
図書館のリサイクルでもらった本です。発刊されたのはちょうど50年前、半世紀前ですね。そう考えると随分前の本です。著者の『ことばと国家』(1981年、岩波新書)を読んでいたので、比較的スムースに読めたように思えます。
内容よりも著者の熱量が伝わってくるようです。不思議です。これは「若さの力」なのでしょうか。刊行当時41歳。なんかわかる気がします。2003年に岩波現代文庫版がでています。内容が変わっているかどうか分かりませんが、こういうエネルギーをもち続けることがすごいです。
特にⅣ章「日本語への視点」は、それまでの論考を踏まえて書かれていますが、著者の思いのほうが全面にでている気がします。その後の著者の考えは変わったのでしょうか。逆にそれを知らないほうがいいと思うくらい、いい文章です。もっとも、ことば(特にに文字)でことばを説明することは不可能です。ことばをその部分である「単語(語彙)」や「文法」や「音(音素)」に分解して説明しようとしても、それは「ことばそのもの」を説明したことにはならないのです。
論理で論理を説明することは出来ません。ソクラテス(プラトン)が文字を否定的に捉えたように、あるいはアリストテレスが「それを聞くのは愚かだ」と言ったように、出来ないのです。それでも伝えたいことは伝えようとするし、伝わらなくても仕方がないし、少しでも伝われば嬉しいものです。
ソ連(ソビエト連邦社会主義共和国)がなくなって、30年余り経ちました。ソ連という名前を聞いたことがない人も増えてきていると思います。連日ロシアとウクライナの戦争が報道されていますが、ロシアが昔も今も「連邦」であることは、「ロシア連邦」という報道がなされないので気が付かれないことも多くなっています。
アメリカは「アメリカ合衆国」ですが、本多勝一が『アメリカ合州国』と言ったように、各州は独立した州法・州憲法をもち、州議会・州政府や州軍をもった独立した国(邦)ともいえる連邦共和国です。各州の代表者(選挙人)が大統領を選ぶ(間接選挙)のはそのためでしょう。
ドイツも「ドイツ連邦共和国」、イギリスは「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」です。グレートブリテンはイングランド、ウェールズ、スコットランドという国 country で構成されます。「国」というもののとらえ方は各国ごとに違うし、日本も当然違います。
「お国(邦)はどこですか」という問いは、「出身地はどこですか」という意味です。「お国ことば(方言)」の「お国」は「東京(江戸)や京都」などの大都会から見た「地方」を指すことが多いでしょう。
私が生まれ育ったのは「地方」ですが、私の世代では方言で話すことがほとんどなく、東京弁以上に標準語に近い言葉で話していました。私の両親もほぼ標準語ですが、祖父母はかなり方言が強かったのを覚えています。ことばは数世代で大きく変わります(小野米一「移住と言語変容」岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』所収、参照)。
それでも私には方言があります。でも、それを感じたのは大学生の時です。いろいろな地方から集まった人との会話で「あれっ?」と思うのが、その人の方言で、私の方言でした。大阪から来た人は、河内弁をやめませんでしたが、山口から来た人は決して山口弁を話しませんでした。彼が実家と電話しているのを聞いたことがありますが、何を言っているのかまったく分かりませんでした。東京から高校生の時に転居してきた人は、同じ発音の語彙の意味の違いで大失敗した話を面白くしてくれました。それ以来文章を書くときは、「方言」が入らないように注意していますが(イントネーションは文字にならない)、そもそも「どれが方言か」ということが分かりません。毎日何時間もテレビを観ているのにもかかわらず。
ことばが作法であるならば、方言の話しては生まれながらにして、つまり出自そのものによってしつけができていないためのハンディキャップをもっている。だから日本語への意識を明らかにしようと思えば、まず方言への意識を明らかにしなければならない。(P.200)
マジョリティは、自分がマジョリティであることに気が付きません。自分がマイノリティであることは、つねにそれを考えることになります(岩渕功一編著『多様性との対話 ダイバーシティ推進が見えなくするもの』参照)。
でも、生まれながらに母語が「標準語」の人はいるのでしょうか。「ことばは教えられる」という意味ではなく、強いて言えば「標準語を話している母」がいるのでしょうか。NHKニュースのアナウンサーを始めとして、ドラマのセリフだってほとんどは「日本語文法」に合わせて「創られた」ものです。ASDの人で標準語で話す人がいるそうですが、東京の人でも標準語で会話している人はいないのではないでしょうか。若者語や流行語がとどまることなくでてきます。語彙だけでなく、話し方そのものが変わります。それには様々な要因が考えられますが、標準語では感情を伝えにくいのもその理由の一つでしょう。
