歎異抄をひらく 高森顕徹著 2008/03/03 一万年堂出版

歎異抄をひらく 高森顕徹著 2008/03/03 一万年堂出版
110円

古本屋の100均コーナーにあったので買ってしまいました。今でもしょっちゅう新聞に広告が掲載されているので、本の名前は知っていました。キャッチコピーは「無人島に、1冊もっていくなら『歎異抄』」。昔よく「無人島に・・・」って話題作りをやったなあ。「水」とかリアルな答えをする人と、「マルチツール(いろんな道具が一つになったもの)」という方法論的な答えをする人とか、その人の性格がわかって面白いです。

ハードカバーで装丁もきれい。紙質も厚めでしっかりしていて、ピンクの栞紐もついてます。意図はわからないけど、桜の写真だけのページもたくさんあります。文字も大きくてとても読みやすいです。

合わせて『日本古典文学全集  27』(1971/08/10、小学館)を読みました。こちらは原文の全部と現代語訳が載っています。

ちなみに、ふりがなが多い親切な本なので、仏教用語独特の漢字の「読み」も間違えることはありません(面倒なので、引用文のふりがなは省略します)。


第一部 『歎異抄』の意訳

第一部は『歎異抄』の意訳。序から第十章までは原文と意訳が載っています。別序の原文と意訳、第十一章から第十八章までの要約、後序の原文と意訳です。

なお、十一章から十八章まで批判されている邪説は、今日はあまり耳にすることのないものが多いので、意訳は割愛し要約のみにした。(P.7-8)

ということだそうです。

序から第十章までは、書家・木村泰山氏による毛筆書きの原文があります。これが美しい。読みやすい漢字ひら仮名交じり文で、普段こういうのを目にしない私は古文の原本を観ている気になって楽しいです。底本には「永正本」(1519年、大谷大学蔵)が使われているそうですが、「永正本」は漢字カタカナ交じり文(濁点なし)です。

『歎異抄』でいちばん有名な文章は、

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。(第三章)

でしょう。

若い頃、つげ義春の『ねじ式』でこの文章を見たと思っていました。小学館文庫の『ねじ式 異色傑作集 1』(1976/04/20)を本棚から探し出して読み直したのですが、表題作の「ねじ式」(1968年)には見つかりませんでした。その他の短編も全部読んだのですが見つかりません。主人公が左腕を圧えながら街を歩く絵に、手書き文字でこの文章があったのを鮮明に覚えているのですが(その絵も見つかりませんでした)。「ねじ式」はいろんなバージョンで出版されてますからね。それとも私の思い違いなのでしょうか。

コトバンクの説明を見てみましょう。

善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや
人はだれでも悪人であり、そういう人こそが、信仰によって救われるべき対象なのだ、ということ。

よい行いをする少数の善人でさえも極楽に行けるのだから、仏の救いに頼るしかない大多数の無力な悪人が救われるのはいうまでもないことだ、という意味。親鸞の教えの真髄を表すことばだとされています。(コトバンク

わかったような、わからないような。本書の著者の解釈は第二部にあります。

第一部はとても読みやすかったです。並行して読んだ小学館版は何故か頭に入りませんでした。この本が読みやすかった理由は多分、毛筆の原文のおかげだと思います(毛筆文は一生懸命読もうとするので)。


第二部 『歎異抄』の解説

項目を列挙します。

1 『歎異抄』は、いかに誤解されやすいか、その現状   ある大学教授の場合
2 「弥陀の救いは死後である」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
3 「念仏さえ称えていたら助かる」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
4 「善もいらない、悪も怖くない」あなた、こんなことが信じられますか?『歎異抄』の言葉
5 「弥陀の救いは他力だから、真剣な聞法や求道は要らない」という誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
6 「ただほど高いものはない」と言われる。では『歎異抄』の”ただ”とは
7 「念仏称えたら地獄か極楽か、まったく知らん」とおっしゃった聖人   「弥陀の本願、まことにおわしまさば」の真意
9 なぜ善人よりも悪人なのか? 「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の語根を正された、親鸞聖人のお言葉
10 「仏」知らずが「ほとけ」間違いを犯す元凶
11 葬式・年忌法要は死者のためにならないって?それホント?
12 「四海みな兄弟」と呼びかけられた親鸞聖人のお言葉
13 弥陀に救われたらどうなるの?万人の問いに親鸞聖人の回答
14 念仏称えたら、何かいいことあるの?なにか呪文のように思うけど   絶対他力の念仏
15 親鸞さまは本当のことを言われる人ね。私と同じだもの   『歎異抄』の落とし穴
16 「南無阿弥陀仏」ってどんなこと?「他力の念仏」の真の意味を明らかにされた、親鸞聖人のお言葉
17 自力の実態を暴き、他力の信心を明らかにされた、親鸞聖人のお言葉
18 人類の常識を破り、生きる目的を断言された、親鸞聖人のお言葉

