ブログ
このブログの訪問者数はトータルで32万5千人ほど。そのうち何人が記事を読んでくれたのでしょうか。ほとんどの人は、なにか調べ物をしていてたまたまクリックしてしまった、ということだと思います。
「書く」ことは、「読む」ことの何倍も労力が要ります。読むことはその材料(対象)がすでに存在しますが、書くことの対象は、まだこの世に存在しません。
「存在」というのは微妙です。「目に見えるもの」ではないですよね。聞いたり、触ったりできる、感じることのできるもの?微妙です。
読んでももらえないものをなぜ書くのか。この本を呼んで、その意味が少しわかった気がします。
本書について
本書は、John B. Caroll, ed : Language, Thought and Reality : Selected Writing of Benjamin Lee Wjhorf, 1956 の翻訳です。1978年に弘文堂から刊行されたとあります。ネット検索では南雲堂から有馬道子訳で『完訳 言語・思考・実在』(1978年)という名前の本がありますが、その関係はわかりません。前者は抄訳、後者は完訳ですので、この感想を書き終わったら後者を読もうと思っていたのですが、amazonでの価格が850円から現在1500円になってしまいました。どうしましょう。
ウォーフの経歴は編者解説に詳しいですが、サラリーマンをやっていたようで、はじめから言語学を勉強していたわけではないようです。言語学アカデミー出身じゃないこと、MITで化学工学の学位を取得していることなど、ちょっと変わっています。著作も、この本に収められているものでほとんどのようです。そのことがこのような画期的な発想を生み出したのかもしれません。
1941年に44歳でなくなりました。
語学の才能
ネイティブ・アメリカン(この呼び方が適切かどうかはわかりません)の言語だけじゃなく、中央アメリカの言語、さらにラテン語は当然としても、サンスクリットや中国語、そして本書では日本語についての言及もあります。語学の才能に溢れた人です。語学が苦手な私はとても羨ましいです。
でも、それだけではありません。言語学者、考古学者、翻訳家などによく見られる「他文化を自分化に翻訳する」という姿勢、博物学的な、見世物小屋的、怖いもの見たさ、興味本位の姿勢がないことです。博物学は、大航海時代以降、西欧が西欧以外の国を見下して、世界中を荒らし回り、集めた資料に西欧の解釈を施したものです。それは西欧中心主義です。その西欧中心(至上)主義が進化論と共に人間中心(至上)主義に代わっていきました。人類学はその流れの中にあります。人類学の文献も、「異国情緒」を見世物小屋的に紹介するものが多いのですが(歴史学の文献もそうです)、そこには西欧中心主義があります。歴史学では、それが「現在至上主義」になります。簡単に言えば、「自己中心」ということです。ジコチューは何も最近の出来事ではありません。かといって、どの国のどの時代にもあったというものでもありません。
興味
私たちは、少なからず「好奇心」があります。人間のみならず、イヌやネコにだってありますよね。珍しいものは、恐怖の対象であると同時に、興味の対象です。植物と違って動物は、移動して栄養を取得しなければなりません。常に外界の影響を受け、その影響のもとに反応(行動)して生きています。食物を探すにしても、生殖の相手を探すにしても行動します。そして、五感でその対象物を確認します。犬と猫で、その行動はだいぶ違いますが、知らないものを見つけると匂いを嗅いで、食べ物かどうか、敵か味方がを判断しているように見えます。同じ犬でも好奇心旺盛なイヌとそうじゃないイヌがいますよね。人間も、好奇心が旺盛な人と、そうじゃない人がいるように思います。
でも、人間と犬が違うのは、犬は自分に関係ないと思った瞬間にもう興味を失います。それは犬が自分勝手、自分本位、ジコチューだからでしょうか。私は違うと思います。犬は自分がないからこそ興味を失うのです。自分に関係がないものに興味を持ち続けるということこそが〈自己〉から生まれる現象なのです。自己という「世界の中心」を持つ人(設定する人)は世界を、「自己と他人」「主体と客体」として見てしまいます。言語で言えば、主語と述語として、そして対象は目的語です。設定した客体は主体に回収されません。なぜなら、主体から分離することで客体となるからで、かつ、主体そのものが客体となるからです。自分自身を絶えず客体化していかなければならないのです。例えば、「私は本を読んだ」は「私は本を読むために目を開けた」となり、「私は本を読むために目を開けようと考えた」となり、「私は本を読むために目を開けようと考えた自分に気がついた」・・・、となります。これでは永遠に対象を認識することができないのです。だから、「我思う故に我あり」以上に考えないことが必要になります。認識できないと認識しない限り、認識行為は永遠に続きます。認識できないからこそ、興味は消えないのです。つまり、自己という主体をもち続ける限り、興味を持たざるをえないのです。
論理
NHKに『ロンリのちから』という高校生向けの番組があります。何曜日の何時に放送しているのかは、よくわかりません(HPにもちゃんとは載っていない)。時々ハッとさせられる内容があります。「わたしたちがいつしか忘れている論理」を若いうちから身に着けさせようという番組なのでしょう。
「論理」「ロジック logic」は古典ギリシャ語の「λόγος」です。それがラテン語の「logica」になって、「logic」になりました。「λόγος」は「言葉」「話す」「理性」等の意味があります。
新約聖書(古典ギリシャ語で書かれていました)の言葉 "Εν αρχῇ ῆν ὴν ὁ λογός, καὶ ὁ λόγος πρὸς τὸν θεὸν, καὶ θεὸς ῆν ὁ λόγος"(初めに言葉ありき。言葉は神とともにありき。言葉は神でありき。「ヨハネの福音書」第1章1.1〜)は有名ですが、この「λόγος」を「ことば」と訳すか「論理」と訳すか「理性」と訳すかで、多くの日本人には意味が違ってきます。でも、西欧人には同じなのかもしれないし、同じではなくても混同している可能性はあります(それが「男性」と結びつくのはまた別の話です)。
