![家事労働と資本主義 B.ドゥーデン、C.v.ヴェールホーフ著 丸山真人編訳 1998/07/06 [特装版]岩波現代選書](https://nomado.moo.jp/medias/wp-content/uploads/2026/01/6157991f3143c62c24939ef37b92d883.jpg)
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ヴェールホーフの「「シャドウ・ワーク」か家事労働か:労働の現在と未来 イヴァン・イリイチにたいするフェミニストの批判 」を読みたくて買いました。
第一章「資本主義と家事労働の起源」(1977)はドゥーデン、第二章〜第四章(1983-1984)はヴェールホーフの論文です。訳者の丸山真人さんが編集したものです。これは「特装版」ですが、普通の版が出たのは1986年です。
イリイチの『シャドウ・ワーク Shadow Work 』が出版されたのは1981年(邦訳1982年)、『ジェンダー Gender 』は1982年(邦訳1984年)です。ドゥーデンの論文はその前、ヴェールホーフはその後ということになります(「批判」だから当然だけど)。原著はドイツ語です。
Wikipedia(英語版)によると、ドゥーデンは現在83歳。ご存命のようです。『女の皮膚の下 Geschichte unter der Haut. 1987』(上野千鶴子『スカートの下の劇場』1989を連想してしまいます)と『胎児へのまなざし Der Frauenleib als öffentlicher Ort. 1993』が邦訳されています(どちらも未読)。
ヴェールホーフは82歳。ご存命のようです(Wikipedia 英語版)。「 von 」が付いていますから、名家の出身なんでしょうね。これ以外の邦訳は見つかりませんでした(さすがの翻訳大国日本でも)。
「シャドウ・ワーク」と題されたエッセイはつぎにあげる人たちとの会話のなかから生まれた。すなわちバーバラ・ドゥーデン、クラウディア・フォン・ベールホーフ、そしてクリスティーヌ・フォン・ヴァィツゼッカーとアーネスト・フォン・ヴァィツゼッカーである。(イリイチ『シャドウ・ワーク』、邦訳 P.11)
ヴェールホーフのイリイチ批判はかなり手厳しいものですが、ふたりともイリイチのお友達です。
原書は手に入らないだろうし、手に入っても読めませんが、原語が気になるところです。ドイツ語で「性」は英語と同じ「 Sex 」も使われるようですが、多分「 Geschlecht 」。性別という意味以外に「種類(類)」や「世代(ジェネレイション)」「一族・家系」というような意味もあります。文法上の性「ジェンダー」は「Gender」ですが、現在では「 gendern 」(ジェンダーする)というように、「ジェンダー差別(男女差別)をなくす(ジェンダー平等を目指す)」という動詞でも使われるようです。
「 Geschlechtsverkehr 」は「性交」。「 verkehr 」は交通とか付き合いとかの意味で、これだけでも「性交」の意味があります。
日本語には「男性名詞・女性名詞・中性名詞」の区別がないので「ジェンダー」という感覚はよく分かりません。英語でもほとんど失われていますが、犬はオスでもメスでも「 he 」という代名詞で受けて、猫は「 she 」という代名詞で受けていました。最近の映画やドラマではオス犬なら「 he 」、メス犬なら「 she 」で受けているようなので、文法性は崩れてきているようです。ドイツ語などほとんどの印欧諸語で文法性があるのは、単純にそれがないと代名詞や動詞などの形が決まらないからです。日本語の敬語や丁寧語と同様に、それがないと「文章(言葉)」が成り立たないのです。なので、新語や外来語でもどちらかの性に決められて使われます。「決める」というか、なんとなく「決まる」のかもしれません。言葉は文法があってそこから作られるのではなく、話された(使われた)言葉が文法になります。
まあ、そのうち「ジェンダーニュートラル」が進めば、なくなっていくのかもしれませんが。ペットの犬や猫を「 it (それ)」と表現するのは、なんか「モノ」として扱っているようで、冷たい感じがするのは、私の日本語感性から来ているのでしょうか。文法性や敬語がただの「付属物(文法本体にはかかわらないもの)」だと考えるのは、敬語や丁寧語なしに話そうとすることが難しいことで明らかなのですが、そのことすら日本語では不明確になりつつあります。文章語は、敬語や丁寧語が曖昧です。文語でははっきりしていて、それは男言葉です。『源氏物語』は女言葉(女文体)に近いのでしょう。女性が男言葉、男性が女言葉を使うことに私が感じる「違和感」は、違和感であることに「意味」があるのですが、違和感でなくなりつつあるのかもしれません。西欧で「ジェンダーする」というのは、文法性をなくしていく(たとえば、すべて中性形で話す)ということではないと思うのですが。
「ジェンダー」は、「 γενυς 」や「ゲノム」のように「生まれる(出産する)」と関係がある語です。フランス古語では「 genre 」、つまり「ジャンル(種類)」です。それは元々「生物学的性(セックス、オス・メス)」とは直接の関係がなかったのです。そこに反映されていたのは生物学的性ではなく、社会関係(あるいは人と物との関係、その言語が話されるその時代のその文化)です。その文化がもつヴァナキュラーなものの見方です。それが20世紀後半の西欧において、「社会的性(性役割)」として再定義されました。
ところが日本では(一部の学者をのぞいて)「ジェンダー」という単語が知られていなかったので、始めから「再定義されたジェンダー」が入ってきて、そのまま流通しました。つまり、欧米における「再定義の努力と混乱、ものの見方の変化」を知らずに使われているということです。「男女平等」という日本語であれば、それぞれの個人が自分で考え、自分の感覚で受け入れる(あるいは拒否する)ことができます。でも、「ジェンダー平等」というのは「考えること」「感じること」を初めから拒否しているように思えます。「犬猫平等」や「種類平等」というのは変です。元々同じじゃないし、だから比較の対象でもないからです。「生物皆平等(万物に仏性が宿る)」というのは、日本人の自然感にはあっているようにも思えますが、「人類皆平等」(福沢諭吉)が「人類は皆兄弟」(笹川良一)になると、とても胡散臭い気がします。
文法性や敬語が言葉にとって「付属的」だと考えるのは、「言葉にする前のもの」「言葉で表す何か」、つまり「思考」「思想」「感情」「感覚」などがあって、それを表現する「道具」「手段」として言葉があると考えているからだろうと思います。言葉と感情は「別のもの」なのでしょうか。
まず、第一章「資本主義と家事労働の起源」は、もともとドゥーデンが一九七七年にG・ポックと共同で発表した「愛の労働労働としての愛:資本主義における家事労働の成立」と題する論文のうち、ドゥーデンが執筆した部分に該当する。ドゥーデンの一七、八世紀西ヨーロッパにおける家事労働成立前史は、本来、ポックの一九、二〇世紀アメリカの家事労働発展過程の歴史的考察と合わせて、ひとつのまとまりをもった「家事労働史」となるべきはずのものである。このような事情から、ドゥーデンはイリイチとともに、このポックとの共同論文の全訳を強く希望していた。ところがポックは、この論文が発表されて以来、家事労働史の研究が急速に深まりをみせ、また彼女自身の考え方も変化して、もはや当時の立場をそのまま保持することは不可能になったとして、どうしても彼女が執筆した部分についての日本語訳を許可しようとはしなかった。(P.ⅵ)
誰でも考えは変わるもので、それを「考えが深まった」と言うこともできるでしょう。それでも変わらない部分を「アイデンティティ」などと言うのは、とても近代西欧的です。とくに学者が自分の考えが変わらない、などというのは「勉強していない」ということを意味する場合もあります。天才と言われる人は、たまたま若い頃に考えた(気がついた)ことがいくら勉強しても変わらなかった、と言う場合が多いのではないでしょうか。西田幾多郎やハイデガーなどは「深まる」ということと「変わらない」ということが同居していたように感じます。私が日本に生まれてきたのも偶然だし、どんな本に出会うかも偶然です。資本主義社会のなかで育ったことも、異常気象(と言われるもの)でこの夏を過ごしたことも偶然です。
ところが、日本の多くの人は、この偶然が嫌いなんでしょうね。ネットで検索すると、過去の検索履歴から「私の興味のある本」ばかりが出てきます。古本屋の「100円コーナー」なんかは全然違って、私の興味とは関係のない本が並んでいます。それでも面白そうな本を選んでしまうのですが、そこには「偶然の出会い」の可能性は残されています。
「変わること」「知らない本や人と出会うこと」、これは不安なことです。これが楽しいことであるのは、たぶん、知っていることや親しい人、分かり合える人(分かってもらえる人)が「ある・いる」ことが前提なんでしょうね。
「愛の労働」という題は嫌いですが、読んでみたかったな。きっとグレーバーの「〈ケア〉労働」のような話なんじゃないかと空想しています。近代以降「労働」と呼ばれるようになったものを含めて、「人間の活動(行為や会話)」は「自分のためのもの」ではなくて、「自分がなくてもあるもの」、いわば「他者のためのもの」でしょうから。「自分(自我)」ができた時に、すべての行為は「自分のためのもの」と「他者のためのもの」に区別(ジェンダー)されるようになったのでしょう。
