
考え事をしている時、「ことば」で考えていますか。そうかも知れません。そうじゃないかも知れません。人によって違うのかもしれません。物思いにふける時はどうですか。「うわの空」の時は?自分が「ことばで考えているか」なんて、あまり考えないのかもしれません。
曲のタイトルが思い出せなくて、「この曲なんだっけ、ふん・ふふん、ふふふ・ふん・・・」と誰かに訊いている時、頭の中にメロディが浮かんでいますか。
そろばんが得意な人は、暗算のときに、頭の中にそろばんが浮かぶと言います。私はそろばんができないので、その感覚はわかりません。音楽を聞くと、すぐに五線譜に書ける人がいます。その人は、頭の中に音符が浮かんでいるのでしょうか。あるいは音が鳴っているとすれば、それは何の楽器の音でしょうか。ピアノをやっている人はピアノの音、ギターをやっている人はギターの音なのでしょうか。オーケストラの作曲をする人は、それぞれの楽器の音と、全体の音が聞こえているのでしょうか。きっとそうなんでしょうね。
私は最近、寝るときに考え事をしてしまって、眠れなくなります。その「考え事」は「音(声)」です。もちろん日本語です。その音(声)は、誰の声なのでしょう。自分の声?そうかも知れません。男性の声のように思えます。でも、私は私の声をよく知らないのです。もう何十年も前の話ですが、私の家にカセットラジオがあったときに、自分の声を録音したことがあります。再生してみると、「聞いたことのないような」「モゴモゴとして」「ハギレの悪い声」でした。それ以来、私は私の声が嫌いですが、この声しかないので仕方ありません。人に問い返されるときに、「発音が悪かったんだなあ」と思ってしまいます。自分の声を録音する技術がなかった時、自分の声は自分の「中(内側)」からしか聞くことができませんでした。その声はたしかに口からでて、自分の耳にも届いているはずなのですが、それは他人が聞く自分の声とは大きく違ったはずです。
本を書く人は、頭の中に文字が浮かぶのでしょうか。それはひらがなでしょうか、漢字でしょうか。
若い頃、速記と速読に憧れたことがあります。速記の方はすぐに諦めました。そして、早く書こうとする余りに、ひどい字になってしまいました。今でも母親が「この子は就職して、大丈夫なんだろうかと思った」と言っています。たしかに「ミミズが這ったような字」で、書いた本人が読めないことも多いほどです。
速読については何冊か入門書を読んだような記憶があります。全て忘れましたが、たとえば「白い本」という字を「白」「い」「本」と読まずに、「白い」「本」あるいは「白い本」とまとめて読むことは可能だし、多分その練習をしていると一行をいっぺんに読むことができるようになります。あるいは、数行を一度に読むことも可能になると書いてあった気がします。そうなると「白い本」は「シロイホン」という音(声)ではなく、ただの「記号」になるのでしょう。あるいは「絵」のように、描かれた個々の形ではなくて「全体」が意味をもつようになるのかもしれまえん。数字がそろばんのたまになったり、メロディが音符になるように。アルファベット圏に住む本好きの人は、きっと「 book 」を「 b-o-o-k 」とは読まずに、いっぺんに、それも前後の単語を含めて読むのが普通なのかも知れません。その時、頭の中には「ブック」という音があるのでしょうか。
たしかに、写真を見るときに、まず全体が目に入ります。いわゆるゲシュタルトでしょう。そのうえで、そこに写っている山や、人物や、服装や、顔を見て、「〇〇ちゃんだ、小学生の頃かな、おばあちゃんちに行ったときだ、何年前だろう」と、個々の部分が全体との関連で認識されていきます。
あと、「斜めに読む」というのもありました。ページの右上から左下に、次のページの右下から左上に。それぞれの行は数文字しか見えません。それでも「何について書いてあるのか」「何を言いたいのか」がおぼろげにわかるようになります。紙ではない電子ブックは、「行」や「ページ」(あるいは「単語」)という「部分」はあまり意味を持ちませんから、速読法も変わるのかもしれません。
これらは「練習(訓練)」によってできるようになるのですが、私は少しも身につかず、数年前までは、頭の中で「音(声)」にして読んでいました。つまり、話す速度で読んでいたということです。今ではあまり音にすることを意識せずに読めるようになった気がします。話すよりは速く読めるようです。それでも読めない漢字にぶつかると、止まってしまいます。やっぱり声にしているのでしょう。漢字には意味があるので、熟語なら「なんとなく意味を汲む」ことができれば辞書を引くのが面倒なので、有耶無耶にします。次に同じ熟語がでてきて、どうやら思っていた意味と違うな、と感じたときにはギブアップです。
ダラダラと書いてきたのは、「この曲なんだっけ」と訊くときには、私は頭の中にメロディが浮かんでいないことが多いんじゃないかと思ったからです。口から出たメロディを耳で聞いて、続きを歌うか、修正するかを考えている、そんな気がします。
そして(母語を)話すときも、頭に音や言葉が浮かんでそれを口に出すのではなくて、「口(唇)が話している言葉」を「内側」と「外側」から聞いて、続きを話すか、修正するかを考えているのではないでしょうか。
外国語で話そうとするときは、若干違います。日本語で考えてから、それ英語に翻訳して、それを話すときは、(日本語か)英語が頭の中にできて・・・。そんな話し方をしているうちはスムースに話すことができません。英語で考えて英語で話すようになれば、スムースに話せるようになります。
「口で話す」という時、アリストテレスが考えたような「言語化(構造化、カテゴライズ)する前のもの」、いわゆる「第一実体(質料)」のようなものがあって、それを「ことば」という「形式(形相、エイドス)」で話すのでしょうか。
「書く」ときは、ちょっと違うのかもしれません(この本には「文字」の事はほとんど出てきません)。頭の中に「ことば」があって、それを書く?パソコンで文章を書くときに、私は「ローマ字入力」です(「かな文字入力」という入力方法もあります)。キーボードを見ずに「ブラインドタッチ」をしている時、「ブ」を「 B・U 」に変換して「 B を押して U を押して・・・」ということを意識しているのでしょうか。私はピアノがまったく弾けませんが、上手い人は「ドを押してレを押して」と意識しているのでしょうか。意識しているのだとすれば、「日本語を頭の中で英語に直して・・・」というのに似ています。
ものを書かない人でも、たいてい「自分はことばで考えている」と思っています。小説でも、「僕は『やれやれ』と思った」と頭の中のことばを描写することが多いです。ドラマや映画では、口を開くことなく、頭の中の「声」を「セリフ」という「音」にします(これが多い作品、状況説明から登場人物の心情まで、すべてセリフ・独り言にしちゃうような作品は、駄作だと思います。それを「音」にすることなく演じるのが役者、ロケ場所・セット・大道具・小道具やカメラワークなどで時代背景や状況を描くのが監督だと思うので)。そして頭の中のことばを音にしたのが「声」で、その音を書いたものが「文字」だと思っています。
どうしてそう思うのでしょうか。学校で「文字」を習うからでしょう。そして、社会が文字を前提としてできているからです。でも、逆なのではないでしょうか。文字がことばを表すと思っているから、そしてことばは「心の中のもの」を表すと思っているから、「ことばで考える」と思うのではないでしょうか。
多くの人が目の前にある「机」を「ある(存在する)」「実在」だと思っています。同じように多くの人が「自分の心」が「ある(存在する)」と思っています。両方ともあると思っている人も多いでしょう。
