脱学校の社会(現代社会科学叢書) イヴァン・イリッチ著 東洋、小澤周三訳 1977/10/20 東京創元社

脱学校の社会(現代社会科学叢書) イヴァン・イリッチ著 東洋、小澤周三訳 1977/10/20 東京創元社

古本屋で100円でした。

Ivan Illich: The Deschooling Society. ( Harper & Row, 1970. 1971)

の翻訳です。

今日観た IV にこんな場面がありました。スタッフが小学五年生の女の子に「何になりたい?」と聞た(多分)シーンです。

「猫になりたいです。」

「猫になったら学校に行かなくてすむから。」

どう思いますか。今だったら「学校でいじめられているんじゃないか」と思いたくなるかもしれません。私はそうじゃないんじゃないかな、と思います。「学校に行きたくない」という思いをもっていた人は結構多いんじゃないかなと。学校の友達と喧嘩して「行きたくないなあ」と思ったことは、誰にでもあると思います。

それに「勉強が好き」というのはほんの一部の人で、あとはの人は(成績が良かろうが悪かろうが)「しかたなく」勉強をしているのではないでしょうか。

そして彼らが自分の分を知り、子供らしく行動することを期待する。自分もまた子供であった時代を思い出してはノスタルジアにふけったり、にがにがしい思いをしたりする。われわれは子供の子供らしい行為に対して、寛大であることを期待されている。人類とは、子供を育てる任務によって苦しめられると同時に祝福されてもいる種族だと考えている。しかしながら、われわれは現在抱いている「子供時代」の概念が、西ヨーロッパにおいてつい最近、アメリカにおいては、さらに最近になってから発達したということを、忘れているのである。(本書 P.60、以下「本書」は省略)

彼らのうちの多くは、やむをえずその時代を通過しているだけであって、子供の役割を果たすことが全然楽しくないのである。子供時代を経て成長するということは、この子供にとっては自我の意識と社会から課された学齢期を通過する役割との間の非人間的な相克の過程にむりに縛りつけられることを意味する。(P.62)

「子育て」は大変だといわれます。精神的、肉体的はもとより、金銭的にも大きな負担です。「子育て支援」は政治家の常套句です。小学校、中学校は義務教育で「無償」ということになっていますが、実際には多額の費用がかかります。幼稚園や保育園は多くの公費が投入されていますが、それでも多額の費用がかかり、子供を預けている間に働いていても、それをまかなえる稼ぎがあるかどうか、疑わしいほどです。高等学校はほとんどの人が通い、これも多額の公費が投入されているだけでなく、個々の家庭の負担も大変なものです。さらに半数以上の人が大学に進学しているようです。大学の授業料は、私の頃の10倍になっているようです。

「女性の社会進出」「男女平等(今はジェンダー平等)」を謳って、父親だけでなく母親も働いています。それだけでなく、子供も高校時代からアルバイトをするのが普通になり、大学では学校に行くよりもアルバイトに費やされる時間のほうが多くなるということも聞きます。

それが「人間として当たり前」でないことは、数十年前を考えただけで明らかです(「子供時代」という観念がいつどのようにできあがったかは、フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』参照)。

その間、子供は学校という施設にとじこめられています。これは精神的な「檻」です。外部と遮断された(いまでは校門にも鍵がかかっている)その中で、生徒は常に「教えられる側」、つまり精神的にも肉体的にも「弱者」の側にいます。ほとんどの親は制度としての学校や教師を「信頼」して子供を「預けて」いますが、学校は制度の一部に過ぎないし、教師の権限も権利もどんどん減らされています。学校での出来事は、子供が親に話さない限り外部に漏れることはないし、子供は親に心配をかけたくないので自分の中にしまいがちです。

学校の中は「子供独特の社会」でしょうか。そうではないと思います。「子供は大人と違う」と考えがちですが、子供は親やテレビが言っていることをそのまま学校に持ち寄ります。そこでは「パワハラ」や「いじめ」や「セクハラ」が大人の世界と同じように繰り広げられているのではないでしょうか。自分の子供時代を考えれば想像ができます。牢獄や、病院や、福祉施設内で起こることが同様に起こるのです。

