万物の黎明 人類史を根本からくつがえす デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ著 酒井隆史訳 2023/09/30 光文社

万物の黎明 人類史を根本からくつがえす デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ著 酒井隆史訳 2023/09/30 光文社
人類学者と考古学者

中古本。送料込みで3799円。高かったけど、仕方ありません。グレーバーの遺作なんだから、どうしても読みたかったのです。

グレーバーは人類学者、ウェングロウは考古学者です。

原初のタイトルは、

THE DAWN OF EVERYTHING A New History of Humanity

英語の苦手な私にも「 dawn 」というのは馴染みの単語です。なぜなら、私の愛する映画『2001年宇宙の旅』(1968年)が「 THE DAWN OF MAN 」というテロップからはじまるからです。謎の物体「モノリス」に触った人類の祖先が、動物の骨を振り上げ、他の群れの人類(の祖先)を撲殺するシーンです。そして空中に放り投げた骨が「宇宙船」に変わります。アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックの描く「人類の黎明」です。

訳者は、

本書のタイトルが、二〇世紀の偉大なる先史学者・考古学者であるV・コードン・チャイルドの「出世作」である『ヨーロッパ文明の黎明』The Dawn of European Civilization (一九二五年)をいささかなりとも意識していないとは考えにくい。(P.608、「訳者あとがきにかえて」)

と言いますが、私と同世代のグレーバーなら、『2001年宇宙の旅』を観ていないはずがありません。まあ、私は「ゴードン・チャイルド」の名前も聞いたことがありませんが(エディ・マーフィーの『ゴールデン・チャイルド』は観たことがありますが)。


古代文明?

私は「歴史」という科目が大嫌いですが(暗記は苦手)、遺跡って夢(ロマン)があります。昔、雑誌に載っていた吉村作治さんのピラミッドについての記事を、何度も読みました(大学に入ってから考古学を勉強したいなと思ったのですが、私の大学には考古学科がありませんでした)。そんな事もあって、『インディ・ジョーンズ』シリーズは大好きです(映画の話ばっかり)。

死ぬまでに一度でいいからピラミッドに入ってみたいなあ。一時期、ピラミッドは登ることも禁止されていたようだけど、先日吉村先生の特集番組でピラミッドに登っている人をみたので、解禁されたのかもしれません。

私が学校で教えられたのは「四大文明」くらいで、あとナスカの地上絵、ボロブドゥール、仁徳天皇陵くらいは知っていました。パルテノン神殿、コロッセオ、モアイ像などは「古代遺跡」(何年経過したら古代遺跡になるのかわからない)になるのかな?縄文式土器、弥生式土器、打製石器、磨製石器は知っていたけど、埴輪と土偶の違いもよくわかっていませんでした。

兵馬俑が世界的に有名になったとき、私はどこかでロマンとともに政治的意図を感じていました。

この本でも触れられている「三内丸山遺跡」が発見されたときも(世界文化遺産に登録されたときも)、それほど興味をそそられませんでした。「世界〇〇遺産」というのは、どうも胡散臭く感じるのです。アカデミー賞やノーベル賞と同じです。それは先進国といわれている(自称している)国々が「価値がある」と言っているだけですから。

敦煌莫高窟の石仏の顔が破壊されていたり、バーミヤン渓谷やバルミラ遺跡の破壊は心が痛みます。でも、パルテノン神殿の破壊やベルリンの壁崩壊、レーニン像の破壊など、同様の例は今でも続いています。

この本に登場する遺跡のほとんどは、「破壊された」という視点ではなく、「放棄された」という視点で描かれています。つまり、沢山の人が長い年月をかけて創ったのだけれども突然使われなくなった、あるいは、破壊して(あるいは破壊せず)その上にあたらしい建築物を建てたものです。

そして、その多くはその存在すら人々の記憶からなくなってしまいます。それらはその後にそこに住んでいる(生活している)人びとには、何の「価値」もないものです。ある文化の価値は、その文化が作りだす(あるいは文化の表現)ですから、当然でしょう。


日本建築

日本の建築物(家屋)は、ほとんどが木造です。そして「在来工法」と言われる建築技法は、西洋の建築物とは大きく違います。その一番の特徴は柱が屋根を支えているということです。ツーバイフォーなどの新しい工法は壁が屋根を支えています。西洋建築と同じです。

在来工法は、直して使うことを前提としています。壁はもちろんのこと、大黒柱以外の柱ですら、修理して使い続けることができます。そのために、その一部が壊れても直すことで100年以上、あるいは1000年も使い続けることができます。生き物が、その細胞や個体はどんどん入れ替わっていても、全体・種は保ち続けるのに似ています。

もう一つは地震大国に適しているということです。地震が来て家が揺れても壁が壊れることはありますが、柱が揺れることで、揺れを吸収します。基礎はなく、大きな揺れは束石からずれることによって倒壊を防ぎます。でも、基礎を埋めてその上に固定するツーバイフォーでは揺れを吸収できずに倒壊します。年数が来れば壊して建て替えることしかできません。

三内丸山遺跡では、建築物が復元されていますが、どうなのでしょうか。

コンクリートでできている建物も、高層マンションも、内装や外装をいくらか変える(代える)ことはできますが、建物そのものは寿命が来たあとは、ただの瓦礫にするしかありません。

私はそれが「技術」の問題ではなく、「考え方(文化)」の違いのように思います。

バブル期の前から、日本では数多くの「テーマ・パーク」のようなものが作られました。観光地や遊園地とは別のものとして作られるものです。東京ディズニーランドに代表されるそれらの施設は、ほとんどがコンクリート(と樹脂)でできています。1000年後にはディズニーランドは「遺跡」になるのでしょうか。

そして、その多くは投資目的で作られ、資金回収ができたあとには見捨てられます。たとえ資金回収ができなくても見捨てられます。なぜなら、つねに「新しい施設」ができるからです。食べ物・着る物同様に「流行り物」だからです。

見捨てられた施設がもつ、あの寂しさ・物悲しさは何でしょうか。それが遺跡がもつロマンとどう違うのでしょうか。その理由のひとつは、私がその同じ文化の中にいるということかもしれません。


歴史の中にいること

本書は膨大な文献、近年(30年ほど)の遺跡調査の結果などから、人類が始まってからの数万年の「歴史(人類史)」が書かれています。それも世界中の。ギリシアやウクライナの遺跡の話もありますが、ほとんどは「非ヨーロッパ」にあります。「非ヨーロッパ」には、近代以前のヨーロッパも含まれます。それらを詳しく書くなら、膨大な著作になるでしょう。それを600ページほどにまとめた事自体がすごいことです。

なにしろ、わたしたちはこの日本語訳七〇八頁をひもとくなかで、後期旧石器時代から現代にいたるまでの人類史数万年を、世界のすみずみまで経めぐりながら旅をすることになるのだから、大変だ。(P.613、「訳者あとがきにかえて」)

読んでいて、今読んでいるページが「いつ・どこ」の話をしているのかを忘れると、とても混乱します。なぜならいろんな地域で(隣接しているところでも、離れているところでも)まったく正反対とも思える文化があり、また、その文化も時代的に異なっているからです。どうしてもある時代、ある地方の姿を頭の中で思い描いてしまいながら読むので(その全てが映画やテレビなどでできたイメージですが)、いったん「なるほど」と思えたイメージのまま次の段落にすすむと、覆される(逆が書かれている)ように思えてしまいます。それが著者たちの意図するところかもしれないけど、読む側が気をつけなければならないことです。「いろんな社会があるんだ」と感じるだけでも意味があるけど、論理的、因果論的、とくに進化論的な思考がどこから生まれてきたのかを「自分自身」のなかで気がつくことが重要です。一つの文化について思っていることが、決して「人間として当たり前」のことではないということに気づかされます。