まずは「9(善人なをもって・・・)」です。

実際、”悪をするほど助かるのだ”と好んで悪を行う「造悪無碍」とよばれる輩が現れ、「悪人製造の教え」と非難された。(P.195)

問題は「善人」と「悪人」の意味です。

聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。

では、聖人の「善人」とは、どんな人をいうのであろうか。

”善を励んで助かろう””念仏称えて救われよう”と努める人である。励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから、「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。

”諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願を疑っている人だから、「疑心の善人」とも言われている。(P.198-199)

ポイントがいくつかあります。

まず「人間の本性は悪だ」ということです。キリスト教の「原罪」のようなものでしょうか。仏教用語では人間の行いに「業(ごう)」と「行(ぎょう)」があります。ちょっと調べましたがよくわかりません。

「業」はサンスクリット語「カルマ( karman )」の訳です。「自業自得」と言われるように、今の行いが将来に影響を与えるということのようです。「因果報応」「親の因果が子に報い」と言うように、前世での行いが現世に影響を与えるという意味もあるようです。

「行」はサンスクリット語「 saṃskāra 」「 caryā 」の訳です。「浄土真宗では,阿弥陀仏の救済を信じて,念仏することをいう」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「」)。「精選版 日本国語大辞典」では、

① 仏語。

(イ) (saṃskāra の訳語。造作(ぞうさ)の意) 十二因縁の一つで、善悪のいっさいの行為をいう。転じて、いっさいの移り変わる存在の意にも用いる。

(ロ) (carita の訳語。行為、実践の意) 悟りに到達するための修行。(コトバンクより)

「悪人」「悪をなす」と言っても、その悪とは、その時代、その社会、その共同体のなかで「悪」であるということで、時代や場所が変われば変わります。同じ時代や場所でも状況によって変わるでしょう。逆にいえば、状況によって悪をなさねばならないときもあるでしょう。どの時代においても「何をなすべきか」「何をなさざるべきか」を迷ったり悩んだりすることはありそうです。では、「なんのために」「だれのために」悩むのか。「村のため」「家のため」「仲間のため」「子どものため」「親のため」「自分のため」・・・、限りなくありますね。


他力本願

日常会話で「あいつは他力本願だなあ(人任せで、自分でやろうとしない)」(今は使う人はいないかな)というのとは違います。

「”善を励んで助かろう””念仏称えて救われよう”と努める人」は「自力作善の善人」であり、「弥陀の本願を疑っている人(疑心の善人)」だというのです。まさしく他力本願です。

たりき‐ほんがん ‥ホングヮン【他力本願】
〘名〙
① (他力すなわち本願の意) 仏語。自己の修行の功徳によって悟りを得るのでなく、もっぱら阿彌陀仏の本願によって救済されることをいう。
② 事をなすのに、ひたすら他人の力をあてにすることを俗にいう。〔音引正解近代新用語辞典(1928)〕(精選版 日本国語大辞典

小乗仏教のように、「アートマン(自・我)を突き詰め、ブラフマンとの一体化を目ざす」(梵我一如)とはぜんぜん違うし、そもそも「自己(自我)にそんな力がある」なんてことを認めません。「他人任せ」ではありません。自分が何かを「(能動的に)なす」ということそのものがむしろ「悪」なのです。

戦後の民主教育を受けた私は、「主体性(自主性)を持つ」ことを教え込まれました。「人間は何かをなしえるのだ」と、「それが人生の目的だ」とさえ教えられてきました。社会をよくしたい、自然をまもりたい、平和な世界を作りたい・・・という想いは、「人間は社会(他人)を制御・支配できる」「人間は自然を制御・支配できる」「人間は世界(実存)を制御・支配できる」という思いから生じます。社会・自然・世界は客観的存在(客体)であり、人間は(そして人間「だけ」が)主体である、という思いです。でも、人間は自分の体すら思うようにできないし、自分自身の「考え・思い」も自由にはできません。西欧は、自然を対象化し研究(探求)することによってその「本性(法則)」を理解し、統御(制御・支配)できるものだと思い、どんどんそれ(いわば自然の真理、あるいは神の真理)に近づいている(進化している)と思いこんでいます。でも、そうできているでしょうか。これだけ自然を破壊しておきながら未だに「SDGs」などということを言っています。少しも統御できていないじゃないですか。成果(生産物)は自分のもの、副産物(廃棄物)は他人の責任。それは「自力」ですらありません。

