ミシェル・フーコー 1926-1984 権力・知・歴史 桑田禮彰・福井憲彦・山本哲士編集 1984/10/05 新評社

ミシェル・フーコー 1926-1984 権力・知・歴史 桑田禮彰・福井憲彦・山本哲士編集 1984/10/05 新評社
外出本

外出した際、なにもすることがないときに読む本です。といっても、引きこもり生活ですから、外出することはほとんどありません。本を読むために外出(散歩)することもありません。それに、面白そうな本はとぎれとぎれに読みたくありません。

古本屋で買った記憶があります。かなり昔です。当時フーコーには興味があったけど、単行本(翻訳本)を読めなくて(難しいし、高い)挫折していた頃だと思います。

ほぼ2段組の活字が小さな本です。装丁が安っぽい。雑誌のようなペーパーバック。フーコーが亡くなったのは1984年6月25日。当時の日本はまだフーコー人気が高かったですから、編著者も出版社も必死で早く出版しようとしたんだろうと想像します。そんな熱気の詰まった本です。

学生運動や反政府活動が収まりつつあるなかで、マルクス主義に代わる思想を学者も学生も(私のような一般大衆も)探していた頃です。構造主義が一般人に広まりつつあり、「ニューアカ」ブーム、同時に「ポスト構造主義」が広まりました。私は、構造主義という、どちらかといえば「学問的(観念的・記号論的・学者的)」な思想が定着する前に、大衆的な思想(「闘うんじゃなくて逃げろ」みたいになんか面白そうな)としてのポスト構造主義が広まってしまった気がしています。

『知への意志 性の歴史1』の邦訳が出版されたのは1986年(原書は1976年)。フーコーの死後です。この辺の事情はよく知りませんが、フーコー人気とともに邦訳の出版スピードが早くなっていたようなので(出せば売れるから)、多分、出版社としても翻訳家としても「第2巻、第3巻(、第4・5巻)」がすぐに出版されるだろうと思っていたんじゃないでしょうか(続巻の発行は適度な間隔がいい)。ところがなかなか出ない。いつ出るのか、そもそも出るのか。結局原書の2巻目・3巻目が出版されたのは1984年5月。その1ヶ月も経たないうちにフーコーの死が訪れます(この辺の事情は渡辺守章訳の第1巻の「訳者あとがき」にいくらか書いてあります)。

なので、原書を読めない私のような者には、「うわさ」のようなものでフーコーの『性の歴史』の内容が伝わっていたのです。

フロイトの「汎性論」、それを引き継いだユングやフロム、その反体制性を強めたライヒ(『セクシュアル・レボリューション - 文化革命における性』邦訳1970年)、日本における小此木啓吾(『モラトリアム人間の時代』1979年)など、「性(フーコーのいう「セクシュアリテ」)は抑圧されている」、それが現代において権力が人民を支配をする基礎となっている、という考えが主流だった気がします(私はそう思っていた)。とにかく私の頭の中には「性(セクシャルなもの)」で溢れていました。本やマスコミなどのメディアにも。

しかし、いつもは性の解放を説いている先駆者たちも、このエロチシズムの波には、いやな顔をしている。商品となったこのセクシュアリテは、資本主義体制によって完全に操作され、疎外化の道具に変えられてしまったものなのだ、と彼らは考える。(本書 P.248、以下「本書」は省略、アンドレ・ビュルギエール「自白による証拠   『知への意志』をめぐって  」)

それはフーコーの思いとはぜんぜん違いますが、それでも権力にたいする闘争が「政治」から「経済」に移行し(マルクス「主義」以降。マルクスがどう思っていたかは別)、それが「身体」(フロイト以降)に移行していくということ、つまり「外的(客観的)なもの」から「身近なもの」、そして「自分自身(主観的)」へと移行していく流れはいくつかの意味を持ちます。それまで「政治が悪い」「経済が悪い」「社会が悪い」、つまり「あいつが悪い」といって攻撃目標を定めていたのが、その政治・経済・社会を作っているのは「自分」である、ということに変わってきたということです。攻撃目標がなくなってしまった。まるで「一億総懺悔」のように。これは権力にとっても都合のいいことです。反体制勢力は思想の軸をなくし、低迷していきます。個人主義的な傾向が強まり、「新自由主義」なども台頭していきます。

そのような流れに、(フランスの)ポスト構造主義が果たした役割は改めて考えてみる必要があると思います。


山本哲士のフーコー解釈

本書は、フーコーによる自身の著作に関するインタビュー(対談)が第一部、編者によるフーコー論、各種書評が第二部、フーコー追悼記事(『ル・モンド』)と、著作目録、文献などが第三部、という構成です。

