
(・・・)デデキントが、「写像」の概念を用いて、ある体系(集合)とその体系の一部分(部分集合)とのあいだに写すものと写されるものという関係が成立し、両者が集合論的に相似(二つの体系のあいだに一対一対応の関係が成立すること)であるならば、その体系は無限である、という定義を示した後に、「無限集合は存在する」という定理の証明として、「私の思考の世界」に言及している点に、彼ら(ロイスや西田・・・引用者)の最大の関心があったのである。(上山春平「絶対無の探求」『西田幾多郎』日本の名著47 1984/11/20、中央公論社、所収、P.70-71)
西田哲学の感想文を書こうとしていて、この文章にぶつかりました。私には西田の文章はちんぷんかんぷんです。なので、この文章にぶつかったとき、なんかヒントになるのではないかと思って図書館から借りてきました。
薄い本です。『連続性と無理数』『数とは何か、何であるべきか』の2篇が収められています。
原題は、” Steticheit und Irratioale Zahlen ”、” Was sind und was sollen die Zahlent ”。集合論(無限集合)の話です。「数とは何か」が直接書かれているわけではありません。
私は微分積分も集合論も高校時代に挫折した人間なので、本文はほぼ読んでいません。上山さんが紹介したところに当たる文章だけ引用します。
六四 説明 集合は、もしそれ自身の真部分集合に相似ならば(三二)、「無限」であるといい、そうでない場合にはSを「有限」集合であるという。(P.80-81)
六六 定理 無限集合は存在する。
説明 私の思考の世界、すなわち私の思考の対象となり得るあらゆる事物の全体 S は無限である。なぜかというと、もし s が S の要素とすると、s が私の機構の対象であり得るという考え s' はそれ自身 S の一つの要素である。これを要素 s の像φ( s ) とみなせば、これによって確定するSの写像φは、その像 S' が S の部分集合であるという性質を有している。しかも S' は S の真部分集合である、というのは S のうちには、このようなどの考え s' とも異なり、したがって S' のうちには含まれないような要素(たとえば、私本来の「我」)が存在しているからである。最後にもう一つ、a , b が S の相異なる要素ならば、その像 a' , b' は相異なることが明らかだから、したがって写像φは区別のつく(相似)写像である。(二六)。よって S は無限である。証明終わり。(P.81-82)
なお、そのあとに訳注があります。
訳注1 S はあらゆる集合を含む集合だから、今日の立場ではこのような証明は認められない。(P.82)
たぶん、S を無限集合のべき集合と捉えての注だと思います。
数には様々な種類があります。まず自然数。1、2、3、・・・などです。自然数は偶数(2、4、6、・・・)と奇数(1、3、5、・・・)に「分けら」れます。さらに自然数の比で表される分数があります(1/2、1/3、2/5など)。これらは小数に直すことができます(0.5、0.333....、0.4など)。0.333...は特殊なようにみえますが(循環小数)、これも自然数の比で表わすことができる数です。これらは「有理数」です。
計算(あるいは実測)してみると、分数にも循環小数にもならない数があります。代表的なのは π (円周率)です。現在では100兆桁くらい計算されているようですが、けっして循環しません。その他には √2 などの平方根やcos , sin (三角関数), log (対数)などたくさんあります。これらが無理数です。
「無理数」について訳者は、
これらの不可通約量は alogon とよばれた。ここの logos というのは比の意味だから、 alogon とは整数の比にならないという意味である。しかし logos というのは元来、言葉とか道理とか論理とかの意味である。そこで alogon とは言外すべからざるものという意味になるから、いろいろの伝説を生じた。(邦訳の無理量とか無理数とかいうのも、比を理と誤ったのである。)(P.145)
英語では irrational number。rational はラテン語の ratio、これはギリシャ語の λόγος の訳として使われたものです。 間違いというか、微妙だと思います。
有理数はもちろんのこと、無理数(円周率や正方形の対角線など)は現実に「ある」数です。両方合わせて「実数 real number」と言います。
連続(連続体仮説)