だいいち、ドラマのようにしょっちゅう「ひとりごと」を言っている人は、「独語症」です(私は最近独り言が多くなった気がします)。でも、皆さんは口には出さなくても「ことば(日本語)で考えている」のでしょうか。「頭がかゆい」ということばは、たいてい頭を掻いた「あと」にことばになるものだと思います。「あと」にでさえ考えることは少ないのではないでしょうか。歩くときに「右足を出そう」「次は左足」と考えないのと同じです。ただ、そう考えるときがあります。リハビリなどのときです。つまり、自分が「普通じゃなく(マイノリティ)」になったときです。
「歩行と同じくらい自然であって、ただ呼吸よりは自然でないように思われる」(サピア)ところの言語にあらためて問いを発するには、直接間接の動機がなければならなかったはずだ。(P.11)
私の方言に対する「恥ずかしい気持ち」は、他人の(アナウンサーなどの)「間違った日本語」に対する激しい嫌悪として現れています。そしてそれは「正しい言葉」としての「学校文法」に基づくものです。
今思えば、小学校や中学校の先生から「ちゃんとした日本語文法」を教えてもらった記憶がありません。先生がたは(特に中学校の先生は)大学で日本語学を勉強していたはずなので、「学校文法」に「怪しさ」を感じていたのかも知れません。なんせ生徒は学校文法でも、古典語でもなく、「生きたことば」で会話しているのですから。私は「動詞」とか「名詞」とかの品詞は英語の授業で覚えた気がします。
伏字の文庫本を何冊かもっています。著者のいうとおり、古本屋の店先のワゴンで10円とかで売っていました。中には漢字や仮名よりも「✗✗」のほうが多いんじゃないかというような本もあって、「出版社は意地だけで発行しているな」と思ったものです。検閲者も意地で消しているのでしょう。でも今思えば、それは「発禁(発売禁止)」にならなかったから出版され、流通したのです。著者(訳者)も出版社も、そして検閲者も「本を出版することは大切」だと思っていたのではないでしょうか。
戦後、私の知る限りでも多くの本が発禁になっています。「検閲」はできませんから、店頭には並びます。並べた瞬間に没収するのです。発禁になることが、著者(訳者)や出版社の勲章だったりもしました。最近は「自主回収」されることが多くなっているような気がします。印刷・製本をしてもしなくても、「回収した(昔なら発禁になった)」という情報だけを流通させればいいのですから。
文字はことば(音)を「固定したもの」で、ことばと同じようなものとして扱われています。日本で庶民が文字を使うようになったのは100年くらい前からです。識字率は「ほぼ100%」と言われていますが、読み書きができない人もいます。赤ちゃんは読み書きできないでしょうから100%ではありません。世界ではどうでしょう。文字がない文化や民族はたくさんあります。そう考えると「文字はことばを表す」という考えが普遍的だとは思えなくなります。
文字はもともと、ことばを遠く(時間的、距離的)に伝えるための手段です。神の言葉を伝えたり(吉凶を現したり)、戦地の兵に指示を出したり、荷物の中身を表示したり、伝言を残したり、過去の存在(現在の不在)を表現したりするものです。面と向かって話せるときには(筆談は別として)文字は必要ありません。
言うまでもなく、数百人のための言語には、文字かないのが普通であり、数億の話し手人口を擁する言語には、文字がないということは考えられない。言語学者は、その言語が、どの程度の人口によって話され、また、どのような文化の領域で用いられているかなどという問題は、体系としての言語の研究にとって全く外的であり、むしろそこに気をとられないように、絶えず注意していなければならないとたしなめる。このような言語の見方にもある程度は理由があるように思われる。そしてその見方の根には、言語は何よりもコミュニケーションの道具であるという考え方が横たわっている。コミュニケーションの具として機能し得ているかぎりにおいて、言語はそれぞれ等価なのである(P.177-178)
広域を支配する支配者が「文字」を利用した、あるいは「利用さざるを得なかった」のは当然でしょう。そして庶民はそれが必要だなどと考えもしなかったに違いありません。
「伝えられる」「残せる」というからには、「伝える・残す」前の「何かがある」だろうということになり、ことばはその「何か」を伝えるための道具である、ということになります。そうであれば、「伝える・残す」ことが大切で、それさえ実現できれば、そのための手段は取り替え可能です。よく(うまく・上手に、あるいは効率的に)伝える「技術」はあるかも知れませんが。
翻訳は、その「何か」を別の言語に移そうとします。原文が持つ「内容」を、訳者が別の言語の「形式」に直すのです。
言語の内容は翻訳できても形式の翻訳は、ほとんど絶望的である。言語表現でも、技術のことはともかく、芭蕉の俳句やプーシキンの詩がほとんど翻訳できないといわれるのはそのためである。(P.238)
ことばとは「別に」話し手の「心(意図・感情・感覚など)がある」というのは、道具とその使い手が区別されるということと同じです。別の言い方をすれば、作品とは別に作者がいるということです。