私は、西欧の思想を否定しているのではありません。そういう思考があってもいいと思うけど、自分の地域の中だけにしてほしいのです。非西洋から原料を仕入れ、廃棄物を非西洋に押し付けるようなことはしてほしくないと思うのです。日本国内でも同じです。「地産地消」からどんどん離れています。100年前(半世紀前?)までは、人間の排泄物も地域で消費していました。今は原発廃棄物まで海に流しています。そして「海産物を買ってもらえない」と不平を言っています。西欧的な思考が支配を握りつつある証拠です。


今(現世)の幸福(救い)

私は仏も阿弥陀も信じません。前世も来世も知りません。極楽にも地獄にも興味がありません。

[原文]「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめしたまうなり(『歎異抄』第一章)

[意訳]”すべての衆生を救う”不思議な阿弥陀如来の誓願に力によって救われ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂めとって捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。(P.138-139)

死後や来世ではなく、生きている今の幸福こそが大切だということです。

[原文]念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり(『歎異抄』第二章)

[意訳]念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、まったくもって親鸞、知るところではない。(P.180-181)

念仏を称えることが大切なのではなくて、阿弥陀の思い(本願)を知ることが大切なのです。「弥陀の誓願」ってなんでしょうか。なにか「自分の非力を知ること」のような気がします。ソクラテスが言う「自分が知らないということを知ること(不知の知)」と似ている気がします。自分が何かをできるという「自我の束縛=煩悩」から逃れることでしょう。

[原文]念仏は行者のために非行・非善なり(『歎異抄』第八章)

[意訳]称える念仏は、弥陀に救われた人には「行」でもなければ「善」でもない。非行・非善である。(P.236-237)

信ずる心も称える心も、みな南無阿弥陀仏の独り働きとなり、私をして動かすものであり、私は動かされているだけなのだ。聖人の教えを「絶対他力」と言われる所以である。(P.241)

う〜ん。


南無阿弥陀仏

[原文]念仏は無義をもって義となす、不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき(『歎異抄』第十章)

[意訳]念仏には、計らい無きことを謂れとする。

自力の計らい尽きた、他力不思議の念仏は、言うことも説くことも、想像すらもできない、人智を超えたものだから、と聖人は仰せになりました。(P.252-253)

自己を含めた「存在」そのものを「対象」として「言葉で表現」することができるでしょうか。言葉すら「対象」(言語学)であり「存在」だとすれば。「存在そのもの」は「言葉をも超越したもの」です。それを表現(対象化)しようとすれば、それは逃げてしまうような存在です。紙も仏も言葉で表現することはできません。対象の一部、例えば「花」を「はな」という言葉で表現することは可能です。でも、「花そのもの」を表現するためには、いくら言葉を連ねても不可能なのではないでしょうか。わたしたちは「私って何?」という問いにさえ答えることはできません。「煩悩」はわたしたちを苦しめます。でも、何かを「欲しい」ということは言えても、「どうして欲しいのか」「欲望とは何か」を言い尽くすことはできません。「義(意義・意味や価値)」を言い表すことはできません(「無義」)。自分が意義(意図)を持って行為をなす(行・業)ことはできないのです。


責任

「何かをなさねばならない(義務)」と思うのは、「何かをなせる(可能)」と思っているからです。そして「何かをなした結果(あるいは何かをなさなかった結果)」に「責任」が生じます。行為が「原因」で責任が「結果」です。一種の因果関係です。

イリイチは「責任」についてこう述べています。

正気を失っていないかぎり、わたしが責任を負うことができるのは、自分がそれに関して何かをなしうるようなことがらだけです。(イバン・イリイチ『生きる意味: 「システム」「責任」「生命」への批判』藤原書店、P.424)

それはある独特なタイプの倫理にほかなりません。すなわちそれは、自分が責任を負っているものに対して、自分は何かをなしうるという信念と結びついた、独特な倫理なのです。(同書、P.425)