「ことば」はどうでしょうか。実際に話したことのある人(みんなあるでしょうが)は「ある」と思うでしょう。それで、相手の言いたいことがわかったり、自分の言いたいことが分かってもらったりするので、ことばは「道具」のように「ある(実在する)」から相手に伝わります(だから、それは文字でも手話でもテレパシーでも代用できます)。それを「対象」にした学問が「言語学」です。「こころ」を対象にする「心理学」のように。似たような学問に「精神医学」がありますが、多分精神医学は「こころ」ではなくて「脳」を対象にしているのでしょう。心臓や腸のように「脳」を扱って、投薬治療も行います(さすがに今は手術は行わないでしょうが、遺伝子治療は似たようなことを行います。『ミクロの決死圏』のように)。
心理学は「人文科学」、精神医学は「自然科学」と言えるかもしれません。「医は仁術なり」ということばは「商売(サービス)は客のため」程度の意味しか持たなくなりました。熱があれば解熱剤を飲ませ、がんが見つかれば切る。医者が見ているのは「病気」であって「病人」ではありません(「病状」ですらなく、検査結果の数値です)。病人は「病気(マイナス、負債)の保有者」で、その「病気(マイナス、負債)」を取り除くのが医者の仕事です。
石が落ちるのは「物理法則」で説明されます。植物が成長するのはどうでしょうか。最近の分子生物学は、それも物理法則で説明できると考えている節があります。言語はどうでしょうか。記号論の発展や、生成文法など、言語を「理論(論理・ロジック)」あるいは「自然法則( natural law )」として「解明」しようとしているように思います。「 law 」は「法律」でも「法則」でもあります。でも、私にとって「法律」と「法則」は全く別のものです。どちらも私の意志からは独立したものです。そして「法則」を破ることはできませんが、「法律」は破ることができます。自分の「意志」で。
似たようなことが言語学にも言えるのではないでしょうか。つまり、「存在」あるいは「研究対象」としての「ラング(言語)」と「ことば」としての「パロール(話し言葉)」です。「ラング」を破ると「意思」は通じませんが、「パロール」は選ぶことができます。
日本語には「文語(書き言葉)」と「口語(話し言葉)」という単語があります。「書かれているから書き言葉」「話されているから話し言葉」ではないのですが。
イェルムスレウというデンマークの言語学者の用語だそうです。「言理学」という訳語が使われています。
じじつ、イェルムスレウの「ラング」は「機能の網の目」数学的概念における「函数」相互の諸関係として理解されたであり、何らかの「実質」(音、文字等々)の姿をとって現れたものからは独立した、純粋に形式的な対象である。グロセマティクスの芯棒そのものは、「言語は形相であって実質ではない」というソシュールのテーゼであり、またそれからの帰結として、言語の純粋に「形式的」(関係的)な構造への還元である。(P.381)
「ラング」は「言語」(もっと単純に言うと「書き言葉」、あるいは「文法」)、「パロール」は「話し言葉」というとニュアンスが伝わるかもしれません。「実質」の原語はわかりません(ルーマニア語でしょうか)。多分ラテン語の materia 、アリストテレスの ὑλη (ふつう「質料」と訳される)でしょう。これは「物質」とも訳されます。だとすれば、それと対になるものとして「形式」(原語はわかりません)は forma 、つまり「形相(エイドス)」ということになります。この二つを日本語では「物・事」と言ったりもします。
この関係は微妙です。多分、コセリウが言いたいのは、どんな言語で表現されるか、どんな文字や音で表現されるかに関係なく、言語というのは「何か」を表す「形式(函数)」として扱えるという言理学や数理言語学の批判でしょう。
数学の手法を応用する言語の研究。次のような分野があり,実際には,20世紀に入ってから急速に研究が進んでいる。 (1) 統計や確率の手法を用いるもの。言語年代学が含まれる。 (2) 情報理論を応用して,言語が伝達手段として機能する状態を探ろうとするもの。 (3) 言語の構造を形式化して機械翻訳にそれを応用するもの。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「数理言語学」)
自動翻訳は、「文法」という函数を用意しておけば、「日本語」の入力に対して「英語」を出力する、という機械です。実際には、文法という函数だけでなく、「単語」などのデータ(実質)も用意されます。これが発展すると「生成AI」になり、「問い」に対する「答え」が出力されます。そのためには膨大な「データ」が必要になりますが、函数は「アルゴリズム」になります。データは入力されるのではなく、プログラムが自動で収集します。自動で収集されるということは、開発者もその「データ」を確認するわけではないので、何が出力されるのかはわかりません。「システム」は「ブラック・ボックス」になります。開発者が注意するのは「どのように出力されるか」よりもむしろ「何を出力させないか」になります。一般的に「何が出力されるか(答え)」はもともとわからないのです。分かっているならプログラムを組む必要はないのですから(答えを入力すればいい)。
原因
この点については、すでにプラトンが『パイドン』の98c-e、99a-bで人間的(歴史的)なことがらを一般的、物理的条件によって説明することがいかに的はずれであるかを指摘している。そこでは、本来の「原因」なるものと、それなくしては原因が発動しない必然的な条件とが区別されている(ソクラテスが牢獄に座っているのは、脚を曲げることができるからではない)。(P.209-210)
裁判の後、牢獄に入っているソクラテスが言ったことばです。邦訳書から引用しておきます。
なぜなら、そういう人は、一方では、真に原因であるものがあり、他方では、それがなくてはその原因がじっさい原因たることはできないというもの(必須条件)があり、この両者はまったく別のものであると、はっきり分別できないのだからねえ。(プラトン『パイドン』99b、邦訳旧全集 P.288)
「実質」に似た日本語に「実体」があります。「実体」はアリストテレスの「 οὐσία 」です。コセリウは「目的」の説明でアリストテレスの四原因( αἰτία )に言及していますので、その部分を引用します。
結局、目的性とは動機づけの一類型である。これは、「原因」が「それによって何かが生じ(存在するようになり)、変化し、あるいは消失する(存在をやめる)すべてのものである」かぎり、「原因」の一般的概念の中にそれとして含まれる。アリストテレスは周知のように四種類の「原因」を区別している。何かを作り出し、あるいは生み出すもの(作動者、すなわち第一始動因もしくは作用因)、それを用いて何かが作り出される素材(材質もしくは材質因〔質料因〕)、それから何かが作られる概念(本質もしくは形式因〔形相因〕)、それをめざして何かが作られるところのもの(目的因)(『自然学』Ⅱ、3およびⅡ、7)。したがって、目的性(目的因)とは、一つの原因であるから、「作用因」が自由と意図性とをそなえた実体であるときに、はじめて生じる原因である。そして、たしかにこの意味では、言語変化とは、実際にアリストテレスの言う四つの動機づけを備えているがゆえに「原因」をもつと言ってもまったく矛盾はない。つまり、新しい言語事実は、誰かによって(作用因)、何かをもって(材質因)、作られるものの観念をもって(形式因)、何かのために(目的因)作られるものだからである。(P.290-291)
誤解を恐れず、例示します。よく出てくる「家」の例です。
まず「雨風・寒さを防ぐために家を作ろう」という「目的(目的因)」が生じます。そのために「どんな家を作るかの設計図」を作ります。これが「形式・形相(形相因)」です。そして「家を作るための材料」を集めます。これが「材料・質料(材質因・質料因)」です。そして実際に「家を建てる行為(作用因)」があります。これで「四原因」が出揃ったわけですが、コセリウが注目しているのはこの内の「目的因(ラテン語で causa finalis )」です。英語の「フィニッシュ」や「ファイナル」のような意味では「到達点」ですが、「できあがった家」のことではなくて、それに向かってすべてが行われるところのものです。「目標」に近いのかもしれません。なので、「家を作ろう」という意図・意志(これを始動因と呼ぶこともあります)から始まるすべてが「目的」になります。
