Ⅰ 信仰と伝承
女性と信仰(昭和一二年五月)
1
「いったい今日にあって小児に神を拝むことを教え、眼に見えざる畏怖を教えるのは、一家にあって母なり祖母なりであることが通常のようである。女性の位置が今日のごとくまで零落してもなお信仰にはいる途を後来のものに教えることだけは忘れてはいなかったのである。」(P.2)
2
「そこで神々の性質についてまず考えてみると、およそ三通りになる。すなわち家々に居つく神と、時をきめて来訪する神と、未だ神に至らざる霊である。それらの神の所在を知り得るものがこれを祭る資格を持ったのである。」(P.3)
3
「山の神に対して海の神も女性が多かった。」(P.8)
「そしてとくに女に一つの呪力のあったことの考えられるのは、海にもぐる漁業がほとんど女によってなされていることである。これは「魏志」などにも見えてすでに古く支那などにも知られていたのであろう。このはげしい労働の女性に属していたことはけっして体質が労働を決定するものではないゆえんを物語っている。」(P.8)
「さて山の神海の神は女性であったがゆえに女性が仕えたのではなく、女性が仕えたために多くが女性化されたとみるべきである。それは彼女らが神がかりによって演ずる口誦文芸がそのまま第一人称をもってなされたからである。彼はこういうことをした、というように語るのではなく、私はこうしたと語るのである。」(P.9)__日本語における女言葉。
4
「それがどうして今日のごとくにまで没落をはじめたか!その第一の原因は儒仏思想の流入であろう。女性のけがれの認めそめられたゆえんはここにある。」(P.10)
「人間感情の成長が文芸の力によるものであるとすれば、少なくとも日本民間の文芸は大半女性の手によったもので、その深き影響を考えられずにはいられない。されば文字による文芸に対しても日本の男子は多くはこれを子女のたしなむものと考えたのである。文字による文芸のすでに鎌倉以来多くは男子の手に牛耳られつつ、なお勇壮にして規模広大なる文芸の生まれなかったゆえんは単にこの国が箱庭式な優美な国であったによるのみとは想定したくない。」(P.12)
「而して日本の文芸の偉大なる功績をかの宮廷の女房たちに帰して、他を無為とするには毫もあたたらないのである。」(P.17)
5
「(・・・)サは稲のことではなく田の神であったらしいのである。」(P.18)
「神に供うべき食物の調理の女の手によってなされたことはすでに柳田先生のしばしばとかれたことで酒は女性の口によって米をかみくだき唾液とともにこれを酒桶にはき醗酵させて酒をつくる。主婦をオカミというのはここから来たかと柳田先生はいわれ、家の老女をカ自(とじ)といい、酒造りを杜氏(とじ)というのはともに一つの語りであろうともいっておられるが、酒の管理は女の仕事で酒盛りの席に女はまた重要な役目を持った。巫女の遊女をかねた理由もおそらくはこのあたりにあったのであるまいか。」(P.21)
「而してこの風の行われるところでは必ず男女ともに沖に出るのであるが、新しく海にしたしみはじめた村では女はもう海へは出なかったのである。そうしてむしろそういう村では女は船をけがすものとなっているのである。明らかに後来の思想の結果である。」(P.22)
女性の伝承(昭和三四年三月)
「庶民の歴史のなかで、ほとんどあきらかにされていないのは女性の歴史である。人口の半ばは女であった。それにもかかわらず女についての記述は少ない。では女は無視せられていたのかというに口頭伝承の大半の役割をひきうけていたのが女性であった。」(P.23)
「女が伝承者であるならば平安朝の女性のように文字を持ってもいいはずだが、文字を持つ機会はきわめて少なかった。とくに男の世界と女の世界にはいろいろの点で差が見られ、男の生活の場が多く村であったのに対して、女は家であった。」(P.23)
「農作業にしても耕起や砕土は男の仕事であるが、種まき、田植えは女が主になった。その他の生産や生活のなかに男女の作業の区別がはっきり見られる。
しかしそれらのなかにもおのずから地方的な差が見られた。」(P.24)
「ただ夫が出稼ぎに行っている家では女が男にかわって働いた。瀬戸内海ではこの男耕と女耕の島がかなりはっきりわかれており、それを景観の上にも見ることができる。
今日では男女ともに働くようになっているけど、明治の終わりころまでは、村々における男女関係のあり方にはかなり差があったわけである。」(P.25)
「それ以外、女が田畑にあまり出ないところでは女のつきあいが大きい。それは村の公的なものではなく、親類や隣近所のつきあいである。そういう風景は本分家関係の密接なところには見られない。本分家よりも姻戚関係の密接な地帯である。」(P.26)
