〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 フィリップ・アリエス著 杉山光信・杉山恵美子訳 1980/12/10 みすず書房

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 フィリップ・アリエス著 杉山光信・杉山恵美子訳 1980/12/10 みすず書房
本書について

普通の単行本よりは幾分大きめの本ですが、二段組で字が小さく、約400頁というのは、老人にとってはほとんど拷問です。最初の方だけ、前所有者による線引があります。その人も多分挫折したのでしょう。

内容は難しくありません。ほとんどが過去の文献や絵画の引用や紹介です。それをどのように解釈をするか、どのような事実の反映と見るか、そこがアリエスの腕の見せどころです。

Philipe Ariés, L'Enfant et la vie familiale sous l'Ancien Regime, Plon, 1960

の邦訳です。

「子供の誕生」でAmazonを検索すると、たくさんの誕生(出産)祝の贈答品が出てきます。子供はいつの時代にも「生まれ(産まれ)」ます。でも、今私たちがイメージする「子供」というものがいつもあったわけではありません。「子供の発見」という本もありますが、「子供」は歴史的にある時期に「誕生」したのです。訳者が「〈子供〉」と「〈〉」をつけた意図は、そういうことでしょう。目に見える存在としての子供よいうより、子供のイメージ、人びとが子供に抱く感情、つまり、一般名詞というよりも抽象名詞としての、「概念」としての「子供」です。


子供にたいするイメージ

私は子供が好きではありません。どう接していいのかわからないのです。うるさいし、わがままだし、ちょっとした事で泣くし、言葉が通じない幼児。言葉が通じても理解できないように思える少年。生意気な青年。

自分もそうだったんだろうけど、そんなことは憶えていません。私にも子供(もうとっくに成人してるけど)がいますが、妻に任せっきりだったのでよくわかりません。

戦争や大きな事故を報道するとき、「子供を含む〇〇人が死亡」とされます。ちょっと前までは「女性と子供を含む〇〇人」と報道されていました。また、情報番組では「近くに学校や公園、保育園があります」と報道されます。街なかでの事件なら、たいてい近くに「学校や公園、保育所」があると思うのですが。

視聴者は、「まあ、危ない」「可哀そう」だと思うんでしょうね。というか、思ってもらいたいのです。報道する側は「われわれは弱いものの味方、正義の味方です」と主張したいのでしょう。そして同時に「あなたがそう思わなければ、あなたは人間的におかしい」と言っているように聞こえます。

「女性」が抜けたのは、「もう女性は弱者じゃない」ということでしょうか。違いますよね。「女性は弱いものだと決めつけてはいけない」ということでしょう。「男女平等(最近ではジェンダー平等などという)」でなければなりませんから。逆にいうと、「女性は弱くあってはいけない」ということになります。これはすごいプレッシャーだと、わたしは思うのですが。女性は保護される存在ではなくなったのです。女性の保護にかんする法の条文は「男女平等」の観点からどんどん削除されています。それに変わるのは「(男女に関係ない)人権」という概念です。

「子供〇〇人」は、「子供は弱いものだ」「子供は保護されなければならない」というメッセージとともに、「子供は可愛いものだ」「子供は愛されなければならない」「子供を愛さなければならない」という気持ちが込められています。

それは日本的な「判官びいき」と同じようですが、ちょっと違う気がしていました。

ほうがん‐びいきハウグヮン‥、はんがん‐びいきハングヮン‥【判官贔屓】
〘 名詞 〙 ( 薄幸の九郎判官義経を同情し、愛惜するところから ) 不遇な者、弱い者に同情し肩を持つこと。また、その感情。ほうがんびいき。(精選版 日本国語大辞典

これは「(義経に)同情し肩を持つこと」であって、「(義経を)愛すること」ではありません。「保護」すると言っても「愛するものを守る」ということであって、「弱いものを愛する」ということではありません。

ましてや「贔屓する」ということは、「正義(正しい)から」というよりも「たとえ悪であっても」というニュアンスがあるのではないでしょうか。

せい‐ぎ【正義】
〘 名詞 〙
① 正しい道理。正しいすじみち。人として行なうべき正しい道義。しょうぎ。
[初出の実例]「わが御心には是を正義とのみ思召けるなるべし」(出典:愚管抄(1220)六)
「未定之処為望件所領欲申沈其人之条所為之旨敢非正義」(出典:御成敗式目(1232)四四条)
[その他の文献]〔荀子‐正名〕
② 正しい意義。正しい釈義。しょうぎ。
[初出の実例]「省二彼迂説一取二此正義一」(出典:貴嶺問答(1185‐90頃)閏一〇月三日)
「ちはやと云はみちはやしといふことば也。ふるといふはあまくだり紿ふことばなり。是正義なるべし」(出典:仙覚抄(1269)二)
[その他の文献]〔漢書‐律暦志上〕
③ プラトン哲学で、国家の各部分がそれぞれに割り当てられたふさわしい役割を果たすこと。アリストテレスでは、広義には合法的であること、狭義には公平であることをいう。(精選版 日本国語大辞典

