序文(デヴィッド・ウェングロウ)
第1章 人類の幼年期と決別する あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか
「「善」と「悪」とは、純粋に人間にかかわる概念である。魚や木が善であるか悪であるかを議論することなど、だれにもおもいもよらないだろう。なぜなら「善」と「悪」とは、人間がじぶん自身を互いに比較するためにつくった概念だからである。」(P.3)
「英語で「政治 politics 」、「礼儀正しい polite 」、そして「警察 police 」という言葉が類似の響きをもっているのには理由がある。それらはすべてギリシア語の polis [ポリス]に由来しているのである。あるいは city [都市]にも同じことがいえる。これに相当するラテン語は civitas [キヴィタス]であり、「礼儀正しさ civility 」「市民の/都市の civic 」、そして「文明 civilization 」にかかわる近代的意味合いが、そこから派生している。」(P.4)
「本書で乗り越えたいのは、この[ルソーかホッブズかの]二者(FF)択一なのだ。わたしたちの反論は、大きく三つのカテゴリーに分類することができる。これらの議論は、人類史の一般的な流れを説明するものとしては、
一、端的に真実ではない。
二、不吉なる政治的含意をもっている。
三、過去を必要以上に退屈なものにしている。」(P.4-5)
「実際、最初の農耕共同体の多くは、身分やヒエラルキーから相対的に解放されていたのだ。また、世界最古の都市の多くが、確固たる階級的区分を有していたどころか、強固なまでの平等主義にもとづいて組織されていた。」(P.5)
なぜホッブス流とルソー流の人類史がともに政治的に悲惨な意味合いをもつのか
「たとえば五〇年前あるいは一〇〇年前のように、資本の集中、寡占、階級権力といった枠組みで問題を捉えたとしよう。それと比べると「不平等」という言葉は、いかにも中途半端な対策や妥協を促すように響かないだろうか。」(P.7)
「「不平等」という用語は、テクノクラート的改良主義の時代に適応した社会問題の枠づけ方法であり、真に変革的であるようなヴィジョンが不在であることを最初から前提としているのである。」(P.8)
注1「つまり食物は、一〇〇%オーガニックでフリーレンジの生産物を、純度において最高の天然水で洗浄したものであることを考慮しなければならない。現代の収入の多くは、住宅ローンと家賃に消えている。」(P.9)
「どのように共に生きるかという決定に貢献するわたしたちの平等な能力である。むろん、この平等な能力の行使には、そもそも決定することになにがしかの意味があるべきだという前提がある。」(P.10)
「人類が平等な牧歌的状態からいかにして転落したかを語るのではなく、なぜみずからを再創造する可能性を想像することさえできないほど、がんじがらめに思考の束縛に囚われてしまったのか?このように、問いを立ててみたらどうだろうか。」(P.10)
人類史のおおまかな流れにかんする一般的理解が、なぜほとんどまちがっているのかについてのいくつかの簡潔な実例(あるいは、ジャン=ジャック・ルソーの永遠回帰)
幸福の追求について
(P.14)__人間は無の中に生まれてくるのではない。
「「民主主義(デモクラシー)」という言葉こそヨーロッパで発明されたかもしれないが(当時のギリシアは、文化的にはたとえばイングランドよりも北アフリカや中東に近かったので、これとて怪しいが)、一九世紀以前のヨーロッパの著述家で、民主制(デモクラシー)が劣悪な統治形態ではないと示唆した人物をみつけることはできないのだ。」(P.21)
23「たとえば、合衆国憲法の起草者たちは、むきだしの反民主主義者であり、旧植民地(とりわけペンシルヴァニアを憂慮していた)で「民主政」の勃発するリスクを回避するために連邦政府を設計したことを公式声明で謳っていた。いっぽう、実際の直接民主主義的意思決定はアフリカやアマゾンのさまざまな地域、あるいはロシアやフランスの農民の集会(アッセンブリ)で、何千年にもわたってひんぱんにおこなわれてきた。」(P.21)
「拉致された子どもも同様である。たとえ誘拐された子どもであっても、実の親と再会すると、ほとんどのばあい、保護を求めて養父母の親族のもとに逃げ込む。」(P.23)
24「たとえば、ヨーロッパ以外で一見民主主義的にみえる意思決定があったとしてもそれは「本当の」民主主義ではない、とか、厳密な論理形式をとる自然についての哲学的議論にみえてもそれは「本当の」知ではないなどといった話に根拠を与えようと、ややこしい理屈をひねりだして時間を浪費する必要はないのである。」(P.23)
『ナパニュマ』早川書房
「ホームレスや物乞いの多い街で育った人間 不幸にもわたしたちのほとんど にとって、そんな状況になんの必然性もないことをおもい知らされることは、つねにいささかのおどろきなのである。」(P.24)
「とはいえ、最も一般的な理由は、先住アメリカ人の共同体で経験した社会的きずなの強さに関係している。相互のケア、愛、そしてなによりも幸福であること。それらの質は、ヨーロッパの環境に戻ったら二度と味わうことができないとかれらは考えていた。「安全(セキュリティ)」には多くのかたちがある。矢で射られる確率が統計的に低いという感覚も安全である。そして自分が射られたときに深く気(FF)遣ってくれる人たちが世界にいるという感覚も安全なのである。」(P.25-26)
いかに従来の人類史の語り口(ナラティヴ)は、まちがっているだけでなく、必要以上に退屈であるのか
「おそらくそこには、生活そのものよりは、わたしたちの想像力の限界が映しだされているだろう。」(P.26)
「さて、ここではっきりさせておかなければならないのは、社会理論はつねに、必然的に、多少なりとも単純化をともなうということである。たとえば、ほとんどいかなる人間の行動にも、そこには政治的次元、経済的次元、精神的次元、心的=性的次元などがふくまれているといえる。ところが社会理論とは、議論をつくるために、事象が単一の次元だけで存在しているかのように装う、いわば「ごっこ遊び」のようなものである。」(P.26)
「あたらしい発見をするためには、世界を単純化しなければならない。問題なのは、発見されたあとも、人が単純化をつづけることにある。」(P.26)__発見をもとに戻す、組み立て直す、現実化する、複雑化することはできるのか。
「社会科学者たちがいまなお過去のわたしたちを単純化した二次元の戯画に還元しつづけているとしたら、それはなにか独創的なものを提示しようとしてのことではなく、そうすることで「科学的」な装いをこらさねばならないと感じているからである。」(P.27)
「このような著述家が実際になにをいっているかというと、貴重物の移動の原因を市場以外にじぶんは想像できないということである。」(P.27)__Nota Bene!!
「しかし、このような地域ネットワークは、友好的な相互関係の形成や、たまの訪問の口実のために発展していることが多いのであって、「交易」とはにても似つかぬ、それ以外の可能性も豊富に存在しているのである。」(P.28)__手土産とお土産。
「よその時代やその場所の人間の生活のありようを単純に推測するとき、わたしたちはたいてい、実態よりもはるかにつまらないし、はるかに単調、つまり、はるかに人間性に乏しい世界を想像してしまうのだ。」(P.30)
これ以降の展開について
「ただしい問いを発見する探究である。」(P.30)
第2章 よこしまなる自由(ウィキッド・リバティ) 先住民による批判と進歩の神話
ここでは、ヨーロッパ中心主義に対する批判がどのように裏目にでて、先住民の思想家を「あやつり人形(ソック・パペット)」に仕立て上げてしまうのかが示される
「要するに、この問いの提出の仕方そのものが社会的不平等には起源があることを前提としている。つまり、人間が平等であった時代があったこと(そして、なんらかのきっかけでこの平等の状態が変化したということ)を前提としているのである。」(P.33)
「当時のフランスでは、対等な人間関係をそれなりに経験したことのある人間すらいなかったのだから。」(P.33)
「一五世紀から一六世紀にかけてのルネサンス期ヨーロッパにおいて、歴史とは災厄の連続であって、進歩のストーリーではなかった。」(P.40)
「ひとりの人間が絶対的な権力を保持しているとして、それと比べるなら、それ以外の万人が平等であることはあきらかである。初期キリスト教も同様に、すべての信者は「主 Load 」と呼ばれる神に対して(究極的には)平等であると主張していた。このように至高の権力者のもとで、死すべき存在たる人間は、実質的に平等である。」(P.41)
ここでは、ニューフランスの住民がヨーロッパからの侵略者をどうみていたのか、とりわけ、寛大さ、社交力、物質的な豊かさ、犯罪、刑罰、自由の問題をめぐってどうみていたのか、が考察される
「ビアードを最も苛立たせたのは、ミクマクが、じぶんたちはフランス人よりも「豊か」であると主張してやまないことだった。フランス人のほうが物質的にはより多くを所持していることはかれらとて認めていた。だが、じぶんたちはそれ以外の資産をより多くもっている、安楽、快適、時間である、と、こういうのだった。」(P.45)
「リベラル・デモクラシーを奉ずる社会に暮らすだれもがいまや、すくなくとも抽象的なレベルにおいて、自由に反対することはほとんど不可能である(もちろん、実際には、わたしたちの考えはもっと微妙なものである)。」(P.48)
「ところがモンタニェ=ナスカピの考えでは、フランス人は、つねに目上の人間を恐怖しているという点で奴隷と変わるところがない。」(P.48)
「アメリカの女性たちはおのれの肉体をわがものとみなしており、だから未婚の女性たちは性の自由を享受しており、既婚の女性も好きなように離婚できる、と。これは、イエズス会にとってはとんでもない事態だった。」(P.51)
「「主」、「命令」、「服従」などといった概念に該当する先住民の言葉を探すのも困難をきわめた。」(P.52)
ここでは、ヨーロッパ人が(先住)アメリカ人から、理に適った討議、個人の自由、恣意的な権力の拒否のあいだの結合をどう学んだかが示される
「このように、政治的観点からは、フランス人とアメリカ人は、平等ではなく、自由を議論していたのである。」(P.52)
「ここでの平等は、自由の直接の延長線上にあって、まさに自由の表現であった。それはまた、究極的には主権者の前での平等 つまりここでもまた、服従を共有する平等 である「法の下の平等」というなじみぶかい(ユーラシアの)観念とはほとんど共通点がない。それとは対照的に、アメリカ人が平等であるのは、だれもが自身の判断によって命令に従うか従わないか平等に決められるというかぎりにおいてのことだった。」(P.52)
(ル・ジュヌ神父「)「村々ではほぼ毎日のように開かれる会合は、ほとんどすべてのことがらをとりあげ、かれらの会話能力を向上させている」。」(P.53)
「ヒューロン人たちの当意即妙で生き生きとした感嘆すべき弁舌や、公共の場での明晰な洞察力、あるいはみずから慣れ親しんできたものごとに示す慎重な管理方法など、教育なしに自然が授けたとはわたしにはおもえない」。」(P.53)
「というのも、女性は、生産物こそその保存や処分は共同でおこなっていたが、畑の所有や労働にかんしては個別におこなっていたし、男性は、一般的には獲物や戦利品こそ共有したが、道具や武器は個別に所有していたからである。」(P.55)
27「イエズス会士の多くは、「未開人」はかつて高い水準の恩寵と文明を誇っていたのだが、そのあと退化したという古いルネサンスの教義をまだ信奉していたのである」(P.55)
「ヨーロッパ人はつねに優位性を求めて争っていたが、北東部ウッドランドの社会は、たがいに自律した生活を保証していた。あるいは、すくなくとも男女がだれも他の人間に従属しないようにしていた。ここでいうコミュニズムとは、個人の自由と対立するものではなく、むしろ個人の自由を支えるものなのである。」(P.56)__家庭内は平等で自由か。多分、現代西洋人に対してわかりやすく書いたのであろう。
ここでは、ウェンダットの哲学者=政治家カンディアロンクが紹介され、かれの人間性や社会にかんする見解が、啓蒙時代のヨーロッパのサロンでどのように新しい命を吹き込まれたかが説明される(「分裂生成」の概念についての脱線もふくむ)
「イロコイ語を話す四つの民族の連合体であるウェンダット連邦 Wendat Confederacy の大物戦略家であるカンディアロンク」・・・(P.57)
(フランスでは)「そこでは、財産(ポゼッションズ)をわがものにする権力を、他の人間に対する権力に直接に転換させることができるのである。」(P.60)
「カンディアロンクは、永劫の天罰なる宗教上の教義のようなヨーロッパ式の懲罰的な法律は、人間本性の本質的な(FF)堕落によってではなく、利己的で強欲なふるまいを奨励するような社会組織の形態によって必要とされるのだという立場をとっている。」(P.51-52)
「人は、近隣の人間たちに対立させてみずからを定義するようになるのである。」(P.66)
「イギリス人はできるかぎりフランス人のようにならないように、フランス人はできるかぎりドイツ人のようにならないように。なによりかれらはみな、議論するさいにはたがいの差異を誇張するものなのである。」(P.66)
「カンディアロンクがお金をしきりにとりあげるのは、その典型であろう。今日まで、ボリビアから台湾まで、グローバル経済に組み込まれた先住民社会は、マーシャル・サーリンズがいうように、必ずといっていいほど、白人の「金銭への追求」に対する反発によって、みずからの伝統を構成しているのだ。」(P.66)
(ティルゴー)「すなわち、かれのひねりだした人間の思想への最も頑迷なる貢献(物質的な経済的進歩という概念)が、歴史の一般理論に転換した瞬間である。」(P.68)
ここでは、A・R・J・テュルゴーの世界形成力(デミウルゴス)が説明され、かれがどのようにしてヨーロッパ文明に対する先住民による批判を覆し、現代の社会進化論のほとんどの基礎を築いたかが説明される(または、どのようにして「自由」の議論が「平等」の議論に転化したのかが説明される)
「つまり、社会進化論は先住民による批判の影響に対する直接の応答としてはじまったのである。」(P.70)
「しかしながら「未開人」の知恵をたよりにすることは、なによりも、いまだはびこる権威の傲慢に挑戦する方法だった。」(P.71)
「テュルゴーの事例は、わたしたちが啓蒙思想の核心と考えている、文明、進化、進歩といった概念が、実際には批判的伝統のなかでは比較的後発のものであることをあきらかにしている。なによりも重要なのは、これらの観念の展開が、先住民による批判の力への直接の応答としてあったということである。なによりも重要なのは、これらの観念の展開が、先住民による批判の力への直接の応答としてあったということである。」(P.71)
45「のちの進化論者は、たんに「産業」を「商業」に置き換えることになろう。新世界には実際には牧畜社会は存在しなかったが、どういうわけか初期の進化論者たちはこれを問題視しなかったようである。」(P.71)
ジャン=ジャック・ルソーは、いかにして、権威ある懸賞論文大会で優勝し、つぎの大会では敗れ(制限字数オーバーで)、ついに人類の歴史の全体を制覇するまでにいたったか
47「たとえば、これまでみたように中国の官僚制モデルを合理的な国家運営の具体化として推奨してきたライプニッツは、ラオンタンの証言で本当に重要なのはこの点であると考えた。つまり、国家運営をまったく必要としない可能性である」(P.73)
「ここでルソーは、多くのアメリカ先住民を困惑させたのと寸分たがわぬ疑問を投げかけている。ヨーロッパ人は、どうして富を権力に転換することができるのだろうか。」(P.74)
50(ルソー)「各人が持たせるべきものを持たせるには、まず各人が何かを所有できるという前提が必要であるからである。」(P.75)
「したがって、真の自由とは、根本的な意味での自律、すなわち、意志の自律のみならず、他の人間(自身の直接の支配下にあるものをのぞく)になんら依存しないことを意味していたのである。」(P.76)
「おどろくべきは、おそらく、このかれの空想世界が、わたしたち自身の水平線の限界を規定するようになったことだ。」(P.77)
ここでは、先住民による批判と進歩の神話、そして左翼の誕生の関係が考察される
「ルソーがそのような考えをサン・キュロットの頭に植えつけたことが、かれらの蜂起のきっかけになったわけでもない(さきに述べたように、ヨーロッパの歴史上のほとんどにおいて、[現存]世界以外の世界が実現しうることを想像できない唯一の階級が知識人であった)。」(P.78)
「愚かな未開人の神話」を超えて(これらすべてが本書のプロジェクトにとってかくも重要である理由)
「その結果、それは世界にまだ残っていた自由な人びと(ヨーロッパの帝国が拡大が進むにつれて、「かつて」自由「だった」人びとに化していった)を、その自由な人びとの向ける[ヨーロッパ人への]断罪がもはや無害であるような概念空間に封じ込める口実となったのである。本書で試みるのは、この封じ込めの解除である。」(P.84)
「(一七世紀のアメリカ人やフランス人と同じように)先史時代の人びとは、じぶんたちの社会でなにが重要なのかきわめて具体的な考えをもっていたということ。そうした考えはきわめて多様であったこと。そしてそのような社会を一様に「平等主義」と表現しても、それらの社会についてなにもわからないということ。」(P.86)
「一例のみをあげるならば、古代アテネの民主政は、(たとえ全人口の一〇・二〇%であっても)市民が公共の意思決定に参加する権利を等しく有しているという意味で、政治的平等に基礎をおいていた。」(P.86)
第3章 氷河期を解凍する 鎖をつけたりはずしたり 人間政治の変幻自在な可能性
「アフリカの初期人類は、現在のわたしたちが知っているものよりもはるかに物理的に多様だったようなのだ。」(P.90)
「認知についてもおなじである。わたしたちは、多様な人間集団がそれぞれの認知能力をもち、それをきわめて異なる方法で活用しているとみなしているようだ。もちろんある程度はそういえる。しかし、くり返しになるが、差異のようにみえるものの大半が、それを差異とみなすほどの実質的根拠をもたないのである。たとえば、名詞、動詞、形容詞をもたない人間の言語は存在しないし、やり方こそそれぞれ異なれど、音楽やダンスをまったくたのしまない人間集団は存在しない。」(P.91)__名詞や動詞や形容詞の区分は曖昧で、「犬」はどれでもありうる。それは、その社会が「犬」をどのようにみなしているかによる。名詞、動詞、形容詞を定義することはできないが。
