日本語は亡びない 金谷武洋著 2010/03/10 ちくま新書、日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論 金谷武洋著 2010/09/20 光文社新書

日本語は亡びない 金谷武洋著 2010/03/10 ちくま新書、日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論 金谷武洋著 2010/09/20 光文社新書

『鉄腕アトム』と『ジャングル大帝』

私は元々は理科系科目が大好きでした。「1足す1は2である」「三角形の内角の和は180度である」「物質は分子でできていて、分子は原子で構成されている」・・・。それらは誰に否定されることもなく、どうやら世界中で通用するらしい。「世界」なんか見たことないけど。

それに比べて、国語や社会は答えが曖昧だし、暗記ばかりだし(私は記憶力が貧弱だった)、面白くありませんでした。

私が育ったのは日本の高度成長期です。科学万能主義、「未来」は科学で光り輝いていました。私の頭の中には「鉄腕アトム」が「いた」のです。当然私は科学者になろうと思っていました。運動が苦手だった私は、アトムにはなれなくても「お茶の水博士」にはなれるだろうと思っていました(笑)。

ところが、「たまたま」好きになった(片思いだった)女の子が文系だったので、私は文系に変わりました(汗)。それが私のそれまでの人生を否定する出来事だったのに気がつくのは「半世紀後」です(汗、汗)。

大好きだった『鉄腕アトム』の著者、手塚治虫の『ジャングル大帝』が放送されました。とても面白かった。それは「科学万能主義」とは真逆と言ってもいい作品です。そして「非ユークリッド幾何学」という言葉(内容はわからないけど)を知ったことで、どうやら「三角形の内角の和は180度」だとは限らないことを知りました。それでも「1足す1は2である」「物質は分子でできている」ということは否定しようがありませんでした。

ゆる言語学ラジオ[Wiki]

「言語学」などという文系科目の最たるものには、まったく興味がありませんでした。退職してから手持ち無沙汰にたまたま見たのが YouTubeの『ゆる言語学ラジオ』です。水野太貴さんと堀元見さんの話がとても面白く、引き込まれました。番組は2021年3月から放送されているのですが、私が観始めたのは半年後くらいでしょうか。どうして観始めたのかは覚えていません。「たまたま」だと思います。

水野さんは「辞書おたく」のゴリゴリの文系人間ですが、「知るということ(知識)」に対する情熱にあふれていて、とてもシンパシーを感じるのです。「知識量・記憶力」は彼の足元にもおよびませんが。「ヲタク」の大先輩として、彼を応援したい気持ちが湧いてきます。堀元さんは情報系の人で、思考方法が昔の私に似ています。私はいまでもコンピューター・プログラミングを楽しんでいますが、考えていることをコンピューターに指示する、正しく指示できれば思い通りに動き、思い通りの結果を示してくれるのは快感です。もちろんそれに至ることは簡単ではありませんが、その苦労そのもの(知識獲得と論理的思考)が楽しいのです。

二人とも笑いのセンスが抜群です。私が感じたのは、二人とも知識を「見せびらかしたい」と思っていることです。私は「クイズ番組」が大好きです。他の人より何かを「知っている」ということが快感なのです。「うんちくエウレーカクイズ」なんて、私の趣味にぴったりです。

現在約19万人のチャンネル登録者数を持つ同番組ですが、当初は多分二人にはこんなに有名になるという思いはなかったようで、「自分の趣味を好き放題話したい」程度のことだったと思います。

学説には「定説」と言われるものを含めて無数にあります。番組の中で取り上げられた三上章の『象は鼻が長い』やこの本の著者の『日本語に主語はいらない』などは、いまの文科省の方針に逆らうもので、当然反論も多いわけです。水野さんもそんな事は当然知っているわけだし、自分の知識が「無謬・完璧」だなどとは思っていなかったでしょう。もし、自分の知識が「無謬・完璧」であれば、悟りの境地に達したもののように、より知識を得ようなどとは思わないでしょう。そして、それをひけらかす必要もありません。「そうじゃない」と思っているから、不安だから、人に話したいのです。だからこそ、いろんな意見(学説)があることを知りながらも、自分が思っていることを「好き放題」話すのがコンセプトだったのではないでしょうか。

ところが登録者数が増えて、自分たちの番組が「影響力」を持つかもしれないと感じた時に、「(アカデミックな意味での)誤謬がある」と言われることが怖くなったんじゃないかと思います。だから「謝り」始めました。「厳密な検証は行っておりません。内容には諸説あります。ご了承の上お聴きください」という「ことわり」が毎回番組の最後にありますが、「ここが違いました」という「お詫び」が現れたのです。たぶん、それは本人たちが「間違っている」と納得したもので、「考えかたの違い」ではない部分なのでしょう。でも、すべてを知っているわけじゃない以上、当然そういう事はあるわけです。A(言語学)のうちのaa(統語論)のアという分野の・・・〇〇という学者のXXという著作・・・、すべてを知ることも、読むことも不可能です。

