
今まで「旧全集」だと勘違いしていました。多分これ以外の岩波の全集はありません。復刊されたようですが、岩波のHPでは「品切れ」になっています。あと、筑摩書房からも全集が出ているようですが、見たことがありません。その他翻訳は多数あります。
プラトン後期の作品とされています。登場人物は、
- ソクラテス
- クリティアス(アテナイ人、ソロンの親族で、親友であったドロビデスの曾孫)
- ヘモクラテス(シケリア(シシリー)の都市シュライクサイの政治家、将軍)
- ティマイオス(イタリア半島南端に近い東海岸にあった都市ロクリスの人)
クリティアスが異邦人であるティマイオスとヘルモクラテスに、自宅を宿舎として提供しています。前日にソクラテスがみんなを誘って、宴会をしたようです。そして、今日はソクラテスが招かれました。前日、ソクラテスは「国家」について話をしたようです。その話も一部出てきます。たとえば、
そして戦争の面でも、その他の生活の面でも、すべての仕事を男と共通に、すべての女に課するようにしなければならないというのです。(18C、P.7)
その他「国家」については『国家』を読んだ時に考えます。
クリティアスが、古いアテナイのことを話しますが、「クリティアス(10歳?)が、老祖父クリティアス(90歳?)が、アミュナンドロスから聞いた、と、ソロンから聞いた、と、エジプトの老神官から聞いた話」という、又聞きの又聞きの噂話のような話です。そこには未完の『クリティアス』で語られる「アトランティス島」のことも出てきます。
『ティマイオス』は、ティマイオスが語る「世界の成り立ち」についての話がメインです。ティマイオスの出身地ロクリスは、中央ギリシャの古代の地名で、「紀元前680年頃にイタリア半島に進出し、ギリシア人初の植民市ロクロイ・エピゼフュリオイ(Lokroi Epizephyrioi)を、現在のイタリア・ロクリに建設した(中略)。この植民市では紀元前660年頃にギリシア人社会としては初めて成文法典を持った」(Wikipedia)そうです。いまNHKでやっている『3か月でマスターする古代文明』で、「近代まで、ギリシャという国家はなかった。数百のポリス(植民市)のネットワークがギリシャだった」と名古屋大学教授の周藤芳幸さんは言っています。
ヘルモクラテスが住む都市シュライクサイもギリシャの植民都市(最盛期の人口100万人)です。ペロポネソス戦争で、スパルタと組んでアテナイと戦いスパルタの勝利に貢献したそうです(後のアルキメデスの生地です)。
どちらも、多分、アテナイとは違う政治風土だったでしょう。でも、それらは共通の神話や言語を持つ「ギリシャ」というネットワークの一部でした。
宇宙(世界)がどのように創造されたのか、から、人間の身体はどのようにできているのか、そして病気やその予防法まで、広大な範囲を網羅して語られています。現在の私たちの知識から見ると、「おかしい」と感じたり、「神話的だ」「素朴だ」と思われる所も多いのですが、これほど広範囲な知識をえて、それを体系的に説明できる人は、現代でもそんなにいないと思います。
いまでも、「どのように」成り立っているのかということは、科学(科学者・専門家。一般の民衆ではない)が知っていますが、「なぜ」ということになると、専門家でさえ、「効率性」「偶然・必然」などの言葉で片付けてしまいます(高木仁三郎著『いま自然をどうみるか』参照)。「どうなっているのかは分かる(分かった、分かりうる)けど、なぜそうなっているのかは科学の範囲外だ」というわけです。そこに言及すると「神秘主義」「非科学的」というレッテルを貼られてしまうのです。それは「論理(科学)外」のことだと。「万有引力の法則」や「相対性理論」「量子力学」は、宇宙が「どのようにできているのか」その仕組は説明しますが、「なぜそうなっているのか」には答えません。
いやむしろ、話し手のわたしも、審査員のあなた方も、所詮は人間の性(さが)を持つものでしかないということ、従って、こうした問題については、ただ、ありそうな物語を受け入れるにとどめ、それ以上は何も求めないのがふさわしいのだということを思い起こして、何人にも劣らず、ありそうな言論をわれわれが与えることができるなら、それでよしとしなければなりません。(29D、P.31)
人間は「全知全能」ではありませんから、「この全宇宙(ウゥラノス) と言うか、コスモスと言うか、あるいはその他何とでも名づけて呼ぶ分には、この当のものが一番よく受け入れてくれるような名称で呼んでおくことにしましょう 」(28B、P.28)のすべてを知り、それを明確に表現することはできません。
「宇宙」は「理性の対象」の似象(エイコン)だから、それを語る言論は「ありそうな言論(エイコース・ロゴス)」だとするこの言明を(・・・)(P.279、訳者解説)
