上巻
まえがき
「初めに学説を展開しておいてから、あとでそれに実例を「継ぎたし」ておくというやり方は、たやすいことなのである。自然は、じつにさまざまの姿をしているので、奇妙きてれつな仮説ですら、それを裏付けようとしてせっせと探せば、一見したところなるほどと思わせるような実例が見つかるからだ。」(P.5)
「第一の型は、無名の群れであり、これは攻撃ということを少しも知らないが、それと同時にまた、各自が互いに相手を個体として識別したり団結するということもないのである。第二の型は、ゴイサギその他、群れをなして卵をかえす鳥類の営む家族生活や社会生活であって、この生活は自分がなわばりとして守る一定の場所のうえにしか成り立たないものである。第三の型は、ネズミらの奇妙な大家族で、その家族の仲間は、相手を個体としてでなく、一族に共通の体臭によって身内であることをかぎわけ、互いに社会の一員として模範的な振舞をする。ところが、相手が別の家族のネズミであると、激しい党派的な憎悪をもって戦う(FF)のである。最後に、第四の種類の社会体制というのは、個体の間に愛と友情の連隊があって、まとまって社会をなしている仲間同士が戦って互いに危害を及ぼしあうのを、くいとめているものである。」(P.6-7)
「以上十一章にわたって述べたことによって、人間の場合に、攻撃がいくつかの誤った働きをもつに至った原因を理解していただけるだろうと思う。第十二章[謙遜のすすめ」では、さらに機能錯誤の原因を理解するための前提として、しばしば、自分も宇宙の一員なのだ、自分の行動もやはり自然の法則に従うのだということを納得する妨げになっている、われわれの心に巣くういくつかの抵抗を取り除いておきたい。これらの抵抗は、第一に、人間が自由意志をもつという事実に反するからというので因果性というものを否定してかかるところに、第二に、人間の精神の高慢さに根差しているのである。第十三章の課題は、人類の現在の状況を客観的に、たとえば、ひとりの生物学者が火星から人類を見たらこうなるだろうというふうに描いてみることである。第十四章でわたしは、その原因がわかっているように思われる攻撃のあのまちがった機能に対して、わたしたちが建てることのできる対策を提案してみたい。」(P.7)__西欧的な攻撃性を批判することが必要だ。それは「まちがっている」のだろうか。それも自然誌なのではないか。自然の捉え方。
目次
第一章 海の序章
第二章 研究室での続き
「わが手でつかまえなければ、自分のものとはならない、
自分が数えたのでなければ、本当だと思わないほうがいい。
自ら量らなかったものに、重さはないのだし、
自分が鋳なかった財貨に、価値はあるまい。
ゲーテ」(P.25)
「だが自然科学者にとっては、自然がどのように高度の作品を創造する場合にも、つねにみずからの法則を守っていることこそ、日々あらたに自然に驚嘆してやまない理由のひとつなのだ。
「何のためか」というわたしたちの問いに対しては、その二本の柱がふたつながら今述べたふうに手を貸したところ、そこでしか意味深い答えは見つからない。「何のためか」という問は、種を保つ働きは何かを尋ねるのと同じことなのである。もし、「何のためにネコは、先の鋭い、曲が(FF)ったつめをしているのか」という問いに対して、かんたんに「ネズミを捕まえるためだ」と答えたとしても、この返事は形而上学的目的論の信仰告白なのではなく、ただ、ネズミを捕まえるということが特殊な働きであり、この働きが種を保つ価値をもっていたがゆえに、すべてのネコが同じようにこの形のつめをもつようになったのだということを述べているだけなのだ。もし遺伝的変異がただ全くの偶然の仕わざでしかないのなら、さきほどのネコのつめ問答でも、意味深い答えの得られるはずはない。それだからたとえば、ニワトリや他の家畜の場合のように、人間に保護されることによって、保護色をめぐる自然淘汰を免れている動物に、ありとあらゆる種類の多彩なもの、ぶちのものが生じているけれども、この場合には、これらの動物が何のためにそういう色をしているのかと尋ねても意味がないのである。ところが、一枚の鳥の羽とか、ある本能的行動とかに見られる複雑なしくみは違う。そのように高度に分化の進んだ、規則性のあるものは、まさに自然の法則に従っているからこそ、一見あっと人を驚かしはするが普遍性を備えているものであり、そのようなものが偶然に生じたなどと考える余地は全くなくなってくる。」(P.27-28)
「野外では、この「類は類をもって集まらない」という原理が、血を見ないやり方で実現されている。海中では敗者は勝者のなわばりから逃れ、勝者もそれを深追いせぬからである。」(P.30)
「こうして、水槽での観察と、それについて考察した結果は、野外研究からも裏書きされているように、疑う余地なく魚は同種の仲間に対しては、異種の相手に対するより何倍も攻撃的であるというあの規則が正しいことを証明している。」(P.35)
「多くの場合、刻一刻と変わる色彩の具合で、気分の度合いを測ることができるし、またどの程度に攻撃が、性的興奮が、逃走本能が、主導権を握ろうとして互いに争い合っているのかを見てとることができる。」(P.36)__淡水魚。
「これは、かれらに色を変える能力がないということではない。かれらのほとんどがその能力をもっていることは、眠りにつく際に、昼間のとはまるで模様の違う寝巻を着ることからも明らかである。だが日中かれらが目を覚まして活動している限り、どんなことがあろうと、派手なポスター調を変えることはない。」(P.36)__海水魚。
「そのうえ典型的なポスター調のさんご礁魚はすべて、雌雄とも同じ色であるばかりか、ごく小さな幼魚すらけばけばしい多色をしており、しかも驚いたことに、それが親とはまったく違った模様で、色どりもさらに豊かであるという場合が非常に多い。いや、実にばかげたことだが、いくつかの種類では、多彩なのは幼魚だけなのだ。」(P.37)
「さんご礁魚の色彩と同じくナイチンゲールの歌もまた、同種の仲間たちに というのも同種の仲間だけにそれは関係があるのだから はるかにこう告げているのである。「このなわばりは、その定住する好戦的所有者が占領したものなるぞ」と。」(P.39)
第三章 悪の役割
「動物どうしの対決に種を保つ働きがあることは、同種間の場合よりも異種間の場合のほうがずっとはっきりしているのがふつうだ。」(P.43)
「人間の場合でいうと、捕鯨会社は最後のクジラまでとりつくすよりずっと前に、みな破産してしまっている、ということになろう。」(P.44)
「ライオンが打ち倒す野牛は、ライオンの攻撃性をひきおこすような動物ではない。このことは、みごとな七面鳥が食堂にぶらさがっているのを眺めて、わたしが満悦こそすれ攻撃欲をかき立てられることはないのと同じようなものだ。」(P.45)__自分(あるいは人間)の攻撃性を、その他に敷衍できるか。
「捕食する敵を攻撃するのが、種を保つためであることは明らかだ。」(P.46)
「コクマルガラスの場合だと、この憎悪のもつもっとも大切な種族保存の意味は、未経験の子に、自分たちをねらう危険な敵の姿、形を教え込むということにある。つまりかれらは、生まれながらにそれを知っているわけではないのだ。これこそ鳥の場合、知識が受け継がれると(FF)いうことを示すまたとない例である。」(P.46-47)
「動物は恐怖を感じればふつうなら逃げ出すのだが、危険があまりにも近すぎるためにそれができず、恐怖が最大限に大きくなっていることによって臨界反応が起こる。」(P.50)
「どの狩猟物語にもたいてい書いてあることだが、大きな捕食獣は、密生した草木におおわれた所にいるときがいちばんあぶない。その理由はなによりもまず、そういうところでは逃走する距離の限界が特別に縮まるからである。動物は自分の姿が相手に見えないと思い、茂みに侵入してくる人間はかなりそばを通っても自分に気付かないということを計算に入れている。だがそのおりもし人間がその動物の臨界距離を踏み越えて近づこうものなら、たちまち悲劇的な、いわゆる狩猟事故が起こるのだ。」(P.50-51)__Nota Bene!!