家事労働の歴史が書かれています。アリエスの『〈子供〉の誕生』同様、「家事労働」というものが「超歴史的」にあるのではなくて、資本主義(近代西欧)が生み出した「特殊歴史的」なものだということを、文献や図版から読み解いています。
本書では以下、次の四つの問題、すなわち、古い社会の経済の中での女性の労働と地位、母としての役割の欠如、女性の社会的な力、そして結婚生活における男性との関係に焦点を合わせてゆくことにする。(P.5)
領主にとって、自分の領内に住む男性の労働、女性の労働、あるいは子供の労働というものは「別々なもの」「取り換えのきかないもの」「固有のもの」としてありました。
農夫が死亡したような場合、成熟した彼の娘が手仕事の夫役をより多くおこなうことによって、父親の畜耕役たとえば犂耕を埋め合わせることはできなかったし、他方、女性労働をより多くの子供たちによって置き換えることもできなかった。(中略)なぜなら、剰余生産物の封建的な吸い上げは家族経済に依存していたが、そこでは家族の成員それぞれが、特殊の、相互に置き換えることのできない持ち分をもっていたからである。(P.15-16)
この「性役割分担」は当然で、当時の社会では(日本でも)「女性(男性)が入れる場所」「やっていい仕事」「女性(男性)が触ってもいい道具」などは明確に区別されていました。
私はこうしたジェンダーという言葉を用いて、行動上のある特性、すなわちヴァナキュラーな文化における普遍的な特性を明示することにした。ジェンダーによって、男にかかわる場所、時間、道具、課題、話しことばの形、動作、知覚と、女にかかわるそれらとが区別される。このかかわりこそが、時間と場所に固有なものであるために、社会的ジェンダーというものを形成する。私はこれをヴァナキュラーなジェンダーと呼んでいる。というのは、男と女にとってのこうしたかかわりは、ヴァナキュラーな話しことばがそうであるように、土地の古風な人びと(ラテン語で gens)に固有なものだからである。(イリイチ『ジェンダー』、邦訳 P.2)
ジェンダーというのは、セックスとは異なるだけでなく、はるかにそれ以上のものなのである。ジェンダーは、二つの場所〔初期の草稿では「場所と時代」となっていた〕に同じものはありえないという根源的な社会的両極性を指している。人としてやれないこととか、やらねばならないことは、地域ごとに異なっているものだ。(同書、P.142)
日本酒の酒蔵に女性が入ることは禁止されていました。発酵には「菌」が重要な働きをしますから、女性が持っている菌と男性が持っている菌が違うからではないかと私は思っていましたが、違うかもしれません。
神に供うべき食物の調理の女の手によってなされたことはすでに柳田先生のしばしばとかれたことで酒は女性の口によって米をかみくだき唾液とともにこれを酒桶にはき醗酵させて酒をつくる。主婦をオカミというのはここから来たかと柳田先生はいわれ、家の老女をカ自(とじ)といい、酒造りを杜氏(とじ)というのはともに一つの語りであろうともいっておられるが、酒の管理は女の仕事で酒盛りの席に女はまた重要な役目を持った。(宮本常一『女の民俗誌』、P.21)
女性の役割(仕事)と男性の役割(仕事)は、場所(地域)や時代によって違っていたのです。
わたしたちはこれまで、下層の女性が、共同の仕事場、圃場、街頭ではたらくのをみてきた。その際に、まったく登場してこない仕事の場所がひとつあった。それは子供部屋である。一八世紀の中葉まで、市民階級それ自体が、大人の世界から隔離された子供の領域をもっていなかった。(P.17)
近代になって「子供時代(期間)をもつ〈子供〉という概念」ができたことは、アリエスの『〈子供〉の誕生』に詳しく書かれています。学校制度が形成され、子供が長期に渡って同じような年齡の子供たちと過ごすようになって、はじめて「子供期」という概念が生まれました。
子供は歩けるようになるとまもなく、当然であるかのように大人に混じって生活し、家族的家政の中にしだいに組み込まれてゆくことにより、必要な生産の知識や社会的な行動様式を学んだ。母または雇の乳母は、二年ほどのあいだ授乳をしたが、ほかには、女性だけが果たすべきだとされる母としての使命、つまり社会化は何ひとつ存在しなかった。すなわち、意識的な教育の実施も、反省を加えることで生まれる「子供にかなった」態度も、小さき者を「母の立場で扱う」ことも、衛生観念のしつけもなかった。また、大人の遊びと区別された「子どもの遊び」もなかった。なぜなら子供は事実上、小さな大人だったからである。一八世紀の経過の中でようやく、こうした文化の原型の変容が、まずは市民階層、現代の小家族の「パイオニア」とみなすことのできるこの市民階層においてみられるようになった。この時期、旧来の子供の養育方法に反対する広範な市民的改革運動が起こり、彼らの主張する程度に応じて「母の役割」が生じるようになった。幼児期というものがつくられるとともに、子供部屋での女性の仕事が余計に生じることになった。(P.19-20)
「母性本能」が男性(人間・科学)が作り上げた幻想であることはいまや明らかです。「母性愛」「親子愛」はどうでしょうか。「自分が産んだ子供」あるいは「自分の子供」「自分の親」は特別といえば特別です。なんせ生まれたときから一緒にいるのですから。「兄弟姉妹愛」も同じです。血の繋がりも科学が生み出したものですが、母系制度・父系制度、交差従従兄弟婚・・・、所属する文化の中で意味が異なっています。なので、その文化に属する男性が感じることと、女性が感じることと、社会(共同体)が感じることとは様々なかたちで異なります。
それでは、夫婦(結婚)とはどんなことだったのでしょうか。
結婚生活はひとつの経済的営みであって、物質的基盤土地所有、土地耕作の可能性、生業的生産の手段などを手にしているときに限って可能だった。古い社会の結婚年齢は高く、たいていの若者は思春期をすぎてからも、結婚生活を考えられるようになるまで何年も待たねばならなかった。時期の選択と相手の選択については、彼らは主として経済的な考慮にしたがった。(P.30)
「経済的」は多分、「 ökonomisch 」でしょう。これは「 οικονομία 」、「家(oikos)の管理(nomos)」で、「家政術」と訳される語から来ています。資本主義においてはこれが逆の意味を持っています。家の中は「贈与的関係」で、家の外では「交換」をもとにした「経済関係(エコノミー)」となります。
結婚生活と愛情とは、一八世紀にはいるまで厳密に区別されていた。フランスのカトリック教会の告解解説についての分析が示すところでは、結婚生活に注がれる「愛情」は、障害ではないとしても、ふさわしくない感情の動きとして理解されていた。感情的に中立であればそれで十分だった。教会が、互いに「愛し」合うようにと教え諭すとき、それは、夫婦はおおっぴらに憎しみ合うべきではない、という意味なのだった。古い社会で「愛情」という言葉が結婚生活に関して用いられる場合、それは、共同生活が完全に崩壊してしまうほど憎しみ合わないことを意味するにすぎなかったのである。高い死亡率という点からすれば、生涯をとおしての「しあわせ」はどのみち幻想だったのだろう。婚姻全体の三〇パーセントまでは、少なくとも夫婦のどちらかが二度か三度目の結婚であった。相手が死亡したあとで新しい結婚生活にはいるという性急さの本質は、共同でやっていかねばならない家の経済( Ökonomie )の中にあった。(P.32)
結婚生活は争いの場であり、対立するものが対決する場であった。(P.34)
『ロミオとジュリエット』や『源氏物語』のように、「誰かを好きになる(愛する)」ことは(それに生死さえも賭けることは)いつの時代でも、どこの地域でもあったでしょう。異性ではなくて同性を好きになることも、あるいは「好き(愛)」という感情をもたない人もいたでしょう。それと結婚というのはまったく別のことです。「仕事(社会的生活)」と「趣味(個人的生活)」のように、あるいは「食べること」と「寝ること」のように。むしろ逆に言ったほうがいいかもしれません。「食欲と睡眠欲は区別されていなかった」「社会と個人は対立していなかった」と。「近所付き合い」は生活の一部でした。
「私的」な家庭生活がなかったのと同様に、町中や田舎での集団的生活のはざまには、厳密に「私的」な行動様式は存在しなかったのだ。ここでは、外部からの管理は隣人をとおして行われていた。それは「超ー自我」建立の長い過程にある市民社会において、社会的規範の内面化によって置き換えられてゆくことになる。(P.37-38)
日本では(地方によって違うけど、戦前は、としておきましょう)長屋なんて一間(ひとま)の家が多く、子供部屋はもちろんのこと、寝室なんてありませんでしたから、ご飯を食べるのも、勉強するのも、寝るのも、セックスするのも同じ部屋でした。「ウサギ小屋」とばかにされましたが、西欧だって多くの賃労働者の家はそうだったと思います。『ロミオとジュリエット』よろしく、「夜這い」も当たり前でした。それは慣習、あるいは制度としてあったのです。「秘密」はありましたが、「プライバシー」はありませんでした。西欧においてさえ、「プライバシー」というのは、「私たち(市民)」が王権に対抗するために考えた主張で、市民(ブルジョア)が「所有権」を主張し始めたときにできた言葉です。そして「私」は常に「私たち(市民)」のことでした。「近所付き合い」をしない人は、「変な人」「変わった人」でした。今では、家庭ごとに、あるいは家庭内でも、誰でもが「引きこもり」のような状態ですが。