気をつけたいと思うのは、「原因」は対象の側にあるのではないということです。それは「人間(ことば)」の側にあります。目的因・形相因・作用因はもちろんのこと、どんな材料を選ぶか、その材料をどう使うかも材料の側にはありません。そのうえで、その原因はすべて「法則」に支配されているということです。それを「自然法則」と呼ぼうが「神の意志」と呼ぼうが構いませんが。わたしたちが「ことばの世界で生きている」ということ、「(広い意味での)歴史の中で生きている」ということ、わたしたちの意志(ことば)や自然法則がそこに現れる「容器」のようなもの、をプラトンは「場(コーラ)」と呼んだのだろうと思います。
「エネルゲイア」は「エネルギー」のもとになった単語ですが、「現実態」と訳されます(ラテン語では actus, factum )。それと対になるのが「デュナミス=可能態(ラテン語 potentia )」です。寝ている大工は「デュナミス」として大工ですが、「建築中」の大工は「エネルゲイア」としての大工です。「できあがった家」は「エルゴン」です。
つまり、言語はエルゴン〔製品・作品〕ではなく、エネルゲイア〔ちから・作用・活動〕であり、よりくわしく言えば、一つのエネルゲイアの「形式」であり「作る能力(ポテンシア)」である(2・1参照)。(P.46)
アリストテレスは、できあがったもの(状態)を「完成態・完全現実態 ἐντελέχεια (エンテレケイア、〔テロス τέλος =終わり・目的〕に達したもの)」とも言っていますが、コセリウはそれを同じような意味で「エルゴン」としています。ニュアンスの違いはわかりません。「完成態」と「完成体」の違いでしょうか。
音変化の規則性という問題も、結局のところ頼りない問題である。こうした問題は、これをエルゴンとしての言語の観点から立ててみるかぎり、単に困難とか複雑とかではなく、そもそも回答不能である。というのは、まさに言語はエルゴンではないからであり、またこのような展望に立ってみると、規則性とはそういう事実があるとして確認されるだけか、あるいは受け入れ得るだけのものにすぎないからである。そうではなくてことばをエネルゲイアとして、ラングをデュナミス、つまり話す行為(パロール)の歴史的技術と見なすならば、この問題は解決するというよりは「解消」するのである。この問題は除去されることによって解決される問題だから。(P.143-144)
ことばを「できあがったもの(エルゴン)」「できあがった体系」「不変なもの」「固定したもの」ではなくて、「エネルゲイア」として、「建築中」ならぬ「お話(話す行為・パロール)中」と見るということです。言語(ラング)はそのための設計図や材料を含めた話す可能性(デュナミス)だということになります。
アリストテレスは「始源的な原因(要因、根拠)、αἰτία 」の(2)として、
つぎにいま一つ(2)は、ものの質料であり基体である。(アリストテレス『形而上学』983a、邦訳旧全集 P.13)
と言います。訳者は注で、
「質料」と訳される原語 ὑλη(ラテン語訳 materia )は、山林、樹木、材木、船材、建築用材などの意から、一般にものの素材を示す語。哲学界では「質料」または「物質」と訳される。(中略)次に、「質料」と同義的に接続詞 καί で結ばれている「基体」の原語 ὑποκείμενον は、基に置かれているもの、基礎たるものの意で、論理学的・文法学的には「主語」とも訳される。ラテン語では substractum または subjectum.(同書 P.520、訳者注)
と言っています。この「質料」と「基体」を繋いでいる接続詞 καί は、
これは、ラテン語では ' et ',英・独・仏語ではそれぞれ' and ', ' und ', ' et 'で訳されるが、日本語では、簡単に「と」または「および」と訳すと、これで接続される両語間の関係を誤解させるおそれがある。この接続詞は、近代欧州語でもそうであるが、ことに少なくともアリストテレスの用法では、必ずしも日本語の「と」や「および」のように前後の両語・句を同格的・並立的なものとして結ぶだけでなく、「換言すれば」とか「すなわち」とか「あるいは」とかいう含みで前の語句を説明し、あるいはさらに前の語句を限定し補足する含みで後の語句を加える役割をしている。(同書 P.519、訳者注)
アリストテレスにとっては、のちに「 materia (材木、材料、素材)」と「 subjectum (基底、根底、主語)」と言われるものは、同じもの(の別の見方・表現)でした。
「主語」はインド・ヨーロッパ諸語において「述語と対になる語」とされ、そこから「主体ー客体」、「主観的ー客観的」などにつながり、近代西欧において「自我 ego 」に結びつけられます。
材木は、加工されて組み立てられて家の一部となります。この家の一部となる能力(風や重みに耐えるなど)は、「受動 πάθος, passio 」的な能力です。それに対して加工する、組み立てる能力は「能動 ποίησις , actio 」です。材木がもつ「デュナミス」を「エネルゲイア」が引き出す(実現する)のです。でも、これを「主体(基体)が客体(質料)に働きかける」と考えるのは近代的な考え方で、アリストテレスの考え方とは異なります。アリストテレスにとっては、どちらも同じものなのですから。
プラトンが主に「イデア ιδέα 」と言い、アリストテレスが主に「エイドス εἶδος 」と言ったもの(形相)は、いま英語で「アイデア(考え、思いつき、着想、アイディア、考え方、思想、観念、意見、見解、考えること)」になり、ideal は「理想、極致、理想的なもの、典型、崇高な目標」の意味になっています。イデアは、
この語は動詞 ὁράω(みる、眼中に入れる)のアオリスト不定詞形 ἰδέιν から派生した。(中略)古典ギリシア語は動詞に三つの相(未完了、完了、アオリスト)を区別した。アリオストは完了でも未完了でもない動作行為そのものを指す動詞の形。ὁράω は現在形で未完了(「見ている」「見続けている」「見える」「見えている」、英 see に相当)。(中略)他方、アリオストは「見える」(未完了)でなく「見てしまった」(完了)でもなく、そもそも見るということ。ἰδέα はその動作行為の対象(見えたもの)。プラトンはアオリスト1人称単数形 εἶδον 〔エイドン〕からできた名詞 εἶδος 〔エイドス〕も同義で用いる。(古田裕清『西洋哲学の基本概念と和語の世界』P.19-20)
日本語の「見え」のようなものです(今の言葉の「映(ば)え」に近いかも)。
アイデアル(昔の傘のCMを思い出します)は「理念的、空想的」、マテリアルは「物質的、現実的」という区別は、「主体(主観)と客体(客観)」が分離して、主体が「自我」になった近代西洋以降の見方です。
主語=述語形式を取る印欧諸語では、動詞が人称変化します。デカルトの「我思う、ゆえに我あり Cogito, ergo sum. 」の「 cogito 」は一語で「 I think 」、「 sum 」は一語で「 I am 」です。この英語では数少ない多様な人称変化をする動詞「 be動詞 」がやっかいです。「私がある(いる)」(存在)とも「私である」(形相)とも解釈できるからです。多分、プラトンやアリストテレスの頃は、 εἶδος と言えば、あるいは、ἰδέα と言えば「誰が見ているのか」ということが薄められたのではないでしょうか。問題になっているのは、「私が見ているもの(私に見えているもの)」でも「あなたが見ているもの(あなたに見えているもの)」でもなく、「見る」「見られる」でもなくて、表面に「表れたもの(イデア)」とその「内実(質料、基体)」です。あるいはそれが一緒になった実体や本質です。
ソシュールの用語を小林英夫が訳した単語です。ソシュールは(小林さんの訳も)読んだことがありませんので、私のイメージを書きます。