攻撃 アグレッション Aggression (正当な理由のない)侵略、攻撃
「たしかに種内闘争ということは、人類が現在置かれている文化と技術の史的状況のものでは、あらゆる危険のなかでもっとも危険だと見なしていい。だがその危険を防ぐには、種内闘争を形而上学的なこと、回避できないこととみるのでは決してなく、その一連の要因を追求することによって道がひらかれるように思う。」(P.52)__闘争(戦争)を、本能のズレに、科学で説明することで回避できるのだろうか。
「与えられた住み場(ビオトープ)が、あるところでは同種の動物の密度が高すぎて食物の源をすべて食い尽くされ、(FF)みなが飢えに悩まされているのに、ほかの所は手もつけられずにいるといった危険があるのだ。この危険を封じるいちばんかんたんな手だては、同じ種の動物は互いに相手を寄せつけないというやり方だ。これこそ、あからさまな言い方だが、種内攻撃の種を保つ働きの内もっとも重要なものなのである。」(P.53-54)
「さんご礁はほかにもまだたくさん、「分業化」した魚たちをかかえている。他の魚についた寄生虫を取ってやる魚がいる。」(P.56)
「ここで見のがしてはならない重要なことは、「生態的地位」と呼ばれているこれらの専門職の種類が、しばしば海水一立方メートルの中に全部もしくはほとんど全部見られるということである。」(P.57)
「哺乳類はたいていが「鼻でものを考える」から、かれらの場合には自分の所有権につけておく特有のにおいの目印が、大きな役割を演じていることはさしてふしぎではない。」(P.59)
「それは、同種の動物の住み場上の分布が、空間的プランばかりでなく、時間的プランによって決まってくるのではないかということだ。」(P.59)
「問題のその動物は自分のなわばりの中心にいちばんよくなじんでおり、そこにいるときその動物の戦意がもっとも盛んだということ、言いかえると、動物が「もっとも安全だと感じている場所」、つまり攻撃が逃走の気分によって抑圧されることの最も少ない場所にいるときは、最低限の刺激によって闘争が起こるということである。」(P.60)
「子の群れを養い育てるために父親が強いということが直接に有利となるのは、父親が子の世話、とりわけ子の保護に積極的に参加するような種類の場合であることはもちろんである。雄が子の世話をすることと、競争相手と戦うこととの間には、密接な関係があるのだ。」(P.65)__そうだろうか。同じ種でも、子を守るのと、多くの子を作るのの個体差があってもいいのではないか。
「これは疑いもなく、闘争の結果、大きい防御力の強いものが選び出され、これが家族や群れを護衛することになるのだ。また逆に群れの防衛という種を保つ営みが、鋭い敵対闘争を生み出したこともほとんど疑いない。」(P.66)__個人的・人間的、雄の強さとは、というか「強さ」というのは力ではないのではないか。少なくとも人間においては。社会的、あるいは家族を守る「力 power 」の概念。
「外界へ向かって(FF)種を保つ働きとは何の関係もなく、かりに性的な敵対関係だけが一定の方向へ淘汰を行うとしたら、その結果生じる種は、場合によっては種自体にとっては何の役にも立たぬ、奇怪なものになってゆくことだろう。」(P.66-67)
(セイラン)「一羽の雄が一定期間に生ずる子孫の数は、その翼の長さに正比例する。それが極端に発達していることが、別の点で持主に不利になる場合がある。たとえば彼ほど求愛の(FF)器官が気違いじみて発達していない競争相手よりも、遥かに早く捕食者に食われてしまう。」(P.67)
「事実、商工業化された人間の仕事振りが、ますますせかせかしてきたのは、もっぱら同じ種の仲間どうしの競争によって起こる、目的からはずれた発展の好例である。」(P.69)__「種」の意味がわからないが、「目的からはずれた」はそのとおりである。
「人間が武器で身を固め、衣服をまとい、社会を組織することによって、外から人間を脅かす飢えや、寒さや、大きな捕食獣につかまるという危険をどうやら取り払い、その結果これらの危険がもはや人間を淘汰する重要な要因とはならなくなったとき、まさにそのときに種の内部に悪しき淘汰が現れてきたにちがいない。」(P.70)__いまでは「二〇〇一年宇宙の旅」のように考える学者はいないのではないか。西欧を一般化していないか。戦争で勝った「人間」が強いのか。「国」が強いのか。つまり西欧が「強い」といっているのか、西欧人のみが(強い)人間だと言っているのか。
(P.74)__死んでしまったら経験は積もらない。他者の「死」や「痛み」を知るのか。
「社会的共同生活は、学習能力を発達させる方向へ淘汰の力を及ぼすことは疑いない。なぜなら、集団をなす動物で学習能力が発達するということは、それぞれの個体だけではなく、社会全体の役に立つからである。それとともに寿命も延びて生殖可能の時期をはるかに越え、この長寿がまた種を保つのに役立つことになるのだ。」(P.75)__それではなぜ老化があるのか。老化しない生物はなぜ生まれなかったのか。
「こうしたことを何もかもひっくるめてみると、種の内部のものどうしの攻撃は、決して悪魔とか、(FF)破綻の原理とか、まして「つねに悪を欲しながら善を生み出す力の一部」などではなく、それどころか明らかに、あらゆる生命の体系と生命を保つ営みの一部であることがはっきりしてくる。」(P.79)
第四章 攻撃の自発性
「攻撃は元来健全なもの、どうかそうあってほしいと思う。だがまさに攻撃衝動は、本来は種を保つれっきとした本能であるからこそ危険きわまりないのである。つまり本能というものは自発的なものだからだ。もし攻撃本能が、多くの社会学者や心理学者たちが考えたように、一定の外敵条件に対する反応に過ぎないのであれば、人類の現状はこれほど危うくなりはしなかったろう。もしそうなら、反応を引き起こす諸原因をつきとめて、取り除くこともできよう。攻撃の自律性を初めて認めたという点では、フロイトはほめられていい。」(P.81)
「ある本能的な行動様式をかなりの期間にわたって停止しておくと、この場合は求愛の行動だが、その本能的な行動様式を引き起こす刺激の限界値が下がる、ということである。」(P.84)
「ところで、数ある本能的行動様式のうちでも、種内攻撃の場合ほど、限界値の低下や欲求行動がきわ立っている例はあまりない。」(P.86)
「これまで述べたことから、もうおわかりのことと思うが、そのグループのメンバーが互いに相手を良く知っており、理解し、愛していればいるほど、攻撃欲をせき止めるのはいっそう危険なことなのだ。」(P.89-90)
「結局、分別のある人がとる最後の手段は、だまって小屋(探検天幕、イグルー)から抜け出し、あまり高価ではないができるだけはなばなしい音を立てて飛び散るものをこわすことだ。これは少々きき目があり、行動心理学の用語では転移運動とか新定位運動と呼ばれる現象で、ティンバーゲンはこれを再定位運動といっている。先で申しあげることになろうが、自然界では攻撃が害を及ぼすのを防ぐために、この方策が非常にしばしば利用されている。ところが無分別な人間は、友人の命を奪うのだ。」(P.90)
第五章 習慣、儀式、魔法
「わたしたちは、歴史的過程と系統発生の過程との間の違いのほうに固執しすぎる。わたしのつとめは、系統発生した儀式と文化史上生じた儀式との間の驚くべき類似点を取り出し、両者の働きが同じだという点に、その秘密を解くかぎがあるのを示すことである。」(P.92)__Nota Bene!! ローレンツの考えの基本。種が生存しなければならないのは「なぜ」か。そこに主体性(人間性)が現れていないか。なぜ「自分」ではなく「種」か。自分が生き延びたいということを種や生物に拡大していないか。少なくとも、動物や植物はそう考えているわけではない。人間だって、生き延びることは「言語」以前の行為ではないか。難しい単語は、短くて考えを表せるように思うが、「命名」によって、かえって「含むことのできない事実」が増えるのではないか。命名、言語化、さらに文字化は「事実」とかけ離れることではないか。命名は、各国語で行われる。
「この儀式化ということはつねに、いくつかの刺激によって引き起こされる可変的なある行動様式のかたちをまねたひとつの新しい本能動作が生じることである。
遺伝学や進化論に興味をもつ方のためにここでつけ加えておきたいのは、今しがた述べた過程が、いわゆる表型模写( Phänokopie )とは正反対のものだということだ。表型模写ということが言われるのは、外からそれぞれの個体に働きかける影響によって、ある現象像、つまりある「表現型」が生みだされ、これが遺伝的要素によってきまっている別の表現型と似ている、つまりそれを「模写している」という場合である。ところが儀式化の場合には、原因はよくわからないが、新たに生じるある遺伝的要因が、表現型の上から見て、もともと非常にさまざまの環境の影響が寄り集まって引き起こされた行動の様式を模写するのである。遺伝子模写( Genokopie )といでもいえばよいだろうか。」(P.98)__「遺伝子」のニュアンスが日本語とは違う。Geno のもつ「生み出す」、「生命」という感じがない。
「それであるから、それまで存在したことのない一定の伝達機能のある本能的動作が、一方の仲間に、つまり「行為者(アクター)」に生じているというだけでなく、「反応者(レアクター)」の方にもそれに対する生まれつきの了解が備わっているのである。」(P.104)
「言いかえると、そもそも別の客観的、主観的目的のための行動の連鎖は、それが自律的な儀式になってしまうやいなや自己目的となる。」(P.105)
「自立した本能的動作は副産物ではなく、一対の動物を結び合わせる連帯の「付帯現象」なのではなく、その動作は連帯そのものなのだ。」(P.105)
「系統発生上の儀式化の過程を通して、おりおり新しい、完全に自律的な本能が生じることがあり、これがいわゆる「大きな」衝動、たとえば採餌、逃走、攻撃のための衝動といったものと、(FF)根本的には同じように自立的だということだ。」(P.105-106)
「ところで人類の諸文化の歴史の過程で生じるあの別の儀式は、遺伝的素質に根差しているものではなく、伝統によって送りつがれ、各個人によって新たに習得されなくてはならない。」(P.106)__伝統は、「各個人によって新たに習得されなければならない」。
「動物のこうした単純な伝統と、人間の最高度に文化的な伝承のどちらにも欠くことのできない共通の要因は、習慣である。」(P.107)
「だが、人間が習慣をもはや自分で獲得するのではなく、彼の両親から、彼の文化から受け継ぐことになると、ここには新しい意味がある。この場合はまず、どんな理由があってこれの行動規則ができあがったものかを、人はもはや知らないでいる。」(P.113)__Nota Bene!!
