攻撃 悪の自然誌 ローレンツ著 日高敏隆・久保和彦訳 1970/01/30 みすず書房

攻撃 悪の自然誌 ローレンツ著 日高敏隆・久保和彦訳 1970/01/30 みすず書房
本書について

お風呂本。上下で500円くらいだったかな。1985年に新版が出ています。見ていないけど、新たな解説がついているかも(単なる新装版かも)。

タイトルが刺激的ですよね。『ソロモンの指輪 動物行動学入門』が面白かったので読んでみました。

各章の最初にゲーテなどからの引用があります。とてもドイツ的です。


本能
ほん‐のう【本能】
〘 名詞 〙 ( [英語] instinct の訳語。西周の造語か )
① そのものが本来備えている性質・能力。多く、生物が生まれつきもっている衝動的、感覚的なものをいう。
[初出の実例]「意味を現はすのが文字の本能であるべきに態々意味の現はれない様に書いてある」(出典:食道楽‐冬(1904)〈村井弦斎〉三二四)
「ぼんやりした、補捉し難い本能(ホンノウ)のやうなものの外には」(出典:青年(1910‐11)〈森鴎外〉二二)
② 動物が経験や学習なしに外界の変化に対して行なう、先天的に備わった一定の行動様式。普通、種によってその反応は一定する。
[初出の実例]「英インスチンクト、〈略〉爰に本能と訳す、鳥獣の自ら知らずして智巧あるの類を云ふ」(出典:生性発蘊(1873)〈西周〉二)(精選版 日本国語大辞典

西周がどうして「 instinct 」を「本能」と訳したのかはわかりません。「 in 」は「なか」、「

stinct ( steig )」は「突き刺す、とがっている」というような意味ですから、「内から突き上げてくるもの」くらいの意味でしょう。

つまり本能というものは自発的なものだからだ。もし攻撃本能が、多くの社会学者や心理学者たちが考えたように、一定の外敵条件に対する反応に過ぎないのであれば、人類の現状はこれほど危うくなりはしなかったろう。(P.81)

ちなみに、

ひっくるめて「母性本能」とか「育児衝動」とか呼ばれうるよなものが、実際には存在しないことは明らかである。それどころか、生まれつきの「図式」、自分の子を生まれつき識別する能力さえ存在していない。(P.167-168)

そして、

ある本能的な行動様式をかなりの期間にわたって停止しておくと、この場合は求愛の行動だが、その本能的な行動様式を引き起こす刺激の限界値が下がる、ということである。(P.84)

ところで、数ある本能的行動様式のうちでも、種内攻撃の場合ほど、限界値の低下や欲求行動がきわ立っている例はあまりない。(P.86)

ハツカネズミはかじらなくてはならず、めんどりはついばまなくてはならず、リスは跳びはねまわらなくてはならない。かれらは正常の生活条件のもとでは、生活を維持するためにそうしなければならないのだ。研究室の捕らわれの条件のもとで、その必要性がない場合でも、かれらはやはり同じようにふるまわずにはいられない。これはとりもなおさず、あらゆる本能的行動が内部で生産される刺激によって引き起こされるものであって、ただこれがいまここで解発されるかどうかが外的な刺激に支配されているにすぎないからである。(P.285)

本能は「自発的」に「内から突き上げてくるもの」だということです。


攻撃

種と種の間の「攻撃性」について、

ライオンが打ち倒す野牛は、ライオンの攻撃性をひきおこすような動物ではない。このことは、みごとな七面鳥が食堂にぶらさがっているのを眺めて、わたしが満悦こそすれ攻撃欲をかき立てられることはないのと同じようなものだ。(P.45)

捕食する敵を攻撃するのが、種を保つためであることは明らかだ。(P.46)

では、同じ種の中での「種内攻撃」はどうでしょうか。

与えられた住み場(ビオトープ)が、あるところでは同種の動物の密度が高すぎて食物の源をすべて食い尽くされ、みなが飢えに悩まされているのに、ほかの所は手もつけられずにいるといった危険があるのだ。この危険を封じるいちばんかんたんな手だては、同じ種の動物は互いに相手を寄せつけないというやり方だ。これこそ、あからさまな言い方だが、種内攻撃の種を保つ働きの内もっとも重要なものなのである。(P.53-54)

その他にもいろいろな例を挙げていますが、

こうしたことを何もかもひっくるめてみると、種の内部のものどうしの攻撃は、決して悪魔とか、破綻の原理とか、まして「つねに悪を欲しながら善を生み出す力の一部」などではなく、それどころか明らかに、あらゆる生命の体系と生命を保つ営みの一部であることがはっきりしてくる。(P.79)