たとえば、英語という言語を研究する時、古英語から中英語、現代英語までの英語の移り変わり(歴史)を研究しようとするのが通時的(通時性・通時態)で、その断面、たとえば現在使われている英語を研究しようとするのが共時的(共時性・共時態)です。
生きることができるのは「現在」だけです。過去に生きることも、未来に生きることもできません。ただ、この「現在・過去・未来」をどう感じるのかは文化によって違っています。日本では(たぶん明治以前は)過去は「前世」、未来は「来世」だったようです。西欧語文法の「時制」であれば、それはそのまま日本語には表せません。たとえば、この本から引用するときに「コセリウはこう書いています」といっても不自然ではありません。「コセリウはこう書いていました」という方が不自然だと思います。
英語の「 go, come 」と日本語の「行く、来る」が違うように、どこに、あるいはどの時点に自分(話し手、考え手、聞き手)を置いて、話すか(考えるのか)は文化や時代によって違います。
過去から未来へと一直線(あるいは螺旋状)に進む、時計の針のような時間というのはとても近代的なものです(時間を見ることはできませんから、たいていは「時計」をイメージします)。「人間は進化する」(あるいは「世界は進化する」)と信じたい気はしますが、昨日より今日の自分が「進化している」とは思えません。むしろ日に日に衰えています。世界情勢が昨日より進化しているとも思えないのですが。
近代西洋的な時間概念は、「始まり」(天地創造、ビッグバン)があり、「終わり」(末日、ビッグクランチ、熱的死)に向かっているというキリスト教的な時間概念は、もともとはヨーロッパにはなかったものです。
運動と時間(空間と時間)を別のものと考えるようになったのは、ガリレオ以降です。
ガリレオが最初に一時間幾マイルという発想、もっと正確に言えば与えられた時間に対する距離と考え、時間と距離を異なった、区別される実在として互いに関連させた時、彼はあるタブーを犯していることを知っていました。今と此処 hic et nunc は厳密に相互に関連し合っていたので、人々には、その一方だけを取り上げて語ることなどできなかったのです。しかしガリレオは時間を空間から切り離して観察できると主張したのです。(イバン・イリイチ『生きる希望』邦訳 P.305)
まだ400年ほど前です。いや、400年も経っているといったほうがいいでしょうか。「時(とき)」や「場(ば)」という単語はどこにでも、いつの時代にもあるでしょう。「場をわきまえる」というのは「場所(空間)」の事ではなくて、それを含めた「状況」の事です。三次元とは別の(あるいは四つめの次元として)「時間」を考えるというのは、新しいことなのです。
歴史の断面(あるいは時間の一点)そのものには、運動(変化)がありません。
じじつ、共時態の中には変化をつきとめることができないのと同様に、非変化、不動性もまた認めることができない。どんな対象であれ、それが変化しないことを確認するには異なる二つの時点をとって観察しなければならないからである。(P.39)
当たり前ですが、歴史の断面である「現在」を見るだけでは、運動(変化)は捉えられないのです。
ソクラテスは、
では、仮にそれが不断にわずかずつこっそり逃げ去って〔流転して〕いるとするならば、いったいわれわれはそれに向かって正しい名称で話しかける〔それを正しく規定する〕ことができるだろうか。第一に、かのものであることを、それから、そのようなものであることをね。それとも、われわれが言う瞬間に、もうそれは別のものとなり、身をかわして逃げ去っていって、もはや言われたとおりのものではないことが必然だろうか。(プラトン『クラテュロス』439、邦訳旧全集第2巻 P.167-168)
ことばは言った先から「消えて」いきます。このソクラテスが言った(とされる)ことばが遺っているのは、これをプラトンが「書いた」からです。「文字」について、ソクラテスは、
(エジプトの神、タモスのことばとして・・・引用者)なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられてしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。(プラトン『パイドロス』275、邦訳旧全集第5巻 P.255-256)
忘れないようにメモするのではなくて、忘れていいようにメモするわけです。
じっさい、パイドロス、ものを書くということには、思うに、次のような困った点があって、その事情は、絵画の場合と本当によく似ているようだ。すなわち、絵画が創り出したものをみても、それは、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。(中略)それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。(同書275,邦訳P.257)
ソクラテスは「書き手(ラング)」ではなくて「話し手(パロール)」でありたかったのです。だから「対話」を求めて歩き、煙たがれて死刑になったのですが、本は書きませんでした(対話せず、本を書いていたら起訴もされず死刑にもならなかったかもしれません)。プラトンは、師匠と違ってたくさんの著作を残しました。
ところで、このエイドスについての意見がその主張者たちに生じるにいたったのは、かれら(プラトンの徒・・・引用者)が、真理の問題に関して、ヘラクレイトスの言説に服したからである、すなわち、その言説によると、およそ感覚的な事物は絶えず流転している。したがって、いやしくも認識または思慮〔知恵〕が或るなにものかについてであるならば、感覚的事物より他に或る他の常に同一に止まる実在が〔認識の対象として〕存在すべきである。というのは、流転してやまない事物については認識はありえないからである。(アリストテレス『形而上学』1078b、邦訳旧全集 P.448)
どうですか。このアリストテレスと、前記のソクラテスのことばは似ていませんか。ひょっとして、アリストテレスがアカデメイア学長にならず(なれず)学園を去ったのは、プラトンと「プラトン学徒」の考えに差があったせいかもしれません。
現在(いま・ここ)の「見え(イデア)」ではなく、その「奥(内・中)」にあって「見え(イデア)」を支えているもの、あるいは「イデアとともに実体を実体たらしめているもの」、アリストテレスは「質料、あるいは基体」を考えざるを得ませんでした(プラトンは、質料・形相が現れる「容器・容れ物」として「場所」ではなく「場(ば)・コーラ」を考えていました)。アリストテレスにとって、「時間」とは何だったのでしょうか。
だがとにかく、時間は転化なしにはありえない。というのは、われわれ自らが自らの思想をすこしも転化させないとき、あるいはそれが転化していてもこれに気づかないでいるときには、われわれは「時がたった」〔時間が経過した〕とは思わないからである。(アリストテレス『自然学』218、邦訳旧全集 P.168)
さて、それゆえ、時間は運動ではないが、運動なしに存在するものでもないこと、明白である。(中略)事実われわれは、運動と時間とを一緒に知覚する。(中略)だからして、時間は、運動そのものであるか、運動のなにかであるか、そのどちらかである。ところが、時間は運動そのものではないから、それは運動のなにかである。(同219,邦訳 P.169)
これに反して、前と後を知覚する場合には、われわれはそこに時間があると言う。というのは、時間とはまさにこれ、すなわち、
前と後に関しての運動の数であるから。(同、邦訳 P.170)
ともかく、「時間を空間(運動・変化・速さ)から切り離して観察できる( x = vt )」と考えている私と、アリストテレスが見ている世界が違うことは確かです。アリストテレスは「数」を二種類に区別します。「数える数」と「数えられる数」です。「数えられる数」は具体的な「二匹、二個」という数で、「数える数」は「端的な意味での数」つまり、人間が考えた(抽象的な、数学的な)数です。