これをイリイチは「新たな宗教心」(同書、P.426)と言っています。

それは一つのキャッチワードなのです。理にかなった行動をとろうとする場合、あなたが無理やり儀礼に参加させられることはありません。しかし、責任ある行動をとろうとするやいなや、あなたは自分自身の健康に対して責任を負わされ、かりに健康に留意しない場合には罰を受けてしかるべき存在にされてしまうのです。(同書、P.427-428)

まさしく日本で某政党が主張している「自己責任論」です。別の箇所ではこう言っています。

明日というものはあるでしょう。しかし、それについてわれわれが何かを言えるような、あるいは、何かの力を発揮できるような未来というものは存在しないのです。われわれは徹底的に無力です。われわれは、芽生えはじめた他者との友情をさらに拡大していく道を探ろうとして対話をおこなっています。そして、その場合の他者とは、自己の無力さや、われわれの結合された無力さをともに味わいうるような他者なのです。(同書、P.423)

徹底的に自分の無力さに気づくこと、親鸞聖人の思いと通じると思いませんか。

[原文]善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり(『歎異抄』後序)

[意訳]親鸞は、何が善やら悪やら、二つとも分からない。(P.262)

それを、生命に対して、あるいは自然(地球)に対して「何かをなしうる」と考えることは人間の「傲り(驕り、おごり)」なのではないでしょうか。


稀少性

私が言いたいのは、「何かをなそう」とする前に「自分で拭ける限り、自分のお尻は自分で拭いてから」ということだけです。私は老人ですが、今のところ自分のお尻は自分で拭くことができます。ところが、今はそれを「ウォシュレット(お尻洗浄機)」に任せています。それじゃダメだという反省はあるのですが、一度使ってしまうとそれがない状態を思い出せなくなります。必需品になってしまうのです。それをイリイチは「稀少性」と呼びます。水道も病院も学校もスマホもコンビニも高速道路も鉄道も路線バスもお金も、すべてが稀少性です。それらが身の回りになかった時代はそれほど前ではありません。その時代は「生きていけた」だけではなくて、その生活は「快適」だったのではないでしょうか。無力な隣人・友人たちと「できごと」について語り合う、そんな生活です。

ところが、「昔は不便だった」と一括し、テレビ・新聞やネット・雑誌では「これを買え、あれを買え」というメッセージばかりです。みんなそれを「不思議」だと思わなくなっているようです。

鎌倉時代は「不便」だったのでしょうか。当時の人が「スマホやコンビニがない」ことを不便だと思っていたはずがありません。半世紀前までは、多分、ほとんどの日本人はそう思ってはいなかったのですから。

その稀少性に他する「欲望(渇望、needs)」こそが現代の「煩悩」です。その煩悩は鎌倉時代とは違います。現代の視点で鎌倉時代を見るときの落とし穴がそこにあります。


日本語(モノとコト)

なぜ廃棄物や処理水(汚染水)を「たれ流す」のかについて、すこし触れてみたいと思います。「物事」は「モノ」と「コト」です。世界はモノとコトで成り立っています。モノは「個物・部分」で、コトは「関係・全体」と近いと思いますが、コトは時間の経過も含まれています。ですから、モノを「(3次元)空間」、コトを「時間(運動・経過)」と対応させることもできます。モノは「誰」「何」に対応し、コトは「なぜ」に対応します。その間を取り持つのが「どのように」です。いずれも西欧的概念に対応させれば、ということですが。

金谷武洋さんは『述語制言語の日本語と日本文化』(2019年、文化科学高等研究院出版局)で、こう言っています。

「下手人探し」とは、つまり「主語」探しに他ならない。誰かが我々を攻撃した。だから我々はその「誰」かを明らかにして反撃する。これは他動詞文そのものの「ビデオゲーム的発想」であるが、ここですっかり忘れられたのが「何故?」という問いなのだ。

何故アメリカはテロ攻撃されたのか、の問いが「神の視点(主語―述語関係が明確な英語やフランス語などの言語の視点・・・引用者)」から出にくいのは、「何故」がモノ(物/者)ではなく、コト/事であるからだ。コトには時間が入ってくる。(『述語制言語の日本語と日本文化』、P.66)