日本では毎年自殺する人が2万人以上います。その責任が追求されることはほとんどありません。子供が自殺をするとその責任は学校にあると強く追求されますが、私は大人の世界と同じことが起こっているのだと思います。身近の他人をすら信用しない親が、どうして「学校」という制度を信用するのでしょうか。

労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう。(P.25)

大学に行く人が半数いて、「大卒者」が増えているのですが、

すなわち、彼らは学校で教育を受けたことによって、自分たちよりもよけい学校教育を受けた者に対して劣等感をもつようにされてしまっている。(P.23)

大卒者が多数者になって、高卒者が少数者になるということだけじゃなく、「大学のランク」での差別も生じます。「一流大学」「有名大学」があれば「三流大学」「無名大学」があることになります。


義務教育

私は学校に行きたいと思ったことがありません(少なくとも高校を卒業するまでは)。小学校に入学する時からそうでした。家の近所にそれほど友達がいたわけじゃないけど、外で遊んでいる方が楽しかったからです。一日うちで起きている時間の多くを学校で過ごすなんて苦痛でしかありませんでした。一学期が始まると、「早く夏休みが来ないかな」と思い、夏休みが終わると「早く冬休みが来ないかな」と思い、冬休みが終わると「早く春休みが来ないかな」と思ってばかりいました。

「脱学校 deschooling 」というのはイリイチの造語でしょうか。一応 weblio には載っています。

Deschooling 脱学校論
脱学校論(だつがっこうろん、英語: deschooling)は、イヴァン・イリイチによる造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為、すなわち学習者が内発的に動機づけられて独学する行動を取り戻すために、学校という制度的な教育機関を超越することである。(weblio

なんか近いようで微妙に違います。それとも西欧における「学校」のイメージと日本における学校のイメージが違っているのかもしれません。現在の西欧の学校は、映画やドラマで知っているだけだし、昔の学校は映画でしか見たことがありません。昔の西欧の学校はムチで叩くようなイメージです。あとは修道院のような暗いイメージ。日本の古い学校制度といわれるのは「寺子屋」です。まあ、昔の知識人(読み書きのできる人)の代表といえば(少なくとも地方においては)お坊さん(神父)ですから、共通なものがあるのでしょう。「文字」を抜きに学校を考えることはできませんから。古代のシュメールにも学校があったとされますが、それがわかるのは大量の粘土板(文字や数字が書かれたもの)が発掘されているからです。

イリイチは学校や教育そのものを「廃止しよう」と言っているのではありません。weblo に描いてある「学校という制度」が何を意味しているのかはわかりませんが、イリイチは「義務的な学校」(P.52)を問題にしているのです。

すべての人にとって義務であるような儀礼は、あってはならない。(P.30)

「儀礼 ritual 」という言葉はあまり使わないので、キリスト教的な意味を含めて使っているのでしょうか。日本では普段は「儀式」という言葉を使いますが、その違いはわかりません。(キリスト教の)儀礼は義務教育のような強制力はないのでしょうか。

ともかくも、イリイチが批判しているのは日本で言う「義務教育」のことです。


古代ギリシア

「学校 school 」の語源はギリシア語の「スコーレσχολή (閑暇・ひま)」です。それがどうして「学校」になったのかはわかりません。まあ、学校に行っている間は仕事をしない(のが原則)ですから、わからないことでもありません。古代ギリシアにおいて学校らしき組織は「ギュムナシオン γυμνάσιον 」です。これは「体育館」です。そこでは哲学なども教えていたらしい。アテナイにあった大きなギュムナシオンの一つがプラトンのつくった「アカデメイア Ἀκαδημεια 」です(アカデメイアで体育を教えていたかどうかはわかりません)。