離婚や再婚がかなり制限されていた地域や時代はあるでしょう。日本では戦前は、夫が妻を離縁するのは簡単で、逆は難しかったと言われていましたがどうでしょうか。嗣永芳照『古文書入門講座』には「養子縁組」や「嫁入り」「離婚(離縁)」、「不義密通」に関わる古文が掲載されています。
上流階級はともかくとして、瀬戸内海地方で一度もテボをふらずに、はじめて結婚した男と生涯を通したという例はきわめて少ない。たいていは一、二度テボをふっている。理由は相手の男に不足があったわけではない。多くはヨバイで結びついた仲なのだから、男の気心は知れているのだが、姑との折合いが悪かったのである。ところが、別れて戻って来ると、妊娠していることが多くて、私生児を産むことになる。(宮本常一『女の民俗誌』、前掲 P.28)
こうして女たちは主人に、または夫に隷属するまえに選択の自由はあった。選択の自由がなかったというのは、本人に選択の意志や能力がないか、または周囲のやむを得ない事情による場合が多かった。
この選択の自由は重要な意味を持っている。それによって女の運命がきまってしまうものだからである。そして自ら選んだものは大切にした。このことがあったからこそ女は家のよき伝承者たり得たのである。女を頑固なものにしたのもそうした自由意志がその最初にあったからである。(同書、P.35)
しかし、女の持つこうした伝承者的な性格とかしこさは、学校教育の発達によってしだいにかげのうすいものになって来た。(同)
儒教的な道徳や武家的な慣習の十分浸透しなかった社会では女の地位はけっして低いものではなかった。(同書、P.42)
「いやになったもの同士が一緒にいるのは道徳にあわんでしょう」と対馬のある老婆はいった。(同書、P.43)
「女は男に従うもの」とか「恋愛結婚が生涯の幸せな家族を作る」など、表向きには言われていたとしても、それが実態を表しているのかどうかは別のことです。
家庭内における個人的な幸福への期待、市民的な家庭のイデオロギーが普及するにつれて、労働のカテゴリーは消滅していった。家事労働は、それ以降、愛の現象形式として、家の外での収入をもたらす男性の労働と対比させて定義されるようになった。(P.40-41)
「夫婦は愛し合うべきだ」あるいは「愛しあったものが夫婦になるべきだ」という思いは、日本では戦後に広まったものだし、西欧においても現代的なものなのではないでしょうか。アガペーとエロスの区別は、今はないのでしょうか。どちらも「エゴ」から見てしまうと、変質してしまいます。
避妊の知識がまだ手近になかったり、もはや身近にそれが手に入らなかったりしたような場合、女性は統計的にみて平均二年半にひとりの割合で子供を生んだ。(P.18)
健康な男女が出産能力のあるあいだにセックス(性交)をすれば、子供が生まれます。
日本においては、戦後においても「間引」が行われていたことは確かです。「子供を生む」というのは、個人的なことでも夫婦の問題でもなく、地域社会(共同体、コモン)の問題でした。家を存続させるということは、地域を存続させるということでした。そしてそれは自己を存続させることでもあったのです。それはもちろん「労働力の再生産」ですが、生まれた子供も大人も食べて(生きて)いかなければなりませんから、過剰な労働力は必要ありません。
今でも、避妊・中絶・堕胎は行われています。「望まない妊娠」をした場合と呼ばれます。「望まない妊娠」は、強姦(性暴力)の結果だったり、婚姻外の妊娠だったり、経済的なものだったりします。そこでの大きな変化は、子供が「生まれるもの」から「生むもの」に変わったということです。計画出産や不妊治療など、「出産をコントロール」することが当たり前になったということです。「子宝」という言葉がいつからできたのかは分かりません。少なくとも「小宝」は「恵まれる」ものでした。
「自分の子供だからかわいい」という気持ちは、「子供はかわいい」という気持ちではなく、「自分が作ったから(産んだから)かわいい」という気持ちです。近現代ほど「血の繋がり」が重視される時代はなかったのではないでしょうか。それは「封建的」「反民主主義的」的なものではなく、近代的な自我がもつ「自己矛盾」のひとつです。
「労働」の「働」は国字(日本で作られた漢字)です。なので中国には「中国労働党」ではなくて「中国共産党」があります(「共産党」というのも日本で作られた翻訳語です)。ドイツ語では「 Arbeit 」です。他に「 Tätigkeit 」「 Beschäftigung 」がありますが、googlAIさんによると、
ドイツ語の「Arbeit」「Tätigkeit」「Beschäftigung」はどれも「仕事」「活動」を意味しますが、ニュアンスが異なります。「Arbeit」は「仕事全般、労働」という広い概念、「Tätigkeit」は「具体的な活動、業務内容」に焦点を当て、「Beschäftigung」は「雇用、職(特に失業の対義語)」や「従事すること」を指し、労働市場の文脈で使われやすいです。
と答えてくれました( AI は「信用できない」、という以前に使いたくないのですが)。
「 Tätigkeit 」は「行為 doing 」に近いでしょうし、「 Beschäftigung 」は「職 job 」に近いのかもしれません。「 Arbeit 」が「労働 work・labor 」に近いのでしょう。「 work 」と「 labor」の違いは何でしょうか。「 labor 」は「ラテン語・ロマンス語系」で、「 work 」は「ゲルマン系」のようです。「 work 」は「労働の結果(作品)」にも使われますが、「 labor 」は使われません。たぶん、英語にとっては「 labor 」は外来語的なのでしょう。いずれにしても、同じものを表す単語でも、その地方・時代によってニュアンスは異なります。日本語で「給料」と「賃金」は同じものを表しますが、ニュアンスは違います。一応エンゲルスが言うところの違いを引用しておきます。
英語には、労働のこの二つの違った面を表すのに二つの違った言葉をもっているという長所がある。使用価値をつくるものであって質的に規定されている労働は、work と呼ばれて、labour に対置され、価値をつくるものであってただ量的に計られるだけの労働は、labour とよばれて work に対置される。(マルクス『資本論』第一巻、S63、大月 P.64、エンゲルスの注)
「報酬」は「お金」とはかぎりませんが、「労働の対価」として「支払われる」ものという意味を表すようになったのは、たぶん明治以降です。この本で使われているドイツ語は何でしょうか。「無報酬」は?「 unentgeltlich 」?「 unbezahlt 」? 原書が見たいなあ。見てもわからないけど。前者は「 gelt (お金)」が入っているので「支払われない」、後者は「無償で」というような意味でしょうか。
わからなくなってきました。わからないなりに続けます。マルクス経済学の基本的な使い方としては、まず「労働価値説」として、「労働が価値を生む(作る)」ということです。「労働力」は「労働する力・能力」です。資本(家)は「労働者」を雇って、その「労働力」を買います。これは(対等かどうかは別として)「契約関係」です。資本(家)が支払うのは「労働力」(という商品)の対価です。そして得るのは「労働」(という使用価値)です。リンゴという「商品」を買って、「食べる」という使用価値を得るのと同じです。
その「労働力」というのは、建前上は「人間そのもの」ではなくて「人間の能力」なのですが(人間そのものを買ったら人身売買になる)、その人間を働かせることによって「商品(サービス)」をつくり、売ります。その売って得たお金と、労働者に払った賃金との差が資本(家)の儲けとなります。
その生産過程を始めるには、事前に二つのものが必要です。「資本(機械、原料、お金など)」と「労働者」です。機械や原料は市場や「自然」から得ることができます。労働者はどうでしょうか。実はこれを得ることが難しいのです。人間なら誰でもが労働者になるわけではありません。資本主義以外では、戦争捕虜や奴隸・農奴、その後は浮浪者・禁治産者などを集めるしかありませんでした。その人たちでさえ、工場や他人の農場で働かせるためには暴力が必要でした。それ以外の人間は、「自分で生きていく能力」を持っていたのです。その人たちは、祖先から受け継いだ生産手段(土地や道具・技術)、生活手段を持っていたので、共同体から離れて「やりたくもない」賃労働などしなかったのです。
そこで資本家(ブルジョアジー、市民)がおこなったのが「囲い込み」などに象徴される「本源的蓄積」です。今まで自由に使えた草原や山を「羊」を飼育するために立ち入り禁止にしたのです。ブルジョアが「プライバシー」を主張したのは、領地にたいする王や領主の権利を制限するためです。そしてそこを「囲い込み(柵をつくり)」他者の立ち入りを禁止する所有権を主張したのです。それはそれを使っていた人間の生活手段を奪うことでもありました。そこにあった「誰もが採れる」果実や、牧草や、薪を使うことは「法的」に禁止され、違反者は処罰されました。追い出された人間は、他者のもとで働くしかありません。彼らは「自由な労働者」になりました。土地(地域)に縛られず、奴隸のように主人に従う必要がない(契約権をもつ)「自由 free 」な労働者です。かつ、彼らは生活手段、生産手段からも「自由 free 」です。つまり自分で食料や生活必需品をつくることができないのです。こうして賃労働者が作られます。
