漢字と日本語 高島俊男著 2016/04/20 講談社現代新書

漢字と日本語 高島俊男著 2016/04/20 講談社現代新書
本書について

『漢字雑談』の続編です。前作同様学術書ではありません。いわば「雑学書」です。面白いであろうことはわかっていたのですが、いま余裕がなくて読まないことに決めていました。ところが図書館に行く用事があって、これもなにかのめぐり合わせだろうと思って借りてきました。

これがやっぱり面白い。「へえ」「なるほど」と思うことばかりです。いっぺんに読んでしまいました。新書ですが、300ページ以上あります。読むのに6時間以上かかりました。

私は本を読むのがとても遅いのです。誰かが「新幹線で東京から大阪に行く時間が新書本にぴったり」と言っていました。本をたくさん読む人(学者)は読むのが速いんだなあ、と思いました。これでも私は読むのが速くなったのです。音(声)があまり頭のなかに流れなくなったのかもしれません。それでも読めない(読み方・音がわからない)漢字のところでは引っかかります。この本は丁寧にむずかしい(多分常用漢字じゃない)漢字にはふりがなを振ってくれています。でも、二度目以降には振っていないので、そこで引っかかるのです。

学生時代、漢字には苦しめられました。漢字を知らない=知識がない=頭が悪い=勉強ができない=成績が悪い、ということですから。テレビのクイズ番組では、必ずといっていいほど漢字の問題が出ます。「読み問題」はなんとかなるにしても、「書き問題」になると、小学校で習う漢字でも書けない自分がいます。パソコンを使うようになって、「字を書く」こと自体がほとんどなくなっているので。


辞典

常用漢字でも読めない漢字は結構あります。辞書を調べればいいんでしょうけどね。結局辞書を開かずに読んでしまいました。読めなかった漢字は、またどこかで出会ったら読めないままです。ふりがなを振ってある字でも、二ページ後にはもう読めないのですから、似たりよったりですが。

「言われてみれば国語辞典ってのは奇妙なものだな」はいたるところで思ったことでした。日本語を日本語で説明する、というところが奇妙だ。

小生は戦後の昭和二十四年(一九四九)に新制中学に入って英和辞典というものを知った時代である。それまでこの世に辞書というものがあることなど知らなかった。必要を感じたこともなかった。知らなかったんだからあたりまえですけど。(P.60-61)

「思ったことでした」が、次の行では「奇妙だ」です。「奇妙です」ではないんですね。これがどうも気になります。著者は文章の専門化ですから、これでいいんでしょうね。学術論文ではないからいい、ということなのでしょうか。

日本語でこういう言わば融通無碍なことができるのは、正書法がないからである。昔の日本人は、一つのことをいろんなふうに書けるのを、むしろ積極的に楽しんでいたようである。(P.319)

なるほど。学術論文なら正書法があるのでしょうか。「あとがき」で、

さあそこで「始る」か「始まる」かが分裂し、書いては書きなおし、またもとにもどし、また書きなおし、と迷いに迷い、悩むに悩むことになったわけです。

わたし個人の好みはもちろん「始る」である。しかしいまでは世間一般たいてい「始まる」になっている。パソコンでたとえば「はじまった」と打って変換ボタンを押すと「始まった」が出てくる、ということになってるんじゃないかしら。知りませんけど。(P.326)

そのとおりです。

ローマ字だと、一音の途中でわけることができる。(中略)この方式だと、共通している hajim が語幹で、 eru と aru の部分が活用語尾だと考えることができる。(P.327)

金谷武洋さんも同じようなことを言っていました(金谷武洋『述語制言語の日本語と日本文化』)。そもそも、欧米語(アルファベットを使う語)の文法を日本語に適用しようというところから間違っています。中国語に「語幹・語尾」という考え方があるのでしょうか。漢字(音節)を「韻母と声母」、あるいは韻母を「韻頭・韻腹・韻尾」に分けることができても、活用語尾ではないでしょう。私は中国に文法書があるのかどうかすら知りませんが。きっと活用語尾に当たるものがないから、漢文(白文)を読むときに、「訓読文」に「送り仮名(テニヲハ)」をつけるのでしょう。