③の正義は justice の訳語でしょう。なぜなら、その基礎に「(西欧的、あるいは近代的)法」があるからです。「法は弱者を守るためにある」。そうでしょうか。法は「法の下に平等」という言葉が示しているように「平等」が原則です。つまり、法は「弱いもの」「強いもの」という基準ではなく「平等」であることで成立するはずのものですから。

「人権」も同様です。「人間としての権利」ですから、「弱い・強い」は関係ありません。みんなが「人間」として認めた者(どうし)の権利です。「女性の人権(あるいは権利)」という言葉を最近聞きません。「男性の人権(権利)」というのは一般的には使われません。男性はもともと「人間」だからです。そういう意味では女性も「人間」として認められた、といえるでしょう。最近は「子供の人権(権利)」ということが言われます。子供は「人間」でしょうか。「子供の人権」と言われること自体が、子供は「人間」として認められつつあるということです。成人年齢が引き下げられ、少年法も改正されました。子供は契約行為ができない、あるいは行為に対して責任を負わなくてもいい(負うことができない。戦前までは女性も同様でした)というのは、子供が「人間」として認められていない証拠です(老人の人権ってあるのかなあ)。

「子供は大人と違う、弱くて保護すべき存在」というイメージは、西欧においては近代に生まれたものであるというのが本書の主題の一つです。


子供の呼び名

先日『ワイドナショー』で、母の日のポスターが話題になっていました。「ずっと小児」という文言に賛否の声が上がっているとのこと。テレビで取り上げるほどのことではないと思います。むしろ、「テレビで取り上げること」の意味(影響)のほうが重要だと思います。

「小児」は「子供」という意味でしょう。子供がいて、人は親になります。だれもが誰かの「子供」です。生まれたときから死ぬまで、「ずっと子供」です。そういう意味の「子供」は、太古の昔からあります。

子供にはいろいろな呼び方があります。「幼児、小児、少年、青年、園児、生徒、学生、・・・」。あるいは、その時期(期間)を指して、「乳児期、幼児期、幼年期、思春期、青年期、青春時代・・・」などと呼ぶこともあります。

はじめて会った子供に、就学前だと思えば「何歳?」と聞き、就学していると思えば「何年生?」と聞くことが多くあります。「園児、生徒、学生」は、当然「学校(教育)制度」が前提となっています。

今は「年齢」は「学年」とともに、その個人に属する重要な要素となっています。

アフリカの未開の土地では、年齢はいまだにはっきりとした観念となっていず、ほとんど重要なことではなく、それゆえ忘れてもかまわぬものなのである。だが、今日の技術文明の世にあってはどうして自分の正確な生年月日を忘れることができるだろうか。(本書、P.18、以下「本書」は省略)

そもそも「数」という概念がない文化はたくさんあります。

もちろん絶対年齢と相対年齢の相違は、おそらくは年齢と数とが幼いうちから同一視されてしまっているような社会で育った者には、かえって把握するのが難しい概念かもしれないが。(ケイレブ・エヴェレット著『数の発明』邦訳、P.138-139)

日本のように、兄と弟、姉と妹が(双子でも)明確に区別される文化に育っていると、相対年齢がよくわかります。

そして彼が初めて仕事に就くとき、彼は自分の名前と並んで登録番号の記入されている社会保険証を受けとることになるだろう。つまりそのことは、かれがポール某であるよりも性別や生年月日で始まるひとつの番号と化してしまうことだといえよう。すべての市民が登録番号をもつ日がいつかやって来ようが、それこそ身分証明書業務の目ざすところなのである。そうなれば私たちの市民としての人格は姓名よりも出生の座標によって一層正確に表現される。こうした傾向の極限においても、姓名はやはり消滅することはないかもしれないが、多分に私生活のうちにのみとどまるものとなろう。これにたいし公的慣行においては身分証番号が姓名に入れ替わり、生年月日がこの番号の構成要素となることだろう。(P.18)

まさしく日本での『マイナンバー』です。そのほか、受験番号や社員番号など、現代社会では必ず番号がついて回ります。

エヴェレットは、前掲書でかれが子供の頃住んでいたピダハン(アマゾンの少数部族)についてこう言っています。

ピダハンの子供は数としてではなく、ひとりの人として記憶されているのである。(前掲書、P.139)

「マイナンバー制度」はもともと「国民総背番号制」として批判されていたものです。それは「非人間的」だと。

けれども、個人名と姓名とは、聖人たちのいる空想の世界(個人名のばあい)に、あるいはまた伝統の世界(姓のばあい)に属している。これにたいして年齢はほんの数時間の内に法律的に定まった仕方で確認しうる数量であり、厳密性と数字の世界という、まったく別の世界に由来している。今日私たちのもつ戸籍の慣行は二つの異なる世界に属しているのである。(P.18)

「ポール Paul 」は、「パウロ」つまりキリストの弟子の聖パウロです。姓(名字)は、自分が生まれた家(家族、系族、土地)です。「Paul Smith」は「鍛冶屋のポール」ですね。「レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci 」は「ヴィンチ村のレナード」です。