主語述語関係を前提とするインド・ヨーロッパ語では、時間を「時制」でとらえますが、実は時間概念に否定的だと私は思います。

古典ギリシアにおいては、一方ではヘラクレイトスの「万物流転   πάντα ῥεῖ 」の思想がありました。「諸行無常」や「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」(鴨長明『方丈記』日本古典文学全集27、小学館、P.27)のようにとても日本的です。

それとは逆に、動きを否定するという考えもありました。それは「動き」そのものが「幻想」だ、とか「動きそのものは捉えられない」「認識の対象が変化しては認識することができない」など、いくつかの考え方があります。動きそのものは認めても、それを「留めること」、つまり「記録すること」によって、その動きが「現実を離れてしまう」という考えもあります。「文字」は時空を超えます。それは現実を表現しているようで、現実から遊離しています。現実の方はどんどん変化していますから。

ソクラテスは文字に否定的でした。対象の運動についても、運動(変化)しているものは認識が追いつかないじゃないか。少なくとも認識するあいだは対象が運動(変化)しないと想定しなければならないと考えました。

いや、そればかりか、そのようなもの〔決して同一状態にないもの〕は、何者によっても認識されえないことになるだろうね。なぜなら、認識しようとする者がそれに近寄った瞬間に、それはもう別のもので別の性質のものになっているので、それがどのようなものであるのか、あるいはどのような状態にあるかは、もはや認識されえないだろうからね。そして、いかなる認識も、それが認識しようとする対象がいかなる一定の性状をももたないならば、これを認識することはないだろうからねえ。(プラトン『クラテュロス』439,プラトン全集第2巻、P.168)

しかし、もし一方において認識するもの〔認識の主体〕が常に存在しており、他方において認識されるもの〔客体〕が常に存在しており、美が存在し、善が存在し、もろもろの有るもののそれぞれが〔常に〕存在しているのであるならば、われわれ〔ぼく〕が今あげたこれらのものは流動にも運動にも全然似ても似つかぬものであることが、ぼくには明白だね。(同書、440,P.169)

ここでは、明確に「主体」と「客体」の分離があることが見て取れます。そして、客体を主体が認識するために、客体の運動(変化)が認められないのです。主体が何かを認識できる限り、その客体は運動(変化)していないのだと言っているのです。

客体(客観)を重視する(それは主体・主観を重視すること)と、客体は止まっていることが必要になります。客体は静止している「モノ」となり、その運動は客体同士、客体と主体との「関係(いかに)」となります。時間は諸物の関係に還元されてしまうのです。のちにこれが、均質の時間と空間(ガリレオ空間)になり、さらには均質の時空(ミンコフスキー空間)となっていきます(さらには「ローレンツ変換」は時間と空間の同等性も表していると思います)。われわれを包む豊かな時間や空間がなくなります。

主体性は「固定された客観(時間・空間)」として「文字」にふさわしいものです。ソクラテスが批判したのは、まさしくその「文字」です。文字は時空を超えるのではなく、時空を自然(存在)から切り離して固定するのです。そこでは認識された(あるいは話された)状況(「コト」)が抜け落ちているのです。言い換えれば、時間や空間を「モノ」にしてしまいます。わたしたちが生きて、生活している(暮らしている)「コト」を「モノ」に変えてしまうのです。

言い方を変えれば、主体においては、世界は「モノ」と「現在(いま)」「現在立っている場所(ここ)」しかないのです。時間も空間と同じく「前(未来)」と「後ろ(過去)」に等質に広がっています。ただ、キリスト教においては「天地創造」から「終末」に向かって「一方方向」に流れると考えているので、空間との差が生じます。ですから、過去と未来を結びつけるのに必要なのが「進化」「発展」(あるいは「因果関係」)ということばです(それでも埋まらない現実との差異を現しているのが「時間SF」です)。これが「たれ流し」の原因です。


第三部 『歎異抄』の原文

全文が載っています。意訳はありません。


作品としての意義

ダラダラ書いてきましたが、ほとんど内容には触れていません。書こうにも仏教(宗教)に関する知識がないので、書きようがありませんが。先日義父の三回忌法要で(親鸞は『歎異抄』第五章で法要を否定していますが)意味のわからぬお経を聞きながら思ったのですが、「仏教って、仏(仏陀)の教えのことなんだなあ。そういえばキリスト教はキリストの教えだもんなあ」と納得した次第です。(笑)