フーコー自身によるフーコー解説は、とっても面白いと思いましたが、フーコーの著作を読んでいることが前提となるでしょう。

一番すごいと思ったのは山本哲士さんの「フーコー〈権力〉論の全貌」。40年前の論文ですが、いまYoutubeで観る山本さんの熱量とまったく変わりません。熱い。

私は山本さんのフーコー解釈が正しいと思っている、というか、私の解釈は山本さんの解釈を元にしているから当然なんだけども。フーコーの主著の邦訳は、多分ほとんどが新潮社から出ている(ハードカバーで箱入りの)りっぱな本で、私もいくらか読んでるんだけど、とても難しくて、書かれている「歴史的事実」はわかるにしても、フーコーが何を言わんとしているのかはよくわかりません。山本氏によれば、誤訳などがたくさんあるとのこと(『ミシェル・フーコーの思考体系』参照)。そうなのなら、ぜひ新訳を出してほしいと思います。

当時の「ニューアカブーム」は、とにかく素人でも「出版されれば読む」風潮だったから、出版社は「できるだけ早く邦訳を出す」ということに躍起になっていた気がします。「脱構築」に始まる「新語」の波が押し寄せました。学問的に「こなれる」前に、とにかく邦訳を出す。ついには「カタカナそのままで出して、解釈は読者に委ねる」ということになりました。邦訳本が難しいので、「邦訳本の解釈本」「邦訳本の解釈本の解釈本」「邦訳本の解釈本の解釈本の入門書」などがはびこっていたのを思い出します。

難しかった理由のひとつは、それまでドイツ語や英語が主流だった学術用語ではなく、フランス語が混入してきたことです。「ことば(英語ならランゲージ)」と「ランガージュ」、「セクシャリティ」と「セクシュアリテ」などが一例です。これは発音の揺れではなくて、英語とフランス語の違いですね。両者は「同じ」なのか「違う」のか。新しい翻訳語(カタカナだけど)を使うということは「セクシュアリテ」は「セクシャリティ」とは違うと訳者は思っているに違いありません。読者としてはそう思ってしまいます。そうすると今まで使ってきた「セクシャリティ」を「性的魅力」「性的特徴」などと思っていたことに疑問を感じます。それはそれで意味のあることだけど。

それ以降、カタカナ語のまま翻訳することが「当たり前」になりました(そのほとんどは英語)。今ではページの半分が「カタカナ」だって驚きません。理解できないカタカナ語も、流通すればそこになんらかの「意味」が生じます。マスコミや、政治家が使えば、その意味は問われることもなく「知らないことがハジだ」という雰囲気が生じます。カタカナ語はますます「権威」を帯びます。先日、「ジェンダー平等」に関する勉強会に強制的に参加されられたときのことです。講演後の質疑のコーナーで、講師である大学の先生に質問しました。「私が若い頃にはジェンダーという言葉を聞いたことがなかったのですが、ジェンダーとはどういう意味か教えて下さい」。先生はいいました。「その質問そのものがアウトです」。先生はわかってるんだから、教えてくれてもいいのに。

「ジェンダー」ってどういう意味なのかわかりますか。もともとは「男性名詞」「女性名詞」などの文法における「性」です。英語で「 gender 」。ラテン語からフランス語を経由して英語になった単語だと思います。フランス語では「 genre 」、そう、「ジャンル」です。英語の「 category 」と「 sex 」が一緒になっちゃったわけです。なぜそうなったのかはわかりません。「 gen- 」という印欧語根には「命を与えること、子孫をつくること」などの意味があります。「 generation 」とかの派生語がある当たり前の言葉です。「性」は当然「子孫をつくる」ことと関係していますが、たぶんそれは「なにかをつくる( generate )」という一般的な意味の一つにすぎないのであって、それは「能動的(意志的)行為」ですらなかったのかもしれません。「子どもを作りましょう」と言ってセックスすること自体がとても近代的な行為なのです。日本では死語になりつつありますが、「子は授かりもの」という感覚は、西洋でもおなじだ(だった)と思います。「精子」や「卵子」「受精」という〈知〉が「能動性(主体性)」を強めているのだと思うのです。精子や卵子という客観的な存在を前提として、それを操作(支配)するものとしての「主体(意志)」としての行為(生殖行為)が「能動的行為」だという意識が、〈知〉を〈権力〉にします。それが「自分の行為」を「権力化」してしまうのです。