プラトンやアリストテレスが、近現代まで続く西欧学問の基礎をつくったわけですが、その古代ギリシアについて、

ヘシオドスが、古典的な形で再話した頃までには、ギリシア人は道徳的な女ぎらいの家父長となっており、最初の女性を考えるだけで恐怖をきたすようになっていたのである。彼らは、合理的で、権威主義的な社会を築いた。人々は、はびこる悪に対処するつもりで制度をつくりあげた。彼らは、世界を人為的につくり、そしてその世界にサービス  それを期待することもまた彼らは学習したのである  を生み出させるおのれの力を意識するようになった。彼らは、自分自身の要求や将来における子供たちの要求が、人為的につくられたものによって形成されることを望んだ。(P.192)

そして、

原始時代の人々は、個人を神聖な儀礼に神話に従って参加させることを通して、社会のならわしや知識を個人に教えていた。これに対して古代ギリシア人は、「パイデア」(教育)によって、前の世代の人々がつくり上げた制度に自らを適応させる市民だけを真の人間として認めたのである。(P.192)

人々は、彼らの生活を規定する法律をつくることや、環境をおのれのイメージに合わせてつくることに責任をとった。「母なる大地」によってなされる神話的生活への原始的な導入の儀礼は、市民の教育( paideia )に変えられていった。(P.194)

彼らは、運命として与えられた自然環境に挑むことはできるが、そのためには自分自身に危険のふりかかることを覚悟していなければならないことを知っていた。現代の人々は、それをさらに一歩進めるのである。彼らは自分のイメージにあわせて世界をつくり、全面的に人工でつくられた環境を築き上げようとする。しかし、その後彼らは、それはむしろ環境に自分自身を適合させるよう、たえず自分を作りかえるという条件のもとでのみ可能であることに気づく。(P.194)

プラトンやアリストテレスの著作に見る「女性蔑視」や「奴隷制度の公認」の背景にある社会や思想が感じられます。

ここに環境(自然)と人間の関係、そして人と人との関係の現代にいたるまでの原点が示唆されています。

まず、環境(自然、大地)は「与えられたもの」ではなく、「つくるもの(つくれるもの)」、つまり、制御したり管理(支配)したりすることが可能なものとなります。

無痛文明のテクノロジーとは、基本的に、人生と生命と自然の品質管理テクノロジーである。それは、われわれがあらかじめ思い描くプランの大枠の内側に、生命の品質や人生や自然のはたらきをコントロールしようとするテクノロジーである。そして同時に、それらが予測の大枠の内部に収められているかぎり、その枠内においては、逆にわれわれの期待を裏切るような逸脱や、ハプニングや、苦痛や、不運や、失敗や、冒険などがたくさん仕掛けられる。(森岡正博『無痛文明論』P.250)

人間は、自分たちの生息空間を人工的にコントロールしておきながら、その仕組み全体を地下室に隠して、自分自身の生活圏からは見えないようにしている。自分で自分を操作しておいて、そのこと全体を自分自身から隠蔽しようとする。これが自己家畜化ということの、もう一つの意味ではないだろうか。(同書 P.259)

自然化するテクノロジーは、二重管理構造のなかで開花する。それは三つの段階を追って進化する。第一に、自然の状態の維持を、ほかならぬテクノロジーが支えるということである。たとえば原生林を維持するために、保全のテクノロジーが集結される。それによって、人間のテクノロジーのサポートがないと維持できない自然というものが出現する。第二は、「背景化」である。(中略)第三は、「自然化」である。(同書 P.260)

森岡さんは「ビオトープ」や「ランドスケープ・イマージョン」の例を挙げていますが、動物園がその象徴ですね。「ランドスケープ・イマージョン」は自然化した動物園です。最近では、動物が檻にいるのではなく、人間が檻のなかにいる動物園も増えてきました。たしかに、大自然を檻で囲うよりも自分を檻で守るほうか簡単です。あたかも自我が鎧をまとうように。


支配するかされるか

人間が万物の頂上に立って自然や他の動物を支配する・・・。旧約聖書『創世記』には、

産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地上を這う生き物すべてを支配せよ。1-28(THE Bible+、日本聖書協会)

