ことばと国家 田中克彦著 1981/11/20 岩波新書

ことばと国家 田中克彦著 1981/11/20 岩波新書
古本

BookOffで110円コーナーにありました。田中さんの本は(多分)読んだことがないので、読んでみました。

わかりにくい部分が何箇所かありましたが、それは私に言語学の基礎知識がないからで、それ以外の部分は、わかりやすかったです。著者はあとがきで「本書には、思いが先走いてなかみが伴わないという欠点があることを著者自身十分にわきまえている」(P.217)と述べていますが、その分、著者の熱量のようなものを感じます。


「国語」

小学校、中学校での科目「国語、算数、理科、社会」。そして最近では小学校でも「英語」。科目名は「国語」であって「日本語」ではありません。そう言えば、英語やドイツ語なども「外語」です。「国」というと、日本を含めた西洋近代国家を思い浮かべてしまいますが、日本語の「くに」に多くの意味があるように、「 state 」や「 country 」にも色んな意味があります。この本で「国家」と言われているのは近代国家のことで、それを掘り下げるのは本書の範囲ではありません。

「日本語」「フランス語」「ドイツ語」「韓国語」などの「日本」「フランス」「ドイツ」「韓国」は「国名」ですから、「フランスという国ではフランス語が話されている」と単純に思ってしまいます。ですが、この本によればフランスには「フランス語、ブルトン語、オック語、フランコ・プロヴァンス語、フラマン語、ドイツ語・アルザス語、コルシカ語、バスク語、カタロニア語」が話されている地域があるそうです。オック諸語などはフランス国土の3分の1の地域で話されているようですが、はっきりとした統計はないそうです。この本が書かれてから40年以上経っていますから、今は変わっているかもしれません。

ことばの性質は「たえず変化することによって、新しい歴史的状況(意識の変化)に適応していこうとする」(P.71)ものだからです。

国家(フランス)と言語(フランス語)、あるいは民族(大和民族?)と言語(日本語)、言語と方言などと言っても、どれも曖昧で、明確に規定できるものではありません。まして、それらが「一致する」などと考えること自体が無意味です。


母語

「日本語と国語」と同様に「母語と母国語」が違うことはあきらかです。母国と似た言葉に「祖国」とか「故国」とかということばもありますが、それについては本書を読んでください。

「母語」は「母のことば」です。

ただひたすらに母の胸に抱かれながら、いつのまにかおぼえたことばが、気がついてみたら、おとしめられた黒人英語であったり、ガ行鼻濁音のない西日本の方言だったりするわけだ。

(中略)つまり、人間は生まれるとすぐに、からだとことばとのこの二つの座標軸のなかに位置づけられていて、その外に出ることはない。言い換えれば「我々は親から受けた肉体を通じて自然とつながり、母のことばによって社会とつながる」(アイヒラー)のである。(P.27-28)

「母語」ということばには「母性(本能)」の響きがありますが、別に血がつながっている(生物学的母親)ということではないでしょう。日本でも「乳母」や「乳もらい」は普通でした。この本にはでききませんが、イスラエルのキブツはどうなんでしょう。子供は集団(社会)が育てるので、うまれた赤ちゃんはずっと「乳児の家」で集団で育てられます。教えられる(覚える)のはヘブライ語でしょうね。母親も親戚も赤ちゃんに会えるのですが、基本的に赤ちゃんの面倒を見るのはメタペレット(保母の集団)です。


母語と「教えられた母語」

私たちが話している「日本語」は「母語」でしょうか。イリイチは「教えられた母語」ということばを使います。

ヴァナキュラーなものとして、ひとは生まれ、そして育って、男となり女となる。これにたいし性役割は、後天的に獲得されたものである。<割り当てられた>性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。(イリイチ『ジェンダー』邦訳 岩波現代選書 P.171)

「教えられた母語」と「ヴァナキュラーな話しことば」は、「言語(国語、母国語)」と「方言」の関係と似ています。私が話している日本語は「母語」でしょうか。そして私が書いている日本語はどうでしょう。私の母も父も日本語を話します。祖父母も(とても方言が強かったのですが)日本語でした。私の家には(多分)うまれた時からラジオがあったし、テレビも比較的早いうちからありました。学校では「国語」の時間がありました。漢字の読み書きや、「文章の意味のとらえ方」を教えてもらいました。でも、「日本語の文法」を習った記憶があまりないのです。中学校でしょうか、「五段活用」「上一段活用」なんかを習った気はします。でも、「名詞」「動詞」「形容詞」なんかは、「英語のもの」であって、日本語とはあまり結びつきませんでした。つまり、ちゃんと「日本語文法」を習った記憶がないのです。

