影響から逃れようとするものは自分で他の隠れ家〔感覚以外のもの、すなわち無意識〕を見つけなければならない。(P.459)


類似品

私が小さい頃、子供たちの間で模型飛行機が流行っていました。模型飛行機といっても、そんが豪華なものではなくて、紙や竹ひごでできたものです。私は弟のために、安い模型飛行機を買ってやりました。お小遣いが少なかったからです。パッケージには、ほかの模型飛行機と同じように「実際の飛行機」の写真が載っていたと思います。箱を開けると、薄っぺらい発泡スチロールの部品が6枚入っていました。胴体と翼です。組み立てて飛ばしてみると、軽すぎてうまく飛びません。そして落ちると翼が取れてしまいます。私は、もらったときの弟の喜ぶ顔と、うまく飛ばず取れやすい翼を見たときの弟の「複雜」な顔を忘れられません。もう60年以上前のことですが。

それ以降も、「安物買いの銭失い」は続いています。たまごっちもどきを買った記憶があります。すぐに動かなくなったかどうか、覚えてはいません。それが「本物」と同じ機能を備えていたのかどうかすら確認しようがありません。「ウォークマン」の話をしましたが、実は私はウォークマンを持っていないのです。ウォークマンがでたとき、高かったので買えませんでした。私が買ったのは AIWA の類似品です。基本性能は同じですが、幾分大きくて重かったので、胸のポケットには入りませんでした。

本は機能ではなくて、内容ですから(文庫本は携帯が便利、というような機能はありますが)古本で十分です(できれば線引がないもの)。ただ、年齢とともに「小さな字」が読みにくくなってきています。二段組の〇〇全集(廉価版。世界の〇〇、日本の〇〇など)は、「内容豊富」ですが、読むのが辛くなっています(できれば読みたくない)。

この訳本は二段組で520ページ。活字は小さいし、たくさんある「引用文」の活字はさらに(1、2ポイント)小さいのです。原書( Unversity of Tronto Press )は279ページです。活字の大きさはふつうです。原書も引用文は1ポイント小さな活字です。1986年に新訳が出ていますが、実物は見ていないけど528ページだとみすず書房のホームページには書いてありますので、ページ数の多さは訳者のせいではないようです。必要な訳註は十分にあるし、適切なルビ(原語の発音)も振られていて、全体として原書の意味をうまく伝えている丁寧な訳だと思います。まだ「拡大鏡」で本を読みたくはないのですが。


システム

ウォークマンは iPod になって、完全にデジタルになったけど、その機能そのものは変わっていません。テレビもデジタルになったけど、その機能は変わりません。

デジタルには本物と偽物の区別がありません(原理的に。どんな端数が付いていても、無理数でさえも0か1にしてしまうから)。偽サイトも、フェイク画像(動画)もデジタルです。

暗号化やフェイク解析は、デジタルの中でのことです。いや、デジタルは別の次元のことです。暗号化やフェイク画像は、アナログ時代もありましたから。むしろそれは「コラージュ」と同様にフェイク画像という「作品」であるとも言えます。いずれにしても、その変化は感覚比率を変更するものではありませんでした。

デジタル以前と違うのは、消費者は、生産者とは異なる単なる消費者ではなくなったということです。デジタル化とほぼ同時に現われたのは、ロールプレイング・ゲームとゲームの「裏ワザ」です。ロールプレイング・ゲームは、消費者の「参加」を前提にしています。「裏ワザ」は「バグ」ともいえるものですが、「バグを探すこと」が制作者の意図とは別にゲームの目的になりました(すぐに「探すためのバグ」が制作過程で作られるようになりました)。キーボード(あるいはジョイスティック)を操作するということは、コンピューター(あるいはゲーム)のシステムの一部になるということです。ユーザーを含めてシステムは成立します。

システムを簡単に定義すると、

オペレーションズリサーチ用語(Z8121)「多種の構成要素が有機的秩序を保ち、同一目的に向かって行動するもの」

日本工業規格信頼性用語(Z8115)「所定の任務を達成するために選定され、配列され、互いに連係して動作する一連のハードウェア、ソフトウェア、人的要素の組み合わせ」(星野力『はやわかり システムの世界』、P.2)

となります。「人的資源」などという言葉ができたのもこの頃からかも知れません。

先日行われた「高専ロボコン」の話をします。「今年の競技は、ロボットがボックスを積み上げてゲートをつくり、そのゲートを人が乗った台車と一緒に通過します!」(高専ロボコンホームページ)というものです。ゲートの高さ、通過した回数などで点数を競います。旭川高専が優勝しました。ほかのチームは「ロボットがどれだけ高く積むか」「その高いゲートをどうやって崩さずに運ぶか」に力を注いでいるなかで、旭川高専のロボットは「ボックスを積む」という機能がない簡素なロボットなのです。できあがった低いゲートを運び、それをぐるぐると何十回もくぐるのです。一回通過するときに加算されるのは「5点」ですが、何十回もくぐることによって結局、高くて不安定なゲートを積み上げて運ぶよりも高得点になりました。

