序 「現実」への逃避
戦後という時代区分
「その戦後という一つの時代を、現実を意味づけている中心的な反現実のモードを基準にして眺めたとき、見田宗介によれば、その反現実のモードは、「理想→夢→虚構」と遷移してきた。」(P.2)__私の父母の世代は、「古いものが悪いもの・新しいものがいいもの」とは考えていなかった。だから、親や子を肯定したり否定したりすることはしなかった。私の世代はそう考えていながらも、「自分が古いことで否定されること」を恐れることがまだあった。私の子供の世代ももちろん「古いことが悪いこと」だと思っているし、「自分が古くなる」こともわかっている。ただ、それが「当たり前」「仕方ないこと」だと思っているようで、だからこそ「今はやっていること」「今が楽しければいい」という刹那的な考え方をしているように思う。
「彼は、その四五年を三つに等分したとき、その一つひとつが、ちょうど、「理想の時代 一九四五ー六〇年」「夢の時代 六〇ー七五年」「虚構の時代 七五ー九〇年」のそれぞれに対応している、と主張した(見田『社会学入門』)。」(P.2)
「まず留意すべきは、「夢」というモードは、「理想」と「虚構」の両方に引き裂かれるような両義性をもっている、ということである。」(P.2)
「そのうえで、私は、さらにその二五年後に起きた、地下鉄サリン事件に、虚構の時代の極限=終焉を見たのであった。」(P.3)
「現実」への逃避
「理想は、未来において現実へと着床することが予期されている反現実だが、虚構は、それがやがて現実化するかどうかに不関与な反現実だからである。つまり、理想は、なお広義の現実に含まれるが、虚構は、もはや現実の範疇外にあるからである。」(P.3)
「だが、これとは逆方向の逃避、「現実」へと向かっていく逃避が、現代を特徴づけている。ただし、この場合の「現実」とは、通常の現実ではない。それは、現実以上に現実的なもの、現実の中の現実、「これこそまさに現実!」とみなしたくなるような現実である。すなわち、極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している、と解したくなるような現象が、さまざまな場面に見られるのた。」(P.4)
「あるいは 日本よりも欧米で流行していることだが 「虚構」のドラマに飽き足らないテレビ視聴者は、「リアリティ・ソープ」(特定の(FF)男女の実際の生活そのものを「ドラマ」として放映するテレビ番組)のような、まさに「現実」そのものをショーやドラマとして享受し、楽しむが、これもまた、「現実」への熱狂のひとつに数えておいてもよいかもしれない。」(P.4-5)
(東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』)「ここには、将来テクノロジーが発達すれば、自傷の代わりに、ニューロンに直接強い刺激を与えることに耽るアディクションが出てくるのかもしれない、と思わせるものがある。人間は、神経系をそなえた生理的身体として、つまりは動物としてのみ生きている、というわけである。」(P.5)
「われわれ」の社会の「現実」
「つまり、原理主義は、西洋由来の近代と、したがって、「われわれの現代社会」と無縁なところから出てきたわけではないのだ。」(P.6)
(一九六八年の)「五月革命には、ユートピア的な展望があり、暴力には理由があった。いってみれば、それは「理想の時代」に内在する暴力だった。しかし二〇〇五年のフランスの暴動には、そのような展望がない。車が燃やされる理由はない。その暴力は、むしろ、自己破壊的である。」(P.8)
Ⅰ 理想の時代
1 敗戦という断絶=連続
一九七〇年という転換点
三島自決
柳田國男の場合
「なぜ、柳田は家の存続にこだわるのか。家が、常民の道徳・規範の源泉になっていると、柳田は考えるからである。家とは、死者を、祖霊の集合の中に繰り込み、生者と親しい相互交流の関係におくシステムである。」(P.18)__そうだったんだろうか。少なくとも当時の人にそういう意識がなかったと思う。
「戦争の死者たちは、別に、家のために死んでいったわけではないからだ。すくなくとも、「主として家のために死んだ」とはいえないからである。」(P.19)
折口信夫の場合
「折口や柳田の構想が暗に示していることは次のことだ。「敗戦」とは、われわれの「現在」がそれに対して有意味であり、それによって正当化されるような超越的なまなざしを喪失することであった、と。柳田は、そのようなまなざしを、家の伝統の延長上に再確認しようとした。折口は、それを、半ば捏造された古代の伝統の中に見出すことで、むしろ革新的に構築しようとした。」(P.21)
「戦争に徹底的に敗北したとき、その社会は、「それ」を想定したときに、自らの現在が肯定性を帯びて立ち現れてくるような、超越的な視線を喪失することになる。折口や柳田は、そのような超越性をなんとか再構築しようとした。」(P.21)
(P.22)__戦争で「すべての人が入れ替わった」訳では無いから当たり前だけど、連続しているというのは単純には「資本主義だ」ということ。
敗戦という連続
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』
死者を代補したアメリカ
「「天皇によって義認された死者」が占拠していた座に、速やかに、「アメリカ」が就いたのである。」(P.26)
「戦後の日本人にとって、そのアメリカこそが、自らの存在が正当性を有することの根拠だったからである。」(P.28)
2 理想の時代
魅惑するアメリカ
「こうして「理想の時代」が始まった。「理想」とは、端的に言ってしまえば、(日本人が想定した)アメリカの視点にとって、肯定的なものとして現れる、社会や個人の状態のことである。アメリカを準拠とし、そのまなざしに対してポジティヴに映現する と日本人が想定した 社会状態を、日本人は、「戦後民主主義」と呼んだ。」(P.29)
「核兵器の脅威は、むしろ、「核兵器への魅惑」へと転じたと考えられる。」(P.31)
「そして、「科学」も、核兵器を生産したかつての敵国アメリカを連想させる理想となった。」(P.31)
理想の時代の時期区分
「なぜ、それらの日ではなく八月一五日になったのか。第一に、その日であれば、「敗戦」ではなく「終戦」の日になるからである。日本が対外的に敗北を認めた日ではなく、天皇が国民に向けて戦争の終結を告知し(FF)た日だからである。第二に、お盆との関係を考慮すべきであろう。このことは、戦争の(自国の)死者たちが、こともなく、先祖たちの集合の中に統合されてしまったことを意味する。」(P.33-34)
「このとき、日本は、敗者でもなく、さりとて純粋な勝者でももちろんなく、どちらともつかない者として現れ、戦争は(負けたのではなく)単に終わったことになる。」(P.34)
マイホーム
「超越的な他者としての「アメリカ」への信頼に、小さな亀裂が走ったことがきっかけとなって、一九六〇年代に入ると、「理想」から政治的内実が失われる。すなわち、理想が、いかなる思想的な含みをもたない豊かな生、「経済的に豊かな生」と等値されるのである。」(P.34)__「小さな亀裂」とは何か。
「恋愛のロマンス→祝福された結婚→新家庭の創造、という過程を、マスメディアを通じて、ことさらに開示することで、皇太子夫婦は、戦後社会が目指すべき理想化された「家族」のモデルとなった。」(P.35)
「家は、通時的には、縁ある具体的な死者との交流を、共時的には、有機的で親密な地縁共同体への参入を、それぞれ与えるユニットであった。マイホームは、この二つの機能を停止するか、あるいは圧倒的に縮小することで得られる。①まず、通時的な機能に関しては、これをほとんど無化し 芹沢俊介が明仁皇太子以後、家族のテーマが「世代家族」(親子)から「エロ(FF)ス的家族」(夫婦)に移ったと述べている(芹沢『皇室・家族論』)ように 、先祖との関係ではなく、性愛の次元で、生を主題化する。②地縁的な機能に関しては、家庭それ自身を、ミニマムな家郷(ホーム)と化す。③(中範囲の共同体への連絡を失ったことの)その反作用として、家庭を市場において貨幣をもちいる消費の主体となすことで、全域的な社会秩序へと一気に接続する。」(P.36)
「この超越的な視点を媒介にして主体化されたのは、主婦である。つまり、戦後的な主体の典型的な像は男性ではなく主婦だったのである。家電は、いわば、戦後民主主義の転態した帰結である。」(P.37)
テレビと力道山
「テレビは、当時の多くの日本人にとって、「買った」ものとしてではなく、「(我が家に)やって来た」ものとして観念された、というのである。テレビは、あたかも超越的な場所から降臨してきたかのように扱われたのだ。そして、日本人は、テレビのブラウン管の向こう側に、「理想の生活」を観たのであった(吉見前掲書)。」(P.37)__吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』?
「アメリカ性を我が物とすることを媒介にして、さらに伝統的な日本を拒否することによって、力道山は「真の日本人」になったというわけだ。」(P.39)
土地神話
「つまり、地価は、自己準拠的に、マッチポンプ式に上昇していくのだ。」(P.40)
「一方に、「取り残(FF)された者」の怨恨があり、他方には、「追い出された者」の怨恨がある。両者の宥和の儀式が、盆と正月の熱心な帰省である。」(P.40-41)
「このように、高度成長期の「理想」は、二つの焦点をめぐって展開する。マイホームと土地である。そうであるとすれば、「アメリカ」という仮面を被っている超越的な他者の真の姿がはっきりしてくる。それは何か。「資本」だ。資本は、一方では、「マイホーム」で消費すべき理想の商品を与え、他方では、「土地」をどこまでも抽象化していく。」(P.41)__「人民のために」「人民とともに」「人民が主体に」。それらの言葉にどこかしら後ろめたいものを感じていた。エリートの優越感を。結局民衆を馬鹿にしているのではないかと。イエスから始まる西欧哲学にも、ブッダに始まる日本的思想にも。民衆が選んだ世界が現在なのではないか。たとえ民衆が騙されているとしても。民衆の考え以外に根拠とするものはあるのだろうか。どうしたら民衆と同じ目線に立てるのか。民衆の一員として何ができるのか。私のエリート意識はどうしたら抜けるのか。
精選版 日本国語大辞典 「エリート」の意味・読み・例文・類語
エリート
〘 名詞 〙 ( [フランス語] élite ) ある社会において、将来その社会の知的指導者層の一人となりうるような優秀な素質、力があると認められた者。また、その結果として社会的に高い地位を与えられて、指導的な役割を果たしている人。選良。
[初出の実例]「当時の青年のエリットから実際に『明治四十年代の青年』の典型として同感され」(出典:風俗小説論(1950)〈中村光夫〉近代リアリズムの発生)
3 死者の来訪
『砂の器』
過去からの訪問者
果たされなかった約束
「死んでしまったあと、天皇が「神ではなく実は人間であった」と言ってしまえば、それはとてつもない約束違反であり、彼等の死はまったく無意味なものになってしまう。これが三島の論理である。」(P.46)
「こうして、一九六〇年代末期から七〇年にかけての時期に、理想の時代を成り立たせていた基本的な構造が瓦解し始める。」(P.70)
「ベトナム戦争からニクソン・ショックへと展開していく過程の中で、「アメリカ」に象徴される第三者の審級への信頼が、決定的な毀損を被ったからではないだろうか。」(P.47)
Ⅱ 虚構の時代
1 二つの少年犯罪
一九六八年の殺人事件
永山則夫『無知の涙』1968年(昭和43年)10月 - 11月にかけ、東京・京都・北海道・愛知の4都道府県で拳銃を用い、男性4人を相次いで射殺する連続殺人事件(連続ピストル射殺事件)を起こし、翌1969年(昭和44年)に逮捕された。(Wiki)(事件当時19歳の少年死刑囚)
「家郷から脱出したいという欲望、家郷の斥力が、東京への憧憬、東京の引力として現象しているのだ。」(P.52)
「貧困は、資本主義化から取り残されたところで生じると考えられがちだが、そうではない。貧困は、資本主義社会とその外部との接点で、 厳密にはその接点のすぐ内側で 生まれるのだ。資本主義と無縁だったら、貧困もない。高度成長は、日本の国土から資本主義と無関係な外部領域を、駆逐したのである。」(P.53)
覗く人
「ベニヤ板の穴からの覗き見を、貧困なNに特殊な体験とみなしてはならない。Nより少し豊かな人々にとっても 特に地方の農村部にいる人々にとっては テレビのブラウン管が「ベニヤ板の穴」の役割を果たすのだ。」(P.54)