それに、たとえば生成文法に興味があったとします。その関係の本を多く読んでいると、どうしても「生成文法」が世間(学会ではなく)でどのように評価されているのか、「正しい」ものなのか、等が見えにくくなります。「評価に関係なく正しい」「正しいことも間違っていることもあるけど、好き」というようなバイアスが掛かってしまうのです。

多分番組開始時点から、事前検証はしっかりやっているし、水野さん自身が勉強してきたことという素地もあります。その後、言語学者が監修的な役割を果たしたり、出演したりしています。「アカデミック」というのとは違うのかもしれないけど、当初の「好き放題」というのは違っちゃってきている気がします。

金谷武洋氏が、「何を」言っているのかは、『ゆる言語学ラジオ』でほぼ紹介されていたので、細かい内容には触れません。ぜひ本書を読んでいただきたいし、『ゆる言語学ラジオ』も観てください。

日本語をきちんと話せるか

『日本語は亡びない』にでてくる首相は3人。安倍晋三、福田康夫、麻生太郎です。それぞれ思い出深いですが、言葉で言えばやっぱり麻生太郎の印象が強いです。風貌も交えて「土建屋のおっさん」という感じですね。でも、文章を読むのは下手だったけど、それ以外は性格が率直に出ている感じでした。どうして日本の政治家や官僚は文章を丸読みするんでしょうか。そこ(文章の内容)には彼(彼女)自身はいないと思っちゃいます。いくらでも代わりがきく「役としての地位」を演出しているんでしょうね。有名人、地位のある人はそれだけで批判されます。ましてや読み間違いなんか、格好の標的ですね。でも、批判しているのは「麻生太郎」という個人ではなくて「総理大臣」という「立場」ということでしょう。

じゃあ私自身はどうかというと、「正しい日本語」を話しているという自身はありません。漢字の読み間違いはしょっちゅうだし、新しい(聞いたこともない)カタカナ語を読むなら、必ず噛むでしょう(最近のニュースでは嫌に多い)。「敬語」は特に苦手意識がありますね。小中学校で習った記憶もありません。

『日本語は敬語があって主語がない』の帯に、

客に部屋の場所を聞かれたホテルのフロント係が、

「では、お教えします」。

敬語として○かXか?

とあるのですが、即答できますか。私は出来ませんでした。そして意地悪なことに帯には答えがありません。買って本文を読めというわけです。初版発行時(2010年)の定価は「740円+税」。当時の税率は5%。いまは古本屋で税込み110円か220円で売ってますので、ぜひ買ってください。

私は先日手術をして、退院したばかりです。さすがに入院中はそれほど気にならなかったのですが、通院しているときの看護師(あるいは医師)の言葉が気になります。とっても丁寧なのです。「お名前伺ってもよろしいですか」「体温を測ってもよろしいですか」「血圧を測ってもよろしいですか」「レントゲン室に行っていただいてもよろしいですか」・・。「嫌だ」と言ったら、「帰っていただいてよろしいですか」と言われるのでしょうか。こっちは具合が悪くてきているんですから、なんとしても診療してもらいたいのです。まあ、患者が同意をしていれば医療訴訟にはならないということなんでしょうが、なんか変だと私は思います。

ちゃんと敬語を使う自信がないと、人前で話をするのが嫌になりますよね。仕事でも会社の飲み会でもどう話していいかが分からなくなります。気の置けない友人だけならいいんでしょうが。この間始めて『餃子の王将』に行きました。燗の紹興酒を頼んだのですが、それを持ってきたのは高校生のアルバイトと思しき女の子です。とても熱そうだったので、「熱そうだね」と言ったら「マジで熱いです」と友達に話すように言いました。それまではとても丁寧でマニュアル通りの話し方だったので、おじさんとしては女子高生と心が触れ合った雰囲気があってとても嬉しかったのですが(笑)、真面目そうな女の子だったので、後で反省したかもしれません。

学校文法

学校で日本語の文法(学校文法)を習った記憶はないのですが、五段活用とか上一段活用とかの言葉は知っています(意味は忘れました)。でも、文法と言えば中学校で英語の文法を習いました。SVO、自動詞・他動詞などです。そして高校の古文で「動詞の活用表」を習った記憶があります。だから、日本語文法はその英文法や古典の文法から類推していた気がします。

ですから、自分が話している日本語をそれ(英語)に近づけようと考えていました。誰の動作なのか(主語)を明確にすることで、「論理的に正しい」言葉にしようとしていたのです。「日本語に主語がない」なんて話は「間違って」いて、「主語は省略されている」とか「主語は文の末尾に含まれている」といった解釈を信じていました。そういった意味で「日本語は論理的な言語じゃない」と思っていたのです。