作戦勝ちというか、ルールギリギリというか、コロンブスの卵というか。

私が連想したのは、日本建築の在来工法と、工場で加工(切断、穴あけなど)済みのツーバイフォー工法です。従来工法では、材木を現場で測り、切り、穴を開けて組み上げます。そのために、大工の技術が必要です。ツーバイフォーでは、そういう大工の技術は必要ありません。組み立てるだけですから。さらに、いまでは工場で「部屋」を作って、それを運んで積むだけという工法もあります。旭川高専のロボットも、運んで使うだけです。ほかの高専は「大工の技術」をロボットにやらせようとしたのです。

ロールプレイング・ゲームや「裏ワザ」は、ユーザーの行為が生産の一部になることを予定されているのです。スマートフォンで検索すること、あるいはネットを観ること自体が生産の一部です。つまり、ユーザー(操作する人)はシステムの一部なのです。

自分という独立・自立を「志向する」もの、が、システムの「部分」とならざるを得ない現実、主体的(能動的・意志的)であることが予定されていながらシステムに組み込まれていること、それが「閉塞感(閉鎖性)」の本体であるような気がします。


『グーテンベルクの銀河系』は消滅したのか

著者は「表音アルファベットだから活字印刷はできたのだ」といいます。英語のアルファベットは26文字です。大文字・小文字をあわせても52個、句読点や簡単な記号を含めても100個程度で「ワンセット」の活字ができます。漢字はそうは行きません。文部科学省が定めた常用漢字は2,136字、小学校で習う漢字だけでも1,026字あります。なんせ「意味を表す文字」ですから、「意味の数だけ」文字が必要だということになります。

ちなみに世界最初の金属活字は、グーテンベルクより遥かに早く、朝鮮の高麗王朝の時代に創製されている。(前出『韓国が漢字を復活できない理由』、P.157)

それはそれとして、デジタルでは7ビット(128個)で済むアルファベットに比べて、漢字フォントは16ビット(65,536個、あるいは32ビット4,294,967,296個)が必要なのです。スマートフォンやパソコンででてこない(変換できない)漢字はけっこうあります。「漢字(文字)が読めるか・書けるか」がクイズ番組に出るなんて、欧米ではないのではないでしょうか。マクルーハンの気持ち(あるいは志賀直哉の気持ち)は肌で感じます。

この本の111ページ(原書 P.49)に、発音どおりに表した英語の例が載っています。著作権があるかも知れないので引用はしませんが、「へえ、アメリカ人はこう発音してるんだあ」と感じました。表音アルファベットが、どのくらい「音を表しているか」がわかります。

たぶん、その文化が持つものの見方や考え方を「文字の種類」だけでは考えられないのでしょうね。マクルーハンが言うように、中国語を表音アルファベットで書くことはできないでしょう。この本には出てきませんが、印欧諸語が持つ文法構造もその文化の基本的な傾向を表しているでしょう。

いま大河ドラマで「蔦屋重三郎」を主人公とした『べらぼう』が放送されています。それを観ていると、18世紀後半には、出版が盛んで貨幣経済が支配していたように見えます。それから二百年後、私が生まれた頃、日本は経済成長期に向かっていましたが、まだ「お金」は「絶対的なもの」ではありませんでした。少なくとも「必要悪」のようなものだったのです。都会は違ったのかも知れません。

書物上(書かれているもの、描かれているもの)の変化と、日常語の変化を同列に語ってはいけません。相互の影響は否定しませんが。「書かれているもの・こと」と、民衆(都市以外の、といったほうがいいでしょう)の生活・意識とは異なります。その相違そのものが「文字」の力だったのではないでしょうか。その力を抜きに「グーテンベルク革命」(あるいは「蔦重」)を語ってはいけません。表音アルファベットの力を、印欧諸語が持つ文法を抜きに語ってはいけないのです。たとえば「人生訓」はそれが当たり前だったときには、書かれないのです。それが当たり前じゃなくなったとき、あるいは強制的に「当たり前」にしようとしたとき、それは官僚や学者によって書かれるのですから。