「このとき、人はどうするのか。「理想」をさらに彼方に投射するのだ。東京から疎外された者は、「理想の世界」を、さらに彼方に、つまりは外国に夢見ることになる。」(P.55)
表相性の演技
「都市においては、他者たちのまなざしが地獄だったからだ、と見田宗介は推論する。
他者のまなざしが地獄と化すのは、それが、まなざされた人間を、表相性を介して、総体として規定するからである。表相性とは、直接的には、身体の上に現れる諸特徴 容姿・服装・持ち物・仕草・趣味・言葉(方言)等 であり、さらに、書類等に記載される抽象的な属性 出生・出身地・学歴・肩書等 である。こうした諸特徴をシニフィアン(記号)とした、シニフィエ(意味)として、その人物が何者であるかが、その人物のアイデンティティが、結局は、その人物の社会システムの内部での位置 役割や階級 が読み取られ、推測される。」(P.56)
一九九七年の殺人事件
「酒鬼薔薇聖斗」神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)は、1997年(平成9年)2月から5月にかけて兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件(少年犯罪)である。
中学3年生の男子生徒が相次いで小学生5人を殺傷し2人が死亡、2人が重軽傷を負った[5]。男子生徒は酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗り犯行声明を出したことから、酒鬼薔薇事件、酒鬼薔薇聖斗事件とも呼ばれる。
神戸家庭裁判所へ送致され[7]、井垣康弘裁判官の決定により関東医療少年院へ長期収容されたが[8]、関東地方更生保護委員会から「約6年半の矯正教育により、事件の要因となった性的サディズムなどは改善され、再犯のおそれはなくなった」と判断されたため、逮捕から約6年9か月後の2004年(平成16年)3月10日に仮退院を認められ、社会復帰した[9]。
「母に対して否定的な感情を抱いたのは、母が彼を捨てたからではなく、逆に、彼に積極的に介入したからである。」(P.59)
覗き見られたい人
「「透明な存在」とは、他者たちの視線が及んでいないものという意味である。」(P.59)
「Nにとっては、まなざしが地獄であった。Aにとっては、逆に、まなざしの不在が地獄なのだ。」(P.60)
「このことは、Aにとって殺人そのものが目的だったことを示している。」(P.60)
「Nは、覗く人であった。対して、Aは、(顔=深淵によって)覗き見られる人、覗き見られていることを実感したい人なのだ。」(P.64)
本名=本命
「言語哲学の有力説によれば、名前(固有名)は、決して(それによって指示される個体の)性質についての記述に還元されえない。」(P.65)
「理由は簡単だ。これら諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だからである。」(P.65)__アイデンティティ。これが違うんだ。性質の記述でしか表し得ないのだ。性質(述語)がなければ、存在とは呼べないのに、そこに「なにか」を見つけたいと思うことこそが西欧的な自我なのだ。東洋に自我があったとしても、それはそんな性質のものではない。むしろ「性質」も「固有名」もない・なくなるのを目指すのが東洋だ。
(Aの詩「懲役十三年」)「そして、「魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけなければならない」と警告する。」(P.66)
「この魔物は、バモイドオキ神と同じものではないか。そうであるとすれば、バモイドオキ神は、Nの都市のまなざしとは対象的に、圧倒的な近さにおいて つまり身体の内側から Aを規定するのであって、外的な超越性をほとんど帯びていない。」(P.66)
二事件対照
2 虚構の時代
新人類
「代わって、現実を秩序づける反秩序の中心的なモードが虚構であるような時代が到来する。この時代を代表する精神を理念的に単純化してしまえば、現実すらも、言語や記号によって枠づけられ、構造化されている一種の虚構と見なし、数ある虚構の中で相対化してしまう態度によって特徴づけられるだろう。たとえば、一九七〇年代末期から一九八〇年代中盤の時期に「新人類」という語によって指示されたことがあった(この語が生まれたのは、一九八四年である)。」(P.68)
家族ゲーム
「こうして、この映画は、家族の自然であるべき関係を、虚構の暫定的な関係の方へと向けて相対化する。」(P.70)
「しかし、見田が述べているように、この時代、ほとんどの家族が、実際に、この映画のように、互いの視線を交らわせることなく、並行させたまま食事をとっているのである。その並行した視線が収斂する地点には、虚構のボックス、すなわちテレビがある。」(P.70)
東京ディズニーランド
「東京ディズニーランドが開園したのは、一九八三年である。」(P.71)
3 理想から虚構へ、そしてさらに・・・
理想の時代の果て
「理想の時代の末期に現れたのが、一九六〇年代末の全共闘運動である。」(P.74)
「全共闘運動に参加した若者たちがめざした理想は、(FF)しかし、具体的・実質的な内容をほとんどもっていなかった。それは、ただ、従来の権威、従来の理想を否定するということ以外の内容をもってはいない。理想の否定だけが理想であるとするならば、この運動は、理想の時代の末期的な症状であると見なさざるをえない。」(P.74+75)
二つの冒険譚
「虚構の時代を代表する小説家をひとり挙げるとすれば、村上春樹こそ相応しい。村上の最初の長編小説『風の歌を聴け』(講談社)が発表されたのは、一九七〇年のことである。ここで注目しておきたいことは、虚構の時代の作家である村上春樹が、理想の時代に対してもっている(FF)両義的な関係である。」(P.75-76)
フットボールとピンボール
「要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接バトンを受けとるように小説を書き、三島の作品の内に孕まれていた可能性を徹底させることで、理想から虚構への移行を果たしているのだ。」(P.77)
「『羊をめぐる冒険』よりも前の村上の長編小説『一九七三年のピンボール』(講談社、一九八〇(FF)年)は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』(講談社)のパロディである。」(P.77-78)
「三島/大江から村上へと繋がれるこうした関係を概観したときに、導かれてくる仮説は、次のようなものである。理想の時代から虚構の時代への転換は、単純に前者を拒絶し、否定することによってではなく、前者を駆動させていた原理を徹底させることを通じてこそもたらされているということ、これである。理想の時代は、自己否定を通じて、虚構の時代として再生しているのではないか。」(P.79)
コピーライターの階級闘争
「虚構の時代として特徴づけられた現代社会を、別の用語で言い換えれば、「消費社会」ということになるだろう。消費社会では、商品は、ときに有用性からはまったく独立した、情報的差異を通じて消費される。商品は、使用価値(現実)ではなく、一種の情報的な差異(虚構)の領域に定位されるのだ。」(P.79)
超虚構化
「すなわち、虚構の時代に内在している傾向性の純化や徹底化が、やがて、虚構の時代そのものを否定へと導いているのではないか。」(P.81)
「だが、このようにしてセックスの危険な側面を完全に除去したとす(FF)れば、われわれは、同時に、セックスの極限的な快楽、セックスの興奮をも失うに違いない。セックスが人を興奮させるのは、それが、死を垣間見せるような暴力性・危険性と接しているからである。結局、セーフティ・セックスは、セックスをセックスたらしめていた本性を抜き去ったセックス、セックスを「現実」たらしめていた何かを失ったセックスになるはずだ。それは、ほとんど虚構の中のセックスと変わらない。実際、究極のセーフティ・セックスは仮想現実の中でセックスを体験することだ。それは、たとえば「エロゲー」「ギャルゲー」あるいは「美少女ゲーム」等という名で呼ばれている、「危険抜きの恋愛」「恋愛抜きの恋愛」のゲームの形で、実際に、具現化されてもいる。」(P.81-82)__理念としての・非行為、精神としての(プラトニック)・非肉体、データ・非存在としてのセックス。
「スラヴォイ・ジジェクは、こうした製品の代表例として、カフェイン抜きのコーヒーを挙げている( Žižek, For They Know Not What They Do )。類似の例はいくつも見つかる。ノンアルコールのビール、脂肪抜きのクリームやミルク・・・。こうした系列の極限には、麻薬抜きの麻薬があるはずだ。」(P.82)__『為すところを知らざればなり』
(「信仰抜きの信仰」)「多文化主義は、カフェイン抜きのコーヒーの思想版なのである。」(P.83)
「一方では、準拠点の「反」現実(FF)度が次第に高まっていくというこれまでの傾向に反するかのように、「現実」への回帰、「現実の中の現実」への回帰が見られる。他方では、虚構の時代に胚胎していた傾向が限度を越えて強化され、現実に現実らしさを与える暴力性・危険性を徹底的に抜き取り、現実の相対的な虚構化を推し進めるような力学が強烈に作用している。」(P.83-84)
Ⅲ オタクという謎
1 オタクという現象
オタク
「ちなみに、一九八三年は、東京ディズニーランドが開園した年であり、(FF)任天堂のファミコンが発売された年であり、また、浅田彰の『構造と力』(勁草書房)や中沢新一の『チベットのモーツァルト』〈せりか書房〉が出版された年であった。一九八三年に「オタク」が発見されたということは、オタクは、それより少し前、つまり一九七〇年代末期から一九八〇年代のごく初頭を起源としている、と考えるのが妥当であろう。さらに、付け加えておけば、「おたく」という語が、一般に定着したのは、一九八九年に、連続幼女殺人事件の犯人Mのことが広く知られるようになったときである。Mが「オタク」の典型とみなされたのだ。だが、M自身は、「おたく」という語を知らなかった。つまり、あの段階では、この語はまだほとんど知られていなかったのだ。」(P.86-87)
「オタクを専門家や一般の趣味人から区別する特徴は、意味の重さと情報の密度の間の極端な不均衡である。一般には、意味の重さと情報の密度との間には、比例的な関係がある。要するに、有意味なことだから情報が集積されるのである。だが、オタクに関しては、こうした法則が成り立たない。情報は、有意味性への参照を欠いたまま、つまり意味へとつながる臍の緒をもたないまま、それ自体として追求され、集められていくのである。ある事柄の(FF)「意味」は、常に、より包括的なコンテクスト、外界のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して、「情報」はそうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。」(P.87-88)__情報としての「検索」は、それ以外との結びつきを求められない。意味とはなんだろう。精神と外界とのつながりのことか。私がずるいのは、この本が出版されたあとの15年を知っていることである。
精選版 日本国語大辞典 「意味」の意味・読み・例文・類語
い‐み【意味】
〘 名詞 〙
① ( ━する ) 物事の、深みのある趣。含蓄のある味。また、それを味わうこと。
[初出の実例]「半畝荒園疎二野菜一、只無三意味敵二清閑一」(出典:艸山集(1674)二一・遊向陽寮以戸庭無塵雑虚室有余閑賦詩得閑字・四)
「所詮家暮(やぼ)なる内にはやく遊を止て、〈略〉されば此里に来ぬが通者なりといひけん金言を意味すべし」(出典:随筆・麓の色(1768)四)
[その他の文献]〔楊載‐敗裘詩〕
② ( ━する ) 言語、作品、行為など、なんらかの表現によって示される内容。また、ある表現が、ある物事の内容を表わし示すこと。
[初出の実例]「人を木馬にしてのればたがいにそのいみをのみこむ事はやしとて」(出典:黄表紙・鸚鵡返文武二道(1789))
「その金を受取ることに依って、辞職を意味するなんて」(出典:海に生くる人々(1926)〈葉山嘉樹〉一三)
③ 言語、作品、行為など、なんらかの表現によって示される意図・目的。また、表現される動機としてもつ原因、表現の背後にある理由。
[初出の実例]「医学生の群は互に顔を見合せて、意味もなく笑ひました」(出典:爺(1903)〈島崎藤村〉)
