愛する人を所有するということ 浅見克彦著 2001/07/20 青弓社

愛する人を所有するということ 浅見克彦著 2001/07/20 青弓社

著者のこと

著者とはこの本が出版された頃に会ったことがあります。その頃の著者の情況をちょっとだけ知っている私は、この本の内容と著者の人生とが交差して、とても他人事とは思えないくらいの気持ちで読みました。

その後は年賀状をやり取りするだけです。もう一度会いたいなあ。

著者には申し訳ないのですが、当時、古本で入手しました。前所有者のマーカーが少しあります。私が引いた線もあるので、買ってすぐに読んだのだと思います。

恋愛ドラマ(映画)

恋愛を扱った本は、無限と言ってもいいほどあります。恋愛小説、官能小説、恋愛漫画(成人向け漫画や同人誌)、「異性からモテる」ための本などの「恋愛ハウツー本」、セックスで異性を喜ばす「技術・テクニック本」、いわゆる「エロ本・エロ雑誌」まで。

最近つまらない作品が増えてきていますが、それでもドラマはよく観ます(映画館にはもう何年も行っていません)。恋愛物がとても多い。いつからか、LGBTや心身の障害をもった人を扱った作品も増えてきています。

いま、子どもたちは「恋愛」をどこで知るのでしょうか。多分、自分の両親や、近所の人から伝わるよりも、まずテレビドラマで知るのではないでしょうか。それにCM。「そこに愛はあるんか」とかね。もう終わったけど『らんまん』は、あいみょんさんが主題歌で、「愛」を何度も叫んでいます。

恋愛(恋愛じゃない「愛」が描かれることは少ないように思います。親子、とくに母の子に対する愛は別として)は、「すばらしい」もので、「尊い」もので、「必要」なもので、「しなくてはならない」ものだ、と描かれています。

だから、若い人は恋愛相手を一生懸命探します。SNSや「出会い系サイト」が大流行です。そこで「パパ活(売春)」する女の子もいるし、騙されたり、犯罪に巻き込まれたりすることもあります。それでも「恋人」がいないことは「寂しいこと」で「可哀想なこと」だと思い込みます。恋人なんかいなくてももいい、というのは「居直り(開き直り)」「あきらめ」「寂しい人」、場合によっては「変な(おかしな)人」だと思われてしまいます。恋愛することが当たり前で、人を愛することができないことを「異常なこと」だと思い込みます。私も「人を心から愛したことがないんじゃないか」と悩んだ時期があります(今欲しい本の一冊が戸田真琴著『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』です)。

人生の最大関心事

今の時代だって、学生時代に「恋に落ちる」とか「好きになってしまう」とかも当然あるでしょう。上野千鶴子さんはこう言っています。

実のところ、メディアは恋愛の学習装置です。性だって愛だって、わたしたちはあらかじめメディアの中でそれがなにかを学習しているからこそ、経験に名前を与えることができるのです。(中略)あとになってそれに該当する感情を経験したときに、「ああ、これが(あの物語で知っていた)恋愛というものなのね」と得心することを「経験の定義」といいます。あらかじめ知っている概念がなければ、経験に名前をつけることはできません。(上野千鶴子、鈴木涼美著『往復書簡』P.76)

多分、多くの人が「恋愛という現象」を表現する「概念」としての「恋愛というもの」が存在していて、それは「ある年齢」になったら、「ココロの中から」あるいは「カラダの内から」「湧き出してくる(湧き出てくる)」ものだと思っています(そして、それは一定の年齢を越えると、つまり「老いる」と消えていくものだと)。それは、自然科学のように必然で、人間として「当たり前のこと」だと。だから、恋人がいないことや、恋愛ができないこと、人を愛せないことを嘆くのです。

恋愛が人生の最大関心事になり、人々が恋愛を「しなければならない」ものとして求めています。私は、それを「いいこと」だとは思えません。恋愛にやっ気になること、それを人生の目標(目的)とすら考えることはとても不自然なことに感じるのです。戦後の「民主教育」を受けてきた私は、自由や平等を無条件に(無根拠に)「いいもの(こと)」だと思ってきました。それを求めてきたし、今でもある意味では、そう思い続けています。「お見合い」は封建制度(悪いもの、遅れているもの、劣っているもの)の残存で、「自由恋愛」(わかるかなあ)は「民主主義的で良いこと」だと思っていました。人間は、恋愛して結婚するものだと信じていました。

私の父も、恋愛して結婚した(らしい)し、私も「出会い」があって結婚しました。「おせっかいおばさん」はいなくなったし、職場の上司に紹介されるなんて、「ありえないこと」でした(「おせっかいおばさん」が「出会い系アプリ」に変わっただけ、とも思うけど)。結婚とセックスが同じことなんて思ったことはないけど、性欲が強い(と思われる)私は、なんか「成行き」で結婚してしまいました。

私の子どもたちはもう社会人ですが、どうも結婚するような素振りがありません。恋人もいないようです(わかりませんが)。私と違って、性欲が弱いのでしょうか。

性欲と恋愛は関係ない、という人もいるでしょう。そうかも知れません。そうじゃないのかもしれません。人それぞれですからね。きっと性欲が強い人も弱い人もいるし、「恋愛体質」の人も「異性(同性でもいいけど)」に興味がない人もいるのでしょう。

でも、とりあえず今の社会で普通だと思われている、「人間は恋愛するもの」「恋愛は性欲から生じるもの」という「(科学的かもしれない)建前」を前提としましょう。

愛する人を所有するということ

まず、タイトルについて。「愛とはなにか」でも「なぜ人は人を愛するか」でもありません。同様に、「所有とはなにか」でも「なぜ人は所有しようとするのか」でもありません。愛について書かれているわけでも、所有について書かれているわけでもないのです。でも、「愛する人を所有すること」を書こうとすれば、そのためには、「愛とはなにか」「所有とはなにか」について、著者と読者のある程度の合意、というか、共通認識が必要です。それがあって初めて「愛する人を所有すること」を論じることができます。

