韓国が漢字を復活できない理由 豊田有恒著 2012/07/10 祥伝社新書

韓国が漢字を復活できない理由 豊田有恒著 2012/07/10 祥伝社新書
あのSF作家

図書館で、何気なく「言語」のコーナーを見ていたら目につきました。タイトルを見て「変わったタイトルだな」と思い、中をパラパラと見たら、これが面白い。借りることにしました。

図書館のベンチで読みはじめて気付きました。この著者見たことがある。で、思い出しました。そうです超有名なSF作家です。私も文庫本を一冊くらいは持っているはずです。こんな本も書いているんだ、と思ったのですが、ただの韓国好きではなくて、専門家なんですね。去年、84歳でなくなりました。

本を借りて返ってきたら、韓国の「非常戒厳」のニュースが流れてきたのですが、単なる偶然です。


「見敵必墜の精神」

私の知らないことがたくさんあって勉強になったし、例の挙げ方が絶妙です。さすが小説家です。とても面白い。一番面白くて、何度読んでも吹き出してしまう部分を引用します。日本人が中国語の文法とは別に独自の漢字の使い方をしているという話です。

日中戦争のさなか、日本のゼロ戦は、無敵の猛威を奮っていたが、中国軍パイロットは、日本軍のスローガンを見て、せせら笑って、溜飲を下げたという。「見敵必墜の精神」というスローガンだ。

「敵を見れば、必ず墜とす」というつもりなのだろうが、中国語の文脈でいうと、これがおかしいのだという。墜落の墜の字は、自動詞なのだそうである。つまり、墜ちるという意味である。敵を見たとたんに、必ず墜ちる戦闘機では、笑われても仕方がない。(P.146)


朝鮮・日本・中国

日本も韓国(朝鮮)も、中国から漢字が伝わりました(それ以前に文字があったかどうかは知りません)。今残っている物(つまり、権力者が残そうとしたもの)は全て漢字で書かれています。日本ではそこから仮名が作られました(Wikipedia「仮名」参照)。ハングルは李氏朝鮮第4代国王の世宗が、1443年に公布した文字『訓民正音』です(Wikipedia)。

王の文字を意味するハングルという呼称が用いられるようになったのは、二十世紀になってからである。それまでは諺文(オンムン)と呼ばれていた。これでも軽蔑的な呼称だが、まだしもマシなほうで、アムクル(牝文字)、アヘックル(わらべ文字)などと、蔑視されていたくらいだ。(P.17)

日本でも、仮名が女文字と思われた時代があったが、韓国では、つい最近まで、そう考えられていたのである。

そもそも、ハングルという言葉が、創製当時はなかった。二十世紀になってから、周時経(チュ・シギョン)という人の命名だという。〈ハン〉はチンギスハンなどという時の王者の意味で、〈クル〉あるいは〈グル〉は、文字という意味の固有語である。(P.155)

文字を輸入するということは(物でも同じですが)その文字が抱えている文化そのもの(それは風土を伴って)を輸入するということです。それらの文字や物には、それを作った人の技術や「心」が含まれますから。そしてその中には「考え方」も含まれます。典型的には「文法」と言われるものです。「態(能動態・受動態など)」や「時制(現在形・過去形など)」などは、人間どうしの関係、自然との関わり方、時間のとらえ方などが含まれています。

ただ、それをどう受容するかはまた別のことです。前記の笑い話は、文字は輸入したけどその文法は受容しなかった例でしょう。漢字仮名混じり文は漢字を使っていますが、それに送り仮名をつけることで、日本語文法に当てはめようとしていると考えることもできます。

日本では20世紀に入ってから識字率が高まったと言われています。韓国でも現在ほぼ100%と言われていて、それはハングルのおかげだとも言われています。識字率(文盲率)は各国で調査方法が違いますから一概には言えませんが、「文字を知っている(読み書きができる)」ということよりも大切なことは、「文化が(社会が)文字を前提しているか」ということです。わかりやすい例で言えば、「証言」よりも「証文」が重要とされるかどうかです。これは数字で調査するのは難しいものです。それに「文字の文化」は文字を通して広まっていくばかりではありません。テレビ・ラジオ・映画やゲームなどを通しても広がっていきます。テレビ・ラジオ・映画・コンピュータゲーム(テレビゲーム・ビデオゲーム)などの創作物が「文字の文化」の産物であることは明らかです。

