不可能性の時代 大澤真幸著 2008/04/22 岩波新書

不可能性の時代 大澤真幸著 2008/04/22 岩波新書
個人的なこと

Bookoff、110円。トイレ本。古本屋で「たまたま面白そう」な本を見つけるのはとても偶然性が高い(確率が低い)のですが、ネットでそういう本を見つけることはほとんど「不可能」です。たまたま「類似の本」とか「オススメ」とかで提示されるのは、過去の検索履歴や購入履歴に基づいた「もともと面白そう」な本だからです。

著者にはちょっとした思いというか、変な気持ちがあります。と言っても、著者とは会ったことも、話したこともないし、共通の友人がいるわけでもありませんが。

その一つは、彼の著作『ナショナリズムの由来』(講談社、2007年)を持っているということです。初版です。全877ページ、厚さ6cm位の本で、私としては珍しく古本ではありません。それ以来、ずっと本棚の「その幅」を占領しています。1ページも読んでいないのですが。

もう一つは(今回発見したのですが)、『資本主義のパラドックス』(新曜社、1991年)が2冊あることです。片方は初版で、お菓子の包み紙できれいにカバーがしてあります。これも新本かもしれません。もう一つは見るからに古本で、第3刷。でも、古本屋のマークがないし、図書館リサイクルの印もありません。ふしぎです。こちらも読んでいません。

ほかにも彼の著作は数冊あって、当時よっぽど読みたかったんだなあ、と思います。

結局、今回はじめて著作(単著)を読んだのかもしれません。

この本は、難しいことが書いてあるわけではありません。常に具体的な事件や物(事物)を挙げて、それを一般化(抽象化、概念化)していますから。でも、それを「納得」しようとすることは、とても困難です。

私はずるいんです。なぜかというと、この本が出版されてから17年後にいるからです。つまり、その後の17年間の出来事を知っているからです。素直に読めないのです。東日本大震災(2011年3月11日)も、能登半島地震(2024年1月1日)も、トランプが再当選したこと(2024年)も、トランプとゼレンスキーがテレビカメラの前で喧嘩したこと(2025年3月2日)も知っています。


理想・夢

見田宗介氏は、

彼は、その四五年を三つに等分したとき、その一つひとつが、ちょうど、「理想の時代 一九四五ー六〇年」「夢の時代 六〇ー七五年」「虚構の時代 七五ー九〇年」のそれぞれに対応している、と主張した(見田『社会学入門』)。(P.2)

それに対して著者は、戦後を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」と区分しています。

理想は、未来において現実へと着床することが予期されている反現実だが、虚構は、それがやがて現実化するかどうかに不関与な反現実だからである。つまり、理想は、なお広義の現実に含まれるが、虚構は、もはや現実の範疇外にあるからである。(P.3)

だが、これとは逆方向の逃避、「現実」へと向かっていく逃避が、現代を特徴づけている。ただし、この場合の「現実」とは、通常の現実ではない。それは、現実以上に現実的なもの、現実の中の現実、「これこそまさに現実!」とみなしたくなるような現実である。すなわち、極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している、と解したくなるような現象が、さまざまな場面に見られるのだ。(P.4)

私は、戦後民主教育を受けながら高度成長期に育ちました。今の若い人にはイメージが沸かないでしょうけど、「夢」と「希望」と「未来」に満ち溢れていました。私が何歳かのとき(覚えていない)テレビが「やって来」(P.37)ました。大人にとっての現実は、今で言う「ブラック企業」ばかりでしたが、テレビは「科学」と「未来」で溢れていました。海外旅行も、万博も、行けるわけではありませんでしたが、夢見ることはできました。

今年、(私は気持ちが悪いと思うマスコットキャラの)万博は開催されるんでしょうね。コロナ禍で「必死の」東京オリンピックも行われたのですから。それはもう「理想」ではありません。夢のない「現実」です。会場は「木製」で、その木は「再利用」されるのだそうです。子どもはそんなことに「夢」を見るのでしょうか。「使い捨て」じゃなくて「再利用」。子供にとっては「再利用」されることが「夢」になるんでしょうか。

私の父母の世代は、単純に「古いものが悪いもの・新しいものがいいもの」とは考えていなかったように思います。親や子を単純に肯定したり否定したりすることはしませんでした。だから、子どもを「怒ること」「しつけ」もできました。それが当然のことだったからです。『不適切にもほどがある』の時代です。私の世代ははっきりと「新しいものがいい」と考えていました。そう考えているからこそ、子どもを怒ることができなくなりました。「子供は新しい(世界を作る)」からです。私の子どもの世代ももちろん「古いことが悪いこと」だと思っているし、「自分が古くなる」こともわかっています。ただ、それが「当たり前」「仕方ないこと」だと思っているようで、だからこそ「今はやっていること」「今が楽しければいい」という刹那的な考え方をしているように思います。将来に新しいものを夢見るのではなく、「今」を「再利用」できればいいと。