愛について書かれた本は多分、「本」というものができた頃からあるのでしょう。文字が残っているのは紀元前3200年くらい前のもののようです(小林登志子著『シュメル ー人類最古の文明』。その頃「文学」というものがあったかどうかはわかりません)。ヘーシオドスの『神統記』が書かれたのが今から約2700年前、神々の恋や嫉妬が書かれています。『古事記』が書かれたのは約1300年前、『源氏物語』が書かれたのは約1000年前です。所有について書かれた本も数え切れないほどありそうです。プラトンやアリストテレスの著作にもありますから、2400年前くらいでしょうか。

愛について書かれているといっても、その愛が「男女の愛」とは限らないし、今の愛と同じだともかぎりません。そこに見つける「愛」は、現代人が現代の愛を投影している(自分の愛から類推している)愛にすぎないかもしれません。

所有についても、文化人類学者が「未開」の世界に見つけた「所有」は、たぶん、自分たちの社会から類推したものです。それが自分たちの社会とはあまりにも「異質」だったので、西洋は驚いたのです。古代の所有だって、現代の自分たちの所有概念を投影している場合が多いと思います。

ともかくも、この本が前提している「愛」や「所有」は当時(20年前)の日本における愛と所有であり、この本はその「愛と所有の関係」について書かれていると思いました。

日本に「恋愛」はなかった

なぜ「当時(20年前)」というかというと、日本にはもともと(明治維新の前後くらいを想定しています)「恋愛」というものがなかったからです。

かつてsocietyということばは、たいへん翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本にはなかった、ということである。(柳父章著『翻訳語成立事情』岩波新書、P.3)

「鰯(イワシ)」という漢字は中国にはありません。理由は簡単で、中国(漢字が生まれた黄河の流域)にはイワシがいないからです。当然、イワシという概念(定義)もありませんでした。

社会・個人・恋愛はどこの国にも、どの時代にもあったはずです。でも、「society」「individual」「love」に相当する「言葉」も「概念」も、そして「現実」も、日本にはなかったのです。

恋愛 中国ではロプシャイトの「英華字典」(一八六六‐六九)に既に見えるが、日本では明治初年(一八六六)以来、英語 love の訳語として「愛恋」「恋慕」などとともに用いられ、やがて明治二〇年代から「恋愛」が優勢になった。(精選版 日本国語大辞典

「愛でる(めでる)」はあったけど、「愛(あい)」とは違います。「恋」もあっただろうけど、違うでしょう。恋には「落ちる」ものだからです(「愛に落ちる」とは言わない)。「好きだ」というのはあります。

まず、「好きだ」は「好きーである」という「状態」です。「愛ーする」というのは能動的(逆「愛ーされる」であれば受動的)な「行為」です。そういう意味では「愛はあるんか」というのは、「愛というものが存在するのか」という意味ですから、「行為」とはちょっと違う、日本的な文章なのかも知りません。

愛について語る時には、能動・受動、行為・状態、という文化的(言語的)な区分を念頭に置かないと、わけがわからなくなってしまいます。その区別は「主体性・自我」を中心と置くのかどうかということです。つまり、文化的背景によって、人を愛するということは異なっているということです。西欧人の「愛」と日本人の「愛」に共通点はあるかもしれませんが、その違いこそが「愛とはなにか」の決め手になっているのだと思います。『ロミオとジュリエット』(読んだことはないけど)は、自我が制御できない恋愛に襲われながら、自我が主体的にどういう行動を取るのか、自己と恋愛、自己と他者との闘いを描いていて、『源氏物語』(読んだことないけど)は恋愛と闘おうとしていないとおもいます。『源氏物語』にあっては、恋愛はただ「あるもの」なのです。

つぎに、「好きだ」というのは「状態」ですから、それ自体が客観的に存在する「物」ではありません。「好きにーなる」は、状態の変移です。

今日、子供のアパートに行ったら『理系が恋に落ちたので証明してみた。』(山本アリフレッド著)という漫画がありました。理科系アルアルで、恋をした二人が、それが本当に「恋」なのかを論理的(理論的)に証明しようとする話(のよう)です。いろんな実験をして、脈拍数を測ったり、体温を測ったりして、恋を客観的に証明しようとします。「恋」が純粋に「主観的」なものだとは思いませんが、主観をまったく離れて客観的に存在するのでしょうか。

自己を客体にすること、自己を受動的にすることは、受動的であることとは全然別のことである」(P.88、ボーヴォワール『第二の性』からの引用)

どこまでも能動と受動でしかとらえられない近代西欧人の悲しさが現れています。

日本に「自由」はなかった

「自由」ということばは、正しく理解されればいい意味であり、「はき違え」て理解されれば悪い意味になる、というように、私たちは漠然と考えがちであるが、そうではない、と私は考える。問題は、理解の仕方にあるのではない。母国語の中に深い根をおろして歴史を担っていることばは、「はき違え」ようがないのである。

「はき違え」られている「自由」は、翻訳語「自由」である。

近代以後の私たちの「自由」ということばにも、英語で言えば freedom や liberty のような西洋語の翻訳語としての意味と、伝来の漢字のことば「自由」の意味とが混在しているのである。そして単純化して言えば、西欧語の翻訳語としての「自由」はいい意味、伝来の「自由」は悪い意味である。(前出『翻訳語成立事情』、P.177)

渋谷区長が今年、「ハロウィーン目的で渋谷に来ないで」と外国特派員協会で呼びかけたことが話題になりました。

渋谷区 長谷部健区長

渋谷はハロウィーンイベントの会場ではありません、ということを世界に明確に伝えたい(「YAHOO! ニュース

韓国・梨泰院と同様の雑踏事故などを憂慮してとのことです。路上飲酒なども問題になっていたようです。「そんなの、こっちの自由だろ。法律違反してるわけじゃないし」と言いたくなります。

「自由」は、もともとは「①自分の心のままに行動できる状態。思いどおりにふるまえて、束縛や障害がないこと。また、そのさま。思うまま。わがまま勝手。②ある物を必要とする欲求。③需要。便所。はばかり。手水場(ちょうずば)。」の意味でした(『精選版 日本国語大辞典』)。それに加わったのが翻訳語としての「自由」です。

