日本語と外国語 鈴木孝夫著 1990/01/22 岩波新書、日本語教のすすめ 鈴木孝夫著 2009/10/20 新潮新書

日本語と外国語 鈴木孝夫著 1990/01/22 岩波新書、日本語教のすすめ 鈴木孝夫著 2009/10/20 新潮新書

虹は七色?

私は小さい頃から、虹が七色に見えませんでした。記憶力が極端に弱い私はその七色を憶えることは出来なかったし(今でも言えない)、憶えようと思っても虹は短時間で消えてしまうし、その間に「ここからここまでは赤、ここからここまでは橙色」とかを「識別」出来なかったのです。それが出来る人を羨ましいと思っていました。

鈴木氏の著作を読んで、虹の色の数は言語(国、文化)によって「違う」ことを知りました。その他にも、リンゴの色、イギリス人にとっての靴(素足)の意味の違いなど、文化人類学的にも面白い話題が満載の本です。

本書について

『日本語と外国語』が出版されたのが1990年、『日本語教のすすめ』が出版されたのは2009年ですから、19年の時間的差がありその間に著者の研究も深まっているでしょうが、基本的内容は同じです。

著者の専攻はWikipediaによれば「言語社会学」で、文化と言語の関係を専門にしています。

私が著者に感心するのは、その研究内容はもとより、そのネーミングセンスです。「テレビ型言語・ラジオ型言語」、「テニス型・スカッシュ型」、「日本海の半透膜効果」など自分の学説をとても巧く表現しています。

「日本語教」もその一つですが、これは「日本語至上主義」でも「日本至上主義」でもありません。そういった面が「全然ない」とは断言できませんが、その真意は、

日本語の国際普及は文化侵略でも日本語帝国主義でもなく、日本が栄える今日を迎えることの出来たことへの感謝の気持、心からのお礼の表現なのです。(『日本語教のすすめ』、以下同書からの引用は「す」と表記。P.241)

しかし言語学者である私はむしろ明治以来日本の識者が信じ込まされてきた〈日本語は遅れた不完全な言語である〉とする見方そのものが、今ではまったく学問的な根拠を失った〈西欧の諸言語こそが人類言語の究極的な発展段階を示している〉という、主として十九世紀後半に西欧の人々によって唱えられた社会進化論的言語観に基づく偏見でしかなかったことを指摘したい。人間の言語はどんなに姿かたちが異なっても、そこに価値の上下はなく、基本的な表現力にも全く相違がないということは、世界の諸言語の実態が次々と明らかにされた今では言語学の常識となっている。(す、P.249-250)

人称

日本語が「論理的に劣っている」ということの一つの根拠とされているのが「主語」の不在です(主語を主格、あるいは話題提起語などと言い換えても同じです)。この主語の不在は、文法論の本質に関わるもので、さらには言語の本質までも問われることです。

日本には言語学(国学)の長い歴史があり、明治維新以降も西欧的な言語学(あるいは英語)を普及させようとする勢力と、それに反対し、日本語の独自性を主張する学者の伝統があります。

主語は述語(動作)を行う人や物ですから、物や動物が主語なることもありますが、もっとも重要な主語は人間であり、品詞としては固有名詞と人称代名詞です。学校で習う人称は一人称としての「私・私たち」、二人称は「あなた・あなたたち」、三人称「彼・彼女・それ・彼ら・彼女ら・それら」です。それぞれ英語の「I, we, you, he, she, it, they」に当たるとされるわけです。でも、日本語での一人称と言われるものは「俺、僕、あたい、みども、拙者」など沢山あります。これは、「日本語には人称代名詞が多い」ということなのでしょうか。

しかし私の研究によるとこのように記述することは全くの間違いで日本語には西洋に見られるような人称代名詞は数が多いどころか、むしろ存在しないと言うべきなのです。(す、P.174)

また、日本語で「私、あなた」などというのは比較的まれです。子供は親のことを「おとうさん・おかあさん」と呼び、親は子供のことを名前で呼ぶのが一般的なのではないでしょうか。親も自分のことを「おとうさんはね、おかあさんはね」と呼んだりするし、子供も自分のことを名前で呼ぶことも多いでしょう。

ただそのとき自分と相手との関係を、どのような角度から眺めてそれをどう表現するのかの仕方が言語によって全く異なるのです。(す、P.174)

だから動詞の語尾変化で人称を示せるような言語、例えばラテン語やスペイン語などでは特に強調する場合以外は人称代名詞を使いません。そして日本語のような言語では人称代名詞なるものがそもそも存在しないのです。(す、P.175)