「それどころか儀式は、個人の一生のあいだで生じたにすぎないようなどんな習慣にもましてはるかに強く愛され、はるかに必要と感じられ(FF)てさえいる。」(P.116-117)
「感情の暖かさとは、わたしたちが自分の文化によって造り出された善なるものに価値を認めていることである。この文化の独自性、個人の生活より長寿な超個人的な共同体の形成、つまりまとまって真の人間らしさをなしているいっさいのものは、儀式がこのように自立化されることによって成り立っているのだ。また自立化している結果、儀式は人間の行動の自立的動因となっているのである。」(P.117)
「どちらの場合にも、一方の場合にはひとつの種が、他方の場合にはひとつの文化社会が、その周囲の世界のことがらと対決するときにとる行動様式が、典型的な機能の交代を起こし、ある別の動きをするようになる。つまりある伝達の働き、その社会の内部での伝達の働きをするようになる。」(P.118)
「ただし、わたしたちは文化上の儀式形成の自然史から、つぎのようなモラルを引き出さねばなるまい。それは、わたしたちの(西欧文化の)儀式とひとしく、他の諸文化の神聖な儀式も(FF)また最高の価値とみなされる権利をもっているということを、他の文化のために承認するのが正当だということである。もしわたしたちがこのことをしおおせないなら、一方にとって神であるもののうちに他方はいっさいの悪の根源をみてとることになりがちで、儀式のもつ犯しがたさこそその最高の価値であるのに、それがかえって人を破滅させる結果になる。」(P.119-120)__「最高」「価値」
第六章 本能の大議会
「こうした悪い意味での結果論者とは、「何のために」という問いを「なぜ」という問いと混同して、何かある作用の種を保つ意味を言葉で示せば、もうそれでその作用の成因の問題も片付いたと思う人のことである。」(P.122)__「何のために」と「なぜ」。「どのようにして」との違い。「なんで?なんで?」と聞く子供。近代の子供。最近は「なんで」と聞く子どもが減っている。「なぜ」、つまり「第三者の存在」という前提に対する疑問である。「なぜ世界はこうあるのか」は、「世界はどのようにあるのか」の問に代わってしまった。その「第三者」は存在せず、選択は「真に個人の自由」になった。儀式は「オタク」と「カルト」にのみ顕在化する。
「それにしても「生殖衝動」な(FF)どという言葉は、何とわたしたちになじみ深いことだろう。ただしその場合、本能の研究者たちの中にも残念ながらそういう人は多いのだが、そういう言葉でもって当の過程を説明したのだと信じ込んではいけない。そういう種類の呼び名に応じる概念は、「真空の力( Horror vacui )」とか「フロジストン(燃素)( Phlogiston )」といった名の概念となんら異なるところがない。これらは過程の呼び名にすぎないのに、「過程の説明までも含んでいるかのようなふりをして人をだますのだ」と、ジョン・デューイは手きびしい言い方をしている。」(P.122-123)
「ある本能的行為は、それが外界の刺激とか、別の衝動の呼びかけに応じて起こるという限りでは反応なのだ。これらの刺激が止まったとき、初めてその行動はみずからの自発性を示す。」(P.128)
「ホルモンという言葉は、「わたしは刺激する」という意味のギリシャ語 ὁρμάω に由来している」(P.130)
「本能的動作の活動はむしろウマに似て、主人の目的に役立つためには拍車のような拘束が必要ではあるが、もしエネルギーの過剰といった現象を避けようとすれば、毎日運動させてやらくてはならないといったものだ。」(P.130)
「それであるから、行動の動機を生み出すふたつの自発的な要求のうちのどちらが他を刺激するとか「支配する」とかいうことについては、一般的なことは何ひとつ言えない。」(P.133)
(動因分析)「これは基本的には、三つの手続きを経て三つの知識の泉から情報を引き出すということだ。まず第一に、状況に含まれているさまざまな意味をもった刺激の内容を、できる限り調査分析してみる。」(P.138)
「第二に、観察して動作を個々の成分に分解しようと務めることだ。」(P.138)
「こうした動作なり態度なりは、うまく量を測ることができる。それらの動きのふれを測って、まったく文字通り、これこれの犬は何ミリメートルこわがっており、何ミリメートル怒っていると主張してもいいだろう。」(P.138)
「この動作分析のつぎに第三の手続きとして、今分析した動作様式に続く行動様式をあげてみるということがある。」(P.138)
「だが、見ることと証明できることとの間には、芸術と科学とを分けているあの違いが横たわっている。物事を見通す力をそなえた偉大な人には、証明を要求する科学者というものが「あらゆる地上の子のうちでいちばんみすぼらしい者」に見えがちだし、また逆に分析を事とする科学者にとっては、直接の知覚を認識の泉として使うことは、この上なくうさんくさく思われるのである。」(P.139)__Nota Bene!!