「いや、廃(よ)さう。さうしては、なんだか意味(イミ)があるやうで可笑(をか)しい」(出典:青年(1910‐11)〈森鴎外〉二四)
④ 物事が他との関係において持っている価値・重要性。「意味のある仕事」
[初出の実例]「『露西亜(ロシヤ)征伐』に於て初て彼は生活の意味(イミ)を得た〈略〉」(出典:号外(1906)〈国木田独歩〉)
「ついでに指摘しておけば、1,980年代初頭の若者とは、1,960年前後に生まれたコーホートであることを意味する。これは、メディア論的には、注目しておいてよい事実である。というのも、これは、日本では、「生まれたときにテレビがあった あるいは少なくともテレビがない家庭についての記憶がない 最初の世代」にあたるからである。テレビがわが家に入った日のことを記憶しているような世代は、オタクにはならない。
オタクは、「虚構の時代」の只中で、この時代の申し子として生まれた。そのうえで、「虚構の時代」からそれ以降の時代への、つまり現代への転換期の中で流行し、その数を増やしたきた。」(P.88)
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コーホート」の意味・わかりやすい解説
コーホート
cohort
統計上の概念で,ある一定期間内に生れた人の集団をいう。たとえばある年における 30~39歳という同一年齢グループの職種構成を調べたとき,10年後にはこのグループの年齢は 40~49歳になる。この2期間にわたる「30~39歳」と「40~49歳」のデータを比較することで同一年齢グループの 10年後の構成の変化を知ることができる。 10年後のデータとして「30~39歳」を用いると,このグループは 10年前には「20~29歳」グループであり,同一年齢グループでの比較ではない。この同一年齢グループのことをコーホートという。横断面での年齢別賃金調査を時系列で観測すれば,コーホートを用いることで同一年齢グループの平均賃金の推移をみることができるのも,その応用例の一つである。
閉じられた個室
(森川嘉一郎『趣都の誕生』)「森川の独創性は、オタクの街として知られている秋葉原が、オタクの個室がそれ自体都市空間へと拡張したものであるとする指摘にある。」(P.90)
オタク前史
何が賭けられているのか
「鉄道が多くの人を惹きつけた理由はどこにあるのか?近代の前半にあっては、鉄道は、人々を、彼らが生まれ育った土俗的な共同性から解放する、ほとんど唯一の媒体だったからではないか。」(P.92)
「国鉄の延びた先に、首都が、国民国家の領土が、さらには世界が、開けているのを想像することができ、それゆえにこそ、鉄道はロマンチックな幻想をかき立てたのである。」(P.92)
「しかし、その特殊な領域を通じて、包括的な普遍性が分節されているのである。真に欲望されているのは、普遍性である。普遍性が、そのまったき反対物として現象することで、直接の欲望の対象となること、このことこそが、オタクの神秘の核心ではないか。」(P.94)__アクリルスタンドにアイドルを見ること、と共通していると思う。文字がテクストとなったことの延長なのだ。
2 アイロニカルな没入
物語消費
「若者たちの歴史への情熱は、現実の歴史、現実の戦後史にではなく、このような虚構の歴史に向けられてきたのである。」(P.96)
データベース消費
「九〇年代、メディアコミックスの手法がオタク系市場の中心になると、諸企画を統一させる根拠は、作品(原作)よりもキャラクター(登場人物)になってくる。消費者の関心も、作品だけでなく、あるいは作品以上にキャラクターに向けられる。そのキャラクターが、オタクたちによって、作品や企画を超えてすべてデータベースに整理されていくのだ。その際、重要なことは、キャラクターが、「萌え要素」に分解されるということである。」(P.97)__スピンオフなど。作品ではなく、登場人物や、演じた役者へ。「モーニング娘。」ではなく、個々の女の子へ。SMAPではなくキムタクへ。「女の子の可愛らしさ」を知るために、部分を見ようとする。そんなものはないのに。
「こうした「大きな物語」をも包括する、より大きな物語とは、結局、原理的には、任意の物語をその内部に含み、任意の物語をそこからの派生物と見なし得るような、メタ物語的な領域でなくてはなるまい。「データベース」とは、このような「メタ物語的な領域」として機能する、超包括的な「物語」ではないだろうか。あまりに包括的なコンテクストを取ったときには、必然的に、その内部の諸要素の間の強い連関性は失われる。つまり、「メタ物語的な領域」と呼んだのは、包括的に過ぎて、物語的な連関性を失った物語、物語としての外観を喪失してしまった物語なのではないか。だから、それは、要素の単なる集合、つまりデータベースとして現れるのである。(FF)
要するに、データベース構築への情熱を支えているのは、そこから任意の物語を派生させることができるような、普遍的な物語の収蔵庫への欲望なのだ。」(P.98-99)
反転
「単に自覚しているどころか、むしろ彼らは、まさにそれが限定的・特殊的であることを承認し、積極的に肯定してさえいる。にもかかわらず、他方では、オタクにとっては、それを通じて、普遍的な世界が分節されてもいるのだ。」(P.100)
「そうした世界は、定義上、それ以上の外をもたない包括的な領域でなくてはならない(外部があるとすれば、その世界は、普遍的な領域ではないことになるのだから)。」(P.100)
「有意味政は、常に、「それ以上のコンテクスト」を背景にすることで、弁証される。だが、オタクたちが関心を示している、アニメならアニメ、ゲームならゲームといった特定の領域が、すでに普遍的な世界、ひとつの宇宙であるとすれば、彼らにとっては、より包括的なコンテクストはあってはならないし、またあるはずもない。つまりは、外へと通ずる窓はないのだ。こうして、外部の包括的なコンテクストへの一切の参照を欠いたまま、内部の情報を徹底して精査しようとする欲望だけが、無限に展開することになる。
この文脈で、オタクは、自分たち自身について語りたがる傾向があるということ、オタク自身の「歴史」に強い関心をもっていること、こうした事実に注目しておいてもよいだろう。」(P.101)
「端的に言えば、多くのオタクは、個々の主題領域に関してだけではなく、オタクという現象自身についてのオタクである。」(P.102)
相対主義
「だが、虚構を現実と見なしてはいないが、逆に、現実を、虚構として、虚構と権利上異ならないものとして感覚する感受性は、オタクの特徴である。」(P.102)
「それぞれの特殊な世界を律する規範や価値は、包括的で普遍的な領域の内部で相対化されてしまうのだ。」(P.103)
「このような相対主義的なアイロニズムは、さしあたっては、「第三者の審級」の「徹底した不可視化」を伴っている。第三者の審級とは、規範の妥当性を担保する超越的な他者である。もともと、近代社会は、第三者の審級の抽象化・不可視化を通じて、実現される。だが、近代社会にあっては、まさに抽象的であるということ、そのことによってこそ、第三者の審級は、その実在性を強化してきた パノプティコンの監視人が「不可視」であることによって、かえって実在的であったように。だが、近代を律する現実、近代的な価値をも相対化するオタクは、そのような抽象化された第三者の審級をも斥けなくてはならない。」(P.103)__抽象的なものの「幻想」に気づいているとも、そのための諦めとも思える。「私とおたく」が対等だという幻想にも。
カザノヴァ男爵の醜態
「彼らに、いくら、「あれは虚構に過ぎない」と主張しても意味はない。彼らは、それをよく知っているからである。」(P.105)
詐欺にひっかかる詐欺師
「ここで注意しておかなくてはならないことは、カザノヴァの喜劇の中で、雷が二重の機能を果たしている、ということである。一方で、それは、生の〈現実〉の断片、意味付けを欠いた純粋な偶然の出来事である。だが、他方で、カザノヴァが驚いて「魔法の円」の中に飛び込んで(FF)いるときには、すでに「天罰」である。」(P.107-108)
「つまり、虚構へとアイロニカルに没入するということは、一旦は退出しかけた あるいは徹底的に不可視化した 第三者の審級を、より一層強力で、具象的なものとして回帰させる方法となっているのではないだろうか。」(P.108)
「さきに、オタクにおいて、普遍性が特殊性へと反転する、と述べた。この項で見出したもうひとつの逆説、もうひとつの反転は、アイロニカルな距離化から、絶対化する没入への、急転直下の転換である。あるいは、第三者の審級を徹底して抽象化し、不可視化したとき、それが、具象的で内在的な他者として、突如として回帰してくるという、逆説である。」(P.109)__抽象的で具象的なもの、つまり「価値」と「使用価値」を持つ商品の中で生きているということではないか。片方が片方を隠す関係である。使用価値を見ているときには価値を水、価値を見るときには使用価値は見えない。値札と商品。値札と財布。もともと比べることができないものだ。
3 社会性と非社会性
社会性と非社会性
「彼らは、(近代)読書の基本的なイメージを、つまり「孤独な内的な営み」というイメージを破っているのだ。このように、オタクは、一方では、孤立しようとし、他方では、他者との接触を欲望している。」(P.110)__テレビとしか接触の機会がないとき、接触の方法は「空想」か「暴力的」である。
「ところで、他者の他者たる所以は、差異性にこそある。他者についての経験は、何であれ、差異をめぐる経験である。そうであるとすれば、オタクが欲求している他者とは、他者性を抜き取った他者である。」(P.110)__一般的な(親や教師がいうような)社会的関係ではない関係を求める。その関係はテレビが提示する。ごく一部の人のことを「ブーム」「トレンド」といって商品に結びつける。
「オタクは、自身と類似している限りでの他者との交流や連帯を求め、自身との差異を際立たせるような他者からは撤退しようとしているのだ。」(P.111)__自尊心。自分を「特別」だと認めること。「自己承認」「自己受容」は、「他者とは違う自分」でなければならないから。西洋と違い、アイデンティティ同士の間に「愛」は発生しない。
ギョーカイからの転態
「マスコミ・ギョーカイとは、シロウトたちを上から見下ろし、社会全体を見通すことができる普遍的で超越的な視点が帰属する場所である。」(P.113)
身体から
「彼の性器への嫌悪は、自分自身の陰部への嫌悪の移転によって理解することができる。オタクたちの共感を呼んだ、Mのオタク的な感性は、このような身体の具体性に対する、極度な嫌悪に原点をもっているのではないか。」(P.116)
身体へ
「身体からの逃避が身体への過剰な欲望へと転化したのだ。」(P.117)
「オタク的な虚構の最も中心的なジャンルが、ポルノグラフィ しばしば「記号化された身体」へのロリコン的な欲望 であることを考えたらどうか。」(P.118)
「いかにして身体からの逃走と身体への回帰が、同一線上に並ぶことができるのか?問題を解く鍵は、身体の問題は他者性の問題でもある、ということである。」(P.118)
注「(2)無論、すでに、多くの歴史家たちが論じてきたように、近代以前の読書は、むしろ共同的なものであった。読書が孤立や孤独を暗示するようになったのは、黙読が一般化した近代以降のことである。」(P.119)
(3)「オタクたちの「趣味」は、しばしば、あまりに特化された主題に偏しているがために、周囲に同じ趣味の仲間を見出すことが難しい。クイズ番組を通じて、自分と同じことを好む仲間がいたことを知り、そのことを喜んでいるのだ。だから、インターネットの普及は、オタクたちにとっては、たいへんな朗報だった。」(P.120)
(4)(『なんとなく、クリスタル』)「ノーマ・フィールドが指摘したように、慇懃無礼な文体によって、注の語り手が、本文の登場人物に対してアイロニカルな距離によって隔てられていること、優越的な位置にあることが強調されているのである(フィールド「『なんとなく、クリスタル』とポストモダニズムの徴候」).」(P.120)
Ⅳ リスク社会再論
1 二つの「下流」
格差論争
ダルンデンヌ兄弟の『 L'Enfant 』(邦題『ある子供』)
山崎貴『ALWAS三丁目の夕日』
理想の時代から遠く離れて
「『 L'Enfant 』が描く現在 ヨーロッパをはじめとする「先進国」の現在 に対しては、そこから眺めたときに、来たるべき救済が立ち現れて見えてくるような視座が欠けている。どのような角度から(FF)眺めても、そこに救済への手がかりや予兆を見ることができない。だから、その現状を描く映画に、どんな救済の場面を付加しても、嘘っぽいものにならざるをえず、ドキュメンタリー・タッチのリアリズムを裏切ってしまうのだ。」(P.126-127)