「現代の人間 先に述べた比較的均一な「わたしたち」 を構成する諸要素はその[進化の]過程で合流したものであるが、この合流が起きたのはかなりあとになって(FF)からのようだ。
4「サハラ砂漠は人類の進化にとって一種の回転バーとして機能してきたようだ。すなわち、モンスーン降雨の周期的な前進/後進によって周期的に緑色に変化し、ふたたび乾燥しては、アフリカ大陸の北部と南部のあいだのゲートを開けたり閉めたりしていたのである」(P.91)
「祖先の人間たちは、たがいに大きく異なっていただけでなく、ホモ・ナレディ Homo naledi [南アフリカのヨハネスブルク郊外の洞窟で最近発見されたホモ属の新種]のような、より猿に近い小さな脳の種と共存してもいた。」(P.92)
「わかっていることは、わたしたちはもともとモザイク状に存在していた人類集団の複合的な産物であること、それらの集団はたがいに影響し合い、交配し合い、集合離散をくり返し、いまだに推測するしかできない方法で共存していたということである。」(P.92)
「おそらく確実にいえるのは、祖先をたどれば、われわれはみなアフリカ人だということのみである。
現生人類が最初にあらわれたのはアフリカである。アフリカからユーラシア大陸に進出した現生人類は、ネアンデルタール人やデニソワ人など、異なる人間集団(ちがいの度合いは低いがそれでもちがいのある)と遭遇し、そして、これらの多様な集団は異種交配した。地球上に存在する単一の人類である「わたしたち」を語りはじめることができるのは、これらの異なる人間集団が絶滅してからである。」(P.92)
「初期人類は、海岸線や熱帯林、山岳地帯やサバンナなど、さまざまな自然環境に生息していた。かれらは、現代の人間よりももっとはるかに肉体的に多様であり、社会のちがいは肉体のちがいよりもさらに大きかったと推定される。要するに、人間社会の「原初」形態は存在しないのである。」(P.93)
7「最近の狩猟採集民の特定の部分集合を「初期人類社会」の代表としてかつぎあげることは、本質的につまみ食いのたぐいである。」(P.93)
「サピエント・パラドクス」が、なぜ煙幕であるのか 人間としてあらわれるや、わたしたちは人間らしいことをするようになったのだ
「人間の絶対数はまだいちじるしく少数だったかもしれないが、人間どうしの交通の密度は、特に一年のうちの特定の時期には急速に高まったようだ。それにともなって、文化的表現のめざましい爆発があらわれたのである。
高度に洗練された研究者でさえも、社会的不平等には「起源」があるという考えに固執してしまう理由
「進化心理学者」
ボーム「保険数理的知性 actuarial intelligence 」
ここでは、壮大なモニュメントやプリンスの埋葬など、氷河期社会の予想される様相が、狩猟採集民のイメージを覆していることをみながら、約三万年前に「社会的階層化」が存在したようにみえることの意味が考察される
ギョベクリ・テペ
ここでは「未開」の人びとには意識的な思考ができないといういまだくすぶる先入観がゴミ箱行きとなり、変わりもの(エキセントリシティ)の歴史的重要性に注意がむけられる
「要するに、人間の思考は本来、対話的なのだ。古代の哲学者は、このことをよく認識していた。だから、中国でもインドでもギリシアでも、哲学者は会話形式で書物を書く傾向があった。人間が完全に自己意識をもつのは、たがいに議論を交わし、意見をぶつけ合い、共通の問題を解決しようとするときである。」(P.106)
「西洋哲学の伝統は、典型的な記述方法としての対話を放棄したのと並行して、合理的で自己意識を有した孤立した個人を、どこにでもいる人間のあたりまえの初期設定状態として想像するようになった。」(P.106-107)
「ヴィクトリア朝の知識人にとって、みずからの願望に即して自己意識的[自覚的]に社会秩序を想像し、それを実現させるという観念そのものが、近代以前には不在であった。」(P.107)
クロード・レヴィ=ストロースはナンビクワラ族から首長の役割と社会生活の季節的変化についてなにを学んだのか
「かれが狩猟者、園耕民、そして現代の産業民主主義下の生活の類似性を強調していたのに対し、それ以外のほとんどの人々 とりわけ狩猟採集社会に関心のある人びと は、言葉遣いこそアップデートされ、さらなる膨大な科学的データに裏打ちされてはいるものの、テュルゴーの現代版にすぎない、そのような枠組みを受け入れつつあったのである。」(P.113)
「これらのアフリカ社会の、すくなくともいくつかが、だれも望んでいない場所に住んでいる難民集団であったこと。かつての民族誌の記録に残されている狩猟採集社会(この頃にはヨーロッパの入植者によってほぼ一掃されていたため、もはや定量的な分析はできなかった)の多数が、その時点でのアフリカ社会とはにても似つかぬものであること。」(P.114)
「結局、進化論的観点からすれば、かれらは本当の意味での狩猟採集民ですらなかった。」(P.114)
ここでは、先史時代に戻って、氷河期とそれ以降の社会生活における「極端な個人」と季節的変異の証拠が考察される
「そうではなく、一部の人間は豪奢な副葬品をまとって埋葬されているものの、それ以外のほとんどの人間は、そもそも埋葬されていないのである。」(P.116)
「つまり、称えると同時に潜在的な危険のようなものを封じ込めているのである。」(P.116)
東ヨーロッパのドルニー・ヴィエストニツェ
「西ヨーロッパでは、フランスのペリゴール地方やカンタブリア地方の海岸にある巨大な岩窟住居(ロック・シェルター)がそれに相当する。そこからは、おなじように季節ごとの集合と分散からなる年周期の一部を形成する人間活動の大規模な記録が発見されているのだ。
ギョベクリ・テペのモニュメントの背後にも季節的変異のパターンがあることを、考古学はまた示している。石造神殿の周辺での活動は、ハッラーン平野にガゼル[ウシ科ガゼル属に含まれる動物の総称。体も四肢も細く、走るのが速い。雌雄とも角をもつ。アフリカからモンゴルの草原にすむ。鹿に似ている]の大群が降りて車夏から秋にかけての、(FF)年に一度の大豊作の時期に対応している。この時期、人びとはこの遺跡に集まり、大量の木の実や野生の穀物を加工して祭りの食材とし、それを糧に建設作業が進められたと推測される。いくつかの証拠は、これらの巨大建造物の寿命が比較的短く、盛大な宴のあとは残飯やゴミで壁を埋めていったこと、つまり、天へと上昇するヒエラルキーも、すみやかに取り壊されたということを示唆している。」(P.117-118)
(ストーンヘンジ)「たしかに、いったんは農耕民であった。しかし、壮大なモニュメントの建造と解体の時期は、ブリテンの人びとが、大陸ヨーロッパから新石器時代の農耕経済を受け入れはしたものの、その重要な要素のすくなくともひとつに背をむけた時期と重なっている。つまり、前三三〇〇年頃に、かれらは、穀類の栽培を放棄して、主食としてのヘーゼルナッツの採集へと回帰しているのである。かたや、かれらは家畜のブタやウシの群れを保持し、季節ごとに近くのダーリントン・ウォールズでごちそうを食べていた。」(P.118)
「イングランドの新石器(FF)時代の人びとは、いったんは穀物栽培を導入しながら、別の生き方をしたいと集団的に決断したようにみえるのだ。」(P.119-120)
「バッファロー警察」について(ここでは、人間の社会的・政治的生活における季節性の役割が再発見される)
「旧石器時代における同様の季節的パターンの存在が示唆しているのは、ことの発端から、あるいはすくなくともその痕跡を追尾することが可能な範囲で、人類は自覚的にさまざまな社会的可能性を試していたということである。」(P.121)
「ここで鍵となるテキストは、マルセル・モースとアンリ・ボーシャが一九〇三年に公刊した『エスキモーの季節的変異』 Seasonal Variations of the Eskimo である。まず、周極のイヌイットが「他の多くの社会と同様に 夏と冬の二つの社会構造をもち、並行して二つの法と宗教の体系をもている」と述べている。」(P.121)__エスキモー社会 その季節的変異に関する社会形態学的研究
「この事例では、人びとは実際に夏と冬とで異なる名前を名乗っていた。時期によって文字通り別人になったのである。」(P.122)
48(ピエール・クラストル)「かれは直接にインスパイアされたとしかおもえないほど、 Lowie に忠実に従っている。Lowie はいまではほとんど忘れられているが、Clastres は、国家なき社会は進化のひとつの段階を示すものでも、より高度な組織を知らないものでもなく、強制的権威の自覚的かつ原理的拒絶にもとづくものであると論じたことで記憶されている。興味深いことに、 Clastres から引き継ぎのなかったひとつの要素が、権威の様式における季節的変異なのである。」(P.125)
(P.126)__衣替え。当たり前だけど。半世紀前までは、日本でも季節ごとの構築と破壊がくり返しおこなわれていたと思う。具体的に思い出せないけど、「もったいないなあ」と思った記憶がある。使われた食べ物や資材は、一部は分けられたけど、神聖なものとして燃やしたような気がする。
本当の問題は、「社会的不平等の起源はなにか」ではなく「どのようにして閉塞したのか」である
49__「時間限定の王」(テンポラリー・キング)
「首長が首長でありつづけるためには、みなのご機嫌を取らなければならなかったのである。
首長がこのような状況に置かれていたのは、首長だけが成熟した洞察力のある政治的アクターだったからではなく、ほとんどの人がそうであったからだ、とクラストルは主張した。」(P.128)
「第7章でみるように、アマゾンにはもっとむかしから大規模な政体が存在していたことを示す証拠が、現在では豊富に存在している。」(P.128)
(P.132)__若者組主導の祭り。
54「これは、それ以来、ほとんどすべての理論家が取り組まざるを得ない基本的問題、すなわち儀礼は社会構造が顕在化する契機であると同時にあたらしい社会形態が出現することもありうる「反構造」の契機でもあるという問題の最初の定式化であった。」(P.133)
「きわめて多くの社会にとっては、祝祭暦を可能なる政治形態の百科事典として解読することもできるのだ。」(P.134)
「サピエンス(かしこい)」であることのほんとうの意味
「動物はすでに「善悪を超えた」状態で存在している。それはまさに、ニーチェが人間をもかくあらしめよと夢想した状態である。」(P.135)
「おそらく、まさにわたしたちがそうしているのと同様に、かれらも社会秩序と創造性の逆説(パラドクス)に取り組み、 すくなくともかれらのなかで最も思慮深い人たちは それらを理解した(わたしたちとおなじぐらい、ということは、要するにちょっとだけ理解した)。」(P.135)
第4章 自由民、諸文化の起源、そして私的所有の出現 (必ずしもこの順番でなくともよい)
ここでは、人類史をふり返るなら、人口が増えれば増えるほど、人類のほとんどが、小さな規模で生活するようになってきたことが説明される
「さらに、その人生の特定の時点で、個別の男性も女性も、きわめて長距離の移動をしばしばおこなっていたと考えられている。」(P.138)
「狩猟採集民のバンドがより大きな居住集団としてまとまっても、けっして近しい親族のみで構成されているわけではないのだ。実際、生物学的要素を主因とする関係は平均で一〇%を構成するにすぎない。ほとんどのメンバーが、よそからの、しかもその多数がかなり遠方からの流入組であり、同一言語を共有していなかったとすら考えられる。」(P.138)
「それより以前[封じ込められる以前]の数千年には、地域的組織の諸形態は何千マイルも離れたところにまで及んでいただろう。たとえば、オーストラリアのアボリジニは、大陸の半分を移動しても、それでもまだ故郷と同種のトーテム半族に分割されたキャンプをみつけることができた。つまり、半分の住民は、彼らを歓待する義務があるが、(性的関係は厳禁である)「兄弟」、「姉妹」とみなされた。いっぽう、半分の住民は、潜在的な敵であるが、同時に婚姻のパートナーとみなされた。」(P.138)
半族
はんぞく
moiety
ある社会集団が2つの氏族あるいは胞族から構成されるとき,その双分組織の一方の単位をいう。その際,それは最大のリニージや氏族である必要はなく,特定の2つのリニージや分族であってもよい。あるいは単に,2つの外婚集団が存在する共同体をいう場合もある。単位の規模は構造的には胞族と同じで,その出自の規制によって父系半族,母系半族などと呼ばれる。半族は氏族のように密接な生活の共同単位となることはないが,2つの半族の特定の成員同士は,相互に保証,責任を負ったり,儀礼活動で補助し合う行為がみられる。また,半族同士で配偶者を交換し合うことも行われている。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 )
「その時代にこの言葉をあてはめるこ(FF)とができるとすれば、「社会」は大陸の広域にわたって広がっていたのだ。」(P.138-139)
「すなわち、人類の歴史のほとんどを通して、移動する人間 すくなくとも長距離ないし遠隔地に移動する人間 の数は減少していったのである。もし時間の経過とともになにが起きたのかを眺めてみるならば、社会的諸関係の作動するスケールがどんどん大きくなるのではなく、実際にはどんどん小さくなっていくのだ。」(P.139)
4「これが、北アメリカ人が手話を発達させた有名な理由のひとつである。(中略)なによりも「未開の(プリミティヴ)」人びとが自らの地域集団以外の人間を敵としかみなさないという一般的ステレオタイプには、まったく根拠がないように思われる。」(P.139)
「さしあたり、分離した社会的・文化的宇宙 空間的に限定され、相対的に境界づけられた の増殖が、さまざまなかたちで、より耐久力に富み、より堅牢である支配形態の出現したに違いないと指摘しておくにとどめたい。」(P.141)
ここでは、「平等主義的」社会においていったいなにが平等の対象となるのか、と、問いかけられる
「くり返し述べてきたように、「不平等」とは、つかみどころのない語である。「平等主義的社会」という言葉が実際になにを意味しているのかさえ、はっきりしていない。」(P.142)
「つまり、最初の推論として、(一)ある社会のほとんどの人間が、とくに重要だと承認されている特定の部分ないし複数の部分において、等しくあるべきだと感じているということ。そして、(二)この理想が実際にはほぼ達成されているといえる。このようなばあい、ある社会を平等主義的社会とみなすことができる。
いいかえれば、つぎのようになる。すべての社会が特定の価値意識(冨、信心、美、自由、知識、武力)を中核として組織されているとするならば、「平等主義的社会」とは、最も重要な価値は平等に分配されるべきである 一般的に言えば実際に分配されている ということに、だれもが(あるいはほとんどだれもが)同意している社会のことである。」(P.142)
「なるほど、穀物栽培と穀物貯蔵のみが、ファラオ時代のエジプト、マウリヤ帝国、漢の中国のような官僚主義的体制を可能にしたのはたしかである。しかし、穀物栽培のおかげでそのような国家が台頭したというのは、中世ペルシアでの微積分の発達が原子爆弾の発明につながったというのとかわらない。」(P.143)
「リーコックによれば、平等主義的社会と呼ばれる社会のメンバーの多くは、平等そのものよりも「自律性(オートノミー)」に関心を寄せている。」(P.146)
「今日、ほとんどの人びとは、じぶんが自由な社会で暮らしていると信じている(実際に、たいていの人びとは、すくなくとも政治的には、この社会で最も重要なのは自由であると往々にして主張する)が、ほとんど形式的な自由にすぎない。」(P.147)
「すなわち、ウェンダットにはまがいものの首長とほんものの自由がある。いっぽう、現代のわたしたちには、ほんものの首長とまがいものの自由がある。より厳密にいえば、ハッザやウェン(FF)ダット、あるいはヌアーのような「平等主義的」な人びとが関心を寄せているのは、形式的自由ではなく、実質的自由であるようなのだ。かれらが関心を寄せるのは、旅をする権利よりも、実際に旅ができるかどうかである(そこから、この問題は、一般的によそもの(ストレンジャー)をもてなす[歓待を与える]義務として位置づけられていたのである)。」(P.147-148)
「ところが、ほとんどのヌアーの女性は「正式な」結婚をしていなかった。この制度はとても複雑で、多数の女性が亡霊や他の女性(系図上は男性とみなしうる)と正式な婚姻関係を結んでいたのである。そのようなばあい、どのように妊娠し、どのように子どもを育てるかは、ほかならぬ彼女たち自身の問題だった。性生活においても、女性も男性も、特別な理由がないかぎり、個人の自由が前提とされていたのだ。」(P.149)
「だが、歴史のはじまりから、なにをすべきか命令されることを嫌うという自己意識はそこにともなっていたようにみえる。(P.150)__どうも、未開人と歴史の混同をしているように思える。私自身のイメージのせいか。「自己意識」という言葉も近代的色彩があるように感じる。
「いわゆる「経済」が[政治とは]まったく異なったかたちで組織されていること、自由ではなく「効率性」を基礎として組織されていること、それゆえ職場はふつう厳格な命令系統で組織されていることなどは、端的に自明とみなされている。そのため、不平等の起源にかんする現在の推測の多くが、経済的変化、とりわけ労働の世界に焦点を当てているのは、おどろくべきことではない。」(P.150)
15「この点で、すべての人間の言語が命令形を有していることは興味深い。ハッザのような極端に反権威主義的な社会であっても、命令という観念にまったくなじみのない人間はいないのである。しかし同時に、多くの社会が、はっきりと、だれも他人に体系的に命令することができないよう、ものごとを組織してもいるのである。」(P.151)
16「この文脈で想起されるのは、テュルゴーが執筆していたのが一八世紀半ばであり、現在わたしたちが「西欧文明」(当時は存在しなかった概念)の優位性を正当化するために用いている基準のほとんどが明らかに該当しないということである。たとえば、ヨーロッパの衛生や公衆衛生の水準は、当時の「未開の」人びとのあいだで普及していたものよりずっとひどいものだった。あるいはヨーロッパには民主主義制度がなく、その法制度は世界的にみても野蛮なものだった(たとえば、ヨーロッパでは異端者を投獄し、魔女を火あぶりにしていたが、このようなことはヨーロッパ以外ではほとんどおこなわれていなかった)。」(P.151)