その子どもたちは、「再利用すらできない現実」の中にいるんでしょうね。再利用が「理想」や「夢」と語られる時代です。


現実と可能

実は著者が「現実」をどういう意味で使っているのかは、結局わかりませんでした。なんとなく「リアリティ reality 」の意味なんではないかと思います。「現実」は「 actuarity 」の訳語として明治時代に作られた造語です。「可能」は「不能(あたはず)」の逆として「 possibility 」の訳語に当てられたものです。それぞれラテン語 actum, possum が語源です。

アリストテレスは能力とその行使を区別しました。それまでは区別されていなかったのです。たとえば「建築家と建築能力」は「医者と治療技術」ととは区別されますが、行使されない能力を想定しなかったのです。「寝ている建築家は建築能力があるといえるのか」という問いに、アリストテレスは「そうだ。寝ているときはデュナミス(可能態)として、建築しているときはエネルゲイア(現実態)として」と答えます。どちらも「存在」しています。それぞれがラテン語に翻訳されて今日に至るのですが、エネルゲイアは「エネルギー」と別な意味で近代に再登場します。それぞれの単語は、キリスト教や近代科学によって意味が変わっていきます。「現実」だけで、西洋哲学史全部を書かないとならないだろうし、それは私には「不可能」ですが。

日本語で「現実」は「今ある」ということで、「可能」は「今はないがあり得る」ということですね。「不可能」は「将来もあり得ない」という意味です。つまり、確率ゼロということです。確率は「不在(0)」と「存在(1)」の中間を数字で表します。アリストテレスにとって「不在(無、ないこと)はない」のですが、日本人にとっては「不在」は「空(くう)」としてありました。だから「在(色)」と「空」と両方を考えて「あはれ」や「わび・さび」の文化があったのです(それらが文人・知識人、権力者だけの考え方だとは思いません)。ですから、現実と可能の関係は、アリストテレスとも、キリスト教とも異なります。

「虚構」は「フィクション fiction 」という意味でしょう。「現実」に対する語として、「作り物」「絵に描いた餅」というよりは、「空想上の」とか「存在しない」という意味合いで使っていると思います。「理想」は「イデアル( ideal、プラトンのイデア)」でしょうか。まあ、どの単語もよくわからないというか、日本語として定着しているようで、中身がよくわからない単語です。エネルギーを説明するのに、物理学の方程式を持ち出すような感じです。

「理想」はその実現(現実化)が「可能」だと(どこかで)思っているのでしょう。「虚構」はそこから進んで、「不可能なんだけど思い描く」ということでしょう。「希望」が「期待(確率)」に変わり、その「期待すらできない時代」が、「不可能性の時代」です。


村上春樹
虚構の時代を代表する小説家をひとり挙げるとすれば、村上春樹こそ相応しい。村上の最初の長編小説『風の歌を聴け』(講談社)が発表されたのは、一九七〇年のことである。ここで注目しておきたいことは、虚構の時代の作家である村上春樹が、理想の時代に対してもっている両義的な関係である。(P.75-76)

今回、あるきっかけがあって『風の歌を聴け』から『ノルウェイの森』までを読み返しました。

三島/大江から村上へと繋がれるこうした関係を概観したときに、導かれてくる仮説は、次のようなものである。理想の時代から虚構の時代への転換は、単純に前者を拒絶し、否定することによってではなく、前者を駆動させていた原理を徹底させることを通じてこそもたらされているということ、これである。理想の時代は、自己否定を通じて、虚構の時代として再生しているのではないか。(P.79)

私は文学を語るほど、文学に興味はありませんが、戦後の日本人作家としてもう一人、安部公房が気になります。安部公房も虚構の作家ではないでしょうか。三島/大江と安部との関係は、明治大正期の夏目漱石/森鴎外と芥川龍之介との関係とパラレルな気がします。

『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』は前者、『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりハードボイルド・ワンダーランド』は後者、そして『ノルウェイの森』は前者の形式を使った後者、と言えるのではないでしょうか。まあ、これらのことと作品が「面白い」かどうか「時代に受け入れられる」かどうかは別のことですが。

虚構の時代として特徴づけられた現代社会を、別の用語で言い換えれば、「消費社会」ということになるだろう。消費社会では、商品は、ときに有用性からはまったく独立した、情報的差異を通じて消費される。商品は、使用価値(現実)ではなく、一種の情報的な差異(虚構)の領域に定位されるのだ。(P.79)

『なんとなく、クリスタル』(1981年)の話はしたくもありません。

すなわち、虚構の時代に内在している傾向性の純化や徹底化が、やがて、虚構の時代そのものを否定へと導いているのではないか。(P.81)

社会学的に言うとそうなんでしょう。見田さんの『社会学入門』、読んでみようかな。今調べたら最低価格は送料込み285円でした。ブックオフで110円で売ってないかなあ。