「それに対して、昭和三〇年代には、下層の悲惨のうちに、到来すべき救済を見ることができるような視点が存在しており、当時を生きた者たちは、そうした視点を我が物にしつつ、自らの下流的な現実を生きていた、とわれわれは(半ば幻想的に)想定できるのである。」(P.127)
「無論、そのような視点が見ているはずのもの、そのような視点に対して立ち現れていること、それこそ、理想の時代の「理想」にほかならない。」(P.127)
「東京タワーの、この高みへの伸長が、やがて実現するはずの「理想」への前進を暗示してはいないか。」(P.127)
「こうして、二つの下層は、まったく異なった様相を呈することになる。下層を真に過酷なものにするのは、その物質的な現状そのものではなく、それをとらえる視点の(不)可能性である。そして、「格差社会の到来」という不吉な時代診断に説得力をあたえているのは、格差という現状そのものではなく、来たるべき救済を読み取りうる視点の不在である。われわれの現在は、理想の時代から遠く隔たったところにある。」(P.128)
2 リスク社会とは何か
リスク社会論
「どの視点から捉えても、「救済」や「希望」の可能性を見出すことができない社会システム、このような社会システムを分析するための概念が、社会学にはすでに準備されている。ウルリヒ・ベックによって提唱され、アンソニー・ギデンズやニクラス・ルーマン等によって引き継がれた、「リスク社会」なる概念が、それである。リスク社会とは、環境問題やテロのような社会的レベルから、家族崩壊や失業のような個人的レベルまでの、さまざまなリスクの可能性にとりつかれた社会である。」(P.128)
「そのことを理解するためには、リスク risk と危険 danger との相違を把握しておかなくてはならない。ルーマンがとりわけ強調していることだが、リスクは、選択・決定との相関でのみ現れる。リスクは、選択・決定にともなう不確実性(の認知)に関連しているのだ。リスクとは、何ごとかを選択したときに、それに伴って生じると認知された 不確実な 損害のことなのである。それゆえ、地震や旱魃のような天災、突然外から襲ってくる敵、(民衆にとっての)暴政などは、リスクではない。それらは、自らの選択の帰結とは認識されていないからである。とすれば、リスクが一般化するのは、少なくとも近代以降だということになる。社会秩序を律する規範やその環境が、人間の選択の産物であるとの自覚が確立した後でなければ、そもそも、リスクが現れようがないからである。
だから、リスクの一般化は、アンソニー・ギデンズが近代の本質的な特徴として挙げている(FF)「再帰性 reflexivity 」を必要条件としている。どのような行為も規範を前提にしている。ギデンズによれば、近代社会においては、その規範への反省的・再帰的な態度が浸透し、常態化している。すなわち、規範を「変えることができる/変えるべきである」との自覚を前提にして規範が不断にモニタリングされ、修正や調整がほどこされるのが、近代社会である。」(P.129-130)__確率論。自由意志。時代を分けて考えることは単純化・分析主義ではなく、①普遍性に疑問を持つこと、②・・・。雨や狩りの成功を予想することと、変革を望むこと。変革には「より良い」という期待がある。現在を「より悪い」と考えると、過去か未来が「より良い」ものだということになる。
「実際、「リスク」という語は、近代社会になってから出現した語であり、その語源は、イタリア語の「 risicare 」らしい。このイタリア語は「勇気を持って試みる」という意味であり、選択や決断ということとリスクとのつながりが暗示されている。」(P.130)
「リスク社会のリスクには、二つの顕著な特徴がある。第一に、予想され、危惧されているリスクは、しばしば、きわめて大きく、破壊的な結果をもたらす。」(P.131)
「第二に、このようなリスクが生じうる確率は、一般に非常に低いか、あるいは計算不能である。」(P.131)
「つまり、リスクがもたらす損害は、計り知れないほどに大きいが、実際にそれが起こる確率は、きわめて小さい(と考えないわけにはいかない)。それゆえ、損害の予想(確率論でいうところの期待値)に関して、人は、互いに相殺し合うような分裂した感覚をもたざるをえない。」(P.131)__経済的損失(価値)と人命(使用価値)とを比較せざるをえない。それぞれに「社会的」「個人的」という分裂が内蔵されている。それらはどれも一致しない。「社会」は「観念」だから。「個人」も「自分」を抽象化したものである。ものからはなれて(つまり使用せずに)使用価値がないことは、質料をはなれてエイドスがないのと同じである。
「システムの再帰性の水準が上昇し、システムにとって与件とみなされるべき条件が極小化してきた段階の社会である。このとき、ときに皮肉な結果に立ち会うことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化学燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合は、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体、新たなリスクでもある。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである。」(P.132)__その時、なぜ電力が必要なのか、なぜテロが起こるのはは問われない。石油やウランやテロリストは、内的なものではない。いくら原発が安全だとしても、電気の作成には、諸外国の資源や労力や犠牲が伴っているのだ。もちろんテロも。
倫理の転換、民主主義の危機
「だが、リスク社会のリスクを回避するためには、中庸の選択は無意味である。中庸が最も価値が低く、選択は両極のいずれかでなければならない。」(P.132)
「普遍的な真理や正義があるとすれば、それは、理性的な人間のすべてが合意するはずなのだから、多数派が支持する意見こそ、正義や真理を最も近似しているに違いない、と。つまり、民主的な決定は、多様に分散する諸意見の中から、多数派の見解が集中する平均・中間を真理や正義の代用品として用いるのだ。だが、述べてきたように、リスクへの対応においては、平均や中間は無意味である。半数前後の者が反対する極端な選択肢を採らなくてはならないのだ。」(P.133)__Nota Bene!! よくわかんないけど。
「時間をかけて討論すればするほど、見解はむしろ分散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向がある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、もつことができない。さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏づけをもっているとの幻想ももつことができない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛翔によってしか成し遂げられないのだ。」(P.135)
「第三者の審級」の撤退
「実際、われわれの生活をあらかじめ規定してしまう、伝統的な規範やコスモロジーが深く信頼されていれば、リスクは出現しない。」(P.136)
「自由市場においては、諸個人は、自分自身の利害のみを考慮して、自由に選択することが許されている。すべての市場参加者は、自らの利潤や効用の極大化を目指して行動することができるのだ。だが、市場経済の「理論」が教えるところによれば、 諸個人の利害は互いに葛藤しているにもかかわらず こうした諸個人の行動の集積を通じて、均衡価格が成立し、財の ある意味での 最適な分配が実現する。諸個人の自らの利害しか想定しない、局所的な自由で合理的な選択が、結果として、市場全体の合理性をもたらすのである。」(P.137)
「全知の神は、すでに結論を出しているが、人間は、原理的にそれを知ることができないので、結局、自らの自由意志で個々の行為を選択していくしかない。が、まさに、そうした個人的な選択こそが、あらかじめすべてを見通していた神が既定していたことに合致しているのであり、そのことが明らかになるのは、歴史の最後の日 最後の審判のとき なのである。
これらの例では、すべて、あるタイプの「第三者の審級」(見えざる手、理性、予定説の神)が前提にされている。その第三者の「本質」に関しては、不確実で、原理的に未知であり、それゆえ空虚である。すなわち、人は、その第三者の審級が何者であるのか、何を欲する者なのか、何を意思しているのかということに関して、あらかじめ知ることはできない。だが、その第三者の審級の「実存」に関しては、確実であり、充実している。」(P.138)
「リスク社会とは、「本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である」といえるような第三者の審級を喪失することなのである。第三者の審級が、本質においてのみならず、実存に関して空虚化したとき、リスク社会がやってくる。たとえば、先に、リスクをめぐる科学的な討論が通説へと収束せず、人類が真理へと漸近しているという実感をもつことが困難になっている、と述べた。」(P.139)__「なぜ」は実在していたが、それを問う不可能性。
「つまり、われわれは、今や、第三者の審級の意志がわからないだけではない。そもそも、第三者の審級が存在していないかもしれない、との懐疑を払拭することができないのだ。第三者の審級が、二重の意味で空虚化し、真に撤退した社会こそが、リスク社会である。リスク社会が、近代一般(第三者の審級の本質が空虚になる段階)ではなく、後期近代に対応する所以は、ここにある」(P.139)
3 自由は萎える
自由への命令、快楽の強制
「リスク社会では、人は、真の自己選択・自己責任が強制される。」(P.140)
「もはや私の選択を再帰属させ、最終的に責任(FF)を取ってくれる、超越的な他者が存在しない。とすれば、私の選択は、ただ単純に私に帰属する。」(P.140-141)__〈まなざし〉眼から視線が飛び出していって、対象を掴んで持って来るのです。だから「何をどのように見る」かということは「主体(主観)」に属するものでした。「正しく見る」ことは「間違ったものを見ない」ことと同様に、大切なことだったのです。子どもを「守る」あるいは「さべつする」必要性。選択を守る必要性。
「先験的選択もまた、強制された選択である。」(P.141)__サルトル「自由の牢獄」。
「入会の宣誓を行うということは、その会に対して君臨するような第三者の審級の作用圏に入るということを意味しているのだ。」(P.142)
「かつて、自由とは、第一義的には規範からの自由であった。言い換えれば、規範は、第一義的には禁止であった。そして、快楽は、規範への侵犯の内に宿るものであった。たとえば、婚(FF)姻前の性交は、禁止されていることによって、快楽の度合いを高めたのである。だが、今や、こうした古典的な関係が逆転してしまった。自由そのものが規範化されてしまっているからである。そして、まさに規範と合致したその自由の行使が、快楽そのものでなくてはならないからである。」(P.142-143)__快楽は侵犯の内にあったのではない。婚前交渉が禁止されたのは「家」への侵犯としてであり、形式的なものであった。「夜這い」は戦後も行われていた。それは共同体に属することがらであった。
インフォームド・コンセントのような
「インフォームド・コンセントが求められるのは、今や、医者でさえも、「真理」を知らず、適切な処置に確信をもっていないからである。つまり、ここでは、第三者の審級が機能してはいない。そのために、患者の自己決定が義務化されるのだ。」(P.143)__『コード・ブルー』など、他者が判断する場合を描く。
「倫理委員会が個別の課題が浮上するたびに組織されなくてはならない理由は、インフォームド・コンセントが必要になる理由と同じである。何が妥当かを知っているはずの超越的な他者の存在を想定できない以上は、「われわれ」が自己決定するほかない、というわけである。」(P.144)__ジャニーズ、フジテレビ。取締役会の決定が、会社の決定とはならない。株式という制度。株主の非決定。決定権の譲渡。倫理委員会や第三者委員会の決定とは何か。第三者の決定に委ねることで、会社が守られる?
