テアイテトス ーー知識についてーー プラトン著 田中美知太郎訳 1974/12/05 プラトン全集2 岩波書店

テアイテトス <s>  </s>知識について<s>  </s> プラトン著 田中美知太郎訳 1974/12/05 プラトン全集2 岩波書店

産婆術

ソクラテスの「産婆術」について、明確に書かれています。

すなわち、君も知っていることだろうが、彼ら産婆のうちには、誰一人として、まだ自分が妊娠をしたり産をしたりする身でありながら、それで他人の産婆をつとめるというような者はいない。そういうことはもう産のできない者がしているのだ。(ステファヌス版全集、149b)

うん、ところが、僕の心得ている産婆取り上げの術には、いま言った産婆たちのもっているほどのものは、むろんみな所属していて、ただ異なるところとしては、男たちのために取上げの役をつとめるのであって、女たちのためでないということ、しかもその精神の産をみとるのであって、肉体のをではないということがあるのではあるが、しかし、このほかに、僕たちの技術には、いちばん大事なことでこういうのが含まれている。すなわち当の青年が思考を働かして分娩したところのものが為似物や偽物であるか、それとも正物であり真物であるかを百万検査するということが〔この技術を心得ている者には〕できるというのである。なぜこれが一番の大事であって他にこれ以上のことはできないのかというと、それは次のような事情が産婆たちにあると同じように僕にもまたあるからなのだ。すなわち僕は知恵を生めない者なのだ。(150c)

産婆が「自分が産をしない者」だったんでしょうね。日本はどうだったのでしょうか。いまは出産経験のない女性の医者もいるだろうし、それよりも男性医が多いのではないでしょうか。

「出産は病気ではない」ということで、正常分娩には健康保険が適用されません(その代わり、補助金のようなものが支給されます)。でも、出産に関する行為は殆どが病院でなされ、医学が適用されます。病院での出産が「安心」だ、といわれます。そこにジェンダー崩壊があります。

出産は女たちの、また女たちのあいだのでき事ではなくなったのだ。子宮は、医療上の取締りの用語では、嬰児を生産する専門的器官となった。女とは、あたかも二本足の上の子宮であるかのように記述された。女は、他の女が産むことをもはや助ける者ではなくなった。医師や助産婦が子どもを取り上げたのである。(中略)ジェンダー不在の医療は、子宮を一種の、出産前のパーキング・ガレージに変転させている。(I.イリイチ『ジェンダー』岩波現代選書、P.273)

そしてそこには「感覚」と「知識」の取り違えがあります。ソクラテスは明言します。

したがって、かの〔身体を通して〕受けとられるだけのものの中には知識は存しないわけなのだ。むしろそれらについての思量(勘考)のなかに知識があるのだ。(186D)

したがって、どんな場合においても、テアイテトス、感覚と知識が同じだということはないだろう。(186E)

ソクラテスは、感覚よりも知識(思量)に重きをおいていると思いますが、それを単純に「女性蔑視」と捉えてはいけないでしょう。なぜなら、ソクラテスは出産自体を感覚(経験)することができないのですから。それよりも、現代人が「知識が感覚に代わりうる」と考えるほうが、よほど「女性蔑視」なのではないでしょうか。

智者たちを解説し、批判する

なぜなら、何ものもいかなる時においてもあるということはないので、始終なるのだからというのである。そしてこのことについては、パルメニデスを除くすべての智者が相並んで同一歩調をとっているとみてよい。すなわちプロタゴラスとヘレクレイトスがそうであり、またエンペドクレスがそうである。(152D)

パルメニデスが除かれていたのは、かれが「あるはあり、ないはない」、つまり「無から有は生じない」と考えていたからでしょう。「なる」というのは、「無から有が生じる」ということですから。つまり、ソクラテスは「生成」や「運動」を認めるからです。

つまり、私の言おうとする動きの品種はこれ二つがそうなのです。一つは〔何か違った性質のものになるという〕変化であり、他の一つは〔場所の〕運動なのです。(181D)

すべてが「時間的・空間的に変化」します。でも、ソクラテスは「同一性のないもの(片時も止まらず変化するもの)は認識することができない」と言います。

というのは、「そう」ということ、このこともまた言ってはならないのです。なぜなら、そうすると、「そう」というのがまたもはや動かなくなるかもしれないからなのです。また他方「そうでない」ということも言ってはならないのです。なぜなら、これもまた動きではないからです。むしろこの説を唱える人たちは何か他の言語を制定しなければならないのです。(182B)

同一性(静止)しながら変化(運動)するもの、これは「ゼノンのパラドックス」を受けたものでしょうが、ソクラテスがどう解決したのかは私にはわかりません。パルメニデスの「存在論」と深い関係があることは想像できますが。

ソクラテスは著作を残しませんでした。

なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人達に与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない、すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合は本当は何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう(藤沢令夫訳『パイドロス』プラトン全集第5巻、岩波書店 1974年、P.255-256)

じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(同書、P.257)

ソクラテスには「対話」が重要だったのです。文字は、「対話」を「固定(静止)」してしまいます。そんなことはソクラテスは、考えもしなかったことなのではないでしょうか。それに比べてプラトンの著作の多いこと(アリストテレスはさらに)。ソクラテスの思想にプラトンに通じるものがあったでしょうが、それは「悪い半面」かもしれません。

「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になつたかと思ひますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは讀んで字の通り、或作品の芸術的價値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗るこの論法には危険であります。

