形而上学 アリストテレス著 出隆訳 1968/04/27 岩波書店 旧全集第12巻

形而上学 アリストテレス著 出隆訳 1968/04/27 岩波書店 旧全集第12巻
訳について

底本は、ロス教授校訂の、

aristotle's Metaphysics, a revised text with introduction and commentary by William David Ross, 2 vols., Oxford, 1924 

です。これは「INTERNET ARCHIVE」で見ることができます(Volume 1 A-E (1-6), Volume 2 Z-N (7-14))。 「ベッカー版原典」に基づくページ(例「1093b20」、1093ページのb欄の20行目)が欄外に付けられています。1000ページ目といっても始まりが980ページ、最後が1093ページなので『形而上学』の部分は114ページです。ベッカー版原典はみたことがありませんが、一ページが左右二段になっていて、左欄が a, 右欄が b と呼ばれています。多分こんな感じ。

形而上学 アリストテレス著 出隆訳 1968/04/27 岩波書店 旧全集第12巻これは1275年のラテン語版。『形而上学』と『ニコマコス倫理学』が入っているそうです。挿絵こそありませんがきれいな本です。こんな本を持ってたら家宝にするんだけどなあ。

もともとの原典は、巻の名前や、章分け、段落分けもなかったはずですが、いろいろな注解者、校訂者、翻訳者などが、わかりやすく整えました。

この訳書には、丸括弧()、棒線、かぎ括弧「」などが底本や、諸解説書にしたがってつけれらています。また、角括弧〔〕は

その直前または直後にある訳語または訳文の意味を限定しまたは補充してより多く原意に近づけ、あるいはその前と後のあいだに隠されているものを明るみに出して原文の文意・文脈(論の筋道など)をいっそう正しく伝えようとの訳者の老婆心によって、任意に換言され・補足され・補説されたもの(本書、邦訳旧全集、凡例 P.ⅴ)

です。

さらに訳者は(一)(二)、(1)(2)、(A)(B)、(a)(b)、(ⅰ)(ⅱ)などを細かく追加して、アリストテレスの論を追いやすくしてくれています。

訳者註が150ページ以上、訳者解説が50ページ以上ついています。註には、重要単語のギリシャ語と、ラテン語訳、さらに英語・ドイツ語・フランス語などの近代西欧語がついていることもあり、その単語が身近になります。これだけカタカナ語が日本語に取り入れられていますから、たいていは聞いたことのある単語です。たとえば第五巻第八章註(1)「ウーシア」では、

原語 οὐσία はラテン語では、多くの場合、substantia(そこから、英・仏 substance, 独Substanz, 日本語訳「実体」)、ただしこの語は諸義に応じ、とくに ὑποκείμενον を意味するばあいには(substantiaとも訳されるが)さらに substratum(基体)または subjectum(主語)とも訳され、また τὸ τί ἦν εἶναι と同義の場合には esseentia(したがって英・仏 essence, 独 Wesen )とも訳される。(訳者註、P.558)

そのあと「ウーシア」の解説が一ページほど続きます。「サブスタンス」や「サブジェクト」「エッセンス」なら、どこかで聞いた日本語(のようなもの)です。ただ、アリストテレスの用語がそのままラテン語や英語やドイツ語になったわけではなく、ラテン語はキリスト教の影響を受け、また、現代西欧語は近代思想に「置き換わった」そのあとのものを日本は受容しているので、アリストテレスがどういう意味で使っていたのかは、本文全体でニュアンスを汲み取らなければなりません。つまり「ウーシア」と「 substance 」「実体」は似ているようで、同じではないということです。

アリストテレスの οὐσία を「実体」と訳し、またその τὸ τί ἦν εἶναι を「本質」と訳すことも適当ではない。一般にこれら両語にかぎらず彼の多くの術語は、当時いまだ成立途上にあり、まさにこのアリストテレスなどの自覚と分析によって新たに発見されあるいは既存概念の含む多くの意味が分化独立し始め、それ以来、それらのいずれかの意味が主となり従となりつつ幾多の変遷を経て今日に及んでいるので、それぞれの含む多義をそれぞれ特定の仕方で含んでいるそれぞれの原語を、その含蓄のままに伝えうる適訳語が、思想の伝統や言語系統を異にする日本語のうちに発見されようはずがない。(訳者註、P.519)

そしてその本文は、ロス教授などの注釈者や訳者の助けを借りて読むことになります。

  • ・・・である(なぜなら〜〜〔つまり・あるいは〇〇〕ということだから)。

ってな感じです。アリストテレス自身も様々な例を上げて具体的に書いてくれているのですが、それに加えて2300年間のアリストテレス研究者に助けられてやっと読めるということです。別の言い方をすれば、「又聞きの又聞きの又聞き」です。「世界の名著」に『形而上学』の抄訳がありますが、随分印象が違います。自分が理解したのが、アリストテレスの思想なのか、ロス教授の意見なのか、訳者の解釈なのか、だんだんわからなくなってきます。それでも「わかった気になる」部分があるのは嬉しいことです。この本の成立過程の問題でもありますが、最後の数巻はとてもわかり易く思えたのですが、それは錯覚で、前半に書いたことを再度繰り返している部分が多いからでした。

意味がわからないところには赤線を引くこともできないし(私は大切なところに赤線を引きます)、書き抜きする対象にもなりえません。でも、その部分も全体を理解するうえでは重要なんだろうという予感だけはします。

それ〔と指し示すそれ〕がそれであるところのそれ」なんて訳文は、初めはちんぷんかんぷんだったけど、最後には訳者の優しさ・情熱が滲み出しているような気がしてきました。また「ある」は「或る」「存する」など、紛らわしさを極力なくしてくれています(傍点もつけて「あるもの〔存在〕」というように補足してくれます)。再度読むことができれば、さらに多くのことがわかるんでしょうけど、そんな時間は私には残されていないと感じると、ただただ、この訳書が愛おしくなります(物質としてではなく、所有物としてでもなく、データとしてでもなく・・・)。

岩波の新全集は、いまだ『形而上学』が刊行されていませんが、この訳書を超える訳を私には想像できません。


読んでみて

読み始めたときは「失敗した」と思いました。全くわからないのですから。アリストテレスが生徒に言ったように、「われわれにとって先のもの」「われわれにとってより多く明らかなもの」つまり、感覚的・自然的なものごとについての学(自然学=第二の哲学)から読むべきでした。目に見え、さわれる現実の物事がどうなっているかを知ったうえで、その奥にあるものの学(形而上学=第一の哲学)を読めば、アリストテレスの考えもよりすんなり分かるのではないでしょうか。

最大の困難の原因は、私がかすかにもっている知識でした。ギリシア哲学、プラトン、アリストテレスの教科書的な知識や、日本語としての「実体」「本質」「対立」などの知識です。「質料と形相が結合したのが個物や実体である」なんて意識を持って読むと、何度も何度もヒックリ返されて混乱します。落ち着いてゆっくり読めばいいんでしょうけどね。性格的にそれができません。入門書では(それがどれほどよいものであろうと)「わかった気になる」だけで、決してわからないことは、最近わかってきたんですが。


『形而上学』の成り立ち

この本は、或る一時期に著作のために書かれたものではありません。アリストテレスの講義用原稿のようです。のちの編纂者は、原稿をなんとか一つにまとめました。多分、原文を損なわないように。なので、はじめの方で書かれていたことが、最後の方でまた繰り返されていたりします。書かれた順になっているわけでもありません。

そして、最初の方では「われわれプラトン学徒は」となっていますが、最後の方では「かれらプラトン学徒は」となっています。アリストテレスが「プラトン学徒」だった時期(アカデメイアにいたとはかぎりませんが)と、プラトンから離れて自分の学説をもった時期に書かれたものだということです。

プラトンが亡くなったのは紀元前347年。そして、アリストテレスはアカデメイアを去ります。紀元前342年、のちのアレクサンドロス大王の先生となります。自分の学園「リュケイオン」を開設したのは紀元前335年。紀元前323年に学園を去って、母方の故郷に身を寄せます(たぶん、教え子アレクサンドロス大王のせいです)。亡くなったのは紀元前322年、62歳でした。

最初の講義原稿と最後の講義原稿とのあいだには20年くらいの年月の差があるでしょう。その間にもアリストテレスの思索は深められ、あるいは変更されたにちがいありません。逆にずっと「アリストテレス」だった部分もあるでしょう。

若くても、年令を重ねても「アリストテレスだった」部分、色白でも日に焼けても、髪の毛やヒゲの色が変わっても、あるいは、ハイハイしていても早く走れてもヨボヨボになっても、足が二本でも一本でも(死ぬまで二本だったと思うけど)「アリストテレス」が「アリストテレス」である部分、今の言葉で言えば「アリストテレスのアイデンティティ」をこの本から読み込むことは「可能」でしょうか。


形而上学

私が「形而上学」という言葉に、「或るイメージ」を持つようになったのは、マルクスを通じてです。「唯物論」に対立するものとしての「観念論」とほぼ同じようなニュアンスだと思っていました。

ググってみました。

Μεταφυσική (メタフィシカ):は、形而上学を指す現代ギリシャ語です。これは、Wikipediaによると、元のギリシャ語の τά μετὰ τὰ φυσικά (タ・メタ・タ・フィシカ) をラテン語で Metaphysica と訳したものです。

τὰ μετὰ τὰ φυσικά (タ・メタ・タ・フィシカ):は、アリストテレスの著作群を編纂する際に、「自然学」(φυσική) の後に置かれたものから、名付けられました。

meta:は「後」と「超えた」の両方の意味を持つため、自然現象を超えた存在を扱う学問を指すようになり、それが「形而上学」の語源となりました。

形而上学は、世界の究極の根拠を問う哲学の部門であり、存在論、神学、普遍学などがその内容に含まれます。

現代ギリシャ語では、メタフィシカ (μεταφυσική) が形而上学を指す一般的な用語として使われています。(AI による概要

ギリシャ文字の「φ」は現代ギリシャ語で「フィ」と読みます。日本語では「ファイ」と呼ぶこともあります。現代ギリシャ語では、この文字は[f]の発音を表すために使われます。

ギリシャ文字の「φ」は、古代ギリシャ語では[pʰ](有気音)の発音を表していたと言われています。しかし、現代ギリシャ語では[f]と発音されます。(AI による概要

哲学を表す φιλοσοφία は一般的には「フィロソフィー」といいますが、普通「自然」と訳される φύσις は「フュシス」じゃなくて、「ピュシス」とカタカナで書かれます。アリストテレスも古い翻訳書では「アリストテレース」となっていました。まあ、古典ギリシア語はもう「話されている言葉」ではないですし、読めれば発音できなくてもかまわないと言われればそれまでですが。

なお、われわれの日本語では、明治時代から「形而上学」と訳されているが、これは、自然的・感覚的なもの(具体的な形のあるもの)を超越した超自然的・超感覚的(形より以上のもの)というこの中世スコラ以来の意味応じて訳されたもので、『易経』の繋辞伝に「形而上者謂之道、形而下者謂之器」(形より上のもの、これを道と言い、形より下のもの、これを器という)とあるのからとったものと言われる。(訳者註、P.702)

もう少し長く引用すると、

是故。形而上者謂之道。形而下者謂之器。化而裁之謂之變。推而行之謂之通。擧而錯之天下之民。謂之事業。

○是(こ)の故に、形よりして上なる者、之を道と謂ふ。形よりして下なる者、之を器(き)と謂ふ。化して之を裁(さい)する、之を變と謂ふ。推(お)して之を行ふ、之を通と謂ふ。擧(あ)げて之を天下の民に錯(お)く、之を事業と謂ふ。

以上のようであるから、形あるものの上位概念として存在している真理を道と言う。形あるものとして存在しているあらゆる現象を器と言う。あらゆる現象は生々化成する。それに適切に対処することを「變」と言う。「變」を推し広めて発展させることを「通」と言う。「變通」を「道」に適合させ、天下萬民を適切な方向に導くことを「事業」と言う。(わかりやすい易経「易経繋辞上伝を読み解く第十二章二」)

まず μετα-(メタ) をどう解釈するかです。「「後」と「超えた」の両方の意味を持つ」というAIの説明は本当なのでしょうか。原義は「時間的・位置的に後、後ろ」という意味です。そして、それだけではなく、問題は「後」であることをどう感じるか、という価値観です。「先」の方が良い、何でも一番が良い、と思う人もいるでしょう。逆に「大トリ」が良いと思う人もいるかも知れません。進化論的発想なら、後からできたものは、前のものより「優れている」(自然選択・生存競争で生き残ったものだから)と言うでしょう。前のものになにかを加え、乗り越えたもの、つまり「高次の」という意味で、「メタ数学」や「メタバース」などの新語が飛び交っています。「スーパー」「超」に近い意味ですね。昔なら新しい商品名に「新」とか「ニュー」とかを付けました。そして接尾語的に「アルファ」とか「プレミアム」とか「ゼット」とか。「ネオスーパー〇〇プレミアムアルファーゼットスペシャル」・・・。また最近では「ゼロ」とか「−1」とか、結局「文化包丁」の「文化」と変わらないんですがね。少なくともアリストテレスの著作に関して「メタフィシカ」と付けた人が「超自然学」という意味を込めたとは思えません。

イリイチに「エピメテウス的人間の再生」という文章があります。

エピメテウスはギリシア神話でパンドラと結婚したとされています。兄はプロメテウスです。「天界から火を盗んだ」として有名ですね。プロメテウスは「先に考える」「先見の明をもつ」という意味です。

古代ギリシアでは、「後で考える」を意味する「エピメテウス」という名前は、「愚鈍」あるいは「馬鹿」を意味すると解釈されていた。(イリイチ「エピメテウス的人間の再生」『脱学校の社会』所収、邦訳 P.192)

本来のパンドラ、すなわち「すべてを与えるもの」( All-Giver )は、有史以前の女家長的ギリシアにおける大地の女神であった。彼女は、自分の壺( pythos )から、あらゆる悪を逃した。しかし、彼女は、希望が逃げないうちに蓋をしめた。近代人の歴史は、パンドラ神話の堕落からはじまり、自ら蓋を閉める小箱(おもちゃの貯金箱・・・引用者)で終わりとなる。それは、はびこっている諸悪の一つ一つを閉じこめようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰退し、期待が増大してくる歴史である。(同書、P.190-191)