あたり前のことに思えますが、作者が作品に「署名(サイン)」するようになったのはそんなに古いことではありません。今日も『開運!なんでも鑑定団』を面白く観ましたが、本物か偽物かは「シロウト目」にはよく分かりません。わからないから面白いのですが、「本物か偽物か」が問われることは、誰が作者かということで、それもそれほど古いことではないと思います。そしていま、「偽物」「印刷」「コピー」「贋作」「模造」、さらに「フェイク画像」「フェイク動画」があふれ、それを規制しようという動きが強まっています。それらが存在するということ自体が、未だに「作品と作者」が「まったく別のものではない」ことを物語っています。
文字文化の延長としての技術はどんどん発展し、コンピュータのデジタルデータとそのコピーの区別はできません(区別できないということがデジタルです)。さらに「人間独自」のものだった思考も、「AI生成」されるようになっています。
それでも機械にはわからない、「心・意図・感情・感覚」のようなものがあるのでしょうか。
この問いは、「文字にできないものがあるか」というものですが、それと同時に「ことばにできないものがあるか」という問いでもあります。文字のない文化には前者はありません。文字のある(文字が前提の)文化では、この二つの問いの区別が難しくなります。
本を黙読するようになったのは、多分8・900年くらい前からです。それまでは読むときも、書くときも「口に出して」いました。話すことと書くこと、ことばと文字がつながっていたのです。文字が表していたのは、話し手の動き(口の動きや手の動き)です。黙読によって、ことばは体の動きから独立します。そして、文字はことばを表すものではなくて、作者の「心・意図・感情・感覚」を表すものになります。道具と道具を使う人との分離、作品とは別の作者の誕生です。ことばとは別に文法があることも確定します。アリストテレスが否定したプラトンが復活します。
私は日本語を話して日本語で書いています。それは漢字とひらがなとカタカナでできています。
西洋語はかならずカタカナで書かれなければならないし、漢語はかならず漢字で書き表されなければならない。それをかな書きにするのは教養の無さを暴露することであり、はずかしいことである。その語の来歴をはっきり示せる知識が、日本人の基本的な、言語の教養である。これがもっとすすんで、なにか耳新しいことばを聞くと、それはどう書くのかとたずねる。(中略)
漢字は本字、すなわち正式の文字であり、かなは「仮の字」と呼びならわす文字への意識、つまり他国の文字をもって正となし、自国の根のことばを俗とする、この漢字インタナショナリズムは、他国の文化に対する謙虚さであると同時に、自国の人民、ここでは文化概念としての「常民」に対する傲慢さの極致をなしている。(P.183-184)
「忖度」という単語が突然マスコミに出てきたときは驚きました。そんな単語は聞いたこともなかったし、当然漢字などは思い浮かびません(いまでも書けません)。でもそう言うことは自分の無学をさらすことですから、はずかしいことでした。国会で議員が使っている単語ですから、国民が知らないはずはないのです。
最近は「カタカナ語」がそのまま使われていて、国会の質問も答弁もカタカナ語で溢れています(スムースに発音できていない議員もいます)。特に野党の若い議員に顕著です。私には何のことだかわからないことも多々あります。それは日本語なのでしょうか。去年の選挙のときに演説会で渡された某党の「政策パンフレット」がずっと机の上にあって、その中身がぜんぜん理解できなかったので、いつか調べようと思っていたのですが棄てることにしました。有権者は「政策」ではなくて、何に投票しているのでしょうか。
一つ質問をします。
① 「日本人は日本語を話している」か
当たり前の質問ですね。なぜかというと、
② 「日本人が話しているのが日本語だ」から
この答えは「正しい」でしょうか。正しいと思います。この問答が日本語だから。多分、英語では難しいでしょう。なぜなら、①は「事実」を表していて、②は「原因」や「理由」よりも、むしろ「定義」を表しているからです。①は「日本人が日本語を話しているという事実、がある」かということで、②は「日本人が話しているのは日本語、である」という「命名(名づけ)」です。「〜がある」と「〜である」は日本語ではまったく別のことです。
しかし、ことばがそれに名づけを行ったとたん、夜空に熊や猟師が現れる。このことがよく物語っているように、ことばはあらかじめ現実の中に示された分類に対して貼りつけられたレッテルでもなければ、人間の意識そのものでもない。(P.251)
私が中学校で習った最初の英語は「 This is a pen. 」でした。ドリフターズの荒井注のギャグもそれです。今は「 Hello, ~. 」から始まるのでしょうか。私は英語(外国語)は高校1年生の4月に勉強するのを辞めたのでよくわかりませんが、英語にすると①②は、
①’ Do Japanese (people) speak Japanese?