④ (liberty, freedom の訳語) 政治的自由と精神的自由。一般に liberty は政治的自由をさし、freedom は主に精神的自由をさすが、後者が政治的自由をさすこともある。〔英和対訳袖珍辞書(1862)〕⑤ 人が行為をすることのできる範囲。法律の範囲内での随意の行為。これによって完全な権利、義務を有することになる。(同『精選版 日本国語大辞典』)

「liberty, freedom」は、西欧の歴史に根ざした言葉です。西欧人は「肌」で感じているはずです。日本には日本の歴史がありますが、それは西欧の歴史とは違います。

一般に、どんな翻訳語が選ばれ、残っていくのか、という問いに答えることはやさしくない。しかし、およそ、文字の意味から考えて、もっとも適切なことばが残るわけではない、ということは言えるであろう。

一つ言えることは、いかにも翻訳語らしいことばが定着する、ということである。翻訳語は、母国語の文脈の中へ立入ってきた異質な素姓の、異質な意味のことばである。異質なことばには、必ずどこか分からないところがある。語感が、どこかずれている。そういうことばは、逆に、わからないまま、ずれたままであったほうが、むしろよい。母国語にとけこんでしまっては、かえってつごうが悪いこともある。

日本語のなかで、音読みされている漢字のことばは、元来、異国の素姓のことばであった。日本語は、この異国語を、異質な素姓を残しつつ、やまとことばと混在させてきたのである。近代以後の翻訳語に、漢字二字の字音語が多いのも、この伝統の原則に自ずから従ったのである。そして、二字の字音語のうちでも、母国語にしっくりとなじむことばよりは、どこか違和感のあることばの方がよい。人々が意識的にそう選ぶのではなく、いわば、日本語という一つの言語構造が、自ずからそう働いているのである。翻訳語とは、伝来の母国語からみれば、区別されたことばである。人々が直観的に感得できるような、区別のしるしをどこかに持っていることばなのである。(前出『翻訳語成立事情』、P.186-187)

書いておかないと忘れるので(ごめんなさい)

ちょっと寄り道したいと思います。と言っても、このブログを読んでいる人なんていないだろうから、どうでもいいんだけど。著者にはこのページを送ろうと思っています。彼なら読んでくれる、と思うから。

最近(昔からそうだけど、頓に)思ったことをすぐに忘れてしまいます。メモをすればいいんだけど、そういう習慣はないし、わざわざパソコンを立ち上げるのも面倒です。旧式のパソコンが立ち上がったころには、何を考えていたのかを忘れてしまうこともあります。スマホの音声メモも考えていますが、一人で夜中にブツブツ言っていたら「ついにボケたか」と思われそうで(笑)。

代名詞

日本語は、自分のことを表わすのに様々な方法があります。

私(僕、俺)  自分  自己  自我、等

英語でも表現はいくつかありますが、基本は「I」、変化として「me」など。もちろん自分の名前を使うこともあります。

日本語は、存在ではなく関係を表すので、子供に対して「お父さんはこう思うんだけどなあ」と言います。子供は「お父さんは間違ってる」と言います。このときの「お父さん」は一人称単数の代名詞ではありません。主語ですらありません。誰の話題かを提示しているだけです。だから、誰の話題かがわかっていて、それを強調する必要もないときには表わす必要はありません。「こう思うんだけどなあ」「それは間違ってる」だけでいい、というか普通なのです。

「好きだ。」は「私があなたが好きだ。」の省略じゃないし、後者は文章的で、感情がこもってませんよね。「愛してる。」はどうでしょうか。う〜ん、年代によって感じ方が違うでしょうが、私は「だれが?なにを?」って、一瞬考えます。ひょっとしたら私じゃなくて、別の人や物のことを言ってるかも、と。ドラマの影響が強いのかもしれません。どんでん返しを期待(?)しちゃいます。それは「愛(恋愛)」という言葉が、私の中ではまだ定着していないんでしょうね。「人を愛せない」と私をふくめた多くの人が思うのも、「愛」や「恋愛」という言葉がまだ日本語に定着していないせいかもしれません(「人を好きになれない」ということなら、私は人を好きになったことはたくさんあります)。

「私はあなたを愛しています」は「翻訳文章」です。「I love you」の直訳です。

もし、「自由」を「liberty」や「freedom」の意味で使うとすれば、それは日本にはなかったのです。それを日本の後進性、はずかしいこと、と思うのは近代西洋文化に対する劣等感にすぎません。なかったということは、日本ではそれを必要としていなかった、ということです。

教えられる言語

イリイチは「ヴァナキュラーな話しことば」と「教えられる母語」とを区別します。これを説明することは私にはできません。日本語には、方言、学校で教えられた日本語、共通語(標準語)、文章語、テレビドラマや映画や演劇で用いられることば、など、いろいろなことばがあります。とりあえず、「ヴァナキュラーな話しことば」を、「初めて覚えて使ったことば」程度にとらえておきます。それは母から教わることもあるだろうし、テレビから教わることもあります。ほとんどの人は、学校教育が始まる前に使っています。そして「教えられる母語」は、学校で教えられる言葉です。その基礎にあるのは「学校文法」で、「主語があって述語があるのが正しい文章だ」「もしなかったら、それは省略されているのだ」と教えられます。英語教育がそれを強固に定着させます。

明治以降の日本は翻訳文化です。重要だと言われる海外の文献はほとんど「邦訳」があります。そこで出来上がったのが翻訳文章です。それは「文語」から始まって、「口語」に変化しました。

読者である多数の一般の人々は、文章を見れば、一見して、自分たちには不慣れな、異質な言葉の存在を感じ取る。個々のことばについて言うと、わかりにくい漢字字母語や、カタカナ表記の外来語などである。それらは、実は、わかりにくいとか、難しい、というより、異質なのである。ふつうの日本語に対するよそ者のことばなのである。また、構文で言えば、生硬な、もって回った言い方、と感じられる文がそうである。(中略)違和感を感じつつ、人々はとにかく受入れる。読者たち一般の、この、ある種の包容力もまた、今日における大量の翻訳文化に貢献したのである。(柳父章「5 翻訳の問題」『岩波講座
日本語』別巻、P.142-143)