そしてそれらのメディアは、「正しい言葉」を伝えます。共通語(標準語)、正しい綴り、正しい語順などです(さらには「正しいはね止め」「正しい書き順」まで)。

つまり、「正しい文法」を伝えるのです。義務教育でも必ず国語(母国語)とともに「文字」が教えられます。そしてそれは「思考方法」「思考形式」、つまり「考え方」です。文字が大切だとすれば、それが「声」「感情」「感覚」「思考」を伝えるからではなく、「考え方」を伝えるからです。

支配者は、被支配者(地域)に自分の言語を強制します。それは「音」を強制するのではなく(支配者・被支配者を区別するため、むしろ音はあまり強制しない)「考え方」を強制するのです。

しかし、アフリカばかりではなく、新興国では、自国語で教育を行えないケースが少なくない。バンツー語なり、スワヒリ語に、しかるべき語彙がないためである。仕方なく、数学、化学、物理などの教育では、旧宗主国の言葉である、フランス語や英語で、授業を行っているという。(P.202)


言葉を文字で表すことができるか

私はハングルを読めるようになりたいと何度か挑戦したことがあります。でもだめでした。未だに一文字も読めません。発音できないもの(音にならないもの)は読めないのです。ですから、アラビア文字やインド系文字もだめです。ギリシア文字はだいたい分かるようになりました(発音はまったく怪しいですが、音にできれば読める気がします)。

ハングルは、世界のいかなる言語でも、無理なく表記できると、しきりに言い立てるのだが、実情は異なる。(P.29)

著者は、1989年の地名学会会長チョン・チェド氏の言葉を批判的に引用しています。

ハングルは、一四の子音と一〇の母音の組み合わせで、一万二〇〇〇以上の音節を、書きあらすことができる。英語の音節は、八万を超えるが、それぞれの子音、母音の読みが一定していないため、単語ごとに読みが異なり、不便きわまりない。

日本語の場合、音節の数は、韓国語の二〇分の一以下しかない。カタカナ、ひらがな、漢字という三種類の文字を使うため、混乱している。韓国語では、たとえば、同じ笑い声でも、三〇〇通りに書き分けられるが、日本語では二〇通り、中国語では一〇通りにすぎない。(P.56)

「三〇〇通りの笑い声」ってすごいですね。想像できません。「三〇〇通りに笑い分けられる」ということでしょうか。きっと感情やそれを表す人間の個性などが表現できるんでしょうね。日本語では「にやりと笑う」とか「大声で笑う」とか「不敵な笑い」とか、副詞や形容詞を付けて表現するところでしょう。英語で「歩く」という動詞が、「ゆっくり歩く」「いそいそと歩く」「早足で歩く」などで別の単語になっているのと同じです。

ハングルや仮名、アルファベットが「すべての言語」を表記できないのは、それらが発音記号よりも少ない文字数であることからも明らかです。では、発音記号ですべての言語を表記できるのでしょうか。無理でしょうね。日本語の同じ単語だって、人によって発音が違うし、その人の体調によっても異なります。もちろん、その言葉に込められた「気持ち」によっても違います。そこには「揺れ」というか「範囲」というか「冗長度」というか、「どこまでなら違っても同じ単語として聞き取れる」ということがあります。つまり、「話す(声)」ということは「(声を)聞く」ということとセットだということです。そして「話す・聞く」ということは「文字(を見る)」とは全く別のことです。

いや、「別のことになった」ということが「文字を前提とする文化」の特徴なのです。それがどのようにして起こったのか、どのような意味があるのかについては、イヴァン・イリイチ『テクストのぶどう畑で』やウォルター・J.・オング『声の文化と文字の文化』などに詳しく書いてあります。