当時は(今も?)身の回りに英語の環境がありませんでしたから、文法から習いました。今のように「 Hello 」からではなく、「 This is a pen. 」から習ったのです。英語が「文法」であったように「言語は文法」でした。

文法を習うと、「文法からはずれたことば」は「間違い」だと思ってしまいます。いまでもアナウンサーの「言い間違い」がとても気になります(特に最近、特に民放で多い気がする)。「若者ことば」や「流行語」も気になります。そのうえ「カタカナ語」が毎日のように増えていて、それらは気になるという以前に理解できません。

NHKのアナウンサーが話すことばは「共通語」というのだそうです(ちょっと前までは「標準語」と言っていたのにね)。この共通語こそが、イリイチのいう「教えられた母語」だと思います。それは「(誰かが考えた)日本語文法」に則ったことばです。


書きことば

「書きことば」「話しことば」と言い、その二つには同じく「ことば」という共通項があてがわれてはいるけれども、それは近代になってからの新しい発見と言わなければならない。

だから、中世ヨーロッパにおいて書かれる唯一のことばであるラテン語は、ギリシャの伝統にしたがって「文字(グラムマ)の技術(ティケー)」と呼ばれたのである。「文字の技術」すなわち我々が「文法」と訳しているものは、その根本において自然ではなく、つくりものである。文法=書きことばは、我々の日常言語の外にあって、それをはるかに超越した別世界を形づくっている。(P.54)

文法を知らなくても「母語」「話しことば」は「話すこと・聞くこと」ができます。でも、「書くこと・読むこと」は勉強しなければできません。

「読み書き」とは逆のように思えるテレビドラマやバラエティ番組も、「文法」に則っています。よく分かるのはバラエティ番組で最近「字幕(テロップ)」がほぼ不可欠なことです。「文字にできることば」が話されているのです。ドラマのセリフもどんどん「共通語的」になっています。方言がないというのではなく、主語や語尾をしっかり付けることが増えてきて、どんどん印欧諸語に近づいているように思います。そのうえ、質の悪いドラマでは「頭のなかのことば」までがどんどんでてきます。そんなものは聞こえるわけがないし、頭のなかで「ことば(セリフ)」になっているかどうかすら怪しいのですが。

父母のことばや古い映画のセリフと、いまのドラマや映画のセリフを比べてみてください。いかに主語(特に一人称)が多くなって、最後の助詞まで話していることか。ノスタルジックだと言われてもいいのですが、そこで失われた「気持ち・感情・抒情」のようなものが昔はあったような気がしてなりません。


歴史
そこに生じうるさまざまな議論をこえて、母語であると思われていれば母語であるという共時認識、すなわち、歴史をすべて現在としてとらえる意識が最も公平な判断をくだすであろう。もともと、言語の使用のさなかにおいては、人は語源などをたずねたりはしない。言語のすべては現在化されているのである。(P.139)

ことばが文法で成り立っていると感じるとき、それは「ことば狩り」になります。最近は、当たり前だと思っていた単語の意味がわからなくなって、よく『精選版 日本国語大辞典』を調べます。どんな意味があって、それがいつ頃から使われているかが書いてあることがあるからです。さらに漢字の熟語、例えば「原因」は西周の造語です。英語の cause の訳語として作ったものです。それまで日本に「原因」はなかったのでしょうか。そんなことはありません。でも、西周が「原因」という熟語を作り、「結果」という漢語を英語の effect の訳語に当てて対にしたとき、「原因  結果」という考え方が仏教の「因果」に取って代わったのだということがわかります。

今日観たドラマでこんなシーンがありました。男が女性に「何で泣いていたの?」と訊くと、女性の同僚が「それ、ほぼセクハラ」と言うのです。私は、「もう女性にはなんにも訊けないなあ」と思ってしまいました。私にはそれが「セクハラに近い」という感覚がないからです。私は、若い頃「ハラスメント harassment 」という英単語の存在すら知りませんでした(ちなみに harassment という単語は「英検:1級以上の単語 学校レベル:大学院以上の水準 TOEIC® L&Rスコア:950点以上の単語」だそうです weblio )。ハラスメントに相当する日本語の単語は何でしょうか。私は知りません。もしないんだとすれば、「ハラスメント」という考え方は日本にはなかったのです。さらに「セクシャル・ハラスメント」を「セクハラ」としてしまえば、それはもう日本語になってしまいましたが。

たしかにことばは語源ではなく、いま人々がどのように(どんな意味で)使っているかがすべてです。

しかし、ことばの研究方法は一つだけではありえないし、なによりも、ことばは社会的な現象である。つまり、ことばはつねに社会的であるから、それは、国家や民族をはなれてかたちをとることはできない。いな、国家は方言をつぶしたり、あるいは逆に方言を国家語へと造成したりするのである。(P.162)