この本の原書はフランス語ですが、子供の呼び名がいくつか出てきます。 putto、putti 、enfant などです。わたしはフランス語が全くわからないので、それらの単語のニュアンスはわかりません。英語では baby や child などがありますが、子供期の一般的な名称なのか、親族関係を表しているのかよくわかりません。日本語の「子供」と同じように、どちらにも使うんでしょうね。「He is just a child ( baby ).」と言ったら、「まだ子供(赤ん坊)じゃない」という一般名詞だし、「 He is my child ( baby ).」と言ったら、「私の子供よ」という親族関係を表す気がします。この二つを混同すると、ポスターのような炎上が起こります。ポスターを作った人は「親族関係」としての子供を、子供期の一般名称である「小児」と表現してしまったのでしょう。

ちなみに「daughter 」「 son 」は、日本語の「娘、子」と違って親族関係しか表さないような気がします。「 girl 」「 boy 」はいろいろな意味があります。


アンシャン・レジーム

教科書には載ってたけど、よく意味がわからなかったのでWikipediaから引用します。

アンシャン・レジーム(: Ancien régime、直訳:古い体制)とは、フランス革命以前のブルボン朝、特に16 - 18世紀絶対王政期のフランス社会政治体制をさしている。アレクシス・ド・トクヴィルが『アンシャン・レジームと革命』、イポリット・テーヌが『近代フランスの起源』を著した事によって歴史用語として定着した。日本語では、旧体制、旧秩序、旧制度などと訳語があてられる。転じて、(フランス以外での)旧体制を指す比喩としても用いられる。(Wikipedia

フランスの歴史はぜんぜんわからないので、Wikipedia から拾ってみると、

古代 紀元前から

中世 フランク王国メロヴィング朝 481年〜、フランス王国カペー朝 987〜、ヴァロワ朝 1328〜1498

近世「moderne」 ヴァロワ=オルレアン朝 1498〜1515、ヴァロワ=アングレーム朝 1515〜1589、ブルボン朝 1589〜1792

近代「contemporaine」 フランス革命 1789、立憲王政 1791〜1792、第一共和政 1792〜1804、第一帝政 1804〜1814/1815、7月革命 1830、七月王政 1830〜1848、二月革命 1848、第二共和政 1848〜1852、第二帝政 1852〜1870、第三共和政 1870〜1940、(パリ・コミューン 1871)

現代 ナチス・ドイツの侵攻 1940〜1944、共和国臨時政府 1944〜1946、第四共和政 1946〜1958、第五共和制 1958〜

アンシャン・レジームは、近世後半ということですね。

近世(きんせい、英語: early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。
概説
近世を加えた4期の時代区分(古代中世・近世・近代)は、ルネサンスを起源とする伝統的な3期の時代区分の限界の上に案出されたもの。その始まりと終わりには諸説ある。
現在では、西洋史でも東洋史でも適用されている。西洋史上の「temps moderne」(フランス語)、「Frühe Neuzeit」(ドイツ語)、或いは「early modern period」(英語)(いずれも下記参照)といった用語は、日本では「近世」と訳され、日本の「近世」が各国で紹介される際は、その逆である。これらの言葉がそれぞれの言語において指し示す対象は多少のズレがあるものの、中世と近代の間にもう一時代おくという認識は共通している。(Wikipedia

Wikipedia にアクセスしたら「寄付をお願いします」と出てきました。300円寄付しました。お世話になってるので。

この時代区分というのは、後世の人が勝手につけたものですからはっきりとした定義もなく怪しいです。なんとなく雰囲気でわかればいいのかな、と。理由らしきものさえつければ、いくらでも細分できます。日本ではだいたい江戸時代のことらしいです。

この本では、たくさんの文献や絵画が登場しますが、大体は出版年や制作年が書かれています。私はどれが中世で、どれが近世なのか、アンシャン・レジームにあたるのはどれかを意識しないで読んだので、そのへんは混乱しています。もともと歴史の勉強は回避して生きてきたので、今更憶える気はありません。(笑)

前述の通り、原書のタイトルは「アンシャン・レジーム期の家族生活と子供」です。「〈子供〉の誕生」は訳者がつけたのでしょうか。「訳者あとがき」を読んでもそのへんのことはわかりませんでした。


子供への愛情

やっと本書の内容に入ります。序文から衝撃的です。

第一のテーゼは先ず、私たちのかつての伝統的な古い社会に関係している。この社会は「子供」をはっきりと表象していないし、少年にかんしては、なおのことそうであると、私は論じた。子供期に相当する期間は、「小さな大人」がひとりで自分の用を足すにはいたらない期間、最もか弱い状態で過ごす期間に切りつめられていた。だから身体的に大人と見做されるとすぐに、できる限り早い時期から子供は大人たちと一緒にされ、仕事や遊びを共にしたのである。ごく小さな子供から一挙に若い大人になったのであって、青年期の諸段階を過ごすことなどない。(P.1)