②’ Japanese (people) speak Japanese.(詳しく言うなら、The language that Japanese peak is Japanese.か)
「日本人」も「日本語」も「 Japanese 」なのでちょっと紛らわしいですが。①’は「 There is a pen. 」②’は「 This is a pen. 」と対応します。「 is 」はbe動詞(繋辞)と言われます。①’は「ペンがある」②’は「ペンである」です。「 is 」は「〜がある」と「〜である」両方の意味がありますが、同じです。ではどうやって日本語のような区別をつけるのでしょうか。文全体でです。ところが、文を単語に分け、「Japanese 」を「名詞」、「 is 」を動詞、「 This 」を代名詞とかすると、「文全体の意味」が失われてしまうのです。また、「Japanese 」を主語、「 is a pen 」を述語とするのも同じです。そして、分けてしまうと「Japanese 」も「 pen 」も「 is 」ですら「有る」と思ってしまいます。
③ This flower is beautiful.
④ The flower is / has ( Flowers are / have ) beautiful / beauty.
小林秀雄は言いました。
美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない。(「当麻」『モオツァルト・無常ということ』新潮文庫所収 P.69)
アリストテレスが『形而上学』で一生懸命説明しようとしたのがこのことです。「ソクラテスは白い」というときに、「ソクラテス(個物・固有名)」が有り「白い(イデア、エイドス)」が有るわけではない、「ソクラテスは白い」が有るんだ、ということです。
古典ギリシア語にも(現代ギリシャ語にも) be動詞にあたる「 είμαι 」があります。英語と同じで主語や時制によって変化します。ところがこれは省略してもいいのです。ラテン語にも「 sum (不定形では esse )」がありますが、「 sum 」一語で「 I am 」です。「Cogito, ergo sum.(我思う、ゆえに我あり)」のように使います。3人称単数なら「 est(he is, she is, it is)」です。
①この花は白い。
②これは白い花だ。
日本語で、二つの似たような文を挙げてみる。”白い”が形容詞なのだが、①では述語として使われ、②では花を(文字通り)形容している。
これをラテン語で表現すると、どちらも、Hic flos albus est. 同じ文ですませることができる。(「エリウゲナの窓」から引用)
ほかの印欧語、セム語(ヘブライ語)、中国語・・・、それぞれいろいろな表現があるでしょう。
「美しさ」の「さ」に当たるものも言語によって違います。冠詞をつけたり、複数形にしたり、接尾語をつけたり。日本語では「多様」に「性」をつけて「多様性」。「多様であること」「白くあること」といえば、意味はわかっても日本語としては不自然ですね。「美性」「白性」とはいいません。「美しさ」「白さ」は自然です。
こういう面倒なことになる原因の一つは、「文字」でしょう。文字にすることによって、ことばは文となり、単語となり、品詞となり、音節・音素となります。分解したものをつなぎ合わせていけば「ことば」になるのでしょうか。アルファベットにしたことばを適当(ランダムに)に並べてもことばにならないのは明らかです。アルファベット同士を結びつけている「何か」があるはずです。それが「意味」だったり「文法」だったり「イデア」だったりします。それらは「有る」のでしょうか。
日本語では「花がある」と「花である」はまったく別なので悩む必要はありません。「花がない」と「花でない」も明確に違います。「0(ゼロ)がある」と「0(ゼロ)である」はまったく違います。「無い」が「有る」か。パルメニデスは「ないはない」と言いました。アリストテレスは、(イデアやエイドス的数)は「可能態(観念的)にはあるが、現実態(現実的)にはない」と言いましたが、その大もとにあるのは「主語と述語は分けることができるが、ことばは全体としてしか存在しない」ということだと思います。文法もイデアも同じで、「あるといえばあるけど、可能態としてある」ということです。立体を切ると面ができます。では、切る前から面はあったのかというと「可能態」としてあったのです。では「断面」はあるのでしょうか。あります。ただし「面」ではなく新しい「外皮」として。それが「(厚さ・深さのない)面」だとしても、その「面」をいくら加えても(厚み・深さのある)立体にはなりません。