だが、このようにしてセックスの危険な側面を完全に除去したとすれば、われわれは、同時に、セックスの極限的な快楽、セックスの興奮をも失うに違いない。セックスが人を興奮させるのは、それが、死を垣間見せるような暴力性・危険性と接しているからである。結局、セーフティ・セックスは、セックスをセックスたらしめていた本性を抜き去ったセックス、セックスを「現実」たらしめていた何かを失ったセックスになるはずだ。それは、ほとんど虚構の中のセックスと変わらない。実際、究極のセーフティ・セックスは仮想現実の中でセックスを体験することだ。それは、たとえば「エロゲー」「ギャルゲー」あるいは「美少女ゲーム」等という名で呼ばれている、「危険抜きの恋愛」「恋愛抜きの恋愛」のゲームの形で、実際に、具現化されてもいる。(P.81-82)

理念としてのセックス、非行為としてのセックスです。精神としての(プラトニックな)・非肉体、データ・非存在としてのセックスとも言えるでしょう。

スラヴォイ・ジジェクは、こうした製品の代表例として、カフェイン抜きのコーヒーを挙げている( Žižek, For They Know Not What They Do )。類似の例はいくつも見つかる。ノンアルコールのビール、脂肪抜きのクリームやミルク・・・。こうした系列の極限には、麻薬抜きの麻薬があるはずだ。(P.82)

ジジェクの『為すところを知らざればなり』。いいタイトルですね。お金がないので買えないけど。「為さない」だけじゃなくて「為していること」も知らないのです。


経験

能力とその行使を分けることは、近代において「主体」と「客体」を、明確に別の存在として分けることにつながります。つまり、主体の「思い(希望・欲望・意志)」と客体としての「現実」との間を取り持つのが「可能」です。可能かどうかは、「実際にやってみる(行為)」ことで明らかになるのですが、それを抜きに「可能」「不可能」と考えることのひとつが「学問(知識)」です。行為せずに理解しようとするのです。

「この体系は複雑な機構であって、内省によってはじめて理解できるのである。日常それを用いている者自身、それをまったく知らないのである」。実際には、話し手は何を言っているのかだけではなく、いかに言うべきか(そして、いかに言うべきではないか)ということも知っている。そうでなければ話すことさえできないではないか。そしてまた、話し手にとっての問題が、言語的手段を「理解すること」(これは言語学者のしごとである)ではなく、それを用いる知識、規範を維持し(修復し)、体系と調和させて言語をつくる知識の方であるのは確かなことである。(コセリウ『言語変化という問題』、岩波文庫 P.91)

「言語」についての話です。カギ括弧内はソシュール『一般言語学講義』(岩波書店 P.104-105)からの引用です。日本語を母語とする人は、「言語とは何か」とか「日本語文法」を知ってから話をするわけではありません。「歩き方」を知ってから歩くわけでもありません。「左足に体重をかけて右足を出し、右足に体重をかけて左足を引く」なんて考えると歩けなくなります(このとおりにやらないと転びますが)。

マルクスは「価値」についてこう言っています。

彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。(『資本論』第1巻 S.88、大月書店 P.100)

一応、初版からも引用しておきます。

したがって、この価値の額(ひたい)には、それがなんであるか、は書かれていないのである。人間は、彼らの諸生産物を相互に諸商品として関係させるためには、彼らのいろいろに違った労働を抽象的な人間労働に等置することを強制されているのである。彼らはそれを知ってはいない。しかし彼らは、物質的なものを抽象物たる価値に還元することによって、それを行なうのである。(『資本論』初版 S.38、国民文庫 P.83)

「歩き方の知識」が問題になるのは、たとえば「ロボットを歩かそう」とか「骨折のリハビリをしよう」というときです。文法が必要なのは、「外国語を勉強しよう」と思うときです。それは「歩くことそのもの」「外国語」「物としての商品」には関係ないことです。

では、言語学とか経済学とか社会学とかの学問(科学、知、Wissenschaft )ってなんなのでしょうか。

それは「記憶」「知ること」そのものではありません。「知ることへの欲求」は「知識への欲求」ではないのです。「私が経験して覚える(体験する)」ことは、私の死とともに無くなります。ですが、それを他者に「伝える」事はできます。「ことば」とか「身ぶり」とかで。でもそれは「いま・ここ」を超えることができません。「明日伝える」事はできるかもしれません。「かもしれない」というのは、明日には忘れているかもしれないし、状況が変わって伝えられないかもしれないからです。

「いま・ここ」を超えるために必要なのは「文字」です。話すことと聞くことの分離の結果として「文字」が必要になります。「売り」と「買い」の分離が貨幣を生み出すのと同じです。

売りと買いの分離が「貨幣」という「価値の実在性」を生み出すように、話すことと聞くことの分離が「文字」という「言語の実在性」を生み出します。そしてそれは「主体の実在性」と同じことです。


