世界大百科事典(旧版)内のテクストの言及
【テキスト】より
…ラテン語のテクストゥスtextus(〈織物〉の意)に由来し,テクストとも表記する。テキストはもともと文書の〈本文〉を指し,注釈,索引,挿画等と区別したり,歌曲や歌劇でメロディに対する言葉の部分の名称として慣用されていた。…
百科事典マイペディア 「テキスト」の意味・わかりやすい解説
テキスト
ラテン語のtextus(〈織物〉の意)に由来し,テクストとも記す。フランス語ではtexte。(1)本文校訂においては,後代に付け加えられた注釈などに対して,原著者によって書かれた原典,本文。写本などで,何種類かの異本(バリアントvariant)が存在する場合,校訂者がその異同を取捨選択または折衷し,もっとも原著者を反映するものとして決定した版を指す。(2)構造主義,記号論においては,言語記号によって構築されたものをいう。小説と記録など従来別ジャンルとみなされたものを意味作用を行う記号体として横断的にみる観点に基づく。またさらに,記号として解釈できるものをすべてテキストとみなすこともある。都市のテキスト,建築のテキスト,映像のテキストなど。
序文
「しかし西洋社会は、この読書主義への信仰を、キリスト教への信仰と同じように、いままさに捨てようとしている。書物がこれら二つの信仰にとって究極の存在であるのをやめた時から、各種の学習センターは激増した。そしていつの間にか、画面が、マス・メディアが、したがって「コミュニケーション」が、書物に、文字に、つまり読書に取って代わってしまった。そこで私は、現在幕を閉じつつある読書主義が、どのようにして始まったのかについて考えることにしたいと思う。」(P.ⅸ)__セルモが言語に代わり、同時に言語は文字となり、それが「コミュニケーション」あるいは「データ」となる。
「キリスト教書物の読書が長く続き、声を出して読書する信仰厚き人々にとって譜面として存在した書物は、突然、論理的な思索者のための視覚的に組み立てられたテクストへと変貌したのだった。」(P.ⅹ)__ドラマと小説の違い、小説のなかに映像を見、音を聞くということ。場面を自らの頭のなかで描くこと。
「しかし近年、この隠喩としての読書はふたたび変換点を迎えている。挿絵とその解説書、漫画本、表、囲み欄、グラフ、写真、概説、他のメディアとの合成物は、人々に読書を、テキストブックすなわち教科書として用いることを求めている。いままでの学究的読書が育ててきたものとは異なる方法(FF)を求めている。」(P.ⅹ-ⅺ)
「古典的な印刷文化は、とどのつまり、束の間の現象だったのである。スタイナーが言うように、「本の時代」に生きることは即ち読むための手段を自ら所有することを意味していた。」(P.ⅺ)
「カトリック教徒、新教徒、ユダヤ教(FF)徒、また聖職者、啓蒙的反聖職者、人文科学者、科学者のいずれにとっても行き着く先がこの書物愛好家のする読書にある限り、この読むことにかかわる行為は、社会の地勢を単に反映しただけでなく、決定したのだった。」(P.ⅺ-ⅻ)
「四五〇年ものあいだ書物を愛する人々が行ってきた「古典的」読書のかたちが、アルファベットの利用という点では、いくつもの形態の中の一つでしかなかったという点である。」(P.xiii)
「この新しい技術とその使い方は、〈テクスト〉を、紙面という実体から遊離したあるものであると認識させることになった。」(P.xiii)__『学習論 Didascalicon 』
「この研究を通して、この問題は、実は読み書きの能力や知識ある人々の歴史、筆写技術や商人、法定、詩人によって書きつけられたものの歴史のいずれでもないことが、私には分かってきた。そうではなく、文字を用いる技術が概念空間と社会現実という二つの原理を媒介し、形づくり、相互に結んでいる限り、問題はこれら二つの原理を紡ぐ歴史にあることが分かってきたのである。この歴史では、文字が刻むことから、〈文字による記録 Schriftstück 〉に照準があてられる。つまりここでは、この文字による記録が規定する行動とその行動に与えられる意味、厳密には、文字(FF)の書き付けられた客体に与えられる意味が問題となる。自然を、われわれの拠り所を、さらに一つの時代を代表する世界、社会、自我の解釈を種々な形で凍結させてきたものについて学ぶのである。」(P.xiv-xv)
サン・ヴィクトルのフーゴーまたはユーグ・ド・サン・ヴィクトール(仏: Hugues de Saint-Victor, 独: Hugo von St. Viktor, 羅: Hugo de Sancto Victore, 1096年 - 1141年)は、キリスト教神秘主義の神学者。現ベルギーまたはドイツのザクセン地方出身日本大百科全書(ニッポニカ" target="_blank" rel="noopener noreferrer">1]。フランスのサン・ヴィクトル修道院(英語版)第2代院長を務め、サン・ヴィクトル学派の創始者となった[1]。(Wikipedia)
フーゴー(サン・ビクトールの)
Hugo
生没年:1096-1141
初期スコラの神学者,神秘主義者。フランス名はユーグ・ド・サン・ビクトールHugues de Saint-Victor。ベルギーあるいはドイツのザクセン地方に生まれ,1115年パリのサン・ビクトール修道院に入り,のちに院長としてサン・ビクトール学派の創始者となった。アウグスティヌスを尊ぶとともに,ディオニュシウス・アレオパギタの神秘主義に影響され,神秘的な神の直視こそ神学の究極目標であるとした。これはボナベントゥーラにうけつがれる〈神秘神学〉のはじめである。フーゴーはこうして信仰を神秘にまで高めるとともに,信仰は理性を排除しないとして,倫理学や自然学も含む哲学一般を認め,この立場に立ってアベラールの人文主義と弁証法を支持した。《学芸論》ではアリストテレスにならって予備学(論理学,文法,修辞学など),理論学(神学,数学,音楽,天文学,自然学など),実践学(倫理学,家政学,政治学)を分けたほか,技術学として織物,木工,兵器,航海術,貿易,農耕,狩猟,料理,医療,演劇を区分して,当時の学問と技術を百科全書的に網羅した。神学的主著《秘跡論》では秘跡(サクラメント)の神秘性をキリストの受肉の神秘性にもとづいて強調し,これとともに自然と歴史のできごとを三位一体の神の業(わざ)の象徴とみなす世界解釈を行った。自然神学による神の存在証明というスコラ学固有の議論もフーゴーに始まるとみられる。
執筆者:泉 治典(改訂新版 世界大百科事典)
フーゴー(サン・ビクトールのフーゴー)
ふーごー
Hugo ā Saint-Victor
(1096―1141)
中世フランスの神秘主義的スコラ学者。ザクセン出身。1115年ごろパリのサン・ビクトール修道院(アウグスティヌス会)に入り、1133~1141年その修道院長を務める。深い宗教体験に根ざしながら、哲学と諸学を尊重し、信仰と理性の調和的総合を成し遂げた人物である。「すべてを学べ。しかるのちになにものも無益でないことを覚(さと)るであろう」ということばが、彼の態度を示している。おもな著作として『階梯(かいてい)論』Didascalionと『秘蹟(ひせき)論』De sacramentisがある。前者は自由学科と神学の入門書であるが、自由七学科は互いに連係していて、すべてを捨てることなく学ばねばならないとする。後者は一種の神学大全であり、創造と回復(ロゴスの受肉と秘蹟)という視点から世界史を総合的に把握しようとする。そのほかディオニシウス・アレオパギタの天上位階論の注解を書いた。著作はミーニュ『ラテン教父集』(全217巻。1844~1855)の第175~177巻に収録されている。
[熊田陽一郎 2017年12月12日)
1章 知へ向かう読書
〈冒頭句〉
〈権威文〉
「アウグスティヌスがそうであったように、ユーグにとっても、知とはある物ではなく、特別なある者であった。アウグスティヌスの思想における知とは、三位一体の第二位、すなわち子なる神、キリストを意味していた。」(P.5)
「究極の救いは、知たる神である。芸術と科学はその尊厳を、両者が同じ目的のための治癒を分かち合っているという事実から得ている。ユーグは、この〈治癒〉の概念を発展させた。その結果、二十世紀の思想家にとって技術あるいは科学技術に関する問題を、特別に〈治癒〉と呼ぶことが可能になった。ユーグが理解し、解釈する読書とは、ひとつの存在論上の治癒のための技術である。」(P.5)
〈学習〉
「従ってどんな読書にとっても、最終目標が存在するという考えは、われわれには大して興味のあるものではない。この最終目標が本を開くたびに、その動機や「原因」となることは、さらにまれなことである。工学的発想がしみこんでいるわれわれには、行動を引き起こす引き金そのものが行動の動機となっている。われわれは弾丸が描く弾道は運動の法則によるものであって、弾丸が飛び込みたい心臓があるからだとは考えない。