ちょうど動物と戯れるように、小さな淫らな猿でもあるかのように、人びとは子供と戯れたのであった。往々にして生じたことだが、子供が死亡したばあい、一部の人々は悲嘆に暮れはしたが、一般的には子供にたいしてあまり保護はなされず、すぐに別の子供が代わりに生まれてこようと受けとめられていたのである。子供は一種の匿名の状態からぬけ出ることはなかった。(中略)だが(この点が重要なのであるが)夫婦のあいだ、親子のあいだでの感情は、家族の生活によっても、その均衡のためにも、必要なものとはされていたのではなかった。(P.2)

前出のケイレブ・エヴェレットの父ダニエル・L・エヴェレットの著作『ピダハン』には、ピダハンの子供が描かれています。

わたしの家族は全員、毎日のようにピダハンとわたしたちとの家族観の隔たりを目の当たりにした。ある朝わたしは、よちよち歩きの子どもがおぼつかない足取りで焚き火に近づいていくのを目撃した。子どもが火に近づくと、手をうんと伸ばせば届くほどのところにいた母親が子どもに低い声を発した。けれども子どもを火から遠ざけようとはしない。子どもはよろめき、真っ赤に焼けた石炭のすぐ脇に倒れ込んだ。脚と尻に火傷を負い、子どもは痛みに泣き喚いた。母親は子どもを片手で乱暴に抱き起こし、叱りつけた。(『ピダハン』邦訳、P.127)

わたしはまず、見たかぎりでピダハンが赤ちゃん言葉で子どもに話しかけないことから考えはじめた。ピダハンの社会では子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある。子どもたちは優しく世話したり特別に守ってやったりしなければならない対象とは見なされない。(同書、P.128)

もちろん、ワンピースを着せられているのは子どもとおとなが完全に同じ扱いを受けているわけではないことの証だが、同じでない扱いのなかには、西洋ではふつう大人のものになっている行為を禁じることは含まれていない。(同書、P.140)

親は子どもを殴らないし、危険な場面でもない限り指図もしない。(同書、P.150)

乳離すると、子どもは親に手ずから食べ物を口に入れてもらうことはしないし、甘やかされることもない。男の子なら二、三年のうちに、父親や母親や姉たちが畑や狩りに出ている間に魚くらい釣ってこられるようにならないといけない。(同書、P.152)

ピダハン語に赤ちゃん言葉がないのは、ピダハンの大人たちの、社会の構成員はすべて対等であり、子どもも大人と違った扱いを受けるべきではないという信念に基づいているようだ。全員が共同体に対して責任を負い、全員が共同体から世話される。(同書、P.384)

「保護する」ことと「平等(対等)である」ことは簡単には両立しません。

日本ではどうだったのでしょうか。私の親は戦前の生まれですが、その世代は兄弟姉妹がたくさんいます。その中には戦争で亡くなった人もいますし、小さい頃に死んでしまった子供もいます。尋常小学校より上の学校に行った人はほとんどいません。父親の実家は農家でしたが、繁忙期には小さい子供は田んぼの畔に紐で木につながれていたそうです。

赤松啓介の『非常民の民俗文化』(明石書店、1986年、のち、ちくま学芸文庫)には、戦前・戦後の農村における「子供組」や「若衆組」のことが書かれていますが、こう指摘しています。

子供を理想化し、神聖視する視点は、現在の子供問題のなかにも残されており、それが私たちの子供世界に対する意識を混乱させているともいえるだろう。(ちくま学芸文庫、P.105)

たとえば戦前でも、それより昔でも、ムラの子供が集まって泳いでいて溺死することは珍しくない。まあ一夏に、周辺の地域で二人や三人の事故はあった。(同書、P.145)

つまり子供は、子供だけでなにをしてでも適当に遊んで折れ、そのかわりにどんな事故が起ころうと、それに大人は責任をもたぬということなのだ。(中略)みてみぬふりをしておれば、川で河童に腸を抜かれようが、山で神かくしにあって所在不明になろうが、同行した他の子供たちやその親どもの責任を問う者はいない。しかし大人や青年が親切に同行して、不幸にして事故が起これば、その全責任を負わされた。(同書、P.147)

赤松氏も指摘している「嬰児殺し」、いわゆる「間引き」もそんなに昔のことではありません。

嬰児殺しは厳しく罰せられる犯罪であった。しかしながら、この犯罪は秘密裏に行われ、多分かなり普通に見られたのであり、事故の形をとって偽装されていたのである。(中略)(18世紀に観察されている子どもの・・・引用者)死亡率の減少の理由は、その対策など考えられないでいた子供を死ぬに任せない、ないし子供の死を促進することを止めた、ということしかないのである。(P.8)

親が子を可愛がる(愛する)というのは、あるいは可愛がり方(愛し方)文化や時代によってまちまちなのです。『ファーブル昆虫記』(1879−1910年)を読んでいてとても気になるのは、「母虫の本能」「母性」というような表現が頻出することです。「母性本能(あるいは父性本能)」というものはあるのでしょうか。