文字文化あるいは活字文化が現代文明を生んだのか、資本主義(商品主義・貨幣主義)が現代文明を生んだのか、あるいは、文字文化が資本主義を生んだのか。あるいは古代ギリシャ人が感じた「文字に香る商業の匂い」。どれを選ぶかによって、現在の位置づけ(デジタル時代、システム時代、エレクトロニクスの時代)が変わってくるし、その価値評価も違ってきます。

われわれは今、グーテンベルクの機械的文化を過小評価するどころではなく、その成果を保持するために大いに努めなければならないように私には思える。なぜなら、テイヤール・ド・シャルダンが主張したように、エレクトロニクスの時代は機械的なものではなく、有機的なものであり、また、初め「この機械的書法」と呼ばれた活版印刷術によって達成された諸価値にとっては好ましい時代ではないからである。(P.271)

本書の主題は、活字に何か良い点がるとか悪い点があるとかということではなく、何であれ、一つの力、殊にわれわれ自身が創り出した力の影響に対し無意識であるということは災である、ということである。(P.465)

そして、知識を個別化するという幻想が、アルファベットと活字によって視覚が分離された結果いかにして生まれるようになったかということを説明するのが、本書の一貫した意図である。このことは何度繰り返して言っても言い過ぎることにはなるまい。この幻想が結果的には良かったのか悪かったのかはしばらくおくとしても、われわれのテクノロジーに内在している因果関係や影響に対して無知でいれば、災いのみしか生まれてこないということだけは確かである。(P.475-476)

デジタル文化が進めば「紙の本はなくなっていくだろう」と言われることがあります。たしかに出版業者は苦労しているだろうし、なによりも本の値段が高くなることが、私には困ったことです。デジタル書籍は、印刷・製本・輸送などが不要です。家の本棚も必要ありません。でも、デジタル書籍には「古本」がないのが困るのです。

本のない世界、私はレイ・ブラッドベリの『華氏 451度』を思い出します。本が燃やされ、人びとが本の内容(音)を「暗唱する」世界。その世界はディストピアなのでしょうか、ユートピアなのでしょうか。それを「内容だけの世界」だとすれば、デジタル書籍とはまさにそれだということになるでしょう。

活版印刷術が生みだした「無意識(と意識)」、それに「無意識であることは災である」というのはどういうことなのでしょうか。私には理解できません。

現代を「エレクトロニクスの時代」と捉えようと「デジタル時代」と捉えようと、現代文化は「口承文化(非文字文化)」ではありません。文字文化(活字文化)が「度のように変化したか(表現されるのか)」の違いだと思います。

非文字時代・文字の時代・活字の時代・エレクトロニクスの時代・デジタルの時代・システムの時代、これらの「変化」を「進化」だと捉えること自体が、「活字的」なのではないでしょうか。

マクルーハンは、文字文化(あるいは進化)を肯定しているように思うし、それ以上にエレクトロニクス文化を肯定(進化)していると見ているように思えて仕方がありません。エレクトロニクスの時代に、文字の力を再確認(継承、あるいは衰退の阻止)しようとしているように見えます。あるいは「諦めて(判断中止)」いるのでしょうか。




「これまでいずれの文学理論家もついぞ開けなかったドア、
経験のなかにおける安定性の問題についてのまことに大きな扉がここにあるといわねばなるまい。
わたしの考えでは
ブレイク以来だれも認めたことのなかった扉なのだ。
ブレイクについていえば、
マクルーハンはとことんまでブレイクの後継者である」
(G.スタイナー)

グーテンベルクによる印刷技術の発明は、
人間の歴史と文化にたいし、
いかなるインパクトを与えたか。
書物(活字)を読むという行為は、
人間の知覚=精神をどのように変容させたのか。
口語文化と活字文化はどう違うのか。
本書は、これらの疑問にたいするマクルーハンの
詩的洞察に満ちた応答である。
著者は、西欧近代の形成において
印刷技術が果たした決定的な役割を詳細に検証してゆく。
ホメロス、シェイクスピアはもとより、
ポープ、ジョイスからド・シャルダン、さらにはダンチッヒにハイゼンベルクまで、
古今東西にわたる博引傍証によって、
活版印刷をめぐる壮大な《グーテンベルクの銀河系》が描き出される。
部族共同体の時代から中世・ルネッサンスを経て
近代に至る広大な歴史の流れのなかで、
活字(書物)が視覚強調を促進することで
聴覚・触覚を抑圧し、
近代のテクノロジー・個人主義・ナショナリズム等を形成したプロセスを
モザイク的方法によって浮き彫りにしてゆく。
活字文化と電気=電磁波テクノロジーによる
文化(映画・テレビ等)が競合している今日、
活字文化を再考し、
新しい文化創造を構想する上で、
本書は、ブレイクにも似た予言者の書といえよう。



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