エピメテウスが手にしたのは「希望」です。どんなに悲惨な状況でも「希望( hope )」はもつことができます。どんなに満ち足りた状況でも「希望」がもてないこともあります。でも、自分が「なした」事を忘れ、未来をあらかじめ「予測・予想・予見」し、将来の「リスク(悪の発現)」に備えて先回りをして制度を作る。そうやって、希望が「期待( expection )」に代わったとき、期待をもつことができるのは、お金や「もの」や権力(法や学問)を持っている人だけです。期待だけで生きている人は、確率(数字・お金)の世界に住んでいるプロメテウスのような人です。

その期待が現実となったとき、プロメテウス的人間は「当然だ(期待通りだ)」と思うでしょう(現実とならなかった時は「偶然だ」と思います)。それが「無(非存在)」からえた「有(存在)」だとすれば、誰にも文句を言うことはできません。でも、もしアリストテレスのいうように、「存在からしか存在は生まれない」とすれば、ある人が得たものはある人が失ったものです。期待通りにならなかったとき「プロメテウス的人間」は、原因を究明することよりも、むしろ、新しい制度や技術を作り出し、新たに期待するのです(原因究明はそのための道具に過ぎません)。エピメテウスは「後から考え」ます。それは「反省」というよりも、「起きてしまったこと(現実・現在)に対処する」ということです。「次にまた起きないように対策」するのではなくて、「いま困っている人に手を差し伸べる」ということです。政治家、法律家、学者などは、「対策」を考えます。でもそれは、「いま怪我をしている人」「いま死のうとしている人」「いま家族を失った人」に「寄り添う」ことができるなら「寄り添い」「できる手当」をした「後」におこなうべきことなのではないでしょうか。そしてその寄り添いは、行政が法の下に行えることではないのです。ひとりひとりのありかたは、法で定められないし、定めるようなことでもないですから。法の下での「寄り添い」は「助けるべき」「正義」「道徳」倫理」、あるいは「助けてあげたい」という主観的な気持ちです。しかし、本当に寄り添うということは、手当ができなくても、病院がなくても、食料がなくても「怪我をしている・飢えている・死のうとしている人」が、(たとえ助けを求めていなくても)「私が必要とされている」ということです(イリイチ『生きる希望』邦訳、P.375-376)。

仮に「形而下」というのがわれわれの住む現実界のことを指して、「形而上」というのが「天界」のようなものを指すとすれば、プラトンは「イデアの住む形而上」の話を世界の構成の中心に置きました。アリストテレスは「不動の動者」という神を設定しても、世界を「変化のある形而下(月以下)の世界における実体」の構成に置きました。彼が学んだ自然(学)や動物(学)は、それ自らが付帯性(偶有性)を持ちながら自体的に(必然的に)動いていたので、その形而下の世界における動きの原因・性質を「四原因(質料因・形相因・始動因・目的因)」「十範疇(実体・量・質・関係・何処・何時・位置・所有・能動・受動)」に求めることで、天上の世界にあるイデアは必要ではなくなり、形相因という存在の原因・性質の一つにすぎないと考えたのです。


自然

フィシカ( φυσικά、自然)は、現代では「フィジカル・トレーニング」のように使われます。それと対になるのは「メンタル・トレーニング」でしょう。メンタルとフィジカルは、「精神と肉体」ですね。

まずこの「対になる」について考えてみます。「対」という日本語もいくつかの意味があります。「光と闇」のように反対のものを指したり、「夫と妻(彼と彼女)・兄と弟・親と子」のようにペアにあるものを指したりします。後者は「(猫の)タマとミケ」のように「二つある」こと、と「夫婦・兄弟・親子」のように「二つが一つになっている」ことも指します。同様に西欧語においてもいろいろな単語で表されていて、それぞれ意味するものが違う(それぞれが表す日本語とも違う)ので面倒です。

適当な長さに切った棒を用意します。

stick0

その、片方の端が「精神」、もう片方の端が「肉体」だとします(これを「精神・肉体棒」と名付けましょう)。

Stick1

その端と端のあいだにはなにがあるでしょうか。

難しいですね。もう少し簡単な例にします。棒の片側を「白(明るい)」反対側を「黒(暗い)」とします(白・黒棒)。

B-W

大抵の(すべての)「白さ(明るさ)」はこの棒の何処かにあります。

  • ソクラテスは白い(色白だ)。

ソクラテスは色白だったようです。でも、真っ白ではなくて、どっか白い端のほうにソクラテスの「白さ」はあるでしょう。

  • クレオパトラは黒い(色黒だ)。

クレオパトラというと、私はエリザベス・テイラーを思い浮かべてしまいます。古代ローマ人は阿部寛です。古代ギリシア彫刻やパルテノン神殿は真っ白だったと思ってしまうし、奈良時代の仏像は真っ黒だったと思いがちです。古い映画や写真が白黒だったからと言って、当時の現実が白黒だったわけではないのに。

「白と黒」のような対立は「反対(反対性)」といいます。これはソクラテスとクレオパトラが「同じ人間(種 しゅ)」だから言えることで、ホッキョクグマとヒグマとを比べるのとは違います。そして色黒でもソクラテスはソクラテスだし、色白でもクレオパトラはクレオパトラです。

ちなみに、日本では「色」というと「赤・青・黄色」などの「色相」が主ですが、古代ギリシャ人にとっては、むしろ「明度(明るさ)」や「彩度(鮮やかさ)」が主であったようです。

別の例を挙げます。片方の端は「大きい(多い)」、もう片方の先は「小さい(少ない)」とします(「大・小棒」)。

B-S

その間にはなにがあるでしょうか。「少し大きい」とか「少し小さい」とかもあるかもしれませんが、それも「大・小」です。真ん中だけは違います。そこは「等(等しい・同じ)」です。「右・左」「上・下」「前・後」の真ん中は「ここ」です。「過去・未来」なら、真ん中は「現在(いま)」です。これらは「相対関係(相対的・関係的)」です。これらは真ん中があるというより、真ん中(等しい・ここ・いま)を基準としているとも言えます。


健康と病気

また別の例を挙げます。片方を「健康」片方を「病気」とします(「健康・病気棒」)。

H-S

その中間はあるでしょうか。最近は「健康ブーム」を通り越して、「健康は義務」のようにさえ言われます。さまざまな「病気の予防」のための商品(「健康診断」も含みます、「病気の診断」ではなくて「健康の診断」です)ができて、「病気になるのは自己責任」とさえ言われるようになっています。治療を受けていない人・病状がない人も、この棒の(端っこではない)何処かに位置していると思っています。病気が「不自然・異常」なことであることよりも、健康が「自然なこと・通常なこと」ではなくなりました。

2018年6月18日に『国際疾病分類の第11回改訂版(ICD-11)』が公表されました。その項目「MG2A」が「老齢」の疾病コードです。2022年1月1日からは老齢が病気だということになりました(健康保険の対象にはなりません)。世界中でその「治療薬」の開発が続けられています。いわば「不老不死」の薬です。そういう意味では「健康・病気棒」は「生・死棒」ということになります。

アリストテレスは、「病気は健康の不在(欠除態)だ」と言います。

というのは、或る欠除態の実体〔形相〕はその反対のものの実体にほかならないからである、たとえば健康はその欠除態なる病気の実体〔形相〕である。なぜなら、病気は健康の不在であり、そして健康というは医者の心のうちにある概念である認識であるから。(本書 1032b、P.226)

「健康である」というのは「病気ではない」ということです(排中律)。アリストテレスの頃はそうだったし、いまだってそうなはずだと私は思います。

さて、「存在」というのにも多くの意味がある〔訳しかえれば、物事はいろいろの意味で「ある」と言われる〕。しかしそれらは、ある一つのもの、ある一つの自然〔実在〕との関係において「ある」とか「存在する」とか言われるのであって、同語異義的にではなく、あたかも「健康的」と言われる多くの物事がすべて一つの「健康」との関係においてそう言われるようにである、詳言すれは、その或るものは健康をたもつがゆえに、或るものは健康をもたらすがゆえに、また或るものは健康のしるしであるがゆえに、さらに或るものは健康を受け容れるものであるとのゆえに、ひとしく「健康的」と言われる。(1003a-b、P.92)

ランニングをしている人を見て「健康的だねえ」と言ったり、ヨーグルトを食べている人を「健康的だねえ」と言ったり、笑っている人を見て「健康的だねえ」と言ったりします。

ただ、

たとえば、健康であることの可能なものと言われるものは、病気であることの可能なものと同じものであり、しかも同時に〔これら相反する可能態をもっている〕。(1051a、P.315)

だって、病気になるのも健康であるのも「生きている」からです。なので「健康・病気棒」と「生・死棒」は別の棒です。「生死の境(脳死)」や「健康と病気の境(基準値)」は、意図的に変えることができます(検査をして、この基準と比較して医者は「病気です」と判断します)。

病気であって、同時に健康であるということは(現実的には)ありません(矛盾律)。この対立は「矛盾」です。「あるもの(存在)・あらぬもの(非存在)」「肯定・否定」などもこの対立です。

「対立」について三つ(反対・相対・矛盾、あるいは欠除を合わせて四つ)を挙げました。「精神・肉体棒」はどれに当たるのでしょうか。なんか「その中間」はありそうもないし、「反対」でもないし、相対的なものとも言えないし、矛盾しているとも思えません。


可能と現実

現実に健康である人も、病気になる可能性はあるし、現実には病気である人も健康になる可能性はあります。

この「可能(可能性・可能態・デュナミス)」と「現実(現実性・現実態・エネルゲイア)」はアリストテレスの時代の日常語です(エネルゲイアは「エン」、英語の「 in 」と「エルゴン」働き・仕事やその結果、との合成語です。「仕事」と「中」で「仕事中」)。

「デュナミス」は、〜する能力、力、強さ、地位、というような意味で、「エネルゲイア」は、〜している最中、働いていること、あるいは力を発揮した結果(完全現実態・完成態、エンテレケイア)というような意味です。

デュナミスのラテン語訳は potentia、英語の「ポテンシャル」です。「潜在的」なんて日本語もあります。デュナトン(能がある、可能な)のラテン語訳は possibile、英語の「ポッシブル」。反対のアデュナミア(無能力)はラテン語で impotentia、「インポテンツ」、アデュナトン(無能な・不可能な)はラテン語で impossibile、『ミッション:インポッシブル』の「インポッシブル」です。

しかし、つぎのような説をなす人々がある、たとえばメガラの徒がそうであるが、それによると、なにものも、ただ現に活動しているときにのみそうする能がある〔活動しうる〕のであって、活動していないときにはその能がない。たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が現に建築活動をしているときにのみそうする能がある、同様にその他の場合にもそうである、というのである。(1046b、P.294)

これは、

  • 寝ている大工(だいく)は大工か?

という問いです。同様に、

  • 寝ているソクラテスは大工か?

と訊くこともできるでしょう。実際に大工仕事をしているのが大工だとすれば、寝ている大工もソクラテスも「大工ではない」ということになります。でも、実際に大工仕事をすれば、大工は建築能力(デュナミス)があるし、ソクラテスにはない(無能力、アデュナミア)でしょう。

つまり、大工は寝ているときは可能的に(可能態として)大工であり、仕事中は現実的(現実態として)大工である、ということです。

これは「である(あるいは存在)」と「でない(あるいは非存在)」とが、単純に「矛盾(矛盾律)」や「排中律」ではないということです。


「〜である」と「〜がある」

「大工(・机)がいる(がある)」と「大工(・机)である」は、日本語としては全く別のことです。前者は「存在する(ある)かどうか?」の答えで、後者は「(大工・机という性質・形相・イデア・エイドス)をもっているか?」という問いの答えです。日本語では「が」と「で」で区別されるこの二つが、英語でいう「be動詞」一つで表現されるのが古典ギリシア語を含めた印欧諸語です。アリストテレスは、この二つは違うんですよ、と一生懸命(この本全体で?)言いたがっているような気がするのですけれども。「可能態」と「現実態」という区別もその一種です。

でも、このような区別をすることで、逆に「能力」が「可能性」となってしまいます。「白くないもの(黒いもの)」も「白くなる可能性がある」、「ソクラテスは色黒である、可能性として」、ということになります。たしかにこれは、「個々の白いもの(実体)」とは別に「白さ(イデア)」が存在するという、いや、むしろ「変化する個々のもの(個別・特殊)よりも変化しないイデア(白さ、普遍性)だけが存在する」というプラトンのイデア論に対する反論になっています。

日本語で反論するのは簡単です。

美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない。(小林秀雄「当麻」『モオツァルト・無常ということ』新潮文庫所収 P.69)

日本人(日本語話者)でも、この文章の意味するところがだんだんわからなくなってきてるのではないでしょうか。先の「健康」で言えば、「健康な人はいる、しかし「健康」なんてものはない」ということになります。

  • ソクラテスは白い

という文で、プラトンは「ソクラテスは変わる(太ったり、日焼けしたり、年取ったりする)けど、《白さ》というものは変わらないから、白さ(イデア)の方が存在するのだ」と言ったのに対して、アリストテレスは「白かろうと、黒かろうと、寝ていようとある(いる)のはソクラテスだ」と言ったのです。

アリストテレスは「〜がある」についてはあまり直接的に述べていません。眼の前に「ものがある」のは、考えるうえでの前提でもあるし、また、「〜がある」というためには「本がある」とか「白くある(白い)」とか、なにか「規定(限定)」をしなければなりません。「これは本である」と言えるときの「これ(〜)」のあるがゆえのもの、を考えたのです。

ソクラテスは「善とはなにか」と問うて「わからないだろう。私もわからない。でも私は、私がわからないという事を知っている(無知の知)」と答えて、「もの知り顔」をしていた権威者(ソフィストなど)の反感を買って死刑になりました。当時の若者の中にははその反体制的なソクラテスの言動に憧れた人もいました。