遺跡や文献として残っていること、それに「口承(口伝)」されたものを加えても、人類史全体から見ればかぎりなく「わずか」です。「自分史」を書くことを考えてみてください。自分が過去1年間、1ヶ月間、1週間、1日に経験したこと、感じたことを書いたり読んだりするには、多分、その何倍の時間をかけても無理です。それが不可能だということは「自明」の事です。なにせ、経験したことや感じたことは、言葉に出来ないことがほとんどなのですから。

それが可能だとする考えはたくさんあります。たとえば、Aという時刻・位置とA'という時刻・位置をかぎりなく近づけて、つまり差をゼロに近づけていけば、Aにおける運動(速度)がわかる、というのもその一例です。つまり微分ですね。運動がわかれば、次の時刻(または過去の時刻)における位置が(実測したデータがなくても)「予測」できるのです。

でも、この考え方自体を疑問に付すこと、それが著者の言いたいことの一つだと思います。

すでに述べてたように、歴史の只中に生きることの最も厄介な局面のひとつは、未来の出来事の成り行きの予測がほとんど不可能であるということだ。しかし、いったん出来事が起こってしまうと、なにか別のことが「起りえた」ということすら考えることができなくなってしまう。正しく歴史的といえる出来事には、おそらく二つの性質がある。事前に予測することができないということと、一度きりしか起こらないということである。(P.510)

この「A」という「いま、ここ」というのは、「一般的」「普遍的」なものではないのです。それが「いま・ここにある(いる)自分からみたもの」あるいは「その自分自身を投影したもの」に過ぎないということ、その「あまりにも人間的な」ものを告発しようとしているのが本書だと思います。

日常生活でも「危ないよ、転ぶよ」と言ったあとに、その人が転んだら「ほら言ったとおりでしょ」と言います。転んだという事実が起こったあとでは、「転ばなかったかもしれない」という可能性を考えることはありません。「次は転ばないようにしよう」と考えることはできますが(これが「意志」であり、「自由の可能性」です)。

多元宇宙論やパラレルワールドのことではありません。世界観(感じ方)の問題です。別の言葉を使えば、それを「因果関係」と捉えるか「縁」「ゆかり」「業」と捉えるかということになるでしょうか。


関係

「関係」に当たる和語はわかりません。何かと何かが関わっているということですが、そのそれぞれの「何か」はどこにあるのでしょうか。ひとつの考え方は、人間(自分)の外にある「何かと何か」の関係で、その関係を「私」が観ているということです。そこに「私と何か」という関係が生まれます。もう一つは、「何かと何かの関係」が私の外にあって、それが「私」に見えているという考えです。「私」から「関係」を見る、というのと、「関係」が「私」に見える、ということなのですが、後者は「私が関係から見られている」という受動態ではありません。ということは前者は能動態ではないということになります。

「壁に耳あり(障子に目あり)」というようなことわざは世界中にありそうですが、「御天道様は見ている」というのとは違う気がします。「神様(天)に見られている」というのとも違う気がします。映画『トゥルーマン・ショー』(1998年、ピーター・ウィアー監督)のような発想は西洋的な気がします。その「妄想」に私も取り憑かれているのですが。「富士山が見える」という当たり前の日本語を外国語に翻訳するのは難しそうです。

また別の見方では、「何かと何か」は自分(人間)の外にあっても、その「関係」は自分(人間)の中にあるとも考えられます。「猫と犬は共に哺乳類だ」という関係は、犬と猫には関係ありません。

「何か」自体も観念に過ぎない、とも考えられます。観念論、唯名論ですね。目を閉じると、それらは見えなくなりますが、それらが無くなったのかどうかはわかりません。目を開けたときにはそれらがないこともありますから。

人間は(多分人間以外の動物も)「見えるものすべて」を見ているわけではありません。私は探し物が苦手です。そこにあるはずのものが見えないのです。歳ごとにますます苦手になりました。人間は見えるものだけ(すべて)を見ているのではないし、聞こえるものだけ(すべて)を聞いているのではありません。遺跡が発見されるのも、発見されないのもそのためです。


別の世界が可能だったこと、可能であること

自分(人間)が「頂点」であり「すべて」であり「現実」であると考えること。位置的にも時間的にも。つまり、「今・ここにいる自分」という「点」に向かって、すべての過去は存在すると考えると、「他の可能性」は「非現実」としてしか考えられません。コインを投げて「表」が出たとき、それは「50%の現実」ではなくて、「100%の(完全な)現実」です。「裏」は「0%の現実」、つまり「非現実」です。

社会理論家は、過去の出来事について、あたかもすべての出来事が事前に予測できたかのように書く傾向がある。これはいささか不誠実な態度である。というのも、だれもが知っているように、未来の予測などというものが当たったためしなどはほとんどないのだから  そしてこのことは社会理論家にもいえることなのだ。(P.590)

それらの出来事は、因果関係(法則性)として説明されなければなりません。因果関係として描くこと、法則として捉えることが「近代科学」です。ヨーロッパにおいても、中世までは、その法則 law は「神の手」にありました。そして同時に、人間も神の手の中にありました。すべてが神(仏)の掌中にあったのです。それが人間の手に渡るとともに、説明できるもの、説明しなければならないものとなります。人間は「説明する主体」となり、自然や歴史は「説明される客体」となりました。説明されないものを、説明できるものに繰り入れる作業が「近代科学」です。説明できないものが「誤差」や「例外」とされることもありますが、説明できたことだけが「重要」なことなのです。それ以外は「俗説」あるいは「民間信仰」と呼ばれます。

つまるところ、それらの事象は実在していたわけだ。たとえ過去をみつめるわたしたちの習慣が、それらの事象を脇に追いやるように強いたとしても。(中略)それが意味しているのは、人間社会とはどのようなものかについて、わたしたちはまったく異なる考えのもとで生活していたこともありえたということなのだから。(中略)しかしいっぽうで、それはまた、いまでも人間が介入できる諸可能性は、わたしたちが考えているよりもはるかに大きいことをも示唆している。(P.591)

「ありえた could have been 」という控えめな思いが、「ありうる can be 」「諸可能性の示唆 suggests the possibilities 」です。過去の〈出来事(事象) things 〉が提示するのは、現在にむかう(収斂する)「原因」ではなくて、未来につづいていく「可能性」なのです。これが二人のデヴィットの言いたいことなんだと思います。


ホッブズとルソー

トマス・ホッブズ( Thomas Hobbes、1588年4月5日 - 1679年12月4日)の著作『リヴァイアサン』(1651年)は読んだことがありません。Wikipedia によると、

ホッブズは人間の自然状態を、決定的な能力差の無い個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての万人の万人に対する闘争(羅: bellum omnium contra omnes, 英: the war of all against all)であるとし、この混乱状況を避け、共生・平和・正義のための自然法を達成するためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を国家(コモンウェルス)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである。」と述べ、社会契約説を用いて、従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。

ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)の『人間不平等起源論』(1755年)も読んだことはありません。これも Wikipedia から。

元来人間は自然状態においては言語、教育、階層は何もなかったために不平等は存在しなかった。しかし人間が改善能力を発揮し、相互に協力するような理性を獲得すると社会に不平等な階層が生じるようになった。なぜなら人間が法律や所有権の制度を発明、導入することによって家族、農業の実現による不平等が発展することになる。

逆のことを言ってるわけです。「自然状態」「自然権」「自然人」、これらの日本語が気になりますが、あえてスルーします。ルソーの『人間不平等起源論』は、フランスの

ディジョンのアカデミーが、「人々の間における不平等の起源は何か、そしてそれは自然法によって是認されるか」という論題で再び懸賞論文の募集を行った(Wikipedia)