この「エイコン εικών(イコン icon)」(場合によっては「イメージ」の意味もある)は、パソコン用語の「アイコン」のことですが、これがよく分かりません。これが分かればプラトンの「イデア(エイドス、アイデア)」も、キリスト教も、西洋哲学全般も分かるような気がするのですが。
キリスト教も英語も古典ギリシャ語もわからない私には「手も足も出ない」のですが、キリスト教のイコンは神の似像ではありません。古代ギリシャの神の彫像や、仏像とは違います。キリスト教が生まれたユダヤ教では「偶像崇拝」が禁止されていたからです。ユダヤ教やキリスト教の神は「姿かたち」を持たないのです。キリスト教以降の西洋文化が古典ギリシャ文化を解釈する時、そこに大きな隔たりがあったのではないでしょうか。ちょうど仏教伝来以降の日本で、『神と仏』(山折哲雄著 講談社現代新書)がどう解釈されたのかというのと似ています。
プラトン(ティマイオス)は「三つの種族(ジェンダー、ジャンル)」を説明します。
まず一つには、同一を保っている形相といいうものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、(中略)理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生み出され、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思わくによって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、さらにまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種の擬(まが)いの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、われわれがこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。(52A-B、邦訳 P.83-84)
一つ目はいわゆる「形相・イデア(エイドス)」(頭で考える理性的存在)です。二つ目は現実にある(見たり触ったりできる、つまり体で感じる感性的存在)「もの」です。プラトンはこの二つは別のもので、個々の「犬」(二つ目)とは別に「犬というイデア」(一つ目)があると言っています。現実の犬は生まれ、成長し、走り回り、そして死んでいきます。でも、「犬というイデア」はなくなりません。「この犬」と「あの犬」は違うのですが、それでも「犬というイデア」を共有(分有)しているので「犬」なのです。
つまり、常にあるもの、生成ということをしないものとは何なのか。また、常に生成していて、あるということのけっしてないものとは何なのか、ということです。すなわち、前者は、常に同一を保つものなので、これは理性(知性)の働きによって、言論の助けを借りて把握されるものであり、他方、後者はまた、生成し消滅していて、真にあるということのけっしてないものなので、これは思わくによって、言論ぬきの感覚の助けを借りて思いなされるものなのです。(28A、P.27-28)
感覚によって(見たり触ったりして)把握される「犬」は、永遠のものではありません。捉えようとして近づくと、それは変化して(逃げて)しまいます。「万物は流転する(パンタ・レイ)」からです。そうではなくて、理性(知性)によって捉えられる「犬のイデア」こそが「真にある」と言えるものです。
問題は第三の種族、「場(コーラ χόρα )」です。これは「(空間的な)場所(トポス τόπος )」ではないのです。
すなわち、「生成するもの」と、「生成するものが、それの中で生成するところの、当のもの」と、「生成するものが、それに似せられて生じる、そのもとのもの(モデル)」の三つがそれです。なおまた、受け容れるものを母に、似せられるもとのものを父に、前二者の間のものを子になぞらえるのが適当でしょう(以下略)(50D、P.80)
アリストテレスは、
プラトンも、その著『ティマイオス』の中で、質料と場〔コーラ、空間〕とを同じであると言っているのである。というのは、受容するものと場とは一であり同じであると言っているからである。(中略)しかしとにかく、プラトンが場所と場〔空間〕とを同じだとしていたことは確かである。(中略)他のすべての人々も、場所をなにものかであるとは言っているが、そのなにであるかについては、ただこのプラトンだけがそれを語ろうと試みたからである。(アリストテレス『自然学』209b、邦訳旧全集 P.125)
と言うのですが、そうでしょうか。