ともかくも、著者は「文章を書くこと」(それが仕事なんだと思う)に相当に気を使っています。


〇〇的

今回は、付箋を付けずに読もうと思ったのですが、結局結構付箋をつけてしまいました。面白いところ、紹介したいところばかりなのですが、数個だけ紹介します。

積極的の「的(てき)」は英語の tic を音訳した日本語である。合理的、科学的、封建的など何にでもつける。はじめは二字に的だが、そのうちに病的とか劇的とか一字にもつけた。
この一字つけは日本人の得意技である。いっぱいある。

たとえば「中(ちゅう)」。工事中とか授業中とか故障中とか。英語の現在進行形を訳したか、ヒントを得たのだろう。

あるいは点。問題点、到達点、要点、弱点など。ポイントの訳だろう。弱点はウイークポイントなど。

あるいは性(せい)。生産性、安全性、公共性など。

あるいは上(じょう)。歴史上、便宜上、政治上など。

その他〇〇面とか〇〇力(りょく)とか〇〇界とか〇〇式とかいくらでもある。なかには〇〇性と〇〇制(共和制など)などと〇〇製(米国製など)、あるいは〇〇感(清潔感など)と〇〇観(先入観など)のごとく同音のものもあるが、一瞬意識裡に頭のなかを漢字がよぎるのか、まぎれることはない。(P.112-113)

漢字がよぎるのかどうかはわかりません。書こうとすると迷うのはたしかですが。

「おとめチック」を「乙女的」と言い換えることができるでしょうか。ニュアンスが変わる気がします。

weblio では「合理的」は「 rationally、sensibly、sanely、reasonably 」とあります。「理性的」は「 noetic、rational、intellectual、rational、lucid、logical、coheren 」。「リーズナブルなお値段」は「合理的なお値段」ではないですね。むしろ「お得」「コスパ」に近いように思います。「 reason 」は「理由、分け」ですが、「わけアリなお値段」と言うと、どこか欠点がある商品だと思われてしまいます。「お安くできるのには理由があります」という宣伝文句もよく聞きますけど。

Wikipedia の「理性」には、

理性(りせい、希: λόγος、羅: ratio、仏: raison、英: reason、独: Vernunft)とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。(「理性」)

とあります。ギリシャ語の「ロゴス」から来ているのが「論理」、ラテン語の「ラティオ」から来ているのが「理性(合理)」です。どちらも「比(比率)」という古くからの意味が共通です。古典ギリシャはピタゴラス学徒の影響があって、世界を「比(比率)」として捉えていました。世界を数として解釈したピタゴラスは、サモス島(ギリシャ)の出身ですが、イタリアでピタゴラス学派(教団)を作りました。古代ローマ人が「 ratio 」をどのように感じていたのかはわかりません。

「合理・理性・論理」の「理」は、漢字とともに中国から日本に来たのでしょうが、私には今ひとつピンときません。「法 law 」というのも同様です。「法律」の方はわかりますが(「ご法度」とか)、「法則」と同じだというのは、何かピンときません。仏教用語としての「法(ダルマ)」はまったくわかりません。

漢字(単語)一つにも、その単語が使われる時代性(歴史性)、地域性、文化性、民族性があるので、その単語が意味するもの(あらわすもの)は異なります。

近代語、というのは、その形だけでなく、意味内容や用法が近代であるのをいう。その語(文字列)が中国や日本の昔の典籍に見えることはよくある。最初に言った「運動」で言えば、この漢字二字の集合(文字列)は昔からある。保健・健康のためのエクササイズの意味用法が近代語なのである。(P.188)

翻訳語のほとんどがそれに該当するのではないでしょうか。「 civil law 」を「民法」と、「 law of universal gravitation 」を「万有引力の法則」と訳されれば、どちらも「 law 」であることが不明確になります。仏教の「仏法」は全然わかりませんが。