著者が学校文法の三大誤謬としてあげているのは

1.日本語に「主語」はいらない

2.平仮名分析に固執する不思議

3.誤解されている日本語の自/他動詞の対立

です。

日本語に「主語」はいらない

三上は日本語に「主題」はあると言った。あるどころか、日本語にとって極めて大切な概念であり、それの標識が「ハ」であると言う。次に「主格」もあるとした。これは格助詞の「ガ」が目印である。しかし、主格て表される語はあくまでも「補語」であり、主格補語は文の成立に不可欠な要素ではない。したがって、結論は明らかだ。日本語の構文説明には「主語」は不要なのである。主語というサングラスをとって日本語を見直すと、「ハとガの違い」などという問題も出てこないし、日本語の基本文は述語一本立てとなって実にすっきりする。つまり名詞文(例:好きだ)・動詞文(例:笑った)・形容詞文(例:楽しい)と三種類しかなくなる。それに対して、英語は主語・述語の二本立てであるが、これは「主語がないと動詞の形が決められない」(人称変化)という英語など多くの西洋語の「特殊事情」によるものだ。(『日本語は亡びない』以下「亡」と表示、P.86)

学校で勉強した「SVO」などは、「現代」英文法を普遍的なものだとする勘違いです。

平仮名分析に固執する不思議

教科書に載っている日本語の活用表は(古文も含めて)平仮名表記です。「五段活用」とか「上一段活用」とかというやつです。

「飲む」の語幹は「の」ではなく「Nom-」というべきだ。一般言語学ではマルチネの提唱した「二重分節」が大原則で、ヒトの言語と動物の鳴き声の違いがこの「二重分節」なのだ。(亡、P.92)

学校文法を「非科学的」(亡、P.93)と断罪しています。

誤解されている日本語の自/他動詞の対立

構造主義とは何か。それは当時知的巨人と目されたサルトルの実存主義が「個人の能動的な主体性」を当然のこととして、集団の連なり、あるいは「場」から切り離された自由に重きをおいたのに対する挑戦であった。私はレヴィ=ストロースの講演を三〇年程前に聞いたことがあるが、そこで彼が強調していたことは、意識的な言語現象から無意識的な「構造」研究へのシフトであり、また実態(モノ)ではなく、関係(コト)を分析の基礎とすること、その上での一般法則の発見であった。それが彼の提唱した「構造主義」なのだが、これは日本語の自/他動詞対立に見事に適用でき、そして「一般法則」を発見できると思う。(亡、P.96)

自/他動詞はちょっと混乱しました。格助詞(いわゆる「てにおは」)とか助動詞(「です・ます」など)とか、学生時代、私はなんかスッキリしなかったけど、試験のためだけに憶えたので、前記の通り忘れました。

まあ、ポイントは「ある」と「する(古語では「す」)」です。例えば「回す(Mawa-Su)」は他動詞、「回る(Maw-ARU)」は自動詞、といった具合です。

「ある」と「する」

「する」は人為的な行為です。「ある」は自然、あるいは人為が及ばない状態です。

日本人の、動物に対する植物志向とは、「する」動物よりも「ある」植物を上位におく世界観であり、その上位に人をおく表現が、とりもなおさず主体尊敬なのです。」(『日本語は敬語があって主語がない』以下「敬」と表示、P.177)

つまり、人為に対する自然の優位という根強い世界観が日本人にはあり、それを対人関係において「見立てる」のです。この見立てにおいて、その人は、自然界に「ある」、しかも人為を超越する力を帯びた存在として言語化されるーーこれが敬語です。」(敬、P.176)

英語における「自/他動詞」「能動/受動」の区別が、日本人の「自然優先思考」によって、日本語の「ある/する」となり、それが日本語に特徴的な「敬語」となるわけです。これに「こそあど」を加えると、

つまり、話者である自分を弱者に見立てるのです。その典型的なイメージが「古池」に対峙する「蛙」です。「こそあど」の「こ」の世界の行為が「客体尊敬」となり、表現には動詞の「する」が主に使われます。「話題の人」あるいは〈聞き手〉を、あたかも遠く離れた「あそこにある」自然と見立てて、これを持ち上げて上位におきます。その位置関係において、地上に「ここにいる」者が何か忙しなくも儚い行為に及ぶ、それが「客体尊敬」の原理にほかなりません。」(敬、P.177)

うまく理解できれば、日本語、あるいは日本文化が見通し良くなります。

ChatGPT

先月、子供が帰省してきた時に「ChatGPT」を使って見せてくれました。面白いですね。プログラムを入れると、その解説や修正までやってくれます。すごいです。

私はGoogle検索をよく使います。それは「答え」を教えてくれます。今「ChatGPT」で検索したら「約 796,000,000 件 (0.31秒)」と表示されました。でも、見るのは最初の1ページ、それも2,3件です。ですから、その「代表的な」意味や説明だけをみんなが信じるんじゃないかというのが心配です。それでもその結果が満足できないものであれば、さらに検索することは出来ます。ChatGPTはレベルが違います。同じ質問をしても、どんどん違う答えが返ってきます。