漢字とアルファベット

漢字(表意文字)に慣れていると、文字は第一に「意味」を表すものです。象形文字でもありますから、「山は山の形が元になってるんだよ」というふうに、それ自体が「モノ」を表しています。アルファベットも元は象形文字ではないかと言われていますが(バリー・サンダース『本が死ぬところ暴力が生まれる』、原題は " A is for ox " 。「 A は実際、牛なのである。」邦訳 P.ⅴ)、アルファベットは、意味を表す前に「音」を表します(表音文字)。「 A 」を見て「牛」を頭に浮かべる人はいないでしょう。アルファベットは「音を表す記号」です。だから「記号論」なども生まれます。それが「モノ」を表していない以上、それは「モノ」を見る(考える)ための「素材」であって、モノはアルファベット自体にではなく、それを通して、その「奥(背後、遠く)」にあることになります。イリイチが「イコンを敷居として神の世界を見る」というように、アルファベット自体ではなく、それの「奥・背後」にあるものを見るのです。日本人だって、仏像に「銅の塊」や「削った木材」を見るわけではなく、「現実に存在する仏様自体」を見るわけでもありません。それを通して、仏の教えやその世界を見ます。

アルファベット(の並び)は、はじめから「観念的なもの」なのです。イリイチによれば、12・3世紀に、アルファベットは「モノ」を表すことから、著者の「口に出さない観念」を表すようになります。文字や本自体に意味があるのではなくて、「それが表しているもの(テクスト)」に価値があるようになります。意味さえわかれば「本・文字」自体はどうでもいいのです。「モノ」ではなく「データ(情報)」があればいいのです。

イコンと、風景画(具象画)と、抽象画との関係に近いかもしれません。

私は、それほど面白いと思わないドラマは早送りで観ることが多くあります。これは「テクスト」として観てるんだと思います。最近、「あらすじ」や「いいところ」だけを抜き出した映画がニュースで問題にされていました。「まとめサイト」というのもあるそうです。これはもう「作品を楽しむ」ということとは別ではないでしょうか。単なる「データ(情報)」です。


『トゥルーマン・ショー』(1998年)
若者たちの携帯電話の使用法についての、北田暁大の分析が明らかにしているように(北田『広告都市・東京』)、若者たちは、何らかの内容あるメッセージを送るためではなく、ただ、互いが繋がっているということ、互いが配慮しあっているということを確認するだけのために、携帯電話をかけあい、メールを送りあう。こうしたことは、家族との関係まで断って、個室に引きこもっているような若者にすら当てはまる。第Ⅴ章でも述べたように、その個室には、たいていインターネットに接続されたパソコンや、常時スイッチの入っているテレビがあって、彼らの他者たちへの繋がりを保証しているのだ。だから、他者に見られているかもしれない、ということが不安なわけではない。まったく逆に、他者に見られていないかもしれないということが、不安なのだ。だから、絶えず、見られていることを確認しようとするのである。なぜ?私がまさにここに存在しているということの存在論的確認を得るためである。(P.249-250)

『トゥルーマン・ショー』は最近観ました。それまで観ることができなかったのです。あまりにも自分の話のようで。それは小さい頃、泥棒と遭遇したことにも関係しているのですが。

「私は見られている」と思うこと、それは規範が内在していることです。「お天道様は見てる」とか「神はご覧になっている」とか。自分がトゥルーマンかもしれないことがあり、神に対抗する(共存する)ために、正義などの信念がありました。それが自分の「存在理由」を支えていました。今はあからさまに「監視カメラ」という「実在」となりました。見られていることがむしろ当たり前なのです。インターネットに繋がっていることは、自分が見られていることなのですが(データだけじゃなく、パソコンに付いているカメラで「実際に」見られていることこともあります)、そんな事を気にしていたら「散歩」もできません。

そんな現実の中で、個室が独房(見られている・守られている、見守られている)ではないことの不安が生じます。親は、「子供に干渉しない」「子どもの自由にさせる」ために、自分の欲望を抑えます。親の身勝手(酒、博打、借金、離婚、あるいは娘の強姦)が、子どもに致命的な結果をもたらすドラマの何と多いことか。老人なら「因果応報」という言葉を知っていますが、子どもにとってはそれは言葉や理念や信仰などではなく、「現実」だからです。そこで「親ガチャ」なんて言葉も生まれます。親は子どもを見守ろうとしています。でも、「監視カメラ」をつけることはできません。それは「人権侵害だから」ということではありません。親はその「権利・権限能力」を奪われています。「できない」のです。できるとすれば、それは〈他者〉です。

しかし、今日、人を捕らえているのは、こうしたトゥルーマンの不安ではない。むしろ、人はトゥルーマンになりたいのだ。(P250)

映画でのトゥルーマンは「疑い」を持っていますが、「不安」を持っていると私は思いません。「不安」を持っていると語る「著者」にも何かがあるんでしょうね。そう見えるのですから。