さて、社会制度としては「賃労働者(プロレタリアート)」は存在するようになったのですが、実際の(個々の)労働者は、地面を掘ったり、山を伐採したり、海に網を投げても捕まえることができません。そのうえ、一度確保しても、歳を取り働けなくなり、あるいは病気や怪我などで死んでしまいます。財界や政府や一部の学者は「日本は労働力不足だ」と叫んでいます。「少子化」という「危機」も叫んでいます。でも、勘違いしてはいけないのは「人間=労働者」ではないということです。(賃労働者=支払いを受ける労働をする人という意味での)労働者というものができたのはここ2~300年くらいのことです。
今のところ、資本は労働者をつくり出すことはできません(これからもできないでしょう)。その代わりに必死に作り出そうとしているのが「 AI (人工知能)」や「ロボット」です。自動運転車と自動車が違うのは、自分で運転しないということです(当たり前ですが)。私の父は車が大好きでした。運転するのが楽しかったのです。小さい頃から旅行やキャンプに連れて行かれました。私は乗り物酔いが強いので、何度も車を止めてもらって、外で吐いた記憶があります。でも、自分が運転をするようになると、運転している間は酔いません。不思議です。昔は運転免許証を持っている人は大抵「車好き」でした。だから、運転の楽しみを知っていたのです。誰もが運転免許証を持つようになって、運転は楽しいものではない人が大半になったのではないでしょうか。会社に行くため、買い物に行くため、友人と会うためなどに仕方なく運転しているのです。少なくとも運転すること自体が主たる目的ではありません。タクシーやトラックの運転手は、「お金のため」に車を運転しているのではないでしょうか(運転が好きでお金はサブという人もいるでしょうが)。
運転もせず(歩きもせずに)に場所を移動するというのは、どういうことなのでしょうか。運転に技術が必要なように、車があれば移動ができるというものではありませんでした。同じように「家」があれば住むことができるかといえば、「住む技術」が必要です。世の中が「便利」になるにつれて、その技術は失われていきます。
コモンズから、乗り物の循環のためのたんなる資源へと、道路は価値を下落させてきたのです。交通は人びとの移動する能力にとって代わりました。人びとは、車に結わえられて運ばれるときのみ、「循環」できるようになったのです。(イリイチ『生きる思想』、邦訳 P.48)
この様々な技術が商品(サービス)に置き換えられていくこと、それが目指すべき自由な社会なのでしょうか。それはお金持ちの自由でしかありません。実質的(現実的)な自由は、お金を出す自由ではなくて、今・ここにいる自分が、(いつでも・どこにでも)自分の意志で、道路を歩ける自由なのではないでしょうか。歩く技術を放棄してジョギングする人やジム通いにお金をかける人、私にはとても不思議です。オリンピックの入場行進で、(普段スポーツをしている人なのに)「真っ直ぐ歩けない人」が多くなったと言われたのは半世紀前です。それは利き足の問題ではないと思います。歩く技術を失っているのです。トレーニングセンターまで自動車や電車で行っているのではないでしょうか。
(ここまでドゥーデンの章)
ここからはヴェールホーフの章です。
遅くとも一五ないし一六世紀以降
「世界システム」の発見と関連して、「自然」と「自然でないもの」の関係は対立的にとらえられるようになった。しかもそれだけにとどまらず、この関係は階層秩序として、一方が他方に必然的に従属するもの、すなわち、「自然」が「自然ではないもの」に従属する関係として考えるようになった( Elias を参照せよ)。したがって、今日わたしたちが「自然」として理解しているものは、自然的に決まったのではなく、歴史的、社会的に決められたのである。「自然」はそもそも、その反対のものが定義されてはじめて定義することができる。今日の自然概念と社会概念は、したがって、同時に成立したものである、と言えよう。(P.102)「自然」とは、(交換ではなしに)略奪によって横領しうるすべてのものである。そしてさらに、「自然」とは、支配するものが更新しようとも維持しようとも思わないすべてのものである。これらの「もの」は、傾向的にすべてを含んでいる。すなわち、地球全体と、その生産物、商品、人間のすべてである。(P.103-104)
普通には、「人間化」ないし「社会化」はたえず拡大するものであり、自然とみなされるものはそれに伴って制限されていくと受けとめられているが、実際の傾向はその逆である。むしろそこにみっれるものは、観念的にも現実的に「自然化」であり、あるいは「女性化」なのである。(P.105)
何もかもが自然化されていきます。山や川はもちろんのこと、花や木や野生動物も自然です。「天然資源(石油、レアメタルなど)」は、略奪(取得)されますが、それを維持したり、更新しようとは考えません。草や木は、それが管理下にあるとき、つまり、植林や栽培されるとき、維持や更新しようとします。それは略奪のための維持・更新です。
人類学者がトーテム・システム(ここで論じてきたようなオーストラリアや北アメリカの)と呼ぶものにおいては、ケアの責任はとりわけ極端なかたちをとっている。人間のクランは、それぞれ、ある種の動物を「所有(オウン)」しているとされる
つまり、「クマ・クラン」、「ヘラジカ・クラン」、「ワシ・クラン」などであるが、しかし、その意味するところは、クランのメンバーは、その「所有」する動物を狩ったり、殺したり、傷つけたり、消費してはならぬ、ということである。実際には、かれらにもとめられているのは、その動物の生存を支え、繁殖を促すための儀礼に参加することなのである。ローマ法の所有概念
現在のほとんどすべての法制度の基礎となっているが独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 possession にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、 fructus (所有物の産物を享受する権利)、 abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもっていないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有していることなのだ。(デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』邦訳 P.182)
人間は「人的資源」になりました。労働者も、そこから略奪(搾取)するためにのみ、管理されます。いわゆる「人口管理」です。
自分(人間)の意志の自由にならないものはすべて「自然」となります。ただし、それは自分の関心の対象(利益)になるものだけです。中国の一人っ子政策はまさしく人口管理ですが、数だけでなく、その質も管理されます。「健康管理」です。つまり、自分の体(肉体 flesh )すら自然とみなすのです。「(定期)健康診断」は誰のための制度でしょうか。人口管理と健康管理は、「出産をコントロール(管理)」することが目標となります。典型的なのは「優生学」です。「生物学」「遺伝学」などに基づく「出生前診断」もそうでしょう。そしてその対象は「産む性」としての女性がメインになります。出産をコントロールするということはまさしく女性をコントロールすることだからです。
先日発見したのですが、タバコのパッケージには「妊娠中の喫煙は、胎児の発育不全のほか、早産や出生体重の減少、乳幼児突然死症候群の危険性を高めます」と大きく書いてあります。お酒にも「妊娠中や授乳期の飲酒は胎児・乳児の発育に悪影響を与える恐れがあります」と書いてあります。これはまさしく「産む性・自然としての女性」の見方ですね。タバコの裏面(?)には「喫煙は、動脈硬化や血栓形成を傾向を強め、あなたが心筋梗塞など虚血性心疾患や脳卒中になる危険性を高めます」とか「喫煙は、あなたが歯周病になる危険性を高めます」などと書いてあります。これは「人間」の身体の自然化です。「自己への配慮」は、ギリシャ的な(牧神的)な配慮から、精神と肉体への配慮に二分化されます。精神は「統御される自己」と「統御する自己」へとさらに分割されます。対象を自然化し、管理・支配しようとするのはこの「統御する自己」です。
女性が自然化(自然視)されるということと、「身体を対象と見なすこと」とは同じです。自らの欲望は「本能」という言葉で自然視されました。「欲望 desire 」と「欲求 need 」の違いはわかりません。一応「必要を満たす(不足を補う)」ことを「欲求」、「欲求を超えて求めること」を「欲望」としましょう。そうすると欲求は自然的、欲望は社会的、ということになりそうです。身体が求めるのが「欲求」、精神が求めるのが「欲望」と言い換えることができるかもしれません。
「自然保護 nature conservation 」ということは(行動とは別に)多くの人に支持されているし、表立ってそれを否定する人は少ないでしょう。半世紀前、「女性保護は差別だ」と言われました。女性に参政権が与えられ、社会進出がすすめられていく中で、「女性の権利」は「人権(人間の権利)」に解消されていきます。それが「女性差別」を深めていると私は思うのですが。でも今でも「母性保護 Maternity protection」という言葉は一般的に使われています( conservation と protection の違いはわかりません)。
自然は保護すべきものなのでしょうか。
本来、アイヌ民族の世界観は、自然と人間を対等に考えるもので、自然を保護するという発想をもちません。(上村英明『知っていますか?アイヌ民族 一問一答』P.95)