岸田総理がOpenAI社のCEOと面会しました(2023年4月10日)。へえー、と思っていたら翌日(だったかなあ)「答弁書をChatGPTに作らせる」というような記事が新聞に載りました(記事が手元にないので、正確ではありません)。「もう、総理も官僚もいらなくなるなあ」「考える手間も必要もなくなるなあ」と思ったのですが、ChatGPTの意見が「日本国の見解」になっちゃうのでしょうか。私は「ChatGPTが言っている(実際は話すのを聞いたことがないけど、総理の音声データを入れればChatGPTが答弁することが可能)ことが正しい」とは思わないし、「Google検索のトップに表示される事が正しい」とも思わないし、「権威のある本に書いてあるから正しい」とも思わないのですが。

調べたり考えたりすることをコンピューターに任せることはとても楽なのですが、大切なことは「誰が考えるか」ということではなく、コンピューターが「考えているのか」どうかです。ChatGPTが回答する1秒にも満たないような時間にコンピューターは考えているのでしょうか。

一昨年から『NHK杯テレビ囲碁トーナメント』で「形勢判断」が%で「予想手」が有力順に3手表示されるようになりました。私は囲碁初心者なので、局面の優劣はわからないのですが、対局の途中で1手打つごとに数十%の変動があったりして、とても面白いです。今では棋士たちにとって「AIで勉強する」ことが欠かせないようです。囲碁AIは「考えている」のでしょうか。

コンピューターは、電気信号で動く電子基板「ロジックボード(マザーボード、メインボード)」が核となっています。ロジックボードはその名の通り「論理的」に動いています。論理ですから、「正か誤」「YesかNo」「あるない」「1か0」「白か黒」、電気でいえば「OnかOff」です。どんな複雑なデータも0と1の組み合わせに翻訳されて処理され、最終的な結果も0と1の組み合わせです。囲碁の勝負で言えば「勝ち(1)」か「負け(0)」です。

ルール的には一応「引き分け」もあります。囲碁AIが「間違った手」を示すこともあるようですが、それは人間にとって「間違っている」ということです。結果の勝敗を間違えることはありません。

もし、囲碁AIが「考えている」とするならば、それは「論理的(合理的)であること」が「考えていること」であるということです。そして私は「ものごごろ」がついてからずっと、合理的(論理的)であろうとしてきたのでした。

英語の特殊性

仏語のせいで、英語はほとんど違う言語に変えられてしまったと言ってもいい。それは、王位継承を巡って一〇六六年にフランスからノルマン公ギヨームが英国に攻め入り、前王の義兄ハロルドを破って征服したことに発する。勝者ギヨームはウィリアム一世となってイングランド王に即位した。これが世に言う「ノルマンの征服(Norman Conquest)」である。

何万という単位で支配階級がドーバー海峡を渡った。彼らは仏語で書き、話した。正式は文書はラテン語で書いた。こうして、イギリスの政治、経済、社会、文化活動の一切が仏語を母語とする支配階級によってなされたのである。英国人にとっては実に屈辱的な状態が、英仏百年戦争の始まる一四世紀初めまで続いた。実に三〇〇年である。(亡、P.67-68)

そうした中で古英語に大量の仏語語彙が入り、文法的には極端な単純化が起きた。男性/女性名詞の区別を失い、名詞変化(曲用)と動詞変化(活用)をも英語が失っていったことは先に述べた。単なる強調のためであった他動詞「Do」の疑問文/否定文における義務的使用も加わって、行為文を中心とするSVO傾向をさらに強めたのが現代英語である。もはや文法関係は語順でしか表せなくなり、義務的に文頭に行為者をおくようになった。これが主語の発生である。(亡、P.76)

また、視点論にとって重要な変化は、二人称の親称・敬称の違いを失って「you」一語になってしまったことです。これはフランス語やドイツ語がそれぞれ「tu/vous」「Du/Sie」の区別を今でも保持していることを考えても、英語に顕著な変化でした。

強調のために時に使われた行為の他動詞 Do が、疑問文/否定文において義務的に使用されるようになって、さらにその「行為文中心の主語言語」傾向を強めたのが現代英語なのです。もはや文法関係が語順でしか表せなくなった英語は、義務的に文頭に「行為者」をおくようになりました。

これが主語の発生に他なりません。つまり主語とは人類の言語に普遍的なものでなく、一部の西洋語において例外的に発生した現象です。

英語、仏語、独語のように文中に主語をおく言語は現在でも非常に少なく、その数は北欧語を含めて一〇を超えません。」(敬、P.32-33)

必ず主語が必要な英語(現代英語)は世界の言語の中では「特殊(特異)な存在」だということです。それを言語に「普遍的」なものだということで西洋の言語学は成り立っているようです。SVOでもSVCでもSVOOでもいいのですが、かならず「S(主語)」を想定しています。