「アイドルになりたい(注目を浴びたい)」。私が若い頃にも「アイドルになりたい」「有名になりたい」という気持ちはありました。いや、いまでもそういう思いは残っています。当時だって「なれるわけがない」と思っていましたが、「がんばればなれる」という思いもありました。それが「夢」や「理想」「希望」としてあったのです。なれるのなら、それは「あなた」ではなくてむしろ「私」です。「私なんて」と思っている少女も「白馬の王子様」が「君じゃなきゃだめなんだ」と言ってくれることを夢見ていました。

その子どもたちがおとなになり、子どもができて、「自分はなれない」と自分を言いくるめるように、子どもに「あなたはなれない。(サラリーマンに象徴される)再利用されるようなおとなになりなさい」と教えてきました。


第三者の審級

「第三者」とは、「私(一人称)」「あなた(二人称)」があるときの「第三者(三人称)」です。西欧においては、「神の前での平等」「法の下での平等」と変形されますが、日本では「私」と「あなた」の関係が希薄です。だから「仏の前での平等」などないし、「法( law、西欧においては法則でもある)関係」というものもありませんでした。最近「コンプライアンス」という言葉が流行っています。「法令遵守」と「日本語」?で言われることもあります。「法を守る」ということと「法則(例えば万有引力の法則)を守る」ということとはまったく違います。西欧人にとってもちがうんでしょうが、まったくの「別のもの」ではないでしょう。それは「法」に近いのでしょうか、それとも「法則」に近いのでしょうか。

フジテレビの「不祥事」での会見で、盛んに「第三者委員会」という言葉が飛び交いました。面白かったのは(元)社長が、「自分の判断が正しかったのかどうかは、第三者委員会の判断に任せる」としていたことです。「自分の判断」「自分の正しさ」がないのです。第三者以前に、「自分」も「他者(被害者あるいは加害者)」もないのです。これを著者の言う「不可能性の時代」と呼ぶこともできますが、その内実はとても日本的だと思います。

「監視」という形式で、〈他者〉を具体化・物質化したときに失われるのは、〈他者〉のこのような本来的な不定性である。余すところなく張り巡らされた監視のネットワークがわれわれから奪うのは、監視カメラの物質的な現前には解消されない、〈他者〉の余剰性なのだ。監視社会が侵食し、奪い取っているのは、〈他者〉から離れた孤立した時空間ではなく、逆に、〈他者〉とのある種の関係性の方である。(P.251)

ここでの〈他者〉は二人称ではありません。「汝( you )」ではないのです。「第三者」です。

今手に持っている紙を放したらどうなるでしょうか。ひらひらと何処かに落ちるでしょう。どこに落ちるのかはわかりません。多分、ノーベル賞を受賞した物理学者にもわかりません。法則を作った神にはわかるのでしょうか。私は無神論者なのでなんともいえません。でも、「落ちる」事はわかります。それは万有引力の法則を知っているからではなくて、「経験」として知っているからです。


普遍宗教と無神論
近代は、普遍宗教に直接には依拠することなく、初めて、複雑な社会を実現したのだ。(P.255)

すなわち、無神論は、神への信仰の単純な否定ではなく、むしろ、信仰の内側から、それを食い破るようにして出てくるということ、これである。(同)

その差異は、思い切って単純化してしまえば、キリスト教的な伝統の有無に求められてきた。だが、他方で、日本は、西洋風の近代化に最も早い段階で成功した、非西洋社会でもある。こうした「矛盾」が生ずるのは、「普遍宗教」が広く根付いたことが一度もなかったという意味で、日本社会は「無神論的」だったからではないか。(P.256)

「普遍宗教」は「世界宗教」のことでしょうね。仏教・キリスト教・イスラム教が「三大世界宗教」とされます。

「普遍 universal (「一般」とも訳される)」というのもよくわからない言葉です。「特殊」の反対語でしょう。アリストテレスの論理学では「カトルー」。「カタ、下に、〜に向かって」と「ホロス、英語の whole 、丸ごと、まるまる全部」を合わせた言葉です。ホロスの反対は「メロス、分前、部分」です。

「普遍」を巡っては、中世の「普遍論争」で様々な変遷があるとおり、アリストテレスの考え方と現在の考え方とは、似て異なることです。

カトルーの形容詞「カトリコス」をもって、自らを「普遍教会」と呼んだのが「カトリック教会」です。今の(非キリスト教徒の)日本人からみて、それに違和感を感じる人は多いのではないでしょうか。

「普遍宗教」を「共同体を越えた」「共同体に根拠をもたない」宗教と捉えることができるのでしょうか。「正義」や「真実」や「客観性」などが、共同体(とその言語)とは別に存在しうるという考え方そのものが、西欧的、あるいは権力的なのではないでしょうか。


無神論

だが、無神論者であるということは、そう簡単なことではない。われわれは、そうとは意識することなく神を信仰しているからだ。たとえば、マルクスは、貨幣や商品の物神性(フェティシズム)について論じているが、資本主義社会において貨幣を使用することが、それ自体、すでに信仰の構造をもっている。(P.253-254)