「ヴィクトリア朝の知識人たちは、正反対のことを主張しはじめた。「未開人」はつねにおのれの生存をかけた闘争に明け暮れていたといいはじめたのである。」(P.152)
ここでは、マーシャル・サーリンズのいう「初源の豊かな社会」が検討され、洞察力にぬきんでた人でも証拠がない状態で先史時代について書くとどうなるかについて考察される
(P.154)__労働時間(商品の生産時間)と商品の消費のための時間。労働時間と余暇(休暇)。
「ナミビアやボツワナの砂漠のような人を寄せつけない環境であっても、狩猟採集民は集団全体をさしたる苦もなく養うことができ、なおかつ週に三日から五日は、噂話をしたり、議論をしたり、ゲームをしたり、ダンスをしたり、趣味の旅行をしたりといった、とびきり人間的な活動をおこなう時間にあてられることがわかったのだから。
一九六〇年代の研究者たちはまた、農業がいわばめざましい科学的進歩の画期をなしているわけではないこと、狩猟採集民(結局かれらは食用植物の生育サイクルのあらゆる側面を熟知している傾向がある)がすでに穀物や野菜の栽培や収穫の方法を完全に理解していることに気づきはじめていた。」(P.155)__多分蝶々も同じ。動物行動学も熟知している。生態学も。昆虫を見よ。解剖学・麻酔学に精通している。
「聖アウグスティヌスが述べたように、わたしたちは神に反抗した。そして神は裁きとして、わたしたち自身の欲望をもってわたしたちの合理的良識に反抗するようけしかけた。すなわち、原罪に対する罰は、無限に再生されるわたしたちの欲望なのだ。」(P.156)
「むしろ、自由な人びとが自由であるには多くの方法があったかもしれないように、(初源の)豊かな社会が豊かであるためにはひとつ以上の方法があたかもしれないと認めているのである。」(P.157)
「のんきなハッザと、カルフォルニア北西部の勤勉な狩猟採集民とでは、どちらが初源の人間の姿に近いのだろうか?読者のかたがたには、まさにこれこそ発してはならない問いであることはおわかりであろう。真に「初源」である状態は存在しなかった。存在すると主張する人間はだれであっても、神話で商売をしているのだ(すくなくともサーリンズは、この点についてかなり率直だった)。」(P.158)
ここでは、北アメリカと日本における古代の狩猟採集民にかんするあらたな発見が、社会進化を根底から覆すものであることが示される
ルイジアナ州ポヴァティ・ポイント[貧しき地]
三内丸山遺跡
高さ一七フィートのトーテムポールの「大偶像 Big Idol 」[シギルの偶像]
狩猟採集民は未熟で素朴であるという神話が、どのようにして現代でも生き延びているのか(あるいは、インフォーマルないくつかの誤り)
「つまり、たしかにかれらはその土地に属してはいるが、その所有を法的に主張することはできないという、空疎な断言からたいていはじまった。そして土地収奪の根拠はすべて、その土地の現在の住民が実質的には働いていないという考えにあった。」(P.167)
「ヨーロッパ式の農耕以外にも、土地を手入れして生産性を向上させる方法は多数存在している。開拓者の目には手つかずの荒野にみえても、実際にはたいてい先住民が何千年もかけて管理してきた光景である。」(P.168)
『ダーク・エミューアボリジナル・オーストリアの「真実」 先住民の土地管理と農耕の誕生』
「これからの議論のなかであきらかにされるが、 divine king は、おとがめなしに意のままに力を行使する至高の王、主権の座にある王であり、 sacred king は、神聖不可侵という名目のもとに、さまざまな制約によってがんじがらめにされた王である。」(P.171)
ここでは、狩猟採集に適したテリトリーに定住する狩猟採集民はなんらかの理由で例外であるという、とりわけばかげた議論が退けられる
「というのも、海面の上昇により、世界のほとんどの地域で、海岸線での住居の最古の記録がはるか昔に水没してしまったからである。」(P.175)
ここでは、ついに所有の問題が語られ、不可侵(セイクリッド)なるもの[聖なるもの]とその関係が探究される
「たいていそこには複雑な秘密のゲームがともなっている。その都度、楽器は秘密の場所からとりだされ、男性はそれを精霊の声のように装ったり、女性や子どもをこわがらせるべく精霊になりすますための仮装(マスカレード)の一部として使用したりするのである。」(P.178)
52「女性は、それが本当は自分の兄弟や夫であることを知らないふりをしなければならない、などなど。女性たちが本当に知っているのか(ほぼまちがいなく知っているようだが)、男性たちが本当に女性たちが知っているのを知っているのか、女性たちは男性たちが知っていることを知っているのか、などなど、だれにもはっきりとはわかっていない。」(P.179)__ドラマや映画が、役者が演じていること、カメラやスタッフがたくさんいること、BGMが流れていないこと、などを知っているが、知らないこと・気づかないことにして楽しむことができる。
「デュルケームは、不可侵なるもの[聖なるもの]の最も明確な表現は、ポリネシア語で「ふれてはならぬもの」という意味の「タブー」であると主張した。しかし、わたしたちが絶対的私的所有について語るとき、その根本的な論理と社会的な効果という点で、わたしたちは非常に似通ったもの 実際にはほとんど同一のもの を語っているのではないだろうか?」(P.179)__不可侵なるもの[聖なるもの]セイクリッド。
「しかし、車の内部に侵入することから世界中のあらゆる人間を妨げることはできるのである)。このばあい、客体(オブジェクト)は、目に見えない、あるいは目に見える障壁で囲まれている。それは、超自然的な存在とむすびついているからではなく、特定の生きた人間にとって不可侵なるもの[聖なるもの]だからである。そ(FF)れ以外の点では、論理はほぼおなじである。」(P.179-180)__クマにはその論理は通用しない。
「すなわち、殺されたり、拷問されたり、恣意的に投獄されたりしない権利は、じぶんの動産や保有物を所有しているのとおなじように、じぶんの身体を所有しているという観念、そして、じぶんの土地、家屋、車などから他人を排除する権利を合法的に保持しているという観念に基礎づけられている。みてきたように、このようなヨーロッパ特有の不可侵なるもの[聖なるもの]の観念を共有しない人びとは、実際に殺害されたり、拷問されたり、恣意的に投獄されたりする可能性があったし、 アマゾンからオセアニアまで 実際ひんぱんにそのような憂き目にあったのである。」(P.180)__だからクマは「駆除」される。
54「ここで先住民族の土地の要求には、必ずといっていいほど、聖なる山、聖域、地母神、祖先の埋葬地など、なんらかの不可侵なるもの[聖なるもの]の観念がかかわっていることを考えてみよう。これはまさに、絶対的かつ排他的な所有権によって与えられる自由こそ究極的に不可侵なるもの[聖なるもの]であるという支配的イデオロギーに対抗する方法である。」(P.181)
「多くの場合、土地や天然資源の真の「所有者(オーナー)」は神々や精霊であり、人間は無断占拠者(スクワッター)や密猟者、あるいはせいぜい管理人にすぎないといわれている。」(P.181)
「また、民俗誌家たちは、このような所有権(オーナーシップ)には、支配とケ(FF)アという二重の意味があることも指摘している。所有者がいないということは、無防備にさらされているということでもあるのだ。人類学者がトーテム・システム(ここで論じてきたようなオーストラリアや北アメリカの)と呼ぶものにおいては、ケアの責任はとりわけ極端なかたちをとっている。人間のクランは、それぞれ、ある種の動物を「所有(オウン)」しているとされる つまり、「クマ・クラン」、「ヘラジカ・クラン」、「ワシ・クラン」などである が、しかし、その意味するところは、クランのメンバーは、その「所有」する動物を狩ったり、殺したり、傷つけたり、消費してはならぬ、ということである。実際には、かれらにもとめられているのは、その動物の生存を支え、繁殖を促すための儀礼に参加することなのである。
ローマ法の所有概念 現在のほとんどすべての法制度の基礎となっている が独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 possession にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、 fructus (所有物の産物を享受する権利)、 abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもっていないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有していることなのだ。」(P.181-182)__Nota Bene!! 所有権。ローマ法。
「もし私的所有に「起源」があるとすれば、それは不可侵なるもの[聖なるもの]の観念とおなじくらい古い。ということは人類そのものとおなじくらい古い可能性がある。したがって適切な問いは、それがいつ起こったかではない。私的所有は、どのようにしてそれ以外の人間的事象の多くの局面を秩序づけるようになったのか、である。」(P.184)
62「Gardner の言葉を借りれば、「非狩猟採集民は子どもを服従と責任のほうに推し進める傾向があるが、狩猟採集民は自主、独立、個人による達成へと推し進める傾向がある」(1971:543)のである。」(P.185)
第5章 いく季節もむかしのこと カナダの狩猟採集民は奴隷をもち、カリフォルニアの狩猟採集民は奴隷をもたなかった理由、あるいは「生産様式」の問題
ここでは、はじめて文化的分化の問題が考察される
「しかし、ここで前提とされているのがきわめて長期にわたる時間であることをかんがみれば、ささやかな世代間の積み重ねであっても、最終的には語彙や音構造、さらには文法までも完全に変化させてしまうこともありうるだろう。」(P.190)
「つまり、世界がそれぞれ独自の歴史を持つ均質な単位に分割されているという発想そのものが、主として近代的国民国家の産物であり、それ(FF)ぞれの国民国家がとことん領土の継承者でありたいという願望の産物なのである。」(P.190-191)
ここでは、これまでに「文化圏」という問題が提起されるさいの、乱暴で不適切、ときに攻撃的、しかしときに示唆に富む方法が考察される
4「地球のどこかに石器時代からいっさい孤立して生存してきた人類集団があるにちがいないという考え方に、ジャーナリストたちがはてしなく虜となっているさまを見よ。現実には、そのような集団は存在しない。」(P.195)
「モースによれば、その逆がただしい。すなわち、過去の人間は(現在以上に)大いに旅をしていた。とすれば、遠方への一、二ヶ月にわたる旅の立ち寄り先で、かご細工、羽毛枕、車輪のようなものが常用されていたとして、そうした物品をだれも知らないということは端的に考えられない。」(P.196)
デュモン『個人主義論考 近代イデオロギーについての人類学的展望』
「というのも、もしだれもが近隣の人びとがどんな風かを大まかに知っていてよそものの習慣や芸術、技術にかんする知識が普及(FF)している、あるいは、すくなくとも容易に入手可能であるようなとき、文化特性がなぜ広まったかではなく、ある文化特性はなぜ広まらなかったのかが問われることになるからだ。その問いへの回答としてモースは、まさに文化がみずからを隣人に対抗して定義する方法がこれなのだと考えた。」(P.197-198)__あいつと私は違うのだという思い。
「既存の様式、形式、技術のほとんどは、つねにほとんどだれもが潜在的に利用できる可能性がある。だから、これらもまたつねに借用と拒絶の組み合わせによって生まれてきたはずである。」(P.198)__借用することで自己を定義できなくなる。均一化は区別をなくす。区別できない。今までと変わらないように。保守的=個人的・個性的・個別的。
「農耕を取り入れるかどうかの判断は、たんにカロリー計算や、ランダムな文化的好みの問題ではなく、価値体系にかかわる問い、すなわち、人間とはなにか(そしてじぶん自身をどう考えているか)、そして人間どうしはどのように関係すべきかといった問いを反映しているという可能性があるのだ。実のところ、啓蒙主義以降のわたしたちの知的伝統が、自由、責任、権威、平等、連体、正義といった言葉で表現しようとするのは、まさにこうした問題なのである。」(P.199)
ここでは、モースの洞察が太平洋岸に適用され、ウォルター・ゴールドシュミットが先住カリフォルニア人を「プロテスタント的狩猟採集民」と表現したことが、多くの点で不合理ではあるものの、いまだになにごとかを語りかけている理由が考察される
『国民論』 モース
19(・・・)「実際には、ほとんどのカリフォルニア社会で貝貨が使われてはいたものの、男女の財産は死亡したさいに儀礼的に破壊されていた。」(P.203)
「ところが、先住民どうしの取引で、それが売買に使用されることはほとんどなかった。むしろそれは、罰金を支払ったり、契約や合意をむすんだりするための手段として使われていたのである。」(P.202)
「中国、インド、イスラム世界など、世界のほとんどの地域では、商業があり、富裕な商人がおり、まさに「資本家」と呼ぶにふさわしい人びとがいた。ところが、ほとんどあらゆる場所で、莫大な財を手に入れた人は、どこかで手を引くものだ。」(P.202)
(資本家)「しかし、ヴェーバーはこう示唆する。このような行動をとった最初の人間を想像してみよう。そのような行動は、すべての社会の期待に反しているし、ほとんどすべての隣人から完全に軽蔑されることになる。(その隣人たちもまた、しだいにその人間の雇われ人となっていくのだから)。ヴェーバーは、そのような挑発的なまでにかたくなにふるまうことのできる人間は、「ある種の英雄でなければならない」とみた。」(P.203)
「先に述べたように、分裂生成とは、たがいに接触している社会が、おたがいを区別しようとしながらも、結局は共通の差異のシステムのうちで結合することを意味している。」(P.204)
(アテネとスパルタ)「どちらの社会も、他方の社会の鏡像である。それによって、どちらの社会もたがいにとって必要な不可欠な分身となり、いっぽうの社会に対しては、そうあるべきではないものを示す必要不可欠の実例となるのである。」(P.205)
ここでは、「プロテスタント狩猟採集民」と「漁夫王(フィッシャー・キング)」の分裂生成が論証される
「これらの報告は、北西海岸の先住民の四分の一が奴隷であったとしている。これは、ローマ帝国や古典期アテネ、あるいはアメリカ南部の綿花プランテーションでみられる割合とほぼおなじである。」(P.210)
奴隷制と「生産様式」の一般的性質について
「奴隷と農奴や小作人、捕虜、収容者を分かつのは、社会的つながりの欠如である。すくなくとも法的には、奴隸には家族も親族も共同体もなく、他の人間と約束をなすことも継続的なつながりを築くこともできない。英語の’ free ’という言葉が、’ friend ’という語源に由来しているのはこのためである。奴隸は、他者と約束をなすことができなかったがゆえに、友をもつことができなかった。」(P.212)
「しかるに、ほとんどの人間は、かなりのケアと資源を必要とするし、普通であれば一二歳、ばあいによっては一五歳になるまでは経済的な純損失とみなしうる。となると、奴隸を育て上げることが経済的に見合うことはまれである。そしてこれが、世界的にみても、奴隸が軍事的侵略の産物であることがきわめて多い理由である(債務、懲罰、あるいは略奪の産物であることも多いのだが)。」(P.212)
「捕食する非生産者の生産様式もまた理論化されるべきなのだ。だがちょっと待てよ。非生産的生産様式だって?これは言葉の上で矛盾しているようにみえる。しかし、「生産」の意味を厳密に食料や商品の生産に限定した場合にのみ矛盾するようにあらわれるのである。おそらくそう限定すべきではないのだ。」(P.214)
「奴隷狩りは狩猟(伝統的には男性の仕事である)と同じような言葉で語られ、捕虜は捕らえられた獲物になぞらえられていた。社会的死を経験した彼らは「ペット」に近い存在として扱われるようになる。捕食者の世帯での再=社会化の過程として、かれらは養育され、食事を与えられ、正しい文明のありようを教え込まれなければならない。つまりドメスティケート〔家畜化、飼育化〕されねばならないのだ(これらの作業はふつう女性の仕事である)。この社会化が完了すると、捕虜は奴隷であることをやめる。」(P.214)
「ここで究極的に生産されていたのは、ある種の人間、すなわち、貴族、王女(プリンセス)、戦士、平民、使用人(サーヴァント)などであったのだ。」(P.216)__奴隸は家畜であり、主人の子どもを家畜のように育て上げる。
「このように、奴隷としての捕虜は「他者のケアリング」という役割に捕縛されてしまう。その仕事の大部分が、他者をして、ひとかどの人間(パーソン)、戦士、王女、とくに価値のある特別な種類の「人間」になれるようにすることにむけられている非=人(ノン・パーソン)である。
これらの例が示すように、人間社会における暴力的支配の起源を理解したいのであれば、まさにここに目をむける必要があるのではないか。たんなる暴力行為は一過性のものである。ところがケアリング関係に変化した暴力行為は持続的なものになる傾向があるのだ。」(P.216)__DV。
ここでは、他人を奴隸にして一攫千金を狙うことの危険性を説いた先住民族の訓話「ウォギーズ族の物語」が考察される(そして『銃・病原菌・鉄』についての余談を挟む)
「他人を奴隸にしようとする者、略奪によって富や余暇をえようとするものへの戒めの物語であるかのようなのである。犠牲者を強制的に隷属させ、そこからあがる利益で「肥え太った怠け者」となったチェトコが、逃亡するウォギーズを追跡できなくなったのは、怠惰に目覚めてしまったからだ。」(P.218)__『タイムマシン』。
ここではある問いが発せられる 「魚を釣るのと、どんぐりを拾うのと、どっちがいいかな?」
「ところが、カリフォルニアのような豊かな地域では、そのようなことをする理由はない。ドングリやマツの実は一粒一粒が小さく、その加工には多大なる労力を必要とする。食用にするためには、ほとんどの品種で、毒素を除去し、栄養素を抽出するために、あく抜きをしてすりつぶすという骨の折れる作業が必要なのだ。(中略)しかも、魚はナッツよりも栄養価が高く、確実性も高い。」(P.221)
「なるほど、北西海岸では木の実を採集するという選択肢はほとんど存在しなかった(北西海岸の主な森林地帯は針葉樹だった)。」(P.221)