今の日本で「精子と卵子が結合して子どもができる」ことを知らない人は、「子ども・狂人・白痴」等のレッテルを貼られるでしょう。一人前の人間(大人)として認められません。「コウノトリが赤ちゃんを運んでくる」という能動的ではない(つまり権力的ではない)話は子どもでも信じません。自らの行為に基づく「権力」、そして「他者」からの行為がもつ「権力」がいつ、どのようにして生まれてきたのか、それを突き詰めようとしたのが『性(セクシュアリテ)の歴史』なんだろうとおもいます。

フーコーは同性愛者でした。エイズで死亡したということです。彼が自分の「セクシュアリテ」に強い関心をもっていたのは当然でしょう。社会(世間)の「まなざし」が彼を苦しめただろうと私は想像します。


セクシュアリテ

「エロ(エロチックなもの)」が持つ力は絶大です。それは「性(生殖)本能」という(あやしげな)〈知〉の裏付けのもと、「食欲(生存本能)」と同様に絶大な力をもつのです。私が言っているのは「商品化されたエロ」のことです。イリイチがいう「経済的性(セックス)」でもあります。これこそがフーコーの「セクシュアリテ」なのではないでしょうか。これは「商品化されたセクシュアリテ」ではありません。客観化された〈知〉(それが近代以降の「存在」のあり方です。目に見えて触れることのできる昆虫や花ではなく、図鑑やフィルムに収められたもの)はセクシュアリテを「商品(存在)」とするのです。セクシュアリテは商品となるべく生まれてきたのです。触ったり試食することなく商品は販売されます。ネットショッピングが可能なのは、商品がそういう存在だからです。購入される前に、その使用価値は証明されていると前提されるのです(これが「商品の権力」によるものであることは間違いありません)。

テレビをつけると出てくる「アイドル」や女優(タレント)は、からなずセクシュアリテをまとっています。私にはそう見えます。「商品」としてのセクシュアリテです。私は(商品を眺めるのとおなじように)「性的まなざし」でそれらの人を観ます(決して触ることができないとわかっているのに)。その「まなざし」は、街ですれ違う人、公園で遊ぶ人、オリンピックの選手、すべての「人(人間)」に注がれます。私の場合は「異性」ですが、それは個人差があるでしょう。そのまなざしは自分自身に(も)むけられます。「自分がどのように見られるか」、その(他者からの)「まなざし」は「他者」を見るまなざしと同じものです(自分を「商品」として扱っているということ)。「どう見るか」と「どう見られるか」は同じことです。見るものも見られるものも「対象(=存在)」だからです。これを「他者のまなざしの内在化」というのは勘違いで、「同じもの」なのですが、これを理解するのは西欧人には難しいのではないでしょうか。フーコーが『監獄の誕生』でとりあげたベンサムの「パノプティコン(一望監視施設)」は、まさしくその「まなざし」を形にしたものです。それは「見る」という能動的行為と「見られる」という受動的行為の「等質性」なのです。これは日本で言われる「お天道様は見ている」とは別のことです。日本語のなかに「能動・受動」的な要素が強まるとともに(つまり客観性・〈知〉が強まるとともに)この言葉も死語化していきます。西欧においてキリスト教が衰退するとともに、神が「内在化」していくのと似ています(『自己の配慮』)。

その神は道徳や倫理でもあります。それらは「私の中」にあるものでも「他者の中」にあるものでもありませんでした。「共同体」にあるものでもありませんでした。そういう「俗なるもの」とは別に「聖なるもの」として、天上界(あの世)にありました。プラトンはそれを「イデア」と呼んだわけです。近代において、それらは地上に降りてきました。デカルトは「我あり」といい、道徳や倫理を含む人間関係(社会関係)は「契約関係」になります。同時に道徳や倫理は「外」にあるものではなくて、「内(我=自分の中)」にあるもので、「本人次第」ということになります。「責任」という「法的関係」もそこから生まれます。

長い間、法的な説明責任 legal accountability という意味で用いられてきた責任ということばは、もはや第一義的にはそうした意味をもたなくなっています。いまやそのことばは、誰かに対する法的な説明責任ではなく、何かに関する道徳的な責任を意味することばとなっているのです。それゆえ、このことばは次のような社会的想定と密接な関わりをもっています。すなわちその想定とは、われわれは世界を、自分たちが欲するかたちにつくりかえることができる、あるいは、自分たちがかくあるべしと考えるかたちにつくりかえることができるという想定です。「われわれは世界にたいして責任を負っている」と主張するとき、われわれはそれによって同時に、自分たちは世界を支配する力があると言っていることになります。(イバン・イリイチ『生きる意味:「システム」「責任」「生命」への批判』邦訳、P.404)