「戦争に際して多くの人々が農村へ疎開した。これには三つの型があったようである。その一つは何らかの知るべなり、姻戚を頼って疎開したもの、その二は夫の郷里へ家族一同が疎開したもの、その三は妻の郷里へ家族と夫がついていった場合である。戦後村々をあるいてみて気のついたことだが、東日本には第二型が多く、西日本には第三型が多かった。都市周辺には第一型が見られた。」(P.27)
「第三型が見られるところは、大間知篤三氏によって明らかにされた婿入婚の行われていた地帯とほぼ一致する。」(P.27)
「もともと母処婚で、男が女のところへかよっていたのが、政治や社会の情勢の変化から嫁入りの行われるようになったところでは女は気に入らぬ男のところからさっさと引きあげて来たものであろう。こうして戻って来ることを瀬戸内海地方では、「テボをふる」とか「ホボロをふる」とかいっており、対馬では「テボをからう」といっている。テボもホボロも藁で編んだ籠のような物入れである。昔はそれへ女の道具を入れていったものであろう。それをかついで戻って来るのである。上流階級はともかくとして、瀬戸内海地方で一度もテボをふらずに、はじめて結婚した男と生涯を通したという例はきわめて少ない。たいていは一、二度テボをふっている。理由は相手の男に不足があったわけではない。多くはヨバイで結びついた仲なのだから、男の気心は知れているのだが、姑との折合いが悪かったのである。ところが、別れて戻って来ると、妊娠していることが多くて、私生児を産むことになる。」(P.28)__「でもどる」。
「しかも再婚する場合、女は前夫の子をつれていくことが少なくなかった。それまた嫁入りの条件をさまたげることも少なかった。これらのことからもわかるように、子供はむしろ母に属するものであるとの考え方がつよく、そこには母系制的な感覚が感ぜられる。」(P.29)
「こうした世界では女の知恵がまた尊ばれており、世間の人が村の家々を批評するにも、「あの家は女がしっかりしているから」というような評語が重要な意味を持っていた。これは今日もなおたいしてかわっていないといってもいい。家格も問題になるが、家格については主婦であり、その次に主人が問題にされている。つまり家をしっかりと持ちつたえていくのは女であると信じられていた。」(P.29)
「国会議員などの場合はともかく、県市町村などの地方選挙には同族関係によって票のかたまるものと、姻戚関係によって票の固まる地帯とがある。」(P.30)
「あまいとかからいとか、すっぱいとかいう程度のものだけど、自分で飲まなくても、何かの折に小耳にはさんだのをおぼえているのである。そしてなにもかも知らぬような顔をしてくらしている。」(P.31)
「実は村の秩序の本当の維持者はどこでも女だといっていい。東日本のようにそれが埋没(FF)した形であろうと、西日本のようにかなりはっきり表面に出ていようと、女が村の秩序の維持者であることにかわりはない。それはまた女たちが村や家の口頭伝承の役割を受け持っていたことと深い関係がある。」(P.31-32)
「明治の終わりごろまで、一般に女の地位はきわめて低いもののように考えられ、また若者たちの間には村の娘を管理する権利のようなものが存在した村も多いが(本書「婚姻と若者組」参照)、女はただ男の意志の自由になっていただけではなかったようである。男女の(FF)関係もそのはじめは女が男の気をひき、男の眼にとまろうとするような行為または儀式から出発している。踊りというのは本来そういうものではなかったかと思われる。大正時代、日本にいたロシアの学者ネフスキーは、踊りは男取りだろうといったことがある。これは妻を迎えることをめとるという言葉と対応する。日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それはもと男をえらぶためのものであったといってもいいほど踊りにともなって情事が見られている。また多くの男が一人の女のところに通っても、そのなかから一人の男をえらぶ自由は女の方にあった。」(P.33)
「こうして女たちは主人に、または夫に隷属するまえに選択の自由はあった。選択の自由がなかったというのは、本人に選択の意志や能力がないか、または周囲のやむを得ない事情による場合が多かった。
この選択の自由は重要な意味を持っている。それによって女の運命がきまってしまうものだからである。そして自ら選んだものは大切にした。このことがあったからこそ女は家のよき伝承者たり得たのである。女を頑固なものにしたのもそうした自由意志がその最初にあったからである。」(P.35)
「しかし、女の持つこうした伝承者的な性格とかしこさは、学校教育の発達によってしだいにかげのうすいものになって来た。」(P.35)__Nota Bene!!