日本語はひらがな(カタカナ、あるいはアルファベット)で表せるのでしょうか。私は、逆に日本語がどんどんひらがな(文字)に近づいていると感じています。それは著者の、

(ハングルだけの表記、・・・引用者)漢字の廃止によって、韓国人も教養の低下、語彙の貧弱化、言語の伝達の不足など、多くのマイナスを抱え込んでしまったのだ。漢字反対派の言い分に、漢字は書くのが難しいという論点がある。けれども、このIT社会では、キーボードを押せば、漢字が書けるのである。このことを、今後、考えてもらいたい。妙なプライドとナショナリズムだけで、反対しているときではない。他国の言語政策について、日本人が物言いすれば、反発されるだろう。しかし、漢字復活は、韓国人のためでもあるのだ。(P.211)

という結論とは全く別のものです。


植民地か併合か
つまり、ギリシア・ローマという文明の周辺にいた民族、ガリア(フランス)、ブリトン(イギリス)、チュートン(ドイツ)、ゴート(スペイン)などは、文字すらも持っていなかったくらいだから、未開な状態から脱してはいなかったのだ。文字ですら、アルファベットを、自己流にアレンジしたルーン文字が使われていたくらいだ。いわば、ギリシア語、ラテン語に由来する単語は、東アジアにおける漢語のようなものだった。ただ、東アジアとの決定的な相違は、漢字に相当する単語が、ギリシア語、ラテン語と、二種類あることだ。(P.195)

文字をもっていないことが「未開」だというのは、日本語の「文明」「文化」に「文」が使われていることから来ているのでしょうか。どちらも古くからある言葉ですが、今使われているのは「 civilizatin 」や「 culture 」の訳語としての意味です。「未開」は「野蛮」で、「啓蒙されていない」という意味ですが、もともとは「まだ開いていない花」のことです。「文明開化」は福沢諭吉(著者は「先生」と呼ぶ、P.52)が『西洋事情』(1866-70)で初めて使ったと言われていますが(日本大百科全書(ニッポニカ))、この言葉には「ないものを植え付ける」ということではなくて、「あるべき本来の姿が現れる」という思いが込められている気がします。人間(あるいは日本人)が本来あるべき姿にするのだ、という思いです。

すでに合併以前、慶應義塾の福沢諭吉先生は、王朝時代の漢文至上主義を批判し、みずからハングル活字を作らせ、漢字・ハングル併用を、推進しているほどである。(P.52)

ちなみに世界最初の金属活字は、グーテンベルクより遥かに早く、朝鮮の高麗王朝の時代に創製されている。その韓国で、ハングル活字がなかったというのだから、いかに蔑まれていたかがわかろうというものだ。(P.157)

そして、

イギリスは、インドを植民地にしたが、合併しようなどと、一度も考えたことがない。また、京城帝国大学を設けたことも、日本が朝鮮を植民地と考えていなかった証拠のひとつに挙げられよう。(中略)イギリスが、インドにケンブリッジやオックスフォードに匹敵する大学を建てようなどと、夢にも考えなかったことを考えれば、日本人が、日本の都合にもしろ、朝鮮半島を内地並みに扱おうとしたことはまちがいない。(P.179)

その点、日本人は、韓国人を日本人にしようとしたのである。別な文化を持つ隣の異民族を、同化しようとしたのだから、独善といえば独善だが、少なくとも善意ではあったのだ。(P.180)

と言います。「植民(地・化)」ではなく「併合」だと言うのです。この考えには反対する人も多いでしょう。

韓国の被害者意識と反対に、日本人の(中国人・朝鮮人・東南アジアに対する)加害者意識は私にもあります。そういう教育を受けてきたからです。「一億総懺悔」の延長ですね。中国人や朝鮮人を差別した空気の中にいた経験もあります。「ばかちょんカメラ」という言葉を知っている人も多いでしょう。

植民なのか併合なのかは、私にはどちらでもいいのですが、それが「善意」だったとは思えません。著者は「誰の善意」だというのでしょうか。福沢諭吉先生の善意ということでしょうか。