ググってたらこんな表を見つけました。「Expression of Pronominal Subjects(代名詞的主語の表現)」。711の言語で、主語の位置に代名詞が必須な言語は82。日本語は「Optional pronouns in subject position(主語の位置の代名詞はオプション・必須ではない)」となっています。一番多いのは「Subject affixes on verb(主語は動詞にくっついている・接辞・動詞の変化で主語を表す)」。その他「Subject pronouns in different position(主語代名詞は別の位置)」などがありますが、位置がちがっても、動詞(述語)で表現しても、オプションであっても、「主語の存在」が前提となっています。まあ、数は別としても現代英語のように主語代名詞が必須な言語は少数派だということです。

エゴは西洋の発想

源氏物語が書かれたころの英語には、主語はありませんでした。そして日本語のように、文の終わりに動詞が来ていました。(P.31)

ちなみに、「you」は本来、主語の形(=主格)ですらありませんでした。主格は「ye」で「you」は目的格です。これと並行して、主語に立つときの「私」は「I」と常に(FF)大文字で書かれるようになりました。「私」だけが特別視されるこんな言語は世界中で英語だけです。(敬、P.33-34)

英語は主語が必須なだけじゃなく、〈私〉を特別視して強調する言語です。

デカルトの有名な言葉、「我思う故に我あり」は『方法序説』(1637年)の中の言葉です。原文は「Je pense, donc je suis」。当時の学術論文は主にラテン語で書かれるものでしたが、『方法序説』はフランス語で書かれました。当時は女性や子供はもとより、青年男子でもラテン語を読める人は少なかったでしょう。この言葉をデカルトと親交のあったメルセンヌがラテン語訳したのが「Cogito ergo sum」。「ergo」は「ゆえに(therefore)」ですが、「cogito」は「cogitare(思う、think)」の現在形一人称単数主格。同様に「sum」は「esse(ある、be)」の現在形一人称単数主格です。ラテン語や古英語には主格代名詞(主語)はなかったのです。

〈私〉の強調は、たしかに現代英語やフランス語の特徴です。主語があれば文はSVが基本となります。

SVOでもSOVでもいいです。フランス語では「Je t'aime」のようにSOVです。

著者の主張で一つわからないのは、

一方、西洋語の主語は文を作るために不可欠です。動詞が人称活用しますから、主語がないと動詞の形が決まらないのです。(敬、P.57)

というところです。逆に動詞が人称活用すれば、主語は不要なのではないでしょうか。前出の表で一番多い「Subject affixes on verb」というのは正(まさ)しくこれで、世界の言語の主流のようです。

表を見ると、赤い点(主語が必須の言語)が北部ヨーロッパ以外にもあちこちにあります。それらはイギリスやフランスの植民地だったところもありますが、そうは思えないところもあります。たしかに、現代英語に象徴的な「絶対的主語」は「主体としての自己」、つまり「自我」を明確に示しています。それが「主語対述語」「主体対対象」の対立を鮮明化しています。そしてその対立は、その対立を起こしている「主体」つまり「自我」を尊重することに傾きがちでしょう。先鋭化した自我が、何の飾りもつけずに「開き直った発言」が「我思う故に我あり」、つまり「おれはおれだ、文句あるか」という発言のような気がします。

私が若い頃は、「おれはおれだ」というのはかっこよかったし、憧れでした。そして、そう言うこと「悪いこと」だった気がします。悪いことだったから憧れたのです。みんながそれを大きな声で言い、行動に移したのが「学生運動」です。多くの人がそれを支持しました。それが終わって、「おれはおれだ」ということは「当たり前」になり、そう言わなければならないようになりました。その頂点がバブルの頃でしょうか。すると今度は逆に「おれはおれだ、じゃだめだ」というのが「正論」となってきたのですが、どこまで力を持つのでしょうか。「景気次第」というところでしょうか。

神の視点、地上の視点

「カナダに長年住んでいて私が怖いと思うものがあるとすれば、それはなによりも、状況を上空の高みから見下ろす「神の視点」です。

多くの場合、その視点はキリスト教という「一神教」と手を組んで、「神に守られた正義」の主張となります。西洋の思想哲学論理に宗教が大きな影響を及ぼしているのは当然のことですが、宗教と並んで、他動詞構文SVOを最も当たり前とする言語構造も、その母語話者の発想や行動に影響を与えていると私は思えてなりません。他の要素との関係で自分を捉えるのではなく、状況から切り離した絶対的な「私」を考える傾向が英語話者に大変強いのもこのためだと思えます。(敬、P.36)

それに対して、日本語は「地上の視点」です。同じ地上にいて、自然の中にいながら、自然を優位に置き尊重する思考、同じように相手を尊重する時には、相手を自然のように人為の及ばない「ある」として「尊重」、自分を「する」と「謙譲」するのが日本語の敬語表現です。