「なぜなら、新しい教育は、子が親の職業をうけつがねばならないということは要請しないのである。しかも現今では日本総人口一億人のうち、農業人口は二〇〇〇万、それ以外は農業以外の職業にたずさわっている。そしてしかもその大半は俸給生活者か職場労働者である。そしてそれはすでに家を生産単位とする職業ではなくなっている。したがって子が親の職業にしたがわねばならぬ要素はいたって少ない。これらの人々にとって家族生活というのは安息のためのものである。しかし農家の場合は必ずしもそうではない。」(P.37)
「しかし、女たちのその本能的な叡智の底にひそむ、不安そのものが、農村の不安定性であることをわすれてはいけない。」(P.37)
Ⅱ 女性の民俗誌
女の位置(昭和四〇年四月)
「儒教的な道徳や武家的な慣習の十分浸透しなかった社会では女の地位はけっして低いものではなかった。」(P.42)
「この伝統は長くうけつがれて、明治大正時代までは宿屋の主人はたいてい女になっていた。事実女が宿の采配を振るっていたものである。料亭の主にしても女の名になっているものが多かったし、この方はいまも見られるところである。」(P.42)
「「いやになったもの同士が一緒にいるのは道徳にあわんでしょう」と対馬のある老婆はいった。」(P.43)__形式的自由ではなく実質的自由。
ふだん着の婚礼 生活の記録1(昭和四四年四月)
佐渡の嫁
アシイレ
「そして主婦権がつよければつよいほど、嫁の座は低いものになる。」(P.47)
武家町人の結婚
「王朝時代の文学を読んでみても、恋愛について描かれたものは多くても、はなやかな結婚式のさまを描いた場面のほとんどないことは、古代貴族の文化にも、今日のような結婚式が存在していなかったことを物語るものと思う。(FF)
それがはなやかなものになってくるのは一五世紀以降で、とくに武士の間に見られるようになった。」(P.49-50)
デボカライ嫁
「わるい亭主にそうたら女は一生不幸だという。牛や馬を飼う場合でも、気に入らないものはすぐ売ってしまう。人間だって同じことだ。だから本当によい男に出会うまでは相手をかえてみることだ。とそのばあさんはいった。」(P.52)
「離婚がそれほど問題にならない社会。そこでは家というものがそれほどつよいおもしにはならなかった。そこでは夫婦を中心にした生産単位が成立しつつあったからである。」(P.53)
「今日のように経済がゆたかになって、また家そのものが生産単位でなくなってくれば、あらたに若い二人だけの憩いの場としての住居を求めることも楽だし、また、子が親の家業をつぐのでなければ、家風もそれほど問題にはならないが、経済的にも貧しく、家業継承が何よりも重要だとされた時代にあって、その家のものでないものがあらたにはいって共同生活をいとなむ場合、新入りのものの地位の不安定であったことはいうまでもない。」(P.54)
婿入り
「しかも古い結婚式は、相手の家へはいることに大きな意味があった。婿入り、嫁入りということばがそのことを示している。結婚というよりも相手の家にはいり込むことであった。したがって、式は受け入れる家で行われたものであった。」(P.57)
共稼ぎ 生活の記録2(昭和四四年五月)
対馬で見た老夫婦たち
ハワイ移民
「三年を過ぎると自由契約になる。自由契約だと一ヶ月三〇ドル(約六〇円)くらいのもうけになる。そして金を残すものもふえてきた。と同時に、旅費を支弁してもらうよりも自弁で渡航すれば、はじめから有利な契約の結ばれることもわかってきて、明治二七年(一八九四年)からは旅費自弁渡航が断然多くなってきたが、夫婦いっしょにわたるものは依然として多かった。ハワイ、アメリカ移民の成功はこんなところにあった。」(P.64)
トトカカ船
「日本の民衆社会では、夫婦共稼ぎはごくあたりまえのこととされてきた。そしてそういう世界ではとくに男が権力をふるうようなこともなかった。」(P.66)__「稼ぎ」は、多分農業のことで、賃労働(サラリーマン)のことではない。
「しかし、海上漂泊の漁民は箱崎ばかりではなく方々にいた。」(P.67)
炭鉱の底で
「いまは男のみの世界となっている炭鉱すらも、昭和六(一九三一)年一二月に女子入坑禁止令が出るまで男女共働きの世界であった。」(P.70)
山本作兵衛
「夫婦共働きの世界はその生活は貧しくともそこには深い相互信頼があり、女が男の権力のまえに屈してのみいるような風景は見られなかった。むしろ男は女に寄りそわれることによってどのような世界をも生きぬくことができたのが、日本の過去の民衆社会ではなかったかと思っている。共働きの単一家族の世界においては男女同権は、けっして戦後にアメリカから与えられたものではなかった。」(P.73)
