
コカ・コーラの「コーラ」ではありません(この翻訳が出た当時、私はそう思っていた)。プラトンの『ティマイオス』に出てくる「場 χόρα 」です。現代ギリシャ語でも使われているようで、「領土」とか、「国」とかの意味です。また、その首都アテネ(アテナイ)は「ポリス πόλις、あるいはπόλη」です。
似た言葉で「場所 τόπος(トポス)」があります。「領域、主題、論点、観点」です。こちらは「ユートピア」とか「トピック」などとして、現代でも使われています。
こう並べてみると、トポスは「中身(内容)」で、コーラは「容器(ふち、内容を取り囲むもの)」というニュアンスがあるような気がします。
「コーラ」には「空間」という意味もありますが、「διάστημα (diastima)」という単語もあります。「διά-」は「何かのあいだ、何かを介して」、「στῆναι」は「立つ、存在する」という意味です。ほかにもいろいろありそうです。
「場」は「ジョウ」ではなくて「ば」です。訓読みです。ということは「場所」はいわゆる「湯桶読み」(逆は「重箱読」)でしょうか。多分、古くから「ば」と「ところ」という言葉があって、いつか「漢字熟語風・漢語風に」くっついたのでしょう。
夜、暗い中(LEDの常夜灯はついていた)、服を着ようとしました。服を回したりひっくり返したりして、「あれ?どこが袖だろう」「アレ?どこが襟だろう」。これを2・3度繰り返すのはしょっちゅうです。誰でもそういう事はあるでしょう。でも、そのときは5度やっても6度やっても袖も襟も見つからなかったのです。「これじゃあ、ただのボロキレだ」と思いました。
袖が分かれば、どこに手をいれるかがわかります。襟が分かれば、袖との相対関係で、どこに首を入れるのかがわかります。それでも前後ろ逆に着てしまうことはありますが。
このキレ(布、綿でできていてもアクリルでできていてもいいのですが)に「服」という「形(形相・イデア、あるいは名・名前)」を実際に与えるのは裁縫家(あるいは、それを再現・体現する機械)ですが、もの(キレ)に形(服というイデア)を与えるのは人間一般です。この意味では、「人間は万物の尺度である πάντων χρημάτων μέτρον ἐστὶν ὁ ἄνθρωπος 」というプロタゴラス(ソフィストの一人)の言うとおりです。
アリストテレスは青銅(あるいは木材)という材料(質料)とヘルメスの形(あるいは家の形相・エイドス)を併せ持ったものが「ヘルメス像(あるいは家)」という「個物(実体)」だとしました。
私が気になったのは、「どこが袖だろう」「どこが襟だろう」と「考えていた」ときには、頭の中でもそれは「ことば」には成っていなかったということです。そして最後の「これじゃあ、ただのボロキレだ」は「ことば(日本語)」でした。口には出してないけど。この二つのことは違うのでしょうか。言い方をかえれば、「ことばにする(なる)前のものがあって、それを表現するのがことばなのか」ということです。
目にも見えないし、触れることもできない「ことばにする前のもの」あるいは「名(名前)を与える前のもの」があって、それに名前を付けたり、言葉を与えたりすることで、「目に見える」「聞こえる」「触れる」、つまり「感覚的なものができる」「認識できる」のでしょうか。
なにかが「見える」とき、それを「山だ」とか「空だ」「雲だ」とか認識するためには、言葉による「区別(差別・差異化)」が必要だと言われます(ソシュール)。それをさらに「積乱雲だ」と「区別」し、「雷が落ちるかもしれない」と考えるためには、さらに知識や経験が必要です。なにかが「聞こえた」とき、「鳥の声だ」と思い、「ウグイスだ、春だなあ」と思ったりします。
「目に見えたり聞こえたりするもの感覚全体」から「山」や「空」を区別すること、言い方を変えれば「分節化」「構造化」をしなければ、認識(知覚)することはできないということです。失語症の人が服を着れないのかどうか知らないので、断言は早いでしょう(多分着れると思う)。