に応募したものです。この論文は「ページ数オーバー」で落選するのですが、翌年に出版されました。著者が注目するのは、ルソーの論文ではなく、そのアカデミーの問いです。それが表しているのは、「いまの社会が不平等である」ことと「その不平等には起源がある」ということです。そして「起源の前」は「平等な社会だった」という前提があります。なぜそのような「問い」が生まれたのでしょう。

本書の出発点は、ウェンダット族の政治家カンディアロンクと一七世紀に北アメリカ先住民によって展開されたヨーロッパ文明への批判であった。(中略)そして、そのバックラッシュによって、人類史の進化論的枠組み、すなわち今日にいたるまでほぼ手つかずの思考の枠組みが誕生する。歴史を物質的進歩のストーリーとして描きだすことで、この進化論的枠組みは、先住民の批判者たちを無垢な自然の子と位置づけ直す。かくして、かれらの自由についての見解も、未開の生活様式の副産物にすぎないもの、それゆえ現代の社会思想(それはますますヨーロッパの思想だけを指すようになる)にとって取るに足らぬものと片付けることができるのだった。(P.502)

コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)、コルテスのアステカ帝国の征服(1521年)の後、北アメリカ先住民とヨーロッパ人との接触がはじまるのですが、当初からヨーロッパ人は、北アメリカ先住民を「野蛮」だとか「無垢」だとか「自然人」だとか考えていたわけではありません。むしろ、その「考え方の違い」(ヨーロッパ文明批判)に驚いたのです。そしてそれに対するバックラッシュ(反動)が「アカデミーの問い」に表れているのです。


進化論的歴史観

ダーウィンは、かれの進化論を証明するためには「化石が少なすぎる」ことを嘆いています。何億年という時間のうち、化石が堆積する可能性がある時期・場所が限定され、とぎれとぎれであって、その間には大きな時間が空いていること、そして、その化石の多くも「陸上」に残っているわけではないということです。

人類史の遺跡についても同じことが言えます。

というのも、海面の上昇により、世界のほとんどの地域で、海岸線での住居の最古の記録がはるか昔に水没してしまったからである。(P.175)

ダーウィンは、化石の欠如(種の中間型の不在)をむしろ論拠にしているようにさえ見えます。代わりにダーウィンが持ち出すのは、「現在の」地域による気候差と飼育(栽培)による変化です。ソシュールの言葉を借りれば「通時態」と「共時態」ということになります。

人類史においても同じことがなされます。つまり、「未開人(原住民、先住民)」を「人類の過去の姿」とみなすわけです。未開人が「国家」や「法」や「文字」を持たないのは、あるいは「平等」(ルソー)であったり「野蛮」(ホッブズ)であったりするのは、かれらが「未発達(未熟)だから」ということになります。

本書で乗り越えたいのは、この[ルソーかホッブズかの]二者択一なのだ。わたしたちの反論は、大きく三つのカテゴリーに分類することができる。これらの議論は、人類史の一般的な流れを説明するものとしては、

一、端的に真実ではない。

二、不吉なる政治的含意をもっている。

三、過去を必要以上に退屈なものにしている。(P.4-5)

過去の文化の変遷は、西洋の現在につながるような単純で一方方向の道筋などではないし、

真に「初源」である状態は存在しなかった。存在すると主張する人間はだれであっても、神話で商売をしているのだ(P.158)

したがって、かつて未熟であったが、だんだん成熟していったのではなく、人類は当初より、成熟していたということ。(P.610、「訳者あとがきにかえて」)

この多様性(ダイバーシティ)が叫ばれている現在でも(あるいはそれだからこそ)、この「偏見」はなくなりません。「未熟」であるとみなすことは、「保護」「啓蒙」あるいは「教育」「開発(啓発)」の対象であるとみなすことです。

このような意識は「子ども」に対する意識と同じです。日本では、事件や事故があると「子どもをふくむ〇〇人」と報道されます。「子どもは守られるべき」存在なのです(その根拠となるのは「親子愛」や「母性本能」です)。数十年前までは「女性と子どもをふくむ〇〇人」と報道されていました。女性も「守られるべき」存在でした。「女性の人権」が認められてから「女性をふくむ」という表現がなくなるまで、一世紀くらいかかったでしょうか。「子供の人権」が主張されて数十年経ちます。子どもは「守られるべき」存在でなくなるのでしょうか。成人年齢が引き下げられました。これから先、もっと引き下げられるかもしれません。引き下げられればされるほど、子どもは守られるべき存在ではなくなっていきます。そしてその年令に達しない子どもは、さらに「保護の対象」になります(つまり人間とみなされないということ)。

動物園で猿(類人猿)を見て、「私はこいつよりも高等だ」と思いますか。私はそう思ってしまいます。ちょっと「人間っぽい」ことをすると「すごい」と思います。運動能力では彼らの方がずっと上ですが。犬猫を見るときは不思議にそうは感じません。人間とあまりにもかけ離れているせいか、ペットのように身近に感じるせいかわかりません。植物には、そもそもそういった価値基準ではなくて、「美しい」とか「食べられるか」といった感情です。子どもや女性についても上記のような感情をもちます。昭和生まれですから。平成生まれの人は違う感情を抱くのでしょうか。

マックス・プランクはかつてこう述べている。「新しい科学的真理は、既存の科学者に、それが間違っていたことを納得させることで古いものに取って代わるのではない。古い理論の支持者がやがて死に絶え、後続の世代が新しい真理や理論を身近で明白なものと感じることで、そうなるのだ」。わたしたちは楽観主義者(オプティミスト)である。そうなるのに、さして時間はかからないと考えたい。(P.592)

たしかに、この半世紀で世代は二つ替わり、世の中も随分変わりました。物質的・技術的なことを言っているのではありません。私の祖父母の考え方と、私の父母の考え方と、私の考えとは随分と違っています。事物を見る見方が違っていたのだと最近わかってきました。それでも、私の子どもたちがどう物事を見ているかはよくわかりません。

祖父母がもっていた仏教への信仰は、父母の代で薄れ、私は無信仰です。いや、信仰の対象(真理)が変わったのです。たとえば、祖父母は仏性は万物に宿ると考えていたけど、家畜を殺す(つぶす)ことに躊躇はありませんでした。父母は、ためらったでしょう。私はスーパーで切り身になった肉や魚しか知りません。

でも、私は楽観的にはなれません。テレビのニュースでは災害、事故、犯罪の話がメインです。あとは商品紹介のようなイベントの紹介です。その二つは関係のないものではありません。後者を補完するための前者だからです。革新勢力や犯罪集団は、保守勢力(資本家勢力)を補完・強化するために存在します。災害、事故、犯罪、それらに対する不安と欠如性が新しい商品(自転車用ヘルメットや防犯カメラなど)とその需要を生みだします。

私は差別主義者のまま、生涯を閉じるのでしょう。それでも私は「静止している」わけではありません。昨日の私と今日の私は違います。もちろんそれは成長や成熟といえるものではなくて、むしろ老化と衰弱と呼ばれるものです。だから思うのです。すべては完全であり、不完全であると。


自由と平等

私は戦後の民主教育を受けました。「自由・平等」や「自主・独立」を「真理」として教え込まれたのです。それらは「民主主義」という実体の見えないものを作るための土台だと。

「自由」はなんとなくわかりました。「思った通り」に行動すればそれが「自由」なんだろうと。でも、それに「責任が伴う」と言われると、わからなくなります。「道徳」や「倫理」は、「自由」と対立し、それを「制限」するものでした。自由は「目指すもの」であって、「当たり前」でも「現実のもの」でもなかったのです。