その理由は、先にも述べたことだが、(すなわち、線の中間の一つの点を二つとして取り扱うと、その結果、静止することになるからであるが)、さらにもう一つの理由は、あきらかに、「今」は時間のいかなる部分でもなく、また運動の区切りはいかなる部分でもないからである。あたかも点が線のいかなる部分でもないように。けだし、一つの線の部分は二つの線〔線分〕だからである。(同220、邦訳 P.173)
二つの時点( t1 と t2 )の場所(位置、 x1 と x2 )の「平均速度( ( x2 - x1 ) ÷ ( t2 - t1 ) )」ではなくて「その時点での速さ」、つまり t1 と t2 を限りなく近づける(差をゼロにする)ときの速さ( 0 ÷ 0 になる)は「微分」で求められます。共時態の中に「変化を見る」ことが可能だというのは、通時態(歴史)を微分できるということです。 x1 や x2 は「具体的な場所(数えられる数)」ですが、それを限りなく近づけた「ここ x 」という場所は、「数える数」に置きかえられています。これは点を「線の部分」と考えることです。
また、二つの時点、二つの場所が必要であるということは、その二つの場所を「比較する」ということですから、二つの場所(状態)を「区別」しなければなりません。それは、「時間を区別」することでもあります。つまり、共時態における「構造化」を通時態でも行うということです。そして、それを「法則」にするということは、区分を限りなくゼロに近づけること(微分すること)であって、「数えられる数」を「数える数」に置き換えることです。
x1 や x2 は、あるいは t1 や t2 は、実際にあった(あるいはあると仮定した)「点」です。それから計算された平均速度も「あった」もの(過去に属するもの)です。それを「 t (いま)」「 x (ここ)」「 v (現在の速度)」にしたときに、それは「過去を含み、未来を予測するもの」となります。「現在」は「過去と未来の絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)となります。
実際には、どんな学問も「予測」はしない。自然科学でさえも個別的なことを「予測」するのではなく、経験的必然の一般法則を確立するだけである。科学はこの角砂糖はあの水に溶けるであろうと予測するのではなく、「砂糖というものは水に溶けるものだ」と確認するのである。すなわち、一般的にある条件のもとで生ずることを示すのである。自然法則の自然の性質はたしかに「予測」、すなわち一般的なものを個別のものに適用するという実用的な作業を許す。しかし、いかなる科学も、一般的なものから
個体の特性を引き出すことは許さない。さらに、人文諸科学において言い得ることは、ある条件のもとで何が生じ得るか、あるいは生じるならいであるかということであって、生じるであろうか否かではない。生起そのものは自然に依存しているのであって、外的必然によるのではない。(P.340-341)じっさい、個別に関する目的論的判断はすでにわかっている資料を秩序づけるにすぎないのであって、いまだ現れていないことを秩序づけるものではない。客観的にはそれは確認の効果があるだけで、予測の効果はない。それはもともと未来を扱うものではないからである。(P.334)
今、目の前にある「氷の入ったコーラ cola 」の氷が溶けるかどうかはわかりません。最近は氷そっくりのガラスやアクリルのキューブもありますからね。時速60kmで走っているとき、60km先の目的地に1時間後に着くかどうかはわかりません。交通事故に遇うかもしれないし、その前に自分が心臓発作で死ぬかもしれません。
「未来」をどう考えるのか、私はそれは「過去」同様、言語体系(文法)と関係があると思っています。コセリウは、古典ラテン語の「単純未来形」が俗ラテン語の「複合未来形」に変わったことについて、フォスラーの説を挙げています。
第二の説明
「文体論的」あるいは「意味論的」と呼んでいいだろうによれば、複合未来形が生じたのは、未来という純粋に「時間的」な観念に反してでも、情緒や気分の価値の方に心を寄せる、ある特有の心的態度が優勢になってきたためであるという。つまり、決定的要因は表現上の必要にあり、古典ラテン語の単純未来形ではもの足りなくなってきたということである。(P.228)すでに、マイヤー=リュプケは次のように指摘している。「ロマンス語は、ラテン語の未来形をすっかり忘れてしまった。しかもそれは形式面の理由からではなくて・・・民衆の考え方というものが、これからはじまる行為を現在の中にうつしかえ、望んでいること、なすべきこととして、いっそういきいきとその行為を思い描くからである。(略)」。(P.228-229)
じじつ、フォスラーのいわく、未来形なるものは「下層の民衆にあっては、ふだんみんながよく用いるというものでは決してない。民衆のことばにおいては、未来の観念はたいていないがしろにされるか虐待されるかして、ぼやけてしまっている。なぜなら、ふつうの人間は、未来のことがらをただ静観し、認識し、あるいは知っているというよりは、意図し、願い、希望し、あるいは怖れの思いを抱いして、これに対するものである。未来の時間的観念が、怖れと希望、願望と不安といった気分的領域の中をさまようべきではないとすれば、必要なのは、絶えざる自省と抑制、一言で言って哲学的な性向と、そういう思索の習慣である」。(P.229-230)
たしかに、政治家の語る「未来」や学者の語る「未来」は、民衆の語る「未来」とは違う気がします。民衆が語るのはむしろ「将来」です。少なくとも現代の日本では。将来は、「自分の」あるいは「自分がいる」未来です。「未来」は「自分がいない」未来です。将来は現在(いま・ここ・自分)とつながって(連続して)いて、未来は断絶(隔絶・非連続・客観的)しています。将来には「意図・目標・感情・情緒・気分・希望」等があります。過去も単なる事実ではなく、「意味」を持ちます。それが「歴史」となります。「自分がいない未来」は「神の視点から見た未来」、「観念的な(数える数としての)未来」です。
中学校で習った英語の「 will 」「 must 」「 should 」などの助動詞は、単に「未来(これから起こること)」を表すのではなく、そこに話者の「希望」「恐れ」「価値判断」などが表現されています。さらに文化によって、それが「止むを得ないこと」「仕方がないこと」「恐ろしいこと」「避けなければならないこと」「避けることができること」「変えることができること」などを含みます。
未来をどう見るか(どういう未来形を使うか)は、そこにいる人々の生き方が表れているような気がします。
目的
コセリウは、「原因ー結果」という「自然法則」は、ことばには適用できないと言います。
なぜなら、文化の対象において厳密なもの、実証的なもの、つまり実際にそこにあって確かめられるものは自由と意図性であり、一定の目的によってのみ動機づけられた自由な発明、創造、採用だからである。自然の現象においては、たしかに外的必然性あるいは原因性を求めるべきであっても、文化現象においては、逆に内的必然性、つまり目的性を求めるべきである。(P.280-281)
石ころは自ら動きません。何か外からの「ちから」に因って動きます。石を的(まと)に向かって投げると、石は的に向かって飛んでいきます。その時、石が「意志」「意図」や「目的」をもっているのではなく、意志・意図や目的をもっているのは「投げた人間」です。意志・意図・目的を持つこと(持てること)が、人間の「自由」の基盤です。ただ、自由だからといって、自然法則を超えることをさせることはできません。
ことばも同じです。なにか「完成した(出来上った)言語体系」のようなものがあって、その範囲内で(それを変化させず)道具のように使うのではありません。
ヨーロッパにおいて、「道具」と「それを使う手」、「使う人」が別のものとして認識されたのは、12世紀頃だそうです。道具は意志に対する対象物となりました。自分の体も、他者も、自然も「意志(自分)」から独立した対象になりました。法則と法律は分離しました。「自然法則」を探求する「自然科学」ができます。自然は「探求」し「利用」し「管理」する対象となります。むしろ「探求・利用・管理」するところに「人間の自由」は存在すると考えるようになります。