『ブタがいた教室』という2008年の日本映画があります。原案となったのは黒田恭史『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』(2003年)です。最近は学校で鶏を飼ったり、うさぎを飼ったりすることが少なくなっていると思います。そのかわりに田植えを経験したり、芋掘りを経験させたりすることが多くなっているのではないでしょうか。
この映画のポイントは、豚に「Pちゃん」という名前(固有名)を付けちゃったということです。スーパーで売っている豚肉のパックに、「これはPちゃん、これはトンちゃん。今日はPちゃんを食べよう」と言ったら変です。
ペットの猫に、「ミケ」という名前を付けた途端に、猫は「ただの猫(一般名)」ではなくて「ミケ」になります。つまり、「猫以上のもの」になります。
逆に、テレビで見たアイドルを「かわいい」「素敵」と思ったときには、「名前はなんだろう」と知りたくなります。
これは「生き物」だからということではなくて、たとえば「自分が住んでいる家 home 」は「家屋 house 」や「ガレージ」「物置」とは違います。
自分が住んでいる街や地域は、多分「トポス的」ではなく「コーラ的」です。なので、それほど気を使わなくても、自分の家にたどり着けます。ところが不思議なことに、そこに「空き地」を見つけても「そこになにがあったか」が思い出せないことがあります。
それは、たしかに一つの固有名詞ではある。だが、それは一つの語、どんな普通名詞でもそうであるのと同様に、ものあるいは概念から区別された一つの語である。(本書、P.25。以下「本書」は略)
家族に「山に行ってくる」と言ったときの「山」は普通名詞(「川に行ってくる」の「川」と同様に、あるいは「川」と区別された「山」という意味で)で、その話された「場」においては「特定・固有の山」を意味していて「固有名詞」です。それが「〇〇山」といいう「固有名詞」をもつのは、その「場」以外で、です。自宅で「トイレに行ってくる」というとき、そのトイレは「固有名詞」をもたない(ふつう家のトイレに名前をつけない)のですが、トイレが二つある家なら「二階のトイレ」というように一つに限定します。
失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(柄谷行人『探究Ⅱ』講談社学術文庫、P.15)
柄谷さんはモテたんでしょうね。「女(男)なんで世界に何十億人もいるんだから」と言われても、私は慰めにはなりません。柄谷さんは単独性( singularity )と特殊性( particularity )を区別しています(同書、P.11)。そして、この辺の関係を「〈概念〉…一般性(類) 特殊性(個)」という軸と、「〈観念〉…普遍性 単独性」という軸に整理しています(同書、P.150)。では、どうして「特殊性」が「単独性」になるのでしょうか。それは、西欧的なものなのでしょうか、近代的なものなのでしょうか。私が理解していないだけかもしれませんが、それは「普遍的」なことでも「一般的」なことでもないと思います。
さて、そろそろ「コーラ」の話しに戻りたいのですが、ごめんなさい。『ティマイオス』はところどころ、パラパラと読んだだけなのです。まあ、世界の万有の成り立ちを総体的に書いたものですがら、ゆっくりと読みましょう。「コーラ」がちゃんと(?)名指しで出てくるのは邦訳旧全集12、P.84(ステファヌス版全集 52A)です。
P.74(48E)で、
さてそれでは本論に帰って、万有についての今度の出発点は、前のよりももっと分類の規模を拡げたものにしましょう。すなわち、あの時は、われわれはただ二種のものだけを区別したのですが、いまはそのほかに第三の種族を明らかにしなければならないのです。(『ティマイオス』48E、邦訳 P.74)
そして、