なるほど。つまり、「世界観」の問題だということです。でも、アイヌ民族は「対等」だと考えていたのでしょうか。私にはわかりませんが、むしろ「人間は自然の一部」だと考えていたのではないでしょうか。自然は人間が立ち向かったり、管理したり、支配したりする対象としては存在していなかったと思うのです。
多くの場合、土地や天然資源の真の「所有者(オーナー)」は神々や精霊であり、人間は無断占拠者(スクワッター)や密猟者、あるいはせいぜい管理人にすぎないといわれている。(前出『万物の黎明』P.181)
性(性交)が制限(タブー、抑圧と言ってもいい)されるのは、生物学的なものではありません。近親相姦を社会構造と結びつけてもいいのですが、性器(外性器)の露出を禁止するのは特殊文化的(ヴァナキュラー)なものです。さらに現在の日本で「子供におっぱいを見せない」などというのは、戦後のことです。そこに「出産の管理」が結びつき、「性の管理」が行われています。
ヴェールホーフは「イリイチは家事労働を分かっていない(定義していない)」といいます。
「シャドウ・ワーク」概念には、家事労働と(その他の)シャドウ・ワークとを質的に区別するものが欠けている。家事労働は、たんにシャドウ・ワークの延長上にあるもの、つまり「それもまた」シャドウ・ワークだ、というようなものではない。(中略)それはむしろ、普通考えられているように、「生きた自然」の領域にあるものである。イリイチによれば、家事労働はシャドウ・ワークの一形態であり、それは賃労働の結果をなすとともに原因もなしているという。だが
私の考えではシャドウ・ワークを理解するためには、まず家事労働が理解されていなければならない。ついでに言えば、賃労働もまた、家事労働が理解されないかぎり理解することができないのだ。この、家事労働、シャドウ・ワーク、さらにまた賃労働についての不十分な区別には、はっきりした原因がある。たとえば、イリイチもまたそれに含まれるのだが、「八世紀以来」、「他者の行う」労働について書いてきた人たちである。(P.61-62)
イリイチが「シャドウ・ワーク」についてどう言っているのかを引用します。
こうしたいわゆる生活の自立と自存の諸活動は、ここでの課題ではない。私の関心は、まったく異なった形の支払われない労働である。これは、産業社会が財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自存に寄与するものではない。まったく逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自存を奪いとるものである。賃労働を補完するこの労働を、私は〈シャドウ・ワーク〉と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買い物に関する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押しつけられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲従、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。(イリイチ『シャドウ・ワーク』、邦訳 岩波書店「同時代ライブラリー」版 P.205-206)
〈シャドウ・ワーク〉の本質をつかむためには、われわれは以下の二つの混同を避けねばならない。第一にそれは、人間生活の自立・自存の活動ではないということである。社会的な人間生活の自立・自存ではなく、形式的な経済をささえるものだ。第二にそれはまた、支払いのよくない賃労働でもない。〈シャドウ・ワーク〉の支払われない労働というかたちは、賃金が支払われていくための条件であるのだ。(同書 P.206)
イリイチのシャドウ・ワークには「いわゆる自立と自存」、単純に言えば「生きていくため(食べたり、飲んだり、住んだり、歩いたり・・・)」の家事労働(あるいは諸活動)は、含まれていないの(考察の対象外、次元が違うもの)です。「産業社会(資本主義社会)」(あるいは文化)に特有な形態としての労働(諸活動)が考察対象なのです。
家事労働の現代的形態は、資本主義とともに成立したものではあったが、ここで疑いなく明らかなことは、家事労働をその古典的な本来の核心近くにまで煮つめていくと、それが、つねに変わることなく必要とされる生活維持の労働を意味することになる、ということである。(P.165)
賃労働をする労働者を「産み育て」「維持する」(再生産する)労働は、たしかに「(普遍的・一般的に)人間を産み育て、維持する労働」です。でも、「人間」という意味が(自然・社会という言葉同様に)現代(近代、あるいは産業社会)によって「特殊な意味」になっていることを忘れてはいけません。
古代ギリシャの彫刻やパルテノン神殿は、極彩色で彩られていたそうです。1939年に発覚した大英博物館の大スキャンダル、「所蔵するパルテノン神殿のフリーズに対する破壊行為」事件。
これは「本来、美術品は元の状態で保護するのが大原則なのに、職員が意図的にフリーズの表面に残された色を残らず金ダワシでゴシゴシ削り取った。結果としてパルテノン神殿の色彩は永遠に再現不可能になってしまった」という衝撃的なものでした。(藤村シシン『古代ギリシャのリアル』P.19)
ギリシャと言えば、紺碧の海と青い空、白い町並み、大理石でできた無彩色の彫刻、そういうイメージは現在から過去を見るときのフィルターになります。日本のお寺や神社というと、「暗い」「くすんだ色」というイメージがありませんか。「幽霊が出てきそうな」「不吉な」雰囲気です。そのなかにある仏像なども「どこかが欠けている」「錆びついている」イメージです。それこそが「貴重」で「ありがたいこと」の証(あかし)のように感じます。奈良の大仏(盧舎那仏)も金ピカで大仏殿内部も極彩色だったようです(小林泰三『日本の国宝、最初はこんな色だった』参照)。
古くなれば、色があせたり、錆びたり、朽ちたりするので「昔からそうだった」というわけでないのは明らかなのですが、どうしても今目の前にあることに囚われ、引きずられてしまいます。自分の思いや認識を過去に投影してしまうのです。要は自分に都合がいいように解釈しがちです。
狩猟採集社会から農耕社会、第一次産業中心から第二次・第三次産業中心社会、封建社会から民主主義社会・・・、などいろいろな「社会発展(進化)」が語られます。社会はこのように直線的に(一方方向に)「発展」するものなのでしょうか。どうも怪しいです。少なくとも、こういった「進化論的」な考え方は、「現在」をその発展の「最高の(もっとも進んだ)段階」だとしています。「これからどうなっていくのか」を予想する・しないかにかかわらず、とりあえず「猿」より「人間」は「進化している」、封建社会より民主主義社会のほうが「進んだ社会」だと思っているのです。「白人は有色人種よりも進んでいる(優秀である)」と明言する人は多くないと思いますが、いまだに「民主主義は西欧(たとえばアテネ)で始まったもの」であり、「民主主義国家(つまりは資本主義国家の言い換えだけど)は、〈第三世界(発展途上国・後進国)〉に民主主義を輸出し、開発(啓蒙)しなければならない」と思っている人は多いと思います。多分その人たちは、「自分も学校(教育)によって開発(発達・成長)された」と思っているのでしょう。政府援助や募金を募り、そこ(第三世界)に学校や病院を作ろうとします。ついでに技術(≒商品)も輸出しようとします。自分自身が商品に囲まれていることが「発展(幸せ)」だと思っているからです。
戦中・戦後を生きた私の母は「いまの人は、物がたくさんあっていい。昔は物がなかった」とくり返し言います。物がなかった日本は、高度成長期以降、物(商品)で溢れます。家電製品、冷蔵庫・洗濯機・掃除機は、家事労働を助けました。電気ポット、トースター、電子レンジなどは調理の時間を短縮しました。レトルト食品・インスタント食品は調理そのものを不要なもの(余計なもの)にしていきました。外食産業はデリバリー産業になり、家にいながら料理を食べられるようにしようとしています。
「先進国(自分たちがより進んでいると思っている国)」の人たちは、〈第三世界〉を「貧しい」と思っています。あるいは、都市に住む人々は地方(あるいは農村)を「貧しい」と思っています。その「貧しさ」とは何でしょうか。たぶん物(商品・サービス・制度・施設など)がない、そしてそれを得るためのお金がない、ということでしょう。なのでお金を集めてそれで商品を送るということが「支援」だと思っているのです。支援は「支援金」や「支援物資(≒商品)」としてしか考えられていません。
何かを「支援」あるいは「保護」しようということ自体がなぜ「差別的」になるのでしょうか。誰か(何か)を助けたいという気持ちは、仏教の「慈悲」、キリスト教の「愛」など「普遍的な人間らしさ(人間性)」でしょう。
遅くとも一八世紀とともに消滅したとされる「本源的」蓄積は、その後も変わることなくわたしたちにつきまとっており、しかも世界的規模でそうなっている。わたしはこれを、継続された本源的蓄積と呼ぶ。(中略)しかし、それにもかかわらず、それらは今日に特有であり、困ったことに、非常に近代的なのである。それゆえに、「本源的蓄積」は、今日の生産様式を構成する、歴史的でたえず必要とされる要素として、世界的規模のもとで理解される必要がある。それは実際、単純なことなのである。すなわち、「本源的」蓄積過程はまず第一に、世界的に女性と土地を、地下資源をも含めて資本の独占権力のもとに従わせるという企てを孕んでいたし、現在もそうである、ということである。(P.115-116)