その「論理」は西欧においては「絶対的なもの」あるいは「人類にとって不変(普遍)なもの」と考えられています。多様な言語を超えて、人類に共通なものとしての論理です。だから、その論理がわからない人、部族、国家・・・等々は「劣った」「未開の」「発展途上」の存在であり、「啓蒙」「保護」「哀れみ」あるいは「撲滅」の対象なのです。これが〈自己〉から発生していることは明らかでしょう。
言語
具体的な言語を超えた存在としての「論理」はプラトンのいう「イデア」です。それをアリストテレスが「構成化し、理性の法則ということにした」(P.181)のです。「ベーシック・イングリッシュ」やエスペラント語、『1984』に出てくる「ニュースピーク」も、この「なにか個別の(具体的な)言語以上のもの」の存在を前提とし、それを表す一つの具体的な言語として作られています。
「イデア論」は、個々の具体的なものや形ではなくて、それらを成り立たせているもの「イデア」の存在を仮定する考えです。「この机」や「あの机」と別の「机一般」あるいは「机を机ならしめているもの」です。「この三角形」や「あの三角形」とは別の「三角形」というもの。「この赤い花」や「あの赤いリンゴ」とは別の「赤」というもの、等々。なんかありそうです。「一般名詞」「形容詞」・・・等々がなければ大変です。「タマ」や「ミケ」「トラ」などの固有名詞だけがあって、「ネコ」という一般名詞がなければ、とても不便です。「この赤」「あの赤」だけで、すべての色が別なら「赤いもの」と「青いもの」の区別ができません。「三銃士」と「三本の矢」が意味を持つのは「3」というイデアがあるからです。これも、認識できない〈自己〉の客体化作用から来ていることはおわかりいただけるでしょうか。
このイデア、つまり「一般化」は当り前ですが、「具体性」を失わせるということです。「3個のリンゴ」は、具体的な一個一個のリンゴの具体性(個性)を無視することによって成り立ちます。イデア論のような「超越的論理は、まだ科学の理解するところとなっていない。それは科学が今なお、共通の論理という幻想的な必需品から自らを解放していないからである。」(P.235)
共感力(人と人はわかり合えるか)
論理が言語に規定され、「共通の論理」が「幻想」だということは、違う言葉を使っている人同士は共通の論理に立脚できないということです。同じことは、京都弁と、東京弁、津軽弁を話す人の間にも言えるのではないでしょうか。方言には親密度や差別意識がつきまといます。その原因は言葉は文化であり、ことばは思考だからです。
「差別意識」が〈自己〉の存在に規定されていることは、すでに述べました。とすれば、〈自己〉を持つ人同士、つまり、他者を〈客体〉として見てしまう人同士は「わかり合えない」のではないでしょうか。
どうして、他人を殺したり、殴ったりするのは悪いことなのでしょうか。「自分が殺される、殴られるのは嫌でしょ。だから、人を殺したり殴ったりしてはダメ」と子供に教えることはありませんか。それとは反対に「〇〇ちゃんは〇〇ちゃん。あなたとは違うの」とも言います。違うとすれば、前者は「自分は殺されてもいい、殴られてもいい」と思っている人や「あなたは嫌だろうけど、私は嫌じゃない」と言われたらどうしましょう。〈自分〉という論理を持っている限り、論理的にはわかり合えないのです。
でも、ウォーフは希望を捨てません。「科学も詩も愛も文字どおりの意味での言語の使用や単調で散文的な煩わしさに満ちた奴隷的世界を離れ、その上空を「飛翔する」ものであって、自己中心の見方に伴うつまらない偏狭さを押し広げ、アルーパへ向かって、つまり、無限の調和、協調、秩序の世界、普遍の真理と永遠なるものの世界へ向かっての上昇であるという点で、たがいに似かよっているからである。」(P.217)
フーコーは古典ギリシャまでさかのぼった上で、「セクシャリテであることを強制されている」と言いました。私は、同様に「古典ギリシャにおいて〈自我〉が自覚された」(日下部信吉)と思っています。だから、それ以来西欧は「〈自己〉であることを強制されている」と思います。常に〈自己(自分、自我)〉であることを強制され、他人を〈他者〉と見ることを強制されます。自分の〈自己〉と同時に他者の〈自己〉を認めること、つまり、「〈自由〉であること」や「〈平等〉であること」も強制されていると思うのです。
このことは〈自由〉や〈平等〉が幻想であるということではありません。「セクシャリテ」が幻想でも、不要なものでもないのと同じです。可能性は〈自我〉の乗り越えにあると思います。
最後に
この本から書き抜きを作ろうとして、困りました。どのページにも大切なことが書かれていると思えるし、一つの文は他の文との関わりで成り立っているのです。書抜のために読むと、また書き抜きたい文が増えてしまうのです。
ニーチェやマルクスやフーコーが乗り越えようとして、乗り越えなかったことを、ウォーフは軽々と超えてしまっているように思います。ウォーフが大きな著作を残さなかったこと、若くして亡くなったことが残念でなりません。
Blog
The total number of visitors to this blog is about 325,000. How many of them read the article? I think most people happened to click while doing some research.
"Writing" requires many times more effort than "reading". The material (object) for reading already exists, but the object for writing does not yet exist in the world.
"Existence" is subtle. It's not "visible", isn't it? What you can hear, touch, and feel? It is subtle.