まず一つには、同一を保っている形相といいうものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、(中略)理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生み出され、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思わくによって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、さらにまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種の擬(まが)いの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、われわれがこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。(『ティマイオス』52A-B、邦訳 P.83-84)
これを語っているのはソクラテスではなく、イタリア人ティマイオスです(ソクラテスは聞き役です)。この「二種」が「叡智的(知性で捉えるもの・イデア=不変なもの)」と「感性的(見たり触ったりできるもの=変化するもの)」で、「第三の種族 trion genos 〔第三のジャンル・ジェンダー〕」が、後に「コーラ」と呼ばれるものなのですが、プラトンはこれになかなか「名前」を付けません。
それは、あらゆる生成の、いわば養い親のような受容者だというのです。(『ティマイオス』
49B、邦訳 P.75)こうした類(たぐい)のどんなものとしても呼ばないこと
これが一番安全な言い方なのです。(同50A、邦訳 P.78)生成するものが、それの中で生成するところの、当のもの(同50D、邦訳 P.80)
なんかプラトンは「名前」を付けたくなかった、あるいは付けられないと思っていたようです。それでも語らなければ(書かなければ)ならなかったのです。
私は、アリストテレスがアカデメイアに入門した時の風景を想像してみました(紀元前367年、プラトン60歳くらい、アリストテレス17歳くらい)。
プラトン「名前はなんというのかね?」アリストテレス「アリストテレスです。」
プラトン「ほう、Ἀριστος (最高の)τελος (目的)か。いい名前だ。出身はどこかね?」
アリストテレス「トラキアのスタゲイロスです。なのでギリシャ語もマケドニア語も話せます。」
プラトン「ご両親は?」
アリストテレス「父ニコマコスは、マケドニア王の侍医でした。母はエウボイア島の出身ですが、ふたりとも早くになくなりました。」
プラトン「幾何学はできるかね?」
アリストテレス「はい。でも、私は父の影響でしょうか、生物に興味があります。」
・・・・。
その弟子は、どんどん才能を開花し、講義を任されるほどになりました。
アリストテレス「先生、私はどうしても周りの動物や自然こそが存在している(真実である)ように思われるのです。プロタゴラスの言うように、「そう思われ、そう現れているものが真実」なのでしょうか。人間に「そう見える」「そう思われる」ものが真実だということになるのでしょうか。」
プラトン「現れ(イデア)とはそういう意味ではない。それこそが思い込みなのだ。」
アリストテレス「では、
あるとはどういうことなのでしょうか。知るとか理解するためにはイデア(名前・言葉)が必要です。名前を受け取るものをなんと呼んだらいいのでしょうか。」プラトン「それに名前をつけることはできないのだ。名前をつけることによって、それは新たなイデアだと思われかねないし、あるいは新たな思い込みになってしまうからだ。」
アリストテレス「では、イデアとは何なのでしょうか。先生は「イデア」という名前を付けたではありませんか。名前がないものを理解せよというのでしょうか。」
そんな会話があったか、なかったか。私の妄想にすぎませんが。ともかくも、プラトンはそれに名前を付けたくなかったし、かといって優秀な弟子を無視することもできませんでした。プラトンにとっては、それは「名前を付けなくても」、つまり「場(話)の雰囲気で」わかると思っていたのかもしれません。アリストテレスにはそれが「通じなかった」のでしょう。
一方において、神話は戯れに属している。したがって、それは真面目に受け取られることはないだろう。プラトンは、それゆえアリストテレスに警告を発している。彼は、アリストテレスによる真面目な反論に先回りし、哲学的真面目さの名において、戯れ/真面目なもの( paidia / spoundé )という対立措定の同一の使い方をするのである。(P.58)
でも結局、アリストテレスは、