(Wikipedia)「このような百科事典が可能なのは、知的権威を集中的に帯びている超越的な他者がいないからである。そのような他者を当てにできないのならば、「われわれ」が自分で事典を編集するしかない、というわけである。」(P.144)
「ネットについての知とは、ネットの中にどのようなサイトがあるのか、どのサイトが重要かという情報である。」(P.145)__索引、インデックス。検索サイト。
不可解な罪責感
「第三者の審級が裏口から回帰していることを証拠だてる事実のひとつは、現代社会における独特の「カリスマ」たち とりわけ若者にとっての「カリスマ」たち のイメージである。ここで念頭においているのは、たとえばビル・ゲイツやホリエモン(堀江貴文)のような人物の社会的イメージだ。彼らが、若者たちのロール・モデルになるのは、まさに、労働を快楽としているように見えるからだ。彼らは、まるで遊ぶかのように働いている(ように見える)のである。
こうしたカリスマたちが、超越性を否定する超越性 第三者の審級が退出した後に回帰し(FF)てきた第三者の審級 であることを示しているのは、彼らが、一般の第三者の審級にとっては障害になるような条件をこそ駆動力として、その超越性(カリスマ性)を保持しているという事実である。」(P.147-148)
「彼らは、われわれとよく似た俗っぽい欲望にまみれた、欠点の多い人間として、自己を提示している。そして、この事実は、彼らのカリスマ性に対して逆接しているのではなくて、むしろ順接しているのだ。」(P.148)
「しかし、やがて「民主的」とされるそうした集計結果が、ネットそのものの現実とは自律した、「ネットの意志」と見なされ、ネットの世界に神のように君臨するようになる。グーグルのページランク・アルゴリズムの詳細は、公開されていない。しかし、それに基づく検索結果を、ユーザーたちは、ネットの意志として受け入れざるをえないかのように感受するのだ。」(P.149)
監視社会
「今日、われわれは、強烈に安全を求めている。とりわけ、宗教テロ、動機が不可解な犯罪(FF)者、あるいは外国人窃盗団等の可能性を知った、一九九〇年代の末以降、われわれはセキュリティの確保や強化に強い関心を抱いてきた。」(P.149-150)
「だが、他方で、こうした監視網は、われわれのプライバシーへの重大な脅威、自由を制限する危険性とも見なされている。」(P.150)
「われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に、他者に われわれを常時監視しうる「超越的」ともいうべき他者に まなざされていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者のまなざしがどこにもないかもしれないということにこそ不安を覚えているのではないだろうか。私生活をただ映すだけのサイトや、「ブログ」のような私的な日記を公開するサイトが流行る理由も、こうした欲望や不安を前提にしないと説明できまい。」(P.151)__このブログ。
「監視は、今や、自由を制限する以上に、自由を奨励している。自由の奨励は、しかし、自由にとって、制限よりももっと大きな脅威である。」(P.152)
Ⅴ 不可能性の時代
1 不可能性の時代
問題の再整理
「一方では、準拠点の「反」現実度が次第に高まっていくという、戦後史のこれまでの傾向に反するかのように、「現実」への回帰、「現実の中の現実」への回避が見られる。他方では、虚構の時代に胚胎していた傾向が限度を越えて強化され、現実に現実らしさを与える暴力性・危険性を徹底的に抜き取り、現実の総体的な虚構化を推し進めるような力学が強烈に作用している。現実への回帰と虚構への耽溺という二種類のベクトルの中で、虚構の時代は引き裂かれることで、消え去ってきた。次章で詳しく論じるように、思想的には、前者が原理主義、後者がリベラルな多文化主義に、それぞれ対応してると言えるだろう。」(P.156-157)
多重人格
「しかし、多重人格に関してならば、その気になれば、すべて数えることが可能だとさえ思われたほどに、二〇世紀中盤までは、多重人格は稀な病だったのである。」(P.159)
「なぜ、人格は多重化するのだろうか?というより、純粋に論理的に考えるならば、一般には、なぜ人格が解離せずに統一的なままに留まっているのか、ということの方が不思議なことである。」(P.160)__アイデンティティ。
「これらの同一性とは、その都度の状況において私が纏う「仮面」であり、それゆえ「構築されたもの=虚構」である。多重人格者は、むしろ、こうした条件に、素直に反応しているのである。」(P.161)
「このことは、患者の各人格が、社会的に構築された仮面であることを如実に示している。
この状態を、こんなふうに表現してみたらどうだろうか。すなわち、多重人格においては、ひとつの身体を舞台にして、複数の生活様式 複数の文化 が共存しているのだ、と。つまり、多重人格とは、多文化主義的な共存が、ひとつの身体の上で展開している状態なのである。」(P.161)
偽記憶
「その「現実」が、患者にとって、いかに悲惨で辛いものとして意味づけられていようと、それがあった方がないよりは、患者にはよいからだと考えなければなるまい。患者は、「現実」から逃避しているのではなく、むしろ「現実」を構築し、そこへと逃避していたのだ。」(P.163)
「いや、厳密に言えば、「現実」によって、その「何か」は二重に(FF)隠される それが隠蔽されているという事実そのものも隠蔽されるのだから。」(P.163-164)
「アメリカが唱える「(自国の)犠牲者なき戦争」とは、先にみた「✗✗抜き」の究極の形態、「戦争なしの戦争」ということではないだろうか( Žižek, The Fragile Absolute )。それは、戦争の虚構化である。」(P.164)
不可能性の時代
「偽記憶についての考察が暗示しているように、究極の「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような「現実」がどこかにあるという想定が、何かに対する、つまり〈現実〉に対する最後の隠蔽なのではないか。」(P.165)
「われわれは、現代社会に、一見、矛盾する二つの欲望を見たのであった。一方には、危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。他方には、激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出している。」(P.166)
「そうした矛盾した命題を結論する視差をそのまま肯定しなくてはならない。」(P.166)
「したがって、虚構の時代の後に、現実を秩序づける準拠点となっているのは、この認識と実(FF)践から逃れゆく「不可能なもの」である。すなわち、現代の現実を秩序づけている反現実は、直接には見えていない「不可能性」である。「理想→虚構→不可能性」という順で、基準的な反現実の半現実性の度合いは、さらに高まっているのである。われわれが今、その入口にいる時代は、「不可能性の時代」と呼ぶのが適切だ。」(P.166-167)__「現実」ってなんだろう。
精選版 日本国語大辞典 「現実」の意味・読み・例文・類語
げん‐じつ【現実】
〘 名詞 〙 ( [英語] actuality, reality の訳語 )
① ( 空想、理想などに対して ) 事実として目の前にあらわれているものごとや状態。また、現在、実際に存在していること。〔布令字弁(1868‐72)〕
[初出の実例]「自分は空想の浜から現実(ゲンジツ)の浜に出た」(出典:波の音(1907)〈国木田独歩〉一)
② ( ━する ) 実現すること。
[初出の実例]「光明より流れ出づる趣味を現実(ゲンジツ)せん事を要す」(出典:野分(1907)〈夏目漱石〉五)
研究社 新英和中辞典での「real」の意味
real1
音節re・al 発音記号・読み方/ríː(ə)l, ríəl|ríəl, ríː(ə)l/発音を聞く
形容詞
(more real,most real; real・er,real・est)
1a(名目上・表面的でない)真の,本当の; (まがいでない)本物の,天然の 《★【類語】 real は外見と内容が一致していて偽ものや架空のものではない; true は現実のもの・実際と一致している; actual は実際に存在する》.
a real illness (仮病などに対して)本当の病気.
b(うわべだけでなく)心からの.
I felt real sympathy. 心から同情した.
2(想像・空想でなく)現実の,実際の; 実在する.
real life 実生活.
3a〈描写など〉真に迫った.
His story became real. 彼の話は迫真的になった.
b限定用法の形容詞 [強意的に] まったくの.
a real idiot まったくのばか.
c限定用法の形容詞 たいへんな.
a real accident [problem] 大事件[問題].
4(比較なし) 【法律, 法学】 不動産の (⇔personal,→movable).
⇒real estate.
5(比較なし) 【数学】 実数の (⇔imaginary).
a real number 実数 《有理数と無理数の総称》.
6(比較なし) 【光学】 実像の (⇔virtual).
副詞
(比較なし) 《米口語》 本当に.
a real nice day 本当に天気のよい日.
名詞
[the real] 現実,実体.
名詞としての「real」のイディオムやフレーズ
for réal 《米口語》
【語源】
ラテン語「ものの」の意; 名詞 reality,動詞 realize
ハイパー英語辞書での「real」の意味
real
形容詞
実在する, 真実の, 本当の, 本物の, 現実の, 実際の, 存在感がある
印欧語根
rē- 贈ること・授与することを表す。real, republicなどの由来として、物。
接尾辞
-al …に関する、…の性質の、…に特有の」などの意の形容詞を造る
ハイパー英語辞書での「actual」の意味
actual
形容詞
1(理論上・想像上・未来のことでなく)実際の, 現実に生じた[存在する]
2((まれ))当面の;現行の
3肝心の, 大事な
用例
The actual cost was much higher than we had expected.
印欧語根
ag- 追いやり動かすこと、引っ張ること、動かすことなどを表す印欧語根。重要な派生語は、act, exact, navyなど。
接尾辞
-al 「…に関する、…の性質の、…に特有の」などの意の形容詞を造る
途中遷移語
agere
「すべての規範、すべての文化が対等に共存しているのであれば、それらを全体として通約するような普遍的正義を体現する第三者の審級は、存在してはならないからだ。とはいえ、これは、言ってみれば、表向きの”公式見解”である。実際には、諸規範・諸文化が葛藤を孕まずに共存しうる空間の可能性を保証する。(FF)第三者の審級の存在が、隠された前提になっているのだ。この多文化主義的な状況の隠れた真実を、「現実」への回帰の思考が照らし出す。つまり、隠蔽された第三者の審級を顕在化させる。」(P.168)__「私( A )も正しい、あなた( B、非A )も正しい」といえる第三者。
2 家族の排除
奇妙な心中未遂事件
犯罪における家族否定という主題
「日本では、1990年代への転換期の頃より、十代・二十代の若者による、不可解な犯罪が頻発するようになった。」(P.170)
「この種の「不可解な犯罪」を調べてみると、そこでは、しばしば、家族関係の徹底した否定 ほとんど「排除」と呼んでもよいような強い否定 が、潜在的な主題として随伴している。」(P.171)
(M)「彼は、父や母や妹をただの同居人であって、本当の家族ではないと言い張るようになるのだ。ほんものの家族は、どこか別のところにいる、と。」(P.171)
(酒鬼薔薇)「彼は、幼少時より、母を「魔界の大ま王」と呼んで拒否してきた。父の存在感は、もともと希薄である。」(P.172)
日本型近代家族の崩壊
「女性の労働力率のいわゆるM字が最も深く切り込んでいるのが、七〇年代序盤に結婚した世代、すなわち一九四六−五〇年生のコーホートになるのだ。性別役割分業を指標にとった場合には、近代家族は、一九七〇年代初頭に一般に広く普及したことがわかる。日本において、近代家族が定着・普及する過程は、正確に、理想の時代と重なっていることになる。だが、近代家族は、日本においては、完成するや否や、直ちに崩壊への歩みを開始する。」(P.174)
「「戦争世代/団塊世代」の親子に比べて、「新人類/新人類ジュニア」の親子の格差は、はるかに小さいのだ。つまり、通念に反して、社会意識の変化の速度は次第に鈍化しており、意識の多様度も小さくなってきているのである。」(P.175)
「すると、「家族・男女関係」だけが、突出して、変化率が大きいことが分かるのだ。」(P.175)
「たとえば、今日では、男女子ともに高等教育をうけさせたいという意識が高まっているが、それは、男女が、成人後ともに仕事に就くことを念頭においた選択であろう。」(P.176)
(見田宗介)「「自由」や「平等」は、もともと近代が提起した理念である。むしろ、「豊かな社会」において、近代の沸騰期が内包していた矛盾が解凍し、その原的な理念が実現を見ようとしている、その一環として「自由」「平等」の理念に反する家父長制的関係が衰えつつあるというわけである。」(P.176)
関係の直接性
「すべての人類社会は家族をもっている。誰もが、家族(定位家族)の中に生まれ落ち、一定の段階まで、そこで教育される。誰にとっても、それぞれの家族は、そこに内属すべく、与えられた関係である。言い換えれば、誰にとっても、家族は 選びようのない 必然として体験されるのだ。ところが、しかし、二〇世紀末期以降の、先にみたような若者たちの奇妙な犯罪が示しているのは、家族関係の「偶有化」とでも呼ぶべき感覚である。具有性とは、「他でもありえた」ということであり、必然性と不可能性の双方の否定によって定義できる様相だ。家族が殺されなければならなかった理由については後述するが、この段階でまず言いうることは、あの若者たちにとって、自らの与えられた家族が、必然とは感じられていない、ということである。」(P.177)__民族によって、文化によって異なる。「より良い家族(親)」「可能性としての理想の家族」を考えている(テレビや本で見ている)のではないか。
