日本語とテンの打ち方 岡崎洋三著 1988/12/10 晩聲社

句読点

句点は「。」、読点は「、」です。この本は、その読点の本です。

図書館から借りてきました。別にこの本を借りに行ったわけではないのですが、面白そうなので借りて読みました。こういう出会というのはネット書店ではないとおもいます(「おすすめ」は表示されますが、それとは違います)。著者については知りません。日本語教育学の人でしょうか。

テンの機能

著者は五つの機能を挙げます(P.109)

  • 伝達事項の分かち書き
  • 語句の強調
  • 言葉のかかり受けを明確にする
  • 時間的経過を盛り込む
  • 口調を整え、リズムをとる

強調の読点

私は最近文章を書くようになったばかりで、句点はある程度わかりますが、読点の打ち方がわかりません。むやみにたくさん打ってしまいます。わかってほしい気持ちが先行して、単語ひとつひとつに読点を打ちたくなってしまいます。この本で言う「強調の読点」です。「大切な単語」には「」をつけたり、〈〉をつけたりしていたのですが、それは普通の意味じゃなくて独特の意味ですよ〜ということを主張(強調)するためです。でも、誰かが「そういう嫌味な文章」と書いてあるのを見て、私自身もそう感じることに気が付きました。「独自の意味を表すなら、別の単語を使えよ〜」と思ってしまうのです。でも、そのために造語をしていたら、膨大な数の単語を作らなければいけないし、読む人に一つ一つ説明しなければなりません。それに私の中では、「その単語はその意味」だという気持ちもあるのです。そのうえ、私は日本の翻訳文化がもつ「非現実性」にも疑問があります。「自由・平等・平和・個人・社会・・・」というのは、いまでは日常的に使われますが、これらのイデア的な単語は実生活の中に見える根拠に乏しく、独り歩きしている感があります。「箒(ほうき)って何?」という問いと「平和って何?」という問いは違うと思うのです。生まれたときから「平和」という言葉は聞いて育っているので、「平和」はけっして不自然な言葉ではありません。ほとんどの人が何かしらのイメージを思い浮かべるでしょう。むしろ今の若い人の中には「箒」というものを見たことがない人も増えてきているのかもしれません。見たことのないものはイメージすることは難しいですよね。でも、「平和」を見たことがある人はいないはずですが。

「間」の読点

まあそんなこんなで、造語をせずにカッコを使っていたのです。それを控えようと思った時に、書く文章が読点だらけになりました。そこで「一息間を入れる」ことで、その単語に注意を向けようとしたのです。もちろん、「息の切れ目」「考える間」として雰囲気でつけていることも多かったのですが。

デザインの読点

この本で取り上げている「デザイン」は広告文です。私は広告文を書くことはありません。でも、意味は違いますが「ひらがなの連続」「漢字の連続」による読みにくさを避けるために読点を打つことも多いです。逆に、かなと漢字を使い分けることによって読点を避けることもありますが、それでは本末転倒ですね。

「かかる」「うける」を明確にする読点

この本に例としてあげられている文章の中には、どの単語(文節)がどの単語(文節)にかかるのかが不明なものが多くあります。

「美しい水車小屋の娘」(P.47)

という文章は、「〔美しい水車小屋〕の娘」とも「美しい〔水車小屋の娘〕」ともとることができます。この「かかる」「受ける」の関係を明確にするための読点です。ただ、これは読点ではなくて語順を変えることによって解決します。

「水車小屋の美しい娘」

とすればいいのです。

論理的な文章

著者は、「読点の打ち方」を明確にしているのではありません。たしかに、膨大な例文の中には明らかに読点が「おかしい」ものは多くあります。それを指摘することに関して著者は躊躇しません。そして大切なことは「論理的明晰さ」だと強調します。

達意の文章というのは、書き手から見て自分の表現したいことが十分に表現されている文章であり、読み手から見てその文章の書き手が何を言いたいのかよく分かる文章のことである。これは書き手の努力次第でかなり可能なことなのではないのか。学習と工夫と訓練で手に入れることのできるものではないだろうか。(P.181)