プラトンも、その著『ティマイオス』の中で、質料と場〔コーラ、空間〕とを同じであると言っているのである。というのは、受容するものと場とは一であり同じであると言っているからである。(中略)しかしとにかく、プラトンが場所と場〔空間〕とを同じだとしていたことは確かである。(中略)他のすべての人々も、場所をなにものかであるとは言っているが、そのなにであるかについては、ただこのプラトンだけがそれを語ろうと試みたからである。(アリストテレス『自然学』209b、邦訳旧全集 P.125)
と捉えてしまいます。
ティマイオスはイタリア人です。プラトンはギリシャ人に語らせるのでもなく、マケドニア人(直接アリストテレスのことになってしまうから)に語らせるのでもなく、イタリア人に語らせます。クリティアス(ギリシャ人?)が、自分の祖父クリティアスが、ソロン(アテネ人)から聞いた話として語るギリシャの起源(神話)は、ソロンがエジプトの神官から聞いたものです。
それらの神話的次元は時としてそれとして晒け出されており、深淵=入れ子化はそこに置いて際限なく省察されるべく差し出されている。(P.57-58)
アリストテレスが「問うたこと自体」を問題にしていると言ってもいいでしょう。
あえて問うたアリストテレスに、普通なら「そんなことは、当たり前だ。言わなくてもわかるだろう」と取り合わないところを、プラトンはあえて答えました。それは師弟愛かもしれないし、ソクラテス譲りの真面目さかもしれません。
異邦人に自分(たち)を語らせること。もし、自分が理解できたとすれば、自分(たち)のことを異邦人に、つまり、アリストテレスのような人に理解させることも可能です。実際に書いているのはプラトンですが。
語るには「ことば」でなくてはなりません。語れないこと(コーラ)を語るために、プラトンはいろいろな「喩え話」をしています。「良い香りの軟膏を作る場合の無臭のもの」「いろいろな形を押捺するための、柔らかくて均されたなめらかなもの」、つまり「どんな形ももたないもの」(『ティマイオス』50E、邦訳 P.80-81)などです。
コーラとは、存在の二つのジャンル(不易にして叡智的な/滅びやすく生成状態にあり感性的な)に対する trion genos 〔第三のジャンル〕であるのだが、それは同時に、性的なジャンル=ジェンダーに関しても限定を受けているように見える。すなわち、ティマイオスは「母」や「乳母」について語っているのである。(P.15)
他方で、すこしばかり先のところでは、もう一つのふさわしい「喩え」がわれわれに提言されている
「そして、受容器を母に、模範(パラディグマ)を父に、そして、両者の中間的な本性を子供( ekgonon )に、それぞれ喩えるのがふさわしい( proseikasai prepei )」(50d)。(P.85)
この喩えは、現代までつづいています。いま、「母」は「哺乳瓶」に喩えられ、「哺乳瓶」は「母」に喩えられています。母は哺乳瓶ではないし、哺乳瓶は母ではないのですが。
この危険は、そもそもプラトンが、人も言うように、コーラを母または乳母に「喩えて」いるように見えるとき、プラトン自身が冒しているのではなかろうか?受容体という価値は、受動的で処女なる素材として、女性的エレメントに結びついているのではなかろうかそれも、まさしくギリシア文化におけるそれに?(P.25-26)
プラトンやアリストテレスの思想を、当時のギリシャの奴隷制や、母権制から父権制に代わった後のギリシャ文化に求めることはできます。そうなのでしょう。でもそれだけなのでしょうか。
プラトンが「他者(異邦人)」に語らせようとしたことは、その後の西洋文化(哲学)に引き継がれていきました。
哲学は、みずからの「母」や「乳母」や「受容体」あるいは「刻印台」にただ単に似ているものについて、哲学的に語ることはできない。そのようなものとして、哲学が語るのはただ、父について、そして息子についてだけであるあたかも父が自分一人で息子を産み出しているかのように。(P.89)