最近、政府の公文書や、官僚の発言にカタカナ語が多いですね。あとアルファベットの略語も。官僚自身がわかって使っているのか、怪しく思うこともありますが、きっとほとんどの人が分からないで使っていると思います(「ジェンダー」がいい例です)。なんか新しくて、若者受けがいい、と思っているのでしょう。明治以来変わっていないんですね。

そして、

それは、今日私たちが改まってものを考える、と言うとき、翻訳用日本文によって考えることになる、という事情である。(同書、P.143)

と言います。私が書いている文章も翻訳語なしに書くことはできないし、学校文法に則ることを心がけています。方言もなるべく使わないようにしていますが、使っていたとしても、自分では気づきません(汗)。

「彼」ということばの近代以後における意味の変化や発達は、第一に翻訳語として使われたためであり、次いで、翻訳文をお手本として日本語の文章が変化し、その新しい文章のなかで使われるようになったためである。(前出『翻訳語成立事情』、P.199)

「あの男は君の彼?彼は悪いやつだよ」

なんて、ドラマで使われます。実際の日常会話では殆ど使われないと思うけど。でも、若い人は使うのかもしれません。方言は数世代で失われるようです(小野米一「6 移住と言語変容」前掲『岩波講座

日本語』別巻、参照)。私が学校文法に則ろうと思っているのは、そのほうが多くの人にわかってもらえると思っているからです(実際には読む人がいないんだから関係ないけど)。

方言

方言は失われつつありますが(採集作業は進んでいるのでしょうか)、たとえば河内弁を聞いたり、広島弁を聞いたりすると私はちょっと怖い感じがします。たぶん映画の影響です。方言は、それを使うことで、その背景になっている文化を感じます。それは、文字にできるような意味だけじゃなく、もっと広いものを含んでいるのでしょう。

どの言語も、それが通用するかぎり「同じ背景(コード)」をもっています。「すいとるけん」「I
love you」「je t'aime」「ti
amo」という言葉がそれぞれの地方で通じるのは、どこか共通のコードをもっているからです。それは「愛してる」「Amour」「Amore」が「同じ意味をもっている」ということではありません。「皿」と「dish」が違うように、違うんだろうと思います。文字や共通語にするとこぼれ落ちてしまうことがあると思うのです。それは文字や共通語がもつ分析性や部分性によって、全体性が失われるからだ思います。

ある思いや感情があるとして(ないかもしれないけど)、活字やデジタル化で失われたものを日本人はまだ感じることができます。「書道」という文化がまだ多くの人に愛されているからです。欧米にも「カリグラフィー」がありますが、書道ほどの拡がりはないのではないでしょうか。活字やデジタル化で失われたものを復元することはできません。分析し(バラバラに要素に分け)それを研究すれば元の物がわかる、という「還元主義」は成り立ちません。

文字化・デジタル化

感じたこと・考えたことをことばとして声に出す、その声を文字にする、デジタル化(数量化)して「データ」とする、それぞれの過程でこぼれ落ちたものを取り戻すことはできないのです。対談を録音して文字起こしをするときの困難、分かる人にはわかるでしょう。話す時の表情や身振り、離された時の環境、明るさ、温度や湿度、雑音、・・・、それら全部が「全体性」です。演劇空間の特殊性や、ライブとレコード・DVDの違いは、その会場にいた人にしかわかりません。

その場、その時のことがわからないという文字(記録)の特徴は、逆に文字のメリットです。つまり、空間や時間を越えて感情や考え方を伝えることができるということです。メソポタミアの文字が手紙から始まったという伝説や、倉頡が鳥の足跡を見て漢字を思いついたという伝承は、まさしく時空を越える文字の性格を表わしています。

その伝説や伝承に付け加えるとすれば、それを受けとった人、見た人がそれを読めなければなりません。つまり、書く人と読む人に共通認識がなければならないのです。ことばは基本的に共同体内で通用するものです。津軽弁が分かる人には、津軽弁を聞くとその人がどこの村(共同体)で生まれたかがわかるそうです(松本敏治著『自閉症は津軽弁を離さない』)。それほどことばはヴァナキュラー(土着的)なものなのです。ことばが共同体を超える必要があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは「欠如感」「稀少性」が原因なのではないでしょうか。そしてそれは《他者》の発生と同じであり、「愛」の必要性と同義のような気がします。私が思い描いているのは農耕や牧畜を越えて砂漠を渡るキャラバン隊です。彼らが愛に稀少性を持ち込む姿です。

共通コードがない《他者》の必要性が、法を作り、民主主義をを発生させたのではないでしょうか(デヴィット・グレーバー著『民主主義の非西洋起源について』参照)。

所有(閑話休題)

著者と初めて会った当時、「所有論」というのが流行っていました。『資本論』には、いろいろな所有が書いてあります。もう忘れましたが、私的所有、個人的所有、占有、公的所有、共同体的所有、共有などです。所有に関する様々な学説がありました。それは経済学的概念でもあり、政治的(法的)概念でもあり、哲学的概念でもあります。

所有とは何か、という考察は古代ギリシャからありました。でも、私は理解できませんでした。「人間はどうして所有欲があるのか」を。それは、「当たり前のこと」でした。他の人にも所有欲があるのか、古代ギリシャの人にも同じような所有欲があるのか。それは「論理(理論)」以前のものでした。なぜなら、私自身が大変な所有欲の持ち主だからです。自分が「所有欲」を持っているんだから、ほかの文化の人も、昔の人も持っているだろうと思うのです。もちろん、私の周りの人には、私ほど所有欲がないんだろうな、という人もいることは見ていたのですが、私にとって所有欲は「本能」で、それを「抑制(抑圧)」するのは、文化であり、「倫理(道徳)」でした。そして、私はそれ(倫理や道徳)が大嫌いだったのです。それらは、「封建時代」「戦前の軍国主義(全体主義)」の名残としか見えなかったからです。