「本能」は「 instinct 」の訳として西周が造った造語のようです。ラテン語では 「instinctus 」。「 en + steig- 」。

印欧語根
en 中に、中への意。内側、内部、「…の間で」を表すこともある。重要な派生語は、and,接頭辞en-(enableなど)、接頭辞in-(increaseなど)、接頭辞inter-(interceptなど)、接頭辞intro-(introduceなど)などの単語。
steig- 突き刺すこと、とがっていることを表す(stickなど)。ticket, etiquetteの由来として、「貼られること」。印欧語根stegh-と関係する。( weblio )

つまり、「内側から突き上げる衝動」のような意味です。一応引用しておきますか(「 weblio 」でも「コトバンク」でも、「広告表示」を促されました。どこも大変なんだなあ)。

ほん‐のう【本能】
  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] instinct の訳語。西周の造語か )
  1. ① そのものが本来備えている性質・能力。多く、生物が生まれつきもっている衝動的、感覚的なものをいう。
  1. [初出の実例]「意味を現はすのが文字の本能であるべきに態々意味の現はれない様に書いてある」(出典:食道楽‐冬(1904)〈村井弦斎〉三二四)
  1. 「ぼんやりした、補捉し難い本能(ホンノウ)のやうなものの外には」(出典:青年(1910‐11)〈森鴎外〉二二)
  1. ② 動物が経験や学習なしに外界の変化に対して行なう、先天的に備わった一定の行動様式。普通、種によってその反応は一定する。
  1. [初出の実例]「英インスチンクト、〈略〉爰に本能と訳す、鳥獣の自ら知らずして智巧あるの類を云ふ」(出典:生性発蘊(1873)〈西周〉二)(精選版 日本国語大辞典

「生存本能」「性本能」などたくさんの本能がありますが、それらは「生存欲」や「性欲」と対応します。またフロイトふうに「生存衝動」「性衝動」と結びつけることも可能です。「欲」=>「衝動」=>「本能」=>「欲」・・・というふうに循環します。たとえそれらが「合目的」と言われようと、「非理性的」と言われようと、結局何も説明していないのです。そこにあるのは「因果論的こじつけ」に過ぎません。自分たちの感情を動物や昆虫に押しつけ、その反射として自分たちの行動を説明しようとしているだけです。

結果どうなっているでしょうか。「子供を愛せない母親」「異性を愛せない人」は、社会的バッシングを受けることになります。LGBTは「多様性」というよくわからない言葉で「差別してはいけない」と宣伝されています。「子供を愛せない母親」も「多様性」で認められるでしょうか。「親を愛せない子供」は?

有名な仏教説話に「子供を亡くした母親キサーゴータミー」というのがあります(赤松孝章「キサーゴータミ-説話の系譜」他、参照)。その影響か、日本には「母子」「子を亡くした母」をモチーフとした話や絵がたくさん残っています。キリスト教における「ピエタ(Wikipedia)」もその系統に見えます。

たぶん、一緒に生活をしている人や物には愛着や愛情を感じやすいでしょう。それが人ではなくてペットであっても、あるいはおもちゃやお人形であっても愛着を感じます。でも、その愛情は感情は人によって、文化によって、時代によって異なります。子供の死を嘆くことや、失恋の苦しみによる自殺(『ロミオとジュリエット』、読んだことないけど)は、自分の痛みのように感じられます。でも、その痛みは文化、時代、個人で「同じ」ではないと思います。さらに、その痛みを「どう痛むか」はその人が住む「社会(文化)」が決めます。痛みや苦しみが「個人的なもの」と考えるのが近代西洋文化(とその影響を受けた文化)の特色です。


本書の構成

また長くなりそうなので、スピードアップします。

序文でほぼ「本の内容全般」が書かれています。これを足がかりに本文を読むことができます。第一部は「子供期へのまなざし」。ここでも全体がすでに書かれています。第二部は「学校での生活」。第一部でのべたことを「学校」というモチーフで敷衍しています。第三部は「家族」。学校のあり方(生徒、子供にたいする感情)と、家族のあり方(家族観、家族にたいする感情)は密接につながっています。学校制度の変遷と、近代的家族観とは同じものの二つの側面です。最後は「結論」。ここで第一部で書かれたことが第二部、第三部の厚みで再説されます。読みやすい流れだし、きっと読み直す度に色々と理解が深まるでしょう(読み直す気はないけど)。

歴史的文献や絵画、墓碑などの文化的遺産を丁寧に見ながら、そこにあらわれている当時の人びとの感情、感覚を読み解きます。

その時に大切なことは、いかに現在と同じように見えても、それを作り、見た人びとの感情が「自分と同じ」だと先入観で結び付けないことです。

『源氏物語』に描かれている恋愛、『枕草子』に描かれている自然観は、今の自分の恋愛(恋)に対する思いや、自然を見つめる視線とはどれほど同じように思えても(共感できても)「同じではない(同じとは限らない」のです。