プラトンもアリストテレスも考えました。多分ギリシャ語で考えたでしょう。ギリシャ語で考え、プラトンは「名(イデア)」を与え、アリストテレスは「述語(カテゴリー)」しました。あたかも自分がギリシャ語を考え出したかのように。でも、プラトンはコーラを語ることで、自分が母親から生まれたことを感じていたのではないでしょうか。そして、ソクラテスがその判決にしたがったアテナイで生まれ育ったことを。アテナイはポリスであるとともに、プラトンにとっては「コーラ」つまり「故郷」でもあったのです。
プラトンが強く批判したソフィストは、
かれらは国から国へとさまよい歩くばかりで、どこにも、自分の家を持って定住したためしがありません。だから、知を愛し学問すると同時に国事にたずさわる人のことになると、こうした人々が、戦争や個々の戦闘にさいして、実際の行動に出たり、各個との言論の上での談合に出たりする場合に、どんなことを、どれだけの範囲にわたって、行ったり語ったりするのか、その点については、ソフィストたちの言うところは的はずれなのではないかと、わたしは恐れるのです。(『ティマイオス』19E、邦訳 P.10)
彼らは場から場へ、町から町へとさまよい歩く
哲学者や政治家といった、あれら場を持っている人間、つまり、都市国家において、あるいは戦争の際に、身振りや言葉によって行動する人間のことを理解できずに。(本書、P.46)
「空気読めない」です。最近聞かなくなった言葉です。では、「KY」ということはなくなったのでしょうか。あるいは、「KY」という言葉ができる以前はみんなが空気を読めたのでしょうか。どちらも違いますね。
まず最近のことを話しましょう。ウーマンリブ運動が男女平等運動になった後、「セクハラ」という言葉が生まれました。そのあと「〇〇ハラ」が溢れ出てきました。数え切れないほどです。そして「空気を読めない」ということ(〇〇ハラ)は、「犯罪」になりました。そのために用意されたのが「自閉スペクトラム症(ASD)」です。つまり、「KY」は「犯罪」と「病気」に分類されるようになったのです。「法律」と「医学(科学)」です。それらは古代ギリシャに源を持つと思われていますが、私は違うと思います。また、それは日本の「法」や「律」や「医」とも異なります。全く異なりますが、それを「場」が支えている(あるいは、受容している)ということは言えるでしょう。
それをイリイチは「ヴァナキュラーなもの」「素材」と表現しました。
ヴァナキュラーな居住空間と産業的な建築物との対立は明らかである。前者は習慣によって調整された、バナキュラーな「共有財」であり、後者はフォーマルな法律によってのみ調整することのできる経済的商品である。(イバン・イリイチ『H2Oと水』、邦訳 P.29)
アリストテレスになると、空間はもはやそのような「素材」として理解されなくなる。プラトンの「容器」(hypdechomene)は、アリストテレスによって、存在の論理的な四つの「原因」の一つと化し、「質料(hyle)」と同一視されてしまう。アリストテレスは、西洋の空間知覚の最終的な土台、すなわち容器としてではなく、広がりとしての空間認識を築いた。アリストテレスとともに、「イデアとしての都市」は法的虚構となるのである。(同、P.47)
その後、西欧はキリスト教によって大きな変化を受けるのですが、それでもヴァナキュラーなものが支えていることには代わりがありません。「支える」という言い方は誤解されるのかもしれません。
人は、「コーラ」がそれらに安定した基体あるいは実体の支えを提供していると言うことすらできはしない。コーラは、なにかある主体〔 sujet 〕ではない。それは主体というものではない。基底材〔 subjectile 〕でもない。解釈学的
諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは、つまり、形を与えることができるのは、ただ、接近不可能で、平然としており、「不定形(アモルフ)」( amorpon, 51a )で、つねに手つかず=処女的、それも擬人論に根源的に反抗するような処女性をそなえているそれ〔 ele: 彼女=コーラ〕が、それらの類型を受け取り、それらに場を与えるように見えるかぎりにおいてのみなのである。(P.21-22)コーラとは、まさに、その「上に」、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセス「である」わけだが、しかしそれは、それらすべての解釈の