Why write something that you can't read? I think I understood the meaning of this book by calling it.
About this book
This book is a translation of John B. Caroll, ed: Language, Thought and Reality: Selected Writing of Benjamin Lee Wjhorf, 1956. It is said that it was published by Kobundo in 1978. On the internet, there is a book from Nan'un-do translated by Michiko Arima called "Complete Translation: Language, Thinking, and Existence" (1978), but I don't know the relationship. The former is an abstract translation and the latter is a complete translation, so I thought I would read the latter after writing this impression, but the price at amazon has changed from 850 yen to 1500 yen now. What to do now?
Worf's career is detailed in the editorial commentary, but he seems to have been a salaryman and he did not seem to have studied linguistics from the beginning. He's not from the Academy of Linguistics, he has a degree in chemical engineering from MIT, and so on. Most of his writings are also contained in this book. That may have created such an epoch-making idea.
He died in 1941 at the age of 44.
Language talent
Not only Native American languages (I don't know if this name is appropriate), but also Central American languages, as well as Latin, Sanskrit, Chinese, and Japanese in this book. He is a talented person in the language. I'm not good at languages, so I envy you.
But that's not all. The attitude of "translating other cultures into personalization", which is often seen in linguists, archaeologists, translators, etc. It is strong> not . Natural history is a Western interpretation of the materials collected by Western Europe, looking down on countries other than Western Europe and trolling around the world since the Age of Discovery. It is Eurocentrism. The Western-centered (supreme) principle replaced the human-centered (supreme) principle with the theory of evolution. Anthropology is in the process. Many anthropological literature also introduces "exoticism" as a freak show (as well as historical literature), but there is Eurocentrism there. In history, it becomes "currently supreme." Simply put, it is "selfish." Jikochu is nothing recent. However, it does not mean that it was in any era in any country.
Interest
We have a lot of "curiosity". Not only humans, but also dogs and cats. Unusual things are both an object of fear and an object of interest. Unlike plants, animals have to move and get nourishment. I am always influenced by the outside world, and I live by reacting (acting) under that influence. Whether you're looking for food or a reproductive partner, you act. Then, check the object with your five senses. Dogs and cats behave very differently, but when they find something they don't know, they smell it, and it seems that the enemy or ally decides whether it's food or not. Some dogs are curious and some are not. I think there are people who are very curious and people who are not.
But the difference between humans and dogs is that dogs lose interest the moment they think they have nothing to do with them. Is it because dogs are selfish, selfish, and jikochu? I think it's different. Dogs lose interest because they don't have them. Continuing to be interested in things that have nothing to do with you is the phenomenon that arises from "self." A person who has the "center of the world" (the person who sets it) sees the world as "self and others" and "subject and object". In language, it is the subject and predicate, and the object is the object. The set object will not be collected by the subject. This is because it becomes an object by separating it from the subject, and the subject itself becomes an object. You have to constantly objectify yourself. For example, "I read a book" becomes "I opened my eyes to read a book", "I thought to open my eyes to read a book", and "I read a book". I realized that I was thinking of opening my eyes. " With this, the object cannot be recognized forever. Therefore, it is necessary not to think more than "I am because I think". Unless you recognize that you cannot recognize it, the act of recognition will continue forever. Interest does not disappear because it cannot be recognized. In other words, as long as you continue to have the subject of yourself, you have to be interested.
Logic
NHK has a program for high school students called "Ronri no Chikara". I'm not sure what day of the week it's broadcasting at what time (it's not listed properly on the website). There is something that sometimes makes me surprised. Perhaps it is a program that aims to equip young people with "the logic that we have forgotten".
"Logic" "logic logic" is the classical Greek word "λόγος". It became the Latin word "logica" and became "logic". "Λόγος" has meanings such as "word", "speaking", and "reason".
The words of the New Testament (written in classical Greek) "Εν αρχῇ ῆν ὴν ὁ λογός, καὶ ὁ λόγος πρὸς τὸν θεὸν, καὶ θεὸ ν, καὶ θεὸ The word is God. "The Gospel of John" Chapter 1 1.1 ~) is famous, but there are many ways to translate this "λόγος" as "word", "logic", or "reason". The meaning is different for Japanese people. But it may be the same for Europeans, and it may be confused if not the same (it's another story to associate with "male").
That "logic" is considered in Western Europe to be "absolute" or "immutable (universal) to humankind." It is a logic that transcends various languages and is common to all humankind. Therefore, people, tribes, nations, etc. who do not understand the logic are "inferior," "undeveloped," "developing," and are the objects of "enlightenment," "protection," "pity," or "eradication." .. It's clear that this is coming from the Self.
Language
"Logic" as an existence that transcends concrete languages is Plato's "idea." Aristotle "structured it and decided it to be the law of reason" (P.181). "Basic English", Esperanto, and "Newspeak" appearing in "1984" also presuppose the existence of "something more than an individual (concrete) language", and one concrete expression that expresses it. It is made as a language.
"Idea theory" is an idea that assumes the existence of "ideas" that make up them, not individual concrete things and forms. It is a "general desk" or "a desk that is made into a desk" that is different from "this desk" or "that desk". A "triangle" that is different from "this triangle" and "that triangle". "Red" which is different from "this red flower" and "that red apple", and so on. There seems to be something. It would be difficult without "general nouns", "adjectives", etc. It would be very inconvenient if there were only proper nouns such as "tama", "mike" and "tiger" and no general noun "cat". It is not possible to distinguish between "red" and "blue" if all colors are different, just "this red" and "that red". "Three musketeers" and "three arrows" have meaning because there is an idea of "3". Can you see that this also comes from the unrecognizable objectification of the "self"?