「襲撃の主要な目的はつねに食料ではなく、人間の確保だった。」(P.224)
「目撃談によれば、これが問題化したのは、おおよそ春から夏にかけてのことであった。漁獲物を処理して保存するために必要な人手さえ確保できれば、漁獲量は無尽蔵だったからである。」(P.224)
「貴族の視点からすれば、そこからの帰結は、働き手そのものの不足というよりは、一年の重要な時期に統制の効く働き手の恒常的な不足であった。」(P.225)
「それゆえ、北西海岸での奴隷制の存在は、生態環境からは説明できないと結論づけなければならない。なにから説明できるかというと、それは「自由」である。称号保持者の貴族たちは、たがいに競合していたため、じぶんたちの従者を強制して、はてることなき壮大なゲームに動員する手段をもたなかった。」(P.225)
ここでは、太平洋の「破片地帯(シャッターゾーン)」における差異の培養/耕作(カルティヴェーション)が注目される
「たとえばユロックは、戦いで勝利した者に、奪った命の数に応じて殺人の罪を犯した場合と同じ割合の賠償金を支払うことを要求していた。これは、集団間の略奪行為を、財政的には無意味、かつ道徳的には破綻したものにするためのきわめて有効な方法であると思われる。戦争に勝利してしまえば、金銭的負担がのしかかるというのだから。」(P.226)
「北西海岸のほとんどの言語において「儀礼(リチュアル)」にあたる先住民の語彙は、実際には「欺き」や「幻想」という意味をもっている。ところが、カリフォルニアの精神性の呈示しているのは、それに対するほぼ完全なアンチテーゼである。そこで重視されているのは、規律、真摯な訓練、そしてハードワークによって内なる自己を磨くことなのであるから。[それゆえ]カリフォルニアの芸術は、仮面の使用を完全に避けるのである。」(P.228)
「北西海岸では、家具、紋章、ポール、仮面、マント箱などのあふれんばかりの増殖は、ポトラッチの豪奢や演劇性に対応している。(中略)そしてそれが外面性というテーマ 仮面、幻想、ファサードの世界 を、強く焦点化していることも即座に認められるだろう。
カリフォルニアの「破片地帯」の社会も、独自の仕方でおなじくらい浪費的であった。しかし、かれらがなにかを「ポトラッチ」していたとすれば、それはまちがいなく労働そのものである。」(P.229)
「プロテスタントのように内面性と内省を重視するカリフォルニアの精神性(スピリチュアリティ)は、北西海岸の儀式の巧妙なトリック(スモーク・アンド・ミラーズ)と完全なる対照をみせている。」(P.230)
「ここで示唆したいのは、そこにはただしい生き方についての自覚的な議論がと(FF)もなっているがゆえに、文化が相互に自己を規定する過程は、その根源において、つねに政治的であるということである。」(P.230-231)
71 (Loeb 1926:)「〈・・・)(考古学的に可視的な)富の不平等は、中央カリフォルニアでのツノガイ貨導入後、着実に減少した。貨幣導入の全体的な効果は、債務関係を制限し、その結果、全体的な依存関係と「不平等」を縮減することにあったようだ。」(P.231)__時間とともに価値が減少する貨幣。地域貨幣もある。
いくつかの結論
「たとえば、中国語が調性言語でドイツ語が膠着言語である理由についての「説明」は存在しない。要するに、たまたまそうなったにすぎないのだ。しかしそれでも、もし言語の差異の恣意性をすべての社会理論の基礎とするならば それは基本的に構造主義がおこなったことであり、ポスト構造主義が継承している 、その結果は、もっとも極端なかたちの環境決定論と同程度、機械的な決定論となる。「[人間が言語を語るのではなく]言語が人間を語る」。」(P.233)
「いいかえるなら、どちらのアプローチも、わたしたちがすでに実質的に閉塞していることを前提としている。」(P.233)
「実際、社会理論家がこの問題について議論をやめない理由のひとつは、「人間の主体性(ヒューマン・エージェンシー)」(かつて「自由意志」と呼ばれていたもの)が実際にどれほどの影響力をもつのか、確実にはわからないからである。」(P.234)
「未来の出来事を予測することはできないが、その出来事が起こるやいなやそれが必然であるとしかおもえなくなってしまうのは、人間の条件のひとつのようにみえる。いずれにしても、わたしたちには知るよしもない。だから、自由と決定論のあいだの[程度の]目盛りをどこに設定するのかは、おおよそ好みの問題になるのである。」(P.234)
「第二に、いまやわたしたちは支配が家から(アット・ホーム)はじまるということをよりはっきりと理解できる。(中略)しかし、奴隷制がみいだされるとき、それはどこであっても、最初は家内の(ドメスティック)制度でもあった。ヒエラルキーや所有(プロパティ)は、聖性にかかわる諸観念に由来するともいえるかもしれない。しかし、最も粗暴なる形態の搾取は、もっとも親密な社会的関係にこそその起源を有している。つまり、養育、愛、ケアリングの倒錯としてはじまっているのだ。その起源を政治組織(ガバメント)のうちにみいだすことはできないことは確実である。」(P.236)
「最後に、これらのすべてが示唆しているのは、歴史的にみるならば、およそヒエラルキーと平等はたがいに補完し合うかたちで同時に出現する傾向にあることである。」(P.236)
「この動態を「下からの不平等」と呼んでもいいかもしれない。支配が最初にあらわれるのは、もっとも親密で家内的(ドメスティック)な次元においてである。」(P.237)
第6章 アドニスの庭 不発の革命、すなわち、新石器時代の人びとはいかにして農業を回避したのか
プラトンの偏見と、それが農耕の発明についてのわたしたちの考えをどのように曇らせているか
ここでは、世界最古の町、チャタルホユックがいかにあらたな歴史を刻んだかについて論じられる
チャタル・ヒュユク(-・ホユック,-・フユクとも;Çatalhöyük /ʧɑtɑl højyk/ ,Çatal Höyük , Çatal Hüyük)は、アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市の南東数十キロメートル、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。チャタルとはトルコ語でforkを意味し、ヒュユク(ホユック)で丘や塚を意味するので「分岐した丘」の意味となる。(Wikipedia)
「今日では、ほとんどの考古学者が、先史時代の豊満な女性の像を「豊穣の女神」とする解釈は、はなはだ根拠に乏しいと考えている。そのようなイメージは、「原始的母権制[家母長制] primitive marriarchy 」にかんする、根強いけれども時代遅れのヴィクトリア朝の空想の産物である。」(P.242)
「とすれば、どのような解釈も、新石器時代のアナトリア住人には無関係である、女性やジェンダー、繁殖力についてのわたしたち自身のおもい込みを投影したものである可能性が高いことになるからだ。」(P.242)
ここでは、学術世界のちょっとした立入禁止区域に踏み込んで、新石器時代の母権制の可能性が論じられる
ギンブタス『古ヨーロッパの神々』
「かつてのヴィクトリア朝的幻想は、母権制を人類の本来の姿であるとする進化論的人類学にもとづいていた。」(P.245)__母権制から父権制への進化ギンブタスは、進化ではなく破壊。
「イギリスのエリザベス一世、中国の西太后、マダガスカルのラナバロナ一世のように強力な女王でさえ、最高顧問、司令官、役人に、女性を優先的に任命することはなかった。」(P.248)
「しかし、そのような組織法が存在することがあきらかであるとすれば、新石器時代にはもっと一般的だったという可能性を排除する理由はとくにないし、ギンブタスが(そこにそれをみいだしたからといって)無条件に空想的で見当ちがいであるときめつけることもむずかしい。どのような仮説であっても、重要なことは証拠を吟味することなのだ。」(P.249)
ここでは、世界でもっとも有名な新石器時代の町での生活が実際にどのようなものであったかが考察される
「すなわち、胸のたるみ、腹の垂れ、脂肪の丸みは、かつて信じられていたように妊娠ではなく、年齢を意味するようなのである。」(P.249)
初期の農耕共同体において社会生活の季節性はどのように機能していたのだろうか
「肥沃な三日月地帯」の分解について
「チャタルホユックの創設者たちは、この地域から穀類やマメ類の栽培、ヒツジやヤギの家畜化などを含む農耕経済の基礎を手に入れていた。しかし、かれらはウシやブタを家畜にすることがなかったのだ。」(P.254)
「チャタルホユックの芸術や儀礼が示すように、野生のウシやイノシシは獲物として高く評価されていたし、おそらく人類史においてずっとそうであっただろう。とくに男性にとっては、こうした危険な動物をおとなしい家畜といっしょにしてしまうことは、大いなる威信の喪失につながりかねない。ウシがもっぱら古来の野生の姿(巨大な野獣であるとともに、痩せており、速くて、とても目を惹くその勇姿)を維持することは、そのままある種の人間社会を維持することを意味していたのだ。」(P.254)
「最終氷期の終結した前一万年頃に、この地域は二つの明確に異なる方向に発展した。地形的にはそれを、「高地三日月」と「低地三日月」に分けることができる。」(P.255)
「高地では、定住した狩猟採集民のなかにヒエラルキーへの転化が顕著にみいだされる。それを最もドラマティックに裏づけるのが、ギョベクリ・テペの巨石センターやその近隣の最近発見されたカラハン・テペ Karahan Tepe のような遺跡である。対照的に、ユーフラテス川流域やヨルダン渓谷からなる低地では、このような巨石建造物はみられなず、新石器時代の社会は、これから述べるような、それとは異質な、とはいえおなじように早熟な変化の経過をたどっていった。さらにいえば、この二つの隣接した諸社会の一群 「低地人(ロウランダーズ)」と「高地人(アップランダーズ)」と呼ぼう は、たがいをよく知っていた。」(P.156)
スローなコムギ、そしてわたしたちがいかにして農耕民となったのかについての通俗理論(ポップ・セオリー)について
「農作物について、ドメスティケーション[栽培化]とは、栽培されている植物が野生での繁殖を可能としている機能を消失する事態を指す。なかでも重要なのは、人の手を借りずに種子を散布する機能である。」(P.259)
「遺伝子の変異により、自然に種子が散布される仕組みが失われ、タフなサバイバーから絶望的な従属者へと変えてしまうのである。」(P.260)
「ところが、わすか数千年のあいだに、地球上の大部分の地域でコムギが栽培されるようになったのである。なぜそんなことが起こったのだろうか?ハラリによれば、まさにコムギがホモ・サピエンスを巧みにあやつることによってそれを可能にした。」(P.260)
「こうしてみると、ことのなりゆきには必然性があるかのようだ。しかし、それも「コムギの立場」に立ってみることに意味があるという前提があってのことである。よく考えてみるならば、なぜそうしなければならないのだろうかという疑問がわいてくる。」(P.260)
「しかし、新石器時代の農耕のはじまりを理解するために必要なのは、旧石器時代の視点から眺めてみることである。(中略)過去を「もっともらしい」ストーリーとして語り直すことで、あらかじめ軌道が定められているかのように語り、わたしたちの現在の状況になんらかの必然性があるかのようにみせかける、そんな神話づくりを回避しなければならないのだ。」(P.261)
「野生のコムギを使ったこの種の実験が最初におこなわれたのは一九八〇年代である。そこで判明したのは、作物の栽培化につながる重要な遺伝子変異は、フリント鎌での刈り取りや手による根切りなどの簡単な収穫技術を使って、わずか二〇ー三〇年、長くても二〇〇年で達成できることである。」(P.262)
「鎌での収穫は、穀物のみならず藁をも生みだす。いまでは、藁は本来の目的を食糧生産におく穀物農耕の副産物であると考えられている。ところが、考古学的な証拠によると、そのはじまりは逆のようなのだ。(中略)たとえば、火を起こすための燃料とか「混和材」としての用途である。「添加剤」という点についていえば、藁は、泥や粘土を脆い素材から[強度を増強させることで]工作に欠かせない材料へと変化させる性質をもっている。」(P.263)
「実際、最近の研究では、肥沃な三日月地帯で植物の栽培化が完全に完了したのはかなりあと、野生の穀物の栽培が始まって三〇〇〇年も経過してからということがわかっている。」(P.264)
なぜ新石器時代の農耕は、これほど長い時間をかけて進化したのか、そして、なぜ、ルソーの考えに反し、固定した畑の囲い込みをともなっていなかったのか。
「二〇〇〇年代初頭から、植物考古学者たちは「栽培化以前の栽培 pre-domestication cultivation 」と呼ばれる現象を研究している。一般的に栽培 cultivation とは、野生であれ人間の手が入ったもの(ドメスティック)であれ、好ましい作物の生存機会(ライフ・チャンス)を改善するために人間のおこなう作業のことである。」(P.264)
「人類史の三〇〇〇年というのは、「農耕革命」というには長すぎるし、農耕にいたる過渡的状態とみなすにも長すぎる。」(P.265)
「その段階を特徴づけるのは、栽培に手を染めてはやめ、やめては手を染める狩猟採集民の存在である。」(P.265)
「よく考えてみると、このアプローチは完全に理に適っている。太平洋岸の「豊かな」狩猟採集民がよく知っていたように、栽培穀物(ドメスティック・シリアルズ)の耕作はとても骨の折れる作業である。まともに農耕に取り組むとなると、真剣に土壌を保全し、雑草を除去しなければならない。収穫後には脱穀や唐(FF)箕も必要だ。こうした活動は、狩猟、野生植物の収集、工芸品の製造、婚姻などなど、日常のあれこれにとって邪魔になっただろう。ましてや、物語を披露したり、賭け事をしたり、旅をしたり、旅をしたり、仮面舞踏会を催したりといった活動の邪魔だったであろうことは、いうまでもない。」(P.265-266)
「このバランスをとるためには、特殊な栽培方法が必要だった。ここでわたしたちは、チャタルホユックと、チャタルホユックの位置する湿地帯に戻ってくる。その特殊な栽培方法とは、「氾濫農耕」とか「デクリュ農法 décrue farming 」[ décrue は氾濫、洪水を意味する]などと呼ばれるもので、季節ごとに氾濫する湖や川の周辺でおこなわれた。氾濫農耕は、農作物を育てる方法としては明らかに消極的である。(中略)これは、森林伐採や除草、灌漑を必要としない小規模な園地栽培(ガーデン・カルティベーション)であり、必要なのはおそらく、水流を変えるために石や土でできた小さな障壁(「堤防」)を組み立てるだけであった。」(P.266)
「労働という点では、氾濫農耕はかなり楽であっただけでなく、中央からの管理もほとんど必要なかった。そして、このようなシステムには、土地の囲い込みや測量に対する一種の抵抗が組み込まれていた点が重要だ。(中略)そうだとしても、ルソーやその後継者たちが耳にしたらおどろくであろうが、初期の栽培/耕作システムは私的所有の発展には結びつかなかった。現実には、どちらかというと氾濫農耕は、土地の集団的所有、すくなくとも柔軟な圃場再割り当てのシステムにむかう傾向があったのだ。」(P.266)
「おそらく、初期の農耕者たちは、みずからの居場所(ロケーション)にとどまるために必要な生存維持労働(サブシステンス・ワーク)にかんしては、最小限のことしかやっていないようである。そして、かれらはそのロケーションに、農耕以外、すなわち狩猟、採集、漁業、交易などを目的として居住していたのである。」(P.267)
科学者である女性について
「しかし、証拠が存在するばあい、そうした事象を遡れるだけ遡った範囲では、それが示唆するのは女性と植物にかんする知識との強いむすびつきである。」(P.268)__素人はそうは言えない。
「ところが、レヴィ=ストロースは、その知の「開花」が女性に負っているかもしれないという、その可能性に言及すらしていない。」(P.269)
「望ましい実りをうる見込みを高めるため、かれらは支配の科学や分類の科学にはたよらなかった。そのかわり、かれらが用いたのは、自然の諸力をたわめたり、なだめたり、おだてたり、さらにはだましたりする科学だったのである。」(P.270)
「つまり、そうした小像は、新石器時代の精神性について、現代人の推測を多数触発しており、粘土のもつ生命を吹き込むごとき世界創造的特性にかかわるのちの神話とも共鳴しているのである。これからみるように、土と粘土は生者と死者の関係をも再定義するようになったのだ。」(P.272)
耕すべきか耕さざるべきか それはたんなるおもい込み(ここでわたしたちはギョベクリ・テペに立ち返る)
「ギョベクリ・テペは、肥沃な三日月地帯の高地と低地の境界に位置している。ギョベクリ・テペは、現在のシリアとトルコと国境付近にあるウルファ渓谷に前九〇〇〇年期に出現した一連の巨石センターのひとつである。」(P.273)
「頭骨彫像は、何世代にもわたって大切に保管され、修復されてきた貴重な家宝であったようだ。」(P.279)
意味論的な罠と形而上学的な蜃気楼について
「そのかんの長期にわたり、人びとは農耕を実地に試していた。つまり、かれらは社会構造を入れ替えたのとおなじように生産様式を切り替えながら、いわば「遊戯農耕 play farming 」をおこなっていたのである。」(P.281)
65 「考古学者は、説明のつかないものを前にすると、往々にして民族誌的な類推にたよるものである。(中略)ここでわたしたちが主張したいのは、この議論の両当事者ともに、ある意味ではただしかったということである。ところが、かれらは実際にはどこかで食いちがっていた、あるいはむしろ同じコインの異なる側面について論じていた。いっぽうで、肥沃な三日月地帯の北部(高地)の狩猟採集民のあいだで、捕食的暴力(戦勝頭骨(トロフィー・スカルズ)の展示をふくむ)が、すくなくとも儀礼的・象徴的に重要であったという証拠が積み上げられてきたことを認めるべきだろう。それとともに頭骨彫像(あるいは「漆喰の頭骨」)が、この地域のより南側(低地の)一帯において、そうした価値体系の逆転を表現しているのではないか、検討することもできるだろう。おなじ時期に起こったことだからといって、すべてがおなじモデルにあてはならなければならないわけではない。」(P.281)
第7章 自由の生態学(エコロジー) 最初は跳躍し、ときにつまづき、ときに切り抜けながら、いかにして農耕は世界に広がっていったのか?