どうしても本を読むとき、自分が共感できるところはすんなりわかった気になり、そうじゃないところは「スルー」しがちです。もしくは「ここは私と違うなあ」と思うだけで、そこに違和感を感じることすらしないことが多いのです。というか、恥ずかしながら私は『源氏物語』も『枕草子』も教科書に載っている部分しか読んだことがないのですが。

そこに「違和感」を感じたとき、むしろ、自分がすんなり納得した部分を疑う必要があるのです。いい作品は、それを読んだときに、それが書かれた状況や空気感のようなものが伝わってきます。縁側に座って夜風を浴びながら山や月を見ているときの肌寒い感じや、涼しい感じ、生暖かい感じ、虫の声、・・・。でも、多分蚊も飛んでいるだろうし、糞尿の匂いがしているかもしれません。蚊や糞尿に対する感じ方は多分、今と違っているだろうと思うし(50年前の日本とも違う)、それを含めて「月」や「山」を見る感じ方も違うのです。好きな人を思い起こす時には、顔だけではなく(顔を見たことがないことも多かったと思う)情景や匂い、など「全体の状況」だったのではないでしょうか。そして、山や川や桜や紅葉の風景に接したときに、その風景が映像だけではなく、風や音や匂いも含めて「想い人」とシンクロしたんじゃないでしょうか。それは言葉にできるものではありません。だからこそ、31文字でもそれを表現できる文学(文化)ができたのだと思います。

現代、とくに西欧では進化論的な味方が主流となっていますから、「文化は直線的(一方方向に)に発展(進化)する」と歴史を捉えてしまいがちです。1000年前は「文化が発達していなかった」「知識がなかった」と「否定的価値」を押しつけて、現代の優位性を説きがちです。

アリエスは、その違和感を大切にして一生懸命史料を見ます。そして、直接的(単線的)な発展を否定します。「子供」という概念(観念)はだんだんと作られてきたのではありません。中世以前にあった「子供」観は忘れられるのです。そして「アンシャン・レジーム期」を通じて、子供は「再発見」されるのです。もちろん、それは中世以前の子供観が「再現」されたわけではありません。そういう意味では「近代的子供観の〈誕生〉」と言えるでしょう。古代(古典)ギリシアの哲学や自然科学も忘れられた後に、たぶん中東から再輸入されて再発見されます。アラビア色を帯びたアリストテレスが、キリスト教的に再解釈されたとすれば、それはもともと(キリスト教以前)のアリストテレスとは違っていても不思議はありません。

学校制度の紆余曲折を見るだけでも、それが直線的に「変化」「発展」「進化」したわけではないことがわかります。たとえば、「学校規則(校則)」に関しても、厳しくなったり、ゆるくなったりしています。それは「子供」という概念の変化とともにあるのですが、私はそこに「自由・平等」とそれに対立する思想との相剋を感じます。「民主」対「保守」というとわかりやすいでしょうか。今でもそれは同じです。

本書のアリエスにとっては考察の対象外なのかもしれませんが、そこに欠けているのは「学校制度そのもの」にたいする疑問です。まず「学校は必要不可欠なもの」という双方(民主と保守)の暗黙の了解があって、議論がスタートしているということです。水道、電気、病院(今ではケータイとコンビニも)と同様に学校も「必要不可欠なもの」イリイチの言う「稀少性」なのです。

学校らしきものはシュメールにもあったそうですから、5,000年以上の歴史があることになります。でも、シュメールにおける学校(制度)と中世、近代、現代における学校を「同じ」に扱ってはいけないのです。それは「(書記)技術」を体得するところだったようです。プラトンの「アカデメイア」はちょっと違いますよね。「技術」ということでは「弁論術」や「家政術」も技術ですが。

中世の学校は決して子供のためのものではなく、聖職者に必要な知識をあたえるための一種の実務学校であり、ミショーの書物がのべているように「老いも若きも」共存していたのである。(P.310)


家族と社交性
私たちが出発点として取りあげている中世の社会では、子供期という観念は存在していなかった。このことは、子供たちが無視され、見捨てられ、もしくは軽蔑されていたことを意味するのではない。子供期という観念は、子供にたいする愛情と混同されてはならない。それは子供に固有な性格、すなわち本質的に子供を大人ばかりか少年からも区別するあの特殊性が意識されたことと符合するのである。中世の社会にはこの意識が存在していなかった。(P.122)

家族( family )に対する愛情も同様です。むしろ社会と対立する「プライベートな空間としての家」が生活の中心になるのはアンシャン・レジーム以降のことです。この家や家族は日本のそれとは違います。日本は「家(いえ)制度」が強いと言われますが、そうでしょうか。金持ち(権力者や華族など、あるいは都市)では、早くからそういう傾向があったかもしれませんが、庶民にはそれは浸透していなかったと思います。日本でも「いえ」、つまり「系族」を大切にする文化はありました。「本家・分家」という身分社会的な構造は今でもくすぶり続けています。でも、プライベート空間としての「家」ができたのは戦後のような気がします。親族呼称としての「子供」と一般名詞としての「子供」とのブレと同じように、プライベート空間(建物)としての「家」と、社会制度としての「家」を混同してはいけません。日本の家の「縁側」には、近所の人のだれもが自由に入れた気がするし、扉や窓を閉める習慣(寒いときは別として)も最近できたような気がします(現代のドラマで、私は気になってしょうがないのですが、家やアパートに戻ってきたときに、それを強調する場面は別としてドアに鍵をしません。東京人の心の何処かには、まだそういう文化が残っているのでしょうか)。