佛と仏

ムは意味のない符号だから「仏」は中国人にはわからない。「払」や「広」と同様日本人がこしらえたナンセンスな字だと思う。

しかし実は、「仏」は昔の中国人がつくった字なのだ。(P.256)

二千数百年もの昔から「ム」の字があった。いや字というより△マークと言ったほうがいいかもしれない。「わからない」「だれかさん」の符号である。人だけでなく、時でも場所でも何でも指す。つまり後の「某」に相当する符号である。わからないとき、あるいはわかっているがはっきり言うのをはばかる時、ハッキリ言いたくない時などに△と書く。(中略)

いま日本人は文章の中で自分を指す語を漢字で書く際「私」と書くことが多い。この字も古くはム(△)であった。ノギヘンはあとでついたのだ。(P.258)

「仏」は「佛」の略字体、あるいは「佛」は「仏」の旧字体、というのとはちょっと違うようです(「ム」は「仏」の旁です。変換方法がわからないので、カタカナの「ム」を使っています)。

昔の中国の仏教徒が「佛」「佛陀」を「ム」「仏」と書いたのも、「佛」「佛陀」と直称することをはばかって、「あのかた」の意味で「ム」「仏」と書いた、避諱心理のあらわれである、というのが張涌泉(現代の学者・・・引用者)の考えです。(P.258-259)

なるほど。


名と呼称
名と呼称とはちがいますよ。皇帝なら「皇帝」「陛下」が呼称だ。呼称はもちろん言っても書いても問題ない。そのための呼称なんだから  。(中略)「佛」「佛陀」はお釈迦さまの名ではない。呼称である。しかし昔の中国人は、名だと思っていたようだ。(P.259)

「名」と「呼称」の違いはわかりませんでした。「名称」ということばもあるし。

「勝海舟」は日本人ですが、

名(実名 じつみょう、名乗 なのり)は義邦、または安芳。称(通称、呼称)は麟太郎。また安房守(あわのかみ)、安房(あわ)。号は海舟、または飛川。(P.280)

それから、勝海舟にはないようだが、「字(あざな)」というのも時々出てくる。中国かぶれの者が自分でつけるようである。(P.282)

名(実名 じつみょう、名乗 なのり)は貴重なものであるから他人は呼ばない。実名で呼んでいいのは父親と師と主君だけ、ということになっている。これは「呼んでもいい」のであって、「呼ぶ」ということではない。(P.283)

称(通称、呼称)は人が呼ぶ呼び名(よびな)である。新左衛門とか小四郎とかいったふうなのである。(同)

名は当人が書く文字である。通常文字でのみ表現される。訓で読むといってもどう読むのかは当人しかわからない。(P.284)

江戸時代の日本で「苗字帯刀」を許された庶民はごく一部の人で、多くの人は名字(苗字)がありませんでした。それは西洋でも同じで、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は「ヴィンチ村のレオちゃん」です。「柳村のトメさん」、「麹町のハッちゃん」で、それを「字で書く」必要は(機会も)なかったので、「どんな字を書くか」は問題になりません。落語の「寿限無」で、寺の坊さん(=教養人=読み書きができる人)に子供の名前を考えてもらいますが、親も「どんな字で書くのか」はわからなかったと思います。

『クレオンしんちゃん』の「しんちゃん」は、「しんのすけ」(漢字はわからない)は「名」、「しんちゃん」は「愛称」ですね、たぶん。しんちゃんは、父親を「父ちゃん」と呼びます(「ち→ちち→てて→とと→おととさま→おとっさん・おとっちゃん・おとっつぁん→おとうさん」と変化したらしい「和語の里」)。これは呼称でしょう(親族呼称)。「ひろし」と呼ぶと怒られます。ドラマで、恋人の父親を「お父さん」と呼ぶと「俺はおまえの父親じゃない」と怒られます。