This idea, or "generalization," is commonplace, but it means losing "concreteness." "Three apples" are made by ignoring the specificity (individuality) of each specific apple. "Transcendental logic is not yet understood by science, as in the theory of ideas, because science still does not free itself from the fantastic necessities of common logic." (P. .235)
Empathy (Can people understand each other)
The fact that logic is defined in language and "common logic" is "illusion" means that people who use different words cannot build on common logic. The same can be said for those who speak the Kyoto dialect, the Tokyo dialect, and the Tsugaru dialect. Dialects are associated with intimacy and discrimination. The reason is that language is culture and language is thought.
I have already mentioned that "discrimination" is defined by the existence of "self". If so, I think that people who have "self", that is, people who see others as "objects", "cannot understand each other".
Why is it wrong to kill or hit someone else? Do you ever teach your child, "You don't want to be killed or beaten, so don't kill or beat someone?" On the contrary, he also says, "OO-chan is OO-chan. It's different from you." If not, what if the former is someone who thinks "I can be killed or beaten" or "I don't like you, but I don't". As long as you have the logic of "self", you cannot understand each other logically.
But Worf does not give up hope. "Science, poetry, and love leave the slave world full of literal language use and monotonous, prose annoyance, and" fly "over it, with a self-centered view. Because they resemble each other in that they push the trivial narrowness and rise towards Alupa, the world of infinite harmony, cooperation, order, the world of universal truth and the world of eternity. be. (P.217)
Foucault went back to classical Greece and said he was "forced to be sexual." I also think that "the ego was realized in classical Greece" (Nobuyoshi Kusakabe). So, since then, I think Western Europe has been "forced to be a" self "." You are always forced to be a "self (self, ego)" and to see others as "others". I think that it is compulsory to recognize the "self" of others at the same time as one's "self", that is, to be "freedom" and "equality".
This does not mean that "freedom" or "equality" is an illusion. It's the same as "sexuality" is neither an illusion nor an unnecessary one. I think the possibility lies in overcoming the "ego".
Finally
I was in trouble trying to make a draft from this book. It seems that important things are written on every page, and one sentence is made up of relationships with other sentences. If you read it for writing, the number of sentences you want to write will increase again.
I think Worf has easily surpassed what Nietzsche, Marx, and Foucault tried to overcome but did not. It's a pity that Worf didn't leave a big book and he died at a young age.
[著者等(プロフィール)]
【ベンジャミン・リー・ウォーフ】
1897〜1941。アメリカの言語学者。イェール大学でE.サピアの教えを受け、メキシコの古代語(アズテク、マヤ)、アメリカ・インディアンのホーピ語を研究。本書は没後の1956年、友人J.B.キャロルの編纂により刊行された。
【池上嘉彦】