(P.140)__知ること、法則性を見つけることはいい。それは神の意志を見つけることだから。でもそれで自然を変えようとすること。それも自然(神)の範囲ないだが、それが他の秩序を変更するかどうかは人間にはわからない(知り得ない)。人間は神ではないから。わからないということを知り始めたのが20世紀。
「たとえば鳥類や爬虫類があくびをしないということは、分類学上重要な事実のひとつであるが、ハインロート以前の動物学者はだれもそれに気づいていなかった。」(P.145)
「処女の魚は雄を心の底からこわがることがあるが、それでも乱暴者が追う手をちょっと休めるごとに、性的な動因による交尾行動を行いうる。まさに、逃走と性の行(FF)動様式の間のこうした混合形こそが、儀式化の過程をへてあのように一般化した儀式となったのだ。その儀式は、ふつう慎み深い態度と呼ばれており、特定の表現価値をもっているものである。
三つの大きな衝動の源の混合比が性によってこのように異なるということによって、雄は自分より順位が低い、威嚇しうる相手とだけつがいになることができる。雌はそれとは反対に、自分より順位が高い、自分を威嚇する相手としかつがうことができない。このように、これまで述べてきた行動のしくみが、性を異にするもののみがつがいになることを保証しているのである。」(P.146-147)__本当に「心の底からこわが」ているのだろうか。あまりに擬人化がすぎるのではないか。
「さきに説明したように、あの衝動の「四天王」は動物の行動、いや人間の行動においてすら主要(FF)な動因を演じるとはきまっていない。ましてや、「大物」で古参の衝動のひとつと、系統発生上は、若い特殊的な本能との間に、つねに前者が後者を排除するという意味で優劣の関係があるなどと考えてはいけない。」(P.147-148)__そうなんだろうと思うけど、系統発生上の「本能の後先」なんて、仮想だと思う。それを見た人はいないのだから。系統樹は系統発生そのもの(時間)をあらわしているのではない。
「ヤーキーズがいみじくも言ったとおり「一匹のチンパンジーは、チンパンジーではない」のだ。」(P.148)
第七章 道徳類似の行動様式
「モーゼの戒律のもっとも重要な至上命令も他のあらゆる戒律のそれと同じく禁止( Verbote )であって命令( Gebote )ではないのだ。あとでもっとくわし(FF)く論じるつもりなので、ここではちょっとふれるだけにしておくが、伝統的に受けつがれ、習慣として従われてきたタブーは、才に恵まれた立法者の場合にだけイマヌエル・カントの意味で理性的道徳と何らかの関わりがあるのであって、それを順守するものの場合には、もはやそれと何の関係もないのである。」(P.155-156)
「試合というものの構成全体がめざすところは、敵対闘争のもっともたいせつな役目を果たすこと、つまり、弱いほうを完全に傷つけることなくどちらが強いかを確かめることである。」(P.156)__コロッセオ、闘牛はどうか。試合とゲームは違うのか。
「流血の決着に至るのは、対戦者の戦力がまったく伯仲しているまれな場合だけである。」(P.159)
「つまり、相手を傷つける攻撃の動作を抑制する特殊な行動生理学的しくみが発達するということで(FF)である。」(P.161-162)
「事実、攻撃を抑制するこうした特殊な抑制作用がぜひとも必要なわけは、ひなを育てている動物の親が、ちょうど小さな子をもっている時にこそ、他のどんな生物に対しても攻撃的でなければならないからだ。」(P.163)
「ひっくるめて「母性本能」とか「育児衝動」とか呼ばれうるよなものが、実際には存在しないことは明らかである。それどころか、生まれつ(FF)きの「図式」、自分の子を生まれつき識別する能力さえ存在していない。」(P.167-168)
「学習能力と育児期間との間に密接な関係のあることは、もうとうに、さまざまの生物学者や社会学者達によって指摘されたことである。」(P.170)__学校への在学期間の延長は、どういう意味をもっているか。学習能力とは関係あるまい。
「女性が途方もなく尊重されるアメリカですら、本当に卑屈な男は尊ばれない。男の理想像というのは、夫が強力な精神的肉体的優位を保っていながら、儀式としてきまった法則に従って、彼の妻のごく小さな気まぐれにすら服従するということなのだ。」(P.182)
「そのときわたしが信頼している社会的抑制作用は、イヌが人に飼いならされる過程で養い育てられたものなのでは絶対にない。それはまぎれもなくあの「平和なきけもの」であるオオカミから受けつがれた遺産なのだ。」(P.184)
「動物には個としての人格のようなものはないのにという人があれば、わたしはこう答える。パーソナリティーというものは、二つの個がそれぞれ相手の世界の中で、他の仲間によっては決して代わることのできない役割を演じる場合、まさにそこに始まるのだ、と。べつの言葉でいうならば、パーソナリティーは個の友情が初めて生じるところに始まるのである。」(P.196)
下巻
目次
第八章 無名の群れ
「群れという概念は、ひとつの種の個体が互いに反応しあい、そのため、ひとつあるいは多数の個体が他の個体の行動を解発することによってつどいあっているもの、と定義されている。」(P.198)
「それというのも、狩りをする動物たちがたいていもっているとはいえたったひとつだけの小さな弱点が、その獲物となる動物の行動に、はたしてこれほどまで広汎な影響を与えうるものかどうか、わたし自身でさえあまり信じられないからである。この弱点というのは、獲物を一匹ずつ狩る大部分、いやおそらくすべての捕食動物は、もし同時に多(FF)数の等価の獲物が視野にちらちらしていたら、そのどれかひとつだけに注意を集中することができないということである。」(P.201-202)
「すなわち、群れの個体数が増せば増すほど、そしてそれらの群衆衝動が強ければ強いほど、その群れは決断がしにくくなるのである。」(P.205)
「するとどうだろう。全群がかれについていくのだった。手術を受けた魚は、まさにかれの欠陥によって、まぎれもない総統になったのである。」(P.207)
「この個体距離を半径とする空間は、きわめて小さい、いわばポータブルななわばりとみることができる。」(P.208)
「群れの団結と種内攻撃性とが互いに完全には排除しあうものでないと述べたのは、ここではただ(FF)記述の完璧を期したかったからだ。一般的には、そしてまた典型的な場合には、群れをつくる動物では攻撃性はまったく欠けており、それとともに個体距離も消滅している。」(P.208-209)
「社会化というかたちをとると、個体はどうしても無名とならざるを得ないのだ。」(P.209)
「それは、無名の群れの形成と個人的な友情とは互いに相入れぬものであって、その理由は個人的友情というものが奇妙なことにはつねに攻撃的行動とからみあっているためだ、ということである。個人的友情をむすぶ能力があって、しかも攻撃性をもたないという動物は、まだひとつも知られていない。とくに印象的なのは、繁殖期だけは攻撃的であるが、それ以外のときは攻撃性を失って無名の群れをつくる動物での攻撃性と個人的友情とのからみあいである。このような動物は一般に個体間の結合をつくるのだが、攻撃性の消失とともに個体の結合もこわれてしまう。」(P.210)
第九章 愛なき社会
「自然界には、種を維持する目的にぴたりとかなったものだけが存在しているのではない。種の存立を危うくするほど目的に反していないものは、みな存在しているのだ。」(P.218)__Nota Bene!!
「この魚ではまだ、互いに個人的に知りあった個体の間に、それらが永続して一緒にいるように働きかける空間的な牽引力が欠けているのである。この空間的な引力こそ、まさに友情というものを客観的に確認しうるしるしなのだ。」(P.220)
第十章 ネズミたち
「このタイプの共同体は個体数が多いので、すべての個体が互いに個人的に知り合うということができず、ある社会集団に属しているかどうかはその集団の全メンバーが同じにおいをってているかどうかによってわかるのである。」(P.223)
「人間に対するもっとも繁栄した生物学的な仇敵であるドブネズミを効果的に征伐するのがじつに困難であるわけは、まずなによりも、ネズミたちが伝統によって経験を伝達し、密に結合した共同体の中にそれを広めてゆくという、人間が用いているのと基本的にはよく似た方法を使っているからである。」(P.228)
「恐るべきこと、そし(FF)てわたしたち人間にとっていちばん不安なことは、あの古きよきダーウィン主義的な思考過程は、例の淘汰が外から、種の外の環境からくる原因に作用する場合にしかあてはまらないということだ。その場合にだけ、淘汰は適応をうみだす。種を同じくする仲間の間だけの競争が淘汰をおしすすめる場合には、すでにわたしたちが知っているように、同種の仲間が互いに盲目の競争をしながらおろか窮まる進化の袋小路へ追いこまれていく危険が多いのである。このような発展の誤った道の例として、セイランの翼と西欧文明のしごとのテンポとを六九ページにあげておいた。」(P.231-232)
「けれど、次のひとつのことだけは、確実に主張することができる。すなわち、私たちは種内攻撃には種を維持する機能があり、さらに第四章「悪の役割」で述べたようにその機能は不可欠なものであるが、そのような機能は群れの間の闘争によっては実現され得ないということである。」(P.232)
第十一章 連帯のきずな
つまり、およそ考えられるかぎりのあらゆる生活状況の中で、相手がだれであるかを知ることができるということが、あらゆる集団形成の前提なのである。」(P.236)__「個体の認識」=「個人の認識」。それが生物由来のものだというのは、あまりにも擬人化がすぎるのではないか。わたしたちが「個人=自我意識」をもつのも「本能」だというのか。
「これとやや違う意味で、個体のきずなと集(FF)団形成との進化の上での原型が、共同で子孫のせわをするつがいの結合であることは疑いない。」(P.236-237)__男女の愛は「本能」か。
「種の変遷をもたらすに大設計者のひとつである淘汰が関与するためには、偶然に生じた手がかりがつねに必要である。そして淘汰にこの手がかりのもとを提供するのは、盲目だが勤勉なもうひとりの仲間である遺伝的変異である。」(P.242)
「ともかく、あいさつの笑顔は、ガンの勝どきと同様に威嚇が再定位されて儀式となったところの、和平の儀式だと考えたいのである。たいそう礼儀正しい日本人が親しげにちらと歯を現すのをみると、その考えに賛成したくなるものだ。」(P.252)
「声をそろえて笑うということは、攻撃をそらす途方もなく大きな働きがあるばかりでなく、社会的に結びつているという感情をはっきりとつくり出すのである。」(P.253)
「それであるのに儀式は自律性をえて、たとえばマガモのレープレープのおしゃべりが示しているように、比較的発達の低い段階ですら、もう儀式が儀式自体のために行われようとする。」(P.253)__人間が発達の最高の段階だろうか。
(P.271)__西欧的でも日本的でもない何か。根本に日本的なもの、ヴァナキュラーなものが残っているのだろうか。西欧が1000年かけた道具の時代を日本は100年で終わらせた。終わりやすかった。復活したのは何か。お札に価値を与えていたものがお札からはなれ、数字(イメージ、アイコン、観念的)となった。肉体も精神も実体をはなれ、実体ではないシステムの一部となった。
「それだからかれらのあやまりは、アキレスやパトロクロスのそれよりも「許されていい」。なぜなら男性と女性の区別は、ガンのほうが人間よりも少ないからである。その上かれらは、絶対に、あるいはあっても例外的にほんのまれにしか、交尾やその代償行為を行わないという点では、たいていの人間の同性愛の場合よりもはるかに「動物的」でないのである。」(P.275)
「英語の「恋に落ちる」( falling in love )とか、卑俗でわたしはきらいだが、ドイツ語の「ほれこむ」( sich verknallen )という表現は、このふいの過程をまざまざと示す比喩となる。」(P.279)
(P.283)__人間がいかに動物的か、ではなくて、動物はいかに人間的かを欠いている。「下等な動物」がいかに人間に近く、人間がいかにその本質を失っているか。「人間は高等生物だから、動物を見習うことができるはずだ」という上から目線。「理想の(あるべき)人間」と「現在の人間の比較」だ。そしてそれは動物を見ていれば、人間にも備わっているはずの本能に気がつけば、戦争などの闘争は防げるはず。攻撃転移などを使って。そうかなあ。
「わたしたちは、別のさまざまな本能行動について、例の奇妙な自発性、つまり内部から興奮が生産されるということを、すでに知っている。この興奮は、ある一定の行動様式のためだけに特殊的に生産され、その生産量は、その動作の「消費量」にきっかり応じている。つまり動物が、その行(FF)動をしなくてはならない度合いに応じて、生産量も増すのである。ハツカネズミはかじらなくてはならず、めんどりはついばまなくてはならず、リスは跳びはねまわらなくてはならない。かれらは正常の生活条件のもとでは、生活を維持するためにそうしなければならないのだ。研究室の捕らわれの条件のもとで、その必要性がない場合でも、かれらはやはり同じようにふるまわずにはいられない。これはとりもなおさず、あらゆる本能的行動が内部で生産される刺激によって引き起こされるものであって、ただこれがいまここで解発されるかどうかが外的な刺激に支配されているにすぎないからである。」(P.284-285)
「ヤーキーズはチンパンジーについて、そもそも一匹のチンパンジーなどというものはチンパンジーではない、とうまいことを言っている。」(P.285)
「原則としてわたしたちは、認識論の面からみて、動物についての主観的体験の表明はみな、科学的には非合法だとみなす。しかし、動物自身が主観的体験というものをもっていることは事実である。」(P.288)__Nota Bene!!