われわれはニュートン以後の世界に生きている。落下する石を見る時、われわれは重力の法則に従っていると考える。中世の哲学者は、この同じ現象を意思が地球に近づきたいと望んだ結果であり、それすなわちこの動きの〈目的因 causa finalis 〉であると考えた。」(P.8)__運動の法則が神によって定められているとすれば。誰も法則の原因を考えない。法則そのものが一つの「前提(仮説)」であるとは思わない。そう教えられたから。それが銀行型教育の結果である。y = vt, y = 1/2gt2, あるいは「1+2=3」は、前提である。
「われわれは現実を、単一因果関係として体験している。われわれは、作用因のみを知っているのである。」(P.9)
「今日われわれが、だれそれは「まだ学生である」と言う時に意味するような、人生の限られた期間を学習は指してはいなかった。十二世紀の学習は毎日の仕事、一生の仕事、彼の社会的地位や彼の職分をも包含しているのである。」(P.10)
〈修養〉
〈知〉
(P.12)__目的
もく‐てき【目的】
〘 名詞 〙
① 実現しようとしてめざす事柄。めざす所。めあて。
[初出の実例]「地乗といふは地山を目的として渡海し」(出典:渡海新法(1802))
「民間政治家一たび利を目的とし、権勢を目的とし」(出典:一年有半(1901)〈中江兆民〉一)
② ( [英語] end の訳語 ) 哲学で、実践的な意志が選んで立てた行為の目標。行為はこの手段となる。また、アリストテレスの形而上学で、事実が何のために存在するかを表わすもの。(Wikipedia)
目的
もくてき
telos ギリシア語
fīnis ラテン語
end 英語
Zweck ドイツ語
but フランス語
fin フランス語
手段との相関概念で、広くは事象一般、狭くは人間の行動がそれへの到達またはその実現のために向かうことを予定される目当て、目標、理想をいう。手段と目的の相関性は、たとえば健康は幸福という目的の手段であるが、さらに適当な運動、睡眠、節制などは健康を目的としてその手段となる、ということで説明される。あらゆるものがその手段となり、それ自体はもはや他のものの手段とならない目的は究極目的だが、その可能性や存在は古来の形而上(けいじじょう)学の課題である。目的の最初の詳細な哲学的探究はアリストテレスにみられる。彼は運動し変化する感覚的事物の原因に、質料因、形相因、始動因、目的因の4原因を分類した。目的概念が哲学で問題になるのは事象の解明で前述の目的因を重視する目的論との関係においてであり、それには、自然が目的を志向して動くとみて無目的な機械的自然観と対立する立場と、行動の義務、評価を目的のよさに帰着させる見地とが考えられる。
[杖下隆英]
[参照項目] | アリストテレス | 目的論 | 理想(日本大百科全書(ニッポニカ))
「半透明の羊か山羊の皮は、手書き文字でおおわれており、極細の絵筆で描かれた細密画が生命を吹き込んでいた。完全なる知の形相が、この皮を透して文字や記号を照らし、読書する人の目に灯をともすのだった。」(P.13)
〈光〉
「むろんそれらは発光性の絵具で描かれているわけではないし、まったくの闇のなかでは見ることもできない。しかしろうそくの灯の下に引き出されるやいなや、顔も衣服も象徴もそれ自身が光り始める。
これは、ルネサンス芸術とのはっきりとした違いである。ルネサンスの画家たちが好んだのは影であり、闇に隠れた物体を描くことであった。」(P.13)
「中世では、光は物体の世界に内在している。そこでは物体自身が光を発する光源として人々の目に入る。今のあなたにとっては、もしこの明るさが消えるならば、絵の中のものは単に見えなくなるだけでなく、同時に存在しなくなるように感じられるだろう。ここでは光はひとつの機能として用いられているのではない。光は描かれた物体、ドイツ語で言う Biltwelt, 即ち〈絵に描かれた世界〉に符合するのだ。」(P.14)
「ユーグは聖書を目の薬であると説明する。書物の一ページ、一ページは、それぞれの特効薬だと暗示する。なぜならば、〈学習〉を通して書物は、魂が望んではいるが、読書する人の罪深い心の闇が妨げてしまっているものを、幾分か回復してくれるからなのである。」(P.15)
鏡である書物
「今日われわれは、「自我」あるいは「個人」という言葉を日常会話の中でよく用いるが、この言葉の意味するものは、実は十二世紀の大きな発見の一つなのである。ギリシア、ローマの諸概念のいずこにも、この言葉がぴったり該当すると考えられるものはない。かなしいことだが、ギリシャ教父やヘレニズム期の哲学を学ぶ研究者は、彼らの出発点と自分たちのそれとが異なることに気づかされることが多い。教父や哲学者のことをわれわれが理解しにくいのは、彼らがわれわれと同じ「人格 person 」に相当する概念をもたないことに大きく起因している。
われわれの意味するような自我が前提となっている社会は、いくつもある文化のなかでは一つの特殊(FF)な存在である。この特殊性は十二世紀になって目立って顕著になりだした。ユーグの著作は、この自我という新しい形態の出現に立ち会った書物である。」(P.16-17)
「ユーグは、読書をする人が書物に向い、知の光に導かれて、羊皮紙の鏡のなかにおのれの自我を見い出すことを望む。読書する人は、書物のなかに他人の目に写る自分ではなく、また肩書や通称で呼ばれる自分でもない、彼自身の目に写る自分を認識するのである。」(P.17)
新しき自我
(ユーグとベルナール)「二人は封建体制下のあらゆる階層の人々に対して、近隣仲間内での日常的な精神風土から抜け出し、孤独の旅へ出発するようにと説く。他人につけられた通称や、他人からの待遇のされ方で存在価値を見いだす場所から出て、長い孤独の旅の道中で自我を発見するようにと説く。」(P.17)__『ドリトル先生航海記』。自己発見、自己形成の旅。
「私は、「近代の自我」が十二世紀に誕生したことを、言うつもりではない。また新たに出現したこの自我が、さかのぼるべき原点を持たないと言いたいわけでもない。今日われわれは、たがいをそれぞれ未知な部分をたずさえた人間だと考えている。われわれの個性は、肉体がつながっていないのと同様、それぞれ別々なものである。サンティアゴへ向けて出発した巡礼者や『学習論』を学ぶ学生が、自ら発見しなくてはならないもの、すなわち共同体から内面的に隔たったところでの生き方は、そのまま現代のわれわれにとては社会的現実なのである。それはあまりにも明白なことなので、そうでない方がよいなどと考えることすらない。われわれは流浪の民に生まれついているのだ。」(P.18)__「本を捨て街に出よう」と言わずとも、ひとりで生きること、つまり個人であることを学べ。
「幼い自分にひとたび実存主義的精神構造が形成されたならば、その若者はあらゆる世界に対して異邦人として成長することになる。彼自身のようなさすらい人たちが作り上げた世界を除いて。」(P.19)
「ユーグが求めるのは、ページからページへと進む書物の上での流浪の旅に自分自身を追いやることである。巡礼者を魅了する究極点を、ユーグは、聖職者の巡礼が目的とする天国ではなく、書物の巡礼を動機づける至高の善の形相にあると語る。」(P.20)
「知の探求において、彼は眼を第一の地位に据える。美の甘美さを認知するのは、彼の眼である。彼は影について、哲学者はそこよりいでて、光へと向かわなくてはならないと語る。彼にとって罪とは常に暗闇である。従って、彼は自己教化のために、次の三組の眼を好んで用いる。一組目は肉体の眼、つまり知覚することのできる物体の形の中にある物質を見いだす眼である。二組目は精神の眼、つまり自我とその自我が映し出す世界とを熟視するための眼である。そして最後が心の眼、知の輝きの中で、神のふところの奥まで見通す眼、すなわち父なる神の膝元に究極の「書物」の姿で隠されている神の子の姿を見いだす眼である。」(P.20)
〈友愛〉
注
(22)「いずこにもすべてを知る能力を与えられた者はおりません。また自分だけの特別な才能を、自然から授けられていない者もおりません。」(P.147)
(35)「ユーグや聖ベルナールや十二世紀の他の神秘主義哲学者にとって、〈神は渇望 Dens desiderans 〉であって、トマス・アクイナスが語るように〈永遠にあるいこい Deus in sua beatitudine 〉ではない。」(P.150)
2章 秩序、記憶そして歴史
軽蔑すべからず
〈秩序〉
「子どもっぽい探究心に始まり、大人の読書へと至る道程は、ユーグが〈秩序 ordo 〉と呼ぶものに支配されている。」(P.25)
「読者の秩序を聖書の物語に置くのではなく、逆に物語が、読者そのものをその物語の秩序の中におくのである。」(P.25)