1934年京都市生まれ。東京大学英語英文学科卒。イェール大学大学院言語学科Ph.D.(1969年)。現在、東京大学名誉教授。著書に『英詩の文法』『意味論』『ことばの詩学』『記号論への招待』、学術文庫『詩学と文化記号論』など。
〈書抜〉
傍点=>アンダーライン
1 アメリカ・インディアンの宇宙像
「幾何学でも、ユークリッド幾何学以外の幾何学で空間的な図形について全く同様に誤りのない説明を与えるものがいくつでもありうるが、それと同じように、われわれにとってのお馴染みの時間と空間という対立を含まないで、それでいてすべて等しく成り立つような宇宙の記述もいくつでもありうるのである。現代物理学の相対性に基づく観点というものも、このような見方が数学的に表された一例である。ホーピ族の世界観も同様の例で、ただ全く違った種類のものであり、数学的なものではなく言語的なものであるというだけである。」(P.14)
「ただし、この形而上学はホーピ語によってのみ正当に記述できるようなものであり、われわれ自身の言語で表すとすれば近似的なやり方でーーもちろん、多少は不十分なものにならざるをえないがーーホーピ語の宇宙観の根底にある体系と比較的うまくかみ合うような形にわれわれが作り上げた概念を利用してやってみる他はない。」(P.15)
「ホーピ語では、われわれの名詞好きとは対照的に動詞が好まれる傾向があり、われわれならばものについての命題とするところを絶えず出来事についての命題という形に変えている。遠くの村で起こることは、もし現実に起こった(客観的な)ことであって推測(主観的)ではないのならば、「ここ」では後になって初めて知ることができるわけである。「この場所で」起こっているのでなければ、「今の時点で」起こっているのではないのである。それは「あの」場所で「あの」時点に起こっているのである。」(P.25)
2 原始共同体における思考の言語学的な考察
「それは言語的な発話(ulterance)とは区別された言語的な関係(rapport)である。」「(・・・)'male'とか'female'という言語的な概念ではないのである。」(P.33)「このような分類のことを私は暗示的(convert)な部類と呼んで、明示的(overt)な部類(たとえばラテン語における性)と区別することにする。ナバホ族は全世界の対象を一部は有生、一部は携帯という基準から暗示的な形での分類を行っている。」(P.34)
(ファーブル・ドリヴェの考え方)「音声的記号(音素)は高度に特殊化したジェスチャーないしは象徴的行為であり、言語というものも身体的な行動全体が象徴化し、ついてその象徴性を次第に音声的な手段に向けることによって発達したものであった。」(P.46)
「ベーシック・イングリッシュが人びとに訴えるのは、それが単純であるからである。しかし、それが単純であると思える人たちは、すでに英語を知っているか、もしくは知っていると思っている人たちなのである。」「しかし、英語は決して単純などと言えたものではない。」(P.57)「この進化の本当の意味での原始的な語根についてはわれわれは何も知らない。われわれが少なくともわれわれの立場から見出しうることは、現在のわれわれの時代において地球上に広く散らばって存在しているこの進化によって生み出された結果だけである。」(P.60)
「これはまるで、リンネ以前の植物学者がたまたま進化の考えを抱くようになって、われわれの栽培している小麦やからす麦の方がヒマラヤ山脈中の少数の地域にしか見られない珍しいよめなの類の植物よりも高等な進化の段階を表しているとでも思っているようなものである。」「現代文明の域に達した文化を担っている比較的少数の言語は地球上くまなく拡がる様相を示し、何百というさまざまの珍しい言語種族の消滅を引き起こしている。しかし、だからといって、それらの言語が型の上で何らかの優秀性を示しているなどというのは無意味なことである。」「多くのアメリカ大陸の言語と較べてみると、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語などの考えをまとめる体系化の方法は、貧弱でお粗末なものに思える。」(P.61)__ちょっと言い過ぎな気が(^_^;)
3 文法的範疇
(P.72)__主語が"he"であれば、"goes"と's'を付ける必要はないと思うが。その「冗長性(余裕)」を西洋人は「非論理的」とは思わない。論理はSAEが作ったものだから。
「その上、代名詞は名前とだけ一致するのであって、経験と一致するのではないことは簡単に示せる。」(P.74)
「それらが経験を表していることは確かであるが、それも一定の言語的な枠を通して見られた経験であって、すべての観察者にとって共通の経験というようなものではないのである。」(P.76)
4 習慣的な思考および行動と言語との関係
「「夏、冬、九月、朝、正午、日没」などという語はわれわれの場合名詞で、他の名詞と較べて取り立てた形態上の相違はない。」(P.108)「すでに見た通り、複数になったり数えられたりす(FF)るところは物理的な対象を表す名詞と似ている。その結果、このような語の指示物について抱くわれわれの考えも客体化される。」(P.108-109)「このような周期的な相が空間的な(つまり視覚的にとらえられた)形のようにお互いどうし並べられるのは、全く想像力を通じてのみ可能なのである。しかし言語的類推の力は大変なものであるから、われわれは周期的な相というものをそのように客体化する。」「しかも、個別名詞と物質名詞というパターン、および、そこから生じる「形のない項+形」という二項式はすべての名詞にとって暗黙のうちに存在すると言ってもよいくらい一般的なものである。そのため、「実質、質量」のようなきわめて一般化された項が生じ、それによって非常に広い範囲の名詞に対して二項式を満たすことができるのである。しかし、このようなものですら、われわれの相を表す名詞の面倒を見るほど一般的でないのである。そこで、われわれは相を表す名詞のために「時」という形のない項目を作り出した。」(P.109)__時間の空間化
「しかしながら、ホーピ語においては、「夏」とか「朝」といった相を表す名称はすべて名詞ではなく、一番近いと思われるSAEの表現を使うと一種の副詞である。」「it's a hot summer(暑い夏だ)とか、summer is hot(夏は暑い)などとは言わない。夏が暑いのではない。夏とは状況が暑い「時」、熱気がやってくる「時」なのである。」(P.110)
「時間についてのわれわれの考え方はSAEの動詞のもつ三つの時制の体系によって色づけられている。この体系と融合するものとして、他のパターン、すなわち、一般の名詞に適用可能な二項式、時間を表す名詞、複数と数の計算においてすでに見た通り、持続ということについての主観的な経験が客体化されるより大きな枠組みというものがある。このような客体化の結果、われわれは「時間」を一列に並べることが想像上できるのである。時間を列のように考えるということは「三つ」の時制の体系とうまく調和する。これに対し、早い部分と遅い部分という「二つ」の体系の方が実は経験された形での持続の感じにはよく合っていると思われる。というのは、もしわれわれの意識を調べてみるならば、過去、現在、未来が見出されるのではなく、複雑さを内包した一つのまとまりがあるだけである。「すべて」が意識の中にあり、意識の中にあるすべてが「存在し」、共在するのである。そこには感覚的なものも非感覚的なものも含まれる。われわれは感覚的なものーー見たり、聞いたり、触れたりしているものーーを「現在」、一方、非感覚的なものにおいては、広大な記憶という心的映像の世界が「過去」、もう一つの信念とか直観、不確定の分野を「未来」と名づける。」(P.111)__「過去」・・記憶、記録、文字 「未来」・・派生する