「病気は治すことができる」ように思えます。つまり、自分の身体(体)を「支配できる」と思っているわけです(それが〈権力〉です)。だから、自分の体・「健康であること」に「責任」が生じます。生命を操作できる、果ては「生命をつくりだすことができる(今はできなくてもいつかはできる)」とさえ思ってしまいます。


真理

日本を含む先進国と言われる国々では、野生の熊や鹿、アライグマ、カラス、つぐみ、害虫といわれる昆虫、ばい菌(雑菌)、ウィルスまであらゆる生命を「支配」「コントロール」できる、あるいはしなくてはならないと思っています。先日、野生の熊の駆除に関する規則が改正されたという新聞記事がありました(見出ししか見てないけど)。そんな規則など、熊には関係ないことです。

「できる」と思うこと、「しなくてはならない」と思うこと、あるいは「できない」と思うことさえもとても近代的なものなのです。「できる・できない」という問いそのものが近代的だということです。「できる・できない」という判断(あるいは意志)のもとになっているのが「知識・学問・科学(・エピステーメー)」つまり〈知〉です。

できると主張する( 言説 discours )人も、できないと主張する人も、「自分が正しい」、つまり「真実・真理だ」と言います。

真理とは権力の一形式である、といったっていいでしょう。まさにこの点では、要するに西洋哲学が「なぜわたしたちは真理にひかれてしまうのか。なぜ嘘よりも真理に、なぜ神話より真理に、あるいは、なぜ錯覚より真理に」という問をたてるかぎりで、わたしは西洋哲学の根本問題のひとつを取り上げているだけのことです。でもわたしは、真理を誤謬に対置しながら「真理とは何か」を知ろうとするのではなく、ニーチェがつきつけた、「具体的にどのようなぐあいに、わたしたちの社会のなかで、『真理』にこんな特別な価値が認められるようになり、そうした価値のせいで『真理』がわたしたちにとって絶対的な強制力をもつようになったのか」という問題を、深刻にうけとめなければならないと思います。(P.34-35)

思うに、重要なことは、真理は権力の外にも、権力なしにも存在しない、ということです(真理は、自由精神への報酬でも、長い孤独の産物でも、自己解放をなしとげた人びとの特権でもありません。真理をそのようなものとみなす神話はありますが、そうした神話の歴史や果たす役割は、再検討されねばならないでしょう)。真理はこの世のものなのです。真理は、この世の数々の制約があればこそ、生みだされたものなのです。真理は権力作用、それも調整ずみの権力作用を手中に収めています。どの社会も固有の真理体制を、すなわち真理についての固有の「一般政策」をもっています。具体的にいえば、その社会が真なるものとして受け入れ機能させる特定の言説タイプ、言語表現に真偽の区別をあたえるメカニズムとベクトル、真と偽のそれぞれにたいする取り扱いの処方、真理の獲得に有効とされる技術と手続き、何が真であるかを決定する権限をもつ人間の地位、などがその内容です。(P.94-95)

もっとはっきりいいますと、私にとっての問題とは、いかにして人びとが、真理の生産を通じて(自分自身および他者を)統御するか、を知ることにあるのです。(P.152)

真理を他者に話す(言説する)とき、それは「正義」として表現されます(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』参照)。それが書かれたとき(テクスト、エノンセ)それは「歴史」になります。

歴史 (れきし)

歴史を表すhistoryという語は,historia(探究)というギリシア語に由来している。歴史が単に人間世界で生起する諸事件の連続や総和なのではなく,その諸事件の意味連関を探究する人間の作業でもあるということを,その語の由来が示している。ドイツ語では,その前者をGeschichte,後者をHistorieと別の言葉で表示している。(改訂新版 世界大百科事典


歴史(れきし、(ギリシア語: ιστορία: historia、英: history)は、何らかの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことをいう。主に国家や文明など人間の社会を対象とする。記述されたことを念頭に置いている。(Wikipedia

ιστορία はヘロドトス(紀元前484年頃 - 紀元前425年頃)の著書のタイトルです。「調査・探求(尋問・問いただす)して知ったもの(こと)」くらいの意味でしょう。ホメーロスは神話を叙述し、ヘロドトスは現実世界の出来事を叙述しました。でも、大切なことはそこではないのです。「書いた(書き残した)」「エクリチュール」(ジャック・デリダ)ことによって、その文字が「権力」をもつようになった、ということです。「文字通り  literally」です。