「フロイトとユングに育てられたわれわれの世代にとって、象徴が何を意味するかを理解することはほとんど不可能である。ギリシア語の動詞である〈シュンバレイン symbollein 〉は、「合わせる、寄せ集める、あるいはまとめる」を意味する。だから、象徴は祭りの食卓への参加者が持ち寄る食べ物の意味になることもある。象徴は摘要であり、また合札、あるいは割符であり、古代後期になってはじめて〈セーメイオン sēmeion 〉の意味、つまり印の意味を獲得した。そして後期ギリシア神父の著作の中で〈シュンボロン symbolon 〉は、はっきりと象徴〈シグヌム signum 〉を意味するようになったのである。」(P.26)
「「象徴とは、見えざるものを表現するために、見える形を集めたものである」。この「集めたもの」は、まず〈象徴〉に示される古典ギリシアの精神を表現している。また同時にユーグの時代に象徴が「感知できる体験と、それを超越した形而上学世界での体験との架け橋」として理解されていたことを表している。シンボルを神話に同調させ、時には神話そのものと考える近代の解釈とは違って、ユーグにとって象徴とは、
事実であり出来事である。自然界および歴史世界と、そのかなたの世界における現象である。そしてそれらが、信仰と神学とが包み込む超自然、超歴史世界へと導くのである。
宇宙の秩序を、神から与えられたものであるといったん理解してしまうならば、方法論的秩序の説明におけるユーグの難解さは、子どもじみたものではなくなる。読書する人は、ユーグの示す秩序とわれわれが用いる秩序とを区別することを学ばねばならない。」(P.27)
〈諸学芸〉
読書する人の心の宝箱
「そして私はついにどこに位置しているのかという抽象的な知識を持たずに迷宮をたどり、目的地に到達できるようになった。目次と索引のない時代の検索作業は、地図を持たずに道をたどるようなものであったにちがいない。このような地図に頼らない道案内は、われわれの受けた近代教育では評価されない種類のものである。」(P.32)__アルファベットと漢字では、検索の感じが違うかも。方向音痴かどうかも大切。
記憶の歴史
「口から出たとたんに翼がついて飛んで行ってしまう言葉をアルファベット文字が次々と記号の列としてつなぎとめる様子を目撃したことのない人々にとって、頭のなかに記憶の部屋や蜜蝋を塗った書き板を考えつくことはとうていできなかった。このような記憶や記憶訓練による人工的な記憶増強術は、古代ギリシアから古典ギリシアへいたる変遷期に誕生したのだった。」(P.33)
「記憶を呼び起こす方法や記憶する方法には、それぞれ歴史がある。」(P.33)
「この記憶の訓練術は、十二世紀において一つの大きな変化を経験した。その変化は、ギリシアで起きた文字入手以前と以後の変化だけ比較されうる種類のものである。つまり紀元前五世紀の変わり目における「語」と「構文論」についての発見と、大学創設直前のヨーロッパにおける大きな変化、つまりページの割り付けと索引の発見との間には、はっきりとした類似点が見られるのである。
われわれは、語はアルファベットの生んだ物だということを忘れることがある。本来ギリシア語には、単一に同定できる「言葉」はなかった。ギリシア語には、音や、しぐさや、種々の表現に対応するたくさんの用語があったにすぎなかった。発音は、唇、舌、あるいは口全体が発するものでもあったし、また友人に対しては心が発するものでもあった。アキレウスの体内にわきあがり、彼を戦いへと駆り立てた〈ティモス(われわれには「苦い思い」にあたる)〉が発するものも、憤怒が発するものも、やはり発話であったのだ。」(P.34)
「五世紀以前において、「語」の連なりを学んだり、記憶したりできなかったはっきりとした理由の一つは、このような事情によるのである。これに対してわれわれは個々の語に焦点を当て、それらを心の中の辞書から選び出すことができる。なぜなら、われわれは、それらを綴ることができるからなのである。
事実アルファベットは、音を視覚化するための見事な技術である。この二ダースの形状は、口や舌や唇によって表現される発話の記憶を誘発し、手振り、身振りや心情が伝えられるものを濾過し、取り除(FF)くのである。他の記憶様式と違って、アルファベットは音を記憶するのであって、それに付帯する意味を記憶するのではない。まさにその点において、アルファベットは単純至極な技術であり、読者は以前耳にしたことのない音まで、訓練して発音することができるようになる。」(P.34-35)
「プラトンはすでにそのことに気づき、『クラテュロス』(四二四d)の中で、文字は話しの要素と考えられるようになったと述べている。こうして語は文章の最小単位となり、しゃべるという行為は言語を生産することとみなされるようになる。その結果、話は必然的に分析対象として分解されるようになる。」(P.35)
「プラトンとアリストテレスの二人は、彼らの時代見解を右のように示しているのであって、いずれも自説として述べているわけではない。しかし両者とも、時を同じくして成立した話し言葉のアルファベット的分析と、存在の哲学的分析との間の類似性を指摘している。」(P.36)__Nota Bene!! 言語のアルファベットと、文法としての存在論は同じ。
「詩人は過去の切れ端を綴じ合わせた。詩人が〈綴じ合わす人 rhapsode 〉と呼ばれたのはそのためである。」(P.36)
「詩人は言葉を熟(FF)考したり、吟味したりはしなかった。彼は手にする竪琴に駆り立てられただけだった。ホメロスもそのような詩人の一人だった。ただホメロスは、ある特別な時期、すなわちすでに文字の存在する時代に歌ったのである。もっとも文字といってもそのほとんどは、陶工が記念の器に刻み込んだ献呈の文句程度のものではあったが。しかしながら、文字を読む時代が到来したことに、ギリシアの人々が気づくには、それだけで十分だった。文字の記録以前数世代にわたって、ギリシアの人々は、耳と目との共同作業を常に求めてきた。記憶は、「響きの原理に基づいて聴覚的に統御されてきたが、ここではじめて構造的原理によって視覚的に統御される言語との競争にたち至った」のである。」(P.36-37)
「「弁論術」という述語は、話し言葉とは無縁の新しい技術のために造り出された言葉である。この技術を用いて、演説者はいずれ彼が公衆の面前で行うはずの発話のための文章を用意するのである。プラトンは、選ばれた人々が持つ創造性あふれる生き生きとした回想能力と、書き記されたテキストを諳んじる一般的な能力との二つをはっきりと区別していた。公開での弁論術が重要な技術となるにつれて、弁論者は文章を暗記するのみならず、議論展開の論理と隠喩をも記憶し、おのれの意見を補強したいと考えるようになった。
こうした目的のためにギリシア人が用いたもっとも普通の方法は、記憶の館を心の中に構築することだった。ユーグが用いた地平線まで続く数の列は、ギリシア人の記憶の手法を平面に写像したものであ(FF)る。」(P.37-38)
祈る人に役立つ法律家の技
「そして記憶訓練の重点は、心でする読書術という点におかれるようになる。公衆を前に演説する者は、後期古代ローマ時代に、心の中にいかに「書きとどめ」、必要な時点でいかに「それを読む」かということを学んだのだった。」(P.39)
「記憶術は、読書術と密接に絡み合っている。」(P.39)
「ギリシアの記憶訓練法は、視覚的想像力を言葉の伝達に役に立てた。そしてローマ人、特にクインティリアヌスのような人々は、心がとどめた事柄を心に描く符号によって連想する技術を教えた。」(P.40)
「キリスト教徒にとって〈記憶 memoria 〉は、まず第一に、旧約、新約聖書の主要な出来事が語られる典礼儀式を意味する。」(P.41)
「従ってこの場合、「読書すること」 lectio は、まず第一に聖書というひとつの物語を祝う行為となる。」(P.41)
聖アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日[26])は、ローマ帝国(西ローマ帝国)時代のカトリック教会の司教であり、神学者、哲学者、説教者。ラテン教父の一人。
テオドシウス1世がキリスト教を国教として公認した時期に活動した。正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派における聖人であり、聖アウグスティヌスとも呼ばれる。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。母モニカも聖人である。
名前が同じカンタベリーのアウグスティヌス(イングランドの初代カンタベリー大司教)と区別して、ヒッポのアウグスティヌスとも呼ばれる。
『アウグスティヌス 告白』(訳注・解説)、山田晶責任編集・訳、中央公論社「世界の名著 14」[50]、1968年。新装版・中公バックス、1978年。