その一人がプラトンです。「私も知らない」というだけでは支持されない、答えを出さなければ、そう考えたのでしょう。昔の哲学者が「万物のアルケー(始源)は水である」などと答えたように。そしてプラトンは「それはイデアだ」と答えたのですが、「イデアとはなにか」という問いに対して、それは「変化するこの世ではなくて天界にあるものだ」と答えたのでした。そして、それ(を見たこと)があるから人間は「三角のもの(実際には幾何学的な三角形ではない)」を見て、「四角形ではなくて三角形だ」と答えられるのです。「これ三角形というイデアが宿ったものだ」という三つの実体(存在)を考えたのでした(ただし、プラトンにとって三角形は「イデア界」と「現実界」の間にある「幾何学的(数的)対象」でした)。


実体

「ある時は○○、またある時は✗✗、しかしてその実体は・・・」

片岡千恵蔵が演じた「多羅尾伴内」の名台詞です。私は林家木久蔵のモノマネで知っているだけですが。

実体という語は、それより多くの意味でではないにしても、少なくとも主として次の四つの意味で用いられている。すなわち、(1)もののなにであるか〔本質〕と、(2)普遍的なもの〔普遍的概念〕と、(3)とが、それぞれの実体であると考えられており、さらに第四には(4)それぞれの事物の基体がそれの実体であると考えられている。ところで、基体というのは、他の事物はそれの述語とされるがそれ自らは決してのなにものの述語ともされないそれ〔主語そのもの〕のことである。(中略)

ところで、(1)或る意味では、質料がそうした基体と言われ、(2)他の意味では形式が、また(3)或る他の意味では、これら両者からなるものがそれである。  ここに私が質料と言っているのは、たとえば銅像について言えば、青銅がそれであり、形式というのはその銅像の型であり、両者からなるものというのはこれらの結合体なる銅像のことである。

(1028b-1029a、P.208)

ヘルメス(エルメス)の像が何度か出てきます。石(多分大理石)でできていたり、木でできていたり、パウソンという人が描いたヘルメス像は浮き上がって見えたそうです。青銅でできたヘルメス像があったとして、青銅という質料(マテリア、物質)が基体で、ヘルメスの型(フォルム、形式・型式)も基体で、出来上がったヘルメス像も基体です。そこから「型( μορφή、エイドスのうちの目に見える・感覚的な部分 )」をとっても(取り去っても・抽出しても)、「青銅という質料( ὕλη )」をとっても(取り去っても・抽出しても)、「ヘルメス像」ではなくなります。では質料と形相の結合体が実体なのでしょうか。青銅も「可能的には」ヘルメス像であり、ヘルメスの型も「可能的には」ヘルメス像です。でも現実的には「このヘルメス像」の「この」が実体です。「この」はいわゆる代名詞ですが、うまく日本語にできません。

最近、物忘れがひどくて「あれさぁ、あれっ!」とモノの名前が出てこないときの「あれ」に近いものなんだろうと思います。阪神の監督の「アレ」は実体でしょうか。

原文の 'τίς ἠ οὐσία' (英訳では 'What is substance ?')を「実体とはなにか」と邦訳したが、 こう訳してはすでに問題はないようなものの、実は、このギリシア語原文では、のみならずそれに相応する近代欧州語でも、なんらかの微小詞( particle )でも加えて限定しないかぎり、少なくともこのままの文面では、日本語で区別されているような区別  「実体はなにか」(または「なにが実体か」)と「実体とはなにか」(実体の定義いかん)との区別  はつけられないのである。(訳者註、P.713)

「ソクラテスがソクラテスであるところのもの」を「ソクラテスの実体」とすると、「血と肉とがその実体である(質料)」という答えができるし、「教養的である・色白であることが実体である(形相)」ともいえます。

「本質 τὸ τί ἦν εἶναι (何であったであるもの)」は、

それは「何であるか」( τὸ τί ἐστιν )の中に εἰπί (ある)の未完了過去 ἦν をぶち込んで「何であるか」( τὸ τί ἐστιν )の主観性を打ち破り、それを客観的概念化した表現であります。(日下部吉信『アリストテレス講義・6講』、P.61)

う〜ん、わかりません。「区別するもの」でもなく「区別されたもの」でもなく、「区別(そのもの)」というのは、日本語ではとくに当たり前のことですが、印欧語では難しいのでしょう。

「ソクラテスは何であるか」という問いに対して、

  • ソクラテスは人間だ

と言うとき、「ソクラテス」は主語・質料であり、そして「人間(だ)」は述語・形相(エイドス)なんだけど、《ソクラテスは人間だ》という、この文章全体、こういう「説明方式(ロゴス、論理)」そのものが「本質」だ、ということです。

ものや行為(動き)そのものを表すための方法は、言語によって様々です。英語なら定冠詞「 the 」を付けて「 The cat 」といえば「猫というもの」という意味がでてきます。「 cats 」と複数形にしても「複数の猫」という意味と「猫ども(猫というもの)」という意味があります。行為についても同様のことが可能でしょうか。「 the run 」といえば「走ること・走り」というような意味になります。「 runs 」というのも意味は通じそうです。「 running 」という「進行形」も、「走ること・走り」という意味を持ちそうです。英語の中で暮らしたことがないので、私にはこれらのニュアンスのちがいはわかりません。当時のギリシアにも定冠詞や複数形はありました。

言語学は「品詞」「時制(テンス)」や「態」「相(アスペクト)」など、様々な用語を使って言語の中に「文法」を見つけ出そうとします。その事自体が「言語には文法がある」ということと「言語は文法である」の混同があるのですが。

「イデア」は、

この語は動詞 ὁράω(みる、眼中に入れる)のアオリスト不定詞形 ἰδέιν から派生した。「アオリスト」とはギリシア語の動詞アスペクト(相)の一つ。「相」は文法用語で、動作行為が完了したのか、継続しているのか、反復されているのか、などの違いのこと(英文法だと現在完了か、完了形でないか、などの違い)。時制(現在、過去、未来)とは異なる。古代ギリシア語は動詞に三つの相(未完了、完了、アオリスト)を区別した。アオリストは完了でも未完了でもない動作行為そのものを指す動詞の形。 ὁράω は現在形で未完了(「見ている」「見続けている」「見える」「見ている」、英 see に相当)。(中略)アオリストは「見える」(未完了)でなく「見てしまった」(完了)でもなく、そもそも見るということ。 ἰδέα はその動作行為の対象(見えたもの)。プラトンはアリオスト1人称単数形 εἶδον 〔エイドン〕からできた名詞 εἶδος (エイドス)も同義で用いる。(古田裕清『西洋哲学の基本概念と和語の世界』P.19-20)

video は、ラテン語「 videre (見る)」の一人称単数形です(発音はウィディオ)。これ一語で「私は見る」です。有名な「我思う、ゆえに我あり」は

  • Cogito, ergo sum.

「 cogito 」は一語で「 I think 」、「 sum 」は一語で「 I am 」です。なので

  • (私は)考える、ゆえに、(私は)いる(ある、存在する)

という感じでしょう。そう考えると「イデア」には、どこかに「(私が)見るもの」という「(私が・は)」という「主観性」を含んでいることになります。

「(私は)見る」「(私は)見られる」「(私は)見た」「(私は)見ている」「(私は)見える」・・・などから(私は)を取りたかったのでしょう。「見る」という行為は、文化・言語や時代によって、その持つ意味は異なります。

プラトンやアリストテレスの頃は、「見る」という行為はとても「主観的・主体的」なものでした。「視線」は人間の目から触手のように伸びて、対象(誤解される言い方ですが、そのイデアを)を掴んで持ってくるようなものでした。なので「見る技術」や「見る訓練」が必要だったのです。ところが、近代西洋において、目は「頭蓋骨についた二つの穴」とそこにはめ込まれたカメラになりました(イリイチ)。目の構造(仕組み)は「カメラの模倣」になり、見ること(能動)は見えること(受動・中動)になりました(デカルトは人間や生物を「機械」と捉えました。金塚貞文『デカルトの鏡』参照)。レンズ(水晶体)を通って網膜に映る「画像」は「万人に同じ」もので、あとは「主体(自我)」が「解釈」するときのみに「能動性」が現れると考えています(名画や骨董品を見る・見定める目です)。


アキレスと亀

アリストテレスは、幾何学的対象(たとえば、点、線、面、三角形)や数学的数や無限について、

すなわち、(感覚的事物の実体のほかに・・・引用者)数学的諸対象  たとえば、数とか線とかその他これに類するもの  を或る人々は実体であると主張しているが、しかしまた諸々のイデアが実体であるとしている人々もある。(1076a、P.436)
(略)だがともかく、いったいどのようにして大きさが、一つのあのような、あるいは一つより多くのあのような〔不可分割的な〕ものから、生じるというのか、これはたしかに問題である。それはあたかも、線は点から生じると主張するようなものだから。(1001b、P.84-85)

「ゼノン(Ζήνων BC490頃-430頃)のパラドクス」について、アリストテレスは、

第二の議論はいわゆる「アキㇽレウス」の議論である。すなわち、走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追いつく以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。(『自然学』239b、邦訳旧全集 P.258)

つまり、A の地点に亀がいて、B の地点から追いつこうとしたアキㇽレウス(アキレス)が、A の地点につくときには、亀は「 A のちょっと前 A' 」にいて、アキㇽレウスが A から A' に行くあいだに亀は「 A' のちょっと前 A'' 」にいて、アキㇽレウスが A'' につくときには・・・。

デカルト(1596年3月31日 - 1650年2月11日)なら、xy座標(デカルト座標)に「アキㇽレウスの移動」と「亀の移動」の二直線を引いて「ほら、この交点のところで追い越すじゃないか」と言うでしょう。デカルトは、同時代に生きたガリレオ(ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)の地動説と同様の内容が書かれた本『世界論』の出版を(宗教裁判を恐れて?)取りやめました。

ガリレオが最初に一時間幾マイルという発想、もっと正確に言えば与えられた時間に対する距離と考え、時間と距離を異なった、区別される実在として互いに関連させた時、彼はあるタブーを犯していることを知っていました。今と此処 hic et nunc は厳密に相互に関連し合っていたので、人々には、その一方だけを取り上げて語ることなどできなかったのです。しかしガリレオは時間を空間から切り離して観察できると主張したのです。(イリイチ『生きる希望』、邦訳 P.305)

ガリレオは自分の言っていることを理解させるのに大変な苦労をしました。(中略)今日、近代がその上に依拠している時間の観念それ自体が、現代物理学や現代哲学、そして現代生物学において危機に瀕しています。これには疑う余地がありません。しかしわたしがここで言いたいのは、現代の時間概念はすでに、生きられた時間の充実した継続とは関係なく、また結婚式の誓いにある「永遠(とわ)に」とも関係がないということです。これは「終わりがない」ということを意味しているのではなく、「今、隅無く(くまなく・・・引用者)」を意味しているのです。(

同書、P.306。後半の原文は But my point here is that the modern concept of time was already unrelated to lived duration, to the “forever” in the marriage vow, which doesn’t mean “without end” but “now totally.”)

「アキレスと亀」での無限の繰り返えしは、デカルトの「交点」に至ります。「点」は大きさ(長さ)がありません。いや、大きさがないと仮定(前提)されます。実体(大きさのあるもの)から大きさを捨象したものが点です。その点を集めると「線(長さのあるもの)」になるのでしょうか。思い浮かべることができるのは、「小石」とか「米粒」とか「砂粒」とか「鉛筆で描いた点」とか「実際にあるもの」で、それらは「大きさ」を持っているのですが、それらを「点」とすることは可能です。つまり、それらから「大きさ」という属性を捨てればいいのです。そうすれば、「小石の幾何学」とか「りんごの幾何学」とか「象の幾何学」ができあがるそうです。「象を集めたのを線」と仮定することによって。これは、ピタゴラスと全く同じことをしているのです。

ゼノンのもう一つのパラドクス「飛んでる矢は飛ばない」について、

ゼノンは論過している。というのは、もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応している〔それ自身と等しい場所を占める〕ときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、とかれはいうのである。だが、これは偽りである。なぜなら、時間は、他のどんな大きさも不可分割的なものどもから成るのではないように、不可分割的な今からなるのではないからである。(『自然学』239b、邦訳旧全集 P.258)

時間も空間も、分割していくとそれ以上分割できないもの(アトムのようなもの)になり、そのアトムとは「大きさ」をもつものだ、ということです。「大きさのないもの(分割不可能なもの)」「点」を無限に集めて「大きさ(長さ)のあるもの(分割可能なもの)」「線」ができるというのは、仮定(前提)に背いて「大きさのある点」を持ち込んでいるのではないでしょうか。あるいは、あらかじめ「線、面、立体に成るもの」「実体(現実にあるもの)に成るもの」として「点」を定めていたということです。なので、「線を分割して点とする」と「点を集めて線にする」とは同じことを表しているのです。でも、「全体を分割して部分にする」ことと、「部分を集めて全体にする」ということは全く異なることです。


永遠・無限

無限なものが現実態において存在するものではないということも、明らかである。けだし、もしそうであるとすれば、そのいずれの部分をとってみてもそれぞれみな無限であろう(後略)(1066b、P.388)

この無限の定義は、現代数学の無限集合(「部分は全体に等しい」遠山啓『無限と連続』岩波新書 P.17)と同じです。自然数「1、2、3、・・・」とそこから奇数を取り除いた偶数「2、4、6、・・・」の「大きさ(多さ)」(「濃度」と呼ぶ)は同じです。「2を1番」「4を2番」「6を3番」・・・というように、偶数のすべてに自然数の番号を(過不足なく)つけることができる(可付番)からです。

