パイドロス(古希: Φαῖδρος、英: Phaedrus) ー美についてー プラトン著、プラトン全集第5巻 藤沢令夫訳 1974/10/04 岩波書店

副題について

この翻訳書では、「美について」という副題がついています。解説にあるように「恋について」とか「魂について」という副題もあるそうです(Wikipediaでは「恋(エロース)について」としています)。

そのとおりで、始めは恋(少年愛?)についての話をしています。そして、魂や美についての《イデア》の話、そして最後は「書くということが意味するもの」についての話です。

恋していない人に身を任せるべき?

だから、恋する者は必然的に嫉妬ぶかくならざるをえない。(P.161)

そして、恋する者の愛情とは、けっしてまごころからのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを、知らなければならない。(P.166)

よくある恋愛小説(三文小説?)の題材ですね。娼婦などについては

しかしこういった連中とても、少なくともその日その日かぎりのことだけなら、こよなき悦楽をあたえてくれる人種なのである。(P.163)

と言っています。う〜ん、これも聞いたことがあるような。

ところがこれにひきかえ、恋する者ときたら、その寵愛をうける者にとっては、ただ有害であるばかりか、ともに日をすごす相手として、およそこれくらい不愉快なものはない。なぜならば、すでに古いことわざにも、『齢(よわい)同じならざれば、たのしみも同じからず』とあるではないか。これは思うに、年ごろが同じであれば、互いに似かよっているために同じ楽しみへとさそわれて、親しみがわくからであろう。(P.163)

年齢がはなれている相手は話が合わないから面白くない、と言っています。ソクラテスが若い弟子、というか愛人がいたことは『饗宴』にも書かれています。その弟子が、ソクラテスに冷たくされてお酒の場に乱入し、ソクラテスの悪口を喚き散らすのです。前記の言葉は、ソクラテスの弁明でしょうか、老人のボヤキでしょうか。

パイドロスは

じっさい、恋をしている人たち自身でも、自分が正気であるというよりはむしろ病気の状態にあることを認め、また、自分の精神の乱脈ぶりを知りながらも、ただ自己を支配することができないのだということを、認めているのだから。(P.142)

と言います。ソクラテスも、恋する者が「狂気」の状態にあることを認めつつ、

しかしながら、実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。もちろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。(P.174)

この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕う者がこの狂気にあずかるとき、その人は『恋する人』と呼ばれるのだ、と。(P.188)

そして、魂論と「美のイデア」とかのイデア論となります。

魂とイデア

魂は全体として、魂なきものの全体を配慮し、時によりところによって姿を変えながら、宇宙をくまなくめぐり歩く。その場合、翼のそろった完全な魂は、天空たかくに翔けあがって、あまねく宇宙の秩序を支配するけれども、しかし、翼を失うときは、何らかの固定にぶつかるまで下に落ち、土の要素からなる肉体をつかまえて、その個体に住みつく。つかまえられた肉体は、そこに宿った魂の力のために、自分で自分を動かすようにみえるので、この魂と肉体とが結合された全体は『生けるもの』と呼ばれ、そしてそれに『死すべき』という名が冠せられることになったのである。(P.180)

それぞれの魂は、自分たちがそこからやってきた元の同じところへ、一万年の間は帰り着かない。それだけの時がたたないと、翼が生じないからである。(P.186)

『Red Bull』の発想の原点とも言えそうです。そして、一千年ごとにくじ引きで、次の生を決めるのだそうです。ただ、「エロースに生き、愛知に生を送ったものの魂は、つづく周期において次々と同じ生を選び、三度同じ生涯を送ったならば、都合三千年だけで翼が生じて天上の故郷へ帰ることができ、それ以上の輪廻転生の周期を免除される」(P.270,補注)のだそうです。

肉体は「魂の牢獄」なのです。だから、ソクラテスは死を恐れるよりも、望ましいものと考えたようです。そのようすが、『ソクラテスの弁明』で描かれています。イデアは、魂が天上界にいた時にそこで見たものです。そして、エロース(恋)による「狂気」は、「神から授かって与えられたのも」なのです。

輪廻転生という考えは、当時のギリシャでは珍しかったようです。「それぞれの魂」というのは、個々の生き物に固有の魂があるということです。個々に固有でなければ、輪廻転生はしませんから。これはインドあたりからの考えと、エジプトあたりからの考えがギリシャに伝わってきたのでしょうか。それがピュタゴラスによってギリシャに移植され、ソクラテスはそれを引き継いでいるようです。(『シリーズ・ギリシア哲学講義』日下部吉信著、晃洋書房 参照)

それまでのギリシャ固有の考えは、多神教であったものの、自然そのものが一つの魂(ピュシス)であって、それが存在そのものというものでした。

文字、書くということ

この本を書いたのはソクラテスの弟子であるプラトンです。ソクラテスは本を書きませんでした。これを読む限り、ソクラテスは「(字を)書く」ということに対して、あまり肯定的には捉えていなかったようです。エジプト人のたとえ話をします。

なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。(P.255)

その理由は、

じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(P.257)

そして、ものを書いたり、それによって知識を得る人のことを、

これを「知者」と呼ぶのは、パイドロス、どうもぼくには、大それたことのように思われるし、それにこの呼び名は、ただ神のみにふさわしいものであるように思われる。むしろ、「愛知者」(哲学者)とか、あるいは何かこれに類した名で呼ぶほうが、そういう人にはもっとふさわしく、ぴったりするし、適切な調子を伝えるだろう。(P.265)

と言います。ソクラテスにとって大切なのは「哲学的問答法(ディアレクティケー)」です。面と向かって話をすること、質問があれば、その場で聞き返せることが大切なのです。それは、聞く相手のためでもあり、話す自分(ソクラテス)のためでもありました。

さて、この本を書いたプラトンは「書くこと」についてどのように感じていたのでしょうか。プラトンを「哲学者」と呼んでいいのでしょうか。自分が「神」になるという「尊大」「不敬」「傲慢さ」を避けるために、あえて「哲学者」を自称することならあり得るでしょう。






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