もじ‐どおり‥どほり【文字通】
〘 名詞 〙 ( 形動 ) 文字に書かれた状態そのままで、誇張や比喩でないことを強調していう語。副詞的にも用いる。もんじどおり。
[初出の実例]「ただ文字通(モジドホ)り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない」(出典:三四郎(1908)〈夏目漱石〉六)(精選版 日本国語大辞典

ヘロドトスの『歴史』やトゥキュディデスの『戦史』は、司馬遷の『史記』や『日本書紀』と比較されます。どれも読んだことがないので内容に触れることはできませんが、単純に「書かれていないものは残らない」のです。歴史=有史であり、「書かれたもの」です。「書記」は職業(あるいは官職)であり、職人(ギルド)であり、特殊技術です。文字には「力」があります。その力は、言葉を固定するだけではなく、言葉を蓄積し、それを〈知〉とすることにあります。文字は、権力の道具、というより権力の自己表現手段です。それは、一般大衆が字が読めないあいだはもちろん、字の読み書きができるようになっても、あるいは読み書きができなくても文字的思考そのものが権力装置です(マスメディアの存在とその影響)。


人間

近代において、蓄積された膨大な〈知〉のために「一人前」の知識の習得が長引き、「子供時代」が現れ、学校制度が現れます(フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』)。

そして〈知〉が権力をもち、その〈知〉の代理人(専門家、エキスパート、ウヴェ・ペルクゼン『プラスチック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』参照)が「確信」をもって発言するようになります。顔の洗い方、手の洗い方、髪の毛の洗い方、歯の磨き方・・・、わたしが知っているだけでも三回も四回も変わっています。その時々で「正しい洗い方」だと発言した専門家や学者がいるはずです。彼らが謝ることも、責任を取ることもありません。なぜなら「その時の〈知〉(知識)では正しかった」からです。当時の専門家も、現在の専門家もそう言うでしょう(つまり、いまの学説もいつか「正しくない」といわれるということです)。学者(研究者)は、過去の実験や考察、つまり「探求 historia 」を追体験しません。それ自体が「正しいもの」だと思われているからです。それらが再検証されることは稀です。つまり、学者のほとんど、そして人口の99.99・・・%は、その学説(〈知〉)が正しいものだと思うのは、「そう信じている」だけだということです。

「科学とは、命題を反証したり、誤謬であることを証明したり、神話を暴いたりすることができる手続きの総体である」というだけでは不十分です。科学は権力を行使するということを忘れてはなりません。科学は文字どおりひとつの権力であって、あなたにある特定のいくつかのことだけを強制的にいわせようとします。そしてその指示にしたがわないと、あなたはまわりの人から、「思い違いをしている人」とみられるだけならまだしも、「ペテン師」というレッテルをはられかねないのです。科学は、大学組織を通じて、また、実験研究設備のシステム、まさしく強制的なシステムを通じて、権力として制度化されました。(P.34)
すなわち、「あの利口な人物がわたしに、責任を感じるべしと言っているのだし、いずれにせよ、わたしにはなにがしかの力や影響力があるのだから、わたしがいかにふるまうかが決め手になるのだろう」と。しかし、ちょっと考えてみるだけで、こんな話しはペテンにほかならないということがわかります。それは、わたしのいう新たな宗教心の基礎をなす考え方としてうってつけのものであり、この新たな宗教心によって、人びとはかつてないくらい支配されやすく、管理されやすい存在になるのです。(イリイチ、前掲書、P.426)

医学生のうちヒポクラテスを読む人はどのくらいいるのでしょうか。古典ギリシア語が分かる人はまずいないだろうし、翻訳でも読んでいないのではないでしょうか(映画『ヒポクラテスたち』大森一樹監督、1980年)。一般的に学者(研究者)や専門家が求めているのは「旧来の知」ではなく「新しい知」「今までなかった知」です。ヒポクラテスが生涯をかけて得た〈知〉( ιστορία )を自ら得るためには、それ相応の才能と「生涯」という時間がなければならないでしょう。

〈知〉は文字として(今ならデータとして)蓄積されます。蓄積された〈知〉は権力をもつため、たとえそれが「ペテン」や「フェイク」であったとしても、検証されることなく「真実(真理)」となってしまうのです。なぜそうなるのか。膨大な〈知〉を探り、「ちょっと考え」たのが、フーコーの系譜学、あるいは考古学といわれる方法です。