プラトンは、それを同じギリシャ人ですが、アテナイ人ではない(異邦人)ティマイオスに語らせます。アリストテレスはスタゲイロスというギリシャの植民市(当時マケドニアの支配下にあった)の出身です。プラトンにとって「アテナイ」という「ポリス πόλις 」は、単なる「場所」ではありませんでした。「アテナイ人」は単に「アテナイに住む人」ではないのです。
ソクラテスが裁判の結果に従って毒をあおったのは、「アテナイというポリス」の一員だったからです。つまり、ソクラテスやプラトンにとってアテナイ市民というのは、アテナイの細胞、同胞(はらから)であって、アテネというポリスは言わばその「手足」である市民によって成り立っていたのです。「民主主義」という政治形態は「自分の手と足の民主主義」でした。そのポリスが「寡頭制」をとろうと「僭主政」をとろうと「民主制」をとろうと、それは「頭の問題」でしかありません。
そして神々は、その頭に奉仕するものとしてまた、身体の全部をひとまとめにして与えました。(44D、P.64)
この頭が「理性(知性)」(一つ目の種族)で、手足は「感覚」(二つ目の種族)です。この二つの種族を生みだす「場」(第三の種族)は、「ポリスそのもの」です。
この第三の種族(場)について、プラトンは説明に苦労しています。あるいは説明を避けようとすらしているようです。「あらゆる生成の、いわば養い親のような受容者」(49A、P.75)と言ってみたり、「ほとんど所信の対象にもならない」「寝とぼけて主張させる、まさに当のもの」(52B、P.84)と言ったりしています。
ですから、可視的な、あるいは一般に感覚的なものたる生成物の、母であり受容者であるものを、(中略)むしろこれを、何か、目に見えないもの・形のないもの・何でも受け入れるもの・何かこうはなはだ厄介な仕方で、理性対象の性格の一面を備えていて、きわめて捉え難いものだと言えば、間違っていることにはならないでしょう。(51A、P.81)
また、例として、
これはちょうど、よい香りのする軟膏をつくる場合のようなものでして、その場合には、工程に入る前に、あらかじめまず技術上の工夫がこれされるのも、まさにいま言ったような条件をつくるという点にあるのです。つまり、そのような場合には、匂いを受け入れなければならない液体は、できるだけ無臭のものとされるわけです。また、何か柔らかい材料にいろいろの形を押捺しようとする人々も、あらかじめどんな形が見えていてもいっさいそれを見逃すことなく、まずそれを均して、できるだけなめらかに仕上げるものです。(50E、P.80-81)
とも言っています。
この「受容者」「養い親」「母」は、受容者一般、養い親一般、母一般というような「イデア」ではありません。つまりアテナイは「ポリス一般」でも「ポリスという領土(空間)一般」でもなく、「このポリス」「このアテナイ」なのです。犬に「ポチ」という名前をつけた時、ポチは「犬一般」ではなく、「この犬」「このポチ」になります。
ニュアンスとしては、「ハウス house 」と「ホーム home 」との違いでしょうか。ハウスはいっぱいあるけど、その(この)人にとってホームは一つです。アリストテレスにとって、アテナイは「一つのポリス」でした。だから、「場」と「場所」、「場」と「質料」は「同一」でした。それは「ハウス」であって、彼の「ホーム」は「スタゲイロス」なのです。
イリイチは、『H2Oと水』で、「H2Oと水は違う」と言っています。「水一般 H2O 」と「浄めるこの水」は違うのです。
アリストテレスになると、空間はもはやそのような「素材」として理解されなくなる。プラトンの「容器」(hypdechomene)は、アリストテレスによって、存在の論理的な四つの「原因」の一つと化し、「質料(hyle)」と同一視されてしまう。アリストテレスは、西洋の空間知覚の最終的な土台、すなわち容器としてではなく、広がりとしての空間認識を築いた。アリストテレスとともに、「イデアとしての都市」は法的虚構となるのである。(『H2Oと水』、邦訳P.47)
柄谷さんは、
失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(柄谷行人『探究Ⅱ』講談社学術文庫、P.15)
と言います。「この女(男)」(単独性)は「女一般のひとり・男一般のひとり」(特殊性)ではないのです。
日本語の「この」「その」「あの」と、英語(や古典ギリシャ語)の「 this 」「 it 」「 that 」とは、違うんでしょうね。英文法で言う「代名詞」や「固有名詞」をそのまま日本語に当てはめることはできないのでしょう。「私」や「あなた」は、「太郎」や「花子」という「固有名詞」の「代わり」ではないのです。