(Wikipedia)
「このように、キリスト教の語法では、〈記憶〉は、共同体の人々の集合目的である追悼を意味するが、徐々に新たな共同体の一員としての「意識」を意味するようになる。」(P.42)
知の前奏である記憶訓練
土台としての〈歴史〉
「「読書」とユーグが言う行動は、このマクロコスモスである教会と、読書する人の心の中に築かれるミクロコスモスとを仲介する行為である。この時間・空間的コスモスの内部では、人物、場所、事柄が、まず字義どおりに理解されなくてはならない。そうしてそれらは初めて、また別のものをも表すことが自ずと明らかになる。それらは将来における来るべき何ものかの前兆であり、また類推がその到来を暗示する何ものかの姿である。」(P.45)
すべての被造物は懐妊している
「釈義とは次の三段階から成り立っている。忠実な読書によって聖書の具体的意味が心の箱舟に正確に埋め込まれる第一段階。比喩的解釈がなされる第二段階、そして読書する当人が、秩序、つまり時間の「秩序」の中に自分も身をおいて行う個人的認識の第三段階である。」(P.46)
注
(4)「夜の占い。ユーグはその生涯を通じて、時を読むという経験をしたことがなかったことに留意されたい。時計と四分儀は知られてなかった。三十六個の動かぬ星は占師でもあり、時の番人でもあった。ユーグは毎夜星を眺めて過ごし、「時を見る」のであった。」(P.157)
(31)「文字のない時代の記憶に関する歴史入門書としては、B. Peabody,The Winged Word: A Study in the Technique of Ancient Greek Oral Composition as Seen Principally through Hesiod's Works and Days 」
(33) Eric A. Havelock, The Literate Revolution in Greek and Its Cultural Consequences,
(49)「記憶の館を罪の洪水が生み出した混沌の中を漂う箱舟の表象に置き換えることは、同時に〈記憶〉の概念自体を変化させることでもある。(中略)心の中にある現世の欲望は、いわば洪水である。読書する人の心の中に〈歴史〉の箱舟を具現化することは、救済の物語の中に彼のための避難場所を作り出すことである。」(P.166)
3章 修道士の読書
瞑想
つぶやく人々の共同体
「こうして文字の並びは身体の動きに変換され、神経に刺激を刻み込む。一行一行は唇が拾うサウンドトラックであり、読書する人はそれを自分の耳に向けて発音するのである。書物は読書によって、文字どおり肉体に取り込まれるのである。」(P.52)
「修道院附属学校が、ぶつぶつとつぶやく人とももぐもぐと口を動かす人の住処と表現されていたのも、もっともなことなのである。」(P.53)__お教も同じ。
ぶどう畑と楽園である書物
「ユーグが読む時、彼は収穫する。彼は一行一行から果物をもぐ。ラテン語の〈パギーナ pagina 〉という言葉、つまりページは、結びつけられたぶどうの木の列を意味することをプリニウスはすでに気づいていた。」(P.55)
「口を動かす動作は、読書行為の中の主たる活動であったというだけでなく、目の役割もまた決定していたのである。英語の「読む to read 」は元来、「忠告を与える」、「とりまとめる」、「探求し解釈する」を意味する。一方ラテン語の〈読む legere 〉の語源は、肉体活動に端を発する。〈 legere 〉は、「摘む」、「束ねる」、「収穫する」、「集める」を意味する。小枝や喬木の束を意味するラテン語は、この語から派生し、その棒状の枝は〈リグヌム lignum 〉と呼ばれる。材木がたきぎと異なるのに似て、リグヌムは〈材木 materia 〉とは著しく異なる。」(P.56)
〈読書すること〉の人生
「グレゴリオ聖歌は、シナゴークの歌から着想を得ている。書物とともに生きるというこの希求もまたユダヤ神秘主義の一部である。」(P.57)
「神はユダヤ人の運命を前もって語ることはしない。前もって書き記すのである。一人ひとりのユダヤ人は、おのれの運命をすでに書き記されたものとして見いだし、受け入れてゆく。書き記されたその内容は多くの場合苦い味がする。」(P.58)
「書き記されたテクストである聖書が、一人ひとりの修道士自身の歴史の一部となる過程はまさしくユダヤ的であって、ギリシア的なものではない。古代ギリシアには、呑み込むことのできる書物は一冊もなかった。ギリシア人もローマ人もいずれも本の虫ではなかった。」(P.58)
「それぞれの文化には、この記憶を誘発する体と言葉の非対称な補完性に関して独自の形式が見られる。発せられた言葉は、単に目と耳だけにではなく、胴体や手足の右や左へ、前や後ろに刻み込まれる。」(P.59)
〈修道士のひま〉
「「理性の光」と「信仰の光」の違いが、哲学と神学という二つの読書形態へと到るのは、十三世紀に入ってからのことであった。」(P.62)
〈聖なる読書〉の消滅
「十三世紀の初頭ともなると、〈聖なる読書〉という語すら用いられることが少なくなり、ついにいくつかの著作からは完全に姿を消してしまう。しかしフランシスコ会の托鉢修道士にとっては、観想がはぐくむ敬虔な読書こそ、聖書に接するただ一つの基本的な姿勢である。このような読書形態と、今や〈学習〉において圧倒的な地位を占めるアカデミックな探求とを区別するために、〈精神の読書 lectio spilitalis 〉という語が用いられるようになる。」(P.63)
(サン=ティアリーのウィリアム)「かれは、自分の経験を著者のそれに同化させながら情愛(つまりラテン語の affectus )を込めて行う読書と、(FF)事実に則した知識を増す目的のために行われる読書とを区別している。(54)」(P.63-64)
「修道院の慣習に基づく修道院附属学校から、アカデミックな慣習を原理とする大学を生むようになる。〈読書の学習〉は、もはや多くの修養を積んだ書物を読む人々にとっての人生ではなくなる。それはむしろ今や「精神の読書」と呼ばれることになった一つの特別な、禁欲的な訓練であるとみなされるようになる。そして一方「勉学」は、ますます知識の獲得を意味することになる。かくして〈読書すること〉は、祈りと勉学とに引き裂かれるのである。」(P.64)
注
(1)「(・・・)ラテン的学問の伝統の中で、〈素質 natura 〉、〈実践 exercitium 〉、〈修養 desciplina 〉は、相対的な重要性が論じられる三つの用語である。この三対の言葉の中で、〈素質〉は、生まれながらの〈天性 ingenium 〉を意味している。(中略)ユーグが一般的な言葉である「術 ars 」の代わりに〈修養〉を用いながら強調したのは、〈教育的事柄〉において未来の弁論家に役立つ読書術要理も、修道士の探求する倫理的に優れたものへと重点を移したいという意味である。」(P.169)
(2)「ラテン語の mores という単語は、われわれにとっては「倫理性」よりは「習慣」とか「人生のあり方」と呼ぶものに近い。」(P.169)
(P.172)__ The Beatles " A Taste of Honey"
(54)「後者において、書物はドイツ語の Gegen-stand にあたる「客体」となり、その内容は素材となる。」(P.178)
4章 ラテン語で〈読書すること〉
「ユーグの学生たちは、読むことと、書くことと、ラテン語とが一体であったあの人々の仲間、つまり中世最後のラテン主義者にあたる。しかしながらラテン語は、彼らの時代に初めて、諸言語の中の一言語となったのである。そして彼らの次世代の学生は、ラテン語の詩といっしょに土俗語の詩を作成した。ローマ字体でもって、土俗の言葉を表現することが発見されたのだった。しかしユーグの学生にとって、ローマ字体は依然としてラテン語の声を伝えた。ローマ字体で記述されたラテン語は、明らかにヘブライ語、ギリシア語にならぶ三つの聖なる言語の一つであった。われわれにとって、歌うことや踊ることが話すことと何か少し違うように、当時の人々にとって、話すことはラテン語の〈セルモ sermo 〉であって、言語を用いること、つまりラテン語の〈リングア lingua 〉とは何か違うものと理解されていた。ラテン語は音と文字が一体となっており、文字だけでなく、思考もいっしょにとらえるのである。」(P.65)
ラテン語の修道生活
「そこでは修練者がふるさとで使っていた方言が書き記されたことは一度もなかった。あるいは彼らの方言は、母語として認識されてすらいなかったのかもしれない。これは百姓にとっても、騎士にとっても同じことであった。アルファベットは、まだ日常の話し言葉につきまとってはいなかった。」(P.66)__土俗=ヴァナキュラー?sermo ことば、lingua 言語。母語は sermo であって、言語ではない。それは空気や野山と同じくただあるだけ。言語とは文字であり、アルファベットである。読書(文字を読む)とは、言語を使うことであり、祈ることである。「語」を見いだし「言語」を見いだし、それを構造化することは、文字の分析である。チョムスキー。