とあります。「従わせよ」や「支配せよ」の意味はわかりません。でもこれは一方的な見方です。たとえばゴキブリが地球で一番繁栄している(万物の長)という見方もできるし、宇宙人が地球を見ると、人間がトウモロコシを育てているのではくて、トウモロコシが人間を使って繁殖していると見えるかもしれません(誰かが書いていたことですが、誰だか忘れました)。そのうえ、自分の遺伝子を人間を使って操作し、農薬や害虫(これも人間から見た命名だけど)に強い体をつくっているのです。人間は完全にトウモロコシの下僕ともいえるのではないでしょうか。

(学校)教育によって「人間になる」、あるいは「一人前になる」という思いも同じです。「立派な社会人になる」「社会に適応できる人間になる」というと、まさにイリイチが言う「環境に自分自身を適合させる」「たえず自分を作りかえる」ということで、社会制度や法は「自然に適応する」「守る」ものではなく、教育によってそういう人間(「人間」という概念がそれを前提していますが)をつくらなくてはならない社会です。

今日なお疑われないままになっている教義のいくつかをあげることはたやすいことである。第一に、教師の監督下に生徒たちが身につけた行動は生徒にとって特別な価値をもつとともに、社会に対しても特別な利益をもたらすという共通の信念がある。この信念は人間は青年期においてのみ社会的人間になるのであり、かつ学校という特別なところで成長しなければ、そのための過程が適切に行なわれないという仮定と関連がある。(P.128-129)


教育と学習

「教育」は「学習」とは全く違います。

しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである  両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(P.32-33)

誰もが、学校の外で、いかに生きるべきかを学習する。われわれは、教師の介入なしに、話すこと、考えること、愛すること、感じること、遊ぶこと、呪うこと、政治にかかわること、および働くことを学習するのである。(P.64)

一たび学校を必要とするようになると、われわれはすべての活動において他の専門化された制度の世話になることを求めるようになる。一たび独学ではだめだということになると、すべての専門家でない人の活動が大丈夫かと疑われるようになる。(P.80)

実際には学習は他人による操作が最も必要ではない活動である。学習のほとんどは必ずしも教授された結果として生じるものではない。それはむしろ他人から妨げられずに多くの意味をもった状況に参加した結果得られるものである。(同)

一度学校の必要性を受け入れてしまうと、人々は学校以外の制度の必要性をも容易に受け入れるようになる。(同)

人間は生まれたときは「白紙」なのかもしれません。でも、立って歩くことは誰かが教えるわけではありません。背が伸びる(成長する)することも誰かが教えたり、本人が望んですることではありません。それはどんなに望んでいなくても「老化」することと同じです。言葉が話せるようになるのも同様で、周りが日本語を話していれば、自然と日本語を話すようになります(「言語一般」ではありません。イリイチはこれを「ヴァナキュラーな言語」と呼んで「教えられた母語」から区別します)。

学校では、カリキュラムに基づいて「効率的に」教育をしますが、その「詰め込み式(フレイレが言う「銀行型教育」)」の知識が社会に出てなにも役に立たないことは、多くの人が実感していることです。「それより、クラブや放課後の経験がその後の人生で役に立った」と思っている人がなんと多いことか。

「学んだこと」ではなく、学校教育がもつ「効率的で合理的なこと」「タイパがいいこと」は「近くて便利」と同じで、その後の生き方に影響を与えます。

何かを調べようとすると、すぐにスマホで検索します。とても便利なので、私もしょっちゅう頼ります。ChatGPT なら、「正しい答え?」がすぐに返ってきます。その答えは、今の社会・制度に適合しているから「正しい」のです。そして「それ以外の答えの可能性」は消え去ってしまいます(選択を許さない)。Amazon で「おすすめ」にでてくる本(商品)と本屋(スーパーや商店)で棚を眺めるのとの違いです。

彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。このような論理で「学校化」( schooled )されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武器の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。(P.13)