日本語の「ある」には二つの意味があります。「犬がある(いる)」という「存在」を表す「ある」と、「犬である」という「特性(性質)」を表す「ある」です。これらは英語では「be動詞」(古典ギリシャ語の εἶναι )で表されます。「存在としてのbe動詞」と「繋辞としてのbe動詞」です。同じような関係が日本語の「生じる(生まれる)・成る」と「 become 」(古典ギリシャ語の γἐνεσις )にもあります。「生成」というのはうまい訳です。「生まれる・産む」には別の動詞( bare )もありますが、「 I was born in America. 」という「受動態」は「母は私をアメリカで産んだ」という「能動態」の反対でしょうか。
いや、そればかりか、そのようなもの〔決して同一状態にないもの〕は、何者によっても認識されえないことになるだろうね。なぜなら、認識しようとする者がそれに近寄った瞬間に、それはもう別のもので別の性質のものになっているので、それがどのようなものであるのか、あるいはどのような状態にあるかは、もはや認識されえないだろうからね。そして、いかなる認識も、それが認識しようとする対象がいかなる一定の性状をももたないならば、これを認識することはないだろうからねえ。(『クラテュロス』439,邦訳全集2P.168)
かくて、これらすべてからの結論は、はじめから言っていたことだが、何ものも他と没交渉にそれ自体で単一に
あるものではなくて、何かに対して常になりゆくものなのだということになる。そしてこの「ある」というのは、これをあらゆるとこのから取除かねばならないのであるが、それをしかしながらわれわれは、習慣のためまた無知識のため、たびたび、この今でさえ、言葉の上に使用しなければならないように余儀なくされてしまっている。けれども、この知者たちの言論に従う限り、それはいかんのであって、「何か」とか、「何かの」とか、「私の」とか、「これ」とか、「あれ」とか、その他おおよそのものを立ち止まらせることとなるいかなる言葉も、これを許容してはならないのである。われわれの口にすべきは、ものを「なりつつ」とか、「滅びつつ」とか、「変じつつ」とかいうように、その本性のとおりに言い表す言葉でなければならない。(『テアイテトス』157A-B、邦訳全集2P.224)
「これ」と指し示した途端、その時の「これ」と今の「これ」を「同じもの」として「固定(立ち止まらせる)」してしまいます。端的に言えば「書くということ(文字)」です。
じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(『パイドロス』275D-E、邦訳全集5P.257)
これが、ソクラテスが本を書かなかった理由だと思います。ソクラテスには「文字」というものがとても「うさん臭いもの」だと感じられたのではないでしょうか。だから「対話(会話)」を大切にしたのです。それを知っていて、プラトンは沢山の本を書きました。多分、プラトンはその「うさん臭さ」を超える何かを「文字」に託したかったのでしょう。ここでは「これ(たとえば文字にされたもの)がある」と固定的に言うのではなく、「これになりつつある」と言うべきだと、言っているわけです。存在としての「ある」ではなくて、繋辞としての「ある」を「なりつつある」と表現しているのです。
『ティマイオス』では、このことをややこしく書いています。
水にしても、それを水と呼ぶのではなく、いつもこれこれであるものを水と呼ぶこと、その他、およそわれわれが「これ」とか「それ」とかいう言葉を使って指し示しながら、一定の何かとして指示しているつもりのどんなものにしても、〔それ、つまりいまここであらわれている現象そのものを、〕これがまるで何か確固たる不動性を持ってでもいるかのように、そうした一定の何かとしてはけっして呼ばないことです。というのは、そのようなものは、「これ」とか「それ」とか、また「それに」とか、すべてそれらを永続性のあるものとして示すような宣告に、おとなしく服していることなく、逃亡していくからなのです。(49D-E、P.76-77)
「〜がある」と「〜である」、「〜が生まれる(生じる)」と「〜になる(成る)」を、日本語では「助詞」で区別しています。なので、「当然別のこと」だと思っているし、むしろ「違いを意識していない」のではないでしょうか。プラトンやアリストテレスの著作が、私(日本語話者)には、「当たり前のこと」と思われたり「わからない」と感じられてしまいます(「まったく分からない」ことが多いのですが)。
プラトンやアリストテレスが格闘したもの、質料、形相、本質、実体、あるいは「存在」「存在そのもの」「存在者」は日本語話者には「当たり前のもの」で、だから「分からないもの」なんだろうと思います。
西欧においては、ハイデガーの『存在と時間』(読んでいない)やデリダまで、日本では形を変えて西田幾多郎の『善の研究』まで、この格闘は続いています。
プラトンは「原因 αἰτία, αἴτιον 」を二種に分類します。