だが、われわれは、ここまでの考察の中で、真に無神論的と見なしうる形象に出会ってもいる。ムーゼルマンがそれである。ムーゼルマンは、第三者の審級の不在に対応する(非)人間の在り方だったのだから。そうだとすると、ここには希望と絶望がある。絶望というのは、言うまでもあるまい。無神論が、ムーゼルマンの悲惨を含意するならば、それは、われわれが求め、取ることができる選択肢ではない。だが、希望もある。ムーゼルマンは、われわれすべてがそれに感応してしまうような、われわれに内在する偶有的な可能性を具体化しているのであった。とするならば、ここには、普遍的な連帯への手がかりがあるはずではないか。(P.254)

信仰と「神の存在を信じる(有神論)」こととは同じではありませんが、そこはスルーします。ここでも「普遍的」という言葉が使われています。

古代ギリシャでは、「メロス」というのは「運命(モロス)」をも意味していました。神による個々人に振り当てられた運命のようなものだからです。プラトンは、「イデアの分有」と言います。イデアの普遍性と個別性との関係(その二重性)を、弟子のアリストテレスはホロスとメロスという言葉で表現したのです。プラトンとは違ってアリストテレスは個別(個物)の方に重点を置きましたが、どちらも存在(あるいは実体)であることには変わりありません。普遍論争における実在論、唯名論、観念論などの立場はアリストテレスの考えるところではありません。

存在命題は、主語となる対象を、話者である〈私〉が「これ」として指示し、対峙することを前提にしている。言い換えれば、「これ」が、〈私〉の単一性(〈私〉がこの〈私〉であって他ではないということ)に正確に匹敵する特異性をもっていること、〈私〉の実在に対応する自明な実在性を有すること、存在命題はこれらの条件を要請する。主語を純粋な概念へと転じてしまう普遍命題は、話者〈私〉と不関与な命題となるので、こうした条件を必要としない。(P.259)

「アイデンティティ」です。

日系人が日本から移住した後に改宗したことは間違いないのだから、これほどまでに圧倒的に宗教的な変容をしてしまったコミュニティが、なおルーツの  つまり日本の  伝統を今日まで保持し続けることができたのはなぜなのか?その答えは、日本の文化的なアイデンティティにとって、宗教はもともと不関与だということにある。(P.265、注)

ペルーに移住した日系人の話です。南米移民の二世はだいたい日本語が話せません。三世は「日本語を勉強した」人以外は話せないでしょう。宗教や言語と伝統(文化)との関係は別として、アイデンティティというのは「普遍的な考え方」ではないのです。

普遍宗教や自分たちの言語を「普遍」だと思っていた西欧は、言語の中にも「普遍性」あるいは「法則性」を見出だそうとします。読んだことはないけど、チョムスキーなんかはそう考えているのでしょう。

マルクスが、前記引用文を書いたとき、「彼らは知らないけど、その背後には法則があるんだ」と思っていたのでしょうか。それがあるとすれば、それは「唯物史観」と言われるものです。『資本論』はその法則性を解明するために書かれていると読むのは素直だと思います。私にはマルクスの思いを知ることはできません。が、私はマルクスが好きなので、彼はそれと闘っていたんだろうと思いたいのです。「法則」がわかれば、未来を演繹(予想)することができます。人は運命(メロス)として行動すればいいのです。逆に言えば、知って行動しなくても、世界は法則に従います。しかし、かれは「未来社会」を描きませんでした。

フランス革命の後のナポレオン三世、1848年の革命の挫折、パリ・コミューンの経験。それらがマルクスに「法則への確信」をもたらしたとは思えないのです。むしろ法則にこだわる自分を(ヘーゲルを念頭に置きながら)探求しようとしていたのではないでしょうか。

それは「真実」や「知」、「普遍」にこだわるわたしたちの姿なのではないでしょうか。


有(存在)にこだわる

「0(ゼロ、無、非存在)」と「1(存在)」の間には、「0.5」があります。「0」と「0.5」の間には「0.25」があります。どこまで「0」に近づいても、そこに「数」があります。「ゼノンのパラドクス」ですね。常に「存在」が「有り」ます。「0」と「1」の間は数(この場合は実数)で繋がっているのでしょうか。繋がっている、というのが「連続体仮説」です。つまり「無限」という考え方が必要です。

無限に続く空間は、無限に続く時間(永遠)とともにガリレオ空間を作ります。ガリレオは「時間」と「空間」を区別しました。それまでは、西欧においては時間と空間を「分ける」ということ自体がナンセンスだったのです。日本ではどうだったのでしょうか。加藤周一の『日本文化における時間と空間』あたりを読むとわかるのでしょうか。

キリスト教(ユダヤ教)では、神が世界(時間・空間)を創ったと言われます。

旧約聖書(元はヘブライ語)「創世記」は、こう始まります。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」(新共同訳)

新約聖書(元はギリシャ語)「ヨハネによる福音書」は、こう始まります。

始めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。(新共同訳)