「自由」ということばは、正しく理解されればいい意味であり、「はき違え」て理解されれば悪い意味になる、というように、私たちは漠然と考えがちであるが、そうではない、と私は考える。問題は、理解の仕方にあるのではない。母国語の中に深い根をおろして歴史を担っていることばは、「はき違え」ようがないのである。
「はき違え」られている「自由」は、翻訳語「自由」である。
近代以後の私たちの「自由」ということばにも、英語で言えば freedom や liberty のような西洋語の翻訳語としての意味と、伝来の漢字のことば「自由」の意味とが混在しているのである。そして単純化して言えば、西欧語の翻訳語としての「自由」はいい意味、伝来の「自由」は悪い意味である。(柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、P.177)
ことばは「自分勝手(はき違えの自由)」にできるものではなくて、慣習や制度・体系に支配されつつ、創り出すものです。
翻訳語としての「自由」は、
自由の補助注記
④の政治的自由とは、王や政府の権力、社会の圧力からの支配、強制、拘束をうけずに、自己の権利を執行すること。たとえば、思想の自由、集会の自由、信仰の自由、居住・移動の自由、職業選択の自由などの市民的自由をいう。精神の自由とは、他からの拘束をうけずに、自分の意志で行動を選択できること。カント哲学では、自然必然性の支配をうけない理論性の活動を、「…からの自由」または「消極的自由」といい、自分が立法した道徳法則に従って意志を決定する実践理性の活動を、「…への自由」「積極的自由」「道徳的自由」という。(精選版 日本国語大辞典「自由」)
最近、以前ほど「自由」という言葉を聞かなくなった気がします。「思想の自由、集会の自由、信仰の自由、居住・移動の自由、職業選択の自由など」が「当たり前」になった(実現した)からでしょうか。そうかも知れません。あるいは「自由になりたい」と思わなくなったのかもしれません。みんなと違う考え方ができなくなった言語(ジョージ・オーウェル『1984』の「ニュースピーク」のような)ができあがっているのかもしれません。
その代わりによく聞くのが「平等」です。それと同じくらい聞くのが「多様性(ダイバーシティ)」です。不思議です。「自由」や「多用性」があるのなら、人それぞれに欲求が違うはずなのですが、みんな「新しいスマホが欲しい」「美味しいおコメが食べたい」と思うのです。そうすると、それを手に入れる人と、そうでない人ができます。そこで「平等」(つまり「不平等」)が問題となります。例の挙げ方が悪いのかもしれません。「経済的平等」だけが平等なわけではないので。私は想像力に乏しいので、経済的平等以外がよく思い描けないのです。
このことから、現実に言語を動かしているもの、つまり言語的自由に手がかりを求めることをせず、形式的ななぜという問いを実質的ななぜという問いにすりかえることにより、「原因」だの「外的」要因だのに頼らざるを得なくなってしまうのである。(P.164)
言語変化にはたしかに
動機がある。しかしこの動機は必然性すなわち「客観的」あるいは「自然的」原因性の面にではなく、目的性、すなわち「主観的な」ないし「自由な」原因性の面に属している。話す行為は自由で目的をもつ活動であって、それ自体は外的あるいは自然的な原因を含まないから、そのかぎりでは言語変化に原因はあり得ない。言語変化とは、話すことによる言語の生成そのものにほかならないのである。個々の言語について言えば、それらは言語的知識として創られ、引き続いて用いられる話し方としてのみ存在する。したがって、どんな種類の外因も、話し手の自由と知性を介することなしに「言語の上に」作用を及ぼすことはできない。(P.285)
「ことばの自由」は「思想の自由」ではなく、ことばの「実質」、つまり「本質」です。ことばが自由であるのは、それがエルゴン(できあがったもの)ではないからです。
実際には、話し手は体系といわゆる「言語の規則」については十分な自覚を抱いている。話し手は自分が何を言っているかだけでなく、いかに言うべきか(そして、いかに言うべきではないか)ということも知っている。そうでなければ話すことさえできないではないか。そしてまた、話し手にとっての問題が、言語的手段を「理解すること」(これは言語学者のしごとである)ではなく、それを用いる知識、規範を維持し(修復し)、体系と調和させて言語をつくる知識の方であるのは確かなことである。(P.91)
「ことばとはこういうものだ」「ことばはこうあるべきだ」というのはあり得ないのです。たしかに「ラング」は「パロール」の中にしかないのですが、言語学者が行えるのは、法則や規則などを理解・記述することであって、それを作ることではありません。ところが「ことば(パロール)」を記述した途端、それは「言語(ラング)」になってしまいます。ソクラテスが言ったとおりなのです。
ことばを「食べること」「歩くこと」に置き換えてみるとよくわかります。栄養学や歩行学(?運動機能学?)は、食べること(消化すること)、歩くことを教えてくれるわけではありません。いや、教えてもらわなくてもできます。
言葉は呼吸の一種だから、これだけはもう少し各人の自由にさせたい。(柳田國男『国語史 新語編』ちくま文庫全集21、P.423)
「思想弾圧」「思想信条の自由」は、「書けない」「話せない」ことば(あるいはことばにする前のもの)があるということです。「歩行の自由」や「消化の自由」がなければ、「歩行の平等」「消化の平等」もないはずです。でも、「車がない」「胃がもたれても近くに病院がない」というのは「不平等」とされています。
言語学者が研究するとき、対象はたしかに「ことば」なのですが、それを書き取ったり(そのために発音記号を作ります)、録音したりします。音素や音声がいくつあるかはわかりません。音声は多分無限にあり得るし、音素は話す人、聞く人によって異なるでしょう。簡単に言えば「聞き取れないものは話せない」し「話せないものは聞き取れない」でしょう。私は「 r 」と「 l 」が聞き分けられないので、話分けられているかどうかわかりません。同じ日本語でも、地方によって通じるダジャレと、そうじゃないダジャレがあります。ことばを聞き取るというのは、「音を識別する」だけじゃなくて、(識別するためにも)それ以外の要素、過去の経験、話し方、身振りなど、総合的に判断します。なので、同じ音でも識別できなかったり、聞き間違いしたりすることはしょっちゅうです。
発音記号にしたり、文字にしたりするとことば(音)は固定されます。発音の違いは吸収されてしまいます。特に漢字などの表意文字は、広東語と北京語などとの大きな発音の違いものりこえます。文字というのは不思議なもので、(「音を表している・声の代わり」と思われているにも関わらず)「意味」がわかっていれば、どう発音するのかはある程度自由です。
文字に表したことば、それは空間も時間も超えていきます。「いま・ここ」を超えた存在です。それは「話し言葉(パロール)」以上のものなのでしょうか。言い換えれば「文字」があればことばはいらないのでしょうか。
それを空想する必要はありません。100年前の日本がそうだったのですから。日本に文字(漢字)は1500年以上前からありました。でも、民衆の生活に文字は必要ではなかったのです。
民衆のことば(話し言葉)が「創造的」だというのは微妙です。日本では(たぶん西欧でも)「ハレのことば」として、定型的な話し言葉がありました。たとえば、お祝いの席での口上、祝詞、お経はもともと文字(文語)ですが、定型文的に(意味がわからなくても)用いられることがあります。あるいは挨拶、「あけましておめでとうございます」なんかも定型文です。まあ、「おはようさん」とか「おはよう」「おっは!」ともいいますが。