所有の愛は、愛される者にとっては、その自由で固有であるべき存在を踏みにじりかねない、ある種の侵略にほかならないのである。人は、互いにそれを問題としてとらえねばならない。人が、他者を愛することから逃れられず、同時に自由を求めてやまないかぎりでは。(P.10)

著者のいう「所有」は、近代西洋に特有の「排他的占有」の意味ですね。近代法ではさまざまな所有概念が定められています。物だけじゃなく、著作権などの権利も「排他的占有」です。でも、それらの権利は物の所有から派生し、それを投影(擬態、暗喩、メタファー)したものです。客観的な「物(実在)」を「(疑似)物化」して、それを所有するのです。

私とあなた

その基礎にあるのは、それらの物や権利が「対象として(客観的に)実在する」という観念です(価値が商品に内在すると考えるように)。それらは「存在一般」や「普遍的存在」、あるいは「存在そのもの Sein 」ではありません。ハイデガーの言葉を借りれば「存在者 Seiende 」です。存在を存在者とするものは、つまり「対象(客観的なもの)」を生み出すのは人間(主観)、「現存在 Da-sein 」です。そしてこれも「人間一般」ではありません。私はこれが「(近代的)自我」にほかならないと考えています。

「主観/客観」の関係は、恋愛において「ココロ/カラダ」の関係として現れます。「心と体、精神/身体という二分法」(P.29)は、「主観と客観の分離」「自我と他者の分離」にこそ、その根拠を求めなければなりません。当たり前ですね。「私とあなた」「我と汝」「自己と他者」がなければ、所有は成り立ちません。恋愛でなくても、親子でも同じです。人間関係(たとえば資本家と労働者)だけでなく、「主体と客体」でも、「人間と動植物(自然)」「人と物」なども同じです。そう考えれば「物象化論(人と人の関係が物と物の関係になる)」もすっきりと片付くのではないでしょうか。

西洋思想史ふうにいえば、肉体に対して精神を価値的に優越させるこの意識は、どこからくるのだろうか。私たちのこの社会において、キリスト教の伝統とはほぼ関係なく存在している以上、その淵源を思想史的な文脈から説明するのには無理がある。貞節やつつましさといった「日本文化」の伝統なるものをもちだすのも、それとはまったく異質な現実が存続してきたことからして嘘くさい。(P.25-26)

ヘレニズム(古典ギリシア)に対するヘブライズム(キリスト教)の影響がどのようだったのかはうまく理解できません。楽園を追い出されて放浪の民となり、神に試練を与えられた(見捨てられた?)人間、自然と対立する人間がたどる運命は想像しにくいのですが、もし、生きている事自体がつらい人間、自殺する(したくなる)人間の気持ちなら私自身が経験しています。自分しか頼ることができなくなり、その自分の存在がつまらないように感じられてきます。その時に考えているのは、本人が「意識」しているかどうかに関わりなく、自分のことだけです。自分のこの苦しみから逃げ出したい、それしか考えていないのです。そのときに大切なのは、自分の肉体ではなく、「精神(意識)」です。そのようなことがユダヤ教にあり、キリスト教にあるのであれば、キリスト教の伝統とは関係ないにしても、精神(意識)の優位が生まれてきそうです。

ようするに、精神的なものを肉体的なものより上に位置づける秩序をささえるものは、みずからの衝迫の現実を考慮の外におきつつ、肉体的なものは野卑で下賤でくだらないと評価する、主観の側の思いなし以外にはないように思われる。(P.29)

それがイデオロギーであることを明らかにするには、まずなによりも、心の優越という価値的な秩序以前に、そもそも心と体、精神/身体という二分法それ自体が根本的に怪しいという点を強調しないわけにはいかない。(同)

ココロとカラダ

性愛では、ココロとカラダは絡みあい浸透しあっている。だとすれば、精神的な愛は、肉欲の交わりから分け隔てられたものとして確保されえない。(P.31)

「精神的な愛」と「肉体的な交わり」。「精神的な交わり」はありそうです。「肉体的な愛」はないのでしょうか。

ココロとカラダという対立は、心が体を対象として見ることと同じです。それは、私が《他者》を見ることであり、主体と客体の関係です。この「主客構造」は解消されません。主体(ココロ)は、自分自身、つまりココロ(意識)までも思考の対象とします。そうすると、主体が対象化されるのですから、その対象化をする(見る)主体が新たに設定されます。「こんな事を考えている私」を考えている私」を考えている私」を考えている私」・・・。疲れはてるか、精神がリミットを越えるまで続き(後退し)ます。ですから、一度発生した主客構造を乗り越えることは「論理的に」不可能なのです。

多分それは、アダムとイブがお互いが裸だということに気づいたときに発生したのでしょう。そして、今でも子供が「物心ついたとき」に繰り返されているんだろうと思います。環境(自然や家族)から自分を分けて考えるようになるときです。それは植物や、犬や猫にはないと思うし、同様に人間であればかならずあるものでもないでしょう。私は、それは特定の文化にしかない「特殊」なことだと考えています。少なくとも、それが明確に現れる(現在のような形になる)のは、近代西洋においてだと思います。それこそが「イデオロギー」なのではないでしょうか。「精神/身体という二分法」そのものがイデオロギーなのです。

だから、まず基本的に完結した自我があるのではない。愛の問題場面の「はじめ」にあるのは、自分のまとまりの確保を不可能にさせる他者との交わりである。この「根源」としての他者との交わりが、人にその自覚的なまとまりをささえる反応機制をとらせるのである。際限をしらないカオスに導く他者との交わりに、限定と意味と秩序を設定するために人は、交わりを特定の人格にかぎる精神的自己拘束の観念を採用する場合がある。そして、この観念にもとづく存在の戦略が首尾よく遂行されてはじめて、自覚的なまとまりを保持した自我が存立しうることになる。この存在の戦略に与えられた名、それが愛にほかならない。(P.44)