「真なる」言説(これはたえず変化するものでもあるのですが)を備え付けることは西欧の基本問題のひとつなのです。「真理」の歴史  真理として受け入れられた言説に特有の権力の歴史  、これをいまこそまるごと書くべきなのです。(P.49)

人間を解剖すれば、旧来の〈知〉のとおり心臓や血管や脳を見ることはできます。でも、それらは(それらを集めても)「人間」ではありません。DNAの配列を調べても、脳波を調べても、その人の「告白」を聞いても、それは「人間」ではありません。フーコーは『言葉と物』でこう言っています。

ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。比較的短期間の時間的継起(クロノロジー)と地理的に限られた裁断面  すなわち、十六世紀以後のヨーロッパ文化  をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという確信を人々はいだくことができるに違いない。知がながいこと知られることなくさまよっていたのは、人間とその秘密とのまわりをではない。そうではなくて、物とその秩序に関する知、同一性、相違性、特徴(カラクテール)、等価性、語に関する知を動かした、あらゆる変動のなかで  すなわち、《同一者》のこの深い歴史のあらゆる挿話のなかで  一世紀半ばかり以前にはじまり、おそらくはいま閉ざされつつある唯一の挿話のみが、人間の形象を出現させたのである。しかもそれは、古い不安からの解放でも、千年来の関心事の光かがやく意識への移行でも、信仰や哲学のなかに長いこととらわれてきたものの客観性への接近でもなかった。それは知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。(新潮社版、P.409)

(わかりにくい訳だなあ。)「人間」も「子ども」も「学校」も「性(性別)」も、あるいは〈知〉も「自由」も「平等」も「権利・義務・所有」も「生産」も「経済」も「法」なども古来からありました。でも、古典ギリシアの文献や仏典に書かれているそれらと、近代のそれらとは「違う(同じではない)」のです。どこが違うのでしょうか。

すなわち、主体性 subjectivité の形成によって、自己の弱さ、誘惑と肉体をたえず意識して、自己の身体、肉体にたいして、内面化の技術、自覚、意識下の技術でもって、つねに自己自身に目覚めさせることである。肉体 chair とは身体 corps の主観性であり、それに目覚めていること、つまり、個人が個人に、主体的に隷属する assujettissement こと、その内部でセクシュアリテがとらえられるようになったというのである。(P.211、山本哲士「フーコー〈権力〉論の全貌」)

セクシュアリテについての文化的・社会的・科学的・理論的な知が過剰に産出され、同時に、他方では自己の性的欲望にたいする否認が個人のレベルでは広がっている。” ars ”(技芸)を発達させた東洋や多くの文明とちがって、〈知〉を発達させた西洋とは、「結合の装置」から「セクシュアリテの装置」へと展開しながら、主体化の権力形式を〈快楽ー権力〉の関係の中でうちたててきたというのが、フーコーの探求の基軸におかれている。(P.228-229、同)

なにを〈快楽〉と感じるか、なにを「苦痛」と感じ、それにどう反応するのかは文化や時代によって違います。近代西欧においてはそれは「主体(自己・我)」の問題にされてしまいます。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の「我」は、まだ「神の万能性(普遍性)の分有」をもっていました。近代的〈知〉はそこから「神」を取り除き、普遍性だけを残しました。つまり、「どんな時代でも痛いし、気持ちいい(普遍的)。だけども、それは個人(自己の身体)の問題なのだ(特殊、個別的)」ということです。たしかに「痛い」と思うのも「気持ちいい」と思うのも自分だし、「他人の痛み」は感じることができません。それなのに古典ギリシャの悲喜劇や『源氏物語』の登場人物の気持ちを感じることができる、というのは矛盾していませんか。日本における「切腹」は自分が怪我をしたときと同じように「痛かった」のでしょうか。『源氏物語』における「恋」と現在のセクシュアリテが同じであると思うことが「主体性」における〈知〉の「権力」なのではないでしょうか。

性交渉においては、いわゆる「宣教師」の体位(このよび方は、男性上位の体位を強要されて肝をつぶしたアフリカの人びとが、その体位につけることになる名称である)のみが、承認されている。分娩の技術においては、一七世紀の産婆たちが、しゃがんだりひざまづいたりする姿勢を禁ずるよう、要請される。それらの姿勢は、けだものの分娩をあまりに想起させる、というのである。自然なもの、と、獣的なもの。この対比は、正常なものと病的なものとを対置する最初のやり方ではないだろうか。(P.252、アンドレ・ビュルギエール「自白による証拠   『知への意志』をめぐって  」)