ローレンツの頭の中にあるもの、それがこの本を書かせたと思うのですが、それは「人間という種のなかでの攻撃」つまり「戦争」です。

「攻撃本能」はあります。それは文化とか政治状況とかの問題ではなくて、「本能」として「生物としての人間」に備わっています。ふつうは「理性がそれを抑える」と考えます。「理性的である」ことが「人間らしさ」であり、それが「けもの」ではない「人間の尊さ」だとするわけです。

でもローレンツはそう考えません。「本能」であり「自発的(自立的)」なものであり、ましてやその「その本能的な行動様式」を「停止」しておくと(俗な言い方をすれば「欲求不満が貯まると」)、簡単な刺激でそれは「解発(行動に現れる)」されてしまいます。ではどうすればいいのでしょうか。


競争

一つは「転移運動」です。

結局、分別のある人がとる最後の手段は、だまって小屋(探検天幕、イグルー)から抜け出し、あまり高価ではないができるだけはなばなしい音を立てて飛び散るものをこわすことだ。これは少々きき目があり、行動心理学の用語では転移運動とか新定位運動と呼ばれる現象で、ティンバーゲンはこれを再定位運動といっている。先で申しあげることになろうが、自然界では攻撃が害を及ぼすのを防ぐために、この方策が非常にしばしば利用されている。ところが無分別な人間は、友人の命を奪うのだ。(P.90)

つまり、腹を立てたときに、その相手にあたるのではなくて「物に当たること」あるいは「八つ当たり」です。ただその効き目は「少々」のようです。

また一つには「儀式化」です。

この儀式化ということはつねに、いくつかの刺激によって引き起こされる可変的なある行動様式のかたちをまねたひとつの新しい本能動作が生じることである。(P.98)

本当に攻撃するんじゃなくて、攻撃するふりをする。すると相手も「まいった」ふりをする。群れをつくる動物が、「順位」をつけるとき、血まみれの闘争になることはあまりありません。そして一度順位が決まると、その後の闘争は「儀式」となります。

流血の決着に至るのは、対戦者の戦力がまったく伯仲しているまれな場合だけである。(P.159)

つまり、相手を傷つける攻撃の動作を抑制する特殊な行動生理学的しくみが発達するということである。(P.161-162)

事実、攻撃を抑制するこうした特殊な抑制作用がぜひとも必要なわけは、ひなを育てている動物の親が、ちょうど小さな子をもっている時にこそ、他のどんな生物に対しても攻撃的でなければならないからだ。(P.163)

そして一番効果が期待できるのは、

いちばん確かな成果を期待できるのは、攻撃欲を代償となる目的に向かって消散させることによってあのカタルシスを実現することだ。(P.362)

「カタルシス」はもともとは「排泄して浄化する」という意味のギリシャ語です。アリストテレスは、文学や演劇などでその世界に感情移入することで、日頃の鬱憤が晴れる(心がスーッとする)というような意味で使っているそうです。今「オンラインカジノ」が問題になっていますが、オンラインゲーム(テレビゲーム)で、敵をどんどん倒すことも「からルシス」かもしれません。

スポーツは、野蛮的、個人的で、利己的な形をとって爆発する攻撃性のためにすぐれた安全弁を開くばかりでなく、もっと高度に分化した集合的な特殊な形の攻撃性までも完全に阻止してしまうことができる。(P.364)

国家間の競争が実り多いのは、それが民族的熱狂を起こすことができるからというばかりではない。それにはさらに戦争の危険を防ぐふたつの働きがある。それは第一に、さまざまの国や党派の人間がお互いに個人的に知り合うことになり、第二にはそれが、さもなければほとんど共通点のない人たちと同じ理念へ熱中させることによって、熱狂のもつ一体化作用を呼び起こすからである。(P.364-365)

「オリンピック」なんかはスポーツで国家間競争ですから、まさしくぴったりですね。でも、ローレンツもナチスがオリンピックなどのスポーツを「国威高揚」に利用したことはおぼえていると思います。日本でも同様ですよね。それが戦争を回避する「カタルシス」になったとは私には思えないのですが。


「認識の木の実」

認識の木の実という象徴は、深い真理を含んでいる。物事の抽象的思索の結果生まれた認識は、思慮もなく快楽のおもむくままに自分の本能に従って行動することのできた楽園から、人間を追い払ってしまった。(P327)

抽象的思考力によって、人間は言語を使って個人を越えて知識を伝達し、文化を発展させることができるようになった。ところが文化の発展は人間の生活条件の中に、非常に速やかな革命的な変化を引き起こした。その結果、人間の本能の適応能力は、暗礁にのりあげてしまったのである。(P.328)

だが、最初の武器の発明によってそれまで保たれていた殺りく能力と本能的な殺りく抑制との間の平衡が乱れるやいなや、そうした動物的本能が役に立たなくなったことは想像にかたくない。手斧の使用ですら、苦痛の叫びや従順の身ぶりなどによって攻撃者の攻撃抑制をよびさますいとまもないほど素早く、相手をたちどころに打ち殺してしまうことができる。(P.330-331)