これに対して「謹賀新年」は文語です。日常会話では使わないことばです。文法に則った言語、たとえばスペイン語入門のような意味でのスペイン語はありません。日本語講座の日本語(標準語)で話す人はいません。そういう人は冷たく、感情のない、杓子定規な人だと言われていました(アナウンサーや政治家や学者)。それらは「文法」に則った文章、「文語」です。文、つまり「文字」としてのことばです。なので、話し手(話される地方を含めた話す状況)とは別のものとして、時間や空間を超えて流通します(ラジオやテレビ、映画が時間や場所を超えて流通するのは、それが文字=文語からできているからです)。
「文語と口語」「文字文化と口承文化」「書き言葉と話し言葉」「標準語と方言」「男文字(漢字・真名)と女文字(仮名)」「公(おおやけ)と私(わたくし)」、そして「ラングとパロール」。これらの「対語」は、それぞれ別の領域や別の観点から見たものですが、どこか共通の部分を持っていると思います。そして、その前の語と後の語は、それぞれあるグループをなしているように思います。うまく言えないのですが。
「共時態と通時態」は「空間と時間」と同じです。あるいはそこに「静止と運動(変化)」「論理(ロゴス)と感情(パトス)」「実体と本質」などを加えることができます。私には「質料と形相」とごっちゃになっています。「マテリアルとフォルム」と言われるとなにか分かったような気になりますが。アリストテレスが「質料であり(言い換えれば)基体」「実体であり(言い換えれば)本質・ロゴス」というとき、それらが別のものや反対のものではなく、「同じものの別の面(別の視点から見たもの)」だと言っているのです。だから(私は)混乱します。四原因も同じ一つの個物(実体)が、「色々の面から見ることができる」と言っているのであって、それら4つの「因」が「別々のものだ」と言っているのではありません。
ところで、まずこの四原因中の一つ、いわゆる形相因( εἶδος )が、他の個所でもしばしばそうであるようにここでも、ἡ οὐσία καί τὸ τί ἦν εἶναι という句であげられている。(中略、前出「接続詞 καί 」の説明)いまここでは、前の語「実体」と後の語句「なにであるか〔=本質〕」とは、並立する二つのものではなく、全く同じものでもなく、第三の意味で、「実体、とくに実体の諸義のうちの一つすなわち本質」「本質としての実体」とでも意訳されよう。(アリストテレス『形而上学』、邦訳 P.519、訳者注)
アリストテレスは、この同じようで違うような「ある( εἰπί )」の説明に苦慮しています。
「イデア(アイデア)」についてはすでに書きましたが、「本質(エッセンス)」は、
それは「何であるか」( τὸ τί ἐστιν )の中に εἰπί(ある)の未完了過去 ἦν(あった)をぶち込んで「何であるか」( τὸ τί ἐστιν )の主観性を打ち破り、それを客観的概念化した表現であります。(日下部吉信『アリストテレス講義・6講』P.61)
日本語にすれば、「それがそれでありつつあったところのそれ」、「ある」を「生成する( γένεσις 、生じる・成る)」にしてもう少しふつうの日本語に近づければ「それがそれに成りつつ、生じようとしていたところのそれ」という感じでしょうか。
「質料(実体)」と「形相(本質)」は、日本語の「〜がある」と「〜である」に近いのです。「〜がある(存在)」と「〜である(繋辞)」が印欧諸語では同じです(英語の be 動詞のように)。「本質」は、「〜がある」と「〜である」の中間というか、どちらでもないというか、どちらでもあるというか。「私がある(私がいる)」ということと「私である」ということは「同じ語(語形)」で表現するので、「同じ」でなければなりません(ついでに「私が生まれる」ということは「私に成る」ということです)。つまり「アイデンティティ(自己同一性)」を求められます。「文法(あるいは体系)である」は「文法(体系)がある」と同じでなければなりません。
そして、伝統文法の基盤もまた同様である「体系」という近代的概念が、伝統文法の体系概念とははなはだしく異なることは確かであるが、しかし話す行為(パロール)の体系性を認めることなしには文法の生まれ得なかったことも同じように確かである。(P.35)
小林秀雄は言います。
美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない。(小林秀雄「当麻」『モオツァルト・無常ということ』新潮文庫所収 P.69)
日本人にとって「私がある(私がいる)」ことと「私である」こととはまったく違うこと(別のこと)です(でした)。「自己同一性」なんて単語が日本に定着するはずがありません。それが「アイデンティ」、最近では「 ID (アイディ)」として定着しつつありますが、それは「私がいること(自己の存在)」とは別の単語だからです。「 ID とパスワード」は「私がある」と「私である」のことです。「名前と生年月日」ではありません。
アリストテレスが「いいかえるなら」としたところを、西欧では「と」と解釈せざるを得ませんでした。「実体(存在)」と「本質(性質)」を別のものとして区別( differentiation )したのです。
「速さ」を考えるための「微分( differentiation )」と同様の考え方は、西欧以外にもありました。でも、元になる考え方(ものの見方)は違います。
数あるソシュール批判のうち、きわめつきのものだけを掲げておけば十分であろう。H・シューハルトは、『講義』の批評(一九一七年)の中で、共時言語学と通時言語学の分離についてこう述べている。「そのことは、私にはあたかも座標の理論を縦軸論と横軸論と二分割しようとするのに似た感じがする。休止と運動(いずれも最も広い意味において)は、一般的に言語のばあいにあっては、対立するものではない。実際にあるのは運動だけだが、手に負えるのは休止だけである( Hugo schuchadt-Brevier, Halle, 19282, 330)。(P.24-25)
認識のために「固定的・静的」に捉えるのはソクラテス以来の研究上の要請でしかないのに、それを実在だと思ってしまう(取り違えてしまう)のです。日本における「絵」や「字」は動いていた(いる)のです。西欧における字や絵は「止まっている」のです。絵や字を「止まっている・固定されている」と見るか、動いている一瞬としてみるか。それは物の見方の問題であって、時間の考え方の問題です。時を超えたり固定したりするという発想は日本にはなかったのです。時を超えるのではなく、未来や過去を現在に引き寄せることで考えるのが日本でした。「今は昔」(今昔物語)であって「むかしむかしあるところに」ではなかったのです。それは「他の場所」「他の時間」ではありません。「他者」が「他の自分」ではないように、あるいは「自分」が「他者の他者」ではないように。
ということは、たがいにおりあいのつかない関係は変化と言語の現実にあるのではなく、変化と「言語」ということばで指される特定の観念との間にあるということになる。ところで、変化の方は現実なのだから、おかしいのはこの観念の方だと考えざるを得ない。道理と現実の間の見せかけの確執は、いつの場合にも道理どうしの確執である。(P.25)
実際にあるのは現実の言語である。つまり、変化しない言語とは抽象言語である(とはいえ、それは非現実というわけではない。具体と抽象との区別を、現実と非現実という別の区別と混同してはならない)。誰しも、ひとりで気ままに姿を変える文法とか、かってに自分の思惑で厚くなっていく辞書などというものを見たことはない。だから、いわゆる「外的要因」に圧されてもびくともしない言語とは、文法と辞書の中にしばりつけられた抽象言語だけである。(中略)このような言語は、話すことの中でのみ現れるのであり、「言語とは、話し手から離れて、その傍らとかその上にあって、話し手とは別の生をいとなむものではない」。(P.26)
この混同(混乱)は、時間と空間を分離したこと、その後、「数えられる数」と「数える数」の取り違えが起こったことと似ています。