しかし、無限なものとか空虚なものとかその他そのようなものも、可能態においてある〔可能的にある〕とか現実態においてある〔現実的にある〕とか言われるが、これらは多くの他の事物(例えば、見るもの、歩行するもの、見られるものなど)とは異なる意味でそのように言われる。というのは、これらの事物にあっては、そのまま端的にそう言われても真でありうるが、(すなわちたとえば、なにものかを「見られるもの」という場合、それが「現に見られているもの」という意味でも、あるいは「見られることのできるもの」という意味でも、真であるからであるが、)しかし、無限なものは、いつかは現実的に離れて存するでもあろうという意味で可能的に存在するというのではなく、ただ知識において〔抽離されて存する〕だけである。分割過程が〔無限に続いて〕終結に達しないという事実は、この分割活動が可能性においてあるということを証明しはするが、無限なものが離れて存するとのことを証明しはしないからである。(1048b、P.303)

線を無限に分割したら点になり、点を無限に集めたら線になるということは現実的にあるわけではなく、行為としての可能性としてあるとしても、それは知識において(人間の思惟において・観念において)「存在する」だけです。単純に言えば、人間が考えたものですから、それが「存在」だとは証明できず、常にその反論が生じます。「ゼノンのパラドクス」のように。

無限、それは「限界がない」ということでしょうが、それは「想像つかない」、「考えられない」とどう違うのでしょうか。

ちなみに、アリストテレスの時代は(そしてアリストテレスの考えも)「1」は「数 ἀριθμός 」ではなくて「単位 πονάς 」でした。「5m」「5L」は「m・L(1m・1L)」という単位が「5個ある(5個でできている)」ということです。なので、「数」は「2」から始まることになります。


接触と連続

「白・黒棒」の「端」、つまり「真っ白」と「真っ黒」はあるのでしょうか。「白・黒棒」の端を、「1」と「0(ゼロ)」に代えてみます。デカルト(ユークリッド)の「数直線(線分)」です。「オン on 」と「オフ off 」、あるいはコンピューター時代(デジタル時代)における「存在と非存在」です。「存在・非存在棒」とでも呼びましょうか。

Sein

その間には「灰色」にあたる「0.1」や「0.5」や「√2 / 2 」や「π / 6」など無限の実数があります。「1」は「0」より大きく、「0」は「1」より小さいとします。(「0」と「1」以外の)それぞれの数は、その隣の数より大きいか、小さいかどちらかです。この実数の線分は「連続」しているでしょうか。

また、諸事物が連続的であれば接触しているが、接触しているからといって必ずしもそれらが連続的であるわけではない。(1069a、P.399)

年に一・二度、家族麻雀をします。牌を並べて積むのですが、それぞれの牌が接触しているので持ち上げて積むことができます。

Pai

これが、こんな牌のつながりだったとします。

Pai2

これを真ん中で2つに切ります。そうすると、左側の

Pai3

と、右側の

Pai4

ができます。左側の端は「一萬」と「六萬」で、右側の端は「七萬」と「中」です。両方に含まれている牌はありません。これを「1」から「 12 」の整数だとしても同じです。この麻雀パイをどんどん小さくしていって、どんどん数を多くしていきます。そして、各牌を0から1の間の実数に置き換えると「長さ1の線分」になります(「0・1棒」)。これを麻雀パイのように積むことができるでしょうか。多分できると思います。それぞれの牌は接触しているからです。

これを真ん中( 0.5 のところ)で切ります。0.1 は左側にありますし、√2/2 、π / 6 は右側にあるでしょう。切り口の 0.5 はどちらにあるでしょうか。右側?左側?普通に考えると両方にあるでしょう。そうだとすると、「 0.5 は二個あった」か、「 0.5 は分割可能だった」か、どちらかということではないでしょうか。0.5 という点(棒でいえば切り口の面)はあったのでしょうか。それとも切ることによって二つできた(生じた、生成した)のでしょうか。アリストテレスはこういいます。

というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生じ、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に〔生成過程においてでなしに一挙に〕生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときにはいままで存在しなかった二つの面が存在している。  だから点は、不可分割的であるから、分割されて二つに成るとは言われないのである。  だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、なにから生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない。しかもそれにもかかわらずつねに他なるものであるかのように思われる。このことは、「いま」が実体的な存在ではないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである。というのは、同じ論が適用されるからである、すなわち、どちらもひとしく限界であり区切りであるから。(1002a-b、P.87、最後の原文 ' ἅπαντα γὰρ ὁμοίως ἢ πέρατα ἢ διαιρέσεις εἰσίν. ')

円周は「円の中」にあるのでしょうか「円の外」にあるのでしょうか。


限界

この「限界(ペラス、ラテン語 terminus, finitum )」について、

ペラス〔限り、限界〕というは、まず、(一)それぞれの事物の終極の端、すなわち、そこより以外にはその事物のいかなる部分も見出されない第一の〔最後の〕端であり、それのすべての部分はその端より以内に存在するようなその第一の〔最初の〕端である。つぎは、(二)或る大きさの、あるいは或る大きさを有するものの、なんらかの形相を意味する。さらに、(三)それぞれの事物の終わりも限界と言う。(中略)さらにまた、(四)個々の事物の実体、個々の事物の本質をも意味する。というのは、その事物の本質がその事物の知識の限界だからである。(1022a、P.173-174)

英語の「ターミナル」や「フィニッシュ」でしょう。逆に限定されないものは「アペイロン ἄπειρον 」でしょう。アナクシマンドロスが存在するものの始源(アルケー)としたものです。なにかを認識するためには、そのものそのもの以外とを「(どこかで)区別」しなければなりません。その区切り・限界は「実体的な存在ではない」のです。虹の七色は(文化によって何色かは異なりますが)どこかで「区別」し「限定」することによって、何色か(色数)が決まるし、「赤」とか「黄色」とかを決めることができます。「生死の境」や「健康と病気の境」も同様です。それは、「死の定義」「病気の定義」をすることと同じです。なので、ペラスはそのものの「本質」「形相」ともいえます(死の法的定義や、病気の基準がそれらの「本質」を表しているとは思えませんが)。

西田幾多郎が、盛んに「限定」とか「自己限定」とか言うのを思い起こしました。たとえば、たまたま見つけた一例を挙げると、

理性と云ふのは、何處までも述語となつて主語とならない時間面的自己限定に他ならない。(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界觀」旧全集第11巻、P.387)

人間も、鳥も、魚も口から肛門までの「つながった穴」があって、いわば「ちくわ」のような形をしています。胃や腸は「体の中」なのでしょうか。胃カメラや大腸カメラは「体の中」を見ているのでしょうか。ちくわを潰すと(あるいは輪切りにすると)「ドーナツ」のようなものになります。ドーナツの穴は、多分ドーナツの一部です(穴のないドーナツ、あるいは食材や製法をドーナツと呼ぶ場合は別ですが)。でも、それをドーナツの中か外かと問われれば、ちょっと戸惑うでしょう。ドーナツの穴を食べることはできませんから(大阪大学ショセキカプロジャクト編『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』、参照)。

コロナ禍は、さまざまなものを残しました。それはただの「災禍」ではなくて、一つの「チャンス」でもあったはずです。金儲けのためだった(と私は思う)ワクチンは、「免疫を作る」という名目でした。その免疫ができたかどうかも不明瞭ですが、免疫というのは「自己と非自己を区別する」という仕組み(システム)です。「(体の外からはいってきた)新型コロナウイルは《自分》じゃないから、それ(感染した自分の細胞です。ウィルスは細胞ではありません)を殺してしまう、あるいは自己複製機能を取り除く」という仕組みを「人工的に作ろう」というのがワクチンです。同じ微生物(細菌やウィルス)でも、納豆菌や酵母菌、乳酸菌などは一生懸命摂取しようとしています。そもそも食べ物や、飲み物は「自分ではない」物です。

がん細胞は「外」から入ってきたものではなくて、もともとは自分の細胞です。そういう意味では自己の一部です。

中と外、自己と非自己を分けるもの、区別することは、そのものを知ること(認識すること・定義すること)と同じことですが、その区別・限界・境目はもともと「ある・あった」のでしょうか。

同じことは「自分と他人」「主体と客体」にもいえます。「自分のなか」だけに生きる子どもが「他者」や「外部」を知り、操作するような発達段階は、ピアジェの発達心理学あたりを読まなくてはなりませんが(読まないで言うのは単に想像にすぎませんが)、そこには「近代西洋的自我」の考えが潜んでいないでしょうか。ピアジェが近代西欧自我の影響を受けていない地域で実験・観察をしている文献があるのなら、ぜひ読んでみたいと思います。


外と内

日本の伝統的な家(在来工法)は、柱があって、それが屋根(そのテッペンが棟)を支えています。柱があって、梁があって、壁を作るのはその後です。西洋はどうでしょうか。私がイメージするのは「三匹の子豚」の三男の「煉瓦の家」です。レンガを積み上げていって、それが壁になり、最後に天井を作ります。天井(屋根)を支えるのは壁です。中東からアフリカ北部(エジプト)、インドなどでは「日干しレンガ」を作ります。それに適した土があるからかもしれないし、樹木が少ないのかもしれません。ギリシアはどうでしょう。行ったことがないのでわかりませんが、パルテノン神殿は、いまは柱しか残っていませんので、柱を基本にしているイメージがあります。その柱は法隆寺などの柱と似ていますね。地中海も地震の多いところですから、その対策もしっかりなされています。北欧は日干しレンガは作れないし、木がたくさんありますから日本的な気がします。

この「まず壁を作る」というのは、「外」と「内」をまず区別するということです。外と内をつなぐのは「戸・門」です。日本家屋における壁は、外と内を区別するものではなくて、むしろ「軒下」や「縁側」がその緩衝地帯となります。靴を脱ぐ習慣がありますから、玄関(昔は土間)もそうですが。

屋根を先に作るというのは、「風」よりも「雨」を先に防ぐということです。これは雨量の多い地域のせいかもしれません。また「雨」は「天(あめ)」でもあります。つまり、まず「天と地」の境目を作るということです。これは「お日様」を隠すことにもなるのですが。不思議です。

「外と内」「表と裏」「建前と本音」などについては、土居健郎の『表と裏』が示唆に富んでいます。


場所(場)

区別すること、限定すること、限界、あるいは境界で「内」と「外」が分かれます。この境界で区別されるのが「場所 τόπος(トポス)」です。アリストテレスによれば、場所は、

だからして、もし場所というのが、それぞれの物体を直接第一に包むもののことであるとするなら、場所とはそれぞれの物体の或る限界のことであろう、したがってまた、場所は、それぞれの物体の形相または型式であるように思える。そしてこの形相によってその物体の大きさが、またその大きさをなす質料が、限定されるのである。というのは、その形相はそれぞれの物体の限界なのだから。(中略)だが、場所が大きさのもつ間隔〔すきま・広がり〕であると思われるかぎりでは、場所は質料であろう。(『自然学』209b、邦訳 P.125)

そして、プラトンの「場( χόρα、コーラ)」について、

プラトンも、その著『ティマイオス』の中で、質料と場〔コーラ、空間〕とを同じであると言っているのである。というのは、受容するものと場とは一であり同じであると言っているからである。(中略)しかしとにかく、プラトンが場所と場〔空間〕とを同じだとしていたことは確かである。(中略)他のすべての人々も、場所をなにものかであるとは言っているが、そのなにであるかについては、ただこのプラトンだけがそれを語ろうと試みたからである。(『自然学』、同)

実際にプラトンが『ティマイオス』の中でどう言っているか、少し長くなりますが引用します。ティマイオスの発言です。

まず一つには、同一を保っている形相といいうものがあるのですが、これは、生じることも滅びることもなく、(中略)理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです。そして、以上のものと同じ名で呼ばれ、また以上のものに似ているものが、二つ目です。これは、感覚され、生み出され、いつでも動いており、ある場所に生じては、再びそこから滅び去っていくものなのでして、思わくによって、感覚の助けを借りて捉えられるものなのです。そして、さらにまた三つ目に、いつも存在している「場」の種族があります。これは滅亡を受け入れることなく、およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種の擬(まが)いの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものなのでして、ほとんど所信の対象にもならないものなのです。そして、この最後のものこそ、われわれがこれに注目する時、われわれをして、「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない、地にもなければ、天のどこかにもないようなものは所詮何もないのでなければならない」などと、寝とぼけて主張させる、まさに当のものにほかなりません。(52A-B、邦訳旧全集 P.83-84)

よくわかりませんが、一つ目は「普遍(不変)的なイデア」ですね。二つ目は「生成・消滅・変化する、目で見える・さわれる・感覚できる存在」、「個別・特殊」な「実体」でしょう。そして三つ目の「場」は、イデアを受け入れる(受容する)入れ物(容器)のようなものです。アリストテレスにとっては、これはイデアを纏う前の(カテゴライズされる前の、表現・説明・定義される前の)「質料」です。もし説明しようとすれば、「それは〇〇である」と表現しなければならないような、その「それ」です。プラトン(ティマイオス)は、これの前に「三つ目のもの(コーラ)」の例を挙げています。「良い香りの軟膏を作る場合の無臭のもの」「いろいろな形を押捺するための、柔らかくて均されたなめらかなもの」、つまり「どんな形ももたないもの」(50E、P.80-81)です。これらの例では、なんか物質的なもののように受け取れます。

デリダの『コーラ: プラトンの場』は読んでいないので(ついでなので読みました)、イリイチの文章を引用します。

近代都市の住人に「物質としての空間」という感覚を思い起こさせるのは至難の業である。かれらは空間を「素材」として感じとることができない。(イリイチ『H2Oと水 「素材(スタッフ)」を歴史的に読む』邦訳、P.42)

プラトンの「容器」(hypdechomene)は、アリストテレスによって、存在の論理的な四つの「原因」の一つと化し、「質料(hyle)」と同一視されてしまう。アリストテレスは、西洋の空間知覚の最終的な土台、すなわち容器としてではなく、広がりとしての空間認識を築いた。アリストテレスとともに、「イデアとしての都市」は法的虚構となるのである。(同書、P.46)

「場(コーラ)」と「場」との接点、国家(領土)と国家の境目、都市と都市の境目は、「0・1棒」を「0.5」で切ったときの断面と同様に「可能性(可能態)」として存在しているにすぎません。つまり、現実的な存在(現実態)ではなくて、人間が(誰かが)、つまり「理性」が決めた(定義した)ものだということになります。それをイリイチは「法的虚構」と表現しているのだと思います。