自我が自我を対象とせざるをえないものであるかぎり、自我は決して完結しません(「私は私のことをすべて知っている」という人もいるでしょうが)。完結した自我が成り立つとすれば、それは「他者(環境、カラダも含む)」の存在を「忘れる」ことによってでしかありません。自我はつねに他者の侵入を受けます。「感覚」はそれの典型です。ある状態とそれと違う状態を「感覚」しなければ、自我はなにもできないし、そもそも成り立ちません。それを「差異」と呼ぶこともできます(ただし、その差異に気づくのは感覚した「後」です。それを「差延」と呼ぶことも可能です)。西田幾多郎なら、それを「絶対矛盾の自己同一」と呼ぶでしょう。福岡伸一さんなら「動的平衡」でしょうか。

「めまい」(眩暈)

だが、肉欲の交わりの実相をとらえたいま、自我が能動/受動の二分法に固執するもう一つの背景が見えてくる。それは、能動と受動の混交によって、主体ー客体の関係が地すべりをおこし、融解してしまうことを避けようとする自我の傾きである。

私が客体に対する主体の地位を確保しうるのは、私が周囲の存在をみずからの認識作用でとらえ、操作的に働きかけ、自分の存在のために利用するかぎりにおいてである。主体性は、認識と行為の能動性なしにはありえない。」(P.92)

「嫌われるかもしれない」「相手を喜ばせなければならない」「自分勝手なセックスだと思われるかもしれない」等、自我を守ろうとするため、自我はセックスにのめり込めません。「陶酔」「眩暈」を求めても自我を失ってはいけないのです。それを自我がその本性から求めていたとしても、です。それほど「自我(の統一の欲望)」というものは強力です。

カイヨワは「遊び」の分類として「競争(アゴーン Agōn )、偶然(アレア Alea )、模擬(ミミクリ Mimicry )、眩暈(イリンクス Ilinx )」を挙げました。

「眩暈」は、手を広げてぐるぐる回る子どもの遊びやジェットコースターなどが代表的です。ある種の絵画(抽象画など)を観たときに起こる「心の揺れ(感動)」なども、一種の「めまい」でしょう。

そして「偶然」。実は私は賭け事が好きです。もちろん、勝つことが目標ですが、勝つか負けるかは「運次第」です(いつも勝つなら、それは賭け事ではなく「仕事」です)。帰りのバス賃もなくなるかもしれない、という「おしっこをチビリそうな感覚」がたまらないのです(汗)。偶然は「確率論(と大数の法則)」で「なくなった」わけではありません。むしろ、それから目をそらし続け、「自我の安心」を得ようとする努力にすぎません。

この二つは、(仮にでも)「ある(統一された全体)」だろう自我(意識)を、みずから揺さぶる行為です。60・70年代のフラワー・チルドレン(いわゆるヒッピー)が大麻などの麻薬を使うと同時に、ヨガなどの瞑想や、日本の禅に興味をもったのは、眩暈と「忘我」の境地を得るためです。忘我は、まさしく「我(自我)を忘れること(失うこと)」です。西欧人が「我を忘れる」ということは、日本人以上に難しいことのように思われます。西欧人にとって「確立した自我をもつこと(アイデンティティ)」は、日本人が明治維新以降、あるいは戦後の民主教育で培われた「自我」以上に、伝統的な長〜い「自我の歴史」があるからです。西欧人にとっての「自我の危機(アイデンティティ・クライシス)」は、日本の比じゃないんじゃないでしょうか。

子供

近代西洋において「子供」が「発見」されました。いや、むしろ「発明」された、という方が正しいのかもしれません。恋愛の「対象外」としての子供。恋愛をする以前の(自我をもたない)人間であるから、子供が恋愛をしてはいけないし、子供を恋愛の対象としてもいけません。ジャニー喜多川の「性犯罪」について、東山紀之さんは「鬼畜の所業」「人類史上最悪の犯罪」と断言しました。私はそんなことじゃないと思うけどね。

ちょうど動物と戯れるように、小さな淫らな猿でもあるかのように、人びとは子供と戯れたのであった。往々にして生じたことだが、子供が死亡したばあい、一部の人びとは悲嘆に暮れはしたが、一般的には子供にたいしてあまり保護はなされず、すぐに別の子供が代わりに生まれてこようと受けとられていたのである。子供は一種の匿名の状態からぬけ出ることはなかった。(中略)だが(この点が重要なのであるが)夫婦のあいだ、親子のあいだでの感情は、家族の生活にとっても、その均衡のためにも、必要なものとされていたのではなかった。(フィリップ・アリエス著『<子供>の誕生』、みすず書房、P.2)

これは、中世におけるヨーロッパの姿を描写したものです。近年、「子供の人権」が盛んに叫ばれています(「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」が国連総会で採択されたのは1989年。日本が批准したのは1994年)。日本のマスコミでも、事故(事件)や戦争の被害者について、「子供〇〇人を含む✗✗人」という報道がなされます(ちょっと前までは女性〇〇人、子供△△人を含む✗✗人、という報道がなされていました)。

子供を「人間」として認め、その「人権」を認めることは、子供を「一つの自我」として認めるということです。これは、黒人や黄色人種の人権を認め、(第三世界・発展途上国を)世界経済体制に組み込むことや、女性の人権を認め、労働力として利用することと同様に、子供を資本主義体制に組み込むことになるのではないか、という危惧を(私は)しています。日本において、成人年齢が18歳に切り下げられ、18歳19歳が「人間」として認められたと同じことが子供に起こるような気がしています。自由主義の名のもとに、労働者の保護はなくなりつつあります。男女平等(何故か最近「ジェンダー平等」という)で、女性の人権が認められるとともに、女性の保護はなくなります。子供にも同様のことが起こるのでしょうか。