「しかし、動物の主観的体験というものに対してこうした認識論的に慎重な立場をとらなくてはならないからといって、このことはもちろん、動物の主観的体験というものの存在を拒否することではけっしてない。」(P.289)__Nota Bene!!
「わたしたちには、人間の哀しみのすべての徴候を示しながらぼんやりと立っているガンの中で、主観的にどういうことが起こっているのかわからないし、知るすべもない。だがそのガンの苦悩がわたしたちの苦悩と兄弟のように親近なものだと感じないではいられないのである。」(P.289)__問題は人間の兄弟の「苦悩」がどうして「感じ」られるのかということである。ことばで?いや、ことばが通じなくても、話さなくてもそれは感じられる。ただ、それを「知る」ことはできない。「主観」という立場をとらなくても、あるいは「主観」という立場をとるがゆえに「感じ」るけど「分からない」ということが起きるのではないか。自分自身の「痛み」や「哀しみ」でさえ、「感じ」ることはできるが「わかる(理解する)」ということは困難である。それを「科学」や「心理学」として「語る」ことができたとしても。
(P.290)__「郷里価」ハイムヴァレンツ
「このような闘争になぜ恐ろしい抑圧された怒りがみられるのかは、対戦者どうしが相手をよく知っているので、見知らぬ者を相手とする場合よりも恐怖を感じることが少ないのだという説明では、おそらく不十分だろう。夫婦の間のいさかいがとりわけ恐ろしい様相を示すのも、そのような原因ばかりではあるまい。むしろわたしの思うには、真実の愛にはみな、潜在的な、連帯によってかくされた攻撃性が大量にひそんでいるので、このきずながいったんちぎれてしまうと、わたしたちが憎しみといっているあの恐ろしい現象が表面に出てくるのである。攻撃性を含まぬ愛はないが、また愛なき憎しみも存在しないのだ。」(P.296)__逆も真なりとどうして言えるのか。「(動物的)本能」として説明されてきたことで言えるというのか。
「だがこのような個体どうしのつながりは、そうした平和な群れをなす動物に限って絶対にみられず、かれらのまとまりはきまって全くだれでもいい無名のものの寄り集まりなのだ。個体と個体の結びつき、個体間の友情が見られるのは、種内攻撃の高度に発達した動物の場合だけであり、それどころか、このような結びつきは攻撃的な種類の動物ほど堅いのである。」(P.298)
「もし季節によってある時にはなわばりをかまえて攻撃的となるが、またある時は攻撃性を失って群居するということを、かわるがわる繰り返す動物では、個体どうしの連帯があるとすれば、それはきまって攻撃性をもつ時期にだけみられる。
個体と個体とのつながりが大きな進化の過程のどのような時点で生じたのかというと、それはもともと攻撃性をもつ動物が種を保つという目的で、たぶん子を育てるためのことが多いと思うか、二匹かそれ以上の個体が協力することがどうしても必要になったときであることは疑いない。愛という個体の結びつきは、多くの場合種内攻撃から、いくつかのよく知られている場合でいうと、攻撃とか威嚇を再定位して儀式化するというやり方で生じたことは明らかである。」(P.299)__「目的」というものを設定したのは誰か。「人間」であるが、その責任を負わされているのは「神」である。
「したがって、ハイイロガンと人間行動の様式が似ているのは、これを共通の祖先から「相同の(ホモローク)」遺産として受けついだからなのでは(FF)なく、いわゆる適応集中によって生じたのであることは間違いない。そうした類似があるのはけっして偶然のせいではない。もし偶然だとすれば、その確率は、算出できはするが天文学的数字にしかならないであろう。
恋愛、友情、競争心、しっと、悲嘆、その他にもたくさんある高度にこみあった行動の標準が、ハイイロガンと人間で似ているというばかりでなく、ごくささいな点に至るまで全く同じだとすると、ここで確実にいえることは、これらの諸本能はそれぞれに、種の保存のためにあるきまった役割を果たし、しかもこの働きがハイイロガンと人とですっかりかほとんど同じだということである。」(P.301)__「種の保存」は「自己の保存」の観念ではないか。「生き残ったのが優秀」だとはいえないが、「生き残ったのが優秀」だとおもうからであり、「優秀だから生き残った」とは言えない。結果から原因を予想するのは「人間」である。
「類似の構造をもち、同じ働きをするふたつの器官の複雑さと文化の程度が増せば増すほど、たとえそのふたつ(FF)の由来が系統発生上全くちがうものであっても、それらを機能上一定の概念でしめくくり、同じ名前をつける権利が増すのだ。たとえば一方ではイカなどの頭足類が、他方では脊椎動物が、それぞれ独立に眼という器官を発明しており、それらが同じレンズ・カメラの原理にしたがって組み立てられており、どちらの場合もレンズ(水晶体)、紅彩、ガラス体、網膜のような構造上ひとしい単位を備えているというとき、正気の人なら両方、つまり頭足類のその期間と脊椎動物のそれとを眼と呼ぶのに、しかもカッコなどつけず無条件でそう呼ぶのに何の抵抗も感じないだろう。」(P.301-302)__人間は(動物は)頭に「カメラ」をつけている?