海女たち 生活の記録3(昭和四四年六月)
舳倉(へぐら)島の海女
対馬の海女
「はじめのうちは、夫婦共働きであったが一七世紀の終わりごろから対馬でもクジラをとるようになり、男たちはそれにやとわれてゆき、男と女は別々に暮らさなければならなくなった。」(P.79)
「するとこんどは女たちは羽二重の紋付きの振り袖を着、たすきをかけ、鉢巻をして、手にはモリを持ち、船のへさきに立って男たちに船をこがせつつ、魚を追いモリをなげかける。モリが三びきの魚につきささるまでそれをつづける。この儀式がすむと男たちはあとの魚をとってよかった。女たちは三びきの魚をおなじようにわけて、その肉をつかって祝いの料理をつくった。」(P.81)
九州各地の海女
海女の行方
出稼ぎと旅 生活の記録4(昭和四四年七月)
穀寄せ奉公
「一日米一升が労賃であったという。たいていは四〇日働いて米一俵になると郷里へ戻ってくる。そしてそれが家では正月を迎える米になるのである。」(P.90)
女の旅
「嫁になる主婦になると、もう家を出て旅をすることも少なくなる。そこで若い間にできるだけあるいて広い世間を見て(FF)おけば、嫁にいってからいろいろ役に立つだろうというのが、娘たちの願いでもなかっただろうか。」(P.93)
「八十八ヶ所めぐりが女の修養の一つではなかったかと思われる。」(P.93)
「旅は娘の身だしなみであったという。元気でありさえすれば、そしてよい仲間が居りさえすれば旅に出たものだし、親も(FF)それを許したという。」(P.95-96)
奉公市
「そして、奉公がなくなると急に都会に新しい職場をもとめて出ていくようになったという。」(P.100)
「東日本では昭和三〇年ころから女たちの集まりが多く行われるようになったのではなかろうか。西日本では早くから方々に女の集まりがあり、それが念仏講のような宗教的なものもあったが、茶飲みといって余暇を利用して、集まることも多かった。(中略)もとより明治生まれの人であるから、それ以前のことはわからないが、その親たちも世間を見て来たものは多かったと思われる。それは単なる穀寄せではなく、世間を見るために出かけたものが少ならからずいたのである。つまり、穀寄せから見習いへと旅の目的が拡大していった。」(P.101)
「女の人たちはこのようにして男の人の気のつかぬようなところでお互いに交流しあっていた。そして自分たちの家の生活をも女なりに充実させていった。」(P.102)
見習い奉公 生活の記録5(昭和四四年八月)
見習い奉公
塩ふみ
「商家の生活は農家にくらべるとはなやかに見えたが、実際には農家におとらないほどきびしくつつましいものであった。消費生活、とくにお金のつかい方二のつつましさは微に入り細にわたったもので、物を買うにもかならず値切らせたという。つまり言い値より安く買わせたという。私が話をきいた小豆島の女性はそれが一ばんつらかったといった。そしてそういう生活になれてしまうまでにかなりの月日を必要とした。」(P.107)
城下奉公
「たとえば農家では家のなかで家族のものが挨拶をしあ(FF)いうことはないが、城下奉公をして来るとそれをするようになる。」(P.110-111)
江戸奉公
女工たち 生活の記録6(昭和四四年九月)
富岡製糸場
製糸女工
「しかし工女が女工と呼ばれるようになると事情は非常に変わってくる。」(P.121)
「諏訪へ働きにいった娘たちは武士の娘ではなかった。みんな貧しい農家の娘であった。そして娘のかせぎがそれぞれの家の生活を大きく変えたのである。」(P.112)
紡績女工
「明治初年の農民の生活は悲惨なものであった。それまでの税は物納であり、米で納めていた。それが金納になった。当時日本に流通していた貨幣の量は少なかった。その貨幣で税を納めなければならないことは、貨幣のほとんど流通していない農村社会には大きな負担であった。それがさらに明治一五(一八八二年)に日本銀行ができてそれまで流通していた太政官札が日本銀行券に切り替えられたときに生じた不景気は身にこたえた。そして金に(FF)つまった百姓たちはどんどん土地を手ばなして小作に転落していったのである。そして明治一九(一八八六)年には農家の三四・四%が小作農になっていた。しかも男たちの多くはその小作地にしがみついて百姓をしなければならず、そのために女たちが現金を手に入れるような働きに出かけなければならなかった。(中略)したがって製糸労働を通じて農家がうるおうという地域は明治の中ごろまではそれほどひろかったとはいえない。
それに比べて綿糸紡績工場の方はそのスタートはおくれたが、はじめから大工場が出現して、やがて多くの女工を吸収しはじめる。」(P.126-127)
「これらの工場が急速に伸びてゆく一方、明治一六(一八八三)年から深夜業がはじめられたのである。」(P.127)