「家族の内的関係が偶有的なものとして現れてくるということは、別の関係が必然的なものとして現れているからである。(FF)それが、自分にとって、家族との関係よりもいっそう本来的で、選びようがないものとして現れているがゆえに、家族との関係が、どうでもよいものに見えてくるのだ。」(P.177)__そうだろうか。必然の反対は偶然ではない。私の存在も偶然である。
「前世における友人との関係は、まさに、親子関係よりも原初的な関係であると言えるだろう。それどころか、 前世といっても その関係は、親子関係を直接に過去へと遡行するときに得られる関係、つまりかつて「家」の中軸をなしていた祖先との関係すらも、越えている。この場合の前世の自分とは、血縁関係を何代か遡ることで到着するはずの人物ではないからだ。」(P.178)__ちちは、「悪いもの(つまりテレビ)」を見せないようにした。でも、それを社会が許さない。社会は個人を越えた力を持つ(と思われている)からだ。自分を超えた社会の「存在」。それは「リアル」か。
(ホーリー・ネーム)「こうした奇妙な名前によって確定される自己同一性(セルフアイデンティティ)が組み込まれる関係の様態が何であるかを見定めることができれば、現在、家族の関係を偶有化しているものが何かを知ることになるだろう。」(P.179)
(シャクティ・パット)「ここでは、他者の身体が、いかなる媒介も経ずして直接に自己の身体の内側に参入してくるのだから。このシャクティ・パットを代理するために開発されたのが、さまざまなイニシエーションであり、その中でも最も重要なのが、教祖の脳波を信者の脳に伝送するとされたヘッドギアPDIであった。それは、コンピュータや携帯電話のネットワークのパロディのようなものである。」(P.180)
「彼らは、幻想の前世の関係に、極限的に直接的なコミュニケーションを投射しているのである。」(P.181)__「コミュニケーション」というプラスチック・ワード。
声が・・・遠い
「ブログは、私的な日記を公開するようなものである。言い換えれば、ブログを読まれるということは、他者が、私的な内面にダイレクトにアクセスしているようなものである。極限的に直接的なコミュニケーションとは、いわば、裏返しのコミュニケーションである。」(P.182)__見たいという欲求は別のところにある。覗き、自分の身体の不在。自分の身体を見ることは「覗かれる」ということか。
「つまり、サイバースペースのコミュニケーションにおいては、一般のコミュニケーションにおいては深く秘匿されるような内密な核の部分を、人は、他者に直接に曝すのであり、また他者は、その内密な核に直接にアクセスしてくるのだ。」(P.183)
(『ほしのこえ』)「携帯電話によってすらも、完(FF)璧には到達しえないほどの、極度の近接性・直接性への欲求が、携帯電話の使用を駆り立てているのだはないか。重要なのは、交換されるメッセージの内容ではない。実際、若者たちの間で交わされる、携帯メールの大半は、内容的にはささいなものばかりなのだから。」(P.184-185)
「無論、客観的には、誰かがネット上の呼びかけに応じたということこそ、偶然的・偶有的な事実である。ここでは、純粋な偶然性が、当人たちの感覚の中では、逆のものとして、つまり家族のつながりを越える強い必然性として現れていることになる。」(P.185)__偶然性と必然性。作られた偶然性があまりに多い。作られたものが「自然」になる。自然と区別ができない。できないようにつくる。無痛文明論。「リアリティ・ソープ」。計算された出来事(偶然)。カフェイン抜きのコーヒー。提供されること。病院。学校。制度。
住まいのモデル
(西川祐子『住まいと家族をめぐる物語』)「西川の言う家族モデルの旧二重構造とは、「「家」家族/「家庭」家族」という二重構造であり、それは、「「いろり端のある家」/「茶の間のある家」」という二種類の住まいのモデルの共存によって支えられていた。「家」家族とは、直系三世代同居の家業を営む経営体のことであり、社会学的な用語で表現すれば、「拡大家族」にあたる。「家」家族の住まいの典型は、「いろり端のある家」で、家族が集合する団欒の空間がいろり端である。そこを主宰するのは、父たる男である。家族のすべての成員は、父の目の届く範囲にいる。「家庭」家族とは、家業を継ぐことがない次男・三男が、都市部に出たり、分家したときにあらたに形成した家族であり、夫婦と子どもをメンバーとする核家族になる。「家庭」家族の住まいの典型は、「茶の間のある家」であり、その中心には夫としての男がいた。この二重構造は、旧来からの「いろり端のある家」の中に、「茶の間のある家」が参入してきたときに始まるわけだが、それは、一九一七年のことであったという。この旧二重構造は、戦後一〇年(一九五五年)くらいまで続いた。
家族モデルの新二重構造とは、「「家庭」家族/個人」の二重構造であり、それは、住まいのモデルとしては、「「リビングのある家」/「ワンルーム」」が対応している。リビングのある(FF)家とは、いわゆるnLDKタイプの住まいのことである。ここで、nとは、「家族構成員数ー1」であるとされた。その引かれる1は、父=夫である。つまり、家族の中で、父=夫だけが、固有の場所をもたない。それゆえ、西川によれば、リビングのある家にあっては、主宰者は、主婦である女である。このnLDK型の住まいが普及し始めるのは、一九七〇年代の前半である。そして、一九七五年には、最初のワンルームマンションが登場している。ワンルーム(マンション)とは、nLDK型の住まいの(子どもの)個室を、空間的に分離させたものに過ぎない。それゆえ、「リビングのある家」と「ワンルーム」は独立の住まいではなく、後者は、前者の一文枝として理解すべきである。
西川による、家族の旧二重構造から新二重構造への転換という構図は、本書の議論とよく対応する。旧二重構造は、理想の時代の前史に対応している。旧二重構造から新二重構造への移行期、つまり「いろり端のある家」はほとんど見られなくなったが、まだリビングのある家は登場していない段階が、理想の時代であり、それは、日本型の近代家族の成立・普及期でもある。そして、新二重構造の段階が、虚構の時代とちょうど並行している。」(P.186-187)
「一方で、住まい内の空間がますます個人化(個室化)されると同時に、他方では、その個人化された空間が、家族外の社会空間に直結するようになるのだ。」(P.188)
「実際、個人が個室に閉じこもった上で、インターネットや携帯電話によって外部の他者と直結しているという、今日ではごく普通の状況を想像してみたらどうであろうか。」(P.188)
〈他者〉の臭い
「他者としての他者とは、純粋な差異、私に帰属する宇宙の総体に対する差異、上位の同一性の中で決して相対化されることのない絶対的な際のことである。
ここで、他者としての他者、他者がその他者性において現れるような状態を、〈他者〉と表記しておこう。とすれば、われわれの現在は、〈他者〉への欲望によって規定されていると、とりあえずは言っておくことができる。〈他者〉を前にして、家族との関係すらも偶有的なものとして現れることになるのだ、と。とはいえしかし、〈他者〉との関係ということそのものに、根本的な逆説が宿っているのだ。」(P.189)
「しかし、体臭は、自在に制御することはできず、周囲に拡散してしまう。他者を嫌いになる理由は、しばしば、その他者の臭いにある。」(P.190)
(『香水 ある人殺しの物語)』「それは、当の〈他者〉地震にとってすら、他者性を帯びたものとして、すなわち、自身の身体に内在する性質でありながら、自在に制御しえないものとして、立ち現れている。」(P.191)
「もっとも、われわれは、このことを一般に意識せず、もっと他の原因を、たとえばその人物の性格を、愛し欲望する理由として挙げるだろう。つまり、欲望を惹起する真の原因は、象徴秩序の網(言語的了解)によって隠蔽されるだろう。」(P.191)
他者性抜きの他者
「だが、なぜか理由も分からず、生まれた時から近くに住み、仲良くしているという設定は、家族の関係にさらに先立った作用している、不可避の宿命の作用を、人に感じさせるものがないだろうか。あわせて、長いつきあいで、互いによ(FF)く知り合っている幼馴染は、他者性を感じさせない〈他者〉の典型的な一例ではないだろうか。」(P.194-195)__「転勤族」「引っ越し族(借家)」の子どもには、幼馴染がいない。
「彼ら、恋する「幼馴染」が、「心中」するにあたって家族をまずは殺害しておかなくてはならないと考えたのは、彼ら同士の関係の上に投射されている極度の直接性に到達するためには、どうしても、家族の関係が排除され、無化されなくてはならなかったからではないだろうか。彼らの関係の上に、あらゆる経験的な関係を超えた原初的な直接性を感受するためには、彼らを生まれたときから捕縛している家族の関係を、偶有的でどうでもよいものとして捉えなおし、実際に排除してみる必要があったのであろう。」(P.195)__親ガチャ。
3 反復というモチーフ
「反復」の反復
(東浩紀『ゲーム的リアイズムの誕生』)「すなわち、オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。」(P.196)__ハルヒ。でも一時的なもの。現実は反復しないから。
(桜坂洋『All You Need Is Kill』)東が指摘しているように、この作品は、目標をクリアするために、リセットとリプレイを繰り返し、次第に実力をつけていく、アクションゲームの経験の比喩になっている。」(P.197)
「終わり」の終わり
われわれは、選挙速報などで、応援している候補の票が少ないと、思わず「がんばれ!」と言ってしまうのだ、もうがんばりようがないというのに。
こうした事実は、終わりの公式な宣言がなぜ必要なのか、を教えてくれる。それがなければ、われわれは、偶有性の感覚 他でもありえたのではないかという感覚 を克服することができないのだ。」(P.199)
「終わりの宣言は、偶有性を必然性へと転換する魔術のようなものである。どうして、このような魔術が機能するのか?正式な告知は、そこで表明された内容が、第三者の審級 社会(システム)の全体性を代表する超越的な他者 に帰属する判断であることを確認する操作となっ(FF)ているからである。」(P.199-200)__著者は当たり前のことしか言っていない。Aの可能性も非Aの可能性もある。どちらも当たり前であり得るし、そうでない場合は「合理的」説明がされる。どちらでも現実になれば、それは必然となる。当然のものも説明が必要である社会。告解。客観同様本人の中にも真実はある。
「これほどまでに、二次創作やパロディが蔓延するのは、もとになる作品が「正典」として機能していないからである。オリジナルの作品が、「これ以外にはありえない」という限界線を確定するような、決定版になりえていないため、他のありえた可能性の方へと消費者の想像力を駆り立ててしまうのだ。逆に言えば、「正典」は、可能な物語の範囲を限定して、反復の可能性を抑止していたという意味で、あの、終わりの公式な宣言と同じ機能をもっていたのである。
それゆえ、今や、オタクの市場において、消費=享受の対象となっている単位は、個々の物語ではない。可能な物語の集合を束ねている、キャラクターである。」(P.201)__新しいことの価値。新訳。改訂版。可能世界。平等という空想は、可能世界を認める第三者の不在。
全知の無能
(『AIR』)「ゲーム内で、二人の行為は「家族ごっこ」と呼ばれる。最も自然な人間関係であるはずの家族すらも、虚構(ごっこ)だというわけである。」(P.203)
「だが、カラスができることは、ただ受動的に見ることだけだ。」(P.203)
「この文脈で、われわれが確認しておきたいことは、美少女ゲームは、プレイヤーを、仮想世界の中で、第三者の審級(父)の機能を具現しうる成熟した男へと転換することを眼目としている、という事実である。」(P.204)
「この問題を、『AIR』は、見られることなくすべてを見るものの無力として、表現する。かつて、見られることなく見るということは、神に帰せられた全能性の徴と解されてきた。しかし、ここでは、その同じことが、圧倒的な無能性として提起されている。プレイヤーが見られることを拒否するのは、〈他者〉の脅威から逃れるためである。にもかかわらず、見ようとするのは、そrでも〈他者〉と関わろうとするからである。この矛盾が、愛する〈他者〉の苦難に対する無能性を帰結する。」(P.205)
(P.206)__覗きの変容。神として、無力な神として覗く。透明人間。視点だけの人間。安部公房。
「九十九十九」
「したがって、ここでは、反復は、物語の包括化・普遍化を伴っている。ところで、反復を通(FF)じて、自らの経験可能性の地平を次第に包括的なものへと置き換え、普遍化していく運動とは、(広義の)資本主義の定義でなくて何であろうか。資本主義的な競争に勝つということは、人々の未来の欲望を先取りすることである。いまだ現実化していないが、やがて承認されることになるはずの欲望の形式を、自分の経験のための前提として想定しうる立場に入れること、このことが資本主義的な競争での勝利を約束する。」(P.207-208)__欲望も作るものだけど。
「ここで提起しておきたい仮説は、資本主義を特徴づける、経験可能性の領域の普遍化の運動が、その領域の妥当性の保証人としての第三者の審級の権威を、次第に消耗していくのではないか、ということである。」(P.208)