会社で上司を名前で呼ばずに「課長」「部長」と呼び、課長・部長は「〇〇くん」と呼ぶのが普通です(鈴木孝夫『ことばと文化』親族名称)。

童謡「サッちゃん」は「サチコって いうんだ ほんとはね」「だけどちっちゃいから じぶんのことサっちゃんてよぶんだよ おかしいな サッちゃん」。二番は「かわいそうね サッちゃん」、三番は「さびしいな サッちゃん」。三番はわかるけど、「おかしいな」はよくわかりません。「おもしろいな」の意味でしょう。

いずれにしても、日本でその差がなくなってきているのは「平等」思想のせいでしょうね。それが「統一したがる癖」(P.314)にもつながっている気がします。「です・ます」と「だ・である」が混在することが気になるのもそれです。

「その言葉(文章)は文法的に間違いだ」と言ったり、言われたりすることがありませんか。英語などの外国語を学ぶときには「文法」から始めます。私の中学では「 This is a pen.  」から始まりました(今は「 Hellow. 」からでしょうか)。その影響で、「まず文法があって、言葉がある」ように思ってしまいます。でも、「まず言葉があって、そこに文法を見つける」のです。「 grammer 」に「文法」という訳語をつけたのは福沢諭吉でしょうか。彼がどのような意味で使ったのかはわかりませんが、「文の法則」のような感じがします。ソシュール(構造主義)やチョムスキー(生成文法)は読んだことがありませんが、言語のなかに「自然法則(のようなもの)」を見つけ出そうという流れは止まりません。

戸籍の氏名に「フリガナ」をつけることが戸籍法に定められました。もちろんこれは「法律」です。「名」と「呼称」の違いはますますなくなっていく、あるいは「俗」なものになっていくのでしょうね。「法律」と「法則」の違いもなくなっていくのでしょう。


中国

著者は、魚住和晃『「書」と漢字』から「外国語」について引用しています。

魚住さんは言う。「もし法華義疏を聖徳太子の著とするならば、中国語を日本語と区別するために漢語といい、さらに印度語をそれと区別するために外国語といったことになる。」そんなことはあり得ない。「当時の日本に対する中国はあくまでも隋であって、中国をその総称である漢とする認識は育っていない。」「当時の日本人が中国と印度との言語の相違を知るはずもなかった。」

その通りである。つけ加えると、昔の朝鮮人や日本人が中国を「外国」と考えることも、中国人が朝鮮や日本を「外国」と考えることもあり得ない。それは現代の観念である。世界は中国を中心・頂上とする同心円状の富士山のようなものであって(だから「中国」だ)、朝鮮や日本は「夷」(未開地域)の一部にすぎない。(P.240-241)

私が小さい頃は、北海道を「外地」、本州を「内地」と呼んでいました。半世紀ほど前の話です。終戦までは満州や朝鮮も「外地」でしたね。

一九七六年に毛沢東が死んで、どこかにかくれていた鄧小平が二度めの復活をして、二年ほどのあいだに最高実力者になって、どえらいことをやった。階級闘争路線を放棄し、国の方針を一八十度転換して、「改革開放」(市場経済)を一歩た。七十年末の段階で、社会主義を見限ったわけだ。あとで考えれば、それは明らかに正しい選択だった。その後八十年代以降に、ソ連も東欧もみんなつぶれたのだから  。(P.144-145)

もともと中国人は、学問と商売さえ自由にやらせてもらえればゴキゲンな人たちである。学問も商売も個人の才覚が物を言う。そこが大事なところである。それさえあれば上にどんな権力があろうと、まあたいてい気にしない。いわゆる「天高皇帝遠」である(天は高い、皇帝は遠い、上のほうのことはおれたちにゃ関係ない、の感じで昔から言う)。改革開放以後の共産党は、適当に、あるいは相当に、手綱をゆるめている。

それに何より、中国共産党には競争相手がいない。(P.148)

それが「明らかに正しい選択」だったのかどうかは意見が分かれるところでしょう。ソ連や東欧がつぶれなかったとしたら、「明らかに正しい」とは言えなかったと思います。

『十八史略・堯帝』に、

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、「日出而作、日入而息。鑿井而飲、耕田食。帝力何有於我哉。」( Wiktionary