「この「後の」とか「前の」という顕著な関係に対応する二つの時制だけで十分すませている言語は何十とある。もちろん、われわれは線の上に点として客体化するという形で、過去、現在、未来という体系を「頭の中で構成したり、それについて考えたりする」ことはできる。これはまさにわれわれの一般的な客体化の傾向のなせるわざであり、それはわれわれの時制の体系によっても確認されていることである。」(P.112)__過去と現在が同居する日本語
(P.114)__書く(書いている)現在、書かれた過去、残る未来「どうしてこういう状態で「しっくりいく」のかは明らかである。それはわれわれの「客体化」という大きな枠組みの一部をなしているからであるーーつまり、(われわれは空間的な知覚を通じて捉えられる限りは)全く非空間的であるところの性質や潜在能力を想像によって空間化するからである。名詞の意味(われわれの場合)は物理的な物体に始まって、他の大変異なった種類のものにまでも及んで見られる。「知覚された空間」における物理的な物体とその輪郭は、大きさと形によって示され、基数と複数形によって数えられることから、このような指示と計算のパターンは非空間的な意味の記号にまで及ぼされ、その結果、あたかも「想像された空間」が存在するかのようになる。物理的な形態は知覚される空間内では「動き、止まり、昇り、沈み、近づい」たりする。だから、それ以外の指示物の方でも想像された空間で同じことをやっていけないわけはない。このことがごくふつうに行われるようになってしまったため、われわれはきわめて単純な非空間的場面ですら、絶えず物理的な比喩を用いることなしには表わせないのである。」(P.115)
「ホーピ語には持続、強度、傾向を直接にそれとして表現する屈折や語彙上の手段が多くあり、われわれの場合のように、主要な文法的パターンによって想像上の空間を作り出すきっかけはないのである。」(P.116)__想像上の空間・・・文字(小説)が表す空間
「ここでいう「習慣的思考」とか「思考の世界」は単なる言語、すなわち、言語のパターンそれ自体以上のものである。そこには、それらのパターンのもつあらゆる類推的または暗示的な価値(例えば、われわれの言う「想像的空間」とそれに少しでも関連ある意味)と、言語と文化全体の間のすべての交流が含まれる。そこに見出される多くのものは言語に関することではないが、言語の形成力というものをよく表しているのである。要するに、この「思考の世界」というのは各人が自分の身に備えた小宇宙であり、それによって人はできうる範囲内で大宇宙を測定し、理解するのである。(LF)SAEの小宇宙は、主として「もの」(物体、またはそれに準ずるもの)+「実質」または「質料」と呼ばれるところの外延的ではあるが無定形の存在様式、という観点から現実を分(FF)析してきた。存在というものを見るとき、それは存在物を「空間的な形式+その形式と関係する空間的に無定形の連続体」として表す二項式を通してなされる。これはちょうど、内容物がその容器の輪郭と関係するのと同様である。非空間的な存在は想像を通じて空間化され、同じように形と連続体という意味合いを帯びるようになる。」(P.117-118)__nota bene!
「われわれは言語よりももっと基本的な経験を通じて、精力さえ使えば結果が生じるものだということを知っている。われわれは、われわれの肉体はこの勢力をためこんでおき、われわれの肉体が明確な行動に向わしめられる時まで、他のものに影響しな(FF)いようにしておくことができると信じがちである。しかし、どうしてそうであるかということを考えてみると、一つの理論として、「質料」のような形のない項もそれ自身ものであり、類似のものかまたはもっとたくさんの質料によってのみ展開されるのもで、従って、生命とか思考の力から隔離されているという考えがあり、この理論に対しては、われわれ自身の言語による裏づけがあるというのにすぎないであろう。」(P.121-122)
「想像的空間の心的映像が想像的なものにすぎないことはわれわれすべてがひそかに知っているはずであるが、われわれはそれらとは全然別物であるところの思考の対象となっている現に存在しているバラの茂みまで、同じようにそこに含めてしまうのである。しかも、単にそれの場所が都合よく空いているからという理由だけでそうするのである。ホーピ族の思考の世界には想像的空間はない。ここから出てくることは何かと言うと、現実の空間に関係している思考なら、他ならぬ現実の空間の中に位置づけ、現実の空間を思考の結果から切り離したりなどはしないであろうということである。」(P.123)__前者が唯識論、後者が唯物論に近い。
「ものを書きつけるということがわれわれの言語的な扱いを促進したのは確かである。それは言語的な扱いが文字の使用を導いたのと同様である。」(P.128)__言語と文字の相互作用。思考の客体化としての文字。想像的空間と、現実の空間の架け橋。
「われわれが時間というものを測ったり、考えたりする際基準となる空間的な単位が形式的に等しいということからわれわれは時間についての「無定形の項」とか「質料」は均質的なもので、単位の数に比例すると考える。」(P.129)
(時間給、利子等)「もちろん、このような広範な体系はひと度確立してしまえば、時間を言語的にどのように扱うかには関係なく動いていくであろう。しかしながら、それが確立したということ、しかも、現在の西欧社会におけるような規模と形態をとるに至ったということは、明らかにSAE諸語のパターンと相通じるものがあるからである。」(同)__時間の密度。あるいは空間の密度。相対性理論。
「このことからわれわれはできごとというものが実際以上に単調であると信じ込んでしまうのである。つまり、それはわれわれを機械的に習慣化する効果を持つ。」「このいくつかの表れとして、裏づけのない安心感やすべて常に穏やかにいくという見込みに基づいたように見える行動、および危險を予見し、それに対して身を守ることの不十分さ、などがある。」(P.130)
(SAEでは)「比喩的であるがためにいくらか不明瞭な指示を、身振りによってもっとはっきりさせようとするのである。しかし、もし言語が非空間的なものを表すときに空間的な比喩が含まれていなければ、身振りを使っても指示は少しも(FF)明瞭にならないわけである。ホーピ族の身振りはきわめて少ない。」(P.131-132)
「筋肉運動感覚は芸術とスポーツというヨーロッパ文化の二つの面に表れている。彫刻はヨーロッパが優れている芸術であるが、きわめて筋肉運動感覚的で肉体の運動についての明確な感覚を伝えてくる。ヨーロッパの絵画も同様である。」(P.132)
「例えば、ヘブライ語を比べてみると、非空間のことを空間として指すということはいくらかあるが、ラテン語にはもっと多くある。」(P.135)