自分の家(住み家)は、木やガラス(質料)でできたものです。そしてそれに「家」という形相を与えたものです。でも「自分の家」というのはそれだけではありません。「居住権」のことではありません。生まれた土地、育った場所、故郷も同じで「行政区画」のことではありません。

アテネで生まれ育ったプラトンにとって、アテネという「場」は土地や住居や空間「以上のもの」であったでしょう。私は転勤族の家庭に育ち、故郷というものがありません。アリストテレスはアテネ人ではありませんでした。アリストテレスは何度も「木材-大工(建築)-家」という例を挙げていますが、その無機質な叙述とは裏腹に、故郷(実家)へのあこがれとそれの強い拒否があったのかもしれません。

アリストテレス的な「イデアとしての(法的境界としての)都市」は、いま形を変えてトランプの発言になっています。「アメリカがガザを「所有」し、パレスチナ人はリビアに移住させる」、住む場所や家があればそれでいいだろう、ということです。不動産(家や土地)を「商品(質料)」として考えると、そうなります。でも、世界中の多くの人(私も含めて)は「それは違う」と感じているのではないでしょうか。

「H2Oと水は違う」「酸素を取り入れるために呼吸をするわけではない」「栄養を取るために食事をするわけではない」・・・、こういう考え方は「古い」「神話的・アニミズム的」なのでしょうか。私の受けた戦後の民主教育は、「H2Oは水であり、酸素を取り入れるために呼吸し、栄養を取るために食事をするのだ」と徹底的に教え込みました。いまの若い人、とくに都市に住んでいる人は、私以上にそう思っているでしょう。でも、その人たちも「アクスタ」に「アクリル(質料)」以上のものを感じているはずです。アクリルにアイドルやキャラクターの形相を与えたものが「アクスタ」になるのは「場(コーラ)」があるからであり、それがアクスタの存在を支えています。商品が使用価値(質料)であると同時に価値(交換価値、形相)であることを「商品の呪物性」と捉えるのは一面的です。この「場」・「擬(まが)いの推理」「ほとんど所信の対象にもならないもの」を説明しようとしたところに『資本論』の難しさもあるのではないでしょうか。

2025年4月16日、イギリス最高裁判所は「「女性」の法的定義は生物学上の性別に基づくべきだ」という判決を出しました。賛否両論が広まっていますが、「女性とは〇〇である」という「法的定義」がなされたということで、それが「正しい」とか「当然だ」とか「世界がそれに従うべきだ」ということではありません。

この本で何度も出てきて批判の対象となっているソフィストのプロタゴラス(紀元前490年ころ - 紀元前420年)について、

しかし、それはあたかも私が自分の身長の何尺あるかを知る場合に、他人が一尺の物差しを私の身体に幾度あてがうかを見ることによって自分の身長を知る、というようなものである。ところで、プロタゴラスは、人間が万物の尺度であると言うが、それはまさに認識する者または感覚する者がそうであると言おうとしたものであろう。(1055b、P.327)

ソクラテスはプロタゴラスと同時代の人ですが、プラトンは、プロタゴラスが亡くなったときにはまだ子どもです。アリストテレスが生まれたのはプロタゴラスが亡くなったずっと後です。アリストテレスは「人間が万物の尺度である」というのを「自分(自分の感覚・認識)が万物の尺度である」とは捉えてはいないで、「自分を測る他人の動きが自分の感覚・認識となるんだ」と捉えているようです。これは随分違います。また、

未来のことについても、プラトンのいっているように、たとえば健康回復の見込みがあるか否かに関し、医者の意見と医術に無知なものの意見とは決して同等の権威をもってはいないからである。(1010b、P.121)

こうなると「他人の尺度」というより「権威主義」的に思えます(現代の「専門家」とは意味がちがいますが)。「イギリス(の裁判官)が決めたんだから、正しい」、そうではないでしょう。

プラトンは言葉にできないものがある(コーラ)と言ったのに対し、アリストテレスは、ことばにするからあるのだ、ことばにできる(定義できる)ことがあることなのだと言ったのです。


能動・受動

「限定」をこの本の索引で探すと、「 πάθος 」と出てきました。「パトス」の索引には「受動・受動態・受態、様態・属性・限定」とあります。英語では pathos(ペーソス、悲哀)です。私が思うに、「受動的に限定されるもの」で、逆は「能動的に限定するもの」ということになります。

自分が意図せずに「動かされてしまうこと」、「感情の動き、感動」などがパトスで、逆に「意図的に、理性的に、倫理的に、人間的に」動かすもの、行為やその結果、それが「エートス」なのではないでしょうか。

「能動・受動」といっても、英語の授業で習うような「する・される」とは違います。たとえば、

つぎに、(二)それら自体においてある〔または存在する〕といわれるのは、まさに述語の諸形態〔諸範疇〕によってそう言われるものどもである。なぜなら、ものが云々である〔または存在する〕というのにも、それらが種々の形態で述語されるだけそれだけ多くの意味があるからである。けだし、述語となるものども(タ・カテゴルーメナ)〔諸範疇〕のうち、或るものはその主語のなにであるか〔実体・本質〕を意味し、或ものはそれのどのようにあるか〔性質〕を、或るものはそれのどれだけあるか〔分量〕を、或るものはそれが他のなにものかに対してどうあるか〔関係〕を、或るものはそれのすること〔能動〕またはされること〔受動〕を、或るものはそれのどこにあるか〔場所〕を、或るものはそれのいつあるか〔時間〕を指し示すものであるが、ある〔存在する〕というのにもこれらと同じだけの意味があるからである。ただし、人が「健康である」とか、人が「歩行する」とか、人がなにかを「切る」とかいうように述語する仕方もあるが、これらも実はそれぞれその人が「健康なる者である」とか「歩行する者である」とか「切る者である」とかいうのと異ならないからである。(中略)なおまた、(三)ものがあるとか云々であるとか言うとき、そのあるというのは真であるとの意をもち、あらぬというは真ではなくて偽であるとの意をもっている。(中略)さらにまた、(四)あるとか存在とか言うとき、上述の述語諸形態であると言われるそれぞれの存在がその可能性において存在することを意味する場合と、完全現実態において存在することを意味する場合とがある。(P.151-152)

この「〜である」と「〜がある」は翻訳では違いがわかりますが、原文では同じなのでしょう。また、「家を建てる(能動)」に対して、「家は建てられる(受動)」わけですが、これはこじつけで、(日本語では)家は「できる(建つ、生成する)」ものです。これは「考え方の違い」というより「言語の違い」です。「限定する主体」と「限定される客体」という「デカルト的われ ego 」にも通じるものですが、その「近代西欧的エゴ」からみた「能動・受動(あるいは自動詞・他動詞)」が日本に輸入(日本語化)されたので、本来の「する・される」とは違うのです。

英語を習うことによって「する」「される」には「(私が/誰か何かが)する」「(私が/誰か何かが)される」というように「(私が/誰かが)という「主語」が紛れ込みます。その「主語」こそ、プラトン、アリストテレスが一生懸命に取ろうとしたものではないでしょうか。同じ印欧語族であるインドで生まれた仏教においても、「梵(ブラフマン)我(アートマン)一如」のように、(私が/誰か何かが)」を自覚し、取り去るのではなく無効化するようにと思ったのではないでしょうか。いずれにしても「私 ego 」というものが、印欧語的であるとともに、近代西洋の申し子であり、その視点からプラトンやアリストテレスの「能動・受動」、あるいは「可能・現実」を見ることは「見方の一つ」に過ぎません。小学校から英語をなっている日本語は、私の考えている日本語とは違うのでしょう。

「びっくりした〜」は英語で「 I'm surprised ! 」です。受動態ですから、「私は驚かされた」と訳してもいいのですが、むしろ「おどかさないでよ」という日本語に近い気がします。

「愛する」「愛される」という対は日本語にはなかったと思います。「好きです」は「(意図的じゃなくて)好きな状態になった」ということです。「好く」「好かれた」とは言えなくもないですが、「恋する」はあっても「恋される」というのは不自然な気がします。そこに明治時代に「 love 」の訳語として「恋愛(一時期「愛恋」とも訳された)」が入ってきて、「愛する」「愛される」という「能動・受動関係」が生じました。それはとりも直さず「近代西洋的自我」が入ってきたということです。せいぜい100〜150年のことです。3世代から5世代というところでしょうか。そして「自由」「平等」「自然」「法律」などの従来からあった言葉が、別の意味を持ち始めます。ひい祖父ちゃんと、ひ孫の間には、想像以上の考え方、ものの見方の差があるでしょう。

「人(やもの)を好きになる」ということは、努力することでもなく、理由(原因)があるわけでもありません。あとから「理由」を付けること、「原因」を見つけることはいくらでもできますが。「お相手のどこを好きになりましたか?」という質問に、ドキドキし戸惑うのは訊かれた人よりも視聴者でしょう。そして、好きになった後は「好かれよう」と頑張るでしょう。でも、好きになったことに理由がないように、好かれるかどうかにも理由はありません。ところが「愛する」ことが「能動的」であれば、「頑張って愛する可能性・必要性」がでてくるし、「頑張れば愛される可能性・必要性」もでてきます。「親は子どもを愛するもの」「母性愛」「(母性)本能」などが日本人を苦しめている現状は、「医学」や「科学」や「制度」で解決されるものではありません。もともとあった日本文化・日本語が悲鳴をあげているのではないか、と私は思います。


運動・転化・生成

「運動」は「 κίνησις キネシス」です。「サイコキネシス(念力)」などという言葉もあります。「転化」は「 μεταβολή メタボレー」。「メタボ(メタボリックシンドローム、代謝異常症候群)」なんて意味がよくわからない日本語になっていますが、「太っていること」ではありません。この単語にも「メタ μετα 」という接頭詞がついていますが、アリストテレスの頃に「超えた・超越した・超過した」という意味があったのでしょうか。「ボレー」は「βάλλω (投げる)」です。運動と同じように使われますが、運動は場所の変化(ある場所から別の場所へという意味が強い)、転化は「白から黒へ(存在から存在へ)」のほかに「生成(非存在から存在へ)」や「消滅(存在から非存在へ)」のように、様々な変化を表します。

生成は「 γένεσις (ゲネシス、ドイツ語 Werden )ですが、この語は「白く成る」「おとなに成る」(転化・変化、存在から存在)という意味と、「子どもが生まれる」(生じる、非存在から存在)と両方の意味があります。どちらにしても、可能態から現実態のような意味でアリストテレスは使っています。

なお、ギリシア語の「生成」における「がなる」(生まれる)と「になる」(変わる)とに類似しているのは、ギリシア語(および一般に印欧語)の「存在」(ὄν, εἶναι )における「がある」(存在的のある)と「である」(コプラ的のある)とである。(訳者註、P.522)

「実がなる」「身になる」はどちらの意味でしょう。「生じる」より「成る」のニュアンスが強くなってきている気がします。

ちなみに、

人の発する声はなり高しなどというて、ナルというのが古い動詞であった。ドナルやウナルは東京でも毎日使っている。(柳田國男「国語史 新語編」、文庫版全集21、P.363)


卵が先か、鶏が先か

アリストテレスの答えは、

すなわち、第一のものはたねではなくてこの完全なものであるから。だからわれわれは、たとえば、たね〔精子〕よりも人間のほうが先にある、と言うべきである、というのは、たねから生まれた人間〔子〕の方がというのでなくて、たねを生んだ他の人間〔親〕の方が、というのだか。(1073a、P.421)

なぜなら、

なるほど普遍的には人間は人間から生まれる〔と言われはする〕が、しかし〔そうした普遍的な人間なるものは〕一人も存在していない、ただペレウスがアキㇽレウスの原理であり、君の父親が君の原理であり、(以下略)(1071a、P.411)

人間一般が人間一般を生むのではなくて、このペレウスからこのアキㇽレウス(先程出てきたアキレス)が生じるのです。つまり、現実態は可能態よりも先にあるということです。

まず、(1)説明方式において現実態〔現実活動〕の方が先であることは明らかである。なぜなら、第一義的に能のあるものがそのように能があると言われるのは、このものが活動する〔その能力を現実に働かせる〕ことのできるものであるがゆえにであるから。(中略)したがって必然的に、〔現実活動についての〕説明方式または知識が、〔その活動の可能なものについての〕知識のうちに、前もって含まれている。

だが、(2)時間においては、(a)(中略)すなわち、その種において可能的なものと同一であるところの現実的なものは、〔可能的なものよりも〕より先である、という意味では先である、しかし、(b)数的な意味では、先ではない。

(略)現実態はその可能態よりも、このような意味で、すなわちその生成〔の順序〕に関し、時間に関して、より先である。

しかしまた、(3)現実態は、実体においても、より先である。そのわけは、第一には、(a)まず一般に、その生成において後であるものどもは、その種〔形相〕またはその実体においてはより先であるからであり〔というのは、たとえば、成人は子供よりも、人間はそのたね〔精子〕よりも先である、けだし前者はすでにその形相〔種〕をもっているのに、後者はそうなっていないからであるが)、(以下略)(1049b-1050a、P.308-310)

実際(現実)の「もの」や「性質」や「動き(変化)」がなければ、それを説明(命名)する必要がありません。説明(命名)するというのは、先に述べた「区別する」ということです。目に見えるものから、山を区別して「山」と命名する、森を区別して「森」と命名する、生まれてきた猫に「たま」と命名することによって他と区別するということは自然なことです。ただ、その「区別そのもの」が「現実」にあるわけではありません。