「こうしたすべての点でこのきずなは、わたしたち人間において愛と友情という形でそのもっとも純粋かつ高貴な姿を示しているあの働きと類比されるものなのだ。」(P.302)
第十二章 けんそんのすすめ
「「汝自身を知れ」( Γνῶθι σαυτόν )「その命令に服従するのを妨げているのは、三つのきわめて環状の色合いの濃い障害である。」(P.304)
(第一)「それは人間の歴史的進化の筋道の途中に立ちはだかって、人間とは何かという自己認識の邪魔をする。」(P.304)
「もし人間が、チンパンジーの存在を知らなければ、自分の素姓をもっと簡単に信じたろう。」(P.305)
「自己認識を妨げる第二の障害は、わたしたちの行為の根底には自然の因果があるという認識に対する感情的な反発である。」(P.306)
「人間の自己認識を妨げる第三の大きな障害は、少なくとの西欧文化圏の中では、観念論哲学のもたらした遺産である。それはそもそも、世界を二分して、観念論的に考えれば、根本的には価値に無関心とみなされる諸物のつくる外界と、唯一の価値である人間がもつ内的法則性の支配する可知的世界(ママ)とに分けたところに原因がある。」(P.306)
「はっきり理解しておかなければならないことは、(FF)西欧流の考えでは、「自然科学的に研究可能だ」ということと、「基本的に価値に無関係だ」ということを同一視するのがふつうになってしまったということだ。」(P.306-307)__価値観、イデオロギー。
「ところが人類は、かれらの社会構造の病理学的解決には無力であり、原子力兵器を手中にしながら社会のこととなると、まるでそこらの動物となんら変わらず、理にかなう行動ができないということは、大部分、みずからの行動を高慢にも過大評価し、その結果、人間の行動の問題を研究可能とみられる自然現象から除外しているせいなのだ。」(P.308)
「人間がみずからのうちに動物的遺産が存在することを盲目的な高慢におぼれて拒否しないかぎり、必ずやそれに打ち勝つ力を与えてくれるものにちがいない。」(P.310)
「恐竜から鳥類が生じたり、サルから人間が出たということは、進化史の過程に時おり起こる歴史的に一回きりの出来事なのだ。たしかに進化の大筋は、どの生物にも例外なくあてはまる諸法則によって、生物が(FF)全体として高等化するように方向づけられているとはいえ、進化の細目についてはすべて、いわゆる偶然、つまり全部が全部わかっているわけではない無数の副次的原因によってできるのである。オーストラリアでは原始的な祖先からユーカリの木とカンガルーが生じ、一方ヨーロッパとアジアではカシワの木と人間が生じたのも、まさにこの意味での「偶然」なのだ。
新しく生じる生物は、その前の段階のものから誘導することはできないが、この新しい生物は、たいていの場合、前段階のものよりもいくぶんなりと高等なものである。」(P.311-312)__それこそが「高慢」なのではないか。
「ある簡単な祖先から、それよりもっと高度のかたちの生物が生じるということは、わたしたちにとっては価値の増大を意味しているのだ。このことはわたしたち自身が存在するということからも否定しがたい事実である。」(P.313)__「低度の」「下等な」「単純な」種が残っている(存在している)事実をどう説明するのか。「なぜ」わたしがいるのかはわからない。でも、「どのようにして」を説明したことによって、「なぜ」を説明したような気になってはいけない。「点」をいくらあつめても「線」にはならない。次元が違うのだ。
「生化学とウイルス研究の最近の成果はまことに画期的で、きわめてセンセーショナルではあるけれども、生命の発生という大事件が、今のところあらゆることがらのうちもっとも謎深い出来事であることに変わりはない。無機的な過程と有機的な過程との違いは、なくもがなの定義の中できめられていること、すなわち、生き物の体質上の特徴をいくつかばらばらにあげるような定義の中できめられていることにすぎない。じつは、それらの特徴の総計が生命なのだ。」(P.313)
「生命過程というものは、まさに本来すなわち生命過程だけあてはまりその全体にかかわるものがあるという点で、まさに本来、一般に化学、物理的過程といわれるものとは何か非常に違ったものなのだ。」(P.314)
「生命過程というものは、それが行われる場である物質の構造をかりて、自己保存、自己調節、情報収集、とりわけこれらすべてにとって不可欠であるところの構造を再生産するという、非常に特殊な働きを示す過程なのである。これらの働きは、原理的には因果的に説明することはできようが、別のというか、もっと簡単な構造の物質界では進行することができない。
生命の示すさまざまな過程・構造と、無生物の過程・構造との関係は、基本的には、生物界における、より高度の生命形態と、それが生じるもととなったより低次の形のものとの関係に等しい。」(P.314)__因果的=化学・物理的、分析主義批判。部分と全体。
「長年人々の探し求めていた、動物と真に人間らしい人間との中間のもの、それこそわたしたちなのだと。」(P.316)
「けれど、その目的ではなく原因を尋ねることが的外れだというような現象はひとつもない。」(P.317)
「あるシステム全体の部分部分がさまざまに専門化して、それぞれが互いに相手を補い合う働きをしている場合にのみ、「何のために」という問いがはじめて意味をもってくるのだ。このことは生命のさまざまの過程にも、また生命がその目的のために利用する生命のない構造や機能、たとえば人間が制作した機械にもあてはまる。機械の場合には、「何のために」という問いは、意味があるばかりでなく絶対に必要だ。ネズミを捕まえるのがネコに特有の働きであり、この働きのためにネコの爪が作られていることを見なければ、どんな原因でネコは先のとがった爪をもっているのかということはわかるまい。」(P.317)__人間にとって(あるいは何かにとって)「価値がある」ということと「目的がある」ということが一緒になっている。「ネコはネズミを捕るために爪がするどくなった」というならば、するどくなる前の爪は何の役に立っていたのか、ネコは「ネズミを捕ろう」としたということか。爪がするどくなる前に、ネコとネズミの関係はあった。たまたま爪がするどくなったから、ネズミを捕ることができた。首が長くなったから高いところの葉っぱを食べるようになった。子供キリンは?そこに「偶然性」や「自然選択(適者生存)」を見ることはできるのか。
「前にもざっと述べたことだが、探求不可能なものを高く評価したいという心の底には、さきほどいった因果律恐怖症がひそんでいる。」(P.321)
「人間の認識に限界があることをだれよりもよく知っているのは、ほかならぬ自然科学者なのだ。だがかれは、この限界がどこにあるのはわからない、ということをつねに意識している。」(P.322)
第十三章 この人を見よ
「その望遠鏡は、人間をひとりひとり見分けて個人の行動を追うには倍率が低すぎるけれども、民族の移動とか戦闘などのように大きな出来事はちゃんと観察でき(FF)る。さて、その結果、かれは人間の行動が理性とか、ましてや責任感に従っているどころか、人間の社会集団はネズミのそれとたいへんよく似た構造をもっているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。かれらはネズミ同様、閉じた同族の仲間の間では社交的に平和に暮らそうとするが、自分の党派でない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ。」(P.326-327)
「認識の木の実という象徴は、深い真理を含んでいる。物事の抽象的思索の結果生まれた認識は、思慮もなく快楽のおもむくままに自分の本能に従って行動することのできた楽園から、人間を追い払ってしまった。」(P327)__「思索」や「理性」は「本能」ではないのだろうか。Nota Bene!!