「「時間」と「質料」の概念はすべての人間に実質的に同じ形で与えられているわけではなく、それを形づくってきたところの言語の性格によって決まる。」(P.137)
5 科学と言語学
「われわれは自然を分割し、概念の形にまとめ上げ、現に見られるような意味を与えていく。そういうことができるのは、それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり、その合意はわれわれの言語社会全体で行われ、われわれの言語のパターンとしてコード化されているのである。もちろん、この合意は暗黙のもので明文化などはされていない。しかし、ここに含まれる規定は絶対的に服従を要求するものである。この合意に基づいて定められているようなデータの体系化や分類に従うことなしには、われわれは話すことすらできないのである。(LF)(FF P.154は図 P.155)この事実は現代の科学にとって大変重要である。なぜなら、それの意味するところは、いかなる個人といえども自然を絶対的な中立的な立場から描写することができず、自分では全然そうでないと思っていても、実はある種の解釈の仕方を強いられているということである。」(P.153-155)__フィードバックする文法家
(・・・)「新しい一つの相対性原理」(・・・ P.155)
「現代の中国やトルコの科学者が西欧の科学者と同じように世界を記述するということは、彼らが西欧的な合理的思考の体系をそっくりとそのまま取り入れたからであり、けっして彼らが自分たちの本来の観察の立場からそのような体系を論証したわけではないのはもちろんである。」(P.156)
「われわれにとっては、「できごと」とは「われわれの言語で動詞として分類されるところのもの」、またはそれから類推されるもの、ということになっているのがわかる。そして、「できごと、もの、対象、関係」などをそのものの本性から定義するとこは不可能で、定義を行うためには、定義をしようとする人の言語の文法的範疇へ戻るという循環を必ず伴うということもわかるであろう。」(P.158)
「最近の数千年間、人類は突然の飛躍をしたわけでもないし、堂々たる綜合をなしとげたわけでもない。測り知れないほどの古い時代から伝えられてきた言語によって形成された自然観のいくつかをただ弄んできたにすぎない。」(P.164)
6 言語と論理
「このように言うわけは、自然のおもてをわれわれがいかに分節するかに応じて、宇宙についてのわれわれの物理学の姿も決まってくるからである。」(P.179)
「このような言語は英語やその姉妹語の場合と同じように、外界は個体よりなるものというような描き方をしないから、そこから新しい論理や新しい宇宙観が生まれてくる可能性もあるわけである。(LF)印欧語やその他の多くの言語では、二つの部分から成り立つ文型にきわめて目立った地位が与えられている。この二つの部分はそれぞれ名詞と動詞という違った部類に基づいて構築され、それらの言語ではそれぞれに違った文法的な扱いを受ける。私が一九四〇年の『評論』の中で示したように、この区別は自然から由来するものではない。それはすべての言語(FF)は何らかの種類の構造を持たなくてはならないという事実から生じた結果であるに過ぎず、これらの言語ではたまたまこの種の構造を旨く利用するということになったということなのである。ギリシャ人、とりわけアリストテレスは、この対立を構成化し、理性の法則ということにしたのである。その時以来、この対立は、論理学では、主語と述語、行為者と行為、ものとものの間の関係、対象とその属性、量、作用、などといったさまざまの形で述べられてきた。そしてさらに文法に則って、これらの部類のもののうちの一つはそれだけで存在しうるが、動詞という部類は他の部類、すなわち、「もの」の部類に属するものをひっかかりとしないと存在できないという考えが定着するようになった。「実体化が必要である」というのはこの考えの合いことばで、それに対して強い疑問が持たれたことはなかった。しかしながら、現代物理学における「場」の概念を強調する傾向は、まさにこの考えに対し暗に疑問を投げかけているのである。」(P.180-181)___1,2,3と+、ー、÷。ゲーデル数
7 言語と精神と現実
「どの言語も連続した存在の拡がりや流れをこのように人工的に切りきざむであるが、その区分の仕方はそれぞれの言語によって異なっている。語と言葉とは同じものではない。いずれ見るように、後の使用をきれいする文の構造のパターンは語よりももっと大切なのである。」(P.202)__構造主義
「この仕組みは個人の意識という狭い範囲の外から課せられるものであり、意識をまるで人形のように操って言語の使用を感知することも断つこともできないようなパターンの中に閉じ込めてしまう。」(P.209)
「しかし、ヨガのような技術を別にすれば、それはふつう個人の意識と結合することはない。それに名を与えるとすれば、より高い自我とでもなろう。」(P.211)
「すなわち、それは三つ、あるいはそれ以上の代名詞の「人称」という範疇を中核にしてその体系をまとめあげており、なかでもいわゆる一人称単数と呼ばれるものを中心にしているということである。」(P.212)__いわゆる自己、あるいは自我、主体が中心になっている。」(P.212)
「高度の精神を有している体系的で配列的な性格のために、言語の「パターン構成」的な面は常に「語彙過程」(ナーマ)、つまり、名称を与えるという面より優位に立ち、それを支配する。そのため、特定の語の意味というものは、われわれの方で大切に思っているほど重要ではないのである。言葉の本質は、語でなく文にある。ちょうど数学の真の内容は方程式や関数であって、数そのものではないのと同様である。」(同)__数学を例にするはどうか。数論が脚光を浴びた意味。
「なぜなら、科学も詩も愛も文字どおりの意味での言語の使用や単調で散文的な煩わしさに満ちた奴隷的世界を離れ、その上空を「飛翔する」ものであって、自己中心の見方に伴うつまらない偏狭さを押し広げ、アルーパへ向かって、つまり、無限の調和、協調、秩序の世界、普遍の真理と永遠なるものの世界へ向かっての上昇であるという点で、たがいに似かよっているからである。」(P.217)__愛ねえ。ウォーフは「言語からくる思考」と「普遍の真理」との違いをどこで見つけるのだろう。自我の世界に育った者にとって、一つ一つ自己を構成しているものを認識し、否定し、乗り越えていくことが課題なのかもしれない。そんな悠長なことをできるのは限られた人だけだけど。我思う、故に我あり。我思うと思うのが我。我があるのと、我思うのは同じ。我がなければ、我思わない。我思わなければ、我はない。
「音楽は語彙過程を発達させないで、もっぱらパターン構成のみに依存する擬似言語なのである。」(P.218)
「holdという語が適用されることに対してわれわれが行為を読みとるのは、われわれの言語では、実詞+動詞=動作主+行為という公式が基本的であるからである。こういうわけで、数多くの場合に、われわれはいやおう(FF)なしに自然の中に虚構的な行為者的実在を読み込むのである。」(P.221-222)__主語の文化。日本語(の昔)は?