なぜそうなのか。

つまり日本語ではヨーロッパ語とは違って直接話しの相手を言葉で指すことを極力さけて、その人の社会的地位、自分との家族関係、そしてその人のいる場所や方角をいうことで、間接的に相手だということを示すのです。相手との関係はむき出しの直接的なものより、やんわりとした間接性のあるほうがよいというこの感覚は、古い日本の作法で人と話をするとき相手の顔を真正面から見据えることは無作法であり、また相手の目を直視しつづけることは避けるべきだとしていることにも窺えます。(す、P.180-181)

「かのじょぉ、お茶しない?」と女の子を誘い、タクシーの運転手が「かれ、学生さん?」と話しかけるのは、正しい日本語なのです(笑)。

言い方を変えれば、日本語は「主体として話をしない文化」です。「I love you」とか「We are the world」とか、さかんに一人称を使う文化ではありません。選挙演説での「わたくしはぁ〜」やアジテーションの「われわれはぁ〜」という言葉に違和感を感じるのは当然だとも言えます。

この日本語における人称の問題は、著者の『ことばと文化』(1973年、岩波新書)で初めて明らかにされたものです。

日本人の外国語学習

日本語の研究は、漢字(漢文)の輸入に伴って、漢文(漢字)を日本語として読むことから始まったようです。漢文や日本人が書いた漢字の文章(万葉仮名を含む)などを「日本語として」読むという(例えば読み下し文)一種の翻訳にあたって、日本語と中国語の違いが明らかになり、それが日本語の特殊性をあぶり出します。中国語という外国語をその「オト」ではなく「意味」で解読するのが日本の外国文化の輸入方法となりました。

その結果として日本人の中国語能力は書かれた原典を解読し解釈することが主となり、相手と会話し自分から中国語の文章を書いて中国人に読ませるといった実際的な運用面はあまり発達しませんでした(この、会話力を問題にせずもっぱら外国語の文献を読解することを通して、異国の文物を理解し取り入れるという変則的な外国語学習の形は、明治維新に始まる英語を中心とする欧米語教育でも殆どそっくり繰り返されました。そのわけは、日本の近代化〈西洋化〉もまさに古代における日本の中国化と同じく、他のアジア諸国のように外国によって直接征服占領された結果生じたものではないからです)。(す、P.26)

そして、古代ギリシャ語や古い昔の漢文などの「死語」を学ぶということは、

つまり死語を学ぶ意味は専らそこから自分たちの役に立つ情報や知的情操的な刺激や喜びを引き出すためなのであって、相手のことなどまったく考えずに済む、文字通り相手不在の一方的な外国語学習と言えます。

実は日本人の外国語学習というものは昔から一貫して、本当にはちゃんと生きている人々が使っている外国語を、まるで死語のように見做して学んできたという相手不在の一方的な学習だったのです。(す、P.221-222)

ですから通例どの国でも実際の必要から学ばれる外国語は、外国人と日々直接に接触交流する庶民のレベルでも広く習得されるものですが、日本の場合は常に社会の上層部に属する人たちだけが外国語を学問として学び、庶民は外国語とまったく無縁だったことも、まさに外国語が古典語のように学ばれたことを示しているのです。(す、P.222)

音読みと訓読み

漢字の「音」は中国語の発音です(これは時代や地域によって異なります)。でも、漢字そのものは表意文字ですから、それ自体が意味を持ちます。その意味を元々の日本語(大和言葉というのでしょうか)として発音するのが「訓」です。例えば「高所恐怖症」は「こうしょきょうふしょう」という発音が出来るか、意味を知っているかとは別に、「たかい、ところ、おそれる、やまい」という漢字の意味を知っていれば、なんとなく意味が判ってしまいます。「acrophobia」という英語は、たとえ発音ができたとしてもすぐに意味にはつながりません。著者は、日本語は「音素数が少ない」ので「同音異義語」が多くなる、そこで漢字の持つ視覚的意味の助けを借りているという「テレビ型言語」だと言います。

別の言い方をすれば、現在の日本語は、文字表記を考えに入れない音声だけでは、もはや一人立ちできないタイプの言語になっているのである。(『日本語と外国語』、以下同書からの引用は「外」と表記。P.195)