翻訳語

新聞、経済、科学、物理、共産主義など、みな日本から逆輸入した漢語である。

西周が創訳した権利( Right )と義務( Duty )も韓国はもちろん、清朝にも輸出されている。もともと、漢語にも、権利という言葉がないわけではなかったが、あくまで権力と利益という意味でしかない。(P.175)

それどころか、中国政府が拠り所としている共産党、共産主義という訳語すら、日本製なのである。

明治人は、積極的に欧米の最先端の科学、技術、文化などを採用した。〈進化〉( Evolution )も、そうして作られた単語のひとつである。日本は、ただ単に訳語を作ったというだけでなく、世界でもっとも早く、しかも抵抗なく〈進化論〉( Evolution Theory )を採用した国である。(P.175-176)

「 evolution 」は「(巻物などを)開くこと」というラテン語「 evolve 」から来ています。「 volve 」は「巻(巻物) volume 」です。「開花」と似ていませんか。「発見」は「 discover 」。そのまま「蓋を外して中身を見ること」です。「発達・発展」は「 develop 」、「包み( velop )を解く( de- )」です。

これらはみんな「無から何か(有)を作り出す」ことではなくて、「今までもあったけど、見えなかったものを見えるようにする」「本来ある姿を顕にする」という考え方が根底にあります。それは「アリストテレスは真空を嫌った」という考えや、「創造するのは神だけである」というキリスト教(ユダヤ教)の考え方です。日本人の「無常・侘び寂び・あはれ」は仏教の「色即是空」から来ているのでしょうか。それ以前からあったものなのでしょうか。わかりませんが、「無」から「有」を作ることに抵抗がない気がします。

古典ギリシアにも「万物流転」の考えがありましたが、あるものが「変化しない」「同一である」という考え方は日本的ではないと思います。だから「アイデンティティ(自己同一性)」というような考えはなかなか定着しません。

西洋科学は、アリストテレスの「論理学( logos、言葉)」、たとえば「同一律・無矛盾律・排中律」などと、キリスト教の「天地創造」をうまく結びつけたところから生じたのだと思います。そしてそれは日本人には馴染みのないものでした。日本は中国から漢文化を取り入れ、西洋から科学を取り入れたのですが、その「考え方」そのものを取り入れたわけではありません。漢字から仮名を作り出したり、福沢諭吉や西周たちの格闘によって、翻訳語を作り、西洋文化を日本文化に繋げようとしました。

明治期の日本の学者は、ヨーロッパで近年まで学者がラテン語(そして古典ギリシア語)に通じていたように、漢語(漢籍)に通じていました。その土台の上で西欧の語彙を日本語に翻訳したのです。ただ、その翻訳者が学問のどの分野に精通していたか、化学か、歴史か、哲学かによっても語彙の理解の仕方は異なっていました。また、当時は学者と庶民がいたとしても、「専門家」は仕事としてはいませんでした。いまは専門家が語彙を紹介し、庶民がその言葉を使い始めることが、学会での日本語訳に影響を与えるほどになりつつあります。また、哲学を例に挙げれば、西周が翻訳したのは当時西欧で力を持っていた学説における意味の翻訳で、古典ギリシアや、古典ローマ時代に使われていた意味の翻訳ではありません。なによりもそれらの翻訳語や翻訳造語は「観念的」なものが多かった。あたり前のことですが、それらが翻訳を必要としてのは、日本語にそれがなかったからです。日本にはそういう概念も事物もなかった、少なくとも単独の語彙としては必要とされていなかったのです。