「平等」については、当たり前のよういてでよくわかりませんでした。だって、「私とあなたは違う」のですから。私は蕎麦が嫌いで、ネコが好きです。でも、「蕎麦とうどんの平等」とか「犬と猫の平等」を主張するのはどこか意味不明なのです。

今流行りの言葉でいえば、私は「マジョリティ」です。日本において日本人であり、日本において男性であり、日本において大卒であり、日本においてヘテロセクシャルです。「マイノリティ」ではないから平等・不平等に気が付かなかったのでしょうか。あるいは、私は日本において低所得者であり、日本において地方在住者だから、所得や文化(商品、制度、サービス、方言等)についてのみ、不平等や差別を感じるのでしょうか。

このように、政治的観点からは、フランス人とアメリカ人(アメリカ先住民のこと・・・引用者)は、平等ではなく、自由を議論していたのである。(P.52)

ここでの平等は、自由の直接の延長線上にあって、まさに自由の表現であった。それはまた、究極的には主権者の前での平等  つまりここでもまた、服従を共有する平等  である「法の下の平等」というなじみぶかい(ユーラシアの)観念とはほとんど共通点がない。それとは対照的に、アメリカ人が平等であるのは、だれもが自身の判断によって命令に従うか従わないか平等に決められるというかぎりにおいてのことだった。(同)

自由には「形式的自由」と「実質的自由」があります。日本国憲法に規定されている自由を列挙してみましょう。

  • 思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、表現の自由(集会・結社・言論・出版、21条)、学問の自由(23条)、奴隷的拘束の禁止(18条)、適正手続きの保障(31条)など、不当な逮捕・監禁からの自由(33-39条)、居住・移転・職業選択の自由(22条)、財産権の保障(29条)

これらのほとんど(あるいは全部)が形式的な自由です。なぜなら、これらは「公共の福祉に反しないかぎり」の自由であり、単純に「おカネがなければ実行できない」自由だからです。確かに「自由」は「 freedom 」や「 liberty(訳者の訳語では「解放」)」の訳語ですが、それは、日本に元々あった「自由」という言葉の意味ではないし、現在の日本語の「自由」でもありません。自由を「個人的なもの」だとみなしたり「社会的」なものだとみなすことは、日本にはなじまないのです。明治以前には(あるいは今日においても)日本には「(西洋的な)社会 society 」に相当するものがなかったのですから。

よく考えてみるならば、「言論の自由」や「幸福追求」のような、わたしたちが典型的な自由だと考えているものの多くは、実は社会的自由ではまったくない。好きなことをなんでもいう自由があるとしても、だれも気にしたり耳をかたむけたりしないのであれば、ほとんど問題にはならないのだから。同様に、好きなだけ幸せになることができたとしても、その幸せが他人の不幸と引き換えであるなら、それもまた大した意味をもっていない。おそらく、典型的な自由とみなされているものは、たいてい、ルソーが『人間不平等起源論』でこしらえた幻想、すなわち孤立した個人の生活という幻想を基礎としている。(P.571)

これを「なるほど」と思うにしても、そうじゃないにしても、西洋人の感覚と日本人の感覚は違うでしょう。いずれにしても、著者たちは「西洋的な自由」を念頭に置いて、読者に語っています。

しかし、わたしたちにとって忘れてはならない重要なポイントは、ここでは「自由」を抽象的理想とか形式的理念(「自由・平等・友愛」のようなもの)として語っているのではないということである。これまでの章では、人が実際に実践できるような社会的自由の基本形態についてお話してきた。(一)自分の環境から離れたり、移動したりする自由、(二)他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由、(三)まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由、である。

いまや理解できるのは、最初の二つの自由  すなわち「移動する自由」と「命令に従わない自由」  は、より創造的な三つ目の自由のための足場のような役割をはたしていたということである。この三つ目の自由の「足場」が実際にどのように機能したのか、いくつかを明らかにしてみよう。ヨーロッパ人が最初に遭遇した北アメリカ社会の多くでそうであったように、最初の二つの自由が自明であるとみなされているかぎり、王はつねに、つまるところ遊戯王としてしか存在できなかった。もしかれらが一線をこえれば[まじめな(シリアス)王になろうとするとき]、かつての臣下たちはいつでもかれらを無視するか、どこかよその場所に移ることができたのだから。(P.569-570)

「(一)逃げる自由」と「(二)拒否する自由」、どちらも「空想や理念」ではなく、人間の「意志の現実化(実体化)」です。それらのもとに「(三)創り出す自由」があるのです。

変わった人(自己意識の高い人、主張の強い人、力の強い人、乱暴な人、障がいや奇形がある人、話すのが苦手な人、うまく発音できない人、感のいい人、妄想がちな人、人に見えないものがみえる人、など)がいて、その人達が他者を自分の命令に従わせようとしたとき、他者はどうするかということです。

なだめようとしたり、空返事をしたり、従うふりをしたり、冗談につき合うふりをしたり、その場から去ったりして、きっとその人を排除しないことを考えるでしょう。それができないときでも、その人を殺すのではなく、その人を置いて移動したり、命令に逆らったり、その人が権力を振るえないように、社会の仕組み(制度)を変えようとします。『オメラスから歩み去る人々』(ル=グウィン、1973年)に出てくる地下にいる子どもは、ある意味で「王」です。そして、オメラスの人びとは「(一)歩み去る自由」という「実質的自由」を行使し始めます。それがオメラスの体制(制度)を変化させるかもしれません。

それらができなくなった社会を、著者たちは「閉塞 stuckした社会」と呼びます。子どもが家族から暴力を受けたり、女性が夫からDVを受けたり、学校や職場でのいじめがあったり、家族全体が社会(世間)からバッシングを受けたり、そこには日本独特の背景がありますが、この「閉塞(感)」ということが先進諸国全体を覆っているような感じがします。

『良いこと悪いこと』(日本テレビ系、2025年10月11日-12月20日、Wikipedia)は面白かったのですが、その他のいじめや DV を扱ったドラマを含めて気になるのは、その時どうして逃げられなかったのか、ということです。「逃げる」ということに対する罪悪感(『逃げ恥』)は、やはり日本的なものを含んでいますが、現代の問題としては、「逃げ場所がない」ということ以上に「逃げること(別な状況の可能性)を想像(発想)できない」ということでしょう。「形式的な」自由はあっても、それは「夢(非現実)」でしかなく、「実質的な(現実的な)」可能性として描けないことを著者は「閉塞」と呼んでいるのです。

「いいことと悪いこと」はどうして分かるのでしょうか。怒られて(叩かれるかどうかは別。それは文化の問題)、または褒められてでしょうか。親や周りの人が嬉しそうな顔や悲しそうな顔をするからでしょうか。どうして嬉しさ悲しさがわかるのでしょうか。それが自分の顔を見ているからではないことは明らかです。むしろ、他者を自分の顔として見ているということでしょう。

あるいは言葉でわかるのでしょうか。動物が人間の言葉がわかるかどうかはわかりません。きっとわからないだろうし、人間だって、他国の言葉はわかりません。中国語で言われると説明されているのか、怒られているのかどうかも私にはわかりません。

ローレンツは、犬は負けを認めると首筋の急所をさらけ出す、あるいはお腹を見せるといいます。すると攻撃する犬が攻撃できなくなるのだそうです。これは遺伝子に組み込まれたことなのでしょうか、あるいはいわゆる後天的な「文化」でしょうか。先天的だとして、人間にその遺伝子はあるのでしょうか。人は相手の顔を見ながら人を殺せないといいます。それは、そこに自分を見るからかもしれません。