グレゴリオ聖歌
「そしてこの時はじめて修練者は、その音楽的な側面にどっぷりと浸かっているラテン語の言葉を板書するのだった。彼ら自身の手で、音に形を与えるのである。」(P.70)
文字を独占するラテン語
「唇と耳、そして手と目とが協力して、生徒にラテン語の綴り方を記憶させる。どんな近代言語といえども、書くことで生ずる手や目に残された無意識の動きによる記憶痕跡を、このように集中的に利用して教えられるということはない。
アルファベットのことを考える時、われわれはアルファベットを話し言葉の音を記録するための一つの道具であると見ている。しかし、一千年と半分の年月の間、アルファベットは全くそのような道具ではなかったのである。形も個数も変わることのなかったこのアルファベットは、いずれたくさんの異なる言語を書き記せることを証明することになる。だがこの長い年月の間、この文字はただ一つの目的のために、すなわちラテン語を書くという目的のためにだけ用いられてきたのだった。しかもそのラテン語は、話し言葉としてのそれではなかった。それは紀元前最後の一世紀の間にアルファベットで記述されるようになったラテン語であった。ローマ帝国が地中海世界を統治していた六五〇年の間に、征服され支配された側の言語はただ一つとしてローマ字で記された例はなかった。このラテン語によるローマ字アルファベットの独占があまりにも完璧だったために、それは「タブー」が引き起こした結果であり、歴史上の驚嘆すべき特異例なのだと、考えられることすらなかったのである。役立つ技術を手に入れながらこのように活用しなかったという点は、実に前期コロンビア文明に見られる車輪の未使用、乗り物によって運ばれたのは神と玩具だけであったというあの例同様、驚くべきことに思われる。
こうしてローマ字はもっぱらラテン語に、ギリシア字アルファベットはもっぱらギリシア語に独占(FF)的に使用されてきたが、これは形と音の関連についての強い思い込みにもとづいていた。キリルとメソディウスは八五〇年頃、ブルガリア人のためにギリシア語の聖書を訳出すべく、「グラゴール文字」を造出し、新しいアルファベットを編み出した。彼らには、スラブ語の発音に必要な数個の文字をつけ加えて拡大するだけで、ギリシア字アルファベットをそのまま使用できるという考えが、毛頭浮かばなかったのである。」(P.71-72)
「またラテン語を母語とする地域においてさえ、紀元前三〇〇年の綴り方の規則は、人々が実際にしゃべる時の韻律と発声とに、もはや対応できなかった。この全期間、つまり古代ローマ時代からユーグの時代までの全期間を通して、そして地域的には黒海からスペインに至る統治の異なる広大な土地のいずこにおいても、アルファベットが、人々の実際に話す言葉を記したことは一度もなかった。十三世紀に至るまで、アルファベットは、基本的に公的な口述を筆記するための道具でしかなかったのである。」(P.72)
「ヴェスヴィオすの大噴火がボンベイを埋め尽くしたときに話し言葉であることに終止符を打たれたあのラテン語の表音式の綴りは、丸一千年を経てついに現実の話し言葉の表音記号のための道(FF)具となったのである。何が話されたとて、何が歌われたとて、そして次には何が考えられたとて、いずれも最終的には一片の紙の上に綴られる運命となった。テクストが具体的な客体から離れて一つの記録となった時、聖なる羊皮紙のあの俗なる羊皮紙へと切り離された時、ABCの記号もまたラテン語からの独立を獲得したのだった。」(P.74-75)
「だが、筆記者だけでなくすべての人間が、話をするときに言語を用いているのだという思想は、ゆっくりとではあるが止めがたいものとして、支配的になっていったのである。しかも、この言語とは、書き記し、分析し、教え、さらに翻訳することができるのである。こうして話し言葉に形を与えたこの言語と呼ばれる抽象概念は、新しい手法で現実を規定する旅へと踏み出すことが可能となったのだった。従って話すことは、今や人の思想を一字一字書き表すことと同一視されるようになるのである。」(P.75)
「叡智を目ざす巡礼の途にあるユーグは、ラテン語の書物のはしごをよじ登り、アッシジのフランチェスコは、イタリアの街角にはだかの自我をさらすのだった。」(P.76)
注
(2)「十二世紀の文書の中で、「母語」という用語はめったに使われることはなかったが、これは常に〈話し方 sermo 〉を指し、ラテン語としての〈言語 lingua 〉とは区別された。」(P.178)
(15)「中国の伝統にのっとって書道を学ぶ学生は、まず漢字を暗記するが、言語を学ぶことを目的とすることはない。またサンスクリットを記録するために造り出された記号、つまりデヴァナガリ文字の初歩を学ぶ学生が、昔から関心を持つようにいわれていることは、話す器官が違った音や〈リエゾン sandhis 〉を発するときにどう動くかである。一方ヘブライ語やアラビア語のようなセム語族を学ぶ学生は、修道院の生徒のような体験から入門する。もちろんイントネーションと母語を示す記号を引き写したり、その意味を考えたりするわけではないが。」(P.180)
5章 学者の読書
ユーグが序文を添える
読書することの勤め
わずかな収入にもかかわらず
「ユーグ以前に、学ぶことの普遍的な勤めに対する考えを、このように明確に記述した者はいなかったのである。」(P.81)
「彼は、一般大衆、誕生したばかりの喧噪に満ちた中世都市の住人たちに向かって語りかけているのである。都市住人にとって、経済力はそのまま学習にかけられるひまを決定する要因なのである。」(P.81)
「ユーグもまた、十二世紀のパリにおいて、学習の勧めを、読書の勤めと定義するのである。」(P.82)
修道参事会員は〈読書すること〉で導く
「ベネディクト会の古い伝統のなかでは、徳を行う修道士がいかなる模範を修道院の壁の外で示すかについてまで気をもむならば、彼は自己の独立と自由とを失うであろうと考えられていた。」(P.84)
「そして学者は、聖職を職業とする者と自らを規定し、一般の人々を導くための手本ではなくなった。彼らはおのれを何か特別なことをなす人間とみなし、そこから一般庶民を排除するようになるのである。」(P.86)
めくられるページ
「西洋の文化は、科学、文学そして哲学を従えて、アルファベット表記とともに誕生した。西洋の文化は、アルファベット表記なしに理解することはできない。しかも西洋におけるこの重要な時空は、一つの歴史を形成している。そしてこの歴史における数々の出来事は、ABCが用いられるようになって起きた主要な変化に対応しているのである。およそ一一四〇年前後に、一枚のページがめくられたのである。書物の文明の中で、修道院のページは閉じられ、学問のページが開かれたのである。」(P.87)
「そこに生きる彼らが共有するのは、時の封建制度に挑戦し始めた市民の精神である。ベネディクト会の生活を封建色の濃いものにするクレルヴォーのベルナールと違って、サン=ヴィクトル会では、古代の国家の市民精神、すなわちアウグスティヌスの規則に表現されるものと、「領土を持たない」修道院の伝統の復興が図られる。」(P.87)
「ベネディクトゥスからベルナールに至る時代には、読書する人に社会で果たすべき義務を求める必要は少しもなかった。なぜならば読書する人は、読んだ書物を自分の説教や書き物に注釈として織り込んで、ふたたび登場させることができたからだった。」(P.88)
「代わりに読者はすばやくページをめくる。彼の目は、二次元平面であるページを映す。そして直ちに彼は書物に事寄せて、自分の心を見つける。かくして読書は個人的な作業、すなわち自己とページとの交わりとなるのである。」(P.88)
新しい聖職者が文字を独占する
「いかに聖職者の地位が変化しようとも、またその役割がいかに変わろうとも、聖職者という語には、階級意識とエリート意識とが分かち難く結びついていた。さらに加えて東方、西方いずれの教会においても、三世紀から十一世紀の間、聖職者は選ばれた人間、しかも男性のみから構成されていた。」(P.89)
「法の管理と儀式用の文句を暗唱するための聖職者の読書ではなく、伝統的に修道士のものである自分自身の読書を行うことを求めるのだった。」(P.90)
「アルファベットの歴史において一枚のページがめくられた時、聖職者は新しい装丁の書物をたくみに使いこなし、索引を用いて内容を知ることができる一人の人間として登場する。」(P.91)