さて、中学校(小学校?)で習った数直線を考えてみます。そこに整数の点(1、2、3・・・)をつけます。それらの点は離れています。さらに、1/2、1/3、1/4・・・などの点(有理数の点)を打っていきます。これらの点はつながって(連続して)いるでしょうか。無理数(たとえば π 3.14...)が抜けていますからつながっていないですね。数直線をヒモだとして、持ち上げようとするとパラパラとくずれてしまいます。それでは、そこにすべての無理数も打っていきます。つまり「実数」が全部数直線に乗っかったわけです。
これはつながって(連続して)いるでしょうか。ヒモのように持ち上がるでしょうか。「持ち上がる」というのが「連続体仮説」です。
連続体仮説(れんぞくたいかせつ、Continuum hypothesis, CH)とは、可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しないとする仮説。19世紀にゲオルク・カントールによって提唱された。現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。(Wikipedia、アミール・D. アクゼル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』早川書房、も参照)
私は無限がイメージできません。それを文字で(たとえば ℵ アレフという文字で)書いてわかったつもりになることができません。無限を突き詰めて考えると気がおかしくなるようですから(前記『「無限」に魅入られた天才数学者たち』参照)、理解できなくていいと思っています。
さて、「自然数」と「偶数」はどちらが「多い」でしょうか(とりあえず負の数は考えないとして)。「奇数がない分、自然数は偶数の倍」。そうでしょうか。
どちらが多いかを数えるには、偶数に「番号」をつければいいのです。「2」が「1番」、「4」が「2番」、「6」が「3番」、・・・「2n」が「n番」。どちらも余ることなく「一対一対応」させることができます。「番号」というのは自然数です。つまり「同じ」なのです。どちらも無限にあるので、「多い・少ない」ではなく「濃度」と呼びます。
同様に工夫をすれば、すべての分数にも番号をつけることができます。つまり、分数も濃度は同じです。
集合で考えると、整数は分数の「部分集合(真部分集合)」(1/1・2/2・・・が1、2/1・4/2・・・が2と同じです)です。奇数や偶数は整数の真部分集合です。「無限集合は、その集合の部分集合が自分自身と同じ」というのはこういう意味です。
連続体仮説は、デジタルとアナログが相互に変換可能かという問題だとしておきます(詳しいことはわからないので。そういうことで連続体仮説という言葉を使います)。数はまさしくデジタルですが、それをどんどん精密にし、数を増やしていけばアナログ(連続)になるかどうかです。
自然の音の波はオシロスコープなどで見ることができます。周波数に応じてプラスとマイナスになりながら、ギザギザの波形になっています。この波は正弦波の重なりで数式化することができます。フーリエ変換です。基本の周波数、その倍の周波数、そのn倍の周波数・・・をうまい割合で足していけば元の波になるということなのですが、その式は無限に続きます。つまり、フーリエ変換は「近似値」です。
また、連続体仮説は「点を集めたものが線」と言えるかどうかでもあります。ユークリッドの『原論』では点と線はこう定義されています。
一 点とは、部分をもたないものである。
二 線とは、幅のない長さである。
三 線の両端は点である。(『ギリシアの科学』世界の名著9、P.255)
私が高校生の時の数学の先生が、「線や点はなんでもいい。石ころを点としてそれを集めたものを線と定義すれば石ころの幾何学ができる」と言っていたのを思い出します。非ユークリッド幾何学の例として教えてくれたものですが、『原論』では「点を集めたものが線」とはいっていないようです。たぶん、ユークリッドにはそういう感覚はなかったのでしょう。数直線を誰が考えたのかはわかりませんが、デカルトが直交する座標系を考えた時には、数直線は直線上に実数を対応させたものです。つまり、「数直線がつまめるかどうか」というのは「実数が連続しているかどうか」ということです。「実数は連続しているから数直線はつかめる」「実数は連続していないから数直線はつかめない」。私が「連続体仮説」といっていたのは、数直線(あるいは実数)を「連続している」と定義するかどうかの問題だったのでしょうか。