部分と全体

では、実体(現実態)のないものに名前をつけられないかと言うと、それは「可能」で、「平和」とか「三角形」とか「直角」とか、名前をつけることはできます。

ところで、数が〔諸単位の〕複合体であるかぎりにおいては、あの一のほうが数よりも先であるが、しかし、普遍的〔全体的〕なものまたは形相が先であるという意味では、数のほうが先である。というのは、諸単位の各々が数の部分であり、その質料に相当するものであるとすれば、数そのものはそれらの形相に相当するものだからである。(中略)だからして、質料としての意味では、鋭角または構成要素または単位のほうが先であるが、その形相においては、すなわち説明方式としての実体においては、直角のほうが、または質料と形相とからなる全体のほうが、先である。(中略)だが、不可分割的と言えば、普遍的〔全体的〕なものもそうであるが、また部分的〔特殊的〕なものや構成要素も不可分割的である。しかしそれらは互いに異なる仕方で〔原理または始まりなの〕である、すなわち、前者はその説明方式において〔原理なの〕であり、後者は時間的関係において〔始まりなの〕である。(中略)なぜなら、一方〔普遍的なものや数〕は形相として実体としてであり、他方〔構成要素や単位〕は部分とし質料としてであるから。(中略)例えば二なる数をなすところの単位どもの各々は、ただ可能態において存在しているだけで、完全現実態において存在しているのではないのである。(1084b、P.473-474)

個物と種、部分と全体、特殊と普遍、これは、アリストテレスがそこから学び、だからこそ格闘しなければならなかったプラトンのイデア論です。プラトンは「変化する現実のもの」ではなくて、「変わらない・普遍的なイデア」つまり「普遍(全体)」こそが真の存在だとしたのです。アリストテレスにとっては、たとえば「二というイデア」が存在するとすれば、それを構成する「単位(一)」は「可能態においてしか存在しない」ということです。つまり、「二が存在し一は存在しない」というのではなく、「《二》という現実態」が存在するということです。つまり、「二個のりんご」は「二」と「りんご」の合成物でも、「一個のりんご」と「一個のりんご」の構成物でもなく、《二個のりんご》という現実的存在だということです。


類と種

日本語においても、「桜の美しさ」とか「椿の美しさ」のようなものはあると思います。でも、それと「花の美しさ」は違います。桜の花といっても、一本一本違うし、一つの木でも年ごとに異なります。また、同じ木に同時に咲いている花でも、一つ一つ違います。静止した(固定した)花の美しさではなく、それの「散る姿」に美しさ(儚さ)を感じたりもします。

見る方向が違うのです。初めから違うもののなかに同じものを見つけようとするのと、同じもののなかに違いを見つけようとするのとの違いかもしれません。そしてその見方の違いは、うねるように重点が変わるのかもしれません。ヘラクレイトスの「万物流転(パンタ・レイ)」は、実際の現実の変化を表現したにすぎません。

ところで、このエイドスについての意見がその主張者たちに生じるにいたったのは、かれら(プラトンの徒・・・引用者)が、真理の問題に関して、ヘラクレイトスの言説に服したからである、すなわち、その言説によると、およそ感覚的な事物は絶えず流転している。したがって、いやしくも認識または思慮〔知恵〕が或るなにものかについてであるならば、感覚的事物より他に或る他の常に同一に止まる実在が〔認識の対象として〕存在すべきである。というのは、流転してやまない事物については認識はありえないからである。(1078b、P.448)

桜と椿はそれぞれが「種(しゅ、エイドス εἶδος )」で、その違いは「種差 διαφορἀ 」です。ダーウィンの『種の起源( The Origin of Species )』は「たねのきげん」ではありません。「たね」は「 σπέρμα 」ですが「 γονή (精子)」との違いはわかりません。「 species (スペキエス)」は「 specio (見る)」の名詞形で「外観」。「見た目」ということでしょうか。古典ギリシア語には「 specio 」と同根の「 σκεπτομαι (見る、調べる)」という語が在るのに、どうして「 εἶδος 」の訳に使われたのでしょうか。

「桜」「椿」などの「種」に対するものとしての「花」は「類( γένος 種族)」です。生物学でも、種の上位の分類は「 genus 」ですが、こちらには「属(ぞく)」という日本語が当てられています。

γένος は、 γένεσις や γίγνεσθαι などと同様に「生殖」「生成」を意味する語根 'γε' から出た語で、ラテン語の相応語 'genus', 'generatio', 'gnascor' もこれと同様である。この語が、「生まれ」(たとえば、アテナイの生まれ、イオンの子孫、部族、種族)の意から、論理学での「種」( εἶδος,ラテン語で species)に対する「類」( γένος, ラテン語でも genus )の意に転用された。ドイツ語の Gattung も同様。(訳者註、P.566)

この辺の事情にはトマス・アクィナス(1225年頃 - 1274年3月7日)が絡んでいるようですが、よくわかりません。一応「コトバンク」から引用しておきます。

 スペキエス species
種,形象などを意味するラテン語。ギリシア語の eidosに相当する論理学および認識論の主要概念。トマス・アクィナスはアリストテレスの影響のもとに感覚的認識から知性的認識への移行を,(1) 能動的知性 intellectus agensによる個別的な映像 phantasmaからの species intelligibilis (可知的形象) ,すなわち普遍者の抽象,(2) 可能的 (受動的) 知性への species impressa (印象的形象) の賦与,(3) 限定された可能性の反応としての精神の言葉,すなわち species expressa (表現された形象) という speciesの転位的現象として説明する。 species expressaが真の意味での普遍概念であり,speciesのかかる転位的現象は人間的知性が生得の概念を有さないことを示している。(ブリタニカ国際大百科事典

「見た目(目に見えるもの、印象、感覚的なもの)」を、その奥にある「普遍的なもの(神の言葉)」の表現( expressa )と考え、それを(知性で)捉えようとしたのでしょう。それはアリストテレスの影響というより、プラトンのイデアそのもののキリスト教的解釈なのではないでしょうか。

まあ、この辺はアリストテレスの預かり知らぬことですが、アリストテレスの用語はキリスト教を経て、また後にはデカルトやライプニッツを経て、日本に伝わってきました。


造語をしない
ところで、説明方式は幾つかの語から成らざるをえず、しかも定義するものは新語を造ってはならない(なぜなら、新語は人々に理解されないから)、しかるに既成語はその表すすべての事物に共通である、だからして必然に、或る事物の説明方法をなす諸語は、その事物より以外の事物にも属し適用される。(1040a、P.260)

「説明方式」と訳されているのは「 λόγον ロゴン(ロゴス)」です。Wikipediaを見ると様々な意味があります。普段「論理」と訳されている意味は、むしろアリストテレスの頃には薄くて、もともとの「比率・調和・バランス」とそれを考え/表す「言葉」のニュアンスから、「世界の成り立ち」、それを「述べること」「述べ方」という意味でしょう。「説明方式」という訳は絶妙です。

「新しいもの・新しい考え方」には「新しい言葉」が必要だ、というのを日本人はすぐに受け入れてしまう気がします。漢字や仏教を輸入したときから、それを「当然なこと」としてきたからかもしれません。

「仏教伝来」は6世紀の半ばといわれ、それを重んじた蘇我氏が実権を握り、蘇我馬子は推古天皇を即位させ、(幼い)聖徳太子を摂政としました。そして大量の仏教思想や大陸思想が漢字として流入してきたのですが、「公式文書」は別として、「漢語そのもの」がそのまま使われたということではないと思います。むしろ、漢語(日本人にとっては「新語」)は極力使われなかったのではないでしょうか。漢字はそれに対応する日本語(大和言葉)で読まれましたし(いわゆる「音」ではなくて「訓」)、万葉仮名に代表されるように、日本語(大和言葉)を表すために意味ではなくそれが表す「音(おと)」として使われたのです。

勅撰和歌集である『古今和歌集』(905年)をもって「ひらがな革命」(金谷武洋『述語制言語の日本語と日本文化』P.47)というのはそのとおりだと思いますが、それまでも、そしてそれ以降も「漢語」は日本語にとって(日本人にとって)「必須のもの」ではなかったのではないでしょうか。

ちゃんと調べてはいませんが、『百人一首』を見るかぎり、「漢語」は出てきません。漢字を「音読み」することもないようです。恋愛や人生の機微を表現するのに、漢語は必要ではないのです(言葉が必要かどうかも微妙ですが)。なんせ、ほとんどの人は文字(漢字も仮名も)を知らなかったのですから。そして多分「漢語」も。

それがいつの頃からか、「漢語は必要」あるいは「カタカナ語は必要」だと変わりました。私は大雑把に20世紀前半と考えていますが、学校教育がその下地を作り、マスコミの誕生がそれを決定的にしました。

この状況は西欧でもほぼ同様で、その「新語」をウヴェ・ペルクゼンは「プラスチック・ワード」と名付けました。なにかを「表している」ようで「中身がない言葉」と言ったらいいでしょうか。「エネルギー」とか「情報」とかが代表的です。「開発」もそうですが、これらの「中身がない言葉」は「中身がないゆえに」何にでもくっつけることができます。なので、何度でも「再開発」が可能です。

本来言葉(単語)は「なにか(実体・存在)」を「表す(定義する・述語する)」ものですが、それが逆に「述語する言葉」があるから、「なにかは存在する」と考えるようになります。アリストテレスがプラトンの「イデア」を徹底的に批判したのは、まさしくこの「新語」とつながっています。「二」という「言葉(イデア)」が在るから、「二のイデアは存在する」とか。

「猫」という言葉(イデア)は、「実在としての(具体的な)猫」を前提しています。エネルゲイアは、その「実在としての・現実の感覚することができること、あるいはその行為」を表していましたが、「エネルギー」は、その「具体的なもの」を取り去ることで、何でも表すことができます。情報(インフォメーション)は、「形(フォルム)になったもの・形を持っているもの・形を与えられたもの」あるいは「形を与えること」ですが、そこから「もの・こと」を取ってしまったものが「情報」です。

けだし、およそ相互に言葉を交わそうと欲する者どもは、相互になんらか他を理解していなければならない。もしこのことがなかったなら、どうしてかれら相互のあいだに言葉の交通がありえようか?そうだとすれば、各々の用語はそれぞれ可知的なものであり、なにものかを明らかに指し示すものであらねばならない、しかも多くのものごとをではなしにただ一つの物事を、そして、もし一つより多くの物事を意味する語であるならば、その多くのうちのいずれの一つを意味するものとしてこの語を用いているかを明らかにしなくてはならない。(1062a、P.369)

プラスチック・ワードは「物事を意味」していませんから、明らかにしようがありません。「地方の活性化」「地方の活力の回復」・・・。これらが何を「意味」しているのか、多分、これらの言葉自体には意味がなくて、だから、何をやっても問題がないのでしょう。

これである」を「これ」(感覚的な、触ることのできるもの、生滅変化するもの)と「本(イデア、変わらないもの)に分けてしまったのは、プラトンの考えと言うより、印欧緒語の持つ性格でしょう。そこにはすでに、「実体とは別なもの」の萌芽があります。アリストテレスは、「質料・形相」として「一緒にしか存在しない」と強調しても、その分離は止められませんでした。


原因と目的
  • キリンの首はなぜ長いか

移動せずに踏みとどまって、高い木の葉を食うのも、もちろん気候変化に対応した生き方として、結構なのではあるけれども、それはおとなのキリンにたいしていえることであって、キリンでも子供のときは、そんな高い木の葉は食えないであろう。その場合、子供を飢え死にさせたのでは、種が絶滅してしまうではないか。子供に高い木の葉を食わないでも生きられる方法があったのなら、おとなのキリンだって、おなじ方法をとることができたのではないか。現在キリンが高い木の葉を食っているのは、首や足が長くなり、高い木の葉が食えるようになったから、食っているのに、すぎないのでなかろうか。(今西錦司『主体性の進化論』中公新書、P.26-27)

キリンが高い木の葉を食おうという欲求をもち、そのための努力をつづけたかどうかというようなことは、実証のかぎりではない。しかるに、そういう説明で子供もおとなも納得するということは、じつは自分をキリンのおかれた環境に投影して、自分だってそんな状態におかれたら、要求を実現さすための努力をしたであろう、とおもうからこそ納得するのである。そしてこれが、さきほどの引用にもあった、現在の科学の排斥する「擬人主義」である。(同書、P.25)

「首が長ければ(原因)、高い木の葉が食べられる(結果)」ということと「高い木の葉を食べるために(目的)首が長くなる」ということは、全く別(逆)のことです。

簡単にいうなら、理性が発達してきて、人間が理屈っぽくなりだしたからであろう。これは、フランス革命の前後から目立ってきた、近代的人間の特徴の一つであって、科学の発達も、もちろんこのことと無関係ではないばかりか、進化論というものもまた、この風潮に便乗して、現れてくるようになったのである。(同書、P.37-38)

ダーウィンの『種の起源』は、まだ半分しか読んでいませんが、ずるして最終章から引用します。

相当に複雑な器官や本能が、人間の理性に似てはいるがそれよりすぐれた方途といったものによってではなく、おのおのが個々の所有者にとって有利な、無数の軽微な変異の集積によって完成されたものであると信じることほど、はじめ困難に思われることはない。(中略)いま存在しあるいはかつて存在していたであろうと考えられる器官や本能の完成における段階的変化は、それぞれその種類にとって利益があるということ、  あらゆる器官および本能は、たとえどんなに軽小の程度であるにしろ変異するということ、  そして最後に、構造あるいは本能におこった個々の有利な変化の保存にみちびく生存競争が存在するということである。(『種の起源』岩波文庫、下、P.235-236)

このようにして、自然のたたかいから、すなわち飢餓と死から、われわれの考えうる最高のことがら、つまり高等動物の産出ということが、直接結果されるのである。(同書、P.262)

まだ「突然変異」という言葉も(「遺伝子」という言葉ですら)なかった頃です。ダーウィンがこの「変異」を「点(大きさのないもの)」のようなものと考えて、それが集積されて「種(大きさのあるもの)」になると考えていたのでしょうか。わかりません。この「変異」そのものが、「種差」の範囲内なのか、種差に含まれないものなのか、それはそれが残り、「変種」と認められるようになるまでは、存在するとさえ言えないものなのです。結果として、それが「新たな種となるような変異だった」ということです。DNAが発見され、突然変異が量子力学的に説明されたとしても(それを「説明」と呼べば、ですが)、そのことは変わりないのです。そして、その「原因」は「神」から「有利」や「利益」に代えられました。「神の目的」は「自然の目的」を装った「人間の目的」(飢餓と死)に代わり、新たな「運命(本能)」になったのではないでしょうか。