そして、教育が重要だと指摘します。

小学校なりの教育現場において読点の打ち方や日本語の語順についての適切な教育がないから子どもたちの作文がダメなのではないのか、と。(P.180-181)

私は「学校教育」と言われると、反発したくなります。別に学校でいじめられたとか、不登校だったというわけではないのですが、ズル休みをしたいけどできない生徒でした(就職してからも、できるだけズル休みしていました)。

私は小学校で英語を教えるなんて!!と言っていたのですが、すでに教えているようです。そして今度はコンピュータープログラムです。「読み書きそろばん」の延長、と言われるとそのとおりなのですが。私には、それこそが問題なのです。

英語(米語ですけど)を始めとするインド=ヨーロッパ語を学ぶことで、視野が広がるのであればそれを否定するのは難しいです。読み書きそろばんも同じです。でも、広がるというのはそれ以外のものがあってのことです。それで日本語が持っている特色が無くなっていくのなら、「置き換え」が生じただけで「広がった」ことにはなりません。読み書きを習うことによって、話し言葉が持つ豊かさが失われてしまってはいけないと思うのです。

冒頭に書いたイデア的語彙の一つが「論理」です。「日本語は論理的でない」と言われることもありますが、論理(ロゴスλόγος)ってなんでしょうか。それをあたかも「人類共通なもの」「人間が人間たるゆえんのもの」のように言う人もいますが、それではなぜ日本に「論理」という言葉がなかったのでしょうか。日本語(大和言葉)には「理(ことわり)」という言葉はありましたが、それでは表せなかったのだろうと思います。それでは「ロゴス」とはどんな意味だったのか。著者(哲学者)によってさまざまな意味で使われているようです。有名な『ヨハネによる福音書』は、「言(葉)」と訳されています(「初めに言葉ありき」)。Wikipediaには多くの訳語が載っていますが、私はこの言葉という訳がロゴスの「一面」を表していると思っています。というのは、論理というのは印欧語の文法構造(主語=述語)そのものだと思うからです。それに対して日本語は「主語=述語」構造ではありません。

日本に漢字が伝わってから1,500年位経っているようです。シュメールの最古の文字は5,000年前くらいです。その文字が主語=述語構造、あるいは主体=客体構造と結びついて西欧文明は変化したと思います。声より文字が優先される文化が生まれました(韻文と散文)。日本では文字が声に優先する文化が生まれたのは近代以降だと思います(文語文と口語文)。そして現在でも日本では文字の言語と声の言語はかなり異なっているのですが、テレビや映画の影響でその2つは近づきつつあります。小学校から英語を覚えることは、そうでなければ体得することができる日本語の口語的な良さが失われることを加速する気がします。ほぼ完全な論理的言語であるプログラミング言語の習得は、さらに加速するでしょう。

日本における文字の文化、それは「公(おおやけ)」の文化であり、そこは「論理」で成り立っています。そこでは文章は論理的にならざるをえず、論理的であることを求められます。それは精々200年程度のことにすぎません。いま、わたしたちの文化において、過去は「乗り越えられた」「不完全な」「未成熟な」ものとして扱われます。私自身(老人)もそういった「過去」として扱われています。私にとって、それは幸福なものではありません。これから先(将来)、社会福祉がどれだけ進んだとしても、老人が乗り越えられた過去として扱われ、若者も乗り越えられるべきものとして存在されるのは変わらないでしょう。それがこの文化だからです。

日本語には文節の区切りや関係を表す記号は、句点と読点しかありません。大括弧、中括弧などは普通使いません。句読点以外に分節の関係を示す記号があれば、日本語の文章はもっと論理的になるかもしれません。「そうあるべき」だと考える人は、そんな事も考えてみてください。

私はそうは思いません。でも、これからも文章を書いていこうと思っているので、つまり、「書き手から見て自分の表現したいことが十分に表現され」るように書きたいと思うので、この本を参考にしたいと思っています。






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