行商 生活の記録7(昭和四四年一〇月)
戦争未亡人と行商
「貧しいものが生きるということと、それを一つの枠にはめてみようとするものの間には、かなり大きなくい違いがあるようである。」(P.134)
毒消し売り
女行商の村々
人身売買 生活の記録8(昭和四四年一一月)
からゆきさん
「こうして、東南アジアへ出かけていった女たちの故郷は長崎を中心にして、西北九州が多く、とくに島原と天草が圧倒的に多かった。その地方は寛永一四(一六三七)年の島原の乱の舞台となったところであり、乱の原因は禁制のキリシタンを信じていたことにあったようにいわれているけれども、生産の低さと、重税のために、農民の生活はきわめてみじめなものとなっていた。乱後、他地方から農民の移住をすすめたり、税を軽くしてみたりしたが、幕末のころまでその生活はたいして向上しなかった。そして早くから出稼ぎしなければ生活の立たない水呑み百姓が多かった。」(P.145)
北満の日本女性
売春禁止
「元来貧しい家の女が身を売ろうということは、もとはきわめてありふれたことであったという。男の子は売りものになりにくかったし、売っても安かった。そこで愛媛県の山間地方では貧しい家に男の子が生まれたときは喜ばれなかったが、女の子が生まれたときは、「日目が生まれた」と喜んだという。一〇歳あまりに成長すれば女郎屋などに売ることができたからである。
貧しい家では子供の始末に困った。だから生まれ出た子をそのまま殺してしまうことも多かったが、とにかく育てるだけは育ててみようと苦労した親は多く、七、八歳になって、物心もつきどうにか自分のことは自分でできるようになると、男の子がまず人にもらわれていくことが多かった。そしてまた女の子たちが売られてゆく。早ければ一二、三歳ごろからであった。」(P.151)
月小屋と娘宿 生活の記録9(昭和四四年一二月)
月小屋
「女性の生理現象は、健康で正常であるかぎり、誰にも見られるものであり、その初めはそれがあることによって、かえった神秘視されていたと思われるのであるが、日本には早くから血を忌む習俗が発達していった。」(P.155)
「生理の処理がたくみになってからのことである。一つは人口がふえ、同じ時期に生理になっているものが多く、小さい小屋にはいりきらぬほどになってきたためで、出産のときだけ利用されるようになり、ついにそれもすたれたのである。」(P.158)
血の忌み
「だから、山中の狩人 野獣の血を流すような仕事をしているものでも人の血は忌みきらっていたのである。
とくに祭祀にたずさわるものがこれを忌みきらっている。」(P.159)
「もともと神の祭祀をつかさどったのは古い時代には女が多かったのであるが、その女たちが、生理の間だけは祭祀をさけたというようなことが、その間だけでなく、女は生理があるからということで、かえって祭祀から遠ざけられるようになったかとも考えられる。そのような拡大解釈のおこってきたのもあるいは仏教思想の影響かとも考えられる。
沖縄は神の祭祀を行うのはいまも女性が主である。ここでは女をけがれたものなどと考えているものはいないし、また低く見る風習もとぼしい。そして沖縄では仏教は民間に(FF)まで十分浸透していない。」(P.159-160)
「そればかりではない。生理中は神社にまいらぬとか、自分の家の神のまつってある部屋にはいらぬといった習俗にいたっては全国にわたっていたといってよかったのである。(FF)
そのような制限がどれほど女の心を暗くし、またその生活を圧迫していったことか。しかもそれは一応血を忌む習俗のなかから出てきたものであったといっていい。武士は血を見ることを恐れなかったし、それを恐れるものをあざ笑ったけれども、一般の民衆は早くからその逆の道をあるいた。そして神の祭祀にあっても、狩猟の盛んに行われた地帯をのぞいては、犠牲をささげるというようなことはほとんどなかったのである。」(P.160-161)
娘宿
「娘宿の方は、そこに寝とまりするのではなく、夜集まって仕事をいっしょにし、寝るときは家へ帰るという例ならばたくさんあった。家のなかで親たちといっしょに仕事するよりは若いもの同士で集まって仕事をする方が楽しかった。仕事といえば苧うみ、糸繰り、ワラ仕事、海岸地方なら網すきが多かった。」(P.164)
「一つの宿のグループは一〇人をこえることは少なく、村のなかにそういう組がいくつもあり、宿仲間のものは生涯仲よくしたのである。そしてこの仲間のものは娘宿をぬけてからさきは、ホウバイとかドシとか呼んでつきあった。」(P.164)