主題あるいは現前する支持体ではない、とはいえ、それにもかかわらず、それはそれらの解釈に還元されることはないのである。(P.31)
「支える(能動) <=> 支えられる(受動)」という枠組み、それは、
その論理は、なによりもまず、存在者の諸ジャンル(感性的/叡智的、可視的/不可視的、形相/形相なし、遺恨あるいは模倣素/模範(パラディグマ))に関わるものだったのだが、われわれはその論理を、言説の諸ジャンル(ミュトス/ロゴス)、ないし存在するものあるいは存在しないもの一般への関係の諸ジャンルのほうへと移動させてしまったわけだ。このような移動は、おそらく自明のことではない。それは、ある種の換喩(メトニミー)に依拠している。(P.13-14)
と同様のものです。「コーラ」とは、プラトンによって、その「カップル」(アリストテレスでいえば、「質料/形相」もしくは「主語/述語」)ではないもの(第三の種族)として、提示されたのです。
コーラは、一つの場所を脇にのけてしるしづけるそれは、「みずからのうちに」、みずからの傍らにあるいはみずからに加えて、みずからとカップルとなすように見えるものすべてに対して、ある非対称的な関係を保持する間隔化 [ epacement ] をしるしづけるのである。カップル外のカップルにおいて、生み出すことなく場を与えるこの奇妙な母を、われわれはもはや一つの起源と見なすことはできない。彼女=それは、あらゆる人間ー神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前ー起源的であり、あらゆる世代=生殖の前かつ外にあって、それはもはや一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない。この前とは、いかなる時間的先行性をも意味していない。この独立の関係、非ー関係は、そこに受け取られるべくそこに住まうものの点からすれば、空隙の関係あるいは間隔化の関係にはるかに似ているのだ。(P.85-86)
私は、「私」が生じる前、今の言葉でいえば「エゴ」や「アイデンティティ」が生じる前、の「私」、を考えることができません。赤ちゃんの時の写真があるかもしれませんが。
コーラは「与える」のでもなく「受ける」のでもなく、また「贈与/負債」でもありません。
われわれは、依然としてある贈与と負債のシステムの内部にいるのである。われわれはやがて pandekhês としてのコーラに取り組むとき、あらゆる擬人論の彼方で、われわれはおそらく、ある負債の彼方を垣間見ることになるだろう。(P.54)
「猫」を「ミケ」にするのは、名付け親でもなく、「その猫」でもありません。「その何か」を「文化」「言語」「時代」(場合によっては「生・生命」)と「名付け」ることはできます。でも、名付けた途端にそれは「その何か」から隔てられる(区別される)ことになるのです。
プラトンやアリストテレスは、その「主観性」から逃れるために、定冠詞や中動態やアオリストを使ったのでした。
日本語には冠詞や複数形がないので、「猫」は「 a cat 」「 the cat 」「 cats 」のどれにでも使うことができます。だから、コーラをコーラのまま( 「the コーラ」とせずに)受け取ることができる可能性があるということです。むしろ、「場(コーラ)」を「場(ば)」のまま受け取ることができます。
ところが「 χόρα 」という語とは違って、日本では漢字が輸入されたときから「漢語」や「漢字熟語」「翻訳語」は「公式な(公的な)」「お上品な」「高級な」、つまり「生活から切り離された」ものとして受け取る習慣ができています。さらに最近は、カタカナ語が(そしてアルファベットの頭文字が)「あたかも」昔からあって、「誰でも」わかっているものとして流通しています。
それは文字が古典ギリシャにおいて持っていたものと似ているかもしれません。
おお、ソロンよ、ソロンよ、あなたがギリシア人はいつでも子供だ。ギリシアには老人というものはいない(『ティマイオス』21B、邦訳 P.16)