「農耕社会の研究者であれば、持続的に農耕を拡大しようとする人びとが、土地を私有化したり監督者階級にその管理をゆだねたりすることなく、つねにその方法をみいだしてきたことを知っているのだから。
共同土地保有(ランド・テニュア)、「解放耕地」の原理、定期的な区画の再配分、牧草地の共同管理などは、とくに例外的なものではなく、おなじ場所で何世紀にもわたってしばしばおこなわれてきた。ロシアのミール[共同体]は有名な例だが、かつてはスコットランドのハイランド地方からバルカン半島まで、ヨーロッパ各地に同様の土地再配分制度が存在し、ごく最近までつづいていた。アングロ=サクソンの言葉ではランリグ run-rig またはランデール rundale と呼ばれていた。もちろん、再分配のルールはケースごとに異なり、代襲によって per stirpes 再配分されるばあいもあれば、家族の人数に応じて再配分されるばあいもあった。多くのばあい、割り当てられる小区画の位置はくじ引きで決められ、各家族は質の異なる土地区画ごとに一つの小区画を受け取った。そのため、だれもじぶんの畑まで他よりもずっと遠くまででむく必要はなく、いつも質の低い土壌にあたらなくともよかったのである。」(P.285)
ヘンリー・サムナー・メイン Henry Samner Maine, Lectures on the early History of Indstitutions『初期制度史講義』1875( "Ancient law : its connection to the history of early society by Maine" )
「要するに、それよりも遠い時代における農耕の導入が、私有地の所有や領土の確立、あるいは狩猟採集民の平等主義からの脱却の地点を画していた、などと考える根拠はないのである。」(P.286)
「だが、そのいずれも、食料生産から国家形成への一直線の道筋をたどっていない。また、これらの地域を越えて近隣の地域に農耕が急速に広がったと考える根拠もない。採集者、漁師、狩猟者にとって、食料生産が有無をいわさぬほど魅力的なものとしてあらわれたわけではないのだ。」(P.290)__食料(自然の食物)が乏しいといわれる地域、極寒の地域、砂漠地域などで農耕をしている人びとは、いまだに少数のように思われる。アラスカ、中東の砂漠地帯、など。そういう地域ではそもそも栽培できないから。農耕の前に灌漑工事があった?そんな事はあり得ない。定住させるために、農耕を強制したのかもしれない。暴力によらずにそれが可能だったとも思えない。奴隷制?それが主人の食料を賄えるとは思えない。
「実際には、農耕が北アメリカのどこかに到達するやいなや、カリフォルニアにもすぐに「到達」したと考えるのが妥当である。ただ、(労苦をともなう労働を重んじる労働倫理や、技術革新(イノベーション)にかかわる情報が急速に拡散するような地域的交換システムがあったにもかかわらず)そこに居住する人びとは、奴隷制度を拒絶したように農耕をきっぱりと拒絶したのである。」(P.290)
家畜や農作物の世界的な移動を論じるにあたっての用語法にかんするいくつかの問題について
「とりわけ最終氷期が終わってからの数千年間は、ほとんどの人間がまだ農耕民ではなかったし、農耕民の作物も、いまではほとんど農耕地から排除されているあらゆる野生の捕食者や寄生虫と相争わねばならなかったのである。
そもそも栽培植物や家畜は、人間の大いなる努力なしに、本来の生態系の範囲を超えて「拡散する」ことはなかった。適切な環境は、それをみつければいいというだけではなく、草取りや肥料やり、段々畑にするなどして改造しなかればならなかった。」(P.291)
なぜ農耕はもっと早く発達しなかったのか
「現在、多くの地球科学者は、完新世をすでに終わった時代だと考えている。すくなくともこの二世紀にわたり、わたしたちは、歴史上はじめて人間の活動が地球の気候変動の主な要因となる「人新世 Anthropocene 」という地質学的な新時代に突入している。人新世の起点をどこにおくのか、それは科学的論争の的である。多くの専門家は産業革命をそのはじまりとしているが、もっと早く一五〇〇年代後半から一六〇〇年代前半とするむきもある。その頃「小氷期」と呼ばれる地上面の気温の低下が世界的におこっているが、これは自然の力では説明することができない。おそらく、これにはヨーロッパ人のアメリカ大陸進出が一役買っている。」(P.294)
私は存在する、そして私は女である。「女」という属性=セックス。もしも男に生まれていたら。親が私を女に生んだばかりに。私の前世は男である。TSトランスセックス。セックスの外側に存在するものと、セックスの中心に存在するもの。女として存在するということは、私は女でなかった可能性もあった。女という私にとっての邪魔者。
「氷床の交代とともに、かつては小さな安全区域に閉じ込められていた動植物が、あたらしい領野へと広がっていった。(中略)世界の多くの地域で、この時期は狩猟採集民にとっての黄金世代でもあった。そして、この時期は狩猟採集民の楽園こそ、最初の農耕民が活動に着手した背景であったことを忘れてはならない。」(P.295)__ヨーロッパ中心の考えであると思う。「〜があった」ということと「それで〜が起こった」という因果関係が歴史(地球の歴史、宇宙の歴史を含めて)という一回限りの事象に当てはまるものではないということをグローバーはいいたかったのではなかったか。
「農民(ペザンツ)が「生存をかけて耕作に従事している」人びとを指しているとすれば「自由の生態学」(要するに「遊戯農法」)とはまさにその逆の条件である。つまり、自由の生態学とは、農耕に(自由に)手を染めたり手放したりする人間社会の性向(プロクリヴィティ)のことを指している。完全に農耕民と化すことなく農耕をおこない、農耕の厳格なる計画的・組織的活動の(FF)必要に生存を委ねすぎることなく作物や動物を育て、農耕が死活の問題にならないよう十分な広さの食物網を保持する、そのような性向である。」(P.296-297)
proclivity 〔よくない事への〕性癖,気質
「新石器時代の食料生産の発展の鍵となったのは、生権力(バイオパワー)ではなく、生物多様性(バイオディバーシティ)だったのである。」(P.297)
ここでは、新石器時代の教訓話が考察される 中央ヨーロッパの最初の農耕民の悲惨かつ驚嘆すべき命運
新石器時代の農耕の定着したまったく異質な複数の場所、すなわちナイル川流域の変容(前五〇〇〇ー前四〇〇〇年頃)とオセアニア島嶼部への植民(前一六〇〇ー前五〇〇年頃)について
「牧畜民たちは、この紅海の東西に広がる「グリーン・サハラ」[間欠的に気候が湿潤にあり、現在のサハラ砂漠のある一帯に植物が繁茂して、人が自由に移動できた時代]に周期的に出入りしていた。」(P.302)
「新石器文化の世界的拡大がみられるもうひとつの例が、オセアニアの島々である。その起源は、アジアの反対側に位置する台湾とフィリピンのイネとキビの栽培文化にある(より深いルーツは中国にある)。」(P.302)
「(ニューカレドニアでその粧飾土器が確認された場所にちなんで)「ラピタ・ホライズン」と呼ばれるこの早熟な拡大(それが世界初のアウトリガーカヌー[アウトリガーは、安定性の補強と転覆防止のため、船体の横などにつきだされた浮きのこと]を生みだした)は、しばしばオーストロネシア語族の拡散とむすびついていた。」(P.302)
「入れ墨そのものは残っていないが、ラピタの壺に施された印象的な装飾は、皮膚から土器へと転写され、かれらの基本的スキーマ underlying schema [外的印象と内的知識を統合する心的枠組みを指す]を示唆してくれる。ポリネシアのタトゥーやボディアートの近年の伝統 有名な人類学的研究がいうように「イメージで体を包み込む」 は、かつての時代の生き生きとした観念世界やそのような慣行を最初に太平洋にもち込んだ人びとについて、わたしたちが実際にはほとんど知らないことに気づかせてくれている。」(P.303)
アマゾニアの事例と「遊戯農耕(プレイファーミング)」の諸可能性について
「アマゾニアでは、実際にはこれがなにを意味しているのかというと、妖精の役割を奪い取ってしまわないよう、人間はその生物種の繁殖への介入を控えねばならないということだ。
いいかえれば、アマゾニアでは、人間が自分以外の生物種の主要な養育者であると同時に消費者となるようにみちびくはっきりとした文化的ルートは存在しなかった。」(P.306)
「アマゾニアが示しているのは、この「農耕への参入と退出」というゲームが、一過性のものではないことである。このゲームは何千年にもわたっておこなわれていたように思われるのだ。」(P.306)
「たとえばアマゾン川上流域(西側がアンデス山脈)では、森林伐採によって、正確な幾何学的プランにもとづき道路網でむすばれたモニュメント的土塁の伝統が、林冠 canopy [森林上層のこと]から露出したのである。」(P.308)
「たとえばメキシコでは、前七〇〇〇年にはカボチャとトウモロコシの栽培形態が存在していた。しかし、これらの作物が主食となったのは、それから五〇〇〇年後のことである。同様に、北アメリカの東部ウッドランドでは、前三〇〇〇年には地元の種子作物が栽培されていた。ところが、後一〇〇〇年頃までは「まじめな農耕(シリアス・ファーミング)」はおこなわれていなかった。」(P.309)
訳注2 (アグロフォレストリー)「農耕 agriculture と林業 forestry とを組み合わせた造語であり、混農林業や森林農業とも訳される。森を管理しながら、そのあいだの土地で農作物を栽培したり、家畜を飼ったりすることを指す。森林を伐採しないまま農耕をおこなう点に特徴がある。」(P.309)
「新石器時代の農耕は失敗の可能性をはらんだ実験だった。そしてときに、本当に失敗したのである。」(P.312)
しかし、なぜそれが重要なのか?(目的論的推論の危険性についての簡潔なるくり返し)
「いまや理解できるように、農耕は、たいてい剥奪 deprivation の経済としてはじまった。つまり、農耕が考案されたのは、ほかに手立てがない場合にのみだったのである。だからそれは、野生資源のもっとも乏しい地域で最初に着手される傾向になったのだ。」(P.313)
第8章 想像の都市 メソポタミア、インダス川流域、ウクライナ、中国など、ユーラシア大陸に最初に誕生した都市民たちは、いかにして王のいない都市を建設したのか
「都市は心のなかからはじまる。」(P.314)
「巨大な社会的単位は、ある意味では、つねに想像上のものである。いささか表現を変えれば、友人、家族、隣人など、実際に直接見知っている人や場所とのかかわりかたと、帝国、国家、大都市など、概して(すくなくともほとんどの時間は)頭のなかに存在する現象とのかかわりかたのあいだにはつねに根本的区別が存在している。社会理論の多くは、経験のこの二つの次元を調和させようとする試みであるとみなすことができるだろう。」(P.314)
ここでは、悪名高き「スケール」の問題がはじめてとりあげられる
「ところが、それから、さまざまな軍隊が実験をおこない、その結果、女性のほうが射撃においてはるかにすぐれた傾向にあることを発見した。(中略)時間が経過するにつれ、家族はもちろんのこと親しい友人の集団であっても、複雑な歴史が生まれ、ほとんどなにごとについても合意することがむずかしくなる。いっぽう、集団が大きければ大きいほど、その集団にふくまれる、あなたがとくに嫌っている人間の量的割合は低くなる[したがって、合意も確保しやすくなる]。」(P.316)
「最も基本的な社会的単位は、子孫への投資 investment in offspring [進化心理学において「子孫への投資」とは、一人の子の利益のために親が支払うあらゆる資源(時間、エサ、エネルギーなど)を指す]を共有するつがい(ペア)でむすばれた家族である。じぶん自身と家族とが食べていくために、これらの核をなす単位は、五ー六人の近親家族で構成される「バンド」に集合しなければならない(ともかく、議論はこうすすむ)。儀礼のさいや獲物がとくに豊富なばあいには、このようなバンドが合体しておよそ一五〇人からなる「居住集団」(または「クラン」)を形成する。ダンバーによれば、これは人間が認知的に頭のなかで把握できる安定した信頼関係の上限に相当する。さらに、かれによれば、これは偶然ではない。一五〇人(「ダンバー数」と呼ばれるようになった)を超えると、「部族」のような大きな集団が形成されるだろうが、このような大集団は、親族を基盤とした小集団のような連帯感にどうしても欠けてしまう。そのため、内輪での諍いが起こりがちになるというのだ。」(P.317)
「人間の最も強力な社会的紐帯が生物学的親族関係に基礎をおくと仮定する進化モデルには、明々白々なる難点がある。要するに、家族があまり好きでない人間は、この世に多数存在するということだ。そしてこれば、現代の狩猟採集民にもあてはまるようなのである。かれらの多数が、近親者のなかで一生をすごすことを嫌がり、近親者から逃れるために非常に長い距離を移動するのだから。現代の狩猟採集民の人口統計にかんするあたらしい研究(タンザニアのハッザ族からオーストラリアのマルトゥ族まで世界各地の事例を統計的に比較している)は、居住集団が生物学的親族によって構成されていないことが判明したと報告している。そして急速に発展しつつある人類遺伝学(ヒューマンゲノミクス)の分野では、更新世まで遡りつつ、古代の狩猟採集民についても同様のことを示唆しはじめている。
たとえば、現代のマルトゥ族は、あたかも自分たちをトーテム的な共通の祖先の子孫であるかのように語るかもしれないが、実際には、任意の居住集団のメンバーのうち、共通の祖先に由来する(プライマリー)生物学的親族の占める割合は一〇%にも満たないことがわかっている。ほとんどのメンバーが、近接した遺伝的に関係を共有しておらず、出自もきわめて広大な地域に拡散している。共通の言語を基盤としてすらいないかもしれない。」(P.318)
「社会的認知という点で、人間とそれ以外の霊長類とを最も明確に区別するのは、まさにこのスケール間の移動能力なのだから。サルは愛情や支配を争うことがあるが、勝利は一時的なもので、再挑戦の可能性に開かれている。」(P.319)
「すくなくともこの点では、現代の狩猟採集民は、現代の都市生活者や古代の狩猟採集民と変わるところはない。わたしたちは、みな、おそらく一度も対面することもないだろう人びととつながっているように感じる能力をもっている。」(P.319)__『君たちはどう生きるか』。
「大衆社会は、物理的な現実になる前に心のなかに存在する。そして重要なことは、物理的な現実になったあとも、心のなかに存在するということである。」(P.319)
「旧石器時代の「文化圏」は諸大陸中に広がっていた。中石器時代や新石器時代の文化圏は、現代のほとんどの民族言語学的集団(人類学者が「諸文化 cultures 」と呼ぶもの)の分布範囲よりもはるかに広い範囲をカバーしていた。都市はこの縮小の過程の一部だったのだ。というのも、都市住民は半径数マイルの範囲内で人生のほとんどをすごすことができたし、都市住民の多数がそうしていたからである(これはそれ以前の時代の人びとにはほとんど考えられなかっ(FF)た)。」(P.320-321)__Nota Bene!! 商品社会。
「また、都市の生態系(エコロジー)が、かつて考えられていたよりもはるかに多様であったこともわかっている。都市は、必ずしも農村の後背地に依存しているわけではなかった。すなわち、そこで農奴や小作人が重労働に従事し、都市住民の消費する穀物を荷車で運搬するといった光景は、必ずしもみられなかったのである。のちになるにつれ、このような[従属]状態がますます一般化していったのはたしかである。しかし、最初の都市では、小規模な園芸(ガーデニング)や動物の飼育も、すくなくとも同程度は重要であった。」(P.321)
ここでは、諸都市からなる世界の大まかな背景が描写され、なぜそもそも都市が誕生したのかが推測される
「市民の祭りは、日常生活のなかでだれもが従ってはいるがふつうは不可視である想像の諸構造(イマジナリー・ストラクチャーズ)が、一時的に具体的で物質的な形態をとる契機だった。」(P.323)
「ユーラシアの多くの地域とアメリカ大陸のいくつかの地域では、都市の出現は、前五〇〇〇年頃にはじまった氷河期後における生態系の二度目の変動に密接に関連している。ここではすくなことも二つの環境的変化がもたらされた。(FF)
ひとつめは川である。完新世のはじめには、世界の大河のほとんどが、まだ野生で予測不可能なものだった。しかし、およそ七〇〇〇年前頃から、洪水レジームが変化をはじめ、より安定したルーティンへと移行した。黄河、インダス川、ティグリス川など、わたしたちが最初期の都市文明とむすびつける川沿いに、広くて肥沃な氾濫原が形成されたのはこのためである。これと並行して、中期完新世には極地の氷河の融解が減速し、世界中の海面がすくなくともそれまでよりは安定した状態になった。この二つのプロセスの相乗効果は劇的なものであった。とりわけ大河が外洋に面した場所では、季節ごとに肥沃な沈泥を海水が押し戻すよりも早く堆積させた。これが、今日、ミシシッピ川、ナイル川、ユーフラテス川などの河口付近にみられる、扇状の大きな三角州(デルタ)の起源である。」(P.324-325)
「大規模な農耕は、都市化の原因ではなく結果だったかもしれないのだ。」(P.325)
「湿地帯や氾濫原は、考古学的遺物の遺存に適した場所ではない。多くのばあい、都市居住の初期段階は、のちに堆積した沈泥や、その堆積した沈泥の上に形成された都市の遺跡の下に埋もれてしまっている。それゆえ、都市にかんする入手可能な最初期の証拠といえば、都市拡大がすでに成熟した段階のものなのである。」(P.326)
「メガサイト」とウクライナの考古学的発見が都市の起源にかんする常識を覆すことについて
クルガン、タリャンキ
『オメラスから歩み去る人びと』
「のちの古代の諸帝国にとっては、この黒色土こそが南(FF)(FF)ブーフ川とドニエプル川[ともに黒海に注ぐウクライナの河川]に挟まれた土地を穀倉地帯に仕立てていた(だからこそ、ギリシアの諸都市国家はこの地域に植民地を形成し、現地民を奴隷にしたり農奴にしたりした。つまり古代アテネは、主に黒海産の穀物を糧にしていたのである)。」(P.329-331)
「より見込みのある説は、メガサイトをそれ以外のほとんどの都市とよく似た、恒常的に人が居住していたわけでも季節に限定されていたわけでもなく、その中間に位置すると考えるものである。」(P.332)__鳥や動物の巣のように、単年、あるいは子育ての間だけ使ったり、何回か使ったり、他の巣を再利用したりしていたのかもしれない。それに人間独自の社会関係が重なっている。
(P.334)__創造性=本能の欠如が個性として現れる?遊び心。
メソポタミア、そして「それほど原始的ではない」民主政について
「シュメール人は、ヘブライ語やアラビア語の起源であるセム語族とは無縁の言語を使用していた(実際、バスク語と同様、シュメール語がどの語族に属するのかについては合意がえられていない)。」(P.338)
40「サダム・フセインのバース党政権は、この湿原を、政治的報酬として[上流域へのダム建設を通して]意図的に干上がらせ、先住民の大量移住を招くとともに、この先祖伝来の生息環境に甚大な被害を与えた。」(P.339)