表現する言葉を持たないこと

わたしたちが使っているそれぞれの言語は、それぞれの文化の歴史を担っています。いくつか例を上げます。

まずは「自由」です。

奴隷と農奴や小作人、捕虜、収容者を分かつのは、社会的つながりの欠如である。すくなくとも法的には、奴隸には家族も親族も共同体もなく、他の人間と約束をなすことも継続的なつながりを築くこともできない。英語の’ free ’という言葉が、’ friend ’という語源に由来しているのはこのためである。奴隸は、他者と約束をなすことができなかったがゆえに、友をもつことができなかった。(P.212)

また、英語の ' free ' [自由]という言葉が、ゲルマン語で ' fruebd ' [友人]を意味する言葉に由来していることにもふれてきた。自由人とは異なり、奴隷は誓いを立てること、つまり約束することができないために、友人をもつことができないのである。困難な状況から物理的に逃走することが第一の自由の最も基本的な要素であるのと同様に、約束をする自由は第三の自由の最も基本的で最小の要素といえる。実際、人類の言語で記録されている最も古い「自由(フリーダム)」にあたる言葉は、シュメール語の「アマ(ル)ギ ama(r)-gi 」であり、「母のもとに帰る」という意味である。(P.486)

個人的な自由は自由ではない(社会的でない自由は自由ではない)ということを語源から説いています。

印欧語根の「 pri- 」は「愛すること、束縛しないことを表す(free, friendなど)」(ハイパー英語辞書「 friend 」の項)です。日本語の「おのずから(自)のよし(由)」とは随分違います。

他者(たとえばアイドル)とのつながりを、メディアや物品やライブで作るとき、そこに「約束」は発生しません。ただ、アイドルはファン(推し)の空想をできるかぎり表現しようとします。そして、アイドルが「思っているようではない言動」をしたとき(したと思うとき)「裏切られた」ような気になります。でも、そこには「人と人」をつなぐ(関わる)約束は元々ないのです。形式的自由に基づく「約束」は、非現実になります。

次は「家族 family 」。

たしたちが使っている' family ' [家族]という言葉は、ラテン語で「家内奴隷」を意味する famulus を語源としている。それが familia という単一の paterfamilias 、すなわち男性世帯主の家内的(ドメスティック)権威のもとにあるすべての人間を意味する言葉を経て、現在の family となったのである。Domus はラテン語で「世帯(ハウスホールド)」を意味し、ひるがえって ' domestic 'や'domesticated 'のみならず、dominium という皇帝の主権と私有財産に対する市民の支配力(パワー)とを同時に表現する専門用語の語源となった。その結果、' dominant 'であること[支配的であること]、' dominion 'をもつこと[支配権を有すること]、' dominate '[支配する]といった(文字通り ' familiar 'な[おなじみの])観念へと帰着するのである。(P.577)

日本語の「家族」は「イエ」というものと結びついています。日本において「イエ」がいつでも「(男性の)家父長制」と結びついていたわけではありません。そういう時代があったとしても、それはヴァナキュラーなジェンダーと結びついていました。なので、「ドメスティック・ヴァイオレンス( DV )」が「家庭内暴力」なのはわかりやすいのですが、「国内航空会社」を「ドメスティック・エアライン」と言われるとどこか不自然さを感じてしまいます。


ローマ法

最後に「所有」です。

すなわち、殺されたり、拷問されたり、恣意的に投獄されたりしない権利は、じぶんの動産や保有物を所有しているのとおなじように、じぶんの身体を所有しているという観念、そして、じぶんの土地、家屋、車などから他人を排除する権利を合法的に保持しているという観念に基礎づけられている。みてきたように、このようなヨーロッパ特有の不可侵なるもの[聖なるもの]の観念を共有しない人びとは、実際に殺害されたり、拷問されたり、恣意的に投獄されたりする可能性があったし、  アマゾンからオセアニアまで  実際ひんぱんにそのような憂き目にあったのである。(P.180)

人間のクランは、それぞれ、ある種の動物を「所有(オウン)」しているとされる  つまり、「クマ・クラン」、「ヘラジカ・クラン」、「ワシ・クラン」などである  が、しかし、その意味するところは、クランのメンバーは、その「所有」する動物を狩ったり、殺したり、傷つけたり、消費してはならぬ、ということである。実際には、かれらにもとめられているのは、その動物の生存を支え、繁殖を促すための儀礼に参加することなのである。

ローマ法の所有概念  現在のほとんどすべての法制度の基礎となっている  が独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 possession にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、 fructus (所有物の産物を享受する権利)、 abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもっていないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有していることなのだ。(P.182)

「所有」は「持っている have, own 」とはまったく別の事象を指しているのですが、「本を持っている」「技術を持っている」「別荘を持っている」が同じ「 have 」で表現されても、その内実は「 possession 」というローマ法の歴史を持ったものに変化されています。それを輸入した日本では、ある意味で歴史のない言葉としてそれを取り入れ、それに日本の歴史的意味を付け加えたので、非常に面倒です。

この問いに表層的な答え以上のものをもとめることはむずかしい。その理由のひとつは、わたしたちの知的伝統が、結局のところ、こうした問いをめぐって考察するにあたって、帝国の言語の使用を余儀なくされている点にある。そしてその言語は、わたしたちがここで説明しようとしていることがらの多くに対して、あらかじめ説明や正当化を与えてしまっているのである。だからこそ、わたしたちは本書で、基盤的な人間の自由と支配の形態について、よりニュートラルな(あえて科学的といおうか)独自のリストを作成する必要を感じたのである。既存の議論は、ほとんどのばあい、ローマ法に由来する用語から出発するが、多くの点で、これがまずいのである。(P.575)

「自由・平等・民主主義」あるいは「家族」という単語は、西洋的意味とは違うにしても、「正当(西洋的には正義や権利)」という価値観を持っています。私のように「ローマ法」のことをまったく知らなくても。

ローマ法における自然的自由の概念は、基本的に、個人(暗に男性の世帯主)がみずからの財産をじぶんの好きなように処分する権利にもとづいている。ローマ法では、所有は正確には権利ですらない。なぜなら、権利は他者と交渉されるものであって、相互の義務をともなうものだからである。所有は端的に権力である。つまり「実力や法律によって」制限されていることがらを除いて、なにものかを保有しているものはそれでもって好きなことができるという、あっけらかんとした現実なのである。この定式には、それ以来、法学者を悩ませてきたいくつかの奇妙さがひそんでいる。というのも、そこには自由とは本質的に法秩序に対する原初的例外状態であるというふくみがあるからである。そこにはまた、所有とは、だれが事物を使用したりケアをしたりするかについての人びとのあいだの了解事項ではなく、絶対的権力を特徴とする人と対象物との関係である、といったふくみがある。たとえば、人間には、手榴弾を使って、やってはいけないことを除いてやりたいことがなんでもできる自然権があるというのはどういうことなのだろうか?このような奇妙な表現を、いったいだれが考えたのだろう?