歴史的に、豚や牛を食べてきた(地域によって異なる)ヨーロッパで「アニマルウェルフェア(動物福祉)」が盛んになりました。よくは知りませんが、ベジタリアンになりましょう、という動きではありません。人間が殺して食べることにかわりはないのですが、生きているあいだは幸せに(快適に)?暮らしてもらいましょう、ということのようです。動物に「人権のようなもの」を認めようということでしょうか。ジョージ・オーウェルの『動物農場』のように、人間が飼育され、搾取され続ける姿を思い描いてしまいます。

これ以上のことはここでは書きません。大切なことは「人権」あるいは「人間というものの範囲」というのは、時代により、文化により変わるということです。そして、他者に人格(人権)を認めることは、他者に「自我」を認めるということで、それは近代西欧社会が作り上げた「自我」を、女性や子供や動物や、果にはコンピュータにも投影するということです。それは柄谷行人のいう「独我論」です。

柄谷は、《他者》とは何かについて、積極的に語ることを自己に禁ずる。それは、ポジティヴな実在として記述されたとたん、ある同質的な言語ゲームを前提する、独我論的主観性の地平に送り戻されてしまうからだ。それは、あくまで《非ー在》としてしか、つまり哲学・思想がその規則に基づいてコミュニケートできないものとして、否定的にしか示されないものなのである。(浅見克彦著『批判のエロス』青弓社、P.109)

《他者》が《非ー在》であるのは「自我」が唯一の《実ー在》である限りなのですが、その自我の《非ー在》性の裏返しこそが、子供(《他者》)の自我の《実ー在》性なのではないでしょうか。

真に遊ぶためには人はふたたび子供にかえらねばならない。(ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』中公文庫、P.402)

人間は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」かもしれませんが、近代西欧人は「エゴ・ルーデンス(遊ぶ自我)」なのではないでしょうか。

対象愛

そこには、愛する者は、自分が好みとするタイプを基準に愛する相手を選ぶという想定がある。そしてそれは、見方を変えれば、愛する者が自分の愛の原因、理由づけを、愛する人のタイプ的特徴に求めるということを意味する。(P.100)

対象の性質が愛の意識を生むという原因論の背景には、みずからの主体性の存立を守り、安定的に維持しようとする、自我の要請がある。(P.105)

ところが実際には、対象愛は、みずから求める特定の性質があることを理由に対象を愛するのである。そこでは、対象は部分によって愛される。(同)

アイドルなどの「推し」を愛するということは、「可愛い」「ハンサム」「歌がうまい」など、そのひとの「部分」を愛するということです。

モテる人のことが羨ましく感じられるのは、その人が多くの人に好かれるわかりやすい魅力を備えていることが多いからでもあると思います。わかりやすい魅力というのは、容姿が整っているとか、髪型や服装が異性にとって魅力的に感じられるものであるとか、そういった「深く考えなくてもわかる良さ」によって醸し出されるものです。たくさんの人に好かれるというのは、そのうちに「深く考えずに好きになっている」人が多く含まれることも多いのです。(戸田真琴著『あなたの孤独は美しい』竹書房、P.91)

「わかりやすい魅力」とは、部分だけを見せる(見るようにする)ということです。テレビや雑誌に載せる事ができるのは、その人物の全体ではありません。その人物は、あるときに生まれ、成長し、やがて老人となり、死んでいきます。その一時期・瞬間(たいていは、若い頃)を切り取り、さらに流行のメイクと衣装を着せ、正面を見て笑っている瞬間が「切り取られ」ます。そこに共通の「コード」を見るのが「推し」です。本やテレビなどの「メディア」は、いくらデジタル化され、高画質化され、高音質化され、4D(VR)化されても、存在そのものの「全体」ではなく「部分」です(言語も同じ)。

他者を分析的に見ることに慣れていると、「全体」を見ることができなくなります。でも、自分が「部分」でないことを求める自我は、他者にもその「全体」を求めます。その求めに応じて「推し」は「語り」ます(鈴木涼美著『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』青土社)。「対象化」そのものが「全体」から切り離すことなので、それは仕方ないことなのかもしれません。

対象愛の態度は、みずからの愛の意識が、互いの存在の境遇と情況の文脈に依存していることを看過する。それは、そうした「あいだ」の「なりゆき」にもとづいて見いだされた相手の性質を、構造的文脈が際立たせたものとしてではなく、相手自身がもっているもの、つまり相手の存在に固有に内属するものとみなす。(P.106)

「構造」が存在するのではありません。見出したあとに構造が見つかるのです。構造主義者にわかりやすいように言えば、見いだすことによって構造が変化するのです。それはペットの犬でも、商品でも同じです。差異が対象に存在すると思ってしまうのです。ついに自我は、その部分を全体とみなさなければ認識そのものの危機を迎えます。でも「全体を愛する」ということは何なのでしょうか。自分の自我すら、その全体性が成立しないのに、他者の全体を愛するということが可能なのでしょうか。多分不可能です。「私」というのは、現在認識している「部分」でしかないのに、その部分以外(残余)を見ないことによって、かりそめの全体(統一)をなしているにすぎません。それが意識的であろうとなかろうと。

それは、他者の存在を、みずからが欲する性質の担い手として、言いかえれば、みずからの欲望と快楽を充足する手段として確保し、整形し、支配する、所有の愛なのである。(P.108)

問題は、動物の行動範囲の制約という事実それ自体ではない。そうではなく、動物を愛する人が、動物の存在を愛玩物、あるいは愛らしさという部分的性質に還元し、それ以外の性質を制限または剥奪しようとするからである。(P.118)

愛玩者が真に大切にしているのは、動物の存在ではなく、自分自身の存在にほかならない。ペットへの愛とは、少なくとも客観的には、自己への愛という契機をそなえているのである。(P.119)

対象愛が、「自己への愛という契機」をそなえているということは、それが「自己の所有という契機」をもっているということです。

この傾向は、同一のものとしてのまとまりを求める点では、存在の同一性の追求と呼ぶこともできるし、みずからのあり方をわがものとしてとりまとめようとする点では、存在の固有性、あるいは固有存在の追求と呼ぶこともできる。そして、この同一性と固有性が、みずからのあり方の根拠を己のうちに確保しようとする態勢を要求するかぎりでは、自我の自存性が求められているともいえる。だとすれば自我は、所有的な愛に向かわざるをえない。(P.149)