「司教の下で典礼を執り行う人々(聖職者)と一般の人々(特別な観想する読者や修道士を含む)を対立させる社会的二元性は、ここで新たな二元性へと道を譲るのだった。中世後期に生じたこの新しい二元性は、読み書きの能力のある者とない者とを対立させる。こうして十二世紀に広まった読み書きのための新しい技術によって、識字者の支配がただちに必要とされるようになった。文字の知識を有する者は、書かれた文字を耳からだけ聞く人間、つまり無知なる者の対局にいる学識ある人間として自らを位置付けるのである。」(P.91)
「識字能力に欠けた人々があこがれるべき対象となった。そしてそのために、文字の知識のない人々は、より優れた人々、すなわち文字の知識を有する人々から「無教育な人間」として必然的にいやしまれ、管理され、監督される立場に、自らをおとしめるのだった。」(P.93)
黙読
「ユーグのもう一つの貢献は、特に黙読という読書形式が存在することを初めて公に文章に記したことにある。」(P.93)
「通常筆記者は、他の者の口述に基づいて写本をした。口述者が在席しないときは、筆記者は書物の前に座し、声に出して読み、声が媒介する記憶の許す限りを写し取ったのだった。そんなわけで、初期の修道院付属の写本室は、騒々しい場所だった。ところが七世紀にはいると、アイルランドで開発された新しい技術が大陸に伝わってきた。それは、個々の語と語の間に空白を挿入する方法である。この方法が普及するようになると、写本室は沈黙した。写本する者は、単語を一語ずつあたかも表意文字であるかのように目でとらえ、それを作業中のページへ書き写すことが可能になったのである。」(P.94)
「今日、この読むと書くという二つの動詞が、明らかに異なった二つの行動を意味していることは、確かである。しかし歴史的にはそうではない。」(P.95)
「〈筆記する人 scriptor 〉は筆を持ち、〈口述する人 dictator 〉は指図する。十二世紀の著作者が、自ら筆をとり、蜜蝋の書き板に草稿を記すのは、特別な場合だけだった。まして高価な羊皮紙の上に自ら筆で記すなどということは、著作者の思いもよらないことだった。それは〈書く人 amanuensis 〉と呼ばれる別の人々の仕事だった。」(P.95)
「そしてある時点で、古代の〈速記者 tachy 〉と、すばやい筆記者とが入れ替わったのである。数枚の書き板に速記された内容は、次の中間段階の作業者が、通常の書き方に書き改めるために読み上げられた。こうして書き起こされたものを元に、はじめて〈書家 calligraphers 〉と呼ばれる少人数の女性の集団が筆で原本を書いたの(FF)である。これから読者のための写本が作られたのだった。」(P.95-96)
「当時のやり方によるならば、筆記者はベルナールの口述を自分の手につぶやきかけながら記すのだった。つまり筆記者の口が尖筆を持つ手を導いたのである。読書と同じように、書くこともまた依然としてぶつぶつとつぶやく活動のままだった。」(P.98)
学問の〈口述〉
「十三世紀の末までには、学生たちが教師の口述筆記をすることが一般的となった。」(P.99)
「学問上の議論は一層複雑かつ表現に富むようになり、目で理解するものの助けなしには進められなくなったのである。」(P.99)
「しかしこの論争から、少なくとも十四世紀末までには、ほとんどの大学では、講義は口述とそれを筆記することから成り立っていたことがわかる。」(P.99)
「熱意ある教師の著作から、教師は学生全員が書き取るまで同じ文章を数回繰り返し発音するのが普通であったことが伺い知れる。」(P.100)
注
(11)(実務)「negotia つまり neg-otium は、〈ひま otium〉の否定形である。この文脈のなかでは、ひまに身を置く〈 vacant 〉修道士のライフスタイルと対立する生き方を選ぶことを意味する。」(P.182)
(40)(聖職者)「それは「任命された者」あるいは「教育ある者」を意味したが、徐々に霊魂の世話をする権利と義務でもあると定義されるようになった。」(P.185)
(44)「十二世紀初頭において、この新しい識字能力は、聖職者の独身主義と分かち難く結びついていた。ローマ法の下では、同棲は売春とも結婚とも関係のない社会的慣習であった。後に帝国の法律は、同棲と結婚との違いを強調し、前者の気楽さと後者の安全性とのどちらかの選択を強いるようになった。」(P.186)
「十一世紀後期におけるグレゴリウス帝の改革において初めて、僧侶は、同棲相手を追い出すか、さもなくば聖職禄と生活の糧を失うかの選択を迫られた。いずれの選択も僧侶と一般信徒との間に新たな距離を生み出し、古いベネディクト修道会の生活とは違う聖職共同体の形成を促したのだった。
司教を支える者たちと一般信徒との間のこの大きな隔たりは、財政的にも、学識の上でも差異をもたらした。教会は〈聖職禄 beneficium 〉付きの〈聖職者の組織 corporatio 〉と理解されるようになる。その結果、聖職者は新しい公証人としての権力を独占しようと企てた。約束の言葉よりも証文が重要となるにつれて、彼らの力は、ますます大きくなるのだった。」(P.186)
6章 記録された話から思考の記録へ
技術としてのアルファベット
発話の痕跡から概念の鏡へ
「ユーグより前の時代の人々にとって、書物は著者の話や口述の記録である。しかしユーグ以後になると、書物は徐々に著者の思想を蓄えたもの、つまりまだ声になっていない考えを映し出すスクリーンとなってくる。」(P.103)__アリストテレスの第一実体 -> 概念・思考そのもの、言葉になる前のものが客観的存在となったもの。ここで、言語と思考が同一視され、主体が存在となり、アリストテレスの実態となった=「言語 lingua 」となった。口に出されたものと書かれたものが同一となり、それは心そのものとなった。内的心(良心も罪も含めて)は存在するものとなり、告解が可能となる。言葉する前にそれは存在するのである。
「ユーグは、書物の音を聞く人のために、読書術に関する書物を著したのである。しかし彼が書物を著したのは、一つの時代の終焉の時であった。事実、次の四世紀の間にこの『学習論』を用いた人々は、もはや書物を舌と耳で読みはしなかった。彼らは新しい方法になじんでいた。ページに記された様々な形は、彼らにとって音のパターンを誘発するものであるよりは、概念を表す視覚的記号であった。彼らは、「修道士」の読み方より「学者の」読み方に明るかったのである。彼らは書物をもはや、ぶどう畑であるとか、楽園であるとか、あるいは冒険に満ちた巡礼(FF)行にとっての景色であるといったように考えることはなかった。むしろ彼らにとっては書物は、財宝置き場であり、貯蔵庫であった。すなわちそれは検討することのできるテクストだったのである。
一方ユーグの時代の人々にとって、書物とは〈冒頭句〉を玄関にかかげた回廊のようなものである。仮に本の中にある一節を見たいと考え、飛ばし読みをしても、自分の捜している一節に出くわす可能性はほとんどない。」(P.103-104)__具体物(風景)を連想することなく、テクスト(思考)として本を読むこと。
「一九七〇年代の末までは、録音された音楽を繰り返して聞くことは可能であっても、ある特定の一節を選び出すための確実で手軽な方法はなかった。しかし一九八〇年代の末になると、経過時間を測定する装置はもとより、再生箇所や場面を表すための数字の表示がオーディオ装置の標準仕様となった。修道院の読者にとって書物とは、古い録音装置と同じように、ひたすらたどってゆくことはできても、自分の知りたい箇所をそこからひょいとすくい上げることのできる代物ではなかった。ある特定の箇所を簡単に探し出すことが一般的なやり方となったのは、実にユーグ以後のことなのである。」(P.104)
「この新しい技術の使用は、現実を表現する新しい方法をどのようにはぐくんでゆくことになったのだろうか。」(P.105)
「記された事実のほうが、証人の言葉よりも法的な力を持つようになった。すなわち法廷において、決定的な言葉となるのは、証言ではなくて証文であった。」(P.106)
物語の注釈から論題の物語へ
「書物はもはや話の記録ではなく、論拠のある思考のための視覚的表現を記す場所となるのである。」(P.108)
〈秩序〉 目に見える構図
「これらはページの上で特別な色を用いて目立つように工夫されている。その結果、読者は一目でどこに誘惑者の言い分が、あるいは〈対立者 adversarius 〉の言い分が述べられているかを知ることができるのである。この目に見える印によって、著者の〈秩序〉を認知する作業は、内なる耳を通してではなく、目を通してなされるようになる。それは音の韻律から、新しい人工的空間への変換でもある。視覚に訴える〈秩序〉に依存する傾向は、とりもなおさず人々が読書する時、目の前に書物を据えて読むことを、ますます必要とするのである。」(P.109)
〈瞬間検索〉 すばやい接近法