「そしてそのようにして女たちは女たちの不利な条件を克服していったのである。単に西欧の文化の影響のみで女の世界が今日のようになったのではないことは、こうした事実の累積のなかからもうかがわれてくる。」(P.165)__宮本は、「男と女は対立するもの」という潜在意識があるのかもしれない。西欧的な「男尊女卑」の考えであり、「女は搾取されている」「虐げられている」「差別されている」という思いである。そこから「ウーマンリブ」や西欧的「自由平等」が生まれる。
女の相続 生活の記録10(昭和四五年一月)
姉家督
「自給を中心とした生活をたてていると、どうしても多くの労力を必要とし、どの家でもできるだけ早く跡取りをつくるようにする。昔は早婚であったというのもそのためであった。」(P.167)__労力と、「間引き」をどう捉えるか。
シンガイ
「こぼれ籾、落ち穂、くず米のようなものは俵に入れないで桶のようなものに入れておく。この方は普通出来高のなかには加えない。それが少し大きな百姓ならば一石や二石はある。俵に入れれば四、五俵はある。これはすべて主婦の管理になる。」(P.171)
「この話は面白かったから、その後米作地帯で、女の管理する米のことについてきいてみると、姉家督のあるなしにかかわらず、女の自由にできる米はどこにもあった。女といっても、それを監督するのは主婦で、息子の嫁にははした米を管理する権利は与えられていなかった。
かえって男のほうが金には不自由であったようである。米を売った代金は肥料・農機具・税金などにとられてしまって戸主の自由になる金は少ない。」(P.171)__へそくり。
「同時に自分の家だけでなく、村全体のことがわかっていなければならなかった。そして女たちには女たちだけで通じあう世界があったようである。」(P.172)
「私有財産を意味することばの多くが開墾を意味するものであるのは興がふかい。」(P.174)
「しかも女が他家にはいって生活するためには私有財産は必要であった。」(P.174)__「私有」の意味が西欧(ローマ法)的。
女系
「また主婦が主婦としての地位を保つためには家付きの娘である場合には、その家の財産(FF)のなかから自分の管理するだけの徳分を確保したが、他家からはいってくるものには嫁の財産あるいは主婦の財産ともいうべきものが必要であったようで、それを実家から持ってゆくものもあったが、とついだ後新しく耕地をひらく場合も多かったと思われる。この努力によって古い時代の主婦の地位は守られたようである。」(P.176-177)
家出 生活の記録11(昭和四五年二月)
女の夢
あまりものの女
「このように都会あるいは歓楽の世界には女たちをうけいれる場があり、そこにはまた女の城ともいうべきものがあった。そして都会は弱い女たちの逃げ場であったともいえる。しかもそこにおてば芽を出す機会が田舎よりははるかに多かったからである。」(P.185)
島の女
「店を持てば亭主がばくち好きでさえなければお金は少しずつたまってゆく。そしてより大きな店の出物を見つけてそれを買う。同じ場所で店を大きくしようとすると、逆にお客にたかられてしまうものだそうである。」(P.188)__メトホルミン。
「しかし最近は家出する娘もいなくなったという。」(P.189)__トー横キッズ。
病気の苦しみと、老いる苦しみ。「老いる苦しみ」とはなんだろう。
戦後の女性 生活の記録12(昭和四五年三月)
婦人参政
「ところが婦人が参政権を得てから、このような事件はほとんど姿を消した。女性は買収にのることが少なかったし、そういうことがあると、逆にうわさの種をまいて候補者が不利になることが多かった。また女性を暴力でおどすことも効果がなかった。とにかく選挙にともなう血なまぐさい事件はいちじるしく減ってきた。」(P.191)__SNS、男性(世界)の女性化。いや、生物種としての「女性」ではなく、社会に必要な「種」としての、社会を作る(構成している)ものとしての「女性性」は失われることがない。
「つまり女が女として考え、自分たちの立場も主張しようとする意志が動きはじめたのである。」(P.192)
生活の改善運動
「これは農作業の関係からであった。旧正月廃止運動から一方では、温床苗代の励行が盛んになり、収穫期が早くなるにつれて凶作に見まわれることが少なくなり、しかも取り入れが早くなったために、新暦正月を迎えることができるようになった。と同時に農民は長い冬を持つことになり、それが農民出稼ぎの一因になっていることを見のがすわけにはいかない。もとより農民出稼ぎにはもっと多くの原因があるのであるが・・・。」(P.195)
第三次産業と女性
「それらは農業人口が第二次・第三次産業に転じていったものも多かったことは比率の移動でよくわかるが、それ以外に新たに第三次産業に参加したものの多かったことを物語る。それはいままで無職として登録されていた女性が、第三次産業へ大きく参加したのだと思われる。」(P.197)__就業者人数が増えているのか。