今、街を歩けば、英語(アルファベット)の看板ばかりです。毎日のように新しい「カタカナ語」が登場します。まるでアメリカかイギリスの植民地のようです。国会で交わされる言葉も、そのままローマ字アルファベットで表せば、半分くらいはアメリカ人にわかるかもしれません。もはやそれに漢字の「翻訳語」を付ける努力は忘れられたようです(福沢諭吉、西周、あるいは森鴎外や夏目漱石などのように漢籍に詳しい学者は少なくなっているんでしょう)。なんか横文字やカタカナが「かっこいい(昔の言葉で言えばハイカラ)」と感じたり「新しい」と感じたりします(そう感じることを強制するために使っている気がします)。そして「新しい」ということは「いいこと」だ、というプラスの価値観があります。それは「進化論的」な考え方です。「無から有を作る(あるいは有が無になる)」という考えは少なくなっています。「侘び寂び」は死語です。

それは、「輪廻」という考え方とも違って、「天地創造」から「黙示録(最後の審判)」までの一方方向の直線的な考え方です。そして、それは神の意志の実現に向かっての「発展(進化)」でなければなりません。昨日より今日は「より良いもの」でなければならないのです。そして今日は明日より「劣っているもの」でなければなりません。


文字と生きること

文字がなくても生きていけます(小説家や物書きは別でしょうが)。文字がなくとも話ができればいい。話ができなくても意思が通じればいいのです。そこでは文字は必要ありません。

支配者は自らの正当性を文字で表現することが多いのですが、文字を使う人が支配者になったのではありません。支配者が文字を使ったのです。あるいは支配者は文字に「使われていた」のかもしれません。トウモロコシが人間を使って繁栄するように。

亀甲文字は占いに使われました。この本に登場する「ルーン文字」も呪術や儀式に用いられていました。それは「アルファベットのアレンジ」(P.195)ではありません。ローマ字アルファベットはラテン語の表記に用いられたものです。

ルーン文字は日常の目的で使われていたとも言われます( Wikipedia )が、それと日常会話・話し声を表した(筆記した)こととは別です。

またラテン語を母語とする地域においてさえ、紀元前三〇〇年の綴り方の規則は、人々が実際にしゃべる時の韻律と発声とに、もはや対応できなかった。この全期間、つまり古代ローマ時代からユーグの時代までの全期間を通して、そして地域的には黒海からスペインに至る統治の異なる広大な土地のいずこにおいても、アルファベットが、人々の実際に話す言葉を記したことは一度もなかった。十三世紀に至るまで、アルファベットは、基本的に公的な口述を筆記するための道具でしかなかったのである。(イヴァン・イリイチ『テクストのぶどう畑で』邦訳、P.72)

それはサンスクリットでも同じでしょう。かな文字の発明は画期的なことです。でも、日本においても「口語」と「文語」は違っていました。平安貴族が『源氏物語』のように話をしていたのではないと思います。では、明治の「言文一致運動」以降、日本語の文章は口語に近づいたのでしょうか。いくら「だ・である体」ではなくて「です・ます体」の文章にしたとて、そのような話し方をする人は「変わった人」です。

『源氏物語』が平安貴族の言葉に近いとしても、庶民はぜんぜん違う言葉を話していて、貴族との話には「通訳」が必要だったでしょう。そして地方ごとに言葉は違いました。峠の向こう(共同体の外)には別の言葉を話す人がいました。いわゆる「方言」です。それを「鬼」とか「天狗」とか呼ぶこともあったでしょう(変な言葉を話す人、バーバリアン)。でも、鬼と話すことはできました。現在でも世界の多くの人々は、日常的に数か国語を使い分けています。

知人のC・W・ニコルから聞いたことがあるが、彼の出身のウェールズ方言は、いわゆる英語(イングランド語)とは、ドイツ語より遠いくらい、まったく別物だという。(P.113-114)

これはウェールズの人が英語を理解できないということではありません。きっとウェールズで『BBC』を観ていたに違いないのです。

私のような老人は若者言葉がわかリません。官僚がヤクザの言葉がわからない、と同じです。それを「別の言語」といってもいいかもしれません。ただ、ヤクザも若者も、テレビで年寄りや官僚の言葉を知っています。彼らは二か国語を使い分けているのです。