「サピア=ウォーフ仮説」を持ち出す必要もないのですが、人の「考え方」はその人の話している「ことば」です。文法も単語も含めてです。ただ、「セクハラ」ということばで、伝えたいものごとが伝わっているんでしょうか。使われているから伝わっている、あるいは伝わっていなくてもそれは使われている。それは他人が心配するものではない、と言われそうです。語源や単語の意味を調べたり、それは話すことは「うんちく」「トリビア」、あるいは「エリート意識の表れ」にすぎないのでしょうか。


書きことば
ロマンス語世界には、その後、俗語を「母語」( materna lingua )と呼ぶ習慣があらわれ、父祖からの伝統に価値を置いた、古代ローマ以来のラテン語を呼ぶ patrius sermo すなわち「父のことば」と対立することになる。すなわち、母語が家庭の日常のことばであるのに対し、「父のことば」には、家庭の外の公的行事や、一族の伝統と制度に対する超家庭的な言語への自覚が示されていた。(P.37)

これがちょっと引っかかります。私はラテン語がわからないので「 lingua 」と「 sermo 」の違いがわからないのですが、イリイチはこう書いています。

われわれにとって、歌うことや踊ることが話すことと何か少し違うように、当時(12世紀・・・引用者)の人々にとって、話すことはラテン語の〈セルモ sermo 〉であって、言語を用いること、つまりラテン語の〈リングア lingua 〉とは何か違うものと理解されていた。ラテン語は音と文字が一体となっており、文字だけでなく、思考もいっしょにとらえるのである。(イヴァン・イリイチ『テクストのぶどう畑で』邦訳 P.65)

そこでは修練者がふるさとで使っていた方言が書き記されたことは一度もなかった。あるいは彼らの方言は、母語として認識されてすらいなかったのかもしれない。これは百姓にとっても、騎士にとっても同じことであった。アルファベットは、まだ日常の話し言葉につきまとってはいなかった。(同書 P.66)

「 lingua 」と「 sermo 」が逆に使われている気がします。いずれにしろ、「文法=書きことば」なのです。

特定のある言語を母語とする民族は国家を求め、国家は固有の言語を求める。こうして、一〇世紀のヨーロッパにおいては、わずか六つの書きことば、すなわちラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、アングロサクソン語、教会スラブ語のみが知られていただけなのに、今日では五〇以上もの、それぞれ固有の書きことば、すなわち「文法言語」が成立することになった。(P.130)

現在、文字は「ことば(声・音)を表すもの」だと思われていますが、1,000年前にはそうは思われていなかったのです。それ(文字)は神の言葉そのもの、あるいはサンスクリットで言えばブラフマンそのものだったのです。

話しことばも、心の中にある「なにか」(考えとか、感覚とか、感情とか)を「表すもの」ではありません。「そのもの」なのです。「話す前のなにか」が存在し(原因)、それが「ことば」として表れる(結果)。そういうふうに考えるのはヨーロッパにおいては8-900年前、日本においても明治以降にはっきりと現れたものです。


法則

人間は法則のために存在するものではないからである。(P.154)

ことばは一種の社会制度である(ソシュール)という。しかし、あなどってはいけない。それは内なる制度であり、しかも、つねに最下層の人たちの日々の暮らしのなかに基盤がある。(P.184)

この「法則」は英語の「 law 」(「 rule 」でもいいのですが)でしょう。

ちなみに,日本語では人間を律する秩序としての〈法律〉と人間以外のものを律する秩序としての〈法則〉は区別されるが,ヨーロッパ語では通常この区別はない。(改訂新版 世界大百科事典 「法則」から引用、執筆者:村上 陽一郎)

最近「コンプライアンス」という単語をやたらと聞きます。「法令遵守」ともいわれますが、もともとは「神」という絶対的な能動者(原因)がいて、その声(法則・法律)に「従うこと」(結果)でしょう。こういった「能動  受動」あるいは「主体(主語)  客体(述語)」のような考え方は日本語にはなかったのです。

そして、それが明確になったのは、ヨーロッパにおいては8-900年前、日本においては明治以降なのです。だから「法令遵守」よりも「コンプライアンス」のほうが「法律」「法則」という差を不明確にし、なんかわかったような気になります。

「コンプライアンス」という言葉に、何か「道徳的」「倫理的」「正義」「良心」のようなものを感じませんか。それらはヨーロッパにおいてはどこかで「神のようなもの」につながっています。その根拠は「神のようなもの」にあるのではないでしょうか。キリスト教徒であろうと、無神論者であろうと、その根拠は「能動的主体( ego )」にあるのです。