その答えを示唆しているのは、西インド諸島の社会学者であるオルランド・パターソンである。かれは、ローマ法における所有(したがって自由)の概念は、基本的に奴隷法に発するものであると指摘している。所有物を人と物とのあいだの支配関係として考えることが可能である理由は、ローマ法においては、主人の権力が奴隷を、社会的権利や法的義務をもつ一個の人格としてではなく、物 a thing ( res、客体(オブジェクト)を意味する)とみなしているからである。(P.575-576)

いっぽうで、自由(フリーダム)と解放(リバティ)は私的な問題であった。さらにそのいっぽうで、私的生活は、私有財産とみなされた被征服者に対する家長の絶対的な権力によって特徴づけられていた。

ローマ法の奴隷の大半が、文字通りの戦争捕虜ではなかったという事実は、ここではほとんど無視できる。重要なことは、かれらの法的地位がこのような言葉遣いで定義されていたことなのである。わたしたちのここでの目的からすると、注目すべきかつ啓発的であるのは、ローマの法律学においては、戦争の論理  敵は交換可能[無差別]であること、降伏すれば殺されるか「社会的に死んだ」状態にされた商品として売買されること  、したがって恣意的な暴力の可能性が、家庭生活の基盤であるケアの関係を含む最も親密な社会的初関係の領域に挿入されていたことである。(P.576-577)

私が日本語で考えたり書いたりするとき、著者が英語で考えたり書いたりするとき、たとえば「自由の可能性」「自由を守る」と言ったときに、その「内容・方法」はともかく、「自由」という言葉そのものがプラスの意味を持っています。「家族愛」「発展」「発達」「開発」「エネルギー」「情報」「AI」等、トランプが使っても、プーチンが使っても、金正恩が使っても、高市が使っても、(「AI」以外は)ガンジーが使ってもいいのです。

歴史的背景をもたない言語はありません。でも、その歴史性を意識して使おうとすれば、端的に「話すことができなくなる」のです。

ある程度は、それは端的に適切な言語がないということなのだ。(P.589)

要するに、人類史のいくつかの大きな様相を前にして、わたしたちは字義通り言葉を失っているのだ。(P.590)

それでは新しい言語を作ればいいのでしょうか。エスペラントやベーシック・イングリッシュのように。あるいは、世界中が英語を話せばいいのでしょうか。それは「言語の本質(あえて科学的と言いましょう)」に関わることです。

あるいは「新語(造語)」をすればいいのでしょうか。造語や新語が力を持つことがあります。日本で盛んにカタカナ語が作られ(使われ)ますが、その内実は何も「意味」しません。「エネルギー(カッコつけてエナジーとも言う)」という言葉が「何を意味している」のでしょうか。「エネルギー」や「情報(インフォーメーション)」「 AI 」「 ID 」など、専門家が普及させる言葉は、西洋においても「内容のない言葉」『プラスチック・ワード』(ウヴェ・ペルクゼン)です。

「責任ある積極財政」。「責任」も「積極」も「財政」ですら、まったく内容のない言葉です。なのでニュースでは「具体的には〜」とつづきます。つまり「責任ある積極財政」という言葉には何の具体性もないのです(つまり「何をしてもいい」ということです)。


分裂生成

私が本書ではじめて知った単語をひとつだけ紹介します。「生成分裂 Schismogenesis」です。グレゴリー・ベイトソンが1930年代に作った言葉だそうです。

人は、近隣の人間たちに対立させてみずからを定義するようになるのである。(中略)イギリス人はできるかぎりフランス人のようにならないように、フランス人はできるかぎりドイツ人のようにならないように。なによりかれらはみな、議論するさいにはたがいの差異を誇張するものなのである。(P.66)

地球のどこかに石器時代からいっさい孤立して生存してきた人類集団があるにちがいないという考え方に、ジャーナリストたちがはてしなく虜となっているさまを見よ。現実には、そのような集団は存在しない。(P.195)

モースによれば、その逆がただしい。すなわち、過去の人間は(現在以上に)大いに旅をしていた。とすれば、遠方への一、二ヶ月にわたる旅の立ち寄り先で、かご細工、羽毛枕、車輪のようなものが常用されていたとして、そうした物品をだれも知らないということは端的に考えられない。(P.196)

その問いへの回答としてモースは、まさに文化がみずからを隣人に対抗して定義する方法がこれなのだと考えた。(P.197-198)

先に述べたように、分裂生成とは、たがいに接触している社会が、おたがいを区別しようとしながらも、結局は共通の差異のシステムのうちで結合することを意味している。(P.204)

どちらの社会(アテネとスパルタ・・・引用者)も、他方の社会の鏡像である。それによって、どちらの社会もたがいにとって必要な不可欠な分身となり、いっぽうの社会に対しては、そうあるべきではないものを示す必要不可欠の実例となるのである。(P.205)

ジェンダーとしての男女の関係もそのようなものかもしれません。

「自らを定義する」というのはアリストテレス以来の西洋の特徴で、「アイデンティティ」(つまり ID )のことですが、日本にはそのような考えは薄いので、私には理解できません。

iPS細胞の実用化が認可されたようです。iPS細胞は、ES細胞と同じように、「どんな臓器にもなれる細胞」です。同じ遺伝子場を持つ細胞が、いろいろな臓器に分かれていきます。胃になる細胞と腸になる細胞は同じ遺伝子を持っているのですが、胃になる細胞は腸になる細胞とは違うということで自らを胃にしている、そんな喩えができそうです。これは「擬人化」ですが、分裂生成は「人間(人間集団、社会)を擬人化」しているように思えます。

これもひとつの「神話」だと思います。

そう、わたしたちはいまや、すくなくとも神話世界のただなかにいることだけは知っているのだ。(P.593)

この神話は、「科学によってなくなるべきもの」としての神話(迷信)ではありません。むしろ「決してなくならないもの」、あるいは「人間的な存在そのもの」だと思います。

人間は「自分は死ぬもの」だということを知っている唯一の生き物だと言われます。言葉を持っているのが人間だけかどうかわかりませんが、言葉を持っていることを知っています。そして、「歴史(過去や未来)」や「神話」を持っています。

それはプラトンのいう「コーラ(場)」のようなもので、自覚されても「寝とぼけた主張」(『ティマイオス』)のように思われるものです。日本人にとって「赤い花」は「赤い花」であって、それを説明する必要を感じません。でも、西洋ではアリストテレス以来、「赤とは波長〇〇nmの電磁波であって〜」とか「花とは生物のうちの植物の〜」とか説明しようとしてきたのです。むろん、民衆がそれを求めていたわけではなりません。歴史に名前が残るような人、多分「閑人」か「変人」がそれを求めたのでしょう(多分権力者自身ではありません)。

それを自覚する必要があるのでしょうか。言い方を変えれば、それを「言語化(論理化、定義)」する必要があるのでしょうか。もっといえば、「言語化(論理化、定義)」されるようなもの(言語化、論理化、定義される前のもの)が「ある(存在する)」のでしょうか。

何度も書いているので繰り返しになりますが、「本である(繋辞、定義、説明)」と「本がある(存在)」とは日本語ではまったく別なことです。「本である」ことは説明したり、定義したりできます。ただし、無限に続く言葉として(外延的にも内包的にも)。でも、「本がある」ということを説明しようとは普通は考えません。せいぜい「因果関係(縁)だ」というくらいです。前者は「どのように」で、後者は「なぜ」です。西洋科学や法則は、前者に答えるものでしかありません。後者を語るのは「神話」です。

西洋が中世から近代西洋になる過程で、「なぜ」という神に属するものが人間の手に堕ちてきました。人は「どのように」を突き詰めれば「なぜ」がわかる、そう思わざるを得なくなったのです。それは西洋人にとって「幸せ」なことだったのでしょうか。


何も残らない、何も起こらない時期

大きな遺跡(建造物)があると、そこに大きな都市があった(あるいは多くの人が住んでいた)と考えてしまいます。そうではない(そうとは限らない)ということが最近の考古学や人類学が教えてくれます。