わたしたちの情緒的な深層は、この人差指の発射の合図が他人のはらわたを引き裂くのだということに、全く気づきすらしないのだ。もし野獣を歯や指の爪で殺さなければならないとしたら、人はウサギ狩りにだって行かなくなるだろう。

わたしたちの武器の届く距離が増せば増すほど、わたしたちの行為のもたらすいっさいの結果はますます感情に届かなくなる。(P.331)

「認識の木の実」はアダムとイヴの楽園にあった「知恵の実」のことでしょう。

武器(道具)を持った人類の祖先がまずおこなったことが「殺人」だというのは、映画『2001年宇宙の旅』そのものですね。『2001年・・・』は私の一番好きな映画の一つだし、「旧約聖書」に言いがかりをつけるつもりもありませんが。

気にあるのは「理性(認識・知恵)」は「本能」と別なものなのかどうかということです。

まず価値感覚、まず感情があってこそ、わたしたちに定言的な自問に対する答えにプラスとマイナスの符号をつけ、その答えを命令とか禁止に変えることができるのである。だがその命令や禁止は理性から生まれるのではなくて、わたしたちの意識がおりてゆくことのできない暗い衝動から出てくるのだ。(P.349)

理性に反することは本能の機能錯誤の結果あらわれるにすぎないのだ。(P.351)

どうもわかりません。「(深くて)暗い衝動」は「内から湧き上がる衝動」つまり「本能」のことではないのでしょうか。

人間の感情(怒り、哀しみ、喜び、痛み・・・)、認識、理性などは本能とは別のものからなっているのでしょうか。自然科学者としてのローレンツは「同じものだが、機能錯誤」つまり「故障しているだけ」なのだと言いつつ、どこか別のもの(それを「生命」と言おうが「魂」と言おうがいいのですが)だと思っているような気がするのです。

もし攻撃本能が、多くの社会学者や心理学者たちが考えたように、一定の外敵条件に対する反応に過ぎないのであれば、人類の現状はこれほど危うくなりはしなかったろう。もしそうなら、反応を引き起こす諸原因をつきとめて、取り除くこともできよう。攻撃の自律性を初めて認めたという点では、フロイトはほめられていい。(P.81)

フロイトが「無意識」に隠した(逃がした)「神(理性)」を、「無意識」を「本能」に置き換えることでふたたび別の形で蘇らせたような気がしてなりません。


進化論

ところが人類は、かれらの社会構造の病理学的解決には無力であり、原子力兵器を手中にしながら社会のこととなると、まるでそこらの動物となんら変わらず、理にかなう行動ができないということは、大部分、みずからの行動を高慢にも過大評価し、その結果、人間の行動の問題を研究可能とみられる自然現象から除外しているせいなのだ。(P.308)

たしかに進化の大筋は、どの生物にも例外なくあてはまる諸法則によって、生物が全体として高等化するように方向づけられているとはいえ、進化の細目についてはすべて、いわゆる偶然、つまり全部が全部わかっているわけではない無数の副次的原因によってできるのである。オーストラリアでは原始的な祖先からユーカリの木とカンガルーが生じ、一方ヨーロッパとアジアではカシワの木と人間が生じたのも、まさにこの意味での「偶然」なのだ。

新しく生じる生物は、その前の段階のものから誘導することはできないが、この新しい生物は、たいていの場合、前段階のものよりもいくぶんなりと高等なものである。(P.311-312)

今の世界を憂慮する気持ちはひしひしと伝わってきます。でも、その「世界」というのは「近代西欧文化」のことなのではないでしょうか。

動物(けもの)の世界や、「非西欧世界」(蛮族、未開人、原始人、土着民、あるいはイスラム教徒など、呼び名やその範囲はどんどん変わるけど)では、つねに「弱肉強食」「血なまぐさい殺しあい」が起こっているのではありません。それらを「自然淘汰」と言おうが「適者生存」と言おうが、そこにあるのは「自分たちが適者であり高等である」という「高慢さ」なのではないでしょうか。「適者が生き残る」ということと「生き残っているのは適者である」ということは全く異なります。

言語(理性)を使って、本能によって、自然(環境)と共存している民族はたくさんあります。近代西欧文明の中に暮らす人の多くも(四六時中かどうかは別として)本能で生きていると思います。20世紀にヨーロッパとアメリカと日本が引き起こした「大きな戦争」という悲劇を反省したい気持ちは私も同じです。でも、それを「本能」のせいにしたり、「本能の機能錯誤としての理性」のせいにしても、結局はみずからの「価値」を認めることでしかありません。