古田裕清さん(ずっと「古谷」さんと書いていました。ごめんなさい。誰も指摘してくれないんだもの。誰も読んでくれないから仕方ないんだけど)はこう言います。

教義上、個物と普遍はどちらも被造物であり、その区別は神による被造性という観点では霞んでしまう。より重要なのは、そもそも唯一神が世界(普遍と個物)を無から創造したこと。このような創造は元来、セム系の人々に特徴的な考え方で、印欧語族には元来希薄だった。ギリシア自然哲学もこれと無縁(制作という観点はあるが、無からの創造はない)。プラトンはアルケーとしてのイデア(形相)から無へと遡及することはなく、アリストテレスにとっても普遍と個別の違いが哲学の最大問題だった。(『西洋哲学の基本概念と和語の世界』P.189)

「ある」ことは証明可能ですが、「ない」ことは証明不可能です。「無」を想像することは難しいことです。「無」を想像している「自分」が存在するからです。禅では「無」が強調され、「無我の境地」が説かれます。

宇宙(真空)は「エーテルで満たされている」と考えられていた時代がありました。なにもないところでは波(光波)は伝わらないからです。何か(エネルギーとか)が伝わるには、「伝えるもの」が必要です。エーテルの存在が否定されたとき、「光は波でもあり、粒子でもある」と「素粒子」が考え出されました。素粒子は「どこ」を飛んでいるのでしょうか。真空ではなくて「空間」です。もう一つ、伝わるということは「始め」と「結果(目的、目標)」との間に「時間」が必要です。時間は存在するのでしょうか。アインシュタインは、「絶対的(普遍的)」な時間の存在を否定しましたが、時間の存在自体を証明したのではないと思います。その後は私の知らない現代物理学の世界ですが、物(存在)の最小単位が量子物理学で記述されます(確率として)。同様に時間の最小単位も計算されます(量子重力理論)。

私のようなシロウトは、「じゃあ、その最小単位と最小単位の間には何があるの?」と思ってしまうのですが、きっとそんなふうに考えること自体が「間違い」なんでしょうね。

あっちから見た時間と、こっちから見た時間がちがうという「相対論的時空観」も、想像しにくいものです。

われわれが抱いているような時間と空間についての概念は直感に基づいていて、一般に普遍的なものとされている。(B.L.ウォーフ『言語・思考・現実』、講談社学術文庫 P.13)

幾何学でも、ユークリッド幾何学以外の幾何学で空間的な図形について全く同様に誤りのない説明を与えるものがいくつでもありうるが、それと同じように、われわれにとってのお馴染みの時間と空間という対立を含まないで、それでいてすべて等しく成り立つような宇宙の記述もいくつでもありうるのである。現代物理学の相対性に基づく観点というものも、このような見方が数学的に表された一例である。ホーピ族の世界観も同様の例で、ただ全く違った種類のものであり、数学的なものではなく言語的なものであるというだけである。(同 P.14)

「いま・ここ」という、誰にでも基本的な考え方だと思われることも、時代や文化(あるいは言語)によって違うのです。西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」として、この近代西欧的な時空間を乗り越えようとしました。

すべてわれわれの欲望または要求なるものは説明しうべからざる、与えられたる事実である。われわれは生きるために食うという、しかしこの生きるためというのは後より加えたる説明である。われわれの食慾はかかる理由により起こったのではない。小児がはじめて乳をのむのもかかる理由のためではない、ただ飲むために飲むのである。(西田幾多郎『善の研究』、「日本の名著47」 P.168)

今西錦司は、

変わらないというのは、言葉を変えたら、自己同一性(アイデンティティ)を保っているということであるから、私も種も、自己同一性を維持しながら変わってゆく、ということだろう。そして、自己同一性をもちながら、変わるべくして変わってゆくもの、あるいは自己運動によって変わってゆくようなもののことを、ここであらためて主体性をもったもの、と定義しよう。しかし、変わるべくして変わるということは、この空間的・時間的な世界に存在するあらゆるものについて、いえることではないか。(今西錦司『主体性の進化論』、中公新書 P.209)

無限に続く空間と、無限に続く時間に支えられた「存在」が、西欧的アイデンティティ(オート、セルフ、自己同一性)です。それは古代ギリシャ的なものでもないけど、それも含み、キリスト教的でもあるようでないような。もちろん「禅」の世界観とも別なものです。


神的暴力

ベンヤミンは読んだことがありません。

誰も、命令(「殺せ」「殺すな」)を下してはくれないからである。ここでは、命令を発し、責任を負ってくれる超越的な他者(第三者の審級)が、どこにもいないのだ。だから、人は、この禁止に従ったり、これを無視したりすることの責任を自ら担わなくてはならない。要するに、神的暴力とは、その形容詞とはまったく逆のことを、つまり神(第三者の審級)の不在やその無力をこそ含意する行動である。(P.271)

法措定的暴力は、法とともに、法に妥当性を与える第三者の審級(神)を措定することになるからだ。(同)