男女共働
「男女共学があたりまえになると、男女の持つ感情のへだたりがいちじるしく少なくなってきた。と同時に親たちが娘の都市への遊学をあたりまえと思うようになってきた。」(P.198)__男女の隔たりは少なくなってきたのか。人間同士の隔たりが多くなったのではないか。
「しかもそれらのなかには女性を適当とする職業の量が増大しつつある。それは女性自身が大きく消費人口として登場しはじめたためである。」(P.200)
「ただ戦争というものはほとんど男の世界に見られたものであり、そのことによって男が特権を大きく持っていたといってもよい。男の特権が真に剥奪されるためには、戦争のない社会をつくり出さなければならない。戦後における女性社会の拡大と女権の拡張も、われわれが二五年の間戦争をしなかったことと深い関係があるようである。」(P.201)__アメリカを見よ。戦争を続け、女性兵士がふえている。
婚姻と若者組(昭和二一年一〇月)
(P.208)__同じような儀式でも、あるいはその目的が同じでも、方法・対象は異なる。
「婚姻も本来は正月行事のごとく、その将来を予祝するべきものだったのである。」(P.209)
「しかし若者の祝儀をその席から分離することによって家と家とのみの婚礼を行うことができるようになった。」(P.210)
里にいる妻(昭和三二年一〇月)
「一般に武家および町家以外のもので瓦葺きにするものはほとんどなかったし、藩によって禁止していたところも少なくない。しかし佐久島はその逆であったから大へんハイカラなところであったと思われる。」(P.212)
「ただしこれは西だけで、東にもほぼ同数くらいの死者のあったことが見込まれる。が養子の数が水死者より多いのは何によるものだろうか。(FF)
小さい島が島として安定を保つためにはいろいろの条件が必要になる。その条件が何であったかを見るけることによってわれわれは島民の幸福のための対策をたてることができるように思う。古い習慣ののこるのもこの条件によるものであり、新しくしてゆくのもこの条件による。
島が島として安定するには一定の人口の保持が必要である。そのために島外からの移入も必要であっただろうが、同時にまたあまったものは出てゆかねばならなかった。」(P.214-215)
貧女のために(昭和三六年九月)
(P.217)__流れコンブ。
女の寿命(昭和二八年一一月)
「稲をつくり、籾をとり、それを各家ですって米にし、さらに臼でついて白米にし、飯にたくまで、曾ては動力の利用はなかったのです。そして家庭内の作業になると、そのすべては女が負担したのです。それらを上手に処理していくのが立派な主婦だったのですが、そうした仕事に追いまくられながらも昔の人たちはどことなくのどかであり、かつ明るさがあったと思います。けっして昔の生活がいまよりゆたかであったというのではありませんが、どこかのどかなものがありました。それは何故だったでしょうか。それにはその生活のなかに二つの重要な生活を明るくする要素を持っていました。一つは時間にとらわれないこと、いま一つは労作業のなかに歌を持っていたことだと思うのです。」(P.123)
「本当に百姓が時間にしたがうためには農作業の方法をウンとかえる必要があると思うのです。しかしそれはかなり困難なことです。何故なら百姓仕事は天候に支配せられることが多いからです。そしてしかもそうした農作業がすぐ主婦たちの家庭作業を圧迫します。農作業そのものは時間にしばられにくいものであり、主婦の生活はたえず時間にしばられなければならなくなりつつあるところに実に大きな問題があるのです。」(P.224)
文化の基礎としての平常なるもの(昭和五六年一月)
「明治の初めごろまでは婚域はきわめて狭いものであり、なかには一村のうちにかぎられていたという例も多(FF)い。それがしだいにひろがって来たことの理由の一つに男女の愛情の問題があったと思う。
しかもいまこんなことを思い出したのは近ごろ農村に嫁がないということばが流行語になっていることからで、嫁を狭い地域のなかから求めようとしたり、結婚がより打算的になって愛情よりも打算が先行するようになったためではないかと思う。」(P.228-229)
「新聞も雑誌もテレビもラジオをすべて事件を追うている。事件だけが話題になる。そしてそこにあらわれたものが世相だと思っているが、実は新聞記事やテレビのニュースにならないところに本当の生活があり、文化があるのではないだろうか。その平凡だが英知にみちた生活のたて方がもっと掘りおこされてよいように思う。当節はすべてに演出が多く、芝居がかっていすぎる。」(P.229)__Nota Bene!!