村落共同体は、農民においては貴族における系族の役割を演じていたと言えよう。(P.332)

人びとは、地方では村落共同体(という言葉が適切かどうかわかりませんが)、都市では長屋(集合住宅やアパートではありません)という共同体で生活していたと思います。

回想録から抽出されてきたという理由から、私たちがざっと眺め経歴を書き出してきたこれらの諸例は、例外的ではないとしても、少なくとも平均を上まわるものとみるべきであろう。普通の平均的な人びとは回想録など残さないからである。したがって、ときには絢爛たるともいうべき、社会的成功を得た人びととかかわっている。(P.208)

文献などの史料に残っているのは、一部の上流階級の人の生活や感情です。庶民は文字を書くことも読むこともできなかったし、肖像画を描かせることも、絵を鑑賞することもありませんでした。「墓碑」など残すはずもないのです。桜や落ち葉を見て「あはれ」と思った人がどのくらいいたのでしょうか(今でも同じです)。それでも私は「あはれ」は日本人の中に流れている心情だと思いたいのですが、思いたいだけなのかもしれません。

この点で私たちは、十七世紀の社会と、私たちの社会、少なくとも十九世紀の社会という二つの社会のあいだにある大きな相違に具体的にふれている。一方の社会は非常にヒエラルヒー的に構成されているが、決して各々に分離されていないひとつの空間のなかで人びとがとなりあわせている。そして今日の社会はといえば、全く平等になっているが、各々の境遇の人びとはそれぞれごとに区画されている空間のなかに分離されているのである。(P.289)

こうした中世の街路は、今日のアラブの街路と同様に、個人生活の親密性に対立してはいない。それは個人生活の外への延長なのであり、仕事と社交の身近な地域なのである。芸術家たちは、個人生活の描写を比較的遅ればせながらも試みるにあたって、家の内部に追い求めるより先に、街路でそれを把握することから始めるであろう。もっとも、この個人生活は家の中と同じくらいかあるいはもっと多く、街路で送られてもいたのではあるが。(P.320)

水道が普及して「井戸端会議」はなくなりました。今は個人は家に(あるいは室内に)閉じこもって、通りを監視しています。不審者を見つけるために。今、用事もないのに街路にいれば、それだけで通報されかねません。「道(街路)」は交流の場ではなく、単なる「移動の手段」になってしまいました。高速道路や自動車と同じように。それは生活の場ではありませんから、ホームレスやストリートキッズが「反社会的」とされてしまうのは当然です。

街路での生活、あるいは仕事、遊び、祈禱など共同体のなかでの生活が比重を占めるにつれて、こうした共同体は個人の時間ばかりかその精神までも占有するようになり、かれの感受性のなかで家族の占める場所は減少していく。反対に、もし仕事や隣近所、親戚のつきあいがかれの意識に負担をかけることが少なくなり、かれを家族から遠ざけることをやめるならば、家族意識が忠誠や奉公などの他の意識に置き替わり、優勢に、ときには排他的なまでになっていく。家族意識の進展は、家が部外者にたいしてあまりに開かれている時には発展していない。それは最小限秘密を要求するからである。(P.352)

十八世紀以後、家族は社会とのあいだに距離をもち始め、絶え間なく拡大していく個人生活の枠外に社会を押し出すようになる。家族の構造も、世間に対する防衛という新たな配慮に応じるのである。(P.374)

「世間(社会)」というものに対して「家族」は「防衛」しなければならないものとなっていきます。そして多分、「他者」に対する「自己」も。

子供は、そして子供に対する感情はどうだったのでしょうか。

子供は実地で学んでいた。この時代だけでなくその後も長い期間にわたり、職業と私生活の間には境界がなかったのであるから、この実習は職業から一線を画するものではなかった。(P.344)

こうした見習いによってある世代から次の世代へ直接に伝授がなされていた時代には、学校の占める余地はなかった。(同)

学校はじっさいに例外的なものだったのであり、それは後世になって徐々に普及して社会全体に拡まったのであるから、学校を通して中世の教育を記述するのは誤りであろうし、例外から慣例を作ることになろう。万人に共通な慣例は、見習修行だったのである。(P.345)