自然(動植物)から独立した「人間」という意識。動物であること、ケダモノ的なことは「野蛮」とされます。蛮人(バルバロイ)、未開人は「野蛮人」として「自分たち」とは違うものだと考えるようになります。古典ギリシアにおけるバルバロイの扱いとはまったく違います。最近は見かけませんが、昔、AV女優がアフリカの原住民の集落に行って、そこの男性を誘惑するというようなAVがいくつかありました。裸になって大きなおっぱいを見せるのですが、そう簡単には興奮してくれません(笑)。「巨乳」が性的魅力だというのは、日本では戦後のことです。それまでは大きなおっぱいは着物を着るうえで邪魔なものでした。サラシを巻いて圧えたこともあったようです。そんな「事実」も(戦前生まれの人がまだたくさんいるのに)文字(メディア)という〈知〉の代理人は塗り替えてしまいます。「セクシュアリテ」がいかに〈知〉の権力によってつくられるのかがわかるのではないでしょうか。

セクシュアリテとは、近代の発明品であって、それは、宗教・教育・道徳・心理学・医療・裁判・家政・生物学等を通じて、わたしたち全員を統治している。それは、一番隠されることのない秘密であって、だからこそ、たえずわたしたちは、自分についてほんとうのこと〔=真理〕を語ってもらおうと、セクシュアリテに問いかけるのである。(P.255-256、フレデリック・ゴーサン「ミシェル・フーコー、快楽、そして道徳」)

「告白(告解)」というキリスト教の文化は日本にはありませんから(私は映画でしか見たことがない)、フーコーの言うところを理解するのは難しいと思います。精神分析というのも、(東京の状況は知りませんが)田舎ではないのですが、そこで医師に洗いざらいのこと(人には言えないことを含めて)を話しているだろうことは想像できます。それは内科や外科で、自分の病状を訴えるのと同じことですから。

自分の秘密を「話したい」というのは、他人の秘密を「聞きたい」ということと同じです。AV女優が自分のセクシュアリテを雄弁に(あるいは大げさに)話すのも同じです(鈴木涼美『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』)。そしてそのセクシュアリテが「商品」であることは明らかです。


思春期
あの、子どもの発する「ボクの生まれるまえには、なにがあったの。どうして世の中は、いまあるようになったの」、という問に発していることを。ひきだしのなかを漁り、鍵穴をとおしてのぞきたいという欲求、ようするに、知への意志である。(P.267、アンドレ・ビュルギエール「自白による証拠   『知への意志』をめぐって  」)

普通の景色でも、穴を通してみると見え方が異なります。そこには「別の世界」があるように思えるのです。そこには未知の「秘密」があるんだと思いたくなります。それは「好奇心」と呼ばれることもあります。私は好奇心が強い子どもだったと思います。その好奇心を「面倒だ」と思う親もいるでしょうが、私の親は私が好奇心を持つと嬉しそうでした。親が嬉しそうだから、私はその好奇心を膨らませ、満たそうとしました。〈知への意志〉はそうやって形づくられていくのでしょう。

「子ども」あるいは「子供期」は近代に生まれたもの(発見されたもの)です。未熟なもの、弱いもの、保護すべきもの、純粋無垢なもの(穢れていない、穢してはいけない、穢れから守らなければいけない)、などの観念がつくられました。それまで子どもがいなかったわけではありません。いま子どもと言われる若い人間は、大人と同じ環境で、大人と一緒に遊び、できることに応じて大人と同じ仕事をしていたのです。つまり「小さな大人」にすぎず「区別」されていなかったのです(フィリップ・アリエス、前掲書、参照)。

「子ども」が設定されれば、「大人になるとき」が発生します。「成人」(人に成る)です。成人のための通過儀礼(イニシエーション)は文化によってさまざまなものがあります。バンジー・ジャンプ(バヌアツ共和国のペンテコスト島で行われる成人の儀式「ナゴール」)が有名ですね。日本では元服です。その通過儀礼を経たときに、改名する文化も多くあります。「生まれ変わる」という意味があるようです。日本では成人後も名前を変えることがよくありましたから、成人特有のものではありませんが。通過儀礼がある文化において、成人が「特定の年齢」と結びついていることは思っているより少ないかもしれません。「年齢」という概念がない(あるいは意識しない)文化も多いですから。日本でも戦前は「生まれた順序」は大切でも、年齢はそれほど気にかけませんでした。