普通、経済学(マルクス経済学)で言われる「本源的蓄積」は、資本主義的生産様式を開始するための「(自働車の)セルモーター(スターター)」のようなもの、あるいは原子爆弾で核分裂の連鎖反応を開始するために最初に与えるエネルギーのようなもの、と捉えられていると思います。つまり、それ(資本と労働、資本家と労働者)があって「資本」が成立し、その後は「資本が自動的に増殖する」ということです。「資本が資本を生み出し、お金がお金を生み出す」、つまり、「ある程度の元手(資本)があれば、その後はどんどん増える」、だから「お金持ちはずっとお金持ち」で「貧乏人はずっと貧乏人」。そうでしょうか。
それが、農業資本主義として、そして女性の否定をとおして(「魔女」、 Honegger, 1978; Bovenschen, 1978)、工業化のはるか以前から始まったものであり( Wallerstein, 1974 を参照せよ)、さらに続いて農業システムとしても家経済システムとしても同時に存在しているというのに。わたしは、過去のものでも現在のものでも、本源的蓄積を資本主義的発展のひとつの統合された構成要素として把握することを提唱する。(P.160)
本源的蓄積( ursprüngliche Akkumulation, primitive accumulation )は、ある一時的なことではなくて、資本主義社会ではつねに起こっていること、資本主義という「システム」の一部だということだと思います。歴史的な「本源的蓄積」は「原初的蓄積」、それ以降ずっと続くものは「本質的(本来的)蓄積」と呼ぶべきなのかもしれません。
ローザ・ルクセンブルグ『資本蓄積論』は持っているのですが(多分、50年前くらいに買ったんだと思う)、読んだことはありませんでした。
決定的なのは、剰余価値が、労働者によっても資本家によっても実現されず、みずからは資本主義的な生産をおこなわない社会階層あるいは社会によって実現されることが可能だという点である( Luxemburg, 1970, 274. 〔『資本蓄積論』青木文庫(下)、四一二ページ〕)。(P.155から引用)
したがって、資本主義が非資本主義的構成体の存在によって維持されていることは、より正確に言えば、こうした構成体の崩壊によってそれが維持されていることである。そして、資本主義が蓄積をおこなうために非資本主義的環境を絶対に必要とするということは、すなわち、資本主義がそれを苗床として必要とし、その負担により、そしてそこから吸い上げることによって蓄積をなし遂げるということである。歴史的にみると、資本蓄積とは、資本主義的生産様式と前資本主義的生産様式とのあいだでおこなわれる、物質代謝の過程である。前資本主義的生産様式なしには資本の蓄積はおこなわれないのであるが、蓄積は、こうした側面からとらえれば、前資本主義的生産様式を侵食し同化することにその本質があるわけである。したがって、資本蓄積は非資本主義的構成体なしには存在しえない
ちょうど後者が資本蓄積とともに存在できないのと同じくらいに。ただ、恒常的に続けられるそれの破壊の中でのみ、資本蓄積の定在条件が与えられる」( Luxemburg, 1974, 334 f. 〔『資本蓄積論』青木文庫(下)、五〇〇ページ〕)。(P.157から引用)
なるほど。マルクスの「拡大再生産表式」では、剰余価値を実現する(売った側から見れば現金化する、買った側から見れば商品を購入して消費する)のは、資本家(階級)と労働者(階級)だということになっています。
吾々は第一篇において、拡大再生産はそもそも誰のために行われるかという問題については、マルクスの蓄積表式が何ら回答を与えるものではないことを確かめた。この表式が第二巻の終わりで展開されているままの文字どおりにとれば、資本性的生産はもっぱら自分でその総剰余価値を実現し、そして資本化された剰余価値を自分の諸慾望のために使用したかのような外観が生ずる。(『資本蓄積論』青木文庫(下)、P.383)この表式は、資本家と労働者とは社会的消費の唯一の代表者である、という前提のもとで蓄積過程を叙述しようとする。(同、P.407)
生産した消費者の一部は労働者が買い、その他は資本家が自分の消費のため、あるいは機械などの更新のために買うということです(単純再生産)。そして一部は蓄積され、「拡大再生産」の元手となるのです。
ローザ・ルクセンブルグは、剰余価値を実現する、つまり購入して消費するのは「資本主義的な生産をおこなわない社会階層あるいは社会によって実現される」と言っています。それをヴェールホーフは(家事労働・出産育児を行う)女性や、第三世界、周辺部だろうと主張します。
賃金労働者は、その労働力を交換価値ならびに使用価値として投入することによって剰余価値をもたらしているが、資本家たちは、この剰余価値を私物化するばかりでなく、さらに危険にさらされることもなく、そして貨幣支出もなしに
ということは、強盗のようなやり方で次のような剰余労働までも私物化するのである。それは、無報酬の労働力によってすでにおこわれ、そして日々あらたにおこなわれる労働であり、それによってつくり出される生産物としての労働力の中に具体化しているような剰余労働である。この基礎のうえに立って、ようやく「本来の」資本の価値増殖過程と蓄積の過程、すなわち蓄積の第二局面が始まるのである。そこで、こうした基礎を構築しそしてたえず再構築することが、一種の
継続された本源的資本主義的蓄積過程になるのである。(P.164)
家事は「家計外(価値として評価されない、貨幣が関与しない)」の家庭の事業(作業)です。家の中でも庭や畑でも生産しているのです。子供を生み育てるだけではありません。食事を作ることも、食事をすることも、寝ることも、労働力の再生産です。それらをまとめると、「生きるという現象」です。男性は何をすればいいのでしょうか。家事を分担し、女性の社会進出(女性が賃労働者となること)を応援することは、資本にとって有利なことで、それはさらなる生産力(労働力、資本)の増加であり、それはさらなる搾取を生むのです。いやむしろヴェールホーフは、この家事労働(のような活動そのもの)が搾取されているといいたいようです。
現在の流れのように家事労働(育児、教育から食事まで)をサービス(ケア、商品)に依存することは、労働力の再生産という役割を放棄することであり、さらに資本に依存する(包摂される)ことです。生きること(生活)そのものを商品化することです。資本が自らの機構(構造)の中に、家事労働(・育児労働)を組み込むことで、「資本が労働力をつくり出す」ことに一歩近づくことになります。あとは出産能力という「労働力(労働者)畑」をどう包摂するか、あるいは「作り出すか」が残っているわけですが、「支配(コントロール)」するための医療や制度はつねに作り変えられています。不妊治療や出産・育児援助、子育て世代への優遇税制や補助金、学校の無料化等、それらは出産育児(つまり労働力の生産)の領域を商品(サービス)と貨幣で埋めていきます。日本政府は「出産費用を無料化(税金や保険料で賄う)」しようとしています。でも、「出産」に費用(お金)がかかる社会とはどんな社会なのか、考える人はほとんどいないでしょう。
イリイチが「サブシステンス(生活の自立と自存)」を考察対象から外すのはもってのほかでしょうか。その部分を外して家事労働、あるいは〈シャドウ・ワーク〉を語ることに意味はあるのでしょうか。むしろイリイチが言う「生きる技術」そのものが家事労働なのではないか。ヴェールホーフはイリイチに分かってもらいたいのでしょうか、女性に分かってもらいたいのでしょうか。そのどちらもでしょう。
「シャドウ・ワーク」概念には、家事労働と(その他の)シャドウ・ワークとを質的に区別するものが欠けている。(P.61)
「質的(英 quality, 羅 qualitas, 希 ποιόν )」はよくわかりませんが、「どのようにあるか(性質)」ということでしょう。「量的(英 quantity, 羅 quantum, 希 ποσόν)、どれだけあるか」とは違います。
イリイチ信者の私としては、「そのとおりだ」とは言いにくいのです。今日の社会では賃労働が「生きる手段」になっていますが、それが「労働一般」や「生きること」と異なるのは明らかです(私はそう思います)。たとえやっていることが同じだとしても。
私にはうまく「分類(区別・区分)」と理解ができません。なので、同じようなことを思いつくままにいくつか列挙してみます。
- 消費することと生きることは同じ
- 息をすることと生きることは同じ
- 食べること・寝ることと労働力の再生産は同じ
- 子供を生み育てることと労働者を生産することとは同じ
- 賃労働をすることと剰余価値を生産することは同じ
- 資本主義と自由主義は同じ
- セックスとジェンダーは同じ
- 家事労働と賃労働は同じ
- 商品も財(価値・貨幣)である
- 「ID とパスワード」は「名前と生年月日」と同じ
これらは「同じ」ようでも、その見方・考え方・レベル(階層)などが違っていて、一つ一つ整理していかなければなりません。私はそれが苦手です。「同じ」だと思うだけで安心して、分かった気になってしまいます。私にはその能力も時間もありません。「私は無能力 impotence なのではなく無力 powerless なのです」と言いつつ死ぬまで思索を続けたイリイチです。それは彼の性格でしょう。その性格を維持するためには、友と祈りが必要だったと思います。友と話すこと、神と話すこと、それが彼らしく生きていくことを可能にしました。私は?