私は、どうも著者が明治以降の日本語、それも標準語を頭に置いているように思えてなりません。方言を含めると音素数は多いし、そもそも音素数とは文化の中で話しての発音と聞き手の認識能力で決まってくるもので、いくらでも変わりうるものです。まさか著者は日本人が体質的に少ない音素しか発声できない、少ない音素数しか聞き分けられないと思っているわけではないでしょう。

漢字の音訓読みには、著者の言うような利点があると思います。また私自身、音声を聞いて頭に漢字を思い浮かべることも多い。そして、テレビではついテロップに目が行ってしまいます。飾りや動きのあるテロップで笑ってしまうこともとても多いのです。そういう意味で今の日本語は「文字表記に依存している言語」です。

でも、文字を前提にする言語はもはや自然言語ではありませんし、文字を覚える前に子どもたちは日本語を話すのです。戦前、あるいは明治以前は識字率は低かったと思います。ですから、文字依存を日本語の特徴というのは一面的な見方だと思います。

「書かれた文章の言語学」は、「言葉と文字は同じ」という幻想を生みます。「文字とは何か」という認識があれば、明治以降に日本の文化がどう変わったか、今も変わりつつあるのかという視点が生まれると思うのです。

日本語が「文字表記に依存している言語」だとしても、日本人がメモ帳を手放さずに生活しているわけではありません。著者の言語学は「目の言語学」であり、言い方はよくありませんが「健常者の言語学」のように思えます。

文化と言葉

いつも思うことだが、人間の目や耳は、カメラやテープレコーダーとは違い、自分の持つ固有の文化で、与えられた生の情報の一部を消去したり、自分に都合のよいように曲げて解釈する強い傾向を持っているので、新しいことに、私たちななかなか気付かない。(外、P.39-40)

別のことばで言うと、何と何は同じで、これとあれは違うという同一性の認識に見られるしくみの相違である。(外、P.3)

このように自分の言語に内在する対象認識のしくみを、なんとなく普遍的なものと思って、それを他の言語にも期待してしまうということを避けることは、なかなか難しい。(外、P.50)

文化が言語を規定するとも言えるし、言語が文化を規定するとも言えます(単語のしくみが文法(統語法)に影響を与えるし、その逆も言えます)。風土が文化と言語を決定します。少なくとも、ないもの(必要ないもの)の言葉はありません(そしてどの言語にも生活のために必要な機能が必ずあります。また、言語は文化の一部ですから、言語外のものが多くを補完します)。牛がいないところに牛に関する言葉や文化はありません。どこからどこまでを「赤」だと言うかはその文化が必要とする範囲で定められ、「赤」に関する認識もその文化が規定します(もちろん個性や個人の経験・感情・気分にも左右されます)。

あるもの、例えば「猫」という現実(実在)を「ねこ」と呼ぶことには、すでに概念化・一般化・抽象化・観念化が生じています。言語はつねに個物・具体から離れる傾向があるのです。その言語に「意味」を与えるとともに個物・具体としての現実(実在)から決定的に離れることを抑制しているのが文化だと思います。

それを決定的な分離にしたのが「文字」、つまり「文明」なのではないでしょうか。言葉は個物から独立して、個別の猫の他に「猫というイデア」を想定するようになります。このイデアに基づいて、具体的な「この猫」と「あの猫」の同一性が語られるようになります。この過程がソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学の流れであり、その後の西欧の科学なのではないでしょうか。

ところが今ではどこの国でも、教育が普及するにつれて、いわゆる科学的な思考と呼ばれる、世界を一元的に整理して考えるものの見方が強くなった。(外、P.24)

猫というイデアの仮定は、同じイデアを「猫」と言ったり「cat」と言ったりするのは言語の「表現方法の違い」だという幻想を生むのです。あるもの・こと、あるいは感情(つまりイデアのようなもの)があって、それを表現するのが言語だとすれば、そこに普遍文法が存在するという仮定になります。

「言語」を考察の「対象」にするということ、あるいは「猫」や「赤」や「神」を考察の「対象物」とすることは、自分(ego)つまり考察する主体(主語)を設定するということです(「我思う故に我あり」)。言葉を対象化するためには、言葉を外的存在、つまり「文字」化(見える化、物質化)することが必要です。言語学のフィールドワークでは、聞き取りや録音を素に「ことば」を発音記号に置き換えることから始めます。それが「言語を対象化」したことであり、それを基に「対象を認識(把握)」し研究することが可能になります(最近の言葉で言えば「データ化する」ということです)。この事によって、どんどん変わっていく存在(実在)を固定し、「同一化」が可能になります。あとは時間をかけて考察すればいいのです。文献(万能)主義が可能なのはここに根拠があります。