『日本古典文学全集 27』(1971/08/10、小学館)には、校注・訳者安良岡康作氏による(と思われる)解説があります。鎌倉期の文学(と呼んでいいのでしょうか)の特徴を次のように述べています。

本書の成立した鎌倉期は、あらゆる点で、中世文学の勃興し、発展していった時代であって、そこには中世文学を形成している三つの要素  平安時代以来存続している、都市的、貴族的なものと、海を渡って流入して来た中国的、外来的なものと、新たに擡頭してきた、地方的、庶民的なものとの存在が認められる。この三つの要素は、時に対立し、時に融合し、ときに交錯しながら、多彩な作品を次々に産出している。

「貴族的」は『源氏物語』などでなんとなくイメージできます。それらの舞台が「京の都」であることから、「都市的」と言ってもいいのでしょう。でも、アテネやローマと同じとは思えません。人が集まったから「都市」というのではないと思うのです。地方から「財」が集まってきて貴族の暮らしがあったのでしょうが、アテネやローマのように貨幣経済が行われていたわけではないような気がします。それは言語の特色で述べたとおりです。もちろん、アテネやローマの経済が現代の経済と同じだという意味ではありませんが。

中国的なものは、文字そのものが中華製ですから当然です。ただ、大切なのは「仮名」が使われているということです。先に引用した金谷武洋『述語制言語の日本語と日本文化』でNHK「その時歴史が動いた」での特集「ひらがな革命:国風文化を生んだ古今和歌集」の話をしています。

それまでは文字といえば何よりも漢字であり、仮名は副次的なものだとする「中華思想」は、「真名 vs. 仮名」という命名に何より明らかである。日本の心を表すには中国の漢字よりも日本で生まれた平仮名こそがふさわしいという逆転の発想が時平(藤原時平・・・引用者)の脳裏に閃いたのだ。(『述語制言語の日本語と日本文化』P.48)

いわゆる「国風文化」は時平の発案した「古今集」から始まったのだ。(中略)その意味で、905年に時平が発案、成立させた古今集こそは『中国からの日本の文化的な独立宣言であった』とゲストに呼ばれた平田耿二(上智大学名誉教授)は結論付けているが、私も賛成である。(同書、P.49)

漢文はその名のとおり、中国語文法に基づいています。漢文で書くということは、日本語を中国語で表現しているようなものです。仮名で書くということは、日本語を日本語の文法構造のままで書くということです。この違いは大きいでしょう。例えば「愛してます」は中国語で「我爱你(ウー・アイ・ニー)」です。英語の「 I love you 」と同じ語順(S-V-O)です。日本語では「私」も「あなた」も不要です。それは「私」と「あなた」が同じ「場(場所、状況、立場)」の中にいるからです。そこでは「私」と「あなた」は共存(共に居ることで場が成立する)していて対立していません。「S-V-O」は「私」と「あなた」を対立的存在とします。

「地方的、庶民的」についてはよくわかりません。文字が「支配(政治)の道具」として使われてきたことは間違いないでしょう。文字がなくても「生きていく」だけならなんの影響もありませんから。「庶民・地方の台頭」(と言えるかどうかわかりませんが)を「支配構造からの脱却」のように捉えて「進歩(進化)観」で見てはいけません。都と地方を「支配―被支配」の関係で見ること、これも同様に「S-V-O」構文の適用です。

解説者は『歎異抄』の「独自な価値」を三つ挙げています。

第一に、それは、常陸の国に生まれた、農民出身の僧侶によって、しかも、信仰を同じくする「同朋・同侶」のために著述されている点において、中世における地方的、庶民的要素のきわめて純粋な発現を示していると言えよう。そこには、大地を確実に足で踏みしめて立つ者のみに与えられる、体験に根ざす、ゆるぎなき信念の力が存する。そして、素朴なるがゆえに純一な、純一なるがゆえに直截な主張を展開させるに至っている。

第二には、本書は浄土真宗という、この時期に形成された新興仏教の発展のための推進力として書かれている点において、いわゆる「法語文学」の代表的位置を占めている。(中略)

第三に、本書には、弥陀の本願にひたすら帰依することによって異義を批判し、自己の信仰を不動なものとしている点において、自己に立脚し、自己の内に自己を確立しようとする、中世的意志の現れが認められる。西行の『山家集』も、長明の『方丈記』も、兼好の『徒然草』も、そして道元の『正法眼蔵』も、かかる自己確立の要求に貫かれているということができよう。この自己確立の要求は、求心的に自己の内面に深まりゆくとともに、それをもとにして、遠心的に、他者に、周囲に、世間に対する批判となり、評論となってくる。この求心的、遠心的二方向を持つ作品こそ、中世的傾向の著しい文学として考えられる。(P.517-518)