むりやり考えてみましょう。その鍵のひとつとしてヴェールホーフが言う「他者の行う労働」をとりあげてみます。人(他者・他人)を働かせることと自分が働くこと、これは明らかに違います。他人に働かせれば、自分はそれをしなくて済むので楽です。農作業を人に任せたり、料理を女性に任せたり、洗濯を洗濯機に任せたり。
マルクスも資本家の視点(資本の視点)で、他者の労働について書いていると思います。他者(労働者)が行う労働だから、資本家にとっての価値になるとも言えるでしょう。医学は他者の出産、他者の病気や痛みについて考えます。ドラマや映画は、他者の事件を描いています。現代の視聴者がそれに共感できるのはそのためでしょう。
イリイチの言う「生きる技術」は、他者が生きる技術でしょうか。そうなのかもしれません。でもイリイチは、その他者の「他者性」を乗り越えようとしています。私はそれを自己(自分)の主体性(主観性)を乗り越えることだと考えています。イリイチはそれをキリスト教に求めていますが、日本人なら仏教に求めるべきなのでしょうか。
私は仏教徒ではないので、それはできません。少なくとも今のところ。
〈自己〉とはないか?この問題は、古来幾多の哲学体系・宗教思想において中心問題であった、と言えるであろう。(中村元『自己の探求』 P.11)
中村さんは「自我(自己)」について、
ところで自我を〈実体〉とみなす見解は論理的に一つの誤謬を含んでいる。「実体」とか「性質」とかいうのはカテゴリーであって、現象世界についてのみ適用され得るものである。経験世界においてのみ適用され意義をもつところの「実体」というカテゴリーを、経験世界をこえた領域においても意義をもつと考えて、自我を実体としてとらえたところに、デカルトやインドの自然哲学者たちの誤謬がある。自我は疑えないものであるが、それが実体であるという結論は、そこから出てこないのである。(同書、P.46)
インドの自然哲学は読んだことがないのでわかりませんが、アリストテレスにおける「実体」と「性質」についてはいくらか分かります。
考えうること、言い換えれば「言葉にできるもの」がすべて存在するわけではありません。幽霊や UFO について言うことができる(考える事ができる)からといって、それが「存在する(実体である)」ということとは別なことです。眼の前に花があるとしましょう。「ここに花がある」と言うことはできます。「これは花です」と言うこともできます。でも、「この花」ではなくて「花(花一般)」というものがあるのでしょうか。「この花」ではなくて「花」というものがると言ったのがプラトンです。プラトンは、むしろ「在る」のは「花」であって、「この花」は枯れてなくなるものだから、「実体(実在)とは言えない」と言いました。はじめて見る「花」も「花」だということは分かります(予想がつきます)。なので、「花(というイデア)」があるのは「自明」ですが、「この花」に触ることができても「花(そのもの、イデア)」には触ることができません。どちらも「ある」のですが、「あり方」が違うのです。日本語で言えば「花である(性質)」と「花がある(実在)」の違いです。「私である」と「私がいる」の違いです。「我思う、ゆえに我あり」は「私は考える存在である、だから私がいる」という「誤謬」の産物です。これは「誤謬」というより、インド=ヨーロッパ諸語のもつ性質であって、日本語が正しく、印欧諸語が間違っているということではありません。
西欧の取り違えがどうなるかというと、「私とは何か」という疑問になります。「私が私であること」、つまり「アイデンティティ」の問題です。日本でも仏教の影響で「忘我」や「煩悩」ということは言われましたが、それが明確になるのは1980年代です。パソコンが普及するにしたがって、「 ID を入力してください」という言葉が当たり前になっていきます。三田誠広『僕って何』が芥川賞を取ったのは1977年です。国民総背番号制が導入されようとした1968年には国民の猛反対がありましたが、2016年にはマイナンバーとして導入されました。つまり、日本人にも悩んだり、痛がったり、喜んだりする「私」はいたし、「私はどう生きるか」という「私」もいました(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』1937年)。でもそれが「悩む私ってなんだろう」という問いになったのは最近のことだと思うのです。
この取り違いは、「価値がある」「価値である」とか「労働者がいる」「労働者である」とか「商品である」「商品がある」にも共通しています。商品の価値(交換価値)、貨幣の価値は触ることができません。触れられるのは「使用価値」です。同様に「労働」と「労働力」との違いを明確にしたのはマルクスです。「交換価値(商品価値)」と「使用価値」が「商品である」と「商品がある」に対応しています。「商品だから触らないで!」は「商品であるから触らないで」ということで「商品があるから触らないで」という意味ではありません。
剰余価値の実現、つまり「売買」は、売る側から見れば「商品という具体的な存在を、貨幣という抽象的(一般的)存在」に替えること、「価値がある」を「価値である」に替えることです。買う側から見れば「貨幣(交換価値)という一般的な抽象的存在を、商品(使用価値)という現実的存在」に替えることです。だからマルクスは貨幣(という地位を得る商品)を「一般的等価物」と呼びます。
「労働一般」つまり「イデアとしての労働」と「この労働」「私の労働」「具体的な個々の労働」とは異なります。ヴェールホーフが家事労働をしていたのかどうかわかりませんが、出産する性として(出産したのかどうかもわかりませんが)、出産一般・家事労働一般ではなく、当事者として、「この出産」「この家事労働」と言っているのだと思います。
その意味では、イリイチにとっては〈シャドウ・ワーク〉は〈シャドウ・ワーク一般〉です。試験勉強や通勤などの例を挙げていますが、それも「この試験勉強」「この通勤」ではなくて「試験勉強一般」「通勤一般」です。イリイチが言う病院は「病院一般」であり、「学校教育一般」です。
「この出産」をイリイチは体験することができないし、「この家事労働」たとえばサツマイモを切っている労働が、家事労働か〈シャドウ・ワーク〉か賃労働かは、端的にわからないのです(惣菜会社でサツマイモを切っているかもしれない)。
ヴェールホーフが賃労働の本質も家事労働が分からなければわからないというのはそのとおりで、「この労働」と指差す労働が家事労働か賃労働かはわからないのです。わからないのに「ある労働」が価値を生み出し、報酬をもらうこともあれば、労働力をつくり出すこともあるのです。
「命がある」ということと「命である」ということは違います。
「生命」という漢字は「生」と「命」です(「生成」は「生」と「成」、「継続された本源的蓄積」は、この「生」と「成」を区別しようとしたように思えます)。そう訳した事はすごいと思いますが、「生きる(生活する)」というのは、「生である」「生がある」どっちでしょうか。「命である」「命がある」と比べたほうがいいでしょうか。
イリイチが「生活の自立・自存」と言うとき、イリイチが当事者なのは明らかです。その時イリイチが言っているのは「この生」であって「イリイチという生」ではないでしょう。少なくとも「命を大切に使用」というような一般化された生命(生活)ではないのです。
イリイチは「ヴァナキュラー」と言う古い言葉を引っ張り出しました。サツマイモ一般、あるいはスーパーで売っている(どこで作られたかわからない、商品として生産されたサツマイモ)ではなくて、「家(うち)で穫れたサツマイモ」のことです。
その一本一本には太郎とか二郎とかイヴァンとか言う名前はついていません(名前をつけると食べにくい)。スーパーでは「ベニハルカ」などの「品種名」が付いていたりしますが、あえて呼ぶとすれば「イリイチさんちのサツマイモ」です。子供は「イリイチさんちの太郎」です。ダ・ヴィンチ村のレオナルド(レオナルド・ダ・ヴィンチ)は、ヴァナキュラーな絵描きでした。
柄谷行人は、
私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。(柄谷行人『探究Ⅱ』講談社学術文庫 P.10)
ヴェールホーフが「他者の労働」と言っているのと同じです。「他者の私」でも「私一般」でもない「この私」。それは特殊性( particularity )でも、個別性でも、個体性でも、唯一性でもない、「この絵描き」、「このサツマイモ」です。柄谷行人の言葉で言えば「単独性 singularity 」としての存在です。「女性を好きになった」のではなく、「この女を好きになった」のであり、「この女に振られた」ということです。
個体の特殊性(個別性)と単独性とはどのように区別されるだろうか。たんに個体が一つしかないということでは、それらは区別されない。この区別は、それらの個体が一般性あるいは集合に属するか否かにある。(同書、P.13)
失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(同書、P.15)
この単独性は稀少性に置き換えることはできないのですが、というのは単独なものは商品にはならない(価格が付けられない)からです。
芸術作品は、たとえば『モナ・リザ』を商品と見るか芸術と見るか。それを明確に表現したのがデュシャンの「レディ・メイド」でありウォーホルの『キャンベル・スープ』です。結果として、それらも商品として売買されるのですが、売買したい人にはさせておけばいいのです。いつでも手に入るものは商品にはなりません。いつでも手に入る物(コモン)は稀少性を身に着け、商品となります。