わたしたちは、残ったもののうち、見つけたも(発見されたもの)のしか知しりません。あるものが残るかどうかは、偶然です。材質もあれば、その場所もあります。気候の変動や地殻の変動もあります。そのうえ、使用方法や技術や生活はわかりにくいのです。それは現代の技術や生活から類推するしかありません。土器や石器に穴があれば、紐を通した、棒を通した、指を通した、などと思われますが、笛のように吹いた、部族の印(日本では近代まで、自分の放つ矢に特徴をつけていた)、など、想像もできない使い方もあるかもしれないのです。倉庫に眠っていた一世紀前の道具でさえ、名前も、何に使ったのか、どのように使ったのかもわからないものがあるのですから。気に留めて置かなければならないことは、化石と同じように、「何も残っていない」「何も起こっていない」「歴史に残っていない」けれども、人が生活していた時期(期間)が圧倒的に長かったということです。

最近気になるのは、民放の「情報番組」が(全国放送なのに)東京を中心に報道されていることです。たしかに東京の人口は千数百万人いるので、効率的な放送です。でもそれは日本の人口の一割です。九割は東京以外に住んでいます(東京に住んでいる人の多くも東京人ではありません)。

それは割合の問題ではないのです。私が気になっているのは、今は(民放の制作者が)「東京にいる自分」を中心に考えているということです。昔は「自分のいる東京」を中心に考えていました。それは東京に限ったことではありません。「日本にいる自分を中心に考える」と「自分のいる日本を中心に考える」、「村にいる自分を中心に考える」と「自分のいる村を中心に考える」、「家にいる自分を中心に考える」と「自分のいる家を中心に考える」、・・・。

前者は、自分がどこにいても中心にあるのは「自分」で、「自分」から社会(世の中)を見ています。自分がいるのは必然(自体的、本質的)で、自分がいる(生まれた、育った)場所は偶然(偶有的、付帯的)です。言い方を代えれば「自分」自身は「普遍的自分」「自分一般」です。

後者は、特定の場所にいる特殊な自分です。その特定の場所にいる特殊な自分から社会(世の中)を見ています。「ヴァナキュラーな自分」です。「家族のために」「会社のために」「お国のために」という発想のもとになることもあります。これは封建的、あるいは前近代的なことでしょうか。

わかりにくいかもしれないので、具体的な例を挙げます。小池都知事は「都民ファースト」と言い、トランプは「アメリカファースト」と言います。立憲民主党と公明党が作った中道改革連合も「国民ファースト」と言います。そこに住んている人にとっては耳ざわりのいい言葉ですが、これらも二つの意味があります。

  • 東京に住んでいる自分がファースト、自分が住んでいる東京がファースト
  • アメリカに住んでいる自分がファースト、自分が住んでいるアメリカがファースト
  • 日本に住んでいる自分がファースト、自分が住んでいる日本がファースト

これらは「言っている人(自分)」と「聞いている人(自分)」に対応しています。これらの前者と後者を混同すると、地域格差、ダイバーシティと多様性、人種差別、人間至上主義(中心主義)、利己主義などを「場合に応じて(政府や首相や大統領や政党の利害で)」肯定することも否定することもできてしまいます。最後には、「あなたが(私)が苦しんだり、死んだりしたら元も子もないでしょう?」と言われます。「家族のためなら私が苦労しても(死んでも)いい」と「私のためなら家族が苦労しても(死んでも)いい」、どちらでしょうか。「都民のためなら、地方が苦しんでもいい」「アメリカのためなら他の国で戦争をしてもいい」・・・、どう思いますか。

先日地上波放送された映画『ゴールデンカムイ』でアシリパ(アイヌの娘)が「人(生き物だったかな)は何某かの役目を持って生まれてくる」のようなことを言っていました。「その者が生き残っているのは、まだ役目があるからだ」。アイヌの思想はわかりません。でも、この言葉は「個人(個体)」と「種(世界)」、「偶然」と「必然」の二面性を上手に表しているように思えるし、そのアイヌの考え方は日本人の中にもあると思います。

私は日本には「自害」はあっても、「自殺」はなかったのではないかと考えています。武士の切腹を自殺と考えるのは、ソクラテスは毒を飲んで自殺したと考えるようなものです。切腹は、自分のために死ぬわけではありません。家族のため、家のため、主君のため、国(邦、ポリス)のために死ぬのです。切腹の「痛み」は「自分の痛み」ではなかったのではないでしょうか。

2011年、「ウォール街を占拠せよ Occupy Wall Street 」運動が起こったとき、著者の一人デヴィッド・グレーバーは「私たちは99%だ(We are the 99%)」 のスローガンを考案しました。その「私たち」はウォール街で働いている人でも、ウォール街に住んでいる人でも、あるいはニューヨークに住んでいる人ですらないかもしれません。それは「私一般」なような気がします。


スケール

わたしたちが格闘してきた最も頑迷な誤解は、おそらくスケールに関係するものである。支配構造は人口の大幅な増大の必然的帰結であるといった考え、つまり社会的ヒエラルキーと空間的ヒエラルキーのあいだには必然的対応関係があるという発想である。(中略)わたしたちは、人口の多い社会集団ほど、それを組織的に維持するために必要なシステムはより「複雜」になると素朴に仮定している文章に何度もくり返し遭遇した。複雑さはいまだ、往々にしてヒエラルキーの同義語として使われている。(P.582)

鉄器時代のヨーロッパの専門家である人類学者キャロル・クラムリーは、自然であれ社会であれ、複雑なシステムがトップダウンで組織される必然性はないと長年指摘してきた。ところが一般的にはそのようには考えられていない。おそらくそのような態度は、研究対象についてよりも、わたしたち自身のありかたをより多く語っているといえる。(P.582、下線引用者)

国家や社会、制度、共同体の中に自分がいることを必然だと思うのは、今の現実を必然(歴史の結果)だと思っているからです。そしてそれは、自分自身の存在を必然だと思い、そこから社会や制度を見ているからです。つまり、社会(制度)の必然性を自分の存在の必然性(現実性)から見ている(投影している)のです。それが閉塞した社会における「自分自身のあり方」なのです。

自分の存在が偶然だと思うとき(そして間違いなく偶然なんだろうけど)、「まったく異なる考えのもとで生活していたこともありえた could have been 」と思うことができ、「ほかの社会や制度がありうる can be 」と考えられるようになります。

衆議院選挙で、自民党が圧勝しました。みんなが高市を選んだという「事実・現実」があります。それを必然の結果と考えるのではなく、そうではない可能性を考えられるかどうか。それが大切だと思います。


学者や権力者に対抗する言葉と民衆に語りかける言葉

さらに、その人生の特定の時点で、個別の男性も女性も、きわめて長距離の移動をしばしばおこなっていたと考えられている。(P.138)

狩猟採集民のバンドがより大きな居住集団としてまとまっても、けっして近しい親族のみで構成されているわけではないのだ。実際、生物学的要素を主因とする関係は平均で一〇%を構成するにすぎない。ほとんどのメンバーが、よそからの、しかもその多数がかなり遠方からの流入組であり、同一言語を共有していなかったとすら考えられる。(P.138)

それは、未発達な、あるいは孤立した集団ではなく、多様な生態系を横断する、遠く離れた諸社会のネットワークであった。(P.584)

アイヌの人びとは、東北から北海道、千島列島、サハリン、カムチャッカ半島、アリューシャン列島と、膨大な地域で交流し、移動していたことがわかっています。和人はどうでしょうか。アイヌは狩猟採集民で和人は農耕民(定住民)だったという人はもう少ないでしょう(和人はニホンザルと共通の祖先をもつ、つまり、和人は日本で発生したと思う人は少ないでしょう)。ユーラシア大陸、アメリカ大陸、アフリカ大陸という「大陸の大きさ」は関係ありません。人びとは人生のなかで長距離を移動していたし、また季節ごとにも移動していました。遠くの地域の遺物(文化物)がよく見つかるのは、「モノ」が飛んできたり瞬間移動したのではありません。モノの流通は人間の交流です。モノ(考古学的遺跡も含めて、存在)に注目しすぎると「人(人骨のことではありません)」が見えなくなります。アイヌだから移動してもいいが日本人は島国に「閉塞」された民族だ、などと思いがちなのではないでしょうか。パスポート(マイナンバーカード、あるいはお金)がなければ移動できない、そんな思い込みが投影されているのではないでしょうか。