「抽象的思考力によって、人間は言語を使って個人を越えて知識を伝達し、文化を発展させることができるようになった。ところが文化の発展は人間の生活条件の中に、非常に速やかな革命的な変化を引き起こした。その結果、人間の本能の適応能力は、暗礁にのりあげてしまったのである。」(P.328)__それは西欧、特に近代以降のことで、一般化することはできないと思う。江戸はたしかに、生活条件を本能以上のものに変えた。しかし、言語を使って、本能によって、自然(環境)と共存している民族はたくさんある。
「その時述べたように、この抑制の仕組みがもっとも重要な働きをし、したがってもっとも高度に発達しているのは、ほぼ自分と同じ大きさのものを簡単に殺す能力のある動物の場合である。」(P.329)
「世間一般の人たち、いや人文科学者の多くですら、個人の幸福をかえりみず社会の福祉に奉仕する人間の行動様式は、すべて理性にかなった責任の意識に従っているのだと考えている。この意見は明らかにまちがいであるが、それについては、この章でも具体的な例によって示したいと思っている。」(P.330)
「だが、最初の武器の発明によってそれまで保たれていた殺りく能力と本能的な殺りく抑制との間(FF)の平衡が乱れるやいなや、そうした動物的本能が役に立たなくなったことは想像にかたくない。手斧の使用ですら、苦痛の叫びや従順の身ぶりなどによって攻撃者の攻撃抑制をよびさますいとまもないほど素早く、相手をたちどころに打ち殺してしまうことができる。」(P.330-331)
「わたしたちの情緒的な深層は、この人差指の発射の合図が他人のはらわたを引き裂くのだということに、全く気づきすらしないのだ。もし野獣を歯や指の爪で殺さなければならないとしたら、人はウサギ狩りにだって行かなくなるだろう。
わたしたちの武器の届く距離が増せば増すほど、わたしたちの行為のもたらすいっさいの結果はますます感情に届かなくなる。」(P.331)
「商業上の競争は、今日すくなくとも石器時代の人間の種族間での闘争が人間の種内攻撃性を高めたのと同じように、先ほどのもろもろの衝動を恐ろしいまでに育てあげてゆく作用がある。幸いなのは、富や権力の獲得が子孫の反映には結びつかぬことである。もしそうでなかたら、人類の状態はもっと悪いと考えねばなるまい。
武器の働き、種内淘汰とならんで、目まぐるしい加速度的な発展の速度も、高度の抽象的思考力をもつ人間がそのおまけとして受取らなければならなかった諸悪の第三の源である。」(P.336)
「弓矢の使用は、それと同じく生きていくのに大切な諸器官が容易なことでは退化しないように、ふたたび忘れ去られることはほとんどないといっていい。」(P.337)__弓矢は忘れ去られようとしているかも。ボーガンという形で残って入るけど。大切な臭覚や免疫機能も失われたり、均衡が崩されたりしている。個人ごとにちがうから、「一般的な薬」はないけど、アレルギーを抑える薬は、免疫機能の均衡をさらにこわすことになるので、もし効いたとしても一生(多分増量しながら)使い続けなければならない。血圧だって同じ。体の反応を抑えるわけだから、それを止めると暴走する。飲み続けると多分ボケる。血液が回らないので。昆虫をはじめ、多くの動物では形態上の機能を果たしていない器官がたくさんある。形態と機能は連携していると考えるのが進化論だが(適者生存)、むしろ形態と機能は別々に発生し、一緒になるものとならないものがある。レコードの生産がなくなるように、本の生産もなくなりつつある。機能通りの器官だって、使われなくなる可能性は大いにあるのだ。たった数十年前の道具がいまでは「物」は残っていても使い方を知っている人がいないものはたくさんある。「原因」「目的」「結果」と言いう思考がけっして「普遍的」なものではないことの証明だ。
「人間が文化の面であげた成果には、すべてひとつの大きな難点がある。それは、それらの諸成果が、みな、人間の特質や機能のうち、個人的に変更されたり、学習の影響を受けたりする部分に関するものにすぎないということだ。ところがわたしたちの種に固有な生得的な行動様式は、大部分がそのようなものではない。」(P.338)
「言葉を変えていうと、人間の自然な気質は、けっしてそれほど悪いものではない。人間は小さいころからそんなに邪悪ではけっしてなく、ただ、近代の社会生活の諸要求を満たしうるほど善ではないにすぎないのだ。」(P.341)__Nota Bene!! 深い。
「そのような影響とは、第一に人口が多くなりすぎると個人的な結合にとって都合が悪くなることである。」(P.341)__身近な人の数はそれほど増えない。それ以外との人とは「ゆるい」結合になる。問題は、「ゆるい」結合は、本能的には攻撃対象とならないはずなのだが、それを脅威や憎悪に向ける人がいる。主に固定的な権力を持つ人、権力を永続させようとする人だ。
「第二に、狭い場所に多くの人間がひしめいていると、あらゆる社会的反応がわずらわしくなることである。」(P.342)__「わずらわしさ」は、単に人口が密集しているためだけではないだろう。むしろ「個」の範囲が「身体」からどれだけ広がるかにあるように思う。
(シラー)「「わたしは友のために役立ちたいと思う。だがわたしは残念ながら、そうしたいからしているので、そのために、自分は道徳的ではないのだという気がしてしかたがない」。」(P.345)
「けれどもこの難問からぬけ出すには、この見かけ上の問題をごく簡単に解決するだけでよい。責任のモラルを代償のしくみとみなし、こうしたいという自然的な性向を無価値ではないとみなせばたりるのである。」(P.346)
「実際には、理性による認識を命令に変えるためには、理性の要素ではなく感情の要素が必ずなければならない。」(P.349)
「まず価値感覚、まず感情があってこそ、わたしたちに定言的な自問に対する答えにプラスとマイナスの符号をつけ、その答えを命令とか禁止に変えることができるのである。だがその命令や禁止は理性から生まれるのではなくて、わたしたちの意識がおりてゆくことのできない暗い衝動から出てくるのだ。」(P.349)
「理性に反することは、本能の機能錯誤の結果あらわれるにすぎないのだ。」(P.351)
「熱狂を触発するのに最適の刺激の状況、煽動家がわざとこしらえる刺激の状況とは、まず第一に先述の価値が脅かされることだ。敵とか仮想敵とかいうものは、ほとんど好き勝手にえらべるし、脅かされている価値と同様具体的にも抽象的にもなりうる。「あの」ユダヤ人ども、ボッシュ(ドイツ野郎)、ドイツ侍、搾取者、暴君、などという呼び名の作用は、世界資本主義、ボリシェヴィズム、ファシズム、帝国主義、その他数多くのなんとかイズムの作用とちょうど同じである。今論じている刺激状況に属する第二のものは、できる限り人を共感させるような統率者が現れることだ。よく知られているとおり、もっとも鋭くファシズムに反対する煽動家たちですら、これなしですますわけにはいかない。このように、政治傾向がいかにちがっても利用される方法がどれも似かよっているということは、煽動に利用しうる熱狂という人間の反応が本能的な性格のものであることを裏書きしている。さらに第三に、これがいちばん重要な動機だと思うが、熱狂をもっとも強く触発するのは、できる限り多くの人間が熱狂に同調することである。」(P.353)__そのとおりだと思うけど、西欧(及び東洋の一部)を一般化(普遍化)していると思う。
「わたしたちの場合も、それを守るために熱中して生命をかけるような価値は、本質的に社会的性格をもった価値である。先に「習慣、儀式、魔法」の章にあったことを思い出してみると、もともとは個人的に知っている具体的な社会集団の仲間を守るのに役立っていた反応が、しだ(FF)いに個人の集団よりももっと持続するところの超個人的な、伝統によって受けつがれた文化的価値を守るようになったのだということは、ほぼたしかだと思われる。」(P.355-356)
「ともに歌うということは、悪魔に小指をさし出すことなのだ。」(P.356)
「人類は、互いに敵対するいくつもの党派に分離してしまっているから闘争好きで攻撃的なのではなく、それが社会的攻撃性を消散させるのに必要な刺激状況を作り出しているからこそ、党派に分裂しているのだ。」(P.357)__う〜ん、そうかなあ。そういう面はあるだろうけど。
第十四章 希望の糸
「言葉がいちばんいい効果をあげるのは、語り手が彼の新しい見解によって、聞く人たちよりほんの鼻の高さほど先んじているにすぎない場合である。」(P.359)__「専門家」は近づいているふりをする。
「いちばん確かな成果を期待できるのは、攻撃欲を代償となる目的に向かって消散させることによってあのカタルシスを実現することだ。」(P.362)__テレビゲーム。
デジタル大辞泉 「カタルシス」の意味・読み・例文・類語
カタルシス(〈ギリシャ〉katharsis)
《浄化・排泄の意》
1 文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。浄化。
2 精神分析で、無意識の層に抑圧されている心のしこりを外部に表出させることで症状を消失させる治療法。通利療法。
精選版 日本国語大辞典 「カタルシス」の意味・読み・例文・類語
カタルシス
〘 名詞 〙 ( [ギリシア語] katharsis )
① アリストテレスの「詩学」に用いられた語。悲劇の与える恐れや憐れみの情緒を観客が味わうことによって、日ごろ心に鬱積(うっせき)していたそれらの感情を放出させ、心を軽快にすること。浄化。
[初出の実例]「其の浄化(カタルシス)の説」(出典:囚はれたる文芸(1906)〈島村抱月〉二)
② 精神分析で、抑圧されて無意識の底にとどまっているコンプレックスを外部に導き出し、その原因を明らかにすることによって、症状を消失させようとする精神療法の技術。浄化法。
改訂新版 世界大百科事典 「カタルシス」の意味・わかりやすい解説
カタルシス