でも書かれた(描かれた)猫は「猫(という存在・実在)」でしょうか。違いますね。猫という存在(実在)を捉えるためには、対象を分析・分類し、記述を重ねていかなければなりません。学問はどんどん細分化していきます。その前提にあるのは、細分化した記述のトータルが存在(実在)である(近づく)という考え方です。「全体は部分の集合」あるいは「全体は部分に分けることが出来る」という考え方、いわゆる「還元主義[wiki(JP)]」です。

これは原因と結果を分離することが出来るという因果論でもあります。原因としての機構を作れば結果としての作用が発生する(たとえば、歯車を作れば時計が出来る、エンジンを設計すればロケットが出来る、などの考えですが、実際にはどんなに精密に設計し、設計どおりに作っても、失敗することがあります)という考えです。また、「生存に有利だから生き残った」といった「効用説」もここから生まれます。西洋の弱肉強食主義や啓蒙主義、植民地主義も同じ思考です。

どんなに可愛いアイドルがいたとしても、彼女の写真集やCDやDVDをどんなに持っていたとしても、彼女の生年月日や生い立ちなどの情報(データ)をいくらゲットしたとしても、ライブ会場に実際に行くのとは全然違います。さらに「握手会」なるもので、マイクやスピーカを通さずに彼女の肉声を聴いて握手をするのは全然違います。そして、アイドルよりも学校の同級生や職場の同僚などはもっと「存在(実在)」に近いのではないでしょうか。実在は情報(データ)ではないし、視覚だけで捉えられるものでもないからです。

ただし、その同級生や同僚をどう見ることが出来るかは重要です。彼女たちをアイドルと同じように「対象」と見てみてしまっては、彼女たちは「他者」として、優劣を付け、コントロールし、支配し、所有することでしかその実在に触れることができなくなります。

他者を対象として見ない、つまり、自己を主体として設定しない文化。私は失われつつある日本語の特徴と可能性がそこにあると思います。

文化の変化

人間は何時何処でも自分の母語が区別し名を与えている世界だけが、正しいものと思うように出来ているので、この母語の絶大な制約から解放されることはなかなか簡単にはできないのです。(す、P.95-96)

「困難」と言うよりは「不可能」に近い気がします。それは文化なしに生きることが可能だと言うに等しいことだからです。

イリイチは「ヴァナキュラーな話しことば」と「教えられた母語」を区別しています。そして「<割り当てられた>性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。」(『ジェンダー』岩波現代選書、P.171)と言います。私にはその真意を理解するのは難しいのですが、イリイチは様々な文化、例えばラテンアメリカの国での生活の中で、地域で話されている言葉と、子どもたちが学校で教えられる言葉との違いが念頭にあるのではないかと思います。日本でも、失われつつある方言(や伝承)と学校で教えられる「標準語」があります。学校で教えられる日本語は、「そもそもヨーロッパ語を研究対象として発達した欧米の言語学」(外、P.203)に基づく、ある意味で「つくられた日本語」であり、さらに英語の義務教育化とテレビに代表されるマスメディアの普及は日本語を「一元化」するだけでなく、人々の思考を「西欧化」しています。

私が生きてきた半世紀強でも、日本の文化はどんどん変化し、どんどん忘れられています。戦後80年近く経ち、従軍慰安婦や強制連行(強制労働)、南京大虐殺などの事実を知る人は殆どいなくなりました(私が幼い頃には身近にいたのです)。着物が着られなくなって、ふんどしやお腰を知る人も減りました。女性がブラなどの下着をつけるのは最近のことです。「生理の貧困」が話題になりましたが、タンポンやナプキンがない頃に女性が生理時にどうしていたのか、私の母に聞いても明確な答えは得られませんでした。

いまの日本では女性の乳房はみだりに他人に見せるべき身体部位ではない、いやそれどころか性的な意味合いの強い恥部つまり催淫帯(erogenic zone)の一つとされ、週刊誌などでは大きな乳房を誇示する写真や「巨乳」などという言葉がよく見られますが、実はこのような乳房に対する感覚は戦後アメリカ文化の影響によって生まれた非常に歴史の新しいものなのです。(す、P.109)