だから、われわれは、「原因」の二つの種類を区別しなければならないのです。つまり、「必然的なもの」と「神的なもの」とがそれです。そして「神的なもの」のほうは、およそわれわれの本性が許す限りの幸福な生を獲得するために、あらゆるものの中にこれを探求しなければならないのです。そしてまた他方、「必然的なもの」は、とにかくそれなくしては、われわれが真剣に考える当の対象そのものも、それだけでは感知することも、捉えることも、その他どんな仕方ででもそれに与(あず)かることができないのだと勘考して、まさにかの神的なもののために、探求しなければならないものなのです。(68E-69A、P.126)
「神的な原因」が「真の原因」で、「必然的な原因」は「補助原因(必要条件)」です。プラトンやアリストテレスにおける「原因」は「原因・結果」の原因ではないし、「因果関係」でもありません。
「神的な原因」は「頭(イデア・理性)」に、「必然的な原因」は「からだ(肉体・感性)に対応します。「物が落下する(地面に引きつけられる)」という「(自然界の)法則の探求」「必然性の認識」は、「神的なもの」を知る「必要条件」でしかありません。
そして、神的なものについては、神自身が、その制作者となったのですが、死すべきものの誕生のほうは、その制作を、自分が生み出した子供たち(神々=天体)に命じたのでした。(69C、P.127)
「神的なもの」、つまり「イデア・理性」は神自身が作り、「死すべきもの」、つまり生成・変化・運動・消滅するもの、「現実の感性的存在」は、「子供たち」に制作を任せたのです。
「快」と「苦」はどのようにして生じるのでしょうか。
つまり、われわれのところで、自然に反した、無理な影響が、それも一気に起こる場合には、このような影響は「苦しい」ものなのであり、逆に、自然の状態へと一気に戻る影響は、「快い」ものだということ。そして、静に、また徐々に起こる影響は、感覚されないけれども、それと逆の影響は、逆のあり方をするものだということです。しかし、容易に起こる影響はすべて、最高度に感覚されはしますが、快ー苦を伴うことはありません。(64C、P.116)
また、自分の自然の状態から疎外され、内部が空になっていく過程のほうは、少しづつであるのに、満たされるほうは、一気で、しかもその都度、多量に満たされるのだとすると、そのようなことを受けるものはすべて、空になるほうには無感覚で、満たされるほうにだけを感覚することになり、こうして、魂の死すべき部分には、苦痛をもたらさないで、きわめて大きな快楽をもたらすことになります。そしてこのことは、芳香の場合には顕著に見られます。しかし、自然の状態から一気に疎外され、少しづつやっとのことで、自分のもとの状態に立ちなおるものは、先の場合とまったく正反対の結果をもたらします。そしてこのことはまた、身体の火傷や切り傷の場合に明瞭です。」(65A-B、P.117)
人間は、「少しずつ失う」ことには鈍感(無感覚)です。食事をすると「一気に」「自然の状態に戻る」ので「快感」を感じますが、だんだんお腹が空いていくことを「感覚」することはあまりありません。ギャンブラー(賭け事)は、「負け続けること」ではなく「勝った時の快感」だけを覚えています。これは「一括払い」と「分割払い」に似ていますし、「借金」とその「返済」にも共通することかもしれません。
「死すべきもの」としての人間が「死ぬこと」は、「自然なこと」です。
というのは、自然に反したものは、どんなものであっても、苦痛を与えるものですが、本来の自然のあり方で起こるものは、快いものだからです。そして、まさに「死」もまた同様、病気や傷害によって来るものは、苦しく、不自然なものですが、老いとともに、自然に終局に向かうものは、およそ、死の中でも、もっとも苦痛の少ないもの、いや、苦痛よりも、むしろ快楽を伴うものなのです。(80E、P.155)
病気には二種類あります。「魂の病気」と「身体の病気」です。「心の病」と「体の病」です。これが「理性」と「感性」に対応していることは言うまでもありません。
さて、この両方の病気に対して、安全を守る方法はただ一つです。すなわち身体を伴わないで魂だけを動かすことも、魂を伴わないで身体だけを動かすことも、どちらもしないということでして、それはつまり、双方が、〔互いに〕自分を防御して、〔相互に〕均衡を保ち、健康なものになるようにというためなのです。(88B、P.170)
その具体的な方法をプラトンは三つ挙げています。