全体から部分を取り出すこと、つまり「具体的なもの」を見るとき、それは全体が持つ性格(普遍)を持ちながらも「固有なもの」、つまり特殊性をもつことになります。私のペットの「ポチ」は、犬一般じゃない、「かけがえのないポチ」なのです。そして、そのポチを愛する私は一人称単数の「私(I、アイ)」ではなくて、「かけがえのない私」なのです。

稀少性

「かけがえのない私(ポチ)」「かけがえのない水」「かけがえのない地球」「かけがえのない私」・・・。これは「人間一般」「概念としての人間」などの、総合的思考に反するものですが、全体を知るためにはまず分析をして部分、あるいは個別を知らなければなりません。私が見たり、触ったりできるのは「犬一般」ではなくて、目の前にいる「ポチ」でしかありません(「総合と分析」については、古田裕清著『西洋哲学の基本概念と和語の世界』中央経済社、参照)。

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。(小林秀雄『当麻』筑摩書房 日本文学全集42 「小林秀雄集」 1970/11/01 P.366)

目の前にある一本の花は、他の花と異なり「唯一無二」のものです。具体的な存在(存在者)は全てそうです。だから、それを失っては二度と手に入れることも見ることもできないのです。「このかけがえのなさ」をイヴァン・イリイチの言葉で言えば「稀少性」です。

水は空気と同じに「どこにでもあるもの」です。当たり前です、水と空気があるところに人間は住むのですから。それらは「つねに/すでに」あるものなのです。なので、それは「商品」にはなりません。わざわざお金を払って買う必要はないからです。でも砂漠(それはユダヤ教やキリスト教が生まれた場所)では、一滴の水はお金には変えられないほど貴重なものです。それが稀少だからこそ、お金を払って買わなければならないものになります。

教育も医療も、どこにでもあるものであればお金を払う必要はなく、商品にもなりません。きれいな花も、恋愛の対象も、かけがえのない稀少性として現れるとき、あるいはそれをかけがえのない稀少性として思うときに、「所有欲」が発生します。そして究極の「かけがえのないもの」が、「自分(自我)」です。

俺の女に手を出すな、彼は私のもの

どこにでも(大抵は)男がいるし女がいます。学校がなくたって、教えたり学んだりすることはできます。でも、学校がなければ学ぶことができないと思ったとき、教育は稀少性になります。この相手を失ったら、ほかに代わる人はいないと思ったとき、その相手を所有(占有・排他的所有)したくなります。

「所有(持っている)」ということはどこにでもあります。でも、稀少性から発生する所有と、そうではない所有とはまったく異なります。同様に自我がある愛(恋愛)とない恋(恋愛)とでは全く異なるのです。恋愛が稀少性となっている社会では、恋愛が商品となります。「パラソル」と同じです。

 女の顔

女は情熱に驅られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも差支へない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』岩波書店、全集第七巻 1978/02/22、P.449)

「女」としていますが、男も同じです。趣味に走る男(骨董でも鉄道模型でもなんでも)を妻は理解できないようです。でも、男と違って女は許しているようですが。そんな男の甘えも、もうすぐ許されなくなりそうです。

「好き」だという思いはどこにでもあるような気がします。たとえそれが文化(流行)の影響を受けていようと、そうでなかろうと。個性があるかぎり、いろいろなものを好きになるでしょう。そしてその対象はどんどん商品になっていきます。植物も、昆虫も、河原の石も。商品になったものは買わなければいけません。つまり、その好きになった対象を法的に所有しなければなりません。

ですから、商品がある社会では、恋愛は所有的になるのではないでしょうか。「主客構造」が排他的所有となるのは、稀少性の観念が支配的な文化に於いてなのです。そこでは、人びとは「恋人づくり」「恋愛の対象探し」「その相手の性的交わり」を求めて躍起になり、一度「獲得した」恋人に固執し続けることになります。その社会では「セクシャリティであることを強制」(フーコー)され、「自由の罪に処せられている」(サルトル)のではないでしょうか。

斎藤幸平さんはをキーワードに、それを〈コモンズ〉の喪失で説明しています(『人新世の「資本論」』集英社新書)。私もそれに同意します。ただ、なぜ〈コモンズ〉が破壊されるのか、なぜ「希少性」「欠乏」が発生するのかがよくわかりません。(特定のあるいは一般の)個々人の欲望が〈コモンズ〉を破壊しているとしても、「〈コモンズ〉再生」あるいは「コミュニズム(共産主義)」を「倫理」「道徳」「自己統御」「我慢すること」に求めることは不可能です(斎藤幸平さんがそう言っているわけではありません)。というか、私は嫌いです。「近くて便利」「豊かな生活」を求めることと、「自由で平等」「民主主義」を求めることは「同じ思考様式」だと思うからです。そして多分、倫理や道徳、自己統御を嫌う気持ちも同じなのでしょう。

本を読み、書くことをやめられない私は、近所に開店したローソンに行って記念品の食器用洗剤をもらってきました。何も買わずに帰ろうと思ったのですが、申し訳ないと妻が言うので私はコーヒーを買いました。妻は、1000円以上の買い物をしました。間違いなく、洗剤より高い出費だと思います。






[著者等]

浅見/克彦
1957年、埼玉県生まれ。北海道大学教員。専攻は経済学、社会思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

そもそも人を愛するとはどういうことだろうか?どうして愛は他者を所有しようとしてしまうのか?自我は所有の求めをどう実現しようとするのか?愛する者は自我と愛と所有のトライアングルのなかで、苦悩と哀しみを身にまとう―。愛わめぐる心の動きを桜井亜美や山田詠美などの小説やAYUの歌のなかに、あるいはR・バルト、J=P・サルトル、D・ヒュームなどの哲学思想のなかにさぐり、私たちの存在そのものの核心へと肉薄する。愛する者たちのありふれた感覚と思いによりそいながら紡ぐ、深い探求と刺激的な挑発に富んだ思索。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4787231864]

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