主体性が強い社会においては、その「生まれ変わり」は成人とは別に「自我の目覚め」として経験されます。日本でいう「物心がつく」ときです。「私(自分・我)」と「私じゃない人(他者・汝)」との「違い(壁)」に気づくときです。そんなことあたりまえじゃないか、と思うかもしれませんが、「私が私であること(自己同一性、アイデンティティ)」「私自身であること」がどれだけ難しいことか、悩んだことがある人は多いのではないでしょうか。それは生まれたときから「主体であること(=主語 Je であること)」を叩き込まれる西欧でも同じです。自我に目覚めたときからはじまるのが「思春期」です。それを「肉体 chair 」の性的成熟と重ねること、それもセクシュアリテです。自我に目覚めることと成人になることはどちらも「文化的」なことです。それを年齢や性的成熟という肉体的なことに重ねることが〈知〉の権力です。そして、すべてが「自分(主体)の問題」となります。

この思春期はいつ終わるのでしょうか。成人(ある年齢において通過儀礼を経た者)になったときに終わる(終わっている)ことになっています。もし終わっていない人がいれば、落伍者のレッテルを貼られかねません(「まだそんなこと言ってるの」)。本当に思春期は終わるのでしょうか。

「自分(主体)がある」と考えることは「自分が知りえない他者(何者か・何物か)がいる(ある)」ことを認めるということです。「知り得ないもの」があるのに「自分(主体)は知ることができる」と言えるのでしょうか。実際「肉体 chair となった自分の身体 corps 」のことすらわかりません。というか、普段は気にもとめません(アスペクト盲。矢野茂樹『哲学航海日誌』)。「痛い」とか「かゆい」とか「自分の意図通りに動かない」ときに「肉体」を感じるのですが、それを「知っている」わけではありません。ましてや「自分(主体)」を知ることができるでしょうか。「意図的(主体的)に行為する」ことがどれだけあるでしょうか。心臓や消化器官は「不随」ですし、「お茶を飲もう」と思って、茶碗に手を伸ばすことはめったにありません。なにも考えずにお茶が飲めます(口に当ててお茶が入っていないと気づいたときには「あれ?」と思います)。むしろ「ことば」にするときだけ「自分(主体)」が現れるのではないでしょうか。「我思う、ゆえに我あり」は「我ことばをもつ、そのとき我あり」です。

「我思う」の「我」は、「思われた(対象・客体としての)我」であって、「思う(主体としての)我」ではありません。「ある」のはどこまでも「対象としての我」であって、「主体としての我そのもの」ではないのです。

自己は自己の對象となることはできない。自己の對象となるものは自己ではない。(西田幾多郎「デカルト哲學について」『哲学論文集 第六』所収、旧全集第十一巻、P.148)

エリク・H・エリクソンが「自己同一性の危機(アイデンティティ・クライシス)」という言葉を作って半世紀以上経ちます。「主体としての我=アイデンティティを持てない人」は「正常/病的」の枠組みで分類されてしまいます。「正常=大人=人間」という枠組みは「病的=子ども=獣」の存在で成り立っているのです。西欧近代において「子どもが発見された(『〈子供〉の誕生』)」のは、この枠組み成立のための条件だったのです。

熊駆除の規則が熊に関係ないように、この枠組みは子供には関係ありません。子どもは〈知〉によって大人になるのではありません。大人が〈知〉によって老人になるのではないように。〈知〉によって子どもを大人にしようとすること、「人間」を制御(コントロール)・支配しようとすること、それは成功するのでしょうか。一見成功しているように見えます。兎にも角にも「子どもは大人になる」のですから。それを「〈知〉がコントロール(期待)した結果だ」と考えるのは「ペテン」です。そして「期待通り」の「大人」にならなかった者は「落伍者」として「排除」するのです。

「鍵穴を覗こうとした者」「知への意志をもった者」「主体としての我」は、決して「大人=人間」にはなっていないのです。ただ「〈知〉の権力」によってのみ、「大人=人間である」ことを強制されているのです。

近代西欧が生みだした「人間」は、永遠の思春期を生きています。

人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。(フーコー『言葉と物』、前出)

その「終焉」とともに、思春期は終わります。




[著者等]

桑田禮彰(くわた のりあき)
1949年東京都に生まれる。

福井憲彦(ふくい のりひこ)
1946年東京都に生まれる。

山本哲士(やまもと てつじ)
1948年福井県に生まれる。


[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794803436]

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