
図書館から借りてきました。「デジタル(CG)復元」の話です。
国宝などの古美術、絵画や仏像や寺社などはどんどん汚染・破損・風化などがすすんでいきます。染料の色は褪せ、顔料の色は剥がれ落ちます。油絵でも亀裂が走ったり、ニス(ワニス・バニス)が酸化して変色したりします。それは防ぎようがありません(エントロピー増大の法則)。
それの修復というのは、普通、「元(出来た頃の状態)に戻す」ことではありません。そういう復元も行われることがあるでしょうが、基本は「現在の状態を保つこと」です。「これ以上破損や風化が進まないようにすること」そして「(宝物を)次の世代に伝えること」が目的です。
デジタル復元は、それとはまったく異なります。「出来た頃の状態を再現する」のが目的です。著者(及びその会社)が目指すのは、
そんな新しい分野の中で、私は二つのことにこだわって作業を進めている。それは、今のデジタル復元の現状と強く関係している。一つ目は、「金をかけない」ということである。(P.14)
私がこだわっているデジタル復元のポイント二つ目は、「何が描かれていたかではなく、何が見えてくるか」である。(P.16)
お寺や神社というと、「暗い」「くすんだ色」というイメージがありませんか。「幽霊が出てきそうな」「不吉な」雰囲気です。そのなかにある仏像なども「どこかが欠けている」「錆びついている」イメージです。それこそが「貴重」で「ありがたいこと」の証(あかし)のように感じます。
「古い」というのはマイナスの価値で、「新しい」ことにプラスの価値を見出すような社会です。「古いもの」に価値があるとすれば、それは「鑑定団」のようにそれに「お金でいくら」という「貨幣価値」がつく場合だけです。
そういえばもう何年も「美術館」に行っていません。有名な作家が出品されているときは結構な入館料を取られますから。その「お金(入館料)に見合う価値」があると思わなければ、わざわざ見に行きません。そもそも、美術に興味のない人は行こうとは思わないでしょう。そこに「一生の宝」となるような経験がある「可能性」があったとしても。
きれいに塗り直された鳥居やお寺は、なんか安っぽい気がします。ガラス張りの神社なんか「ありがたみ」が全然ないように感じます(「ご利益」というとちょっと変わってきますが)。ピカピカ金色に光る仏像なんて、安っぽく見えるし、「成金」っぽく見えませんか。
でも、あの朱塗りの大きな鳥居やお堂のなかに「実際に居る」ときの、なんともいえない気持ちはあります。なんか自分が「小さく」なったような、「圧倒される」ような気持ちです。
「東京スカイツリー(私の頃なら東京タワー)」を見上げたときの気持ちと似ているかもしれません。
「見上げる(上を向く)」というのは、自分を「見下す」ような気持ちになるのかもしれません。子供が大人を見上げるような。戦後、日本人がアメリカ兵を見たような。
美術品を美術館や博物館まで行って(特別展なら期間も限られている)、ガラス越しに見るんじゃなくて、「いつでも」「手にとって(CGなら印刷することもできる)」「好きな環境で(夜ろうそく一本の明かりでとか)」見ることができることが大事です。著者はCGならではの見方として、90度曲げてみたり、下から見上げてみたり、さまざまな方法で作品を見ようとしています。
「美術品」として見るのではなく、描かれたもの、作られたものをいわば「道具」(P.78)として、そこから何かを見つけるような見方、をして欲しい。そう著者は思っています。
これは、鑑賞者の視線が積極的に堂内を駆け巡ることによって生まれる、高度なコミュニケーションである。このコミュニケーション術を「参加する視線」と呼んで本書のキーワードとしたい。(P.52)
作品を通して、あるいは作品をこえて、当時の作家や時代の雰囲気と「コミュニケート」するのです。
デジタル復元とは、時代認識の修正作業なのである。(P.18)
復元した新薬師寺の伐折羅(ばきら)像(P.34)、すごくきれいです。復元した東大寺大仏殿の四天王(P.40)や大仏殿の内部(P.48)もカラフルで見事です。
お寺っぽくないけど、考えてみればネパールや中国・東南アジアの仏教寺院もカラフルなイメージがあります。イスラム教の寺院も、キリスト教の教会もカラフルじゃないですか(入ったことないけど)。
どちらがいいのかを議論するのは意味がない。奈良時代と今では、価値観がちがいすぎる。奈良時代の人は、この鮮烈な原色世界に住んでいたのだ。ただそれだけである。(P.35)
注がれる視線は、形態という殻を突き破り、中へ入ろうとする。いじろうとする。私はそこに「日本人独特の目の働き」があり、生まれる考え方があると推察している。
この「日本独特の目の働き」を、いま一度「参加する視線」として定義したい。(P.78-79)