生き残った人々が何世代にもわたって、文字で表現することを知らないままに死んで行ったので、あなた方はこのことに気づかずに来たのである。(同22C、邦訳 P.19)
「エコ( eco )」が「エコロジカル」なのか「エコノミカル」なのかわからないことは、改めて言うまでもありません。最近気になるのは「ティッシュペーパー」が小さくなったことです。「エコ」ならしいのですが、「ちり紙(低品質の和紙)」が「ティッシュペーパー」と「トイレットペーパー」に代わったとき、紙が身近でない時代にどうやって鼻をかんでいたのか、どうやっておしりを拭いていたのかがわからなくなったことです。「温水洗浄便座」なしに子供は用を済ますことができるのでしょうか。
文字は姿を変えて「データ」となり、「学校」や「成績」となり「自動車」となり「病院」となり「ティッシュペーパー」となり「ウォシュレット」となって、あたかも「昔からある」ように振る舞っています。「あたかも父が自分一人で息子を産み出しているかのように(P.89)」。
その結果、印欧語として理解しようとしたときには、多くの困難が生じます。主語とか述語とか、形容詞とか、命名とか、西欧化(印欧語化、むしろ英語化)してしまった日本語での思考は二重の困難(西欧とは違う)を伴ないます。なにが日本語に属し、なにが印欧語に属するか、それがはっきりとしないのです。
そして、受け取るということが、つまりは、理解するということが、いったい何を言わんとするのかを理解できると思い込むことになるだろう。(P.73)
書けない(語れない)「コーラ」について、いろいろ「語って」きました。デリダの本は難しくて、私が「理解」しているとはとても思えません。デリダ自身が語れる(書きうる・理解される)と考えていないのですから。デリダの語りに「印欧語的発想(あえていえば論理・ロゴス)」とそれを乗り越えようとする発想(あえていえば神話・ミュトス)が混在しているのは明らかです。「コーラ」は言葉の彼方にあり、言葉を支え、言葉を受け容れるようなものですから、当然そうなるのです。私も日本語で(つまり言語で)考えている以上、同様の縛りの中にいます。
私が最終的に崩したいのは、「論理」や「神話」ではありません。デリダのような、あるいはアリストテレスやプラトンのような「難解な」(とくに日本人にとっては)本を読まなくてはならないこと、そして、一部の「理解した」と自称する人たちがそれを独占し、他の人たちに「私が正しい」「君たちは(理屈は)わからなくてもいいから、私に従えばいい」と思っていることです。これは論理の一形態である「近代(現代)科学」に顕著です。現代社会において「コーラ」のように振る舞っているのは「コンピューター」です。それは「理解できない」「ブラックボックス」として存在します。人間はそれに「データ」を与え、コンピューターはそれを「受容」し、「データ」を返し(出力し)ます。オペレーター(指示する人)もコンピューターもその結果を受取る人も、すべてが「システムの一部となっている」とイリイチは言っています(『生きる希望』参照)。
今日の新聞で一面を使って書かれていたのは「生成AI 問われる著作権」という記事です。悪意のあるフェイク画像やフェイク動画のことではありません。生成AIを使って作られた画像や音声、ChatGPTなどの「著作権」の話です。中国の判決は「オペレーターにも著作権がある」、「システム(生成AI)が利用したデータにも著作権がある」というものです。記者は「著作権」(あるいは「人権」)というものが、あたかも「人間固有の権利」として「昔から」あったのだと思っているのかもしれません。少なくとも「著作権自体」に対する批判(考察や言及)の文章は一つもありません。最近は「人権保護」だけではなく「アニマルウェルフェア」まで言われていますが(「Pちゃん」の話にもつながる)、それが人間の側、それも特殊歴史的で地域限定的な「人間中心」いや「自己中心」的な「思考方法(ロジック)」であることは明らかです。
しかし、問題の根っこはそれよりももっと深いところにあります。生成AIで作られた画像や動画、音声が、「かわいい」「きれい」「面白い」(逆に「醜い」「汚い」「くだらない」)などの感情を「なぜ」引きおこすのか、ということです。描かれた(写された・映された)画像や動画、録音された音声は、いつ・誰が見ても(聞いても)同じ感覚・感情を引きおこす、いつ・誰が見ても「同じ」だとどうして思うのでしょうか。