katharsis[ギリシア]
目次
本来ギリシア語で,祭儀,医術,音楽,哲学など諸分野に広く認められる〈純化〉を意味した語。だがアリストテレスが《詩学》第6章で悲劇を定義し,〈悲劇の機能は観客に憐憫(れんびん)と恐怖とを引き起こして,この種の感情のカタルシスを達成することにある〉と明記して以来,この概念は悲劇論ばかりか芸術全般の考察における重要な概念となった。もっともアリストテレスの用語の意味については,古来さまざまな解釈があり,果てしない論争が続いてきた。悲劇の倫理的効果としての感情の〈浄化〉とする説があり,また素材の事件を変形する創作上の〈純化〉とする少数意見さえも立てられたが,今日では,感情の〈発散〉という生理的機能を重視する見解が有力である。すなわち悲劇やある種の音楽が激しい感情を誘発するとき,鬱積していたそれらの激情は放出されることになり,心をその重圧から解放して軽快にするが,この作用をカタルシスとみなすのである。演劇史上ではコルネイユ,レッシング,ゲーテがこの概念にそれぞれ独自の解釈を加えており,そこに成立した演劇観を介してそれらの見解はいずれも今日に至るまでなんらかの影響を及ぼしている。なお,本来のカタルシスは上記の激情にのみかかわるのであるが,現実を理想化する芸術の営みに即して,感情が美的に高揚し純化されることをもカタルシスの概念に託すならば,これはあらゆる芸術に妥当する事柄であろう。
執筆者:細井 雄介
日本大百科全書(ニッポニカ) 「カタルシス」の意味・わかりやすい解説
カタルシス
かたるしす
katharsis ギリシア語
catharsis 英語
原義は古代ギリシア語で「清浄な(カタロン)ものにすること、浄化」を意味する。宗教上の用語として、宗教的な罪障(たとえば、殺人などによる穢(けが)れ)を除去するお祓(はらい)をいい、また、医術の用語としては、体内の不純物を排泄(はいせつ)させる手だてをいった。プラトンは、ある場合、哲学(愛知)の働きをこの宗教および医術上の浄化の働きになぞらえ、哲学は、魂から魂が肉体と合することによって受けた不純物を取り除き、魂をできるだけ肉体から引き離すことだとした。これにより、魂は、魂が魂自体としてもつ純粋なあり方を取り戻し、純粋な存在自体の真実相に触れることになる。哲学の求める知(プロネーシス)とはそのような魂のあり方のことである(『パイドン』66B~68B)。このようなプラトンの用語法はピタゴラス派に起源をもつもので、ピタゴラス派は宗教的節制と学問研究(数学と音楽理論)による魂の浄化を説いたとみなす人々もあるが、プラトン以前のピタゴラス派がカタルシスの語を拡張して、学問研究にも適用したかどうかには疑問がある。
アリストテレスでは、この語は文学論上の用語として、とくに悲劇が人間の魂に対して及ぼす清浄化の効果について用いられ、悲劇とは「憐(あわれ)みと恐れの情による、これらの情の浄化(カタルシス)である」と規定された(『詩学』1449b27~28)。詳述することなしに付加されたこの一行は、アリストテレス詩学の解釈史上において、多彩、かつ持続的な論争の的となった。
[加藤信朗]
「スポーツは、野蛮的、個人的で、利己的な形をとって爆発する攻撃性のためにすぐれた安全弁を開くばかりでなく、もっと高度に分化した集合的な特殊な形の攻撃性までも完全に阻止してしまうことができる。」(P.364)
「国家間の競争が実り多いのは、それが民族的熱狂を起こすことができるからというばかりではな(FF)い。それにはさらに戦争の危険を防ぐふたつの働きがある。それは第一に、さまざまの国や党派の人間がお互いに個人的に知り合うことになり、第二にはそれが、さもなければほとんど共通点のない人たちと同じ理念へ熱中させることによって、熱狂のもつ一体化作用を呼び起こすからである。」(P.364-365)
「連帯の章を読んでおわかりのように、個人的に知り合いになるということは、攻撃欲を抑止する複雑なしくみのための前提であるばかりでなく、それだけでも攻撃性からその牙を抜き去るのに役立つ。相手を知らないということは、攻撃行動の解発をきわめて容易にするからだ。」(P.365)
「すでにご存知のように熱狂を解発する刺激状況には、互いに独立に変わりうる三つのものがある。第一に人が価値あると認める守るべきもの、第二にこの価値を脅かす敵、第三に人が一身同体であると感じ、脅かされた価値を守るためにともに生命をかけようとする社会的仲間である。さらに、不可欠だというほどではないが、「聖」なる戦いを戦えと呼号する統率者もここに加えることができる。」(P.367)
「科学者にとっては認識があらゆる価値の中の最高の価値をなすので、認識がひろまるのを邪魔するいっさいのものをもっとも無価値とみなすのである。」(P.368)
「もしもある人がさまざまの価値を知っており、それらに対する自分の熱狂のおかげで、自分と同じように音楽、詩、自然美、科学、その他多くの事がらに熱狂しているすべての人間とひとつであると感じているならば、かれはこうした事がらのどれとも関係のない人に対してしか闘争反応のむけようがない。それだから、このような同一化の数をふやすことが大切なのだ。これを実現するには、若い人々の一般的教養を高めるほかはない。」(P.369)
「そのためには、さまざまの社会集団、民族、党派の人々が、同じ理想の実現に努力する必要はない。いやそれは多分けっして望ましいことではない。何が人間を熱狂させ何が守らねばならぬ価値であるかについて、意見にごくわずかでも重なりあいがみられれば、それでもう、民族的憎悪を減少させ、収穫をもたらしうるのだ。」(P.370)__鉄のカーテン。
「それは芸術と科学である。」(P.370)
「まさにこの任務のために、芸術はつねに非政治的でなければならない。」(P.370)
「科学は芸術とひとつの共通点をもっている。それは、科学も芸術と同様に、厳としてそれ独自の価値をもっており、その価値はそれにたずさわる人間の所属する党派とは無関係だということである。芸術とは反対に、科学は直接一般的に理解できるものではないから、共通の熱狂の橋はまず少数の個人の間にしか渡せないが、少数であるだけに橋渡しはうまくいく。」(P.371)__芸術・科学が共通しうるのは、同じ系統の言語を話している、同じ思考方法の文化だけである。何を一般的、普遍的とするかがいかに異なっていることか。
「ほかのどの文化財にもまして、科学的真理は全人類の共通財産だ。科学的真理が共有財産であるのは、それが芸術や哲学とちがって、人間の頭脳でこしらえたものではないからである。」(P.372)
「科学的真理は、人間の頭脳が作り出すのではなくて、周囲の、主体の外の現実から獲得したものである。この現実はすべての人間によって同一であるから、政治的カーテンのどの側の自然研究の場合にも、信用できる一致したかたちでくりかえし同じことがでてくるのだ。」(P.372)__科学への熱狂。
「まさにこの無味乾燥状態を利用して、かたくなな不信につきあたったとき、数量的な証明によってあらゆる懐疑を無力化しうる科学の真理をすすめてはどうかと思う。科学は密教でもなければ魔法でもなく、簡単な方法で人に教えられるものだ。まさに無味乾燥な人たち、懐疑的な人たちこそ、証明可能な真理やこれにともなういっさいのことに対して熱狂しうるのだと思う。」(P.373)__原子爆弾で何百万人が死んだという事実が科学の証明だろうか。私は1億分の一ではないのだ。
「笑いは多くの点で熱狂と似ている。本能的行動であるという点でも、系統発生上攻撃性から由来しているという点でもそうであるが、とりわけその社会的機能の点でもよく似ている。同一の価値に対する熱狂と同じく、同じことがらについての笑いは、兄弟的な共通帰属感情をつくりだす。」(P.373)__セックスも。
「それにもかかわらず、笑いは熱狂よりもっと高尚な意味で人間固有のものである。熱狂にも笑いにもなおおどしの身ぶりが含まれて入るが、笑いは形の上でも機能の上でも、おどしの身ぶりをはるかにこえて高い段階に達している。熱狂とは反対に、笑いの場合にはその度合がもっとも強いときですら、もとの攻撃性が顔を出して相手を攻撃するということはけっしてない。たとえ笑いの力学が熱狂のそれに比べてより自発的で本能的であるとしても、他の面では笑いを解発するしくみはずっと選択的であり、人間の理性によってコントロールしやすいものなのだ。笑いはけっして無批判にはおこらないのである。」(P.374)__フジテレビが喜びそう。
「ユーモアは、今日過大な要求を負わされている責任のモラルの強力な仲間として、それと並び立っている恵みの力だと思う。」(P.375)
「知識の増大は人間に真の理想を与え、同様にユーモアの力の増大は人間に偽りをあざ笑う助けとなるだろうと信じている。」(P.176)
「愛と友情というゆたかで暖かな感情を、わたしたちは個人に対してしか感じることができないのだ。」(P.377)__個と社会(集団・集合)との関係。匂いもまた「ゆたかで温かい感情」を生じさせる。その逆もあるけど。
「というのは、わたしは人間の理性の力を信じており、淘汰の力を信じており、理性が理性的淘汰を進めていくと信じているからだ。」(P.378)__「信じ」て「熱狂」するのは勝手だけど。
訳者あとがき
「同類どうしの闘いや殺しあい それはバイブルによれば悪である。モーゼは人間にそれを禁じたが、動物には禁じなかった。じっさい、動物においては、同類個体間での闘いはたえずみられるものである。
しかし、よくしらべてみると、動物においては、この「悪」はじつは「善」なのである。それは種を維持する上には必要不可欠なものなのだ。けれど、同類どうしの殺しあいは、動物においても禁止されている。モーゼによってではなく、進化によって。闘いは「儀式化」されることによって、真の殺しあいから切りはなされ、「悪」から「悪」を捨て去ってその善だけを残すようなてだてがこうじられているのである。」(P.381)
訳者を代表して 日高敏隆
〈終わり〉