44「これはまたかつての「メソポタミア」に該当する地域へのイギリスの植民地的な関心事ともよく合致していた。すなわち、その植民地政策は、自国の利益にとって好ましいローカルな君主制の強化(ときには創設)に基礎をおいていたのである」(P.339)
「ところがメソポタミア人の視点からすれば、賦役(コルイヴェ)はすでにきわめて古いもの、人類と同じくらい古いものであった。」(P.340)
「もちろん、ここにプロパガンダの要素がふくまれていることはまちがいない。だが、君主制や帝国の時代であっても、こうした季節的プロジェクトがお祭り気分でおこなわれ、労働者はパン、ビール、ナツメヤシ、チーズ、肉などの報酬をたっぷり受け取っていたことはあきらかである。また、そこにはカーニヴァル的要素も存在していた。都市のモラル秩序がぐらついて、市民のあいだの区分が消滅したのである。」(P.341)
「古代ギリシアと比較すれば、このような都市合議体(アーバン・アッセンブリー)も、強力とはいえなかったかもしれない。とはいえ、そのいっぽうでメソポタミアでは、古代ギリシアに比して、奴隷制はほとんど発達しておらず、女性の政治からの排除もそれほどみられなかった。」(P.342)
「実際、古代近東で民衆合議体(ポピュラー・アッセンブリー)に相当するものをもたない都市をみつけることはほとんど不可能であるし、しばしば複数の合議体(たとえば「若者」と「老人」の利益を代表する異なった合議体)すらみいだしうるのである。」(P.344)
「要するに、都市生活を管理するために支配者を必要とし(FF)ていたどころか、メソポタミアの都市住民のほとんどが自律的な自治単位に組織されていたようなのである。この自治単位は、攻撃的な支配者に対しては、かれらを追放するか、あるいは都市を完全に放棄することで対応していたようだ。」(P.346-347)
ここでは、(文字による)歴史、そしておそらく(口承による)叙事詩がどのようにはじまったかが説明される 都市には大きな評議会(ビッグ・カウンシル)が、丘には小さな王制(スモール・キンダム)があり、そこからそれらははじまった
「楔形文字は、前三三〇〇年頃にウルクで発明されたと考えられており、その発展の初期段階を数字の粘土板やその他の行政上の表記法にみることができる。この時点では、都市の神殿での簿(FF)記が文字の主な役割だった。その数千年後、ウルクの神殿からもついに楔形文字が消えている。そのときまでに、楔形文字は洗練され、なによりも世界最古の文字による文学や法律を記録するにいたっていたのである。」(P.347-348)
「そしてジェイコブセンも論じたように、ギルガメッシュ叙事詩(先王朝時代のウルクではじまる)は、そのようなもろもろの合議体(たとえば、そこには都市の若い男性による合議体などがふくまれている)について語っているのである。
わかりやすい例をあげてみよう。ペリクレスの時代(前五世紀)のアテネのアゴラにもまた公共の神殿がたくさんあったが、実際の民衆集会はプニュクス Pnyx と呼ばれるオープンスペースでおこなわれていた。」(P.348)
「というのも、筆記者は、楔形文字の記号をすべて記憶しなければならなかったかもしれないが、実地に使用されたものはわずかだったからである。」(P.350)
「管理されるべき物財や工芸活動があり、教育技術を開発した市民たちがいた。そして、それらはすぐにこの特殊な形態の都市生活に不可欠なものとなり、今日にまで残存している。これらの革新(イノヴェーション)がどれほど浸透しているかを理解するためには、この本の読者のほとんどが、最初に読書を学んだのは教室で、標準的なカリキュラムに即して教師とむかい合って列になって座っていたであろうことを考えてみればよい。いまでは世界のほぼ全域でみられるようになったこのような厳格な学習方法は、シュメール人の発明物なのである。」(P.350)__中世ヨーロッパの学校では車座であった。古代ギリシャでも。
68「とはいえ、すくなくとも古バビロニア時代(前二〇〇〇ー前一五〇〇年頃)には、個人の家庭でも多くの書記教育がおこなわれていたことも銘記すべきである。」(P.351)
「とはいえ、リスト中に子どもがみられることから、すくなくともそこに居住していたものがある程度はいた可能性はある。もしどうだとしたら、それはおそらくかれらが他にいくところがなかったからという可能性が高い。後世のシュメール神殿が参考になるとすれば、この労働力は、神殿に避難所や支援の場を見出した都市の困窮者、すなわち、借金、犯罪、諍い、貧困、病気、障害などで弱い立場におかれた未亡人、孤児などで構成されていたであろう。」(P.351)
「もちろん、ウルクの住民はそもそも「経済」という観念を知らなかった(ごく最近までだれも知らなかったのだが)。シュメール人にとって、これらの工房や仕事場の最終目的は、都市の神々や女神に豪華な住居を提供することにあった。」(P.352)
71(円筒印章)「まさに印刷メディアの端緒に位置するものだったのである。」(P.353)
72「神殿が管理する領域以外の経済生活がどのようなものであったかはよくわかっていない。ただ、神殿が経済のある部分を管理していたが、すべてではなかったこと、そして、それが政治的権力のようなものとはまったく異なっていたということはわかっている。」(P.353)
「暴力的な征服の証拠はなく、武器や要塞もないが、同時に近隣の人びとの生活を変化させ 事実上、植民地化し 、都市生活のあたらしい習慣を広めようとする努力があったようなのだ。ウルクの使者たちは、宣教師のような熱意をもってこれに取り組んだようだ。神殿が建設され、それに伴ってあたらしい衣服、あたらしい乳製品、ワイン、毛織物などが現地の人びとに広められた。これらの製品はけっして目新しいものではなかったかもしれないが、神殿が導入したものは標準化の原理であった。都市部の神殿工房では、神々の家が純度と品質管理を保証し、文字どおり均一なパッケージで製品を生産していたのである。」(P.354)__表面(見え方)と内容の分離と保証。いまのブランドやメーカー品につながる。それは経済的に「価値」と「使用価値」の分離とその保証につながる。貨幣も同様。それまでは、見え方と内容(実体とイデア)は同じものだった。「リンゴ」は「リンゴ」であり、それ以上でも以下でもなかった。もちろん「甘いりんご」「酸っぱいりんご」「腐っているりんご」もあったが、それがリンゴの性質であった。雨の日や風の日があっても、それが「その土地」であった。天気はある程度予想できたが。経験を記憶として整理し、体験にすること。つまり、言語化・概念化すること。その体験が「予想」を可能にしたが、それは支配・操作するためではなく、自分の行動に「意図」をもたせるためである。意図を表出すること、それが態度であっても、それを受けとることができるからである。言葉として発出するのは、それを聞き取れるからである。それを「種」といい「族」という。
「これらの文化はすべて貴族主義的なものであり、中央集権的な権威や主権の原理は不在であった(あるいは、ほとんど象徴的で形式的なものだった)。単一の中心のかわりに、そこでみられるのは、多数の英雄的人物が家臣や奴隸をめぐって激しく競い合うさまである。このような社会における「政治」は英雄的個人の忠誠心や復讐心からなるパーソナルな負債の歴史によって構成されていた。さらに、ゲームのごとき競技会が、儀礼的で政治的な生活にお(FF)ける最重要の仕事として重視されていた。膨大な量の戦利品や富が、このような演劇的パフォーマンスのうちに浪費されたり、供犠にふされたり、ふるまわれたりすることもしばしばだった。さらに、このような集団は、近隣の都市文明の特徴に、なによりもまず文字に、はっきりと抵抗していた。かれらは、詩人や祭司のかわりに精妙なる記憶術や口承の技術を用いる傾向があったのだ。また、すくなくとも自身の社会の内部では、商業を否定していた。そのため、物理的なものであれ信用的なものであれ、標準化された通貨は避けられ、かわりに独自の物質的宝物が重視された。」(P.356-357)
「しかし、現代の考古学がこの種の「英雄社会」の起源を確認させてくれるかぎりにおいて、それがまさに世界最初の大規模な都市拡大の空間的・文化的周縁部にみいだされるということもまたあきらかなのである(実際、トルコの高地にある最古の貴族の墓のいくつかは、放棄されたウルクの植民地跡で直接発掘されたものである)。貴族政、おそらく君主政そのものが、メソポタミア平原の平等主義的な都市に対抗してはじめて出現したのだ。」(P.357)82「このような移動(ディアスポラ)集団は、金属、とくに銅の流通と加工に広くかかわっていたようである。かれらはまた、煮込み料理や鍋料理を作るために、蓋つきの土器に、ときには顔の描かれた携帯用の炉(コンロ)を使うなど、独特の習慣ももち込んでいた(新石器時代から固定式の炉(オーブン)で食物を焼く習慣があった地域では、やや風変わりな習慣であった)。」(P.357)
ここでは、インダス文明が王権以前のカーストの実例であったのか否かが考察される
「インダス文明には独特の文字があり、都市とともにあらわれては消えていった。その文字はいまだ解読されていない。」(P.359)
「サンガという言葉は、ブッダの生きていた前五世紀頃、南アジアの多くの都市を統治していた民衆合議体(ポピュラー・アッセンブリー)[民集合議制という定訳もあるようだが、ここでは(FF)全体の語彙に統一する]に対して使われたのが最初である。」(P.365-366)
97「その原因のひとつに、「西洋」と呼ばれるものが民主主義を「発明」したという名声を守りたいという欲望があるのはあきらかだ。また、学問の世界自体がきわめてヒエラルキー的に組織されているため、ほとんどの学者がじぶん自身、民主主義的意思決定をおこなった経験がほとんどなく、その結果、自分以外のだれかがそれをおこなうとは想像しにくいという事実も、その一因かもしれない。」(P.365)__学校の先生、職員室で行われている決定。
「最もよく記録されているのは、中世にヒンドゥーを導入したバリ島のスク・システム seka system であろう。バリ人はカーストによって分割されているだけではない。その社会はその全体がヒエラルキーとして把握されている。そこにおいては、すべての集団のみならず、すべての個人が自分以外の人びととの関係においてみずからがどの位置にあるかを知っている(すくなくとも、知っているべきとされる)。」(P.366)
「そのいっぽうで、共同体や寺院、農耕生活の管理運営などの日常的活動は、スク・システムにおいては、メンバー全員が対等な立場で参加し、合意の上で決定するようにもとめられる。」(P.366)
中国の先史時代における明白なる「都市革命」の事例について
「つまり、考古学的研究によって、都市の起源や階層化した国家の勃興とのあいだに因果関係を主張する理論家たちは、その理論的根拠を問われているということだ。その主張はますます空虚なものになっているのだから。」(P.369)
石峁遺跡(石峁(シーマオ)遺跡)
「エリートの墓地に平民の墓が侵入しているのだ。」(P.372)
「つまり、これは、崩壊というよりも、厳格な階級制度が廃止されたあとに、むしろ繁栄を謳歌した時代であるようにみえるのだ。」(P.373)
「ひとつの場所に住む人間の数が増大すれば、社会的可能性の幅も大幅に拡大するかもしれない。だが、それは、これらの可能性のどれが最終的に実現されるかを決定づけるものではない。」(P.373)
第9章 ありふれた風景にまぎれて(ハイディング・イン・プレイン・サイト) アメリカ大陸における公営住宅と民主主義の先住民的起源
「テオティワカンがローマのように大帝国の中心であったかどうかはわからないが、控えめに見積もってもその人口は約一〇万人(モヘンジョダロ、ウルク、その他、前章でとりあげたユーラシア大陸における初期都市の人口の五倍にもなると思われる)であろう。」(P.376)
(エスター・パストリー)「彼女によれば、高地テオティワカンと低地マヤのあいだで起きているのは、自覚的な文化的反転現象 わたしたちが分裂生成と呼んできたもの にほかならない。ここではそれが都市文明の規模で展開されているわけだ。
パストリーの見解では、テオティワカンは、同時代のそれ以外のメソアメリカの社会とはどのように異なる社会であるかを表現するために、あらたなる芸術的伝統を創造した。」(P.378)
ここでは、まずマヤの低地における外来王の例が、つぎにかれらとテオティワカンとの関係が考察される
「歴史をひもとけば、冒険する旅人が見知らぬ社会へと足を踏み込んでしまい、そこで奇蹟的に王や聖なる力の体現者に変貌する、といったたぐいの話には枚挙にいとまがない。」(P.381)__文化が違えば、知っていることも違う。「あたり前(常識)」というのは、「その社会(文化)が知っている」ということ。
「吃音のあるよそもの」(P.382)
(テオティワカン)「住宅とピラミッドは厳密には同時代に帰属しているわけではないし、あるいはすくなくともそれらのすべてが同時代に帰属していたわけではない。」(P.384)
テオティワカンの人びとは、いかにしてモニュメント建設や人身御供に背をむけ、かわりに社会住宅という驚嘆すべきプロジェクトに乗りだしたのか
「民衆のあいだでの集団脱出の記憶は「征服(コンキスタ)」の時代まで残っていた。」(P.384)
「ただいえることは、テオティワカンが都市(シヴィック)アイデンティティを確立するために最初におこなったことは、モニュメントの建設だったことである。」(P.385)
「宮殿やエリートの住居を建設するのではなく、富や地位に関係なくほぼすべての市民に高品質のアパートメントを提供するという、めざましい都市再生プロジェクトに着手したのである。」(P.388)
「しかし、羽毛の蛇神殿が冒涜された後三〇〇年以降も石積みアパートメントの建設はどんどん進み、やがて一〇万人ほどの都市住民のほとんどが「宮殿」のごとき、あるいは、すくなくともきわめて快適な環境で生活するようになっていた。」(P.390)
「いいかえると、だれも生活に困窮することはほとんどなかったということである。それどころか、わたしたちの時代をふくめた都市の歴史のなかで、これほどの生活水準をこれほどの広範囲の人びとが享受できたことはほとんどなかった。」(P.390)
「このように、大規模な共同生活とはあきらかに折り合いのつかないこともおこなわれていた。そして、これこそがわたしたちの主張の重要な点である。テオティワカンの市民社会の水面下では、民族的(エスニック)にも言語的にもまったく背景を異にする集団のあいだで、あらゆる種類の社会的緊張が煮えたぎっていたにちがいない。かれらは、絶えず出入りし、異邦の交易相手との関係を固め、辺境の地で同族を支援し、ときにはそこで形成されたさまざまなありよう(アイデンティティ)を持ち帰っていた(ティカルの王になったテオティワカンの自由民が故郷に帰ってきたらどうなるか、想像してみてもいいかもしれない)のだから。」(P.392)
アステカ帝国に抵抗してスペインの侵略者と手を組むことになった先住民の共和政体であるトラスカラの事例について、そして、その運命的な決定が都市議会での民主主義的熟議から生まれたことについて(ヨーロッパのテクノロジーが「インディアンの心」に与えた幻惑的効果とは対照的に)
「アステカの首都テノチティランと都市国家(シティ=ステイト)トラスカラは、政治的には(古代スパルタとアテネのように)正反対の理想を体現していた。(中略、アルフレッド・クロスビー、ジャレド・ダイアモンドを始めとするこの種の著述家たち)スペイン人とともに進軍してきた、新石器時代以来の旧世界の微生物からなる不可視の軍隊である。それが天然痘の波と通して先住民を壊滅させたのだ。そして青銅器時代の遺産である金属製の武器、銃、馬である。それは無力な先住民に衝撃を与え、畏怖させた。」(P.397)
「啓蒙主義の哲学者は、自由と平等の理想は新世界の人びとに負うところ大と考える傾向があり、その理想が産業の発展と両立するという考えはもっていなかった。とすると、ここにみてとれるのは、やはり強力な近代の神話なのだ。」(P.398)
「ここには微妙なスノビズムがひそんでいる。熟議政治の記述が歴史的現実を反映していることに、だれもがまっこ(FF)うから否定しているのではない。たんに、その事実に意味があるとはだれも考えないのである。」(P.403-404)
(トラスカラ)「かれらは都市民に従属することをもとめられていた。この従属がたんなるみせかけではないことを確認するために、めいめいがいくつかの課題をこなさねばならなかった。まず、野心への適切なる代償と考えられていた公衆の罵声を浴びることが義務づけられた。つぎに、自我をぼろぼろに傷つけられた政治家志望者は、長期の隔離生活のなかで、断食、睡眠剥奪、瀉血(しゃけつ)、厳格な道徳教育などの試練を与えられた。」(P.406)
「あきらかに、この先住民の民主政体で役職に就くには、現代の選挙政治で自明とみなされているものとはまったく異なる人格が必要とされていた。この点については、選挙が専制的気質をもったカリスマ的指導者を生みだす傾向のあることを古代ギリシアの著述家たちが熟知していたことをおもいだすとよいだろう。選挙は貴族政的政治手法であり、民主政の原則とはまったく相容れないとみなされていたのはこのためであり、ヨーロッパの歴史の大半において、真に民主的である役職の選出方法はくじ引きであると考えられていたのもこのためである。」(P.406)
「当時のメソアメリカの他の都市との対比はきわだっているが、しかし五世紀のアテネが、小王国や寡頭政体に囲まれた例外的存在であったことも忘れてはならない。」(P.408)
第10章 なぜ国家は起源をもたないのか 主権、官僚制、政治の卑賤なるはじまり
「「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは、一六世紀後半になってからのことである。フランスの法律家ジャン・ボダンが、この言葉をひねりだしたのがことのはじまりだ。(中略)しかし、おそらく最初に体系的な定義を試みたのは、ルドルフ・フォン・イェーリングというドイツの哲学者であろう。かれは一九世紀後半に、「国家とは、所与の領域内で合法的な強制力の使用を独占することを主張する機関である」とする定義を提起した(この定義は、それ以降、社会学者マックス・ヴェーバーのものとみなされるようになる)。」(P.410)
「現代の社会進化論者のほとんどが、基本的にこの論理を踏襲している。そこでは「社会の複雑性」を示す証拠があれば、反射的にそれはある種の統治機構の存在を示す証拠とみなされる。(たとえば、都市、町、村落、小村といった)四段階の集落ヒエラルキーについて語るとして、それらの集落のすくなくとも一部にフルタイムの専門家(土器づくり職人、鍛冶屋、僧侶や尼僧職業兵士や音楽家)がいたとすれば、それを管理する装置は、それがどのようなものであれ、事実上、国家でなければならない。(中略)とはいえ、その論理は完全に循(FF)環している。基本的には、それは「国家は複雑であるからして、複雑な社会は国家である」といっているにすぎないからである。」(P.411-412)