私はどちらでもいいのですが、現実の世界は三次元(あるいは時間軸を含めて四次元)です(たぶん)。立体を面に、面を線に、線を点に変換すること、あるいはできること。微分や積分というのは、「できる」という前提でそういう変換をする方法です。次元を下げること、あるいは上げることです。そもそも「面積」や「体積」あるいは「長さ」というのは、すべてを「一次元」つまり「数」に還元することでしょう。
「アナログ」「アナロジー」の語源は「ἀναλογία」。前置詞 ἀνά ((何かに)沿って、合わせて、抵抗して、最後までやり通す)と λόγος(ロゴス)の複合語。分析・分解( analysis )の語源は、ギリシャ語の ἀνάλυσις (アナリュシス)です。対語は「綜合・合成( synthesis )」。ギリシャ語の σύνθεσις(スュンテシス)です。
本来は対語でないシュンテシスとアナリュシスは幾何学で対語化された。(古田裕清『西洋哲学の基本概念と和語の世界』中央経済社、P.61)
幾何学は個別的な三角形でなく理念的な三角形、三角形のイデアに関わる。(同)
作図問題のアナリュシス(分析)とは、その作図があたかも可能だと仮定して、既知の作図(よりシンプルな作図)を組み合わせてその問題が解けるかどうかを見極めること。(同)
他方、作図問題のシュンテシス(総合)とは、既知の作図を一定の順序で組み合わせて作図問題を実際に解いてみせること。『原論』は幾つかの用語の定義、上記の二等辺三角形の作図、そして角の二等分線の作図を組み合わせ、円に内接する正五角形を作図していく。このプロセスが総合。
『原論』には作図のみならず命題の証明も含まれる。証明も作図に準ずる。命題のアナリュシス(分析)とは、その証明が可能だと仮定して、既知のどんな真理を組み合わせればこの命題が証明できるかを探ること。(同書、P.61-62)
総合は論理の流れを事後的に整理した結果。実際の思考現場では分析が欠かせない。」(同書、P.62)
うまくイメージできませんが、対語ではない言葉が対語として用いられるようになって、その意味も変化していったということ。そしてもっと大切なことは、事物を「分解(分ける)」したり「合成(まとめる)」ことができると考えたことです。
当たり前っちゃ〜、当たり前なんだけど、「全体を部分に分けることができる、部分を集めたのが全体である」という発想は、けっして普遍的なものじゃなく、とても特殊なものだと思います。「覆水盆に返らず」「死んだ子は生き返らない」、世の中は「不可逆(逆戻りできない)」なことに溢れています。私は小さい頃からなんでも分解するのが好きでした。おもちゃでもなんでも「どうなっているのか、どういう仕組なのか」知りたくてたまりませんでした。分解する(壊す)こと自体が面白いのですが(極端に言えば叩き割っても分解はできる)、もとに戻すのはとても難しい。たいていネジが数本余ったりしてね。もとに戻す(作る)というのは、作り手の気持ちにならなければなりません。私は作り手(神)の気持ちを知りたかったし、気づかずに作り手(神)になりたいと思っていたのかもしれません。そんなこともあって、「分解・分析」と「綜合・合成」の違いを強く感じているのかもしれません。
古典ギリシャ以来の西欧の学問は、これをめぐって(あるいはこの問題を背景に)思索を重ねてきたと思います。たとえば個人と社会(市民と国家)というのはまさにこれです。ソクラテスが判決にしたがって毒を飲む(死刑判決を受ける)までの裁判の話『ソクラテスの弁明』は有名です。訴えられる(カテゴレオー、「範疇」と同じ)までもソクラテスはいろいろと(あるいはすべてのことを)迷い続けていたんだろうと思います。だから「私は知らない。けど私は知らないことを知っている(無知の知)」と論争をふっかけて歩いたわけです。
かれは「デルポイの神殿」で「ダイモーンの声」を聞いたり、マンティネイア(市の名前)のディオティマという女性の教えを受けたりしています。そこでたぶん、ピタゴラス学派(ピタゴラス教団)の話を聞いたのではないでしょうか。それはソクラテスにとっても、当時のギリシャ(あるいは西欧)にとっても未体験な出来事だったと思います。
このそれぞれが互いに離れてあった時には、そのそれぞれはたしかに〈一〉であって、そのときにはまだ二というものはなかったのだ。それなのに、それらが互いの近づいたとなると、おやいったい、この、集まってきたといううごきが、つまりそれらが互いに近く置かれたというそれだけのことが、そもそも〈二〉が生ずる原因となったのだろうか?(プラトン『パイドン』97A、全集1、P.282-283)
さらには、そもそも〈一〉というのが生ずることの原因は何であるのか、それを知っていると、わたしはもはや自分を納得させえないでいるし、さらにまた一言でいえば、他のいかなるものにしても、