神的暴力の解放的な潜勢力を活かすためには、それゆえ、第三者の審級がこっそりと回帰してくるのを抑止しつつ、その不在を敢然と引き受けなくてはならない。(P.273)

統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。(同)

著者は、可能性(希望)の理論として、ダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツの「小さい世界(スモール・ワールド)」を挙げます。読んだことはありません。

私はこの本が出版された11年後(2019年)に中村哲氏がタリバンに(?)銃殺されたことを知っています。中村氏や松本サリン事件の被害者河野義行氏について、

河野氏の実践は、「ランダムな線」が最も困難なところにも、これ以上もないほどに敵対しあっている者同士の間にも引かれうる、ということを示している。これらの実践の中に、真に徹底した民主主義への希望がある。(P.285)

と言います。

繰り返しますが、私はこの本が書かれた17年後にこの本を読んでいます。私はずるいのです。その上で、そこには「希望」を持てません。理論(世界観)から生まれるものは、その世界観に基づいた世界(現実)です。その世界(現実)から理論(世界観)が生じるだけです。

今、私が感じるのは底しれない「無力」(P.271)感です。最近記憶力が怪しい私が持っているのは、いつなくなるかもわからない「知識」ではなく、「現実」としての経験だけです。それもすぐに「無」くなるでしょうが。そして「現実(実在)」から見れば、経験などはそのごく一部であることは明らかです。

知(科学)は、多くの「如何にして( how )」を明らかにしてきました。でも、「何故(なぜ、 why )」には近づきません。何故は「0」同様に、「数(有)」をいくらくりかえしても到達しません。ゼロは有にとっては「第三者の審級」のようなものです。

アリストテレスはゼノンのパラドクスを「次元が違う」ということで説明しています。その部分を引用します。

もし一それ自らが不可分割的なものであるならば、ゼノンの要請によると、それは全く存在しないことになる(中略)いったいどうして大きさが、一つのあのような、あるいは一つより多くのあのような〔不可分割的な〕ものから、生じるというのか、これはたしかに問題である。それはあたかも、線は点から生じると主張するようなものだから。(『形而上学』1001b、邦訳旧全集第12巻 P.84-85)

点をいくら増やしても線にはならないし、線をいくら分割しても点(大きさをもたないもの)にはならないのです。アリストテレスの実在(存在)の中には「無」はありませんでした。西欧に「0」が伝わったのは13世紀だと言われています。

アリストテレスの「ヒュポケイメノン」をラテン語「 subiectum ( subject、主語、主観、主体)」と訳したとき、セム語と印欧語の文法構造の違いが明確になります。普遍と個物の関係が、無と有、主体と客体の関係に忍び込みます。

存在(アイデンティティ)の中で「無」を語ることが、「神(第三者の審級)」が「こっそりと回帰してくる」(P.273)要因なのではないでしょうか。




[著者等]

大澤真幸 (おおさわまさち)
 1958年長野県に生まれる
 東京大学大学院社会学研究科博士課程修了.千葉大学文学部助教授などを経て,
 現在─京都大学大学院人間・環境学研究科教授,社会学博士
 専攻─比較社会学・社会システム論
 著書─『行為の代数学』『性愛と資本主義』『帝国的ナショナリズム』(青土社)
    『身体の比較社会学Ⅰ・Ⅱ』(勁草書房)
    『電子メディア論』(新曜社)
    『虚構の時代の果て』『戦後の思想空間』(ちくま新書)
    『文明の内なる衝突』(NHK ブックス)
    『思想のケミストリー』(紀伊國屋書店)
    『ナショナリズムの由来』(講談社,毎日出版文化賞受賞)など多数


「現実から逃避」するのではなく,むしろ「現実へと逃避」する者たち──.彼らはいったい何を求めているのか.戦後の「理想の時代」から,70年代以降の「虚構の時代」を経て,95年を境に迎えた特異な時代を,戦後精神史の中に位置づけ,現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る.大澤社会学・最新の地平.

序 「現実」への逃避

Ⅰ 理想の時代
 1 敗戦という断絶=連続
 2 理想の時代
 3 死者の来訪

Ⅱ 虚構の時代
 1 二つの少年犯罪
 2 虚構の時代
 3 理想から虚構へ、そしてさらに……

Ⅲ オタクという謎
 1 オタクという現象
 2 アイロニカルな没入
 3 社会性と非社会性

Ⅳ リスク社会再論
 1 二つの「下流」
 2 リスク社会とは何か
 3 自由は萎える

Ⅴ 不可能性の時代
 1 不可能性の時代
 2 家族の排除
 3 反復というモチーフ

Ⅵ 政治的思想空間の現在
 1 「物語る権利」と「真理への執着」
 2 信仰の外部委託
 3 〈破局〉の排除
 4 羞恥心をめぐって
 5 無神論への突破

結 拡がり行く民主主義
あとがき
主要参考文献



[9784004311225]

シェアする

フォローする