「国家が不在であっても、君主支配、貴族支配、奴隷制、極端な形態の家父長制の支配は可能であり(実際にあきらかに可能であった)、国家がなくても複雑な灌漑システムを維持したり、科学や抽象的な哲学を発展させたりすることが同様に可能であるならば(これもまた実際にそうであったようにおもわれる)、ある政治体は「国家」であって、ある政治体は「国家」じゃないと区分することで、人類の歴史について本当に意味あることを学ぶことができるのだろうか?もっと退屈ではなく、もっと重要な問いがあるのではないだろうか?」(P.412)
ここでは、支配の三つの基本形態にかんする理論が提示され、それが人類史にもつ含意の探究に手が着けられはじめる
「この課題に取り組むためのベストの方法は、第一原理に立ち返ることである。わたしたちはすでに、根源的ないし基本的自由の諸形態についてはふれた。すなわち、移動する自由、命令に従わない自由、社会的関係を再構成する自由である。」(P.413)
「これまでみてきたように、社会の基礎としての、そして社会的権力の基礎としての所有権へのこのような執着は、西洋特有の現象である。実際、「西洋」なる観念になにがしかの実質的意味があるとするならば、それはおそらく、こうした観点から社会を認識している法的・知的伝統を指すということができ(FF)よう。」(P.413-414)
「たとえあなたがみずからの手で不法侵入者を撃ったとして、その行為が権利の範囲内であったことを他者に認めてもらう必要がある。いいかえれば「不動産」とは、実際の土や岩や草ではない。それは、道徳(モラリティ)と暴力の脅威の微妙な組合わせによって維持される法的了解である。」(P.414)
「だがそれは、土地や建物を占拠したり、さらには政府を転覆させようとしたことのある読者なら痛感されるであろうが、現実に生じる出来事の単純な記述なのである。(中略)(FF)革命が公然たる戦闘で勝利することはめったにない。革命家が勝利するときは、かれらを弾圧するために送り込まれた人間の大半が銃撃を拒否するか、端的に帰宅してしまうときなのだ。」(P.414-415)
「あらゆる種類の所有権は、フォン・イェーリングのような法理論家が婉曲に「実力(フォース)」と呼んだものによって最終的に支えられている。」(P.415)
「つまり、他者が有していないアクセスの権利を確保するための第二の方法、それは情報の統御(コントロール)だ。」(P.415)
「わたしたちは、これらの三つの原理 それぞれ暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ性と呼ぼう が、社会的権力の三つの可能な基礎であると提起したい。」(P.416)
「平等主義的エートスには二つの方向がありうる。ひとつは、そのような個人のいかなる特性のようなものを完全に否定し、人びとをまったく同一であるかのように扱うべしと主張すること。もうひとつは、そのような特性を称賛し、どのような順位づけもなしえないほど根本的に異なっているとみなすことである(たとえば、最高の腕の漁師と最も権威ある長老、ジョークにかけては誰にも負けない愉快な人間を、結局どうやって比較し順位づけるのだろうか?)。(中略)(FF)しかし、これらの事例がひそかに語っているように、このような人物たちは、きわめてまれな存在であって、だから、その権威をどのような種類であれ継続的権力に転化させることははなはだ困難であったとおもわれる。」(P.416-417)
「現代の国家では、同じ種類の権力が、一〇〇〇倍ほども強化されている。というのも、それが第二の原理たる官僚制と結合しているからである。」(P.417)
「むしろ、わたしたちがなじんできた民主主義は、実質的には、大物たちが繰り広げる勝敗ゲームにすぎず、それ以外の人間は、ほとんど野次馬にすぎないのだ。」(P.418)
「暴力、情報、カリスマ性へのアクセスが社会的支配の可能性そのものを規定するように、近代国家は主権、官僚制、競合的政治フィールドの組み合わせとして定義される。」(P.418)__高市のアイドル的人気は、一種のカリスマ制。つまり、アイドルと同じように日本的。
「まず、三つの支配の基本形態は、歴史的起源をまったく異にしている。」(P.418)
「つまり、さまざまなタイプの支配が、遅かれ早かれ、一八世紀末にアメリカやフランスの近代国民国家がとった特定(FF)の形態のようなものに集約され、その形態は、両世界大戦後に世界の他の国々に徐々に押しつけられた、と。
これが真実ではないとしたらどうだろうか?」(P.420-421)
アステカ、インカ、マヤについて(それからスペイン人についても)
(アステカ)「君主政、階層化した官僚制、幹部のいる軍隊、組織化された宗教(いかに「悪魔的」であろうと)はすべて高度に発達していた。スペイン人のなかには、メキシコ盆地の都市計画は、故郷のカスティーリャの都市よりもすぐれているというものもいた。スペインに負けず劣らず細密な倹約令が服装から性風俗にいたるまですべてを定め、それによって統治者と被統治者のあいだには適度な距離が保たれていた。平民から任命されたカルピク calpixque が貢納や税を管理していたが、その行政の知を政治へと転じることはできなかった(政治は貴族や武士の特権であった)。征服された地域では、土着の地位を奪うことはせず、アステカの宮廷の後援者たちとかれらをむすびつけるパトロネージ・システムによって服従が確保されていた。」(P.423)
「スペインでは、ユーラシア大陸の多くの地域と同様に、山地が王や皇帝の強制力からの避難所を提供していた。反逆者や盗賊、異端者は高地に身を隠していたのである。しかし、インカ帝国のペルーでは、すべてが逆であるようだ。山地が帝国の権力の背骨を形成していたのだから。」(P.424)
「インカ帝国の中枢は、アステカのそれとは完全に対照的である。モクテスマは、その威光にもかかわらず(その宮殿内には鳥小屋から小人喜劇の一座の宿舎にいたるまであらゆるものが揃っていた)、公式には貴族による評議会のトラトアニ tlatoani つまり「第一発言者(ファースト・スピーカー)」にすぎず、かれの帝国は公式には三つの都市からなる三都市同盟であった。アステカ帝国は、その血まみれのスペクタルにもかかわらず、実際には貴族の連合体であった。」(P.425)
「神であるサパ・インカは、それゆえにけっして本当に死んでしまうことはなかった。かつての王の遺体は、古代エジプトのファラオのように、保存され、包まれ、ミイラに仕立てられた。(中略)(FF)とはいえ、エジプトのファラオのミイラ化した遺体は、すくなくとも墓のなかに閉じ込められていた。ところが、ペルーのそれらは公的な催しや祭りに参加するために車で運びだされていたのである(あたらしい支配者が帝国の拡大を余儀なくされた理由のひとつは、まさにこの点にあった。つまり、かれらは、旧支配者の軍隊を継承しただけで、宮廷、土地、臣下は依然として死者のものであったのだ)。」(P.425-426)
「しかしながら、スペイン人による年代記には詳細の記述がなく、一五八三年にキープの使用が公式に禁止されると、地域の専門家たちもみずからの言い伝えを文字にする意欲を失っていた。キープがどのように活用されていたのか、正確なところはわからないのである。(中略)キープを文字の一形態とみなすべきかどうかについては、学者のあいだでも議論がある。現存する資料が記述しているのは、主に数字のシステムであり、色分けされた結び目が一から一万までの一〇進法の単位で階層的に並べられていることがわかる。しかし、もっとも精巧な文字列の束には、地形や家系の記録、さらには物語や歌が記録されていたようにおもわれる。」(P.427)
「というのも コルテスが一五二一年にテノチティランを包囲したように、あるいはピサロが一五三二年にカハマルカでアタワルパを捕縛したように その中心を掌握すれば、それ以外のすべてがたやすく陥落するからである。頑強な抵抗はあるかもしれないが(テノチティランの包囲戦は、各戸しらみつぶしの過酷な戦いで、一年以上かかっている)、それが終われば、征服者はすでに存在していた支配機構の多くを引き継ぐことができるし、すぐに服従に慣れた臣民に命令を伝達することができるのだ。
そのような強力な王国が存在しない場合(北アメリカやアマゾンのようにそうしたものが存在しなかった場合や、人びとが意識的に集権的統治を拒絶しているようなばあい)には、事態はきわめて厄介なものとなる。」(P.428)
「現在、チアバス州のかなりの部分を支配しているサパティスタ運動は、おなじ反乱の別のかたちでの継続といえるだろう。」(P.428)
27「決定的な証拠がないかぎり、崩壊説はその都度の時代の政治的関心に左右される傾向がある。冷戦時代、多くのヨーロッパ系アメリカ人のマヤ研究者は、階級闘争や農民革命を想定していたようだ。一九九〇年代以降は、なんらかの生態系の危機を主要な要因とする傾向が強くなっている。」(P.431)
ここでは、脱線して「時のかたち」について、とりわけ盛衰ないし興亡のメタファーがわれわれの歴史観に気づかされる政治的バイアスをもたらしていることが論じられる
「歴史学や考古学は「後(ポスト)」や「原(プロト)」、「中間(インターメディエイト)」、さらには「末期(ターミナル)」といったタームであふれている。」(P.431)
「すくなくとも七世紀に及ぶ集団的自己統治の時代(かつての研究では「先王朝期」とも呼ばれていた)が、メソポタミアの「真の」歴史のたんなる前奏曲と片づけられてしまうようになったのだ。そしてその「真」の歴史とは、征服者、王朝、立法者、王たちのおりなす歴史として提示されるのである。」(P.432)
「それぞれの時代は、「混沌と文化的退廃」の時代としばしば形容される「中間」期によって隔てられている。実際には、これらの時代は、エジプトを支配する単一の人間がいなかったというにすぎない。権威は地方の諸勢力に移譲され、のちほど説明するようにその性質を一変させてしまった。」(P.433)__日本の戦国時代も。
「実際、近代のエジプト学者が三区分を提唱し始めたのは一九世紀後半のことで、かれらが導入した用語(当初は「ライヒ」ないし「帝国(エンパイアー)」、のちには「王国(キングダム)」)は、あきらかにヨーロッパの国民国家をモデルにしていた。」(P.434)__現在の「国家(あるいは制度)」、言語で説明しなければ理解されないから。「民主主義」をどのように説明したらよいか。「いいもの」「取り入れるべきもの」ではなくて、「〜という制度」と説明するだけでわかってもらえたのか。「ピラティス」という言葉が何を意味するのか、どうしたら理解されるのか。別の用語で説明することは可能で、それが「定義」である。「国家」をどう説明するか。
「ちなみに、時間についていえることはまた、空間についてもいえる。この五〇〇〇年もの人類史 つまりおおよそこの章でわたしたちが扱っている時間の範囲 について、これまでのわたしたちの世界史のヴィジョンは、都市や帝国、王国のモザイクによって構成されるのが常であった。しかし、実際には、この時代のほとんどの期間、これらは政治的ヒエラルキーを備えた例外的島々であり、その周囲にははるかに大規模なテリトリーが広がっていたのである。(中略)つまり、固定した包括的権威のシステムを組織的に避ける社会である。」(P.435)__遺跡として、あるいは文献として残っていることは僅かである。
「とはいえ、わたしたちは、すくなくとも、現代の国民国家の萌芽をもとめて古代世界を探し回るような目的論的な思考習慣を捨てたすれば、いったいどうなるか、それをみきわめようとしている。」(P.436)
「つまり、膨大な数の人間を動員して組織化したことはまちがいないけれども、通常の国家の定義には該当しないような古代の政治体である。」(P.436)
スポーツとしての政治について オルメカの事例
チャビン・デ・ワンタル 像(イメージ)に築かれた「帝国」?
(P.442)__神が顔をもつのは、人間が考えたから。
「それ以外にも、まちがいなくわたしたちがまったく見落としてしまっている形象もあるはずだ。最も基本的な形態であっても、ある程度学習してからでないと、素人目にはわからない。」(P.442)__見る(すくなくとも2次元的な形を見る)ということは、文化的な決まりがある。たぶん三次元の物体についても同じだろう。雲や石ころが犬や象に見えるのは、多分、その文化が「犬」「象」という概念を持っているからだ。
「この伝統においては、イメージは説明や表現のためのものではない。並々ならぬ記憶の妙技のための視覚的手がかりとしての役目をはたしているのだ。」(P.443)__ソクラテス、文字、記憶、ムネモシュネ。何かがきっかけで思い出すこと。
53「チャビン・デ・ワンタルの石彫は、本来は刹那的である意識の変容のような体験を永続させることに主眼が置かれているようにおもわれる。」(P.445)
「わたしたちはこれらの社会を「第一次レジーム firstoder regimes 」と呼びたい。なぜなら、これらの三つの基本的支配形態のうちのひとつ(チャビンのばあいは知の統制、オルメカのばあいはカリスマ政治)を中心に組織されており、それ以外の二つの支配形態は相対的に無視されているようにおもわれるからである。」(P.446)
「いつものように、こうした資料を扱うさいには慎重を期す必要がある。これらの資料はヨーロッパ人の観察者の手になるなるものだからだ。かれらは独特の偏見をもっていただけでなく、かれらの描く社会のほとんどが、みずからもたらした壊滅的混乱にすでに巻き込まれていたからである。」(P.446)__As always, we must be careful with such sources, since they are written by European observers who not only brought their own biases but tended to describe societies already enmeshed in the chaotic destruction that Europeans themselves almost invariably brought in their wake. (P.396)
「国家」なき主権について
「神々(あるいは神)が道徳に拘束されることはないと考えられているように というのも、そもそも善悪を超えたある原理だけが善と悪を想像しうるのだから 「神聖(ディヴァイン)王」を人間の観点から判断する[裁く]ことはできない。身の周りのだれに対してもほしいままに暴力的にふるまうこと自体が、かれらの超越的地位(ステイタス)を証明するのである。しかし同時に、かれらは正義の体系の創造者であり、執行者であるともくされている。ナチェズもそうだ。〈偉大なる太陽〉は太陽の子の子孫であって、普遍的な法規範を携えて地上にやってきたといわれている。その法規範のなかでも最も顕著なのが、窃盗と殺人の禁止である。しかし、〈偉大なる太陽〉自身は、定期的にそれらの法を派手に破っていた。あたかも、みずからは法に先立つ原理と一体であって、それゆえにみずからに報創造の権能のあることを証明するかのように。」(P.448)__ヤクザよりも半グレに近い。
「ルネサンス期の「絶対主義的」君主、ヘンリー八世やルイ一四世でさえ、権限の移譲、つまり臣下が王の代理人に対し、王自身に対するのと等しい敬意や服従をもって接するよう説得するのに大変な苦労をしたものである。」(P.449)
「いっぽうで〈偉大なる太陽〉の権力は、その直接の現前の範囲内では、もっと絶対的であったが(ルイ[一四世]は指を鳴らすだけでその場でだれかの処刑を命ずることはできなかった)、この権力を[みずからの現前を超えて]拡張させる力能という点では劣っていた(ルイは、近代的国民国家に比べればかなり限定的ではあるものの、自由に使える行政機関をもっていた)。」(P.449)
「歴史の大部分において、これが主権の内的力学であった。かたや統治者は、みずからの権力の恣意性を確たるものにしようとする。かたや臣民たちは、単純に王を完全に避けるのではないかぎり、統治者の神の如き存在を、はてしない儀礼的制約の迷路によって囲い込もうとする。そして、手の込んだその迷路に搦め取られた統治者は、実質的に、宮殿に幽閉されてしまうのだ。」(P.450)
「たとえば、そのようなレジームが移動の自由に大きな制約をかけていたと考える根拠はほとんどない。ナチェズの人びとが〈偉大なる太陽〉の近くから単純に離れようとしたとしても(かれらはたいていそうしたわけだが)、それが妨害されることはなかったようだし、主権者が直接現前する範囲(きわめて狭く制約されていた)を超えて、命令を与えたり受けたりするということがおこなわれていた様子もない。」(P.451)
「最後に、このような第一次レジームが、自由の第三の基本形態である、(季節的にであれ恒久的にであれ)社会的関係を変化させたり新たに組み立て直す(リニゴシエイト)自由に対して与える影響について検討する必要がある。もちろん、これはきわめて評価が困難である。こうした新しい形態の権力のほとんどが、あきらかに季節的要素を有していた。それは、確実である。ストーンヘンジの制作者たちがそうであったように、一年のある時期になると、権威を構成する社会的装置全体が溶解し、事実上消滅してしまうのであるから。」(P.453)
古代エジプトの起源において、いかにケアリング労働、儀礼的殺害、「小さな泡」がすべて集合したのか
「この大量殺戮のパターンはおどろくほど一貫している。ほとんど例外なく、新帝国や新王国建設の最初の数世代の特徴なのだ。」(P.455)
「つまり、すべての王の臣下がすくなくとも王のケアをするために働いているという程度には、王家の一員として想像されるシステムである。赤の他人を王家の一員にすることと、その赤の他人自身の祖先を否定することは、究極的にはおなじコインの裏表のようなものだ。いいかえれば、親族関係を生産するための儀礼が、王権を生産するための方法になるのである。」(P.458)__王の手足としての臣下。アテネ。
「非常にざっぱくな一般化をおそれずにいえば、中近東の新石器時代(肥沃な三日月地帯)では、文化的焦点 装飾芸術やケア、配慮(アテンション)という意味で は、家(ハウスィズ)におかれていたが、アフリカでは身体(ボディーズ)におかれていた。」(P.459)
「実は、そのように非常に早い時期から、ナイル社会では人体そのものが一種のモニュメントとなっていたのだ。」(P.460)
「農耕と儀式の二つの過程は相互に強化し合ったのであり、その社会的効果は画期的なものだった。実際、それらの過程こそ、世界初の農民(ペザントリー)とみなしうる人びとの形成をもたらすのである。」(P.462)
「このような資源を確(FF)保することができない家族は、ビールやパンを別の場所で手に入れなければならず、そこで義務や負債のネットワークが形成される。もはや無視できない階級の区分と従属の関係が生まれはじめた。エジプトの人口のかなりの部分が、祖先をだれにもたよらずケアする手段を失ったからである。」(P.462-463)
「つまり、臣民を大いな(FF)る社会的機械に仕立て上げ、そのあと大衆的なお祭り騒ぎによって[その労苦を]称えたのである。」(P.464-465)__手足の労苦を称える。