そのものが生じたり消滅したり、またいま存在するというのは、いったい何を原因・根拠としてあることなのかわたしは、もはや以上のような探求の方途によっては、自分に納得できないでいるのだ。(同書 97B、P.283)
わからない、わからない、と言って人に聞いて回るおじさん。そして、ソクラテスと話をすると自分が当たり前だと思っていたことに疑問が生じてしまいます。なんと面倒な男なんでしょう。
〈一〉をあわせる(近づける)と〈二〉になる、〈二〉を分ける(離す)と〈一〉になる。これは「当たり前」のことではないのです。〈二〉になったことで、それぞれの〈一〉自体(個物)がなにか変化したわけではありません。とするなら、個物の他に〈一〉や〈二〉というものがなければなりません。それが「イデア」です。プラトンのイデア論は、個別より一般(普遍・概念)を大切にしました。これはある意味で師匠に忠実です。
〈美〉によって、美しいものは、美しい(上記『パイドン』100E、P.294)
ということになります。これは小林秀雄の、
美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。(小林秀雄『当麻』筑摩書房 日本文学全集42 「小林秀雄集」 1970/11/01 P.366)
と、正反対です。あるのは具体的(個別・特殊)な「花」だけであって、〈美〉や〈花〉というものが存在するわけではないと小林は言います。〈美〉〈 beauty 〉〈花〉〈 flower 〉など、文化が違えば「違う」ものです。個人それぞれにとっても違うし、たぶん、犬や猫にはそういう概念はないと思えます。それは「人間の側」あるいは「心の中」にあるもので、外界〈自然〉にあるものではないと思えます。
「ポチは犬である」
何の不思議もない文章ですが、「犬」ということばでイメージするのは、自分が飼っていた(隣の家にいた)「ポチ」や「ポメラニアンの写真」「犬という漢字」などで、〈犬〉自体をイメージすることは、私にはできません。それでも〈犬というもの〉〈数字〉などは「ある」と思ってしまいます。思考(観念)と現実(実在)の間には明確な違いがあるはずなのですが、それを区別することは難しいのです。
アリストテレスは読んだことがないので、書くこと自体が恥ずかしい。でも書いちゃう。
「ソクラテスは人間である」
あちらこちらに出てくる文です。「ポチは犬である」と同様、〈人間〉〈犬〉が「形相(エイドス、プラトンのイデア)」、「ソクラテス」や「ポチ」は「質料(ヒュレー)」で、形相が宿るものです。これがアリストテレスの「第一実体」の意味の一つです。また、言葉や形になる前のもの、表現することができる前のものという意味でもあります。何も形相をもたない質料は存在できません。存在したとしてもをそれを確認するすべはありません。この辺は師匠のプラトンを立てたのかもしれません。言葉になる前のもの、たとえば感情や感覚そのもの、「言葉にしたいもの」ともいえるかな。そういうものがあったとして、それを言葉にすることが概念化(範疇、カテゴレオー κατηγορέω )です。これは人によって違うし、文化や言語によって違います。何を「美味しい」と感じ、何を「楽しい」と感じ、何を「苦しい」と感じ、「何を痛い」と感じるのかは、人によって、文化によって違うことです。
質料は概念化され形相をまとうことで「個物」となります。存在が確認できる実体となります。「アリストテレス」や「ポチ」は「特殊」となり、〈人間〉〈犬〉は「普遍(全体・一般・概念・種)」となります。さてここで、「アリストテレス」と〈人間〉の関係ですが、アリストテレスは人間の「部分(一部)」です。アリストテレスは「特殊」ですが、「人間」です。「人間というもの」が持っている特徴、猿とも犬とも昆虫とも違う「種」としての特徴をもっています。だから「アリストテレスは人間である」と言えます。そうです、「無限集合は、その集合の部分集合が自分自身と同じ」。アリストテレスは〈人間〉〈犬〉と同じ無限集合なのです。
西田の影響を受けたといわれる今西錦司さんは、「種の個体はどれも同じにできている。どの個体が死んでも、種がなくなることはない。個体がなくなる(寿命がある・事故などで死ぬ)ことを前提として種社会は成立している」と言っています(出典未確認)。私が死んでも、あなたが死んでも「人類」(あるいは生きている・住んでいる文化・地域・共同体)がなくなるわけじゃありません。