島の女性風俗誌(昭和三八年八月)
縫針の不要な世界
「男はたいてい出稼ぎにゆく。子供も町の工場や店へつとめる。家にあって田畑を耕すのは女が主で、そのために言語に絶した忙しさで、おちおちと裁縫している間などないのが現状である。いきおい仕立てあがったものがあればそれを買うようになる。」(P.231)
佐渡の女
麻布とマダ布
アンギン・藻夜着・ドンザ
対馬の染織
「忙しいからそうしているのではない。夜が明けると家へ帰って寝ていた。涼しい美しい月の夜をたのしみながら仕事をして、暑い昼は寝て暮らすような生活がここにはまだ残っていた。
昭和二五、六年ごろまでは、対馬北部には時計のある家は少なかった。時計のないということは時間の観念をなくする。」(P.245)
ハギトウジン
袂付きの仕事着
頭上運搬・娘宿
宝島の神酒つくり(昭和三一年二月)
酒と女
「堕胎間引 産児制限は単に戦後の現象ではない。昔から多かったのだし、表面へあらわれることはなくなったが、裏面ではずいぶんおこなわれていたものである。」(P.259)
ドブロク地帯の話
「しかし、もともとドブロクというものはうまくないものであった。すっぱ味があって口ざわりもよくないうえに、のめば腹ふくるるものであった。」(P.261)
神酒をつくる女たち
酒の管理も女があたる
Ⅲ 女の物語
飛島の女 地方流しの果に(昭和四三年九月)
「かつて本土には重罪人を島流しにする制度があった。佐渡、隠岐、屋久島、八丈島・・・一方、島では罪人を本土(地方)に流す風習があった。これを地方流しといった・・・」(P.268)
五月船のくる港
船宿、水夫たちの休息所
ほんの些細なことが・・・
地方に流された嫁
奇しきめぐりあわせ
阿蘇の女 強者どものゆめのあと(昭和四三年一一月)
火の山をめぐる抗争
肉親同士の血の流し合い
先祖の墓を訪ね歩く
遥かな夢をしのぶ老婆
「有住さんはこの話をきいておどろいた。永正一〇年は昭和三二年から数えて四四四年まえのことである。その遠い昔のことを記録も何も持たないのにここの人たちは最近のできごとのようにおぼえている。そして主人の墓があるということで、この不便な山奥に生(FF)きつづけてきたのである。それにしても主人である自分の家の方の無関心はどういうことであろうか。物に書きしるしてあるということによって、かえって安心して忘れ去ってしまったのであろう。」(P.296-297)__Nota Bene!!
母の思い出(昭和四六年四月)
「母とあるく道はすべて(FF)楽しかった。」(P.300-301)
「荷が重いから帰りは歌をうたわなかった。」(P.302)
「家のなかから機を織るオサの音がきこえてくると、私は安心して外で仲間たちと遊んだ。」(P.302)
母の記(昭和三七年三月)
解説 宮本氏との出会いを中心に 谷川健一
「宮本氏の話のなかでとくに記憶に残っているのは「民衆の世界が世間に知られるのは不幸によってである」という言葉であった。」(P.321)
「衣食住のあけくれで一生を終わってしまった無名の女たちこそ、日本の女たちの大部分であろうに。」(P.323)__なぜ知られなければならない世になったのか。
(民俗学者・作家)
《書き抜き終わり》
《メモ》
「人間とは何か」というのは、古代ギリシャにおいても、いや全世界のどの時代のどの文化においても考えられたと思います。でも、その「人間」の意味は、時代や文化によって異なります。ある文化では「白い人」(「人」は「自分たち」のことだとしておきます)を「人間」だと思っていたし、ある文化では「自由民・市民(奴隷でない人)」を「人間」だと思っていました。あるいは「同じ言葉(言語)を話す人」「同じ政治体制を持つ人」「成人した人」「(成人した)男の人」など、まちまちです。古代ギリシャ人にとっては、それは「ギリシャ(ポリス)の自由民(市民)の男性」だったと思います。それぞれ「自分たち」の範囲が異なります。そして「自分たち」と言った時に、そういうためには「相手」が必要なのですが、「自分たち」に「自分」が含まれるか、あるいは「相手」が含まれるのかの違いもあります。現在の日本語の「私たちは〜」は、相手が含まれるときも、含まれないときもあります。「私」は必ず含まれるように思いがちですが、どうでしょう。話している人にとって「私」が「主体」であるときも、「客体(対象・相手)」であるときもあるでしょう。
「人間は直立二足歩行をし〜」と言った途端、「直立二足歩行をすればペンギンも人間か」ということになりますし、「人間は言葉を話し〜」といえば「オウムも人間か」という疑問が生じます。「人間は直立二足歩行をし、言葉を話し、道具を使い、肺で呼吸し、・・・」という定義は無限に終わらないし、「人間」を網羅しません。「ペンギンなく、オウムでなく、・・・」という定義もやはり永遠に続きます。
「人間(あるいは人類)とは」というものが考えられるようになった、つまり「人間」と「人間じゃないもの」を区別しようと多くの人が思い始めたのは、比較的最近だと思います。「タヌキが人に化けていた」というような昔話は「昔」からありそうです。「妖怪」や「神」が「人」に化ける(化身する)という話もたくさんあります。
《メモ終わり》