ところが日本が米国との戦争に負け、国内にどっとアメリカの風俗や文化が流れ込み始めると、戦前の日本では絶対にしてはいけないこと、例えば歩きながらものを食べることなどがあっと言う間に当たり前となり、そこここでアメリカ人のようにソフトクリームを舐めチューインガムを噛みながら歩く人の姿が普通に見られるようになったのです。そしてその反面、昔から何も問題とされなかった伝統的な風俗や習慣が、基本的には欧米的でないという理由で様々なもっともらしい理屈をつけられて姿を消していったのです。女性が外出時に幼児を背中におんぶする習慣などもその一つです。

伝統的な日本の文化では女性の胸や大きな乳房を性的な意味で称揚することはありませんでした。その一つの理由は着物を着るとき胸が大きいと帯が巧く締められないことがあったようです。ですから乳が大きすぎるときは晒を体に巻いて体型を整える必要までありました。ところが戦後の日本人の目には、体の線を大胆に強調するアメリカ女性のスタイルが新鮮に映り、同時に乳房の形が良くて大きいことが称揚され始めました。それどころか乳房が性的含意を持つ身体部位、つまり催淫帯であるという西洋式の見方まで取り入れられたのです。この新しい傾向はそれまでの日本には存在しなかったブラジャーという女性専用の下着の登場へとつながりました。乳房の形を整え大きく見せることが目的のこの新しい下着はまたたく間に拡がり、今ではその必要のない小さな子供まで着けるのが当たり前となっているほどです。(す、P.110-111)

私が小さい頃には、電車やバスでお母さんが赤ちゃんにおっぱいを飲ませる姿がよく見られました。いまでは、哺乳瓶でミルクを飲ませる姿もあまり見かけません。赤ちゃんと一緒に公共交通機関に乗ることそのものが心理的に難しくなっているのでしょう。

子供をどうおぶるか、子供にどうお乳を飲ませるか、などもヴァナキュラーなものです。男が女性のおっぱいをどう見るか、女性自身がどう感じるかも文化です。それを「巨乳」「貧乳」と区別するのも文化です。でも、その文化はおっぱいを「外的なもの」「対象」として見る文化です。その文化では(イリイチの言い方を借りれば)ジェンダーがセックスに解消してしまっています。

「男女平等」ならぬ「ジェンダー平等」なる言葉がマスコミを賑わせています。「ジェンダー同士のあいだの対照的補完性は、非対称的であると同時に両義的である。」(イリイチ、前掲書、P.157)私は、「ジェンダー平等」というのは「犬と猫と牛とミシンとこうもり傘が平等」というのと同じだと思います。

The complementary between genders is both asymmetric and ambiguous. (Ivan Illich, "GENDER" Open Forum MARION BOYARS London, 1983, P.75)

ヨーロッパの言語、アメリカの文化が普遍なのではなく、ヨーロッパも日本も、いやすべての国の言語や文化も無理なく扱え、それぞれに所を与えることの出来る学問的枠組こそが、人類普遍(universal)の名に値するものだということを、私たち日本人が真剣に考えるべき時が来ているのである。(外、P.203)

「学問」「人類」「普遍」という枠組みがそもそも西欧的なものです。人類(人間)普遍というものをかんがえるためには「人類(人間)」というものを「規定(概念化)」しなければなりません。それは「西洋人」であったり「白人」であったり、「男」であったり「大人」であったり、「ゲルマン人(民族)」であったりします。

ヒトラーの悲劇は「対象化」の悲劇です。そしてそれは日本人にも近づいています。普遍を求めるのではなく、「特殊性に対する認識を深める必要がある」(外、P.241)と思うからこそ、著者の本を読んでもらいたいと私は切に思います。






[著者等]

鈴木/孝夫
1926(大正15)年、東京生まれ。慶応義塾大学文学部英文科卒。慶応義塾大学名誉教授。専攻は言語社会学

辞書を頼りに小説や文献を読んでいるだけでは,他国や他民族の理解は難しいのではないか.六色の虹,黄色い太陽,恥部としての足など,興味深い例をあげながら,国による文化の違いを語るとともに,漢字の知られざる働きに光を当てて日本語の長所をも浮き彫りにする.真の国際理解を進める上で必読の,ことばについてのユニークな考察.

「日本語は英語に比べて未熟で非論理的な劣等言語である」―こんな自虐的な意見に耳を傾けてはいけない。われらが母語、日本語は世界に誇る大言語なのだ。「日本語はテレビ型言語」「人称の本質とは何か」「天狗の鼻を“長い”ではなく“高い”と表現する理由」等々、言語社会学の巨匠が半世紀にわたる研究の成果を惜しげもなく披露。読むほどに、その知られざる奥深さ、面白さが伝わってくる究極の日本語講座。



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