都会において水は稀少です(地下水や川の水は飲めなくしてある)。「名水」がペットボトルに入れられて商品となります。あるいは新興宗教では「聖なる水」として稀少性を帯びて、お金と交換されます。
私の裏庭で穫れた枝豆は旬のときはとても美味しいのですが、それは稀少性を帯びないので商品にはなりません。私が書いている文章も稀少性がないので商品とはなりません。(私は「働け!」と言われているわけではないけど)働くとはお金を稼ぐことか商品を作ることです。だから、働かないでお金を稼げればそれでいい、と考える人も出てきます。結果として、いくら頑張ってもお金にならなければ、それは働いたことにはならないのです。闇バイトが犯罪を起こせるのは、場合によっては人を殺せるのは、その人を「この人」と思わずに「人一般(あるいは物)」だと思う瞬間ではないでしょうか。戦争で殺すのは「この(その)人」ではなくて「敵」です。
イリイチは「稀少性の歴史」を書いたのでしょうか。イリイチが「生活の自立・自存(原語は subsistence。玉野井芳郎さんの訳語。普通「ぎりぎりの生活」の意味で使われるが、イリイチはむしろ心の豊かな生き方という意味で使っている)」と言うとき、それはヴァナキュラーなもの(単独性)で、稀少性をもたないものです。それは人の生活と共にあったし、多分人がいる以前からあり、人はその中で生きてきたものです。それは人の欲求を満たしたし、人の欲求はその範囲内のものでした(プラトンの「コーラ」)。稀少性はそれを超え、「欲望(渇望 desire )」を生み出すものです。
「稀少性」がキーワードとして決まったあと、それは「ヴァナキュラーな生」つまり「この生」を否定するものとして表現されます。賃労働や〈シャドウ・ワーク〉は、このヴァナキュラーな生を一般化するところに現われます。ヴァナキュラーな個々の労働が集まったのが〈シャドウ・ワーク〉や家事労働だというのではないのです。
一般(全体)「である」としての労働と、個々の「がある」としての労働は、それぞれ「ある」のですが、その「あり方」が違うのです。
私はそのことを、たとえば今西錦司が言うように「個体と種は二にして一のもの」だとは単純には思えません(今西錦司は同じだと言っているのではありません)。「この花がある」ということと「花というものがある」ということが同じものだと感じることはできないのです。「花というものがない」ということではなくて、「花というものは、自我・精神と同じようにあるんだけど、あり方が違う」と思うのです。
親があり、子があるからといって親子関係があるとは思えないのです。親子関係は生物学的(DNA型)で決まるものではありません。それは戸籍が決めるものでもありません。この親が私の親であり、この子が私の子であると感じるかどうか、この友を友と感じるかどうかですが、この「私」は「自我」に囚われた「私」です。なので、イリイチは「求める」ということではなく「求められる」ということを重視します(これも印欧諸語特有の表現です)。
私が今・ここに「なぜ」いるのかは説明できません。電車できたとか、親が産んだとかいう説明は、「なぜ」の説明ではないのです。私がここにいる「意味」「理由」は、(イリイチの言葉で言えば)私が「求められる」ということによって生まれます。その他の理由は付随的(偶有的)なものです(商品も同じ論理をはらんでいます)。
家事労働の現代性。育児労働の現代性。それはドゥーデンのように歴史的に現代労働を「相対化」することから見えてきます。家事労働が本質的に「労働一般」であるとして、そこから現代労働の特性が見えてくるのです。そして「相対化」することは「他者の労働を考察する」ことです。
「労働」をしていない私ですが、私がスマホをいじったり、テレビを見て笑ったり、病院に通ったり、ご飯を食べたり、寝たりすることはすべて「剰余価値の実現」「資本蓄積」「資本主義の維持」です。
というのは、かつて一度も支払われたことのないような労働もすべてまた、そしてまさにそのような労働こそが、資本との矛盾関係にあるからである。(中略)賃労働に限らず労働は、そこでは資本と生きているものとの仲介役である。(中略)それなしには資本は生きられない。その場合には資本は、死物、過去の、「死んだ労働」、すでに使い果たされた生命でしかない。「生きる」ためには、資本は永続的な社会関係に姿を変えなければならない。そうなれば、生命を労働の媒介によって「吸収」することができる。(P.72)
資本と矛盾関係にあるのは、労働一般や生命ではなく、「この労働」「この生」です。でも、「この労働」「この生」という単独性は、「無規定(言語化できない)」なのです。それを「労働というものは」「〈シャドウ・ワーク〉とは」と規定しようとした瞬間に、その単独性は「類(種、イデア)」に絡め取られてしまいます。
このように見てくると、「剰余価値の実現」だけではなく「労働が価値を生む(作る)」ということ自体が「〜がある」と「〜である」との相互転換の運動であることが覗えてきます。分離している(別のもの)でありながら一体化している(同じである)、「二つの見方」の「同一視」です。あるときは片方を重視し(観念論と実在論など)、あるときは「相互作用」として見るのです(弁証法など)。精神と肉体、主体(主観)と客体(客観)、我と汝、など多くのことがこの視点で見えてきます。マルクスが言う「上部構造・下部構造」もこの視点から見ることができます。
これらの生産諸関係の総体は、社会の経済学的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。(マルクス『経済学批判』MEW13 S.8-9、邦訳 国民文庫 P.15-16)
このことの発生の原因は印欧諸語の特徴だけではないでしょう。多くの要因の一つとして言語構造があるだろうということです。アリストテレスにおける「実体概念」は、その後、キリスト教というセム語系の考えと混合されます。すでにソクラテス以前にギリシャには中東からピタゴラス的思考が流れ込んできていたでしょう。それは文字や商業とともに古代ギリシャに大きな反動を生みました。ソクラテスの文字嫌いは、文字の持つ商人臭さ、思想より通俗的な現実・実用性の重視に対する反動でしょう。トルコからギリシャ、ローマというヘレニズム文化、中東のヘブライズム文化、あるいはイベリア半島からエジプト、北アフリカにかけての地中海文明、それぞれが持つヴァナキュラーなものが入り乱れているのでしょう。私はあまりにもそれらの知識がありません。
日本はたしかに「資本主義社会」です。「民主主義国家」とも言われます。日本人が(日本語で)理解している「資本」や「商品」は、きっと西欧人が感じているものとは違うのでしょう。中国人が考えている「商業」は、西欧人や日本人が感じている「商業」とは違うでしょう。日本人が日本語を使うかぎり、それらが「同じ」になるとは思えません。それでも「 ID 」や「パスワード」は、それが「何であるか」を問われることもなく使われています。また選挙があるようですが、選挙とは(民主主義とは)何かを問われることはないでしょう。
それらが日本語そのものを変える可能性はあります。50年前より、日本語は英語化していると感じます。カタカナ語(ほとんどが英語)が半分近くある国会中継は、私には理解できません。「物がないと生きていけない」は「商品がないと生きていけない」に変わりました。
「言語が思考を規制する」と言いたいのではありません。言語と思考、つまり「がある」と「である」とが混同されつつあるように思うのです。私にはその流れを変えることはできません。私はあまりにも無力です。ただ憂いているだけです。テレビの報道とは違って、多くの日本人は楽しい人生をおくっているのかもしれません。今西錦司が言うように「なるべくしてなる、変わるべくして変わる」のかもしれません。
それでも日本語的には「がある」は「がある」であり、「である」は「である」でしかありません。それを西欧語を知っている学者や専門家、あるいは資本、マスコミが混同させているように思います。政治家はそのための制度を作っています。
アテナイの民主主義は「私」と「あなた」の民主主義ではありませんでした。いわば身体における「手と足の民主主義」でした。近代の民主主義は「私(自我)」と「あなた(自我)」の民主主義です。それはいわば畑における「リンゴとミカンの民主主義」です。それは日本語では表せられないものです。日本語では「手」は「手」であり、「足」は「足」であり、「ミカン」は「ミカン」であり、「リンゴ」は「リンゴ」なのです。
でも、「求める」「求められる」とは違う、日本(語)らしい(ヴァナキュラーな)「私のあり方」がありそうな気がするのです。
[著者等]
バーバラ・ドゥーデン
ケンブリッジ大学、ベルリン自由大学等で英文学、歴史学を修めた後、フェミニズムの運動に携わるとともに、ヨーロッパ近代初期の女性運動と闘争の歴史をはじめとする女性史研究に従事。I.イリイチとの親交も深く、女性の立場から旺盛な著作活動を展開する。著書に『女の皮膚の下』『胎児へのまなざし』ほか。
クラウディア・フォン・ヴェールホーフ
ケルン大学で経済学と社会学を修め、経済学博士。第3世界に深い関心を持ち、フィールド・ワークを続けながら、ビーレフェルト大学で社会学を講ずる。ドゥーデンと共に、ドイツにおけるフェミニズム運動の理論的パイオニアとして知られる。