ヨーロッパにおいては、「法則に従うために」従うべき法則を「見つけよう」とします。それが「文法」です。


発展
しかし、ヘブライ語は聖典のためにとっておかれる聖なる書きことばであるから、日常の俗の生活のなかで、「みそ、しょうゆ」のたぐいの会話に用いることによって汚してはならないとされていた。それは、ユダヤ人社会のなかの男、とりわけ、教養ある指導的な男たちのための、特権的で権威のあることばであった。学問や聖典のための専用にことばをとっておく  じつはこのことがそのことばに死をもたらすものだ。教養ある人たちだけが誤りなく用いることのできる言語とは死語でしかない。それは決して、すべてのユダヤ人に用いられ、解放闘争に役立つことばとはなり得ないのである。ことばは、だれもが誤りをおそれず、権威におびえず、自由に使うからこそ、さまざまな表現がうまれて発展していくのである。(P.182)

学生運動や組合運動で用いられることば、いわゆる「アジテーション」が心に届かないのは、それが「書きことば=文法言語」だからです。つまり「死語」だからです。

ことばは「変わり」「うまれる」ものです。しかしそれは「発展」していくのではありません。変化するだけです。成長し、老化していくことを「発展」と呼ぶのなら別ですが。

それは「個( ego、アートマン)」の表現でもありません。もしそうだとすれば、「個性」と「その表現」と「その人のことば」は同じことを表しているにすぎません。そしてそれは、相手があってはじめて成り立つものです。「表現する(話す)」だけではことばは成り立ちません。ことばは間主観的なもの、関係そのものです。

日々生まれる「若者ことば」「流行語」「カタカナ語」、それらが日本語の「自由」な「発展」だとは思いません。それらが表しているもの、表そうとしているものは(そういうものがあるとして)、本当に伝わっているのでしょうか。伝えようとしてそういうことばが生まれているとしても、むしろ「伝わらない閉塞感・孤独感」のようなものが増えているのではないでしょうか。

セクハラから始まった「〇〇ハラ」はどんどん増えています。それが「ことば自体」を否定しようとしているように見えて仕方ないのです。

私は日本語しか知りません。言われなければ、それを「母語」だと感じることもありません。

自分たちの話していることばが「母語」であるという認識にたどりつくためには、母語でないことばがまずあって、それに対立する自分自身のことばという自覚が生まれてこなければならなかった。(P.30)

私は日本語を捨てることはできません。でも、私は日本語で考えているのでしょうか。私が「考えている」というとき、私はすでに「日本語という言語」で考えているような気がします。文字にするときは間違いなくそうです。

誤りだとわかるのは、それが理解できるということの何よりの証拠である。(P.70)

考えてみれば奇妙なことだが、ことばは、他のもう一つのことばに近ければ近いほど、すなわちもう一つの言語の聞き手に理解されればされるほどさげすまれるようになっている。方言がさげすまれるのは、それがある程度はわかるからである。(P.157)

そしてそこにある「違和感」のようなもの、「歌うことや踊ること」と「話すこと(考えること)」が「何か少し違うように」感じてしまうのです。そう感じるのは私だけでしょうか。

多分歳のせいで、最近、あっちが痛かったり、こっちが痒かったり、ということが増えています。ふだん、その存在すら考えないところが「違和感」でにわかにクローズアップされます。テレビでは「年齢による帯状疱疹」だとか、「尿でガン診断」とか、発毛剤とか、膝関節の薬だとか、シワを取る整形外科の宣伝とか、まあまあうるさいです。でも、その違和感こそが「生きている」という証です。楽しいこと、気持ちの良いことと同じです。

その「違和感」を、私はいつか「ことば」にできるのでしょうか。本書が与えてくれた多くのヒントは、それをどんどん遠ざけているように思えます。




[著者等]

田中克彦(たなかかつひこ)
 1934年兵庫県に生まれる
 一橋大学大学院社会学研究科修了
 現在―一橋大学名誉教授
 著書―『言語学とは何か』『名前と人間』『エスペラント』(以上岩波新書)
    『言語からみた民族と国家』『チョムスキー』
    『モンゴル―民族と自由』(以上岩波書店)
    『クレオール語と日本語』(岩波セミナーブックス)
    『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫)
    『ことばの差別』(農山漁村文化協会)
    『国家語をこえて』『ことばのエコロジー』『ことばとは何か』(筑摩書房)ほか


だれしも母を選ぶことができないように,生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない.その母語が,あるものは野卑な方言とされ,あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか.国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし,ユダヤ人や植民地住民など,無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す.

目次

一 「一つのことば」とは何か

二 母語の発見

三 俗語が文法を所有する

四 フランス革命と言語

五 母語から国家語へ

六 国語愛と外来語

七 純粋言語と雑種言語

八 国家をこえるイディシュ語

九 ピジン語・クレオール語の挑戦

あとがき



[9784004201755]

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