ことばの中に文法を探すことはできるけど、文法で話すわけではありません。現実にあるのは「ことば」だけです。
ところで、ことばの生命はまさしく、この形式の面にあるのである。内容だけが問題であるとすれば、ことばはもともとあまり必要ではない。(P.232)
「何を話すか」よりも「どう話すか」が大切だということは、日常経験することです。芭蕉の俳句がすぐれているのは、「何が詠まれているか」よりも「どう詠まれているか」でしょう。でも、どう詠まれるかによって、何が詠まれているか、それがどう伝わるかは変わります。国によって星座の見方が変わるように。
ウィトゲンシュタインが『哲学探究』の最初で引用しているアウグスティヌスの『告白』の文章(第一巻、第八章)は、
大人たちが何かある物の名を呼び、そちらの方を向くと、私はそのことを知覚しました。そして彼らがその物を指差そうとするので、彼らが発する音によりその物が意味されていることを理解しました。ですが私がこのことを見て取ったのは、彼らの身振り、すなわちすべての民族にとっての自然な言語である身振りからでした。身振りというこの言葉は魂が何かを欲したり、固執したり、拒絶したり、何かから逃げるとき、その感情を顔つきと目の動きや、手足の動きや、声の響きによって表すものです。こうして私はいろんな文の中の特定の場所である言葉がくり返し発せられるのを聞き、その言葉がどんなものを意味するのか徐々に学びました。そして自分の口がそうした音の記号に慣れるようになると、自分の欲求をそれらによって表現しました。(鬼界彰夫訳『哲学探究』P.20-21)
この引用の前には、
けれどもどうして話すことを学んだかに注意をむけたのは、後になってからのことです。(アウグスティヌス『告白』世界の名著14、P.71-72)
とあります。ウィトゲンシュタインが何をいいたいのかは分かりません。でも、たぶんアウグスティヌスは声を出しながら書き、読んでいただろうということです(実際に書いていたのは秘書・書記かも知れませんが)。彼にとって、ことばと動きは分離されていなかったし、ことばと動きとモノと文字とが今のように「別のもの」ではなかったのです。そして彼が見ていたのはことばや文字そのものではなく、それを通してあらわれる「神(のことば・世界)」です。そして、欲求とことばも別のものではありませんでした。
彼がことばにし、書くことによって「告白」したのは(しなければならなかったのは)、近現代のようにことばとは別に欲求があったからではありません。
著者が「ことばの生命はまさしく、この形式の面にある」というとき、「内容が同じであれば、方言でも標準語でもいい」とか「どんな言語でもいいのだから、エスペラント語にしてしまったほうが楽だ」というような考え方を批判したいがためです。また逆に、「内容(意味)とは関係ない普遍的・一般的な形式・文法がある」という考え方も否定します。
その論旨には私も賛成です。ただ、形式(形相、form )と内容(質料、content )は別々にある(存在する)のか、私はそこが問題だと思っています。
たとえ意志は通じるとしても、異なる言語以上に、方言は人々を分けへだてることがある。意志の疎通が得られた上で、なお人々の間を裂くという、この言語の本質にやどる機能を、決して見逃してはならないのである。(P.14)
バベルの塔を持ち出す必要はなく、どの言語も「海の向こう」「山の向こう」あるいは「峠の向こう」には別の言語がありました。そこは「鬼」や「バルバロイ(ベロベロと話す野蛮人)」の住む場所でした。一つの細胞(生命)からすべての生物は進化(分化)してきたのと同様に、一つの言語から、すべての言語が進化(分化)してきたなどということは、「フィクション」だと思います。神がすべての生物を創った、一般的(普遍的)な文法がある、というのと同様に。言語は変化しますが、それはつねに一つの全体として存在します。それが「必要を満たしているか」「充分か」と問うのはナンセンスです。人間は手が二本だけれども、それで必要を満たしているか、充分か、という問いと同じです。