学習は、生きることと同じで「時間」とともにあります。紙の辞典で調べるのには時間がかかります。でも、その時間こそが学習なのではないかと、私は最近感じています。それは「栄養が取れれば栄養食品や栄養ドリンクでいい」ということではなく、食事を楽しむ時間と同じです。遊ぶ楽しみも時間とともにあります。旅行の楽しみも同じです。早く目的地に着けばいい、ということではなく、楽しみにワクワクし、計画や準備、そこにつくまでの時間、帰って来るまでの時間、さらには旅を振り返る時間を含めてすべてが旅行の楽しみなのではないでしょうか。

事故や事件があったら困る、時間がもったいない、結果(思い出?)だけ手に入ればいい。そのために「パック旅行」や高速な運輸手段(自動車、高速道路、新幹線、飛行機)という「サービス=商品」を買う、ということがあまりにも「あたりまえ」になっているのではないでしょうか(それは最終的に『トータル・リコール 』の世界になります)。

それが生み出すのは、「地球環境の破壊」とともに「近代化された貧困」です。

そして貧困とは、何か重要な点において一般に考えられている消費の理想的水準に追いつかなくなった人々のことをいうようになった。メキシコでの貧困者とは三ヵ年の学校教育を受けなかった者であり、ニューヨクでは十二ヶ年の学校教育を受けなかった者ということになる。

貧困者はいつの時代にも社会的に無力だったのであるが、制度的な世話に依存する度合がしだいに高まってくると、彼らの無力さに新しい要素が加わった。それは、心理的な不能とか、独力でなんとかやりぬく能力を欠くとかいうことである。(P.16-17)

ラテン・アメリカの児童の三分の二は、小学校の第五学年を終えないうちに学校をやめてしまう。しかしこれらの「脱落者」( desertores )は、それだからといって、アメリカ合衆国における「脱落者」ほどには具合の悪いことにはならないのである。

今日では、今なお古典的貧困  安定したもので、近代化された貧困ほどには人々を不能にしない  のために悩んでいる国はほとんどない。」(P.22-23)

「物がない貧困」ではなく、「物(=制度)があるがゆえの貧困」です。「物(=商品)」は周り中に溢れています。でも、それらは誰でもが自由に食べたり使ったりすることはできません。食べ物だけではなく、水道や電気などの「ライフ・ライン」と言われるものもすべて商品です。わたしたちは生きるためには「買わなくてはならない」(そして消費税を払わなければならない!)社会の中にいます。そこに住む人は、人間としての生きる(=学習する)力を失っている、あるいは生物として生きる力を失い、「制度(=お金)」に頼らなければなりません。

学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである。(P.117)

同様に、その社会においては、「人がいない孤独」から「人がいるがゆえの孤独」が生まれます。人工的な環境(制度)に自分を当てはめるためには、「自我の鎧」を身に着けなければならないことはすでに述べました。それが「絶対的な他者」を生み出します。「絶対的な自我」が生み出されるとともに、その「絶対的な自我」が瞬時に「絶対的な他者」になります。「私という他者」です。それは「コントロールすべき(できる)他者」であるとともに「コントロールすべき(できる)自我」なのです。誰もが「自我のコントロール」が困難であることは知っているはずなのですが。

それは女性的な大地を棄て、人工的(男性的、ロゴス的)な制度を優先した古代ギリシアの流れにキリスト教的(ヘブライ的)が加わったものが、デカルト的自我に変形したものにほかなりません。


期待( expection )と希望( hope )

積極的な意味において、希望とは自然の善を信頼することであるのに対して、私がここで用いる期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する。希望とは、われわれに贈物をしてくれる相手に望みをかけることである。期待とは、自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している。人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている。

本来のパンドラは、あらゆる悪を詰めこんだ壺を携えて、地上に送られた。よいものといえば、それはただ希望だけを入れていた。原始時代の人類は、この希望の世界に住んでいた。(P.191)

「贈物をしてくれる相手」を「神」と捉えると、とてもキリスト教的(宗教的)に聞こえてしまいますが、それを「自然」とか「生命」とか解釈することも可能です。あるいは「女性としての大地」と言ってもいいのかもしれません。