親の話が子供にはわからない、子どもの話が親にはわからない、と感じることが多くなり、その「隔たり」は大きくなっているような気がします。少なくとも日本では、親と話す時の言葉、近所の人と話す言葉、職場で話す言葉、など状況に応じて言葉を使い分けていました。ところがそれらがすべて「テレビで話されている言葉」すなわち「共通語(標準語)」と「日本語文法」に近づいています。つまり「文字の言葉(まさしく文・語)」に近づいているように思うのです。


システム

私は言葉を「文字にできるもの」として話さなければならなくなっているのです。そして、私の「心(自我)」は、文字にできるようなものとして存在しなければなりません。「声にできるもの(告解の対象)」として存在を始めた「心」が、「文字にできるもの(テクスト、閻魔帳に記載できるもの)」に変わったのです。

昔の人は一文字一文字、写しながら音や体の動きとして文字を読みました。コピー機などなかったから当然ですが、書物(文字)はコピーするものではありませんでした。60代も後半になるまで、私には文字は音(声)でした。最近、昔より本を読むのが速くなった気がします(そして2・3行前のことを忘れてしまいます)。はっきりとはしないのですが、なんか、文字から音が離れてきているような気がします。そしてそれに耳も手も追いつきません。学者と言われる人は、若い頃からそういう読み方をしているのでしょうか。「学者(学問)の読み方」(イリイチ、前掲書、P.133)ですね。知識を得るための読書、情報を得るための読書、システムの入力としての読書です。

本が「テクスト」「情報」「データ」になっています。そして「話し言葉」がそうなりつつあります。情報が、「私」という「システム」に入力され、私という「ブラックボックス」で処理され、わたしの声、言葉、行動として出力されます。私はひとつの「システム」になります。私は「人間」というシステムとしてのみ「存在を許される」のです。それに「不具合」や「故障」があったときは、排除され、別の部品で置換されます。それによって「社会というシステム」が維持されるような「社会」に私は生きています。

水を飲んでおしっこをする。食べ物を食べて排便する。たしかにその現象を「システムと入出力」と機械論的に見ることはできます。それもひとつの「考え方」です。その考え方は、「人間が考えたこと(機械論やシステム論)」を自然に当てはめたものにほかなりません。この考え方はとても新しいものです。それは西欧近代から、と言ってもいいでしょうし、わたしの祖父母の頃にはなかった考え方だとも言えます。祖父母のころ、自然は人間に与え、人間に教える存在でした。人間は与えられ、教えられる存在だったのです。自分に生命を与えたのも自然であり、親であり、祖先でした。その自然は、災害をおこしたり、病気を起こしたりもします。

いま、人間は(「人間」といっても全世界から見れば少数ですが)自然も生命をも統御しようとします。「システム」として自然や生命を見るというのはそういうことです。子供は「生まれてくる」ものではなくて「生む(産む)」ものになりました。子供は「育つ」ものではなく、「育てる」ものになりました。病気は「治る」ものでも「治す」ものではなく「予防する」ものになっています。

今後科学が発展し、システムとしての自然や生命が完全に解明される時が来る、かもしれません。もし、そういう社会が実現したとして、その時のことを考えてみてください。病気や痛みはなくなっています。事前にそれを回避するか、そうなった時には「感じる前」に取り除かれます。空腹を感じることも、喉の乾きを感じることもありません。便意を感じることも、尿意を感じることもありません。排便排尿も機械が勝手にやってくれます。まさしく森岡正博さんの「無痛文明」(『無痛文明論』)です。SFは、そういう世界を描きながら、そういう世界に警鐘を鳴らし、批判してきたのではなかったでしょうか。

そういう世界で「生きること」は、本当に「生きていること」なのでしょうか。その世界で生きる人間は、わざと「痛み」を感じ、「病気」になり、「空腹」を感じようとするのではないかと思います。空想ではありません。いま、テレビゲームで「闘っている」子供たち、動物やキャラクターを「育てている」子供たち、お金を払ってジェットコースターに乗る人たち、原因・理由もなく暴力を振るう子供や大人、資本主義か社会主義かの体制とは関係なく、そういう人々が増えていると、私は感じています。