ことばがあるばかりに、人は言語で意志を伝えなければならないし、伝えられないのです。そのことばと別に「意志」なるものがあるとすればですが。「主体」としての意志と、「客体」としてのことばがあるとすれば、ということです。
私は西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という言葉を連想します。たとえば「主体と客体」は「矛盾」したものでしょうか。そしてその矛盾は「絶対的」なのでしょうか。主体と客体が別なものだ(分離している)と考えると、それは矛盾かも知れません。でも、別のものでなければそもそも「同一化」する必要がないのです。一旦分離してしまえば(つまり、近代的自我 ego が成立してしまえば)、その分離は「絶対的」に見えます。そして、その自己同一化は不可能と思えるほどの困難を伴うでしょう。それは禅の修行を必要とするように思えます。
マルクスはそれをヘーゲルに習って「商品の矛盾」と表現します。「使用価値と交換価値」「売りと買い」などです。まさに「自己と他者」「主体と客体」「精神と肉体」「観念と物質」の二元論です。ヘーゲルは精神の側からの統一(自己同一化)を目指したし、マルクスは物質の側からの統一を目指したように思います。
その乗り越えには、修業が必要だったり、神が必要だったり、革命が必要だったりするのでしょうか。私は、自分の経験から言って、それは不可能にしか思えません。ただ、文化や言語によって(あるいは時代によって)、その乗り越え方は違うのだろうと思います。現実とは別に、普遍的な(誰にでもどこでも当てはまる)方法や法則を考えようとした途端に、現実は逃げてしまうような気がします。
ふしぎなことに、これほどヨーロッパ的普遍から遠い、「閉ざされた言語」日本語の話し手たちは、他方では同時に熱心な普遍の信奉者であったため、普遍的な技術、知識、思想などの現物輸入は重んじたけれども、それに応ずべき言語は普遍的でなかったため、技術や思想が言語、すなわち日本語の問題として意識される機会は少なかった。
日本の近代学問は自らの発展のために、むしろ足手まといでさえあった日本語の根と手を切って飛翔したのである。かくて「日本語をおいてきぼりにして社会科学が発展してきた」様相すらとるに至った(内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書)。(P.258)
私は、「日本語(やまとことば)の復権を」とも思わないし、「日本語が世界を平和にする」(金谷武洋)と思えるような自信や優越感もありません。「日本語教」(鈴木孝夫)徒になる気もありません(かなり影響を受けていますが)。
ただ、日本語が英語などの印欧諸語と違うということは分かってきました。その違いこそが非西欧で「科学・技術」をすんなり(ある意味で西欧より徹底的に)受け入れました。主体が確立することなく、つまり「主体・客体」が成立することなく、客体(科学)を受け入れたのです。それを可能にしたのは、日本語の特徴でしょう。
「IDとパスワードを入力してくだい」が「名前と生年月日を入れてください」と同じだと多くの日本人は思っているでしょう。「国民総背番号制度」はダメでも「マイナンバー」はよかったりするのが日本語です。そして小学校から英語を教えられている現在、「である」と「がある」の違いが「当たり前」じゃなくなるかも知れません。
方言が少なくなる分、差別が大きくなっていくだろうことに気がつく人は少ないかも知れません。「平等」や「民主主義」を拡大しようとすればするほど、格差は広がり、生きづらさが増します。それも「八紘一宇」や「人類みな兄弟」と同様に日本語の特徴が生み出し、引き継がれてきたものです。
私は日本語とそれが生み出した「日本型西欧近代自我」から逃れることはできません。
母語は、
それはちょうど母親をとりかえようと企てるのと同様に、選択の余地を残さぬ運命なのである。(P.54)
だから、もし可能性があるとすれば、それは日本語にしかないのです。
[著者等]
田中 克彦(たなか かつひこ、1934年6月3日 - )は、日本の言語学者。専門は社会言語学。モンゴル研究も行う。言語と国家の関係を研究。