アルファベット順索引
「子音(呼吸を妨げるもの)と母音(肺から飛び出た「霊」である息吹に付けられた色を示すもの)との双方に記号を当てはめることで、社会的に計り知れない大きな意味を持つ一つの技術が作り上げられた。この技術を用いる社会は、他の様々な文化を有する共同体から自らを離床させる。しかしながら、ほぼ一世代をかけて作り上げられた名称や項目をアルファベット文字順に並べる手法が、この表音式綴りに匹敵するほどの技術的革新であるということに、ほとんどの学者はまだ気づいていない。ギリシア文化を前アルファベット口承文化と、文字と学問の庇護のもとにある文化とに分けることになぞらえて、中世文化をアルファベット順索引以前と以後とに分けることは、きわめて理にかなったことのように、私には思われる。」(P.112)__中国の辞書の索引はどうなっているのか。
知恵袋ユーザーさん
2018/4/12 7:40
中国人が使う辞書の見出し語はどういう順番で並んでいますか。ピンインのABC順ですか。部首とか画数とかで決めた順番があるのでしょうか。
ベストアンサー
すーぷさん
2018/4/12 8:12
おっしゃる通りABCの順番で並んでいます。
これが一般的です。
これとは別に少ないですが古い年代向けに、部首から引く、ポフォモフォ【日本語表現不可ですいません】の発音ら引く、などの辞書を見たことが有ります。(Yahoo! JAPAN知恵袋)
「書物の上の新しいページの割り付け、各章の区切り、段落付け、章と句に付される一貫した番号、本の全内容を示す目次、副題について説明される前書き、著者が自分の論旨の展開を表す序論などすべては、秩序を立てるという新たな意志の表れなのであ(FF)る。
先のいずれの分野においても、文化の息吹と知的意志と文字表現とが一体になって、かつて前例を見ない新たなものを生み出している。しかしながら、アルファベット順索引の誕生ほど、技術が精神に及ぼした影響をわれわれに鮮明に教えてくれるものはない。この知の位相空間では、知識が追求され、種々な学問の分類がなされる。この空間は、ユーグの精神が躍動していた空間とは不連続なのである。かつて物語の語り手であった著作者は、こうしてテクストの作成者へと変身するのだった。」(P.113-114)
著作者と編者、批評家、写本家
「暗黒の中世をラテン語ではなくアラビア語で生き延びた古代の著作者は、パリのユーグたちの手元にある翻訳本にはまだ登場してはいなかったのである。」(P.114)
「十二世紀後期の著述家たちは、それらの書物を新しいやり方で消化したのだった。これらの書物は、もはや彼らが瞑想しながら反芻するための飼い葉として存在するのではなく、新しい学問体系を構築するための建築材料として用いられるようになったので(FF)ある。」(P.114-115)
「ところが、ユーグの死後わずかの間に、書物に記された文章から音が聞かれなくなり、書物は精神が求める秩序を写し出すスクリーンとなるのである。神学および哲学の本は、〈物語 narratio 〉を再現する手段ではなく、〈思考 cogitatio 〉、すなわち思考構造を表現する手段となる。この〈思考〉は、なによりもまず出来事の語られた記憶ではない。それは考え抜かれた理性の概略である。」(P.115)
割り付け
〈彩飾〉か〈挿絵〉か
「中世の彩飾は、音読する人々を、言葉で言い表すことのできない沈黙の賛美へと導くのだった。」(P.119)__絵画から作者の「意図」を「読もう」とすることは、近代的である。
「細密画と文章とは、耳と目とを駆使してダンテが魅惑的な「書物のほほえみ」と呼んだものと同じ見事な調和へと導くのである。」(P.120)
「写真、イラストそして図表は、輝く文字からなる風景の記憶を、旅人の手の届かないところへと追いやってしまう。彼らはそのような世界の住人である。」(P.120)
持ち運びのできる書物
「聖書がこのように別々に装丁され、個別に装飾がほどこされ、分冊として機能分化していたのは、単に二つの技術的理由によるものであった。一つは、当時使用できる紙が、聖書を一巻に集成するにはあまりにも厚く、重かったからである。もう一つは、使用されていた文字が大きすぎて、一巻にまとめることの可能なページ数に本文全体が収まらなかったからである。」(P.122)__「〜〜である」は検証することもできるが、「〜〜すべきだ」は検証のしようがない。それは未来に関わることだから。
「紙の製造技術は、中国人によっておよそ紀元前一〇〇年から紀元一〇〇年の間に誕生した。韓国と日本がこの技術を紀元六〇〇年頃手に入れた。」(P.123)
「ヨーロッパ最初の製紙工場ガザトビアに一一〇〇年頃作られた。」(P.123)
「古代エジプトのインクも伝統的な中国の墨も、われわれの用いる水彩絵具と変わるところはない。これは原料である植物の顔料やランプのすすをのり状に溶かしたもので、乾くとそのまま紙の表面に固定される。一方金属を原料とするインクは、紀元前四世紀に発明された。」(P.124)
「置かれたままの動かない書物から、持ち運びのできる書物への変化を象徴するのが、束に巻かれた書物、いわゆる〈袋本 Beutelbuch 〉の誕生である。」(P.124)
注
(6)「この時点で、十二世紀におけるメディアとコミュニケーションの変遷について語ることは魅惑的である。紙、ベーラム、フェルトを巻いた羽などの新しく誕生した道具類や、脚注、強調、索引、文字スタイル変化などの数々について語ることは。しかし私は近年判明した諸概念を、遠い昔に起きた出来事の説明のために用いることは、慎重でありたい。」(P.191)
(9)「M. T. Clanchy, From Memory to Written Record, England 1066 - 1307 Cambridge, Mass:Harvard University Press, 1979) は、記録物の利用増加について分かっていること、またこの増加傾向が個人と社会間の理解を反映し、それを高める様子を検討している。Clanchy は、特に、文書が日常生活に与えた影響について注目している。文学、科学、哲学の分野については意図的に除外している。さらに Alexander Murray, Reason and Society in Middle Ages (New York; Oxford University Press, 1979) も参照されたい。一〇五〇年から一三〇〇年ころまでに、文字の知識を有するものに影響を与えた文字の力についての社会史である。」(P.191)
(23)(『標準注釈』)「Ordinaria は、実に十四世紀に入ってから用いられた呼び方である。」(P.195)
(40)(Gougaud, "Muta praedicatio")「は、聖書の中で神を見ることのできない者が、描かれた線をなぞることで神を見つめられるように、絵を用いることを命じている。啓蒙の仕方には二つの異なった方法、つまり文字においては「見ること」によって、絵においては「見つめること」によってという、二つの方法が強調されている。」(P.118)
(46)「十三世紀には、絵はもはや凝視している人々に、〈書かれているもの litera 〉について語りかけ、その内容を伝えることはなくなった。絵は文字とならぶ叙述とみなされることになり、文字の知識のない人々に対して独自の力を持つ別個の文学作品となったのである。Thomas Aquinas, Scriptum super IV Sententiis, bk. 1, dict. 3, ch.1. 「これが教会において画像を用いた理由であった。つまりこれは、あたかも本のように絵から学ぶ文字の知識のない人々に対する指導であったのである」。書物の隠喩的性格がきわめて支配的となった結果、絵そのものが文字の読み書きのできない者の指導に用いる一冊の「書物」とみなされるようになったのである。」(P.199)__仏画(仏像)。
7章 書物からテクストへ
「書物は、先例のないある種のものの象徴となる。その文字に表されているが、触れることのできない存在を、私は〈本の形をしたテクスト bookish text 〉と呼ぶことにしよう。」(P.127)
「書物は一冊の本の形をしたテクストとなった。このテクストは学究的精神を呼び起こした。そしてこのテクスト主義は、古代ギリシアにおいてアルファベットで記録することが文学と哲学の素養として必要であったように、印刷文化の基盤として、なくてはならないものとなったのである。しかしながら、今までのところこの点が問題とされたことはない。印刷に適合する客体を生み出したものは、実は印刷技術発明より三〇〇年前のあの筆記革命であったのだという仮説を真摯に受けとめて、論じた書物や論文を目にしたことはない。」(P.128)
客体としてのテクストの歴史へ向けて