「贈与は(あるいはその反面としての収奪は)、垂直的な関係を基礎づける。たとえば、気前のよい贈与者は、尊敬され、受けての彼に対する負債感をばねにして、超越的な位格を獲得することができる。それに対して、交換は、関係を水平化し、誰かが特権的・超越的な位置に立つことを許さない。」(P.208)
「世界の終り」の後に
「すなわち、東によれば、『九十九十九』は、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、一九八五年)の二〇〇〇年代風の再解釈として読むことができるのだ。
村上春樹は、虚構の時代を代表する作家である。」(P.209)
「終わり」の回復
「すなわち、われわれの社会は、今、終わりということへの感覚を、鈍化させてきている。一九九〇年代の初頭に、「歴史の終わり」ということが言われたことがあるが、その時以降に終わったこと 終わり始めたこと は、まさに「終わり」への感覚だったのかもしれない。終わりの感覚が終わったときに、何が困るのか?偶有性への思い(他でもよかったのではないか、他でもありえたのではないか)がいつまでも解消されず、現実を「必然(これしかないこと)」として引き受けることができなくなるのだ。」(P.211)
「第三者の審級が相対化されてしまうのは、それが、何ごとかを「善」として、あるいは「理想」として措定し、肯定しているからである。どのような積極的な善や理想も、より包括的な枠組みの中では、相対化されてしまう。」(P.211)
「まさに、すべてが破壊され、すべてが否定されるがゆえに、かえって、何かが、超越的な何かが残るのである。
われわれのこの時代に、「現実」への逃避が、つまり破壊的・暴力的な現実への情熱が現れ、人々をとらえるメカニズムは、以上のような論理ではないだろうか。」(P.212)__残る何かも「(西洋的)人間」かもしれない。
「多重人格者の「記憶」の中に現れる、虐待する猥褻な父の形象もまた、このような否定的な第三者の審級の一形態であると考えることができるのではないだろうか。この父だけが、解離した諸人格を束ねる要の位置に立っている。この父だけが、諸人格が共通に関係しうる点となっているかのようである。
このようにして第三者の審級を逆説的に回帰させることによって初めて、偶有的であった選択に関して、「必然性」の感覚をもつことが可能になる。選択したことに関して、「これでよい」「これしかない」という感覚をもち、それを引き受けることができるようになるのだ。」(P.213)
「恋愛は、特定の〈他者〉が、自分にとって圧倒的に特異で単一的だという感覚を基礎にしているからだ。つまり、この特定の〈他者〉が、他ではありえない単一性・必然性の相貌をもって現れるとき、恋愛は成立する。」(P.213)
「プレイヤーは、ああでもありえ、こうでもありえたようなシナリオの一つを選びたいわけではないのだ。そうではなく、プレイヤーは、そうであるべくすでに決まっている展開に身をゆだねたいのである。彼は、主人公の身の上に定められている「現実」を 彼はほんとうにあの美少女と結ばれるのであろうか等を 知りたいのだ。それならば、誰が、展開を決め、「現実」を定めているのか?第三者の審級である。
だが、それにしても、もし第三者の審級を極端な破壊を媒介にして逆説的に取り戻すことによってしか、われわれは救われないのだとすれば、やはり事態は絶望的である。「現実」(破局的な現実)への逃避が、唯一の解放であるとすれば、それは、実際には、解放どころか逆に解(FF)放の否定以外のなにものでもない。」(P.214-215)
Ⅵ 政治的思想空間の現在
1 「物語る権利」と「真理への執着」
破局への衝動
「すなわち、二〇世紀の多くの思想家は もう少しだけ特定すれば第一次世界大戦以降の多くの西洋の思想家は 、自分たちの「現在」を、終末のとき、破局へと向かう終末のときとして、あるいは少なくともそうした終末へと近づきつつあるときとして捉えようとする、顕著な傾向をもっている。」(P.218-219)
「そして、終末や破局への関心は、冷戦が終結した一九九〇年代以降に、極点に達したように思える。」(P.220)
「物語る権利」と「真理への執着」
「つまり原理主義は、多文化主義の全的な否定だ。だが、どちらもきわめて現代的な現象であるとするならば、これほどまでに相容れない二つの立場が、同じブローバルな社会空間の中に共存しているのはなぜだろうか。」(P.221)
伝統/モダン/ポストモダン
「多文化主義は一般に共同体の権利を養護するが、その共同体が個人にまで縮減した究極的ケースがリバタリアニズムであると考えればよい。」(P.223)
(P.224)__私と他者との対立そのもの。私の自由は他人の自由。第三者(調停者)が必要。
「ラディカルな左翼に好まれる多文化主義は、資本主義の今日的な発展の関数かもしれないのだ。
さらに、多文化主義が「物語る権利」への擁護としての側面を全面に出したときは、もっと厄介な問題が浮上する。特殊な立場の排他的な特権化がなされるのだ。「その切実な悲しみがわかるのは、女性でアフリカ系の同性愛者だけだ」といったような主張がそうである。こうした主張を許してしまえば、どんな行為でも なにがしかの程度において 正当化されてしまう。だが、戦前に軍隊を指揮したものが、アジア侵略への切実な欲望は他人にはわからない、などと主張した場合のおぞましさを考えてみよ。」(P.225)
リバタリアン=コミュニタリアン
2 信仰の外部委託(アウトソーシング)
多文化主義的イスラム
「つまり、今日、西洋の多文化主義車が、イスラムに結びつけている不寛容こそ、本来は、西欧キリスト教の特徴であり、逆に、今日では西洋が誇る文化的多様性や宗教的寛容は、イスラム帝国の中に見出されたのである。それならば、イスラム世界で、原理主義的なものが、いつ、いかにして孕まれたのか。結局、それは、西洋近代が導入されたときであったと見なすほかない。実際、二〇世紀に入ってから、イスラム世界で起きた、悲惨な民族虐殺 たとえばトルコでのアルメニア人虐殺やクルド人弾圧、またイラクでのクルド人虐殺等 は、すべて伝統的なイスラム政権によるものではなく、西洋風の国民国家を目指すナショナリストによるものである。
だとすれば、われわれは、イスラムの世界の原理主義に、西洋近代の反対物ではなく、西洋近代の真実の姿を見るべきではないか。」(P.230)
信仰の外部委託
「たとえば、(女の)ヴェールも、一種の趣味(ファッション)としてならば、当然、許されるのだ。言い換えれば、普遍的な真理として教義にコミットするような信仰は、許されない。ということは、もっと率直に言ってしまえば、多文化主義のものとでは本当は(教義を)信じてはいけない、ということではないか。これは、むしろ、信仰の否定である。もう少し繊細に言い換えれば、皆、信じているふりをしているのである。」(P.231)
「彼らは、「私たち」のために、「私たち」の代わりにショーを楽しんでくれているのだ。」(P.232)
「そうである以上、このとき、私は、結局、楽しんだことになるのである。「スタジオのお客様」は、ある種の民族が有する「泣き女」と同じ機能を果たしている。」(P.232)__共感している。面白いんだろうと思う。面白いんだろうから、私も面白がらなくてはならない。そうできれば、友達と共有できる。いじめる側の仲間。トレンドのお菓子。私が楽しめればいいのではない。共有できなければ意味がない。共有することを強制されている。世間様。村八分。仲間外れ。それは西洋的なものだろうか。日本的なものであろうか。なぜ西洋人「も」そう思うのか。そこにミラー・ニューロンのような「普遍的なもの」を考えてはいけないのか。
「意識のレベルでは、対象に対してアイロニカルな距離を取っている(「ほんとうは信じてはいない」と思っている)。しかし、行動から判断すれば、その対象に没入しているに等しい状態にある(実際には信じている)。多文化主義的な社会とは、人々のアイロニカルな没入によって成りたっているのだ。
アイロニカルな没入は、本気で信じている他者の存在を、外部に前提しているときに帰結する。「信仰」が、その他者に移転されるのだ。」(P.233)
「原理主義とは、このような状態、つまり「信じているふりをしている自己」と「信仰をその上に転移される他者」とが合致してしまっている状態ではないだろうか。」(P.233)__自分は傷まずに信仰し、いつでも逃げ出して他者のせいにすることができる。
「一者」の(再)措定
「ハイデガーにおいては、破壊を被るのは カントと違って 自然だけではなく人間である。人間そのものであるような破局に対して、ハイデガーが与えた哲学的な名前が、「存在忘却」(存在の本質の忘却)だ。技術の時代の存在忘却の、悲惨で破局的な意味を強調することで、逆に、存在の哲学を思索する者の威厳や、圧倒的な超越性が、かえって復活することになるだろう。普通の状態にあって、威厳を保っていてもたいしたことではない。だが、悲惨の破局が迫っているとき、たいていの人が狼狽しそうな苦境の中にあるとき、なお威厳を保つものが(FF)いるとすれば、その威厳は、崇高性や超越性を帯びることになるだろう。こうした論理は、前章の第3節で説明した論理と、すなわち「終わり」を徴づける感覚を取り戻すべく、第三者の審級を再構築しようとする際に機能している論理と、基本的には同じものである。」(P.236-237)
「つまり、状況に動ずることがなく、確固たる信仰を保持する「一者」(超越的な第三者の審級)が存在しなくてはならない。人は、その一者への転移を通じて、間接的に信仰を保持することができるのだから。破局の強調は、今述べてきたような論理を通じて、超越的な一者の(再)措定を可能にする。超越的な一者は、破壊を媒介にして創造されるのである。」(P.237)__マスコミ、新聞、文字が保つ力。身近な人ではなく、他者。他者に言い残す。他者に祈る。日記の外在化としての他者。それは究極的な(には)「自己」である。
(『啓蒙の弁証法』)「もしも今日、誰かに向かって語ることができるとすれば、それはいわゆる大衆でもなく、無力な個人でもなく、むし(FF)ろ想像上の証人である。われわれとともにすべてが没落してしまわないように、その証人に宛ててわれわれは言い残していくのである。」(P.237-238)
「こんな逆説的な方法を通じて、超越性の次元を回復しなくてはならないのは、現代社会に、超越性(第三者の審級)を無化していこうとする強い力学が作用しているからだ。その力学を最も一般的なレベルで捉えれば、「資本主義」だということになる。いずれにせよ、多文化主義は、そうした力学の産物だと言える。多文化主義は、明示的には、諸文化を貫通する普遍的な規範をささえる超越的な視点は、もはや存在していないということを前提にして主張される だから各自の「物語る権利」だけが、つまりそれぞれの特殊な「遠近法(パースペクティヴ)」だけが残される。だが、われわれがここに論じてきたことは、多文化主義は、こうした明示的な自己理解に反して、なお、無意識の内に つまり自覚されない暗黙の前提として 超越的な他者の存在を前提にせざるをえない、ということである。その超越的な他者は、破局への想像力を媒介にした逆説的な方法によって確保されるのだ。」(P.238)
3 〈破局〉の排除
〈破局〉への盲目
ムーゼルマン
「このアンチノミーを超克するためには、対立の地平が成立しているときにはすでに排除されてしまっていることを、つまり〈破局〉の可能性を直視するほかない。」(P.242)
「ここからわれわれが導き出すことができる教訓は、倫理が総体として、まったくの偶有性に支えられているということである。」(P.243)
「結局、証言の不可能性は、それを承認する超越的な他者 第三の審級 の不在と対応しているのだ。」(P.244)
4 羞恥心をめぐって
羞恥
「要するに、私にとって徹底的に内密なものが、究極の疎遠性を払拭できないままに、〈他者〉のまなざしにさらされているとき、私は恥ずかしいのである。」(P.246)
誰かに見られている
「恋人とは、言ってみれば、羞恥(FF)を肯定しあう関係である。」(P.246-247)
「しばしば、(他者を)見ること、覗くこと、(他者に見られずに)見ることは、人間にとって根源的な欲望であるとみなされている。だが、むしろ逆に、〈他者〉に見られることこそ、より本質的な欲望なのではないか。少なくとも、見ることと見れれることは、同じ程度に根源的な欲望なのではないか。人は、常に、〈他者〉に見られているのではないかと直感し、さらに〈他者〉に見られたいと欲望しているのではないか。」(P.247)__お天道様、神様、に見られている。自分が自分に見られているということだから、見る〈認識する〉主体と見られれる〈認識される〉対象との関係。主体と対象を同時に見られる超越者。主語であり述語であるような存在。元々の日本人の感覚とは違う。
「日本の古代の大型古墳は、特殊な形状をもっているが、その全体像は、天高くからでないと、捉えることができない。つまり、実際には誰にも 地面に立つ誰にも 全体像は見えなかったということである。同じことは、インカ帝国における、地面に彫られた巨大な地上絵にも言える。これらの事例は、誰かによって、誰か不定の他者によって、自分たちは見られている、という原初的な直感が作用していることを示唆している。」(P.247)
「つまり、誰とも特定し得ない、不安の〈他者〉に見られているという感覚がまずあり、その不気味さを解消し、馴致するために、その〈他者〉を「神」等と名づけ、意味づけることで安心感をえているのではないだろうか。
見られているという感覚、見られたいという欲望は、われわれの考えでは、われわれが「求心化/遠心化」と名づけてきた心的な活動の二重性に由来する。どの心の作用も、対象を、今・ここにある「私の身体」を中心とした相で現象させる。これが求心化作用である。と同時に、求心化作用には、必ず、この中心を、他所・他社へと移転させる作用が伴っている。それが遠心化作用だ。」(P.248)__西田の絶対的矛盾的自己同一をどう思うのか。明治以降の「自他発生」とそれ以前を混同してはいけない。
「自分の見る働き(求心化作用)を停止してしまえば、自分が他者たちに見られている(遠心化作用)という感覚からも逃れることができるのだ。」(P.248)__「見る」という感覚が異なる。「見える」は「見る」の動的作用だった。