今しがた、「パレスチナの子供、5人に一人が栄養失調」というニュースを観ました。「飢餓(飢え)」が「栄養失調」になったとき、「人道支援」は「物資(食料)の支援」になります。それはトランプ大統領の「土地と家を与える」こととどこが違うのでしょうか。パレスチナ人(主語)は「与えられなければならない存在」なのでしょうか。「与えられる存在」という「定義」を与えること(述語すること、名付けること)、「主語・述語」「質料・形相」「感覚的なもの・観念的なもの」のような「仕組み・枠組み」を受け取るものとして、プラトンは「コーラ(場)」というものを「名指し」せざるをえませんでした。

哲学は、みずからの「母」や「乳母」や「受容体」あるいは「刻印台」にただ単に似ているものについて、哲学的に語ることはできない。そのようなものとして、哲学が語るのはただ、父について、そして息子についてだけである  あたかも父が自分一人で息子を産み出しているかのように。(デリダ『コーラ』邦訳、P.89)

原因も結果も目的も、あくまで人間が考えた(理性的)ものにすぎないし、その限定(区別・定義)を他の存在に拡張する場合も、限定(たとえば神)を想定しなければなりません(それが哲学者の良心かもしれません)。他者(第三者)の審級からは逃れられません。それは思考そのものが第三者(主体でないもの、人間ではないもの、あるいは思考されえないもの)に属する(受容される)ものだからです。

プラトンは、「自分は母から生まれた」と言っているのです。プラトンは「アテナイ(ポリス πόλις)という場所 τόπος(トポス)」と「アテナイという場 χόρα (コーラ)」は違うと言っているのです。プラトンは「この母」から生まれ、アリストテレスは「あの母」から生まれたと言っているのです(アリストテレス自身「ただペレウスがアキㇽレウスの原理であり、君の父親が君の原理であり・・・」と言っていたではありませんか)。

なるほど普遍的には人間は人間から生まれる〔と言われはする〕が、しかし〔そうした普遍的な人間なるものは〕一人も存在していない、ただペレウスがアキㇽレウスの原理であり、君の父親が君の原理であり、(以下略)(1071a、P.411、前出)

アリストテレスにとっては、母は「質料(哺乳瓶)」だったのでしょうか。アリストテレスが幼い時(?)に亡くなった母は、アリストテレスにとってどのような「存在」だったのでしょうか。


言語と哲学

哲学があって、それを言語で表すのでしょうか。言語があって、それを表す(後から説明する)、つまり帰納されたものが哲学であると考えるのでしょうか。

アリストテレスが「新語」を作らなくても、それがラテン語に翻訳されたとき、そこに別の意味が生じます。アリストテレスのときも定冠詞( the に当たるもの)はあったし、それを大いに使っていたと思います。また、その後、大文字と小文字が使われ、大文字で表すことで別の、一般的・普遍的・客観的な意味をもたせることも始まります。その時、「話し言葉」と「書き言葉」の分離が始まります。

叙事詩と戯曲とは、たとひその存在そのもののためではないまでも、少なくともその活力のために、生きた聲と耳かたむける聽衆とに依存するものではないか。のみならず音樂の伴奏を持つた詩は、外的の助けや工夫なしに記憶され得るのである。

しかしギリシア人に書きものを疑問視させた原因は、彼等の藝術的本能のみではなかつた。行為に於いても亦彼らは形式の前にたじろいた。不變の規則は行為を硬化させる。屈伸自在に彈力的なこと、不斷に調整することの必要は強く感ぜられた。法律に對するギリシア精神の態度は顯著な適例である。たいていの東洋民族は書かれた宗教法典を持つており、それは直接に神の心か又は手から來たと想像され、特殊の神聖さを與えられてゐた。(ブチャー『ギリシア精神の様相』岩波文庫、P.160-161)

まして、

それは一般的であつて特殊の場合の間に合はない。(同書、P.164)

ソクラテスが文字を嫌い、プラトンがそれを知りながら文字にした以上に、個物(特殊)を一番に考えるアリストテレスが、文字を言葉以上に大切にしたとは思えません。

たいていの書物は或る意味で人間的ではない。自分をあるがままに文章に現はし、その人間の眞の印象を與える人の、いかに少ないことだらう!一度紙に託せられると、人は彼自身の性格を失ひ易く、また中性や非人格的になるか、或は假構の人格を  無意識に  とり易い。(同書、P.179)

アリストテレスは、『形而上学』のように「語っていた」とは思えません。古典ギリシャに「標準語」があったわけでもありません。自分の考え(哲学)を「語ろう」とするとき、いわばそれに「命名」しようというとき、そこには「ことば」という巨大な壁があります(それをコーラとすれば、それは「母語」です)。それは「不足」と「過剰」でできていて、「誤解」や「思い込み」を伴います。それでも伝えようとすれば、母(コーラ)を信じるしかないのですが。

さらにそれを「文字」にしようとすると、もう一つの壁があります。プラトン(ソクラテス)はそれを強く意識していました。

じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(プラトン『パイドロス』邦訳旧全集、P.257)

思っていることと、ことば(話し言葉)との同一性、ことばと文字との同一性は何を担保としているのでしょうか。

プラトンは、

従って、名づける場合も  さっき言われたことに一致するように言おうとするならば  われわれの欲するままに名づけるべきではなくて、事物を名づける作用と事物が名づけられる作用の本性に合うしかたで、本性にあう道具を用いて、名づけるべきではないだろうか。そしてそのようにするならば、われわれはそのことに成功し、名づけたことになるだろうが、そうでないと反対の結果になるのではないだろうか。(プラトン『クラテュロス』387,邦訳旧全集 P.17)

では他方、綴と文字を用いて事物の有りかた〔本質〕を写し取る人は、どうなのだろうね。やはり同じ理屈で、もしその人が事物にふさわしい〔本来帰属すべき〕ものをすべて帰属させるならば、その模写品すなわち名前はいいものとなるだろうし、もしまた少しばかりのものを落としたり、時にはまた付け加えたりするならば、模写品はできるだろうが、いいものはできないのではないだろうか。そしてその結果、名前のあるものはりっぱに、あるものは下手に作り上げられたものになるのではないかね。(同書、431,P.145)

他方、性質的なものと〔そのうちで今問題になっている〕あらゆる種類の模写物のばあいには、その正しさ〔正しいものであることの基準〕はそういうものではなくて、むしろ反対に、模写物を得ようとするならば、われわれは、そもそも原物であるものがもっている形質をすべてそれに帰属させる〔再現させる〕ということが、そもそも許されてすらいないのではなかろうか。(同書、432,P.146)

名前が綴と文字による事物の表示であることを認めてはならないのだ。(同書、433,P.149)

アリストテレスは、

物事がタウタ〔同、同じ〕であると言われるのにも、(一)或る物事はそれの付帯性において同じと言われる。(1017b、P.154)

さて、或る物事はこのように付帯性において同じであると言われるが、しかし、(二)或る物事はそれらそれ自体において同じであると言われ、あたかも一つというのがさまざまに言われたようにさまざまにそう言われる。(1018a、P.155)

この「タウタ」ですが、

原語 ταὐτά は中性複数形冠詞つき、単数中性冠詞なしでは αὐτό (複 αὐτά )。ラテン語では idem。また「同一性(同じであること)」と訳された ταυτότης は、ラテン語では idemtitas.(訳者註、P.560)

やっと出てきました。「アイデンティティ」です。(一)は、「白い犬」と「白い猫」が「白い」という「付帯性(あるいは偶有性、偶然性 κατὰ συμβεβηκός、ラテン語訳 per accidens )」において「同じ」ということで、(二)は「自体性( καθ´ αὑτό、ラテン語訳 per se )」において「同じ」、言いかえれば「それがそれであるところのそれ」ということです。(一)は「ソクラテスは色白い」で、(二)は「ソクラテスは他でもないソクラテスだ」ということになるでしょうか。「同じ」であり「一つ」であるということ、つまり「自己同一性」ということです。この二つが印欧語で同じだということは、「〜である」と「〜がある」が同じ単語(繋辞、be動詞など)で表されるということです。

考えとことば、ことばと文字が「同一」であることは、この繋辞が担保しているのです。日本語としてはとても頼りない「同一性」ですが、印欧語においては「同じ」なんだから仕方ありません。日本語においては、考えとことば、ことばと文字は「同じではない」ということから考えなければなりません。というか、考えることができます。

日本に「アイデンティティ」という単語が受け入れられなかった理由はここにあります。ところがこれが「 ID 」という「アルファベット(あるいはプラスチック・ワード)」になった途端に広まりました。「 IDとパスワードを入力してください」は「名前と生年月日を入力してください」という意味で受け入れられました。


デカルトの人形

デカルトが幼くして亡くなった娘、フランシーヌを模した人形を愛したという伝説は有名です。その人形は「オートマタ αυτόματος 」だったとも言われています。

オートマタは、言葉の原義としては「自動機械」のことであり、語源のギリシャ語「automatos」は「自らの意志で動くもの」というような意味合いを持つ言葉である。(Wikipedia

「自動で動く」と「自らの意思で動く」のニュアンスはわかりませんが、” per se ( καθ´ αὑτό )” は” by itself "だろうから、「自分で」というニュアンスがあるのでしょう(日本のガソリンスタンドの「セルフ」です)。だとすると、デカルトの機械論的宇宙観は「自らの意思で動く機械仕掛けの娘を作ることができる」ということにもなります。「何でも作ることができる」ということは、「何でも治す(直す)ことができる」ということです。

私は『所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!』にでてくる「秘境の家電修理人」今井さんが大好きです。「家電を直して使う」ということが少なくなりました。電気店に行っても、「直すより性能の良い新品を買ったほうがいいですよ」と言われます。もともと修理人を置こうという気がないのです。保証期間内であれば、メーカーに送って修理します。人が修理できるものというのは、「人が作った(組み立てた)」ものです。人の「手が入らない(手を入れる隙間がない)」ようなものは、今井さんでも修理できないでしょう。

前述の日本の在来工法は、「大黒柱」があって、それが大丈夫なあいだは、それ以外の部分が傷んだときに、そこを修理すればよかったのです。大黒柱以外が全部取り替えられても、「その家」はなくなりませんでした。ある意味では新陳代謝を繰り返し、細胞やそれを作る物質が入れ替わりながらも「自己」を維持している生物に似ています。それが「ツーバイフォー(2✕4)」に代わりました。ツーバイフォーにも柱はありますが、屋根を支えているのは壁です。それは「修繕」には向いていないのです。ですから、古くなったら取り壊すしかありません。あるいは取り壊すことを前提に作られているのです(鉄筋・鉄骨住宅も同じです)。

人間は「現実」としては、「なんでも作れる」わけでも「なんでも直せる」わけでもないのですが、「可能性」としては、「そうである」と思う人と、「そうではない(不可能である)」と思う人がいます。プロメテウス的人間とエピメテウス的人間と言ってもいいでしょう。いまは(先進国においては)前者が優勢です。資本主義社会にふさわしいのは前者です。作るということ、売るということが「最大の関心事」で、「どう使われるのか」「どうなっていくのか」は「次に作る(売る)」という範囲内でしか省(かえり)みられません。まるで「作られた(売られた)後」はそれらを忘れているかのように。

医者は病気を「治す」と勘違いされていますが、病気は「治す」ものではなく「治る」ものです。医者が治すのではなくて、病人が治るのです。医者は「治す」と言って医療を「売って」いるので、患者(という人間・客)はつねに「半病気」「半健康」でなければなりません(可能態としての病人)。病気を治すことと家を直すことが区別されていません。家が自分で直らないことはエントロピーの法則を持ち出さなくても明らかです。人が住まなくなった家は、本当に速く壊れます。患者も「自分では治らない」いやむしろ「自分で治ってはいけない」とすら思われています。人間は「医療を必要とする人」とされます。「教育を必要とする人」「経済人」などと同じです。かっこよくラテン語で「ホモ・〜」と言いたのですが、ラテン語がわかりません。


三位一体

聖書(新約・旧約とも)を読んがことがないし、キリスト教のことはほぼ何も知りません。「3」という数が、色々な文化にとって色々な意味を帯びていることは想像できます(「3」という数、あるいは「数」という概念自体を持つ文化がどれくらいあるのかはわかりませんが)。「神と子と精霊のみ名において」よりも「神も仏も」と言ったほうが、タイパやコスパが重視される現代にふさわしい気がします。

いま、家電修理人今井さんのマネをして「鳩時計(ハトじゃなくてカッコウ時計だけど)」を修理しようとしています。今井さんのように、色んな部品や道具のストックがないので、とりあえずホームセンターで工作用の電気コードを買ってきました。赤と黒のコードで、別々にはいっているかと思ったら、二本がくっついている並行コードでした。別に問題はないんですけど、普通は赤は「+」黒を「ー」として使います。そういえばいまは多くのものが「2つの対立」として捉えられています。今までアリストテレスの説明のために作った棒「精神・肉体棒」や「存在・非存在棒」などもすべて「二項対立」です。「善・悪」などもそうです。「世界はそうなっている」といえば、そうなんでしょう。でも、それが「ものの見方」に引きずられている可能性はあります。

日本だって「三つ巴」とか「三すくみ」とか、仏教的な「仏法僧(三位一体とは違うのでしょう)」「四苦八苦」、儒教的な「仁義八行」、あるいは「十二支」など、さまざまな「特別な数」があります。戦後は「ラッキーセブン」や「十三日の金曜日」などもありますが。

アリストテレスも大まかにいえば、「主語と述語」(多分間違いだけど「質料と形相」)という二項対立的だと思います。そして「神(不動の動者)」は別として、第三のものとは「主語と述語」をまとめている「文」です。アリストテレス以降は、その「主」と「述(客)」をそれぞれを考え続けてきたように見えます。唯物論と観念論もその対立の現れでしょう。でも、アリストテレスがいいたかったのは「文」の方です。「主語(質料)も述語(形相)もそれだけでは存在しない、存在するのは「文」なのだ」ということなのだろうと思うのです。「全体は部分よりも先にある」「現実態は可能態より先にある」「親は子より先にある」などというのはそういう考えです。