「精神の形態と行動形態を二つに分けるこの分水嶺が、本試論を通しての主題である。しかしこの区別は、一九二六年にミルマン・パリーがホーマーの語りに関する議論の緒を開いて以来われわれにとってなじみ深い区別、たとえば語られた歴史と書かれた歴史、叙事詩の伝統と叙情詩の伝統、表意文字とアルファベット文字、装飾と挿絵などの区別と同じものではない。」(P.129)
(われわれの時代に起こりつつ有る)「その転換とはすなわち、アルファベットの技術がコミュニケーションの渦の中に溶解することを指している。〈客体としてのテクスト〉の歴史に焦点が当てられることがなかった理由は、歴史家を生み出した人文科学の伝統自体が、このテクストが形成する土俵の上で育った現象だという点にある。このことをここでしっかりと把握しておかなくてはならない。本という実体からテクストが離反すると、つまり〈記録〉となると、自然界自体は読解される対象であることをやめ、記述される対象となった。釈義と解釈とは実世界に対してよりはテクストに対して行われるようになったのである。だが自然界が符号化された情報として再び考えられるようになったこの現代において、「実世界の読解性」の歴史は学問上の研究課題の一つとなりうるものであろうか。
『学習論』において、羊皮紙の表面に書かれたテクストを照らし出すのは、依然として読者の目の〈光〉である。」(P.130)
「テクストは、オリジナルからコピーを分離する空間の中を、意味を担った記号を運ぶ一種の船となり始めていたのだった。その船はあちらこちら(FF)に錨を下ろす。しかしながらテクストの書物からの分離にもかかわらず、テクストは依然として書物を港としていた。」(P.130-131)
「本の形をしたテクストが私の住まいであり、そしてこの本の形をした書物を読む人々の共同体が、私が「われわれ」と呼ぶ仲間なのである。」(P.131)
「幻のスクーナー船からの信号のように、そのデジタルな記(FF)号列はスクリーン上に気ままな活字を描く。それは幽霊のように突然現れて、そして消える。書物を意味の港として読む人はますます少なくなる。いく人かの人々にとっては、書物が依然として不思議、喜び、困惑、苦い後悔へと導くものであることは確かである。しかし、私は案ずるのだが、多くの人にとって書物の主たる価値は〈情報〉を指し示す隠喩以外の何物でもなくなっているのではないだろうか。
われわれより前の世代の人々は、この本の形をしたテクストの時代にしっかりと埋め込まれていた。だから彼らには、このテクストの歴史的出発点を調べる必要は何もなかった。事実、彼らの基本は、どのようなものであろうとも、それは〈テクスト〉であるという構造主義者の前提によって支えられていたのだった。だが、その彼らの足が、新しく置きつつある分水嶺の両側に一足ずつ置かれていることを看破してしまった人間にとって、この前提はもはや信ずるに足りない。」(P.131-132)
テクストの抽象概念
「書物は〈自然〉を指し示すものから〈精神〉を指し示すものへ転換した。これは異なってはいるが、(FF)しかし微妙につながっている二つの改革に負うところが大きい。つまりそれは一方では写本のページからテクストの根が引き抜かれることであり、他方では、文字の千年にわたるラテン語との結合からの分離である。
こうしてテクストは、書物とは別のあるものと考えられるようになった。それは、目を閉じても見ることのできるものであった。そしてプリンターの打ち出すフォントならぬ、筆記者が手に持つペンがこの実存物を作り上げた。」(P.132-133)
「この新しいテクストは、書物のページから作りごとが浮き上がって、独立した存在となったものである。この新しい本の形をしたテクストは、間違いなく物質的存在ではあるが、それは普通の存在ではない。それは〈文字どおり〉ここにもなく、どこにもない存在である。ただその影だけが、唯一、形あるあの本、この本の中に現れるのである。その結果、書物はもはや自然や神へ通じる窓ではなくなり、また、読者が被造物や超越者に近づくことのできる透明な光学的装置でもなくなった。」(P.133)__翻訳の可能性。本ではなくテキストを翻訳する。
「書物ではなくテクストが、思考の集められ写し出される対象となったのである。」(P.133)
「二つのアリストテレスの言葉がいずれもボエティウスによって〈抽象 abstractio 〉と翻訳されている。第一の言葉は「分離する」を意味する chorízein である。これはアリストテレスの用いた哲学用語であって、通常批判的に、プラトン学派におけるイデアの現実からの分離を指した。抽象と訳されているもう一つの言葉は、アリストテレス学派の用語の中で「隔離」とか「括弧でくくること」という意味にあたる aphairesis である。この言葉は、分類しようとする精神が、物的対象を別にしておくという思考過程を指摘するためにきまって用いられた。」(P.134)
〈言語〉と〈テクスト〉
「二十四個の文字が第一に目に見える構成物のために用いられる。そしてついに、二十四個の文字は、近代の読者が心の中に抱いている目的のために用いられるようになるのだった。つまり、それらが日常の生きた言葉を記録するという目的である。ラテン文字は、使用された間中、常に一つ、唯一の〈言語〉、ラテン語という言語だけを意味したことを、われわれは簡単に忘れてしまいがちである。従って文字「L」は、ラテン語の〈言語 lingua 〉、〈書物 liber 〉、〈光 lumen 〉の最初の音には大体対応したが、土俗語による発音には決して当てはまらなかったのである。」(P.136)
「同時に文字は、文章から音をもたらす筆記者の手が生み出したあの感覚を失うのであった。ページの上で沈黙された文字は、非ラテン語発話による通常の記録のために利用されることになった。土俗語によるこのような記録の激増は、ローマアルファベット文字に拠るものだけに限っても、本の形をした書物を求める風潮と一致している。同時に書物は、象徴として、自然を一冊の書物であると、またラテン語を唯一の言語であるとはっきり示すことを止めたのだった。」(P.136)
「万物は懐妊している」
「書物が〈記録 Schriftslück 〉の象徴へと方向を変えた。」(P.137)
「浅浮き彫りは、巻物があの世の治安判事の属性であることを示している。
このように、古代の巻物は隠喩であるばかりでなく、属性でもあった。これは統治者を示す。」(P.138)__閻魔大王。
「〈読書の学習〉がなぜ効果的で確実な知の探求であるのだろうか。それは、万物は意味を懐妊しており、その意味は、読者によって明るみに出されるのをひたすら待っているという事実に立脚しているためである。自然が書物のようなのではない。自然そのものが書物なのであり、人間の作った書物は、自然の類似物なのである。そしてこの人間の作った書物を読むことは、とりもなおさず産婆術を行使することなのである。だから読書は、抽象的行為からはるかにかけ離れた、受肉的行為なのである。」(P.139)
注
(2)(Eric A. Havelock, The Literate Revolution in Greek and Its Cultural Consequences (Princeton: Princeton University Press, 1982)「それはギリシア語の話し言葉を人工物に取って変えたのだった。こうして発話は、話し手から切り離され、一つの言語に作り上げられたのである」(PP.6-7)」(P.202)
(4)「口述に用いた言語をめぐる行動学と象徴性に関する歴史的視点、書き手、書くことへの関心をわれわれが欠いている限り、客体であるテクストが精神を形作ることの意味は、あたかも新月を迎えた月のように隠れたままになってしまう。」(P.202)
「口述の筆記は行われなくなり、代わって著作者の書いた文章のみが、多くの場合、唯一の手作業とみなされるようになった。なぜなら印(FF)刷本は書記が書き取ったものから作られるよりも、著者の実筆原稿から作成されることが多くなったからである。精神的客体である本の形をしたテクストは、それを手で記す当の著作者によって、書物から切り離されたのだった。」(P.202-203)
訳者あとがき
一九九四年八月二十八日 岡部佳世
〈終わり〉
〈メモ〉
本(文字)を読む自分と、本が発する光が融合しています。
__ドラマと小説の違い、小説のなかに映像を見、音を聞くということ。場面を自らの頭のなかで描くこと。
子供の頃、妖怪ボックスがあったり、ゴレンジャーがいたりした。動物も話をした。そこには希望があった。鉄腕アトムができると思っていたのとは違う。それは期待だ。勉強すれば、働けば学者になったり、経済が成長してアトムがつくれると思っていた。
文字は「何か」と切り離せない存在でした。
(キリスト教徒はなにか)
(宗教と文字の関係)「宗教」がわからないと。