これを「思考の違い」として捉えたのが、鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス)です。

人間の思考方法は、森林的思考と砂漠的思考の二つに分けられること、それは、世界が「永遠」に続くと考えるか、「有限」であると考えるが、人間の論理にとってはどちらか一つに分かれることに根ざしているから、その二つにしか分けられないことを述べた。具体的には、森林的とは視点が地上の一角にあって、「下から」上を見る姿勢であり、砂漠的とは「上から」下をみる鳥の眼を持つことであった。「見とおしの悪さ」「見とおしのよさ」という対比でもある。「慎重」と「決断」の対比でもある。「専門家的態度」と「総合家的態度」の形容でもある。

そして、その森林的思考、砂漠的思考は、かならずしも森林に住むか砂漠に住むかによって分かれるのではなく、森林的思想ーー具体的にはたとえば仏教ーーのなかに育ったか、砂漠的思想ーー具体的にはたとえばキリスト教ーーのなかに育ったかということによるもので、好んで使われた図式、自然->生産関係->人間、すなわち自然は生産関係という中間項を媒介として人間に働きかけるという図式にならっていえば、自然->思考様式->人間、すなわち、自然によって生まれた思考様式をうけ継ぐことによって人間が自然にかかわっている、ということもできるであろう。しかも、思想は、それ自身の論理の力によって動くから、かならずしも現在の自然環境と対応して、森林的思考と砂漠的思考が存在しているのではない。むしろ、その起原は、五〇〇〇年前の乾燥化によって一神教が確立された時にある。(同書、P.215-216)

「好き」と「愛する」

昭和生まれの私は、「愛」という言葉に「恥ずかしさ」や「嘘くささ」を感じます。

日本では明治初年(一八六六)以来、英語 love の訳語として「愛恋」「恋慕」などとともに用いられ、やがて明治二〇年代から「恋愛」が優勢になった。(『精選版 日本国語大辞典』「恋愛」の項)

「love」というのは、何かを熱望する主体的な行為だと思います。「(某CMのように)そこにある」のではなくて「(愛)する」という主体的な行為なのです。

「考えてみると「好きだ」は、意図的な行為ではありません。これは「する行為」ではなく、「そうである状況」と日本人は考えるのです。(敬、P.21)

「好きになる」というのは能動的な行為ではありません。「好きになってしまう」のです。そこに主体はありません。「好き」はコントロールできるようなものではなく、主体や客体を越えたところにあるのではないでしょうか。

「意図的行為を全面に押し立てない発想からは、愛の告白にも英語的な文が生まれないのは当然です。語形的にも「好きだ」は「好きである」の変化したものですから、花子も太郎も、実は何も「して」いません。文字通りそこに「ある」だけです。(敬、P.22)

昔は直接「好きだ」とすら言わずに遠回しな表現をしました。最近のドラマを見ていると「言葉にして言ってくれなくちゃわかんないじゃない」というようなセリフが多い気がします。そして「愛している」という表現も増えてきている気がします。今の若い人たちには、「わたしはあなたを愛しています(I love you)」というような英語的(直訳的)な文に違和感がないのでしょうか。

「僕が」と「君が」「好き(という状況)で」そこに「ある」。これが文の正しい読み方なのです。それは「を」が日本語の行為文の目的語に使われる格助詞だからで、(「君を好き」じゃなく...引用者)「君が好き」には相手をコントロールする意図は含まれていないからです。(P.22)

「君が好き」は「主体的な意図」がないので、責任が発生しません。責任の取りようがありません。「君を好き」は相手からすれば、「あんたが勝手に好きになったんでしょ。私は関係ないわ。」つまり、好きになったのは好きになった人の責任です。意図的に好きになったんだから、「君好く(「君が好く」では意味が違ってしまう)」ことをやめればいい。でも、そんな事ができますか?

自然と人間の逆転

subject の原意は「主」でなく、その正反対の「従」だからです。(敬、P.35)

「subject」はラテン語の subiectum から来ています。これは、古典ギリシア語の「ὐποκείμενον(下に置く)」のラテン語訳です。古典ギリシャ語もラテン語も日常用語(哲学用語はなかった)ですから、様々な意味で使われていました。19世紀のアリストテレス学者ベッカーによると(読んでないけど)アリストテレスはこの言葉を三つの意味で使ったそうです。私の感覚て言うと、それは「言葉になる(言語化・意識化・構造化)以前」の「形相が宿る土台」という感じじゃないかと思います。そういう意味では「質料・第一実体」です。「実体を持つ以前のもの」だと思います。それが「かたち(形相)」をとること(言語化・認識)が、「κατηγορέο(概念化?)」、カテゴライズです。

その言語化以前の「なにか」に、形相(普遍・イデア)が宿ることによって実体として言語化(認識)する事ができるようになります。「個物(主語)も普遍(述語)が宿るための従属的土台」(古田裕清著『西洋哲学の基礎概念と和語の世界』中央経済社、P.6)。そう考えると、その「なにか」は、まだ「主体」や「主観」になる以前のもので、「言葉にする能力(可能性)のようなもの」と「言葉にされる可能性としての存在」と言えるかも知れません(ことば、ロゴス、論理)。あるいは「形相をまとって個物として認識されるようになる可能性」(自然・存在)です。それ自体を認識することはできないけれども、それを仮想しなければ言葉や認識、あるいは個物があることを説明できません。その形相化能力の方を重視するか、形相を受ける側を重視するかによって、その意味は変わってきます。