動物はこうであるから、人間もこうであるはずだ、というのは還元主義なのではないでしょうか。人間が最上位にあって、それより下層のものを調べれば人間がわかる、というような。逆に、人間はこうだから、動物もこうあるべきだと考えるのがおかしいことはわかるでしょう。

著者の動物愛はよくわかります。家中動物だらけだったそうで、家族は大変だったでしょう。ファーブルの家が昆虫だらけだったと同じ様に。動物と暮らすと、動物も言葉(日本語でしょうか、ドイツ語でしょうか)がわかり、人間の気持ちもわかるように思えるのでしょう。多分その通りなんでしょう。人間も動物の気持ちがわかります。だから「擬人化」することができます。

「本能」というのは、動物に投影した自分自身、つまり「擬人化」の別名なのではないでしょうか。

というのは、わたしは人間の理性の力を信じており、淘汰の力を信じており、理性が理性的淘汰を進めていくと信じているからだ。(P.378)

この本が書かれたのは1963年。それから60年以上経ちました。この理性は「価値」や「お金」に取って代わられている、と私は感じています。




[著者等]

DAS SOGENANNTE BöSE,Zur Naturgeshcichte der Aggression, Konrad LorenzKonrad Lorenz, 1963

コンラート・ローレンツ
Konrad Lorenz

1903年ウィーンに生まれる。父はウィーン大学医学部教授。コンラートもウィーン大学で医学・哲学・動物学を学び、ウィーン大学解剖学助手となる。幼いときから動物好きでハインロートらの影響のもとに動物行動学を学び、1937年比較解剖学と動物心理学で博士号を得る。のちケーニヒスペルク大学心理学教授、第二次世界大戦後、マックス・プランタ行動生理学研究所を創設、所長となる。1973年、ノーベル生理学医学賞受賞。その後故国に帰り、オーストリア国立科学アカデミー比較行動学研究所長。1989年歿。主著は本書のほか『ソロモンの指輪』(早川書房、1963)、『人イヌにあう』(至誠堂、1968)、『八つの大罪』(思索社、1973)などがある。

日高敏隆
ひだか・としたか

1930年東京に生まれる。東京大学理学部動物学科卒業。東京農工大学教授。京都大学教授、滋賀県立大学学長を経て、現在、総合地球環境学研究所所長。著書『人間についての寓話』(風濤社、1972、現在、平凡社)、『帰ってきたファーブル』(人文書院、1993、現在、講談社学術文庫)、『ぽくにとっての学校』(講談社、1999)ほか。訳書 ティンペルへン『動物のことば』(みすず書房、1957)、ローレンツ『ソロモンの指環』(早川書房、1963)、モリス『裸のサル』(河出書房、1969、現在角川文庫)、ローレンツ『動物行動学』上・下(ちくま文庫、1998)ほか多数。

久保和彦
くぼ・かずひこ

1928年ソウルに生れる。東京大学大学院生物系研究科(動物学)、東京大学大学院人文科学研究科(独語独文学)修了。元千葉大学教授(ドイツ文学)。1989年歿。訳書 トラークル『詩集』(平凡社、1959)シュヴァイツァー『水と原生林の間で』(平凡社、1961)イリース『人間の動物学』(晶文社、1973)アイプル=アイベスフェルト『愛と憎しみ』(共訳、みすず書房1974)ほか。


本書は、比較行動学の立場から脊椎動物における《攻撃本能》といわれるものに新しい角度から光を当て、世界中に大きな反響をまき起こした。

さんご礁を中心とした美しい世界で展開される色とりどりの魚たちの激しい種内闘争のスケッチから筆を起こし、さまざまの典型的な攻撃的行動を観察し、同一種族間に行なわれる攻撃は、それ自体としては決して《悪》ではなく、種を維持する働きをもっていることを示す。つづいて本能の生理学一般、特に攻撃本能の生理学について詳細な考察を行ない、さらに攻撃本能が儀式化される過程を興味深い実例によって述べる。最後に、種が変化するにつれて、攻撃を無害なものとするためにどのような仕組みが《編みだされ》てきたか、儀式はここでどのような役割をひき受けるか、またこうして生まれた行動様式が、《文明をもつ》人間の行動様式とどれほどよく似ているかが、実例を通して具体的に示される。そしてたとえば、ひとりの生物学者が火星から人類をみたらこうもあろうかというふうに、人類の置かれている現在の状況が客観的に描かれるのである。

目次
まえがき
第1章 海の序章
第2章 研究室での続き
第3章 悪の役割
第4章 攻撃の自発性
第5章 習慣、儀式、魔法
第6章 本能の大議会
第7章 道徳類似の行動様式
第8章 無名の群れ
第9章 愛なき社会
第10章 ネズミたち
第11章 連帯のきずな
第12章 けんそんのすすめ
第13章 この人を見よ
第14章 希望の糸

訳者あとがき



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4622015994]

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