反トゥルーマン的不安
「若者たちの携帯電話の使用法についての、北田暁大の分析が明らかにしているように(北田『広告都市・東京』)、若者たちは、何らかの内容あるメッセージを送るためではなく、ただ、互いが繋がっているということ、互いが配慮しあっているということを確認するだけのために、携帯電話をかけあい、メールを送りあう。こうしたことは、家族との関係まで断って、個室に引きこもっているような若者にすら当てはまる。第Ⅴ章でも述べたように、その個室には、たいていインターネットに接続されたパソコンや、常時スイッチの入っているテレビがあって、彼らの他者たちへの繋がりを保証しているのだ。だから、他者に見られているかもしれない、(FF)ということが不安なわけではない。まったく逆に、他者に見られていないかもしれないということが、不安なのだ。だから、絶えず、見られていることを確認しようとするのである。なぜ?私がまさにここに存在しているということの存在論的確認を得るためである。」(P.249-250)__私は見られていること、つまり規範が内在していること、トゥルーマンかもしれないことがあり、神に対抗する(共存する)ために、正義などの信念があった。個室が独房(見られている・守られている)ではないことの不安。親は、「子供に干渉しない」「子どもの自由に指せる」ために、自分の欲望を抑える。
「しかし、今日、人を捕らえているのは、こうしたトゥルーマンの不安ではない。むしろ、人はトゥルーマンになりたいのだ。」(P250)__アイドルになりたい。
「「監視」という形式で、〈他者〉を具体化・物質化したときに失われるのは、〈他者〉のこのような本来的な不定性である。余すところなく張り巡らされた監視のネットワークがわれわれから奪うのは、監視カメラの物質的な現前には解消されない、〈他者〉の余剰性なのだ。監視社会が侵食し、奪い取っているのは、〈他者〉から離れた孤立した時空間ではなく、逆に、〈他者〉とのある種の関係性の方である。」(P.251)
5 無神論への突破
王党派一般としての共和派
「寛容は、仏教徒やヒンドゥー教徒には及ばない。イスラム帝国にあったのは、共通性を根拠にした寛容である。」(P.252)
「だが、連帯が共通性/同一性を条件にしているのだとすれば、その容量には限界がある。それは、われわれが求める解決ではない。」(P.252)__「人類みな兄弟」。
「だが、無神論者であるということは、そう簡単なことではない。われわれは、そうとは意識することなく神を信仰しているからだ。たとえば、マルクスは、貨幣や商品の物神性(フェティシズム)について論じているが、資本主義社会において貨幣を使用することが、それ自体、すでに信仰の構造を(FF)もっている。」(P.253-254)
「だが、われわれは、ここまでの考察の中で、真に無神論的と見なしうる形象に出会ってもいる。ムーゼルマンがそれである。ムーゼルマンは、第三者の審級の不在に対応する(非)人間の在り方だったのだから。そうだとすると、ここには希望と絶望がある。絶望というのは、言うまでもあるまい。無神論が、ムーゼルマンの悲惨を含意するならば、それは、われわれが求め、取ることができる選択肢ではない。だが、希望もある。ムーゼルマンは、われわれすべてがそれに感応してしまうような、われわれに内在する偶有的な可能性を具体化しているのであった。とするならば、ここには、普遍的な連帯への手がかりがあるはずではないか。」(P.254)__「われわれ」と言うな。「選択肢ではない」といい切るな。
近代社会と無神論
「近代は、普遍宗教に直接には依拠することなく、初めて、複雑な社会を実現したのだ。」(P.255)__そうだろうか。「普遍宗教」と呼ぶこと自体が「複雑な社会」を象徴しているのではないか。「普遍宗教」を「共同体を越えた」「共同体に根拠をもたない」宗教と捉えるのか。それが共同体を前提としていて、共同体ごとに捉え方が異なっていたこと。むしろそれを「同じだ」と思うのは、西欧的、あるいは権力者的なのではないか。
「すなわち、無神論は、神への信仰の単純な否定ではなく、むしろ、信仰の内側から、それを食い破るようにして出てくるということ、これである。」(P.255)
「その差異は、思い切って単純化してしまえば、キリスト教的な伝統の有無に求められてきた。だが、他方で、日本は、西洋風の近代化に最も早い段階で成功した、非西洋社会でもある。こうした「矛盾」が生ずるのは、「普遍宗教」が広く根付いたことが一度もなかったという意味で、日本社会は「無神論的」だったからではないか。」(P.256)__普遍宗教を普遍だと思っていた西洋。イリイチ、日本人学者。無神論的な文化とは何か。それは想定できるのか。言語のない文化のように。
普遍的な愛の矛盾
(ユルゲン・ハーバーマス)「「罪」が「有罪」に、「神への冒涜」が「法律違反」に転換されたとき、何かが喪われてしまった」。」(P.257)__出典を知りたい。イリイチと同じ。
「というのも、普遍的な愛という観念には、内在的な矛盾があるからだ。」(P.258)
「多文化主義が欺瞞的なものになってしまうのは、憎悪や無関心を伴わない普遍的な愛が可能であるかのように想定しているからである。」(P.258)
「ところが、存在命題から普遍命題へと移行したときに、存在命題を真なるものにするために必要な決定的な条件が失われてしまうのだ。どうしてだろうか?
存在命題は、主語となる対象を、話者である〈私〉が「これ」として指示し、対峙することを前提にしている。言い換えれば、「これ」が、〈私〉の単一性(〈私〉がこの〈私〉であって他ではないということ)に正確に匹敵する特異性をもっていること、〈私〉の実在に対応する自明な実在性を有すること、存在命題はこれらの条件を要請する。主語を純粋な概念へと転じてしまう普遍命題は、話者〈私〉と不関与な命題となるので、こうした条件を必要としない。」(P.259)__印欧語的。
「「愛」は、普遍命題と存在命題の間の非対称性に最も敏感に反応する態度なのである。」(P.259)
憎悪における愛
「正義や法律は、第三者の審級に帰属する判断としてもたらされるのだ。第三者の審級への関係を優先させることで、親密で特殊な〈他者〉たちを無視し、相対化することが可能になる。第三者の審級を媒介にしてもたらされることで、正義には「普遍性」が宿ることになるのだ。」(P.260)__多数決への不信を今の若い人はもたないのだろうか。勝ち組・負け組。それで諦められるのか。
「正義もまた、愛と同様に、排他性を克服することはできない。」(P.260)
「愛の対象と憎悪の対象のこうした合致は、なにか特別に例外的な状況で見られるわけではない。逆である。こうした両義性は、われわれの愛に常に認めることができるものだ。」(P.261)
「言い換えれば、その特異的な性質は、否定性(欠点でること)と通じて、「それ以上の何か」を暗示することができるのである。」(P.262)__わからん。なぜ愛を語るのか・・・。日本に love はない。
「たとえば、〈私〉は「触れること(求心化作用)」において「触れられていること(遠心化作用)」を直観するし、「まなざすこと」において「まなざされていること」を直観するが、〈私〉がまさに、〈私〉へと差し向けられたそれらの「触れたり、まなざしたりする能動性」そのものを捉えようと探索すれば、それらは、たちまち、〈私〉の触覚や視覚の単なる対象へと転じてしまう。このように〈私〉への現れから逃れていくもの、それこそが〈他者〉 (FF)他者としての他者 である。他者の他者性は、だから、「現れる性質に解消できない」ということにこそある。私の視線が及ばない盲点から、誰かが私を見返しているという感覚は、ここから出てくる。だが、同時に「現れへの解消しえなさ」が作用するためにこそ、現れの媒介が必要になる。その「解消しえなさ」を、ふたたび現れそのものに投射すれば、それは「欠点」や「歪み」という形態を取るのである。」(P.263-264)__能動と受動、主体と対象、自己の身体と他者。身体で味わう。媒介としてのイコン。
「ところで、これこそ真の無神論であろう。正義を基礎づける「超越的な第三者の審級=神」が与えられている中で、その神への愛を神への裏切り 神の存在の否定 と等値することが重要だからだ。」(P.264)
「日系人が日本から移住した後に改宗したことは間違いないのだから、これほどまでに圧倒的に宗教的な変容をしてしまったコミュニティが、なおルーツの つまり日本の 伝統を今日まで保持し続けることができたのはなぜなのか?その答えは、日本の文化的なアイデンティティにとって、宗教はもともと不関与だということにある。」(P.265)__何を宗教というのかがやっぱり明確ではないが。もともと「アイデンティティ」で捉えることはできないのだから。
結 拡がり行く民主主義
四つの暴力
(ベンヤミン)「それぞれは、「神話的 mythisch 暴力」、「神的 göllish 暴力」と名づけられている。神話的暴力は、さらに、「法を維持する rechtserhaltend 暴力」と「法を措定する rechtsetzend 暴力」に二分される。」(P.268)
「法措定的暴力がもたらした法は、法維持暴力へと接木されることによって、初めて、永続性をもつことができるだろうから。」(P.268)
「そうであるとすれば、「現実」への逃避へと人を駆り立てる閉塞からの解放は、もう一つの暴力に、「純粋暴力」と呼ばれてもいる神的暴力に求められなければならない。ベンヤミンは、神的暴力について、「法を否定する rechtsvernichitend 暴力」であると言っている。」(P.269)
「右の三つの他に、単なる犯罪のような暴力、法に違反する暴力があるのだ。この法違反的暴力に対抗するのが、法維持的暴力である。こうして、われわれは、二組の暴力の対照(「神的暴力ー法措定的暴力」、「法違反的暴力ー法維持的暴力」)を得ることになる。」(P.269)__法による閉塞感が現代のものなのか。超歴史的なものではないのか(キリスト)。超歴史的なものというのは幻想である可能性が高い。現代のものは歴史的なもので根拠づけしようとする。本能とか。解消する。諦める。「そういうものじゃないんだ」。
神なき暴力
「言い換えれば、神的暴力が具体的な歴史現象として現に存在したということを、勇気をもって肯定しなくれはならない。」(P.270)
「誰も、命令(「殺せ」「殺すな」)を下してはくれないからである。ここでは、命令を発し、責任を負ってくれる超越的な他者(第三者の審級)が、どこにもいないのだ。だから、人は、この禁止に従ったり、これを無視したりすることの責任を自ら担わなくてはならない。要するに、神的暴力とは、その形容詞とはまったく逆のことを、つまり神(第三者の審級)の不在やその無力をこそ含意する行動である。」(P.271)__無能力ではなく無力、イリイチ。
「法措定的暴力は、法とともに、法に妥当性を与える第三者の審級(神)を措定することになるからだ。」(P.271)
「ベルンシュタインの立場は、歴史の外部にあって、歴史を客観視し、革命に相応しい時期を知っている「神」の存在を前提にしているのに等しい。」(P.272)
活動的な民主主義は小さい?
「神的暴力の解放的な潜勢力を活かすためには、それゆえ、第三者の審級がこっそりと回帰してくるのを抑止しつつ、その不在を敢然と引き受けなくてはならない。」(P.273)
「統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。」(P.273)
同一化の階統
「現に、一九六〇年代よりも前のアメリカでは、全国規模の活動的な民主主義が見られたのである。そうであるとすれば、われわれは、あまり悲観的になる必要はない。」(P.278)
「このことを最初に分析したのは、おそらく、『法哲学』のヘーゲルである。近代化とは、大雑把に捉えれば、個人を一次的な共同体(ゲマインシャフト)から引き剥がし、二次的で人工的な共同体(ゲゼルシャフト)へと移し変えることである。」(P.278)
「ヘーゲルが注目したのは、前者から後者への移行に際して、一次的共同(FF)体への同一化が、単純に解消されるわけではない、ということである。一次同一化は、二次的な共同体の一分枝として、あるいは二次的な共同体へと同一化し、参加するための真の方法として、その本性を変容させつつ残存するのだ。一次的な共同体のよきメンバーであるということが、そのまま、普遍的な二次的共同体のメンバーであることを保証するのである。」(P.279)
ランダムな線
「ここで念頭においているのは、「六次の隔たり」という標語で知られている、ネットワーク内の点と点の間の不思議な関係を説明した、ダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツの「小さい世界(スモール・ワールド)」の理論である。」(P.280)__数字や確率ではない。理論からは何も生じない。現実から理論が生じるだけだ。
民主主義への希望
「実際、われわれのここまでの考察は、共同体の外部の〈他者〉への接続の可能性について、十分な理論的な根拠を与えてきている。第一に、われわれは、現代社会において、家族のような親密な関係を食い破って、外部の〈他者〉と直接性の高い関係を結ぼうとする欲望が迫り出してきている、ということを確認しておいた(第Ⅴ章第2節)。第二に、われわれは、愛が憎悪(に類する感情)と緊密な一体性を持っている、ということを理論的に確認しておいた。」(P.284)__親密な関係(家族)を突き破ることで、その親密さを失うことを論じてきたのではなかったか。それが近代なのではなかったか。
(P.285)__中村哲
(松本サリン事件の被害者河野義行)「河野氏の実践は、「ランダムな線」が最も困難なところにも、これ以上もないほどに敵対しあっている者同士の間にも引かれうる、ということを示している。これらの実践の中に、真に徹底した民主主義への希望がある。」(P.285)
あとがき
桜咲く京都北山にて 大澤真幸
〈引用終わり〉