こうした状況のもとで、子供はごく早期に自分の生まれた家族のもとをはなれていたのであり、後に大人になってそこに戻ることがあったにしても、それも常にそうだとは限らなかったのである。したがって、この時代に家族は、親子の間で深い実存的な感情を培うことはできなかった。このことは、親たちがその子供を愛していなかったことを意味するのではなく、親たちは家庭の設立にあたって、共同作業におけるこうした子供たちの協力にたいするのに比べれば、自分たち自身にたいして、また子供たちがもたらす愛着にたいして、それほど意を払わなかったのである。家族は、感情的というよりはむしろ、道徳的かつ社会的な現実であった。非常に貧しい家族たちのばあい、家族とは、村落、農園、主人や領主の「邸の敷地」や「城館」など、より広い環境のなかで、夫婦が物質的な拠点をもっている以上のことではなかった。(P.346)

いま、子供は年齢ごとに学年に分離され、その時間の多くを学校ですごします。子供たちだけ、そして同じ年齢の子供を中心とする学校で、社会や人生を学ぶことができるのでしょうか。彼らは何を学んでいるのでしょうか。教師と生徒という厳格な階級制度のもとで彼らが学んでいるのは、「読み書き算盤」、究極的には「文字(数字)」だと私は思います。それは「科学」とか「学問」とか呼ばれていますが。

事実上ほとんどいかなるプライヴァシーも存在せず、四六時中来客の無遠慮にさらされている家の中で、主人も奉公人も、子供も大人も、各自がそれぞれ混じって暮らしていた時代にあっては、このようなことで気を損なうことなどなかったのであろう。社会的に稠密であったために、家族の占める場所などなかったのである。家族というものが、生きられた実体として存在していなかったのだから、逆説ながら家族を認め得ないのである。家族は意識や価値としては存在していなかったのである。(P.381)

過去何世紀かの変革は、しばしば家族意識も含めて、社会的拘束に対する個人主義の勝利として言われてきた。夫婦のエネルギー全体が、自発的に数少なくしか作らない子孫の出世に向けられたこの近代的な生活にあって、いったいどこに個人主義が見えるのだろうか。個人主義はむしろ、アンシャン・レジーム期の家族の、多産な家系の快活な無関心の側にあるといえはしないだろうか。(中略)勝利を収めたのは個人主義なのではなく、家族なのである。(同)

家族意識と古い社交関係のあり方とは相容れないものであり、互いに他方を犠牲にすることでしか発展できなかった、と考える誘惑にかられるのである。(P.382)

さまざまな変節を経て、最終的に勝利を収めたのは「家族」だというのです。「〈子供〉の誕生」は「近代家族の誕生」なのです。本書では「学校制度」について多くのページを割いています。それは「家族」よりも明確なものが文献として残っているからかもしれません。それをもとにその時代の絵画を見ることで、絵画の意味がわかるのです。

アリエスは学校の変遷を書くことで、家族(生活・社会)の変遷を書きたかったように思います。

人びとは際立った対照のうちで生活していた。高い身分の者、あるいは富裕者は貧民と隣りあわせでいたし、悪と徳、醜聞と献身も一緒くたに存在していた。(P.387)

親密さの探求と、それが生じさせた快適さへの新しい欲求(というのは親密さと快適さのあいだには密接な関係が存在するからである)は、民衆とブルジョワジーとの物質的な生活様式の対立を、いっそう強調していった。(P.387-388)

家族の感情、階級の感情、そしておそらく他のところでは人種の感情は、多様性にたいする同一の不寛容の表明として、画一性への同一の配慮の表明として、出現するのである。(P.388)

家族と「家族以外」との差別は、あらゆる「差別」の感情を生み出しています。人種差別、性差別などの「ハラスメント」意識、その「不寛容さ」は、今日、激しさを増しています。それは「親密さ」をどんどん減少させていきます。

それらは「自由・平等・民主主義」などの名のもとで行われているのです。「こども家庭庁」という名称は、象徴的です。「子供の人権」なるものがさらなる力を持っていけば(実際にその力を持つのは子供ではなく大人ですが)、近々、親が子供を怒ることも「躾(しつけ)」も「パワハラ」と言われるでしょう。

そんな社会に育った子供は、どんなおとなになるのでしょうか。「団塊の世代」から「Z世代」へ。その変化はすでに現れていると思います。




この書は、ヨーロッパ中世から18世紀にいたる期間の、日々の生活への注視・観察から、子供と家族についての〈その時代の感情〉を描く。子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。

かつて子供は〈小さな大人〉として認知され、家族をこえて濃密な共同の場に属していた。そこは、生命感と多様性とにみちた場であり、ともに遊び、働き、学ぶ〈熱い環境〉であった。だが変化は兆していた。例えば、徒弟修業から学校化への進化は、子供への特別の配慮と、隔離への強い関心をもたらしたように。

著者アリエスは、4世紀にわたる図像記述や墓碑銘、日誌、書簡などの豊かな駆使によって、遊戯や服装の変遷、カリキュラムの発達の姿を描き出し、日常世界を支配している深い感情、mentaliteの叙述に成功している。この書は「子供の歴史への画期的寄与にとどまらず、現代の歴史叙述の最良のもの」(P.Gay)、「この本がなかったなら、われわれの文化は、より貧しいものとなったであろう」(N.Y.Review of Books)と評された。



[978-4622018322]

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