「諸社会のネットワーク」は「 Web 」を連想させます。Web で移動するのは「情報」です。その後に「モノ」の流通があり、「人」は移動しない、それが「閉塞」した社会であり、「閉塞」した思考方式です。本末転倒な気がします。人の交通がまず最初に「人間のあり方として」あり、それに伴ってモノの交通や文化(知識、技術)の交流(分裂生成も含む)があるのではないでしょうか。

移動する(歩く)能力を自動車が代行する(奪う)、学ぶ能力を教育制度が代行する(奪う)、傷んだり治癒したりする能力を医療機関が代行する(奪う)、つまり人が生きる能力(技術)を科学技術や制度が専門家を通じて奪うことにイリイチは警鐘を鳴らしました。人びとが望む能力(欲求)すら、専門家が「稀少性(欠乏性)」として作り出します。「代官山で人気のスイーツ」や「 iPS細胞による病気の治療」「 5Gのスマホ」「自動運転自動車」あるいは「自動ドア」は、人が望んだことでしょうか。

著者たちは学者です。つまり専門家です。著者の書くことには二つの意味があります。学会に向けて書くことと、民衆に語りかけることです。この本が流通するような社会は、科学法則や西洋近代的な合理主義(啓蒙主義、因果関係)が支配している地域です。それは「閉塞」の裏返しとしての「グローバリズム」を信じている人の地域です。体は閉じ込められているけど、心は自由だと思っている人たちです。『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド)が権力を持っていると思っている人たちです。そういう「神話」のなかで生きている人たちの地域です。

学問的な(科学的な)ことを書くにも「言葉がない」のですから、民衆に語りかける言葉がないのは当然です。それでも著者たちは語りかけようとしています。ひとつには、帝国主義的な言葉を使ってでも(慎重に)民衆に語りかけようとしています。民衆も帝国主義的な言葉しか知らないからです。内容は別として「エネルギー」や「 AI 」という言葉で考えている人たちだからです(エネルギーや AI の意味を知っている専門家も少ないような気がしますが)。著者たちは楽観主義者(オプティミスト)です。それらが「神話」であることさえ提示すれば、後続の世代が「別の可能性」を考えてくれるだろうと思っているようです。

私は悲観主義者(ペシミスト)です。だから「歩く能力」があるうちに自動車を制限しなければならないと思うし、治癒能力(免疫システムや民間療法)があるうちに医療制度を変えなければならないと思うし、学習能力(学ぶ力、考える力)があるうちに学校制度は変えなければならないと思います。 AIロボットが体と脳みその代わりをしてくれる世界で人間は幸福なのでしょうか。この問いには著者たちも共感してくれると思います。

今回は触れませんでしたが、グレーバーのキーワードに「ケア care 」があります(本書でも何回かでてきます)。今日のニュースで「介護保険外サービスの拡充」を取り上げていました。「ケア(サービス・商品のことではない)」については、機会があれば書きたいと思います。


ケア

ここで終わる予定でしたが、最近目の調子が怪しいのですこし続けます。

ウェンダットのばあい、暴力とケアは完全に分離されていた。(P.581)

ケアと支配のこの結合  というよりもおそらく混濁  は、たがいに関係し合う方法を再創造(リクリエイト)することによってみずからを再創造するという能力を、人類はどうして喪失したのかというより大きな問題にとってもきわめて重要であるとおもわれる。つまり、わたしたちがどのように閉塞したのか、そして、なぜ今日、わたしたちが自分たちの過去や未来を、より小さな檻からより大きな檻への移行以外のものとしておもい描くことができないのかを理解するために、重要なのである。(P.581)

「ケア(ケアリング労働)」について、グレーバーは『ブルシット・ジョブ』でこう書いています。

女性の不払いケアリング労働が「経済」についての説明から抜け落ちているのと同じように、労働者階級の仕事におけるケアリングの側面は見えなくなっている。(邦訳、P.307)

人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているか、理解しようと務めなければならない。たいてい、こうしたことは、少なくともいくぶんかは他者に対するケアをふくんでいる  ところが、共感や想像的同一化が総じて一方の側に偏しているようなとき、それは多分に仕事(work)となる。商品としてのケアリング労働( labor )の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。(同)

さらに、多くのフェミニスト経済学者が指摘しているように、すべての労働はケアリング労働だとみなすこともできる。というのも、たとえば橋を作るのであっても(中略)、つまるところ、そこには橋を横断したい人びとへの配慮(ケア)があるのだから。引用したもろもろの事例からあきらかであるように、みずからの仕事の「社会的価値」について考察するとき、人びとは実際にこうした観点から考えているのである。(同、P.308)

仕事の充実感、生活している(生きている)「役目(意味、価値)」を、グレーバーは「ケア」という言葉に込めているのではないでしょうか。

「そんなこと言ったって、腹が空いたり、痛かったりするのは自分だろう」、そういう声が聞こえてきそうです。何に「役目・意味・価値」を見出すのかは、社会(文化)ごとに異なります。お金に価値を見出す社会もあれば、名誉に価値を見出す社会もあります。たしかにそれは「ヴァナキュラー」なもの(地域性・時代性がある、特徴的なもの・独特なもの)です。

たぶん、それを「ケア」という中性的な言葉(それをペルクゼンのようにプラスチック・ワードと呼んでもいいし、イリイチのようにアメーバことば、あるいは著者たちが言う家父長的帝国主義的言語と呼んでもいいのですが)に限定(単純化)してしまうと、誤解を受けてしまいます。男が女にするケア、女が男にするケア、大人が子どもにするケア、人間が自然にするケアは、同質的・中性的な(単純で普遍的な)ケアではありません。ケアがサービスとなり商品となることで、AI介護ロボットの可能性が生まれます。老人ホームで、老人が AI(ロボット)と会話している姿、30年前なら「ディストピア」として描かれた風景が、日本でも普及しつつあるようです。老人が壁に向かって「ひとりごと」を言っているように、私は感じます。それは「ケア」の対極にある姿ではないでしょうか。

ケアを商品やサービスにしてしまう社会、労働を中性的なケアにしてしまう社会、個性や意志を障碍とする社会、自由や平等を理念としてしまう社会、すべてを均一(同質)の経済的価値(おカネ)にしてしまう社会を、著者たちは「閉塞した社会」と呼んでいるのだと思います。




『負債論』『ブルシット・ジョブ』のグレーバーの遺作、ついに邦訳。
「ニューヨーク・タイムズ」ベストセラー。
考古学、人類学の画期的な研究成果に基づく新・真・世界史!

私たちの祖先は、自由で平等な無邪気な存在(byルソー)か、凶暴で戦争好きな存在(byホッブズ)として扱われてきた。そして文明とは、本来の自由を犠牲にする(byルソー)か、あるいは人間の卑しい本能を手なずける(byホッブズ)ことによってのみ達成されると教えられてきた。実はこのような言説は、18世紀、アメリカ大陸の先住民の観察者や知識人たちによる、ヨーロッパ社会への強力な批判に対するバックラッシュとして初めて登場したものなのである。
人類の歴史は、これまで語られてきたものと異なり、遊び心と希望に満ちた可能性に溢れていた。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334100599]

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