もちろん、アリストテレスは「それが見方の問題だ」ということを必ず言っています。だから、アリストテレスの文章は複雑(こんがらがって読める)なのです。たとえば、

この場合にも同様に、いま述べたとおり、或る意味では先であり或る意味では先ではないと言うべきである。(1036a、P.242-243)

まるで「禅問答」です。私なりの解釈をいえば、眼の前にいる実在の一匹の猫を見たとき、「猫だ」と思うのは、「白い・黒い・茶トラ・三毛・大きい・小さい・・・」からではありません。「白くなくても・大きくなくても」猫だからです。これらは「付帯的(偶然的)」なことです。それらとは別に「猫が猫であるゆえんのもの(自体的/必然的)」があるはずです。「猫」を猫だと認識するために、「耳」を見たり「足」を見たり「尻尾」を見たりしているはずです。つまり猫は、「耳・足・尻尾」などの部分でできています。猫の場合は「部分に分割する」と死んでしまいますが、建物であれば多くの柱や壁に分割することができます。でも、「多くの柱」を全体として「一つのもの」としてみることで「柱」、「多くの壁」を全体として「一つのもの」としてみることで「壁」です。家は「柱や壁(という部分)」の集合ではなくて、「全体」として「家」なのです。柱や壁は「家」という「目的(テロス τελος )」のために存在しているのです。その目的のために家を作ろうという思い(始動因)や設計図(形相因)や材料(質料因)があり、実際の建築行為(これを動力因という人もいる)があって「家」という実体ができます。でもこれらも実際(完全現実態)の家の存在があって、「逆算的に(反省的に)」言えることなのだ、ということです。「2という数」は「1(単位)が二つ」でできているとともに、「2という数」を「一つの全体」として見ているということです。分けらるものを分けても、その一つ一つがまた「全体」です。分子に分けても、それぞれが一つの全体だし、分子を原子に、原子を素粒子に分けても、それぞれが一つの全体です。アリストテレスは「(他と区別される)一つであること」「全体であること」こそを重視しました。だから、どこまで分割しても「大きさのない点」にはならないのです。むしろ、部分はいつでも大きさをもつものとして、「全体を構成するもの」あるいは「全体を構成するために」存在しているのです。

でも、後世では「これは猫である」の「猫」ばかりを、さらに後には「彼はソクラテスである」の「彼」ではなく、「私はアリストテレスである」の「私(主体)」を重視するようになりました。「彼」は「猫」と同じ「他者(他・他物・客体)」になってしまいました。それはアリストテレスが意図するところとは全く違うと思います。

プラトンも「3つの種類」に分けた点では同じです。「感覚的で生滅変化するもの」と「不変な(普遍的な)イデア」、そして「第三の種族 trion genos 〔第三のジャンル・ジェンダー〕」(『ティマイオス』48E、邦訳旧全集 P.74)。これは「寝とぼけて主張」するような「擬(まが)いの推理」でしかなく、定義や名付けできないものなのですが、これにあえて「場(コーラ)」という「名前」を付けました。アリストテレスは「質料と場〔コーラ、空間〕とを同じである」と言っていますが、もしプラトンをアリスとテレス的に解釈するとすれば、むしろ、「場」はアリストテレスの「文(ロゴス、説明方式、あるいは全体)」に近いのではないでしょうか。でも、「場」は「質料」や「場所」ではなく、「文」でもなく、「認識される実体」や「イデア」とはの、「第三の種族」なのです。

主語と述語(そういうもの・あるいはイデアがあればですが)からなる印欧語の「主語・述語」構造は、アリストテレス的二元論を推し進めようとします。逆説的ですが、その流れを一時的に押し止めたのがキリスト教の「三位一体」だったのかもしれません。


追いつく?

身の程をわきまえず、私は父や西田やデカルトやアリストテレス・プラトンに追いつこうとしました。でもできません。「追いつこうとした」ということは「自分はかれらよりも劣っている」と感じているからです。

でも、人類は進化しているのでしょうか。増えているのは知識、それも本(データ)としての知識だけではないでしょうか。「実体」は増えているのでしょうか。語彙(用言・体言・主語・述語等)は増えているのでしょうか。それらが持つ意味は増えてきているのでしょうか。つまり「世界(自然、ピュシス)」は増えているのでしょうか。若い頃は「なにかを知った」気になりました。でもいまでは覚えることよりも忘れることのほうが多いことが明らかです。毎日「新しいニュース( news )」が報道されます。でも、それは本当に「新しい」のでしょうか。本当に「新しい」ものは理解できるのでしょうか。

新しいことが「新しい言葉(単語)」で表現(述語、定義)されると、その単語がいつの間にか存在(基体・主語)にすり替わっているような気がします。たとえば「(〜は)多様である(多様な性質を持つ)」が「多様性がある」と簡単にすり替えうるのは、或る意味で日本語的です。それが突然「ダイバーシティ」に変わりました(お台場街?潜水夫市?)。

私は、多様性がダイバーシティに変わったことを知っています。国民総背番号制がマイナンバーに変わったことを知っています。男女がジェンダーに変わったことも知っています。だから、多様性も国民総背番号制も男女も「なくなっていない」と思います。少なくとも私の中ではなくなっていません。ティッシュペーパーはチリ紙ではないのでしょうか。

新しい言葉(単語)を作った(命名した、定義した、あるいは思いついた)ということが、「新しいもの(実体)を作った」ということではないことは明らかです。アリストテレスの言葉にすれば、現実態としての実体を作ったことではありません。それがその人の頭の中にある「心情(ことばにする前のもの)」あるいは「基体・可能態」を「表したもの(命名したもの)」だとしても。それが「別の言葉として以前にあった」ということではありません。それは誰にもわからないし、辞書にもありません。ググっても出てこないだろうし、ググりようもないでしょう。それは「情報(データ)」ではないからです。人間は「このデータ」を入れたら「あのデータ」が出てくるのを期待されるようなブラックボックスではありません。


母から産まれる

ところが、小説を読んだり、ドラマ(映画)を観たときに、「これこそ私のいいたかったことだ」「私の思いが描かれている」と感じることがあります。それが『源氏物語』だったり、『百人一首』

だったりすることもあります。あるいは、『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』だったりします(アラビア語で書かれていたら読むことはできませんが)。

私はビートルズを聴き、YMOを聴いてきました。クラシック(クラッシック)は「古い」という意味しかありませんでした。そして私にとっては「新しい」ものが「いいもの」でした。最近、ちょっとだけクラシックを聞くようになりました。ベートーベン、バッハ、いいですよね。いいと思うのは、その西洋音階や和音をどこかで聴いてきたからです。結局のところ、ビートルズやYMOを聴いてきたからだということがわかりました。お釈迦様の手のひらで飛び回る孫悟空だったのです。

小説やドラマ、そしてそこに流れるBGMが私の感情を動かすのは(あるいはそれに感情移入できるのは)、それらが「作られたもの/語られたもの」だということを「忘れる」からです。

私は母の胎内にいたことは覚えていないけど、そこでも私があったとは思えません。産まれた後もたぶん、言葉を喋ることはできなかったでしょう。

けれどもどうして話すことを学んだかに注意をむけたのは、後になってからのことです。(中略)

私は人々が、何ものかの名を呼んだり、その声におうじて身体をその方向へ動かすたびに記憶にとどめていました。人々がそのものを示そうと思うときには、そのものは彼らが発した音で呼ばれることを見て、心のうちにとどめてゆきました。彼らがそれをしようと思っていることは、身体の動きからあきらかでした。この身体の動きは、いわば全民族に共通な自然の言語のようなもので、ものを乞うたり、しりぞけたり、逃げたりする場合、心の動きを示す顔つきや目つき、その他の身体の部分の動作や声のひびきぐあいなどから生じます。(アウグスティヌス『告白』世界の名著14、P.71-72)

引用しておきながら『告白』は読んだことがないと告白しなければなりませんが。

昔、猫を買っていました。餌を置いて「これ」と指さすと、餌ではなくて私の指先の匂いをかぎました。「これ」と指さしたときに、指先ではない「これ」が猫にはわからないのでしょう。犬はどうでしょうか。「取ってこい」と指さした方に走り出す気もしますが、犬は好きでないのでよくわかりません。「これ」がわかることを「ミラー・ニューロン」と名付けたとしても、ことは何も変わりません。人間や一部の猿には「これ」がわかる(可能性がある)と言っているだけです。それが物理現象や生理現象だと言ったところで、デカルト人形の「可能性」を言い直しただけです。アウグスティヌスは母をどう思っていたのでしょうか。

この父親から、この母親において、あなたは私を、時間の中にお造りになりました。けれども自分自身は何もおぼえていません。

さてこの私を、なぐさめにみちた人間の乳がひきうけてくれましたが、その乳房をみたしてくださったのは、母でもなければ乳母でもありません。(中略)

もっとも、これに気づいたのは、後のことです。(同書、P.66)

アウグスティヌスは「後で気づいた」のですが、それは「知っている(いた)こと」でも「忘れたこと」でもないでしょう。私は、アウグスティヌスは「父(神)」から産まれたように思っていると感じます。

私の体も、私の感情も感覚も、「私が作った(産んだ)」ものではありません。だとすれば、私が考えたことを、「私が考えた」ことだと言うことはできません。私がことばを、日本語を、あるいは日本語文法を作ったわけではないので。私は、日本語で日本語文法によって考えているのですから。

もっと言えば、それは「私」が考えているのですらありません。

  • 我思う、ゆえに我あり

逆にいえば、「我が思う」のでなければ「我が在る」のでもないのです。

「精神・肉体棒」は、「実在」するのではなくて、それはいわば「コーラ的なもの」にすぎないのです。

しかし、この当のもの(コーラ・・・引用者)については、これまたそれを、何にせよこれこれのもの(特性)として、つまり、熱いとか、白いとか、あるいは一般に、互いに相反する対をなすどれかだとか、またすべて、そうした対をなすものから成り立っているものだとかいった、こうした類のどんなものとしても呼ばないこと  これが一番安全な言い方なのです。(『ティマイオス』50A、邦訳 P.78)

プラトンはアリストテレスにも、2500年後の私にも「先回り」していました。やれやれ。

それでもコーラ(的なもの)の中(「中」というのもあくまで比喩だけど)で生きるしかないのです(アリストテレスでさえも)。つまり、人間として、あるいは動物として生きるしかないのです。

ただ、コーラの中できていること(つまり、プラトンの比喩を借りれば「母から産まれたこと」)、つまり父だけから、あるいは自分自身(子)で/から生じたものでないことは、「事実」なのです。

私は今まで忘れていたけど・・・。それは憶えていて忘れたのでもないし、気づくことは思い出すことでもないけど。


楽器

私は楽器をいくつか持っています。楽器が弾けるって、かっこいいじゃないですか。金も力もない私は何とかモテたかったのです。ところが、三日坊主というか、どれも3日続けて練習することができないのです。ある楽器を(それを弾いている姿を)見たとき、この楽器の音色がいいなあ、と好きになります。どうして好きになるのか、その理由はわかりません。弾いている人がいるんだから、練習すれば弾けるようになると思うのですが、練習できないのです。何度も「挫折」を味わいました。

「楽器を好きになる(練習ができる)」というのは、むしろ、「楽器が私を好きになる(選ぶ)」ということなのではないでしょうか。どうして楽器が私を好きになるのか、それもわかりません。

外国語や、運動も同じで、「一つできる」ようになれば、「二つ目以降」は楽になると思うのですが。

「○○を愛し、○○に愛された✗✗」、サンシャイン池崎です。

うまくなれなくても、他の人が楽しくなったり、歌を歌うのを手助けできたらそれで万々歳なのですが。「モテたい」と思う時点で、自分のためにうまくなろうと思っているのです。

言葉(単語)を覚えるのが得意な人はいます。その言葉をどう使うか、どう選ぶか、どう並べるかが得意な人もいます。ある技術を早く習得できる人がいます。それは、「お酒に強い人」や「下戸の人」がいるのと変わりません。いつの時代だって。どこの地域だって。

誰もがソクラテスやアリストテレスになれるわけではありません。ソクラテスがいなかったら、プラトンはいなかったし、プラトンがいなかったら、アリストテレスはいなかったと私は思います。そして、アリストテレスがアラビア人の子であったり、日本で生まれていたら、別の考え方をしていたと思うのです(「〜である」と「〜がある」がどう違うのかなんて考えなかったでしょう)。

アリストテレスが「アテナイ出身でなかった」ということと、アリストテレスが「アリストテレスであった」ということは同じことだと思います。アリストテレスにとっては、「アリストテレスがアリストテレスであること」は、「付帯的」なことではなく、「自体的」なことでしょう。しかし、西欧近代にとっては、それは「偶然的」なことではなく、「必然的」なことだと意味されます。アリストテレスはアリストテレスでなければならないし、私は私でなければならないし、或るものがあることは或るものであることなのです。近代西欧思想を輸入した日本では、それは「別のこと」でしたが、それがだんだんと「違う」ことになり、そのうち違いがわからなくなるかもしれません。「ID 」を「名前」だと思っているうちは、まだ「希望」があると思うのですが。

父である「私」が、子である「ことば」を作った、そして「私を作ったのは私だ」という思い。そして、「思い通り(期待通り)になったのは私が頑張った」からで(私は頑張っているのですが)、そうはならなかったことを「社会、親・家族」あるいは「運命、運命、偶然」など「私以外のもの」に押し付けるとき、やっぱり「母から産まれた」事を忘れているのです。でも、アウグスティヌスとは別の意味で、「後で気づく」ことはできるのではないか、そう思いたいです。

人は真理( ἀλήθεια、あるいは φύσις 自然)を知りえるのでしょうか。もし知り得たとしても、それは「私」が知ることではないし、多分「あなた」が知ることでもありません。ごく一部の人が「知った」と言い、それは「伝えることができない」と言うでしょう。そして今では、もし知りたければ、かれらが作った「商品(法・制度)」を買うくらいしかできないのです。





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