「たとへば日本の櫻の花の上にこの論法を用ひて御覧なさい。櫻の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用ふるためには『より善い半ば』よりも『より悪い半ば』――即ち櫻の花の匂ひを肯定しなければなりません。つまり『匂ひは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまふのであります。(芥川龍之介『侏儒の言葉』、岩波版全集第七巻、P424-425)

イエスと使徒の関係、ブッダと弟子の関係、などが思い浮かびます。親の心子知らず、という言葉で片付けられるものではないと、私は最近身につまされています。

全体と部分

ソクラテスは「感覚(不感覚)」と「知(不知)」の関係を場合分けしています。P.337(192A)以下の14(17?)の場合分けは、訳者が図にしてくれていますが(P.339、訳注)、頭が混乱します。私は理解することを諦めました(笑)。

そしてさらに、色々な例を上げてテアイテトスと対話するのですが、テアイテトスは「全くそのとおりです」と言う場合と「そういたしましょう」と言う場合があります。それは当時のギリシアで「当たりまえ」だと思われていたことと、そうじゃないことをプラトンが明確に意識しているからですね。そして、その感覚は現代に生きる私とも「ほぼ」共通しているようです。素直にソクラテスが言うことが納得できる場合と「そうかなあ」と思う場合があって、私が「そうかなあ」と思う場合は、テアイテトスも「そのとおりです」とは言いません。でも、ソクラテスはどんどん話を進めていきます。そうしなければ、話が終わりませんからね。

私が重要だと思ったのは、「部分と全体の関係」です。すでにそれは「同一性」が前提されています。認識が可能であること、それは「差異」にもとづくものであることが前提だからです。

というのは、たぶん、綴はすなわち字母だとして想定されるべきものでなかったのだろう。むしろ、字母からできてはいるが、それは字母とは異なるものであって、それ自体にそれみずからの単一な形相をそなえもっているところの、一種単独の品種であると、こう想定すべきだったのであろう。(203E)

「形相」というのは、多分「イデア」のことです。「ソクラテス(Sōkrátēs )」というのがイデアかどうかは微妙ですが、それがイデアだとして、その綴りを構成する「S」や「O」だって「ないもの」ではなくて「認識される存在」としてそれも「イデア」です。

さらに、「六」について、

「その全部を合わせたもの(すなわち総和)と全部を一体にしたもの(総体)とでは、どこか違うところがあるだろうか。たとえば、われわれが一、二、三、四、五、六と言ってから、また三の二倍とか、二の三倍とか、四加えるの二とか、三加えるの二と一とかいう場合、われわれがこれらすべてにおいて言っているのは、同じ(ひとつの)ものなのであろうか、それとも異なったものなのであろうか。(204B)

一、二、三、四、五、六、すべてがイデア(概念)です。「六」のイデアを説明するのは一通りではありません。そして、その説明をする「一、二、・・・五」それ自体も概念です。つまり、認識可能な知識です。

これからの問答を理解しやすく訳すために、これから同一の原語(ト・パーン)に対して「全部」と「総体」の二つの訳語を用いなければならなくなった。「全部」は「全体」に対して用い、両者の類似性を示す。「総体」は「総和」に対し、その相違は「総体」(ト・パーン)が単数であって、「総和」(タ・パンタ)は同じ語の複数であるというところにある。」(P.379、訳注)

「汎用の〈汎〉」は「パーン πᾶν」の音訳で、日本でもよく使われます。ところが日本語の「全部、全体、総体、総和」などの単語には、単数・複数の区別がありません。それに加えて、当時のギリシアで普通になってきた定冠詞の問題があります。英語で言えば「the」です。加えて品詞の性、つまりジェンダーもあります。「tό πᾶν」中性名詞単数形、「τά πᾶντα」は中性名詞複数形です。古典ギリシアの哲学者は、この単複、定不定、をうまく使い分けて思想を伝えています。そしてそれは日本人にはなかなか理解できないことなのではないでしょうか。

ここでソクラテスが言いたいことを私は、「部分が集まったのが全体ではなくて、部分も一つの全体だ」という意味に解釈しました。動いて(変化して)いながら同じ(同一性)ものをあらわしたり、部分でありかつ全体であることをあらわすのなら、ソクラテスの言うように「別の言語(言葉)」を作ればいいのですが、それでは他人は理解できません。日常使われている言葉で会話すること、それがソクラテスのポリシーだったのではないでしょうか。

知識とは何か

さて、対話を通じて「知識(エピステーメー)」とはどういうものだということになったのでしょうか。

知識を「何がそれであるか」とわれわれは探しているのに、差異の知識にせよ、何の知識にせよ、とにかく知識を加えた正しい思いなしがそれであると主張するなんていうのは、おめでたくもまた愚かしいことなのだ。したがって、知識であるのは、テアイテトス、君のいう感覚でもなければ、また真なる思いなしでもなく、そうかといってまた真なる思いなしに言論の加わってできるものでもないということになるだろう。(210A)

これがソクラテスの結論のようです。話はまだまだ続きそうなのですが、

では、今はとにかく、メレトスが僕を訴えたので、その公事(くじ)に対してバシレウスの役所に僕は出頭しなければならないが、明朝早く、テオドロス、ここでもう一度われわれは出会うことにしましょう。(210D)

といって別れます。

やっと三巻

これで、プラトン全集を一、二、五、やっと三巻読み終えました。当初三年程度で読めればいい、と考えていたのですが、このペースだと読み終える前に、私自身が終えてしまうでしょう。

とくにこの『テアイテトス』は、ほとんど理解できませんでした。しかも読んだのは半年ほど前で、流し読みでしたから、ほとんど忘れていました。それでも、原本を読むのはいい経験です。ギリシア語は読めないけど。







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