個物は、他の個物(あるいは他者)があるから個物(個人)なだけじゃなく、個物が全体を表現している(表している、代表している)からこそ個物なのです。ポチはポチだから(ポチのままで)犬、ソクラテスはソクラテスだから(ソクラテスのままで)人間なのです。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といっただけでは満足できませんでした。不完全な私が「完全者(完全なもの)を(不完全ながら)考えることができる」。私は完全者(神)を「分有」していることによって、「神によって存在」している、としたのです(『方法序説』)。これはプラトン・アリストテレスの「イデアの分有」と同じことを言っているのではないでしょうか。そしてデデキントの「無限集合」も。
最初に書いたように、いま私は西田幾多郎の感想文を書こうとしています。前に『善の研究』の感想を書きました。過激派(面倒くさがりや・短気)の私は、順番に読むことをせず、最後の論文集を読んでいます。『善の研究』すらわからなかった私には無謀なことです。そのうえ持っている全集は旧漢字仮名遣い。内容が分かる分からないの前に、漢字の読みがわからなかったりします。
「多即一一即多、絶対矛盾的自己同一性、作るものが作られるもの、表現するものが表現されるもの、自己において世界を表現するもの、自己限定、写すものと写されるもの・・・」
まあ、禅問答のようなお教のような単語・文章の羅列です。でも、プラトン、アリストテレス、デカルト、デデキント、とみてくると、なんとなく、おぼろげながら共通のイメージが湧いてきませんか。
ここで大切なことは、「我思う」の「我」と「我あり」の「我」は違うということです。
自己は自己の對象となることはできない。自己の對象となるものは自己ではない。(西田幾多郎「デカルト哲學について」『哲学論文集 第六』所収、旧全集第十一巻、P.148)
「我思う《ゆえに》我あり」と言い切ることはできないのです。考える我(主体)と考えられる我(対象)とは決して同じではありません。これは英文法でいう「能動(考える)」と「受動(考えられる)」との対立です。西田はこの対立を乗り越えようとしたのだと、私は今のところ考えています。
「冷静になって、客観的に考えろよ」
「君はどうしたいんだい、主体的(自主的)に考えてみてごらん」
たぶん明治以降、特に戦後の民主教育を受けた人にはどちらも馴染みの言葉です。今日、サッカーの試合を見ていたら、アナウンサーが「後半開始の笛が鳴らされました」と言っていました。以前なら「鳴りました」と言っていたところだと思います。「鳴らしました」が能動態、「鳴らされました」が受動態です。たしかに昔から「試合の幕が切って落とされました」のような受動態的表現がありましたが、これは受動態ではありません。誰も「試合の幕」を切っていませんから。ところが「笛(ホイッスル)」は誰か(主審)が鳴らします。鳴らす人がいるとして、誰が鳴らされたのでしょうか。選手でしょうか、観ている私でしょうか。どうも私には「アナウンサー」のように思えてしまいます。「始まっちゃったよ、仕事だよ」と言っているような。
「鳴りました」はどうでしょうか。これは誰かが「鳴らした」とか「鳴らされた」ということとは違います。「富士山が見えた」と同じで、能動的に「見た」のでもないし、ましてや「見られた」わけではありません。「富士山が見えるような状況に置かれた」ということです。印欧諸語にも(古い英語にも、今でも痕跡はある)こういうものはあって「中動態」と呼ばれます。中動態といっても、「自分がその状態の中にいるのか、外にいるのか」「自分がその状態に関わっているのかいないのか」「その状態がプラスの価値をもつのかマイナスか」など様々な種類があるようです。印欧諸語でもなくなりつつある中動態について、私にはよくわかりません。でも、行為じゃなくて状態、モノじゃなくてコトを表現する言葉はかならずあるはずです。たぶん、be 動詞も両方の役割をもっているはずです。行為は現在(あるいはその時点)のことを表しますが、状態は「変化」したり「維持」したりします。時間性を含むのです。同様に、モノは変化を否定し、コトは変化(時間)を含みます。動詞が「時間性」を失う代わりに「時制(テンス)」というものが補っているのではないでしょうか。そういう意味では日本語には時制はありません。
古典ギリシャの時代も同様だったのではないでしょうか(私は古典ギリシャ語はわかりませんが)。ヘラクレイトスが「同じ川に二度入ることはできない」(万物流転、パンタ・レイ)といったのに対してソクラテスは、