「ここにはあきらかに逆説(パラドクス)がある。ケアリング労働は、ある意味、機械的労働と対立している。ケアリング労働においては、子どもであれ大人であれ、動物であれ植物であれ、ケアする相手のユニークな資質、ニーズ、特殊性が認識され理解され、その相手の発展に必要なものが提供される。ケアリング労働は、それが帯びている特殊性/個別性という性質によってきわだっているのだ。今日、わたしたちが「国家」と呼んでいる組織になにか共通の特徴があるとすれば、ひとつは、このケアリングの衝動を抽象的なものに置き換えようとする傾向である。この抽象的なものは、広く定義しようが狭く定義しようが、いまでは(FF)「国民(ネーション)」と呼ばれている。」(P.465-466)__介護ロボット。ニーズを抽象化(数値化)。
95「工場システムに典型的な労働の「合理化」は、Eric Williams [エリック・ウィリアムズ]のような研究者がずっと以前に示唆したように、一七世紀と一八世紀の奴隸プランテーションで実際に開発されたものである。古代エジプトが近代国家の原型のようにみなされやすいのも、このためであろう。というのも、古代エジプトでもまた、人びとの献身は、支配者や死者であるエリートのような壮大な抽象にふりむけられていた。このような過程が、全体の組織(アレンジメント)を、家族としてのイメージとともに機械としてのイメージとしても想像することを可能にするのである。そして、そこにおいては万人が究極的には交換可能だった(もちろん王を除く)。」(P.465-466)
(エジプトとペルー)「この二つの社会は、都市生活に対する反感も共有していた。両社会の首都は、王室の展覧のための祭祀センターであり、定住者はほとんどいなかった。」(P.466)
ここでは、中国からメソアメリカまで、一般的に「初期国家」と呼ばれるもののあいだの差異が考察される
(エジプトとインカ)「ところが、このようなアプローチを(FF)とった「初期国家」はこの二つ以外にはほとんどみられないようなのだ。」(P.466-467)
(メソポタミア)「このようなばあい、王はみずから神としてふるまうことはほとんどなく、神々の代理人、ときに神々の地上における英雄的守護者としてふるまった。要するに、本来は天井に存する主権の代理人であったのだ。(中略)主権は、最終的には神々にのみ属していたのである。」(P.467)
100(ハンムラビ法典)「しかし実際には、こうした法令のほとんどが制度的に施行されてはいなかったようにおもわれる。バビロニアの臣民は、それまでとおなじように伝統的な法規範と慣行を複雑に組み合わせて使用しつづけたのである。」(P.469)
「しかし、古王国時代のエジプトとインカ・ペルー、殷のあいだには、重要な点でほとんど共通性がみられない。まず、殷の支配者は、広域に及ぶ主権を主張しなかった。応急より離れすぎない、黄河の中下流域に集中した狭い範囲の所領地の外では、命令をくだすことはおろか、安全に移動することもできなかったのである。そこでも、かれらがエジプトやペルー、マヤの支配者とおなじような意(FF)味で主権を主張していたわけではないという印象はいなめない。その最も明確な証拠は、中国の初期国家における占いの重要性だ。それはこれまでみてきた他のほとんどの事例と、あきらかに対象的なのである。」(P.469-470)
106「新王国時代以前のエジプトでは占いの利用は限定的であり、インカの統治システムにおいては両義的な役割を担っていた。 Gose 1996: 2 が説明するように、インカのばあい、予言者のパフォーマンスは、現存する王のパーソナルな権威と対立するものであった。」(P.471)
「もっと一般的なのは、あくまで統一も名目上のものにすぎなかった殷の中国のような組織法である。」(P.471)
「オルメカ、チャビン、ナチェズのような第一次レジームは、それぞれ三要素のひとつだけを発展させたのである。しかし一般的にははるかに暴力的である第二次レジームの組織(アレンジメント)は、三つの支配原理のうちの二つを、めざましい前例のない方法で統合していた。それがどのような組み合わせであったかは、事例によって異なっている。エジプトの初期の統治者は主権と行政を組み合わせ、古典期マヤのアハウは英雄政治と主権とを融合させていた。
ここで強調しておきたいのは、いずれの事例にあっても、これら三つの原理のどれかが、原基形態において、いっさい存在しないということはないという点だ。実際に[それらの第二次レジームにおいて]みられるのは、二つの原理が制度的形態に結晶化し、たがいに融合して統治の基礎として強化し合ういっぽうで、三つ目の原理は、人間世界からは排除され、非人間的宇宙へと転移されている、といった事態である(初期王朝時代のメソポタミアにおける聖なる主権や、古典期マヤにおける宇宙的官僚制のように)。」(P.472)
ここでは、エジプトの例が支配の三原理に照らして再考されるとともに、「暗黒時代」の問題が再検討される
「エジプトの王権は、しかしながら、相反する二つの顔をもっていた。内なる顔は、広大なる拡大家族 「大いなる家(グレート・ハウス)」(「ファラオ」の字義通りの意味) を見守る至(FF)高の家父長、外なる顔は、荒々しい辺境地帯を支配する戦争指導者や狩猟リーダーとしての王の描写にあらわれている。王が暴力をふるえば、すべてが格好の獲物となった。しかし、これは英雄的暴力とはまったく異なっている。ある意味では、その対立物でさえある。英雄的秩序にあって、戦士の名誉は負ける可能性があるという事実なしにはありえない。」(P.472-473)
ここでは、官僚制の真の起源を探り、意外にも小規模なスケールのところにそれを発見する
(古代エジプト)「わたしたちが支配の第二レジームと呼んできたもののなかで、年代的に最も早いということだけが理由ではない。ずっとのちのインカ帝国を除けば、主権と行政管理の二つの原理が合流した唯一のケースだらからである。」(P.476)
「とはいえ、一点だけ、ウルク時代のメソポタミアのような社会が、商業的であると同時に官僚制的であったことは偶然ではないことを指摘しておきたい。貨幣も行政管理も非人格的な等価性という同じ原理にもとづいている。ここで強調したいのは、最悪の暴力的な不平等が、初発には、このような法的平等のフィクションから生じることがいかに多いかという点である。」(P.484)
「ここで重要なのは、このような平等が、人間(そして物)を交換可能なものにし、その結果、支配者やその取り巻きが、被従属者のそれぞれに固有の状況を考慮することなく非人格的要求をつきつけることが可能になったという事実である。(中略)農村ですごしたことのある人や、大都市の市議会や教区議会で働いたことのある人ならだれでも知っているように、このような不平等を解決するには、何時間も、ばあいによっては何日も退屈な議論をしなければならないかもしれないが、ほとんどにおいて、誰もがまったく不当だとは思わないような解決策にたどり着くことができるのである。」(P.485)
「本書を通して、わたしたちは、しばしば、人類史のほとんどにおいて、自明のものと想定されていた三つの原初的自由、すなわち、移動する自由、服従しない自由、社会的関係を創造したり変化させたりする自由についてふれてき(FF)た。また、英語の ' free ' [自由]という言葉が、ゲルマン語で ' fruebd ' [友人]を意味する言葉に由来していることにもふれてきた。自由人とは異なり、奴隷は誓いを立てること、つまり約束することができないために、友人をもつことができないのである。困難な状況から物理的に逃走することが第一の自由の最も基本的な要素であるのと同様に、約束をする自由は第三の自由の最も基本的で最小の要素といえる。実際、人類の言語で記録されている最も古い「自由(フリーダム)」にあたる言葉は、シュメール語の「アマ(ル)ギ ama(r)-gi 」であり、「母のもとに帰る」という意味である。」(P.485-486)
「人間の自由のなかで最も基本的である約束をしたり誓いを立てたりして人間関係を築く自由が、どうして正反対のもの、すなわち、債務奴隷、農奴、あるいは永久奴隷に転じてしまったのか、疑問がわきおこってくるだろう。述べてきたように、それはまさに、約束が非人格的で譲渡可能なものになったとき、一言でいえば「官僚制化」したときに起きるものなのだ。」(P.486)
「貨幣が約束に対するのとおなじように、国家官僚制がケアの原理に対しているといえるのかもしれない。いずれのばあいも、社会生活の最も基本的な構成要素のひとつが、数学(マス)と暴力の合流によって撹乱させられるのである。」(P.486)
ここでは、あらたな知識による武装をすませたあと、いくつかの社会進化の基本的前提が再考される
「いずれにしても、既存の文献は、複雑性が上昇し、ヒエラルキーが生まれ、国家形成にいたる、という単一の説話に執拗に焦点を当てているため、「国家」という言葉をそれ以外の目的で使用することはきわめてむずかしくなってきた。」(P.487)
「現在の社会構造のある顕著な特徴が、端的に過去に投影され、(それが不在であるという決定的証拠がないかぎり)社会がある程度複雑になった時点で、それが存在すると推定される。」(P.487)
「たしかに、それ[農業の余剰が支配的な専門家集団を生みだす]は説得力のある物語である。現在のわたしたちの状況にあてはめれば、まったくその通りなのだから(すくなくとも、いま食料品の生産や流通に携わっているのは、ごく一部の人間にすぎない)。(中略)戦争は主に農閑期にやるものだった。実際、古王朝時代のエジプト、殷の中国、初期王朝時代のメソポタミア、さらには古典期アテネのほとんどの統治機関で働いていたのは、別のときには、農村の土地管理者、商人、建築家など、さまざまな職に就いている人びとであった。かれらが、交替制(ローテーション)でつとめていたのである。」(P.488)__食料生産(流通)が専門化しているとも言える。サブシステンスにかかる労働は、生産性が上がっているにも関わらず変わらない。いまはそれ以外の仕事をさせられているのだ。
「エジプトのピラミッドのようなモニュメントもおなじような目的をもっていたようだ。 それらは、ある種の権力 ピラミッドが建設されている数カ月間だけ真に姿をあらわすような権力 を永遠のものにみせようとする試みだったのである。」(P.490)__たぶん多くの人は、社長が偉いと思っていないし、総理大臣が偉いとも思っていない。その社会でも、それを表明する人は少ないが。建前と本音、それを永続化しようとする物理的装置、視覚文化においては目に見えるもの、形のない国家というものが存在する。「法則」が存在する。文字文化。「〜である」と「〜がある」の混同。「ピラミッドが存在する」=「国家・権力・王(王権)」が存在する。
「現代社会であれ古代社会であれ、権力の実態を理解するには、エリートができると主張することと実際にできることのあいだにあるこのギャップを認識する必要がある。」(P.490)
「近代国家とは、たんに支配の三原理がたまたま合流したひとつのありようにすぎないのだ。」(P.491)__三つの原理すら、近代国家のあり様から仮定したものに過ぎず、過去の社会には別の原理があったかもしれない。それを想像することはむずかしいが。すくなくとも、社会の原理はかぎりなくあるのだから。今の社会を表現する単語は多くあるが、言語化されないもののほうが多い。過去や未来の社会(人の在り方)を説明する言語は、たぶんないだろうが、それは過去や未来を理解(想像)できないということではない。しかし、それは個人、あるいは社会の希望であって、その希望が社会(あるいは権力)によって作られている可能性、つまり、自分の都合のいいように創られた希望である可能性のほうが高いかもしれない(社会主義の可能性など)。すくなくとも個人をベースに社会を考えるという思考方法そのものから逃れる可能性を、過去ではなく現在に(現在の言語、あるいは言語化されない現在に)見つける必要がある。
「先に述べたように、現在、地球規模の官僚機構(IMFやWHOから、JPモルガン・チェースや各種格づけ機関まで官民を問わず)が存在しているが、それに対応する世界主権の原則や世界的競合政治の場はなく、暗号通貨から民間のセキュリティ機関まで、あらゆるものが国家の主権を侵食している。」(P.491)__Nota Bene!!
136「みずからの臣下を殺すことができるということは、臣下たちに命を授けているということに等しいという、気ままな権力を手に入れたい多くの人間に共通する錯覚によっておもいあがるのである。」(P.491)__トランプ。
コーダ 文明、空虚な壁、そしていまだ書かれざる歴史について
「文明とは、世界秩序の理想であれ、天命であれ、飽くなき神々の祝福であれ、つねに手の届かないもののために基本的な三つの自由、そして人生そのものを犠牲にすることに等しいのだ。」(P.492)
「ひとつの問題は、「文明」とは起源において、端的に「都市で暮らす習慣」であると、であると、わたしたちがおもい込んでしまうようになったことだ。ひるがえって、都市とは国家を含意しているともみなされてきた。しかし、これまでみてきたように、歴史的にも、語源的にもそうではない。「文明」という言葉は、ラテン語の civilis に由来しているが、これは実際には自発的連合による組織化を可能にする政治的知恵や相互扶助の特性を意味している。」(P.492)__Nota Bene!!
The word ‘civilization’ derives from Latin civilis, which actually refers to those qualities of political wisdom and mutual aid that permit societies to organize themselves through voluntary coalition. (P.434)
「この本を通して示してきたように、世界のあらゆる地域で、小さな諸共同体が、本当の意味での拡大したモラル共同体としての文明を形成していたのである。」(P.492)
「すこし考察をくわえてみるなら、このようなより正確に理解された文明の中核に、女性、女性の仕事、女性の関心事と女性による革新(イノヴェーション)があることがわかる。」(P.493)
「それよりもむしろこれらは、織物やビーズ細工の立体幾何学や応用微積分のような具体的実践のなかで、以前から蓄積されてきた知識である可能性が高い。これまで「文明」と呼ばれてきたものは、実は、女性を中心とした以前の知的体系を、男性がジェンダー的に流用し、その主張を石に刻み込んだものにすぎないのかもしれないのだ。」(P.493)
What until now has passed for ‘civilization’ might in fact be nothing more than a gendered appropriation – by men, etching their claims in stone – of some earlier system of knowledge that had women at its centre.(P.435)
「他方で、男性の描写の多くが、しどけない姿ないし裸のアスリートである(ミノア美術には女性の裸体は描かれていない)が、あるいは貢納を持参したり、女性の高官の前で従順なポーズをとったりしている。」(P.496)__現代において、そういう絵があったとして、それを描いた人が女性に従順だったかどうかはわからない。
「ここに意外なものはない。というのも、ギリシア本土の宮廷社会は既存の都市からではなく、ミケーネの初期竪穴式墳墓をもたらした戦士貴族から生まれたものだからである。かれらを特徴づけるのは、呪術的な黄金のデスマスクや、男性戦士や狩猟団の姿が象嵌された武器である。」(P.497)
148「Evans はこう述べている。「ミノア文明の偉大な時代の頃に、いくら男性的要素が政府の領域にあらわれていたとしても、宗教の刻印は依然として社会発展の古い母系的段階を反映していたことは確かである」」(P.497)
「ミノアのクレタ島からえられる証拠のほとんどが、女性による政治的支配のシステムの存在を示唆している。つまり、事実上、女祭司の集団によって統治されている。」(P.498)
「実際、権力がその範囲を拡大する多様な方法には、論理的にも歴史的にも制約があるようだ。この制約が、主権、行政管理、競合的政治の「三原理」の基礎である。」(P.500)__貨幣の「貨」は意符の「貝」と音符の「化」からなっています。「お金」または「お金と取り換えるたから」の意味だそうです。「貝」は宝貝に由来する象形文字と言われています(Wikipedia「タカラガイ」)。宝貝(子安貝)がお金( money )だとしましょう( money の語源はわかりません)。みんな、毎日「宝貝」を採りに行くでしょうか。行くとは思えません。なぜなら、日常で宝貝を使うことはなかったし、持っていても使わなかったでしょう。「使えなかった」ということです。また「金 gold 」だったとしましょう。このほうが現実味があると思うのですが、それでもやはり、毎日金を掘りに行くとは考えられません。ところが現代はどうでしょうか。毎日「お金」を稼ぎに行っています。それは「当たりまえ」でも「普遍的」なことでもないことは明らかです。
第11章 ふりだしに戻る(フルサークル) 先住民による批判の歴史的基盤について
「本書の出発点は、ウェンダット族の政治家カンティアロンクと一七世紀に北アメリカ先住民によって展開されたヨーロッパ文明への批判であった。(中略)そして、そのバックラッシュによって、人類史の進化論的枠組み、すなわち今日にいたるまでほぼ手つかずの思考の枠組みが誕生する。歴史を物質的進歩のストーリーとして描きだすことで、この進化論的枠組みは、先住民の批判者たちを無垢な自然の子と位置づけ直す。かくして、かれらの自由についての見解も、未開の生活様式の副産物にすぎないもの、それゆえ現代の社会思想(それはますますヨーロッパの思想だけを指すようになる)にとって取るに足らぬものと片付けることができるのだった。」(P.502)
「いうまでもなく、人間社会は時とともに進化するといった発想そのものは、とくに一八世紀に特有というわけでもヨーロッパに特有というわけでもない。」(P.502)
「人間社会の進化の過(FF)程にまつわる「ありふれた(ジャスト・ソー)」ストーリーで目が曇っているため、目の前の事態の半分もみることができないのだ。
自由、民主主義、女性の権利が相対的に強かったはずの過去を、依然として「暗黒時代」と断じている。そんなことが可能であるのも、そのためである。同様に、これまでみてきたように、「文明」という概念は、いまだ主に、横暴なる独裁体制、帝国による征服、奴隷労働の使用などを特徴とする社会を指して用いられている。」(P.504)__「自分(自我、 ego )」を中心に考え、そこから考えると、自分=現在が「良く=正しくなければならない」のだ。
ここでは、ジェームズ・C・スコットの過去五〇〇〇年にかんする議論が検討され、現在のグリーバルな社会組織が本当に必然的なものであったかどうかが問いかけられる
「つまり、この過程のなかで、そうした国家は集約的農業に適した地域に緊縛されてしまうし、周辺の高地、湿地、沼地は、ほとんど手の届かない領域のままになってしまうからである。さらにいえば、そのような限られた範囲内であっても、穀物を基盤とした王国は、なお脆弱であった。人口過剰、生態系の破壊、そして、人間と家畜、寄生虫などが一ヶ所に集中すると必ずや発生するであろう感染症などの重圧に耐えられず、つねに崩壊と紙一重の状態に置かれたのである。」(P.506)
「モンゴルの格言にいうごとく、「王国を征服することには馬に乗ってできるが、