しかし、絶え間なく(一回こっきりではなく)その機能によって規定され続ける生きた言語は、
できあがったものではなく、具体的な言語活動によって常にできつつあるものである。つまり、言語はエルゴン〔製品・作品〕ではなく、エネルゲイア〔ちから・作用・活動〕であり、よりくわしく言えば、一つのエネルゲイアの「形式」であり「作る能力(ポテンシア)」である(2・1参照)。(P.46)言語が変化するのは、それがまだ
できあがっていないからではなく、その活動によって絶えずできつつあるからにほかならない。別のことばで言えば、言語が変化するのは話されるからであり、それが話す行為(パロール)の技術と様式としてのみ存在するからである。話す行為は創造的で自由で目的をもったいとなみであり、またそれはひとそれぞれに異なる、次々に現れる新たな表現目的によってきまるという点で常に新しい。」(P104)
私(日本人)には馴染みのない「告解」、あるいは「懺悔」や「告白」は、「言う事」「話す行為」に因って、新たな「事実」が創造されるということです。「魔女狩り」や「魔女裁判」を連想してしまいます。同じような「拷問」があったとしても、「犯人(魔女)がいる」ことと「犯人(魔女)である」こととは別のことです。
その後、文字の力が増大する(文字が前提の社会になる)とともに、「話し言葉」よりも「書き言葉」が重視されるようになります。自己の証言(主観性)よりも、他者の証言(客観性)が重視されつつあります。どちらも「記録される」ことが必要ですが。文字がことばを記録(固定)し、ことばは話者の「記憶」や「心情」を表す(客観化する)ものとされるからです。
人は「ことば」で考えるものとされます。
一般にA、Bという二つの「事物の状態」の間に自由が入りこんだばあい、もはや自然科学主義的意味における因果関係をうちたてることはできない。AはBを決定する「原因」ではなくて状況であり、自由がそれを処理し、あるいはそれと対処するところの条件である。(P.285)
言語においては、いかなるものも、それに続いて生じるできごとの本質〔目的因〕を決定するものではないことをわれわれは見てきた。われわれの欲するところは自由の範囲と必然の範囲とをきれいに区別することなのである。今日行われているこうした区別はカントに由来するが、すでにアリストテレスは、目的性という動機は、一つの特別な場合であるとくり返し強調している。すなわち、アリストテレスは、目的が与えられているならば、それは常に限定者であり、「第一作用因」がなすところのものをなす理由であると述べている。「目的をもつすべてのものにあって、先行する、また後続する状態は、この目的を顧慮しながら生じる」(前掲書Ⅱ、8)。そして、そのすぐ後に追いかけてこう述べている。「およそ目的が存在する場合には、実物はいつも何か必然的な条件なしには生じないが、といって、材質としてでなければこれらの条件からは生じない」(前掲書Ⅱ、9)。この問題に関して、アリストテレスは家の例を引いている。つまり材質が存在せず、またしかるべき外的条件が存在しなければ、家は出現しないだろうが、しかし、材質とその条件は家の存在理由ではない。同様にして、言語変化は、ある条件のもとに生じるものではあるが、条件そのものからは生じない。言語事実は、話し手が何かのために創造するから存在するのであって、話し手自身にとって外的な、物理的必然の「産物」でもなければ、それ以前の言語状態の「必然的かつ不可避的な帰結」でもない。なにか新しい言語事実の、本当の意味で「原因的」な唯一の説明とは、自由がある目的をもって、それを創造したのだとするものだけである。それ以外の説明は、物質的な起源の説明であり、また改新者や採用者としての個人の言語的自由が活動を行ったその条件の説明である。(P.291-293)
意志、意図、あるいは「自由」があるところでは「自然科学的因果関係」が成り立たないということです。
これは「(物質としての・物理的な)自然と人間」あるいは「存在と性質・本質」「対象と主体」「肉体と精神」を区別することです。「人間があること(人間が存在すること)」と、「人間であること(人間的であること)」を区別しているのです。とても西欧的な考え方です。
近代以降、「人間であること」は「社会的であること」になり、「人間が存在すること」は「個人(主体)があるということ」になります。それは人間中心主義だし、西欧(印欧語)中心主義です。「話し手の自由(思想・表現の自由)」は「私の自由」であり、「個人の自由」になります。
問題は別のところにあって、印欧諸語以外では通用しないはずなのですが。言語を「できあがったもの」「既製品」「レディーメイド」考えるのは、まさしく「商品」と同様なものと扱うことです。
英語史は、英語文法が簡略化したことを明らかにします。動詞の人称変化は「三単現の S 」だけになりました。その代わりに主語が省略できなくなったとも言えます。
具体的に言えば、すべての文に主語が必須な言語は、まずスェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語、オランダ語、ドイツ語、英語の6つが挙げられる。一方、ラテン語から派生したロマンス諸語のなかで主語が義務的になったのは2つしかない。それがフランス語とスイスで話されているロマンシュ語である。(金谷武洋『述語制言語の日本語と日本文化』、P.18)
そういう風に、意味が間違いなく伝わる最大の効果を狙ったのが SVO という語順だったのである。結果として、動詞変化と平行して名詞変化を豊かに持っていた英語は、中英語期に足を踏み入れるやいなや、語順だけに頼る方向へと不退転の決意で突っ走り出したのである。「従語( subject )」は「主語」となって生まれ変わり、文の最初の単語という「上座」に自分の指定席を見い出したのだった。」(同書、P.154)
「語順だけ」で語の関係を表すのも、言語の単純化です。
ついでに言えば、逆方向でフランス語の影響をうけ、クレオール化したのが近代英語である。実は、古英語まで遡れば英語は日本語と同じような言語だったのだ。ところが、王位継承を巡ってドーバー海峡を渡ってイギリスにノルマン王朝が攻め入り、「ノルマンの制服」を成し遂げた1066年、それ以来300年もフランス語に支配された結果、語尾変化もなく、構文しかないような、簡単なものに変わり果てたのが英語なのである。もはや文法関係は語順でしか表せなくなり、義務的に行為者を文頭におくようになった。こうして発生したのが主語である。(同書、P.19)
文法が単純な言語、「ニュースピーク」あるいは「ベーシック・イングリッシュ」、勉強したことはありませんが「エスペラント」などの人工言語(コンピューター言語に端的に表現されている)が「思想・表現の自由」を表そうとすれば、クレオールやビジンと同様にたくさんの「新語」を作ることになるでしょう。
カタカナ語であふれる日本語を見ると、「主語」とともに日本に流入してきた「個人(主体)」主義が、日本語を英語のクレオール化(植民地言語化)しているように思えます。
「グローバル(世界的、ユニバーサル)化」が言われて久しいですが、すべてを商品化していく現代は、経済が基準とされる世界です。そして基準とされる言語(標準語)は英語です。「バベルの塔」の再来です。しかしその英語は、「話されている(パロール)英語」ではありません。「英語の文法」であり「書かれた言語(ラング)」です。ある意味で、「文法だけの言語」です。
70年前に書かれた本書は、欧米における言語学に対する痛烈な批判であるだけでなく、英語化しつつある日本、あるいは「文法化(商品化)」「単純化(数値化・デジタル化)」しつつある現代社会を考えるうえで、大きなヒントになると思います。
[著者等]
エウジェニオ・コセリウ(英語: Eugenio Coseriu, ルーマニア語: Eugeniu Coşeriu, 1921年7月21日 - 2002年9月7日)は、ルーマニア王国(現在モルドバ共和国・ルシュカニ県)ベルツィ県生まれの言語学者。(Wikipedia)