ヴァナキュラー
日本人は、中国といいう文明に接した時、文字も含めて、融通無碍、自由自在に応用して、自分のものとして活用した。しかし、韓国は、そうではない。中国の半属国だったから、常に中国人に見張られているような環境に置かれてきた。(P.159)

もう「日本は」とか「韓国は」とかいう言い方をやめたほうがいいんじゃないかと思います。その意味するところがイリイチの言う「ヴァナキュラー」であって、あえて訳せば「土着」という語の持つ劣等的な価値観を払拭することができているものであればいいのですが。あるところでは「近代国家」の意味で使い、あるところでは「ふるさと・生まれ故郷」の意味で使っています。それの混同がナショナリズムにつながるのだと思います。さらに「グローバル」だ「インターナショナル」だ、という言葉を使ってそれを批判するのも、その混同に違いありません。それが故意であっても、失言であっても、聞いている人の中では混同されてしまいます。

日本語が「侘び寂び」「あはれ」の気持ちを取り戻すことは難しいでしょう。たとえ韓国で漢字が復活しても同じです。「日本語と韓国語は姉妹語」かどうかもどうでもいいことです。「言語本能」のようなものを仮定して、「生成文法のようなもの」ですべての言語が説明できるなどと考えるのは間違っています。それよりも、親(年寄り)と子(若者)の話す言葉は違う、日本語と韓国語と英語は違う、東京弁と津軽弁は違う。違うけれども、そこに優劣はない。それらを表現する文字も違う。それを「そのまま表現する文字」はないんだけども、それでも「会話(対話)は(つねに/すでに)成立」しています。この文章を読んでくれる人がいたとして、これが英語(アルファベット)で書かれていたとしても、ハングルで書かれていたとしても、すべて万葉仮名で書かれていたとしても、まったくなにも伝わらないということはないだろうし、すべてが伝わるわけでもありません。

文字は万能ではありません。人間が作ったものであるならば、それはつねに不完全です。人間が文字を「統御できる」と思うことは、人間が自然や人間や「自分自身( ego )」を「統御できる」、という思いと同じです。そしてそれは、西欧が物や言葉という「文明」とともに日本にもたらした「考え方」です。漢字と仏教が日本に及ぼした影響、アルファベットとキリスト教が西洋にもたらした影響、さらにそれらが日本や朝鮮に与えた影響は、「知識(データ)」という視点ではなく、「考え方」としてとらえ直す必要があると私は思います。




[著者等]

一九三八年、群馬県生まれ。若くしてSF小説界にデビュー。歴史小説や社会評論など幅広い分野で執筆活動を続ける一方、古代日本史を東アジア史の流れのなかに位置づける運動を展開する。 数多くの小説作品の他、ノンフィクション作品に『韓国の挑戦』『天皇と日本人』『騎馬民族の思想』『北朝鮮とのケンカのしかた』、祥伝社新書に『どうする東アジア 聖徳太子に学ぶ外交』『世界史の中の石見(いわみ)銀山』『日本の原発技術が世界を変える』がある。


〈韓国はもともと漢字の国だった。中国への従属関係 から公文書はすべて漢文であり、世宗(セジョン)王(ウン)が創製したハングルは蔑(さげす)まれ、知識階級が使うことはなかった。日本統治時代、日本製の漢語が大量に流入する。韓国で使われた漢字熟語の七、八割は和製漢語なのである〉 (「まえがき」より) なぜ、韓国は、漢字を廃止したのか。その後、復活論がわき起こるたびに潰されてきたのはなぜか。韓国研究 で名高い著者が、その深い謎に迫ります。

出版社からのコメント
韓国では時代によって漢字を教えたり教えなかったりで、漢字世代がまだらのように存在しています。韓国には、漢字派とハングル派の対立が根深くあるのです。 漢字を使用したほうが便利に決まっているのに、なぜ事はそう簡単に運ばないのでしょうか。 漢字の問題を通して、韓国の行きすぎたナショナリズムを考えます。



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4396112820]

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