訳は、

老人が、物を食べ腹を叩きながら、大地を叩いて歌って言った、「日が出れば働き、日が沈めば休む。井戸を掘って水を飲み、田を耕して物を食う。帝王の力が何の関係があろうか」(

私はこの文章が好きです。ただ、これは「学問と商売」とは関係ありませんね。


生産と消費

農耕(生産)と学問・商売(消費)とは別のものです。というか、別のものになったという方が近いかもしれません。

生産と消費の分離、マルクス的に言えば使用価値と価値(交換価値)の分離が、もの(物やサーヴィス)を「商品」にします。価値は「貨幣」として、「統一」的に、「万人に平等に」数字として表されます。いまそれは「電子マネー」になり、何の実体もない「観念的」なものになりつつあります。マルクスが強調するように、生産と消費、使用価値と交換価値は「別の実体」ではありません。そしてそれが持つ意味は、時代や文化によって異なるのです。豚肉は「栄養素」ではないのです。イリイチが言う「ヴァナキュラーなもの」です。

マルクスは「ヴェ・イ・ザスーリチヘの手紙」(マルクス=エンゲルス全集第19巻)で、ロシアの特殊性に言及しています。マルクスがそこで「はっきりと言えなかったもの」は、私は「ヴァナキュラーなもの」のことだと思っています。それが『資本論』の第二巻の刊行を阻止していたのです。「階級闘争」や「社会主義」「資本主義」というものも、「普遍的概念」ではありません。特殊近代西欧的なものの見方考え方に過ぎません。商業(あるいは学問)は、それを乗り越える傾向がありますが。

「正しさ」というのもヴァナキュラーなものです。それはコミュニティにおいて認められ、他のコミュニティとは異なるものです。言語と同じです。

多様性が「ダイバーシティ」に代わり、優位性が「マジョリティ」に代わったとき、あるいは男女が「ジェンダー」に代わったときを、私は経験しています。その薄っぺらさ、その地に足がついていな言葉に戸惑ったのですが、その変化が意味するものは、私にはわかりませんでした。

むかし漢字を知っていることを「すごいね」と言ったのと、英語が話せることを「すごいね」と言ったことは意味がちがいました。漢字は「実用(つまり生活)」と結びついていましたが、英語は結びついていませんでした。ヒエログラフが読めることに近かったのです。でも、いまそれは逆転しています。

いまはどちらも「変換ボタン」を押せば出てきます。出てくる「漢字」や「英語」は貨幣のように「共通なもの」「統一されたもの」です。

でもそれらは、けっして「普遍的なもの」でも「中立的なもの」でもありません。

カタカナ語が溢れ出ていることに象徴されるように、日本語が英文法(プログラム言語)に従うことを目指しているように、私には感じられます。




[著者等]

著者について
一九三七年生まれ。東京大学経済学部および文学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科修了。専攻は中国文学。主な著書に『水滸伝と日本人』(ちくま文庫、大衆文学研究賞)、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫、講談社エッセイ賞)、『漱石の夏やすみ』(ちくま文庫、読売文学賞)、『李白と杜甫』(講談社学術文庫)、『中国の大盗賊・完全版』『漢字雑談』(ともに講談社現代新書)などがある。


「外来語」はいつからあるのか?「復原」と「復元」、「降伏」と「降服」のちがいは?「空巣」の意味は、年寄りだけの家!?「健康」「積極」「場合」は中国が日本から取り入れた外来語だった。俗字、異体字、略字の由来は?読んだその日からつい誰かに話したくなる漢字雑学の数々。中国文学者が漢字と日本語の面白さを洒脱に書き下ろしたPR誌「本」の人気連載、新書化第二弾!

「外来語」はいつからあるのか?
「復原」と「復元」、「降伏」と「降服」のちがいは?
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「健康」「積極」「場合」は中国が日本から取り入れた外来語だった。
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読んだその日から、つい誰かに話したくなる漢字雑学の数々。
中国文学者が漢字と日本語の面白さを洒脱に書き下ろしたPR誌「本」の人気連載、新書化第二弾!



[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062883672]

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