識字層の問題 池上禎造著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

サルの言語と人類の言語 伊谷純一郎著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

日琉祖語(Wikipedia

著者のことは知りません。Wikipediaを調べたら、「日琉祖語」の項に「有坂=池上の法則」というのが載っていました。どうやら母音調和(一語の中に現れる母音の組み合わせに一定の制限が生じる現象のこと。同化の一つ)に基づいて、上代日本語(祖語)を見つけ出そう(確定しよう)という説のようです。

日本語の祖先を探るのは、日本語だけでなく、日本文化の源流を探るうえでもとても大切です。インド=ヨーロッパ祖語(印欧語の祖先)が分かったことによって、インドからヨーロッパにいたる文化の基本的性格が明らかになりました。もちろん、枝分かれしてからのインドと西欧の文化は大きく変わっています。でも、同じだからこそその違いもよくわかります。

日本語がどこからきたのかはさまざまな説があるようです。言語と文化は伝播します。でも、その源流を探すというのは、言語がどこかで「発生」し、それが伝わったという考え方です。ちょうど人類がアフリカ大陸で生まれ、世界中に広がっていった、という説と同じです。そうなのでしょうか。たとえ印欧祖語が広まったにせよ、広まった先には人間がいなかったのでしょうか。それともその人たちは「ことばをもたなかった」のでしょうか。私にはそうは思えません。今西錦司風に言えば「しゃべるべくしてしゃべった」のだと思いたいのです。声帯ができて声を聞く耳もでき、それを理解する知能もできた。それは集団のひとり(多分子ども?)が「突然変異」でしゃべりだしたとして、それを聞く人がいなければそれは言語とは言えません。言語は誰かが話し始めたのではなく、集団として、初めから文化として成立しなければならないと思います。各地方、各集団で話され始めた言語は、その土地の風土を反映していたでしょう。たとえその後、その言語が広がり、または縮小したとしても、その地域の文化や風土の影響を受けたことは間違いありません。

使われない言語、あるいは母語

使われなくなった言語は、数え切れないほどあるでしょう。使われなくなった言語は、それが文字または文献になって残っていないかぎりわかりません。今このときにも失われた言語があるかもしれないし、失われつつある言語も何千もあるといわれています。

現在イスラエルの公用語となっているヘブライ語(ヘブル語、ヒブル語)は約1800年前に口語としてはなくなりました。旧約聖書はヘブライ語で書かれていました。その後も文章語としてのヘブライ語はありますが、口語としては19世紀末に復活たようです。

一度日常語として使われなくなった古代語が復活し、再び実際に話されるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけである。 (Wikipedia「ヘブライ語」)

前述のように、言語は風土や文化とともにあります。風土や文化の中にあって、はじめてその役割を十分に果たすことができます。それは、ふつうの「道具」と同じです。イリイチは「ヴァナキュラーな話しことば」と「教えられた母語」を明確に区別しています。

ヴァナキュラーなものとして、人は生まれ、そして育って、男となり女となる。これにたいし性役割は、後天的に獲得されたものである。<割り当てられた>性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。

ヴァナキュラーなジェンダーと性役割のちがいは、ヴァナキュラーな話しことばと教えられた母語とのちがい、生活の自立・自存と経済本位の生活とのちがい、になぞらえることができる。(『ジェンダー』岩波現代選書、P.171-172)

私は、イスラエルで話されているヘブライ語は、この「教えられた母語」に当たると思います。わたしたちが話している日本語はどうでしょう。私にはわかりません。方言は失われつつあります。そして、話していることばの大半は、学校で教えられたもの、書物で読んだもの、そしてテレビやラジオで放送されているものです。字が書けるか(読めるか)どうかに関わりなく、「教えられた母語」のように思います。さらに、今は小学校から英語を習うそうです。ヴァナキュラーな話しことばとしての日本語(大和言葉は、現在では基本的に書き言葉です)は、言文一致というなのもとに、書き言葉の影響を受け、さらにマスコミによる共通語(標準語)の影響を受け、そして英語を始めとする印欧語の影響を受けています(学校で習う英語も「話しことば」とは言えないでしょう)。

それでも、言語は風土や有形無形の文化のなかで意味を持ちます。ですから、ジェンダー同様どこかに残り続けているはずです。それを見つけることが今必要とされているように思います。

識字

私の叔父は字が読めませんでした。叔父はそのせいで自動車の運転免許を持っていませんでした。運転技術や知識は問題なかったのに。末っ子だった私の父はその叔父に可愛がられていたので、何かと面倒を見ていたようです。

その就学率によって、一九〇〇年を境に、その前後一〇年ほどの間に文盲率が急に減ったと言われているのである。(中略)就学率から文盲率を推定するのが容易に過ぎることは言うまでもないが、明治からは皆が文字を持っているはずのものという前提で、社会が動き生活が営まれるという体制になったことを重視したいのである。(P.79)

現在「文盲である」ことは、生活上とても支障があります。実際の能力(技術)とは関係ありません。それが前提の社会なのです。テレビでも文字は多用されます。ニュースの見出しは当然として、バラエティ番組でも飾り文字の「テロップ」が多用されます。私は、そのテロップに笑わされます。昔の(今もある)観客の笑い声が、笑いを誘うのと同じです。たとえ声が聞き取れなくても、その文字と話者のイントネーション、間のとり方などが笑えるのです。

語を扱う場合に、話しことばと文字との関係は単純なものでない。それらには層に分けての立体的な考慮がいることを痛感しているので思いつくままに挙げて余論とする。(P.86)

言語を話すことと、文字を書くことはまったく別のことです。口に出さずに読むこと(黙読)は、西欧においても近代に(というか現代になって)確立されたものです。読むということは、書かれたものを口に出して現実の音にする行為だったのです(時代劇で手紙を見つめるだけで読んでいるのは嘘くさいです)。黙読によって、文字が生活(ことば)から切り離されて自立します。

バラエティ番組など、テレビで文字が勢力を増しているのは、ヴァナキュラーな話しことばと文字が再融合する兆しでしょうか。私にはそうは思えません。むしろ、話しことばが抹殺されようとしているように思えるのです。文字は、「デジタル化」です。話しことばにまとわりつく風土や文化、話された状況、話し手の身振りやその時の気温など、さまざまなものを切り捨てることによって文字化(デジタル化)は可能になります。簡単なことはいいこと、痛いことや苦しいことは経験したくない。データとして生きることで、物事は簡単になり、「気持ちいいデータ」を入力してやれば幸せになる(感じられる)、まさしく『無痛文明』です。

それが本当の「幸せ」かどうかは人それぞれの判断です。ただ、その無痛文明のために、痛みを感じる大勢の人が必要なのではないでしょうか。文字化(デジタル化)バラエティ番組が教えてくれているかもしれないもう一つのことは、それで笑えるうちはまだ、ヴァナキュラーな話しことばが消えていないということだと思いたいのです。失われたジェンダーのかけらもそこにみつかるのではないかと。少しは希望を持ちたいこの頃の私でした。







[]

シェアする

フォローする