「ものの見え方」が同じだという発想は、それほど古いものではありません。プラトンやアリストテレスの頃は、「見る」という行為はとても「主観的・主体的」なものでした。「視線」は人間の目から触手のように伸びて、対象(誤解される言い方ですが、そのイデアを)を掴んで持ってくるようなものでした。なので「見る技術」や「見る訓練」が必要だったのです。日本人がいまでも「目を合わせるのは失礼だ」と感じていることにちょっと似ています。だから、プラトンは「見る」という動詞のアオリスト不定詞形 ἰδέιν から「イデア」という語を造ったのでした。
近代西洋において、目は「頭蓋骨についた二つの穴」とそこにはめ込まれたカメラになりました(イリイチ)。目の構造(仕組み)は「カメラの模倣」になり、見ること(能動)は見えること(受動・中動)になりました(デカルトが人間や生物を「機械」と捉えました。金塚貞文『デカルトの鏡』参照)。レンズ(水晶体)を通って網膜に映る「画像」は「万人に同じ」もので、あとは「主体(自我)」が「解釈」するときのみに「能動性」が現れると考えています(名画や骨董品を見る・見定める目です)。
古代ギリシャの彫刻は、完璧な(理想の)人間の姿を捉えています。でも、その時代に描かれたツボの絵は、平面的で稚拙なように「見え」ます。「遠近法」という技法は、決して「現実的」ではありません。写真が遠近感をもつのはレンズに「補正」が加えられているからです。どの文化の人たちも、写真や動画、あるいは録音した音声を私(たち)と同じように見聞きするわけではありません。(マーシャル・マクルーハン「なぜ非文字文化社会の人びとは、多くの訓練を受けなければ映画や写真を見ることができないか」『グーテンベルクの銀河系』旧訳 P.89以下)
ものの見方・見え方は「文化」に依存するということです。つまり「コーラによる」ということです。
そしてそれによって、文字文化以前も、以後も、絵に描くこと(名前を付けること)が、絵(絵の具や墨としての質料)・文字(グラマトロジー)以上の「なにか」をもつことができるのです。
この記事の判決とは、まさしく「コーラ」に「名付け」をしようとするものです。
重複するのですが、2025年4月16日、イギリス最高裁判所は「「女性」の法的定義は生物学上の性別に基づくべきだ」という判決を出しました。このニュースは思ったほど、日本では話題になりませんでした。為政者(あるいは権力者・専門家)にとっては、あまりいいニュースではなかったからでしょう。何より「ジェンダー」として「意味不明なまま」通用している「言葉(ロゴスと言うよりイデア、ウヴェ・ペルクゼンの言う『プラスチック・ワード』)」を、「考え始める(考え直す)きっかけ」は与えたくないのでしょう。(ヴァナキュラーな)ジェンダーに「セックスという名前(法的定義)」を与えるのは、「コーラに名付けする」ということですから。
[著者等]
●ジャック・デリダJacques Derrida
一九三〇─二〇〇四年、アルジェリア生まれ。「脱構築」を提唱したことで世界的に知られる哲学者。
高等師範学校などの講師を経て、社会科学高等研究院で教鞭を執った。
著書に『エクリチュールと差異』『グラマトロジーについて』『声と現象』『哲学の余白』『散種』『弔鐘』『絵画における真理』『絵葉書』『プシュケー』『哲学への権利』『マルクスの亡霊たち』『有限責任会社』『法の力』『友愛のポリティックス』『死を与える』『ならず者たち』『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』など多数。未來社より『エコノミメーシス』『コーラ』『パッション』『名を救う』『信と知』『滞留』『赦すこと』『最後のユダヤ人』『嘘の歴史 序説』の日本語訳が刊行されている。現在、『獣と主権者』『死刑』『ハイデガー 存在の問いと歴史』など、講義録シリーズが順次刊行されている。
目次
コーラ
原註
訳者解説
場/名――デリダによる「コーラ」をめぐって