「視線」を〈まなざし〉と言い換えてみましょう。「参加する視線」は「能動的な〈まなざし〉」です。カメラのように「受動的」ではありません。実は中世以前のヨーロッパにおいても、〈まなざし〉は能動的でした。眼から視線が飛び出していって、対象を掴んで持って来るのです。だから「何をどのように見る」かということは「主体(主観)」に属するものでした。「正しく見る」ことは「間違ったものを見ない」ことと同様に、大切なことだったのです。
最近、闇バイトやネット賭博、フェイク動画(画像)が問題になっています。そしてその解決方法としてあげられるのはたいてい「法的規制」です。つまり、「(作って)見せる」ということよりも、「見えちゃうこと」が問題なので、「見せるな」ということです。視線は完全に「受動的なもの」だと捉えられているのです(一昔前なら、「ポルノを子供に見せるな」と言われました。いまでも禁止されています。それは子供が「受動的な存在」だと考えられているからです)。
仏像や、絵巻物や襖絵・屏風を見るとき、昔の人にはどう見ていたのでしょう。
イコンは、敷居のかなたで見た栄光の微かな輝きを祈りに満たして残す敷居なのです。(イバン・イリイチ『生きる希望』邦訳、P.202-203)敬意をこのように献身的かつ敬虔に表現することに没頭することで、イコン崇拝者は、敷居の彼方にイコンによって再現されたものに自分の目で触れるばかりでなく、そのまなざしを甦った者の肉と混ぜ合わせたものを持ち帰るのだとヨアンネス(ダマスクスのヨアンネンス A.D.675-749 ・・・引用者)は説明するのです。そして甦った者の肉を持ち帰ることで、イコン崇拝者は、この地上で真に肉を備えた身体として教会の建設に参与するのです。
イコンを絵としてでなく、敷居として扱うこのやり方はロシア、ギリシア、シリアその他の東方教会のさまざまな典礼で生かされています。(同、P.203)
仏像や絵巻物(イコン)は、ただの物質(形態)ではありませんでした。そこに見ていたのは仏であり、神であり、天国(や「神の国」)であり、地獄だったのです。〈まなざし〉が受動的な「視線」になり、眼は頭蓋骨に付いたカメラになるとともに、物体や身体は「客観的な物質」になってしまいました。仏像は「銅の塊」「削った木材」になり、絵は「絵の具や墨の塊」になってしまいました。
著者はロラン・バルトの『表徴の帝国』の解釈として、
女形は、女性であるという記号だけを発信し、具体的な役柄を演じているのではない(これが表徴である)。その役柄を演じて「見せるのではなく」、見るほうに「読み取らせる」のである。
私は、まさしく「参加する視線」だ、と思った。(P.196)
と書いています。ロラン・バルトは読んだことがありませんが、著者の解釈からすれば、「視線の能動性」ということでしょう。まさしく「参加する視線」です。
〈まなざし〉は、失われてしまったわけではありません。「アクリルスタンド(アクスタ)」は「樹脂の塊」ではありません。それを通して(敷居として、「道具」として)そこにアイドルやキャラクターの存在を見ているのです。フェイク画像もポルノも、その〈まなざし〉を基礎にしてはじめて成り立ちます。
「見せる」「読み取らせる」ことと、「見る」「読み取る」ことが分離していることが、「寛容」「歩み寄り競い合う」(P.197)「コミュニケーション」の必要性、つまるところ「西欧的な愛」を必要とさせます。私はそれが「日本人独特」だと思わないし、日本人が失ったものでも、日本人が必要とするものでもないような気がします。
[著者等]
小林泰三(こばやし・たいぞう)
1966年生まれ。89年、学習院大学卒業時に学芸員の資格を取得。同年、大日本印刷株式会社に就職。「狩野派の屏風 ・花下遊楽図屏風」(95年制作)、「地獄草紙・生きている地獄」(97年制作)で数々の賞を受賞。2000年、NHK番組「国宝探訪」のCGを3回担当し「花下遊楽図屏風」では案内役として出演。02年、NHKハイビジョン「よみがえる平家物語」に使用される「平治物語絵巻・六波羅合戦巻」をデジタル復元。04年、NHK番組「新日曜美術館」にゲスト出演、「六波羅合戦巻」の鑑賞法を解説。同年、有限会社小林美術科学を設立。06年、NHKハイビジョン「東大寺----よみがえる仏の大宇宙」の創建当時の大仏殿の内装と仏像の色彩復元を担当。08年、WOWOW番組「美術のゲノム」に案内役として出演。
さらに、デジタル技術で実物大のレプリカ作品を作り、ガラス越しでなく身近に作品と接してみよう。私たちは、往時の人びとの目線----屏風やふすま絵など、日常生活に美術を取り入れてきた伝統----を体感することができる。
本書は「地獄草紙」「平治物語絵巻」、そして狩野永徳「檜図屏風」などの国宝作品を題材に、私たちの美術観・時代認識に修正を迫る意欲作である。