自然の中に(あるいは自らの思考を自然に当てはめ)「法則」を見出し、「予測」し、その結果を「期待」します。他者(あるいは対象)を支配・制御し、あるいは作り出し、所有しようとするエートス 、そしてその見返りを「期待」するのです。すべてが「対象」となります。気象から資源、深海の底、月や火星、そして人体も対象となります。そして「他者」も。

この本の最終章のタイトルは「エピメテウス的人間の再生」です。エピメテウスはギリシア神話でパンドラと結婚したとされています。兄はプロメテウスです。「天界から火を盗んだ」として有名ですね。プロメテウスは「先に考える」「先見の明をもつ」という意味です。

古代ギリシアでは、「後で考える」を意味する「エピメテウス」という名前は、「愚鈍」あるいは「馬鹿」を意味すると解釈されていた。(P.192)

プロメテウス的エートスは、西洋の近代科学を作り出しました。

ニューヨークの町で、子供がふれるものはすべて、科学的に開発され、作られ、計画され、そして誰かに売られたものなのである。植木でさえもが、公園管理局がそこに植えると決定したから、その場所にあるのである。子供がテレビで聞く冗談も莫大な費用で作りあげられたものである。(P.194-195)

彼は、「きたないもの」、へま、失敗、に出会うことによってのみ、非計画性にともなう詩的な驚きを体験することができる。溝の中のオレンジの皮とか街の水たまり、あるいは秩序や計画や機械の崩壊などに遭遇することが、創造的に空想するための唯一の出発点となるのである。「ずるけること」が、唯一の手近な詩情となる。

望ましいものはすべて計画されたものなので、都市の子供はやがて、人間は人間のどんな欲求を満足させるためにも、そのための制度を作れると考えるようになる。彼は、過程が価値を創造する力を当然にもつのだと考える。(P.195)

すなわち、もしも、月への乗り物が考案されれば、月に行くという需要もまた作り出されるということになる。行くことのできるところへ行かないということは、人々の考え方を逆転させることになるだろう。それは次のような前提、つまりすべての需要はいったん満たされるとその結果として次にもっと大きな需要を生み出すという前提、が愚かなことであることを明らかにするであろう。(P.196)

某通販会社の社長さんのことが頭に浮かびます。

たえず需要の増大する世界は、単に不幸というだけでは言いつくせない。  それは、まさに地獄にほかならないのである。

人は、制度が自分のためになしえないことがあるなどとは考えることができないので、何でも求めるという欲求不満の原因になる力を発達させてきた。万能の機械に取り囲まれながら人間は、自分の道具の道具になりさがっている。(P.196-197)

制度的過程に依存することがいつのまにか個人の善意に依存することにとって代わってしまった。(P.199)

「他者」を支配することができても、「他者」に頼ることは不可能です。プロメテウス的エートスは、他者をそして自我をも認められない(信じられない、満足しない)からです。それはつねに、競争し、「より速く・より高く・より強く」(オリンピックのスローガン)・より多くを求め、現状に留まることを認めず、つねに欲求不満だからです。

学校は、人々に現状のままの社会が必要だと信じ込ませるための宣伝機関である。そのような社会においては、限界価値は、どんどん大きくなっていく。そのため、少数の最大規模の資源消費者たちは地球を枯渇させかねないほどの能力を自分のものにしようと競争し、彼ら自身の太りつつある腹をみたし、自己よりも弱い消費者を規律に服させ、自分のもっているもので満足するような人々を無理になくそうとしているのである。(P.204)

イリイチの「学校」概念がいくらかでも伝わったでしょうか。そのうえではじめて「脱学校」の意味が浮かび上がってきます。「学校」という制度は、

新しい「世界的宗教」は知識産業であり、アヘンを調達してくると同時に、アヘンに加工を加えることもするのである。そしてその活動は、個人の生涯の中でますます多くの年月にわたるものとなってきている。それゆえ脱学校化は、人間解放のためのすべての運動の基礎なのである。(P.94)






現行の学校制度は、学歴偏重社会を生み、いまや社会全体が学校化されるに至っている。公教育の荒廃を根本から見つめなおし、人間的なみずみずしい作用を社会に及ぼす真の自主的な教育の在り方を問い直した問題の書。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488006884]

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