ここで言われている「自己」とは、現代の(西欧及び日本の)「自己観」の投影にすぎないのではないでしょうか。そもそも「自己」とは確立したり、探求したりするものなのでしょうか。それは必要なことなのでしょうか。「私って何?」というのはきわめて新しい疑問だと思います。

『精選版 日本国語大辞典』の「自己」の項を調べてみました。

じ‐こ【自己】
〘名〙 おのれ。われ。自分。自身。
※家伝(760頃)上「名誉曰弘、寵幸近臣宗我鞍作、威福自己」
※正法眼蔵(1231‐53)現成公案「仏道をならふといふは、自己をならふなり」
※第三者(1903)〈国木田独歩〉七「故に女ほどよく自己(ジコ)を欺くものはない」 〔六祖檀経‐行由篇〕

「家伝」は藤原氏の歴史が書かれたものです。その頃から「自己」ということばはあったんですね。ただ、その意味は今とことなります。「我・われ」は「自分」のことだけではなく、「相手」のことを指します。テレビで見る限りですが関西以西では「われ」は相手を指しますよね。「おのれ」もそうです。「おのれ!親の仇!」は相手のことです。一人称単数(英語の「 I 」)としての「自己」、あるいは「 self 」の訳語としての「自己」は、同じ(分かれていない)「場」にいて、同じ(分かれていない)「視点」「気持ち」で語ろうとする日本語には「ふさわしくない」言葉なのではないでしょうか。

今日もテレビをつけたら新しいカタカナ語が出ていました。「マテリアルズ・インフォマティクス」。文字を見ただけでは何のことだかわかりません。国会中継でも「半分はカタカナなんじゃないか」と思えるような状況です。日本語が「クレオール化(植民地言語化)」していると感じます。共通語(標準語、翻訳日本語)と言われる日本語は、イリイチのいう「教えられた母語」になっています。

ヴァナキュラーなものとして、ひとは生まれ、そして育って、男となり女となる。これにたいし性役割は、後天的に獲得されたものである。<割り当てられた>性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。

ヴァナキュラーなジェンダーと性役割のちがいは、ヴァナキュラーな話しことばと教えられた母語とのちがい、生活の自立・自存と経済本位の生活とのちがい、になぞらえることができる。(イリイチ『ジェンダー』岩波現代選書、P.171-172)

「わたしはあなたを愛しています」という文が、だんだんと不自然ではなくなっているのではないでしょうか。むしろ、「相手にそう言ってもらいたい」「相手にはっきりとそう言わせたい」という空気が増してきているように思えます。「ひらがな革命」で中国文化から独立したはずの日本語が、今度は西欧文化に取り込まれようとしています。

弥陀の本願(救い)を当時の人々がどのように思っていたのかは、わかりません。僧侶という当時の知識階級の人々が中国文化の影響を受けていたことは間違いありません。明治時代の官僚や知識人が西欧の影響を受けて悩んでいたのと同様です。『歎異抄』は僧侶が語り、僧侶が書いた本です。さらにそれは同じ仏の教えを考える僧侶に向けて書かれたものです。「自己」とは縁がなかった当時の「庶民」に向けて書かれたものではありませんでした(当時の庶民は「文字」とも無縁だった)。布教書でも入門書でもマニュアルでもありません。今で言えば専門書、学術書です。

そのことを念頭に置きながら、いつかまた読み直したいと思います。




[著者等]

高森 顕徹(たかもり けんてつ、1929年 - )は、富山県氷見市生まれの宗教家。龍谷大学専門部卒業。(Wikipedia



無人島に、1冊もっていくなら『歎異抄』

日本人に「生きる力」と「心の癒やし」を与えてきた古典が『歎異抄』です。「無人島に、1冊もっていくなら『歎異抄』」といわれ、多くの人に愛読されている理由も、そこにあります。
本書には、『歎異抄』の分かりやすい現代語訳と、詳しい解説が掲載されています。800年の時を超えて、親鸞聖人と弟子の対話が、生き生きと伝わってきます。『歎異抄』の楽しさ、深さを学ぶ決定版であり、ベストセラーとなっています。



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