だから、身体から不浄を取り除き、身体を引き締めるいろいろな方法のうちでは、体操によるものが一番すぐれていることになります。そして、第二番目によいのは、船に乗って行く場合とか、あるいはどんな仕方でもとにかく、乗り物で行くという、労を要しない方法を取る場合の、振動を通じて与えられる動きがそれです。ところで第三の種類の動きは、極端に切羽つまった場合に役立つこともありますが、そうでもない限り、分別ある人は、けっしてこれを受け入れるべきではありません。とこう言われるのは、実は、医薬を用いて浄化する(下剤をかける)治療のことにほかなりません。というのは、大きな危険性のない限りのすべての病気は、医薬の使用によって刺激されるべきではないからなのです。何故なら、およそ病気が形成される場合、それはある意味では、生きものの自然のあり方に似ているからです。というのは、生きものの場合の構成体も、それは、当の種族全体に定められている命数を持つとともに、また、個々の生きものを単独で取り上げる場合にも否応なく、無理に割り込んでくる事故を勘定に入れなければやはり、各々、運命によって割り当てられただけの生命を持って生まれてくるものなのでして(中略)、それに定めとして与えられている期間を無視して、人が薬を用いて、これを破滅させるときには、軽症な病気が重くなったり、また、病気の数が少なかったのが多くなったりしがちなのです。というわけで、すべてこの種のものについては、時間の余裕のある限り、これを養生法によって教導しなければならないのでして、投薬によって、厄介な災いをかき立ててはならないわけなのです。(89A-C、P.171-172)
一人一人にもそれぞれの寿命があり、人間という「種」として考えても、ほかの「種」と同様に、無限に永遠に生き続け、増え続けるわけではありません。
「医術の祖」と言われるヒポクラテスは、ソクラテスと同時代の人です。『パイドロス』にはこうあります。
どちらの場合においても、取りあつかう対象の本性を
医者の場合には身体の本性を、弁論術の場合には魂の本性を分析しなければならない。つまり、医術とは、身体に薬と栄養とを与えて健康と体力をつくる仕事であり、弁論術とは、魂に言論と、法にかなった訓育とをあたえて、相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事である(略)(『パイドロス』270B、邦訳全集5P.243)そうだとも、君。ヒポクラテスの言うことは正しい。けれどもぼくたちは、ヒポクラテスだけに頼っていないで、さらにものの道理そのものにたずね、道理の示すところがヒポクラテスの言葉と一致するかどうかを、しらべてみなければならぬ。(同270C、邦訳P.244)
医術や弁論術という「技術」は、「熟練・経験」だけでなく、そのもの(対象)の本性に合っていなければなりません。
薬が「病気を治す」のではありません。「体が本性(自然の状態)に戻ろうとするのを助ける」のです。風邪をひくと「熱が出る」「咳が出る」のは、「体が治ろう」としているからです。風邪のウイルスが「発熱したり」、「咳をさせたり」するのではありません。「病状」というのは、「病気に対する体の反応」です。切り傷ややけどの痛みについても同様です(「無痛症」の人がどれほど「命の危険」にさらされているか考えてみれば明らかです)。
それを取り違えてしまっているような気がします。「魂」や「神」を持ち出すことには、私は抵抗があります。でも、「原因」「必然性(偶然性)」「法則と法律」などの取り違えは、いまこそ「見つめ直す」必要があるように思えてなりません。見つめ直そうとした時、カタカナ語はもちろんのこと、この文章に登場した漢字熟語のほとんどが、明治以降の翻訳語、あるいは漢語を西欧の訳語に転用していることが分かってきます。たとえば、「理性」は西周の造語、「感性」は漢籍にありますが、 sensibility の訳語として西が転用した翻訳語です。改めて考えてみると、私はその意味をちゃんと分かっていて人に説明できるわけではないのです。
いま失いかけている「生きる技術」「痛む技術」「病む技術」「死ぬ技術」・・・。それらは、「魂(理性)」や「体(感性)」だけでなく、生きている社会、時代、文化、つまり、「理性」や「感性」を「受け容れる(それが現れる)場(コーラ)」が持っているものなのではないでしょうか。私がこの日本で生まれたこと、この母から生まれたこと、この日本語で考えるしかないということ。それは否定することも拒否することもできないのです。さらに、日本語で考えているということすら、普段は「意識していない(ほとんど所信の対象にもならない)」のです。
言葉、論理、ロゴス、感覚、感情など、それが「善い」ものであろうとなかろうと、「神的」なものであろうとなかろうと、「理性」的なものであろうとなかろうと、「感性」的なものであろとなかろうと、「寝言」であろうと、「夢」であろうと、それが現れる(それを受け容れる)「場(コーラ)」はアリストテレスの言うような「空間(トポス)」ではありえないのです。