その後、神学者や哲学者がこの言葉を様々な意味で用います。西周が訳したヘイヴンの『心理学』("Mental Philosophy"、1857年)では「心の内部へと向かう心の能力が
subjective、外的世界へと向かう能力が
objective、と呼ばれた。」(同書、P.2)。翻訳語を翻訳語で説明することに意味があるかどうかは難しいけど、ないものを表す言葉は「ない」。象がいないところでは「象」という言葉がないだろうし、そこの人たちに「象」を説明することは難しい。海を見たことがない人に海を説明するのは難しい。逆に海が当たり前のところに住む人に、海がない世界を説明することも難しい。その世界には「海」という言葉もないのだから。

私は、「文は主語と述語で成り立つ」と教えられてきました。「物は分子(原子)でできている」と教えられてきました。「主語」「述語」「分子」「原子」、あるいは「海」「象」「お母さん」「みかん」「学校」を知らなかった私が、それらの言葉を覚えることは比較的簡単です。でも、その私が「主語はない」と考えることは「分子はない」と考えることと同様、とても難しいことです。

漢字二字熟語のこうした変幻自在性は、 subject・object のように歴史の中で意味が少しずつ変わってきた欧州の哲学概念を再現するのに、ある点では都合がよい(欧州語における両語彙の意味変化に対応して自らも意味変化が可能であるという意味で)。だが、別の点では災いする。欧州の哲学概念はギリシア・ローマ時代の日常語を同一語系のまま意味的に陶冶したもの。陶冶はその時の時々の影響力ある哲学者(アリストテレスやカントら)や時流(たとえば19世紀以降の客観科学隆盛)が主導した。複数の用法が生じて相互に対立しつつ、影響力に応じて継承されて今に至る。他方、漢語は日本への導入以来、非日常的な知識の象徴として「よそ行きの言葉」「たてまえの言葉」と見なされ、本音を語る大和言葉(和語)とは別空間に置かれてきた。(前掲『西洋哲学の基本概念と和語の世界』、P.14)

明治以降に欧州語の翻訳語としてつくられた「漢字二字熟語」についての最大の問題は、日本ではそれまでそれを必要としていなかった、ということ。それらは日本語としてなかった、ということは日本の文化の中になかったということです。

かつてsocietyということばは、たいへん翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本にはなかった、ということである。(柳父章著『翻訳語成立事情』岩波新書、P.3)

「恋愛」も「社会」も「個人」も日本にはなかったということです。「翻訳語」を「翻訳語で説明すること」の二重の問題を心に留めて置かなければなりません。

「コト」と「モノ」

(川端康成『雪国』の英訳で・・引用者)つまり日本語の方は、時間の推移を含んだ「コト」(出来事)を表しているのに、英語では汽車という「モノ」をわざわざ持って来て、それの「トンネルからの出現」という表現にすりかえているわけである。(亡、P.74-75)

誰かが我々を攻撃した。だから我々はその「誰」かを明らかにして攻撃する、これは他動詞文の主語と目的語を逆転させただけの「ビデオゲーム的発想」ですが、ここですっかり忘れられたのが「なぜ」という問いです。(LF)なぜアメリカはテロ攻撃されたのか、の問いが「神の視点」から出にくいのは、「なぜ」がモノ(物/者)ではなく、コト/事であるからです。(敬、P.37)

「なに」とか「誰」というのが「モノ」です。これを高木仁三郎さんは〈なぜ〉と〈いかに〉で表現しています。

たとば、太陽が沈むことについて地動説を持ち出し、地球の自転から答えることができよう。しかし、それは実は〈なぜ〉の答えにはなっていない。(『いま自然をどうみるか』白水社、P.111)

私たちが答えているのは、実は〈いかに〉という問いへの答えにすぎない。(P.112)

〈なぜ〉と〈いかに〉の分離、〈なぜ〉の棚上げ、これこそ近代科学成立の要件であった。(同)

「1足す1は2である」「物質は分子でできている」というのは〈いかに〉です。「〈なぜ〉1足す1は2なのか」「〈なぜ〉物質は原子でできているのか」という問いは通常ありません。それは「論理(合理)」という哲学の問題とされます。

それは結局、ロゴスとしての宇宙という概念、合目的的秩序のもとにある自然という考え方が、ヨーロッパのキリスト教世界によく合致していた、ということに尽きるのではないだろうか。さらには、自然と人間とをはっきりと区別するという二元的な思想、理性を重視し理性の優越性を主張する価値観、それに基づくいわば「知の自然観」、こういう全体の体系が、まさにキリスト教社会によく合うものであったのだろう。(同書、P.85)