では、いついかなるときも同一状態にないものが、どうして何か〔何らか一定のもの〕でありえるだろうか。〔不可能だ。〕というのも、もしそれ〔不断にわずかずつ変化していると仮定されたもの〕がいつかある時に同一状態にあるならば、少なくともその時間内だけは全然変化しないわけだし、またもしそれが常に同一状態にあり、同一のものであるならば、そのようなものがどうして変化したり動いたりするはずがあるだろうか。自己自身の姿〔形相〕を少しも失っていないのだからね。(プラトン『クラテュロス』439,旧プラトン全集第2巻、P.168)
これがソクラテスの本心かどうかは疑問があるのですが(そうじゃないと思われる言葉もある)、これがアリストテレスによって「同一率」とされます。つまり「自己同一性(アイデンティティ)」です。昨日の私と今日の私は「違っている」はずなんだけど、その部分を「忘れ」て、「同じだ」とするのです。
これで発生するのが「ゼノンのパラドクス」です。「飛んでいる矢は飛ばない」「アキレスと亀」などです。「飛んでいる矢は飛ばない」というのは、的(まと)に達するためにはその半分の点を通らねばならない、半分の点に達するためには、そのまた半分の点を通らねばならない、・・・。無限の点を通らねばならないから、無限の時間がかかる。だから、矢は決して的には当たらない、というようなものだったらしいです。アリストテレスは、
ゼノンは論過している。というのは、もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応している〔それ自身と等しい場所を占める〕ときにはつねに静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、とかれは言うのである。だが、これは偽りである。なぜなら、時間は、他のどんな大きさも不可分割的なものどもから成るのではないように、不可分割的な今からなるのではないからである。(『自然学』239b、旧全集第3巻、P.258)
この議論は、最初に有理数の無限で述べたことです。ゼノンは、分割した点は連続していないといっているのに対して、アリストテレスは距離も時間も無限に分割することができるから、無限に短い距離は無限に短時間で通過し、結局、連続していると言っているのです。
同じような議論は、「原子論 τὸ ἄτομον, ἡ ἄτομος」として存在しました。原子論は「それ以上分割できない最小単位」があるということで、「連続していない」という考え方です。ということは原子同士の間に「空虚(無、ケノン κενόν )」があるということになるのですが、プラトンやアリストテレスは「空虚」を否定しました。「自然は真空を嫌う」というわけです。(『自然学』第4巻で、場所(容器)とその隙間ということで論じています。)
これは間違っている(「トリチェリの真空」など)ということではなく、空間は連続しているか、という問題なのです。そしてそれは現代の量子力学理論まで引き継がれます(竹内薫『量子重力理論とはなにか』ブルーバックス、参照)。
ゼノンは、矢が的に当たる現実、アキレスが亀を追い越す現実を否定したのではありません。「パラドクス」として提出しただけです。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
ソクラテスが「自分に納得できないでいる」と言ったまさにそのことではないでしょうか。〈一〉〈二〉・・・という「数(イデア)」はソクラテス(プラトン)にとっては、地上(自然界)ではなく、天界にありました。それは「対象(質料)」とは別のものだったのです。それをアリストテレスは地上に降ろしてしまいました。質料とともにあるのだと。それが考察の対象になったのは、印欧諸語の主客構造(主体=客体構造)から自然なことです。中動態の衰退とともに、考察(観察)する「主体」と、考察される「対象」とに明確に区別されるようになりました。その一つの帰結が「我思う、ゆえに我あり」です。でも、そこで設定された「考える我」と「考えられる我」の区別を、デカルトは「神」に求めたのです。
そんなストーリーを私は描いているのですが、いかがでしょう。
西田が行った西洋哲学批判は、まさに「主客構造」の批判です。「主客未分」ということばは、まさにそのものですが、「絶対矛盾的自己同一」や「場所の論理」なども同じことを表しています。これ以上は、西田の感想文で書きましょう。
「数とは何か、何であるべきか」。数は地上(自然界)にはありません。それは人間の文化の中にあります。数がない文化が沢山存在することが(とりあえず)その証拠です(ケイレブ・エヴェレット『数の発明 ― 私たちは数をつくり、数につくられた』みすず書房、参照)。それを「対象化」する「主体(我)」の存在。西田はそれを乗り越えられたのでしょうか。