「われわれの方から言えば、そのような理論をわざとらしい形でなんとか模倣することはできるであろうが、それを適用するのは不可能である。われわれは日常生活の中でこのような区別を努力もなしに楽々となすよう習慣づけられていないからである。概念というものは、科学の研究者たちが実験室でこれを試みる前に、すでに日常生活に基盤を有しているのものである。相対性ということですら、西欧系の印欧語(やその他のもの)においてはそのような基盤があるのである。つまり、これらの言語では、時間のことをいうのに空間を表す語やパターンを多く利用するという事実がそれである。」(P.229)__アインシュタインも形無し(笑)
「これから私が話すことは、(フロイトの意味での)「心」、つまり、「低い」無意識、「現実を殺す者」(FF)として特に捉えられたマナス、言いかえれば、カーマ(Kama:愛)の面、すなわち気持ち(feeling)よりも感情(emotion)の面である。」(P.229-230)
「気持ちの型に基づいて経験を結びつけるやり方には普遍的なところがあり、これは実験室における実験でも現れるし、言語とは無関係ーー言いかえれば、すべての人間に共通ーーなもののようである。」(P.230)__そう思いたい。
「われわれのテーマとの関連で重要なことは、言語というものは語彙過程を通じて話し手にある種の漠然とした心的な感覚をもっと明瞭に意識させるということである。」(P.231)
「この事実がこの語の客観的な音の効果を完全に無効にしてしまい、主観的にはまるで本当にその音が暗く、重く、柔らかくなどといった種類のものであるかのごとく聞こえさせるのである。」(P.232)__peep、veep、queep。葉と歯。抜ける、秋、落ちる。leafとteeth?
「アルーパのレベルは意識の力では捉えられないが、これはそれが本質的に異なったもの(例えば、受動的な網状組織とでも言ったもの)であるからでななくて、人格というものが進化と習慣の結果、前述のような多方面にわたる行動の方に集中力を向けるからである。」(P.233)__よくわからない。
「ノイローゼの多くの場合は、語の体系を強制的に働かせ過ぎた結果に他ならない。過程とパターンを示してやれば、患者をそこから解放してやることができるのである。」(P.234)__そうかも知れないけど、わからない。
「このような事態の示す超越的論理は、まだ科学の理解するところとなっていない。それは科学が今なお、共通の論理という幻想的な必需品から自らを解放していないからである。」(P.235)
編者解説
(P.284)__動物の鳴き声
(P.285)__文化が伝わるということ
訳者解説
(P.304)__文化が言語を、言語が文化を=>因果論 構造がある=>イデア?
「この点に注目すれば、言語のもつ強い義務性、支配力を強調することになろう。言語がもつこの特徴は「開いた集合」である語彙よりも、「閉じた体系」である文法の面にはるかに典型的に現れる。」(P.305)
「Whorfの考え方がアメリカの伝統的な構造主義の言語学と結びつきがあり、Chomskyの変形文法の理論が一つにはこの伝統に対する批判として出発したということもあって、後者の存在が注目を集めるにつれてWhorf的な相対論よりも、Chomsky的な普遍性への問題への関心の方が少なくとも言語学の分野では一時的にせよ圧倒的になったことは事実である。」(p.314)__それほど単純なものではないと思う。
学術文庫版のための訳者解説追補
(P.322)__政治がないところでの政治学の本、経済がないところでの経済学の本、は無意味。
「仮に「言語的」な意味として、その言語の話し手がほぼ共通して問題となる語と結びつける内容といったものを当ててみるにせよ、そのような意味での意味はその境界が明確に規定できるわけでもないし、また話し手がそれ以上に読み込み、つけ加える意味との間に明確な質的な差があるわけでもない。そこに「言語」の分担する部分と「認知」の分担する部分を分けようとするのは、それ(FF)こそ意味のないことである。」(P.323-324)
「この「機能が構造を規定する」という一般的なテーゼに、言語も例外ではない。」(P.325)
(P.328)__ノンバーバルな思考
「ウォーフは、ある文化的特徴はある言語的特徴と直接関連づけされるべきものではなくて、そのような言語的特徴の背後にある思考体系と関連づけられるべきものである(・・・)」(P.331)
〈メモ〉
ちなみに、理論は「θεωρός(みる)」から来ています。
池上氏、自分と他人はわかり合えると考える。=希望
私は、わかり得ないからどうしようかと考える。
学問の細分化=文字 個人が小さくなる。
資本論以上の論考 マルクスとエンゲルス アインシュタインの相対性理論以降に書かれたところ 自由な記述が可能であった 専門的な知識を体系として身につけていたか 当時のアメリカの状況
書き抜く、写本
常識をひっくり返す。核心を突かなくちゃ
相対的、共感力。
博物学、分類学論理(理論)ーロジックーロゴス
私である快感
私になる、私がある、女である 人間である
ああ、おもしろかった だれが、なにが、いつ
自我であることを強制される……他人にも強制する
反発ーー変身
自我ー自由の強制
自我(論理)と心(感情)