自然はロゴス、つまり論理になったのです。論理的(合理的)に自然を見るということ、それは正しく自然を「対象(客体)」として見るということです。それを見るのが「人間である主体」、つまり「主語・subject」なのです。「1」も「2」も「分子・原子」も「神」も「自然(ピュシス)」にあるわけではありません。それは人間の「論理(概念・カテゴリー)」の側にあります。それを「あたかも自然の中(対象の中)」にあるがごとく考えます。それが「主客構造(主語=述語構造)」の秘密であり、罠なのです。

日本語を話すから考えられること

論理は「ロゴス(λογός)」です。「Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος(始めに言葉ありき)」(「ヨハネの福音書」第1章1.1)です。西欧論理からいえば、人間が言葉を話すことと論理的であることは同義です。でもそれはインド=ヨーロッパ語に特徴的な「主語=述語構造」を表したにすぎません。

スペイン語やイタリア語では今でも主語が義務的ではない。人間中心に変わったのは英仏語など西洋語の方であり、日本語を含む世界中の大半の言葉はいまだに自然中心の構造をしていることはもっと知られていい事実だろう。ことに現代英語は西洋語の中でも突出しており、構造そのものが唯我独尊としか思えない言語となってしまった。(亡、P.78)

日本語には主語がありません。それは「日本語は論理的ではない」というより、「日本語(文化)には論理がない」ということです。

端的に言えば、西洋の〈我〉は〈汝〉と切れて向き合うが、日本の〈我〉は〈汝〉と繋がり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすと言えるだろう。(亡、P.107)

英語に代表されるSVO構文を基本とする言語の根本的な問題は、「S(主語)のO(目的語)に対する支配」へとつながるということにある。すると、必然的に「S」には「力」とともに「正義」がしばしば与えられてしまうのが一番怖い。英語を始めヨーロッパ言語の話者が失敗をしてもあまり謝らないのはそのせいである。日本人は、個人でも国家としても誤ってばかりなのは、基本構文が「述語一本立て」(三上章、前掲書)であることと無関係ではない。西田幾多郎が喝破した様に、述語とは主体も客体も含まれている「場」なのだ。(亡、P.183-184)

明治以降、日本人は(私は)〈我〉と〈汝〉の壁に、「社会」と「個人」の対立に悩んできました(今でも夏目漱石が読まれるのはそのためです)。

英語教育、英文法や学校文法のみならず、科学教育(あるいは教育全般)によって、その溝は埋められるのではなく、「当然あるモノ」とされ、「なぜ(コト)」という問いは発することを忘れられつつあります。SNSもいじめも「自然」と同じに「社会にあること(コトをモノに還元する)」で、考察や克服の「対象」となっています。資本主義社会(自由主義社会)を克服の対象としたのが、「科学的(学問的、Wissenschaftlich)社会主義」です。

自然も社会も他者も、対象として支配したり克服したりするものではありません。

自然に対峙し、自然を支配し、自然を変えようとする西洋的、科学的、分析的な〈私〉はそこにはいません。いるのは、それとは逆に、自然に溶け込んで同化してしまう〈私〉なのですから。(敬、P.154)

日本語には主語がありません。西洋的な〈私〉つまり、「自我 ego」もないのです。日本語を「母語」(イリイチの言葉で言えば、学校などで「教えられた母語」ではなく「ヴァナキュラーな話しことば」、『ジェンダー』岩波現代選書、P.171)とする私たちには、自然や社会や他者と対峙(支配)するのではなく、「同化」することができる「可能性」がある、と私は思います。それが私に残された最後の「希望」のような気がしています。






[著者等]

金谷/武洋
1951年北海道生まれ。函館ラサール高校から東京大学教養学部卒業。ラヴァル大学で修士号(言語学)。モントリオール大学で博士号(言語学)取得。専門は類型論、日本語教育。カナダ放送協会国際局などを経て、現在、モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長。カナダでの20年にわたる日本語教師の経験から、日本語の学校文法が、いかに誤謬に満ちているかを訴え、新しい日本語文法の構築を提唱している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

昨今、日本語の存亡を憂う言説で溢れている。しかし、本当に日本語は亡びるのか?外国語としての日本語は活気に溢れ、学習者は約三〇〇万人に及ぶほど、未曾有の日本語人気に沸いている。インターネット時代の英語の圧倒的優位が叫ばれているが、庶民の間では現在も将来も、日本人の生活語は日本語だけに留まるであろう。庶民に支えられている日本語を見つめることから、大胆かつ繊細に、日本語の底力を徹底的に解明する。

本書は、国の内外で理解や学習が難しいと思われがちな敬語を入り口にして、日本文化を支えている「地上の視点」をとらえてみたものです。
これまで細分化の方向を辿ってきた敬語の説明とは逆方向に、鋏の代わりに糸を使って、敬語どうしの共通点を結んでみたいと思いました。統合的かつ体系的に敬語表現を、そしてさらに欲張って敬語を取り巻くさまざまな日本文化の表れにも大きな網をかけて、その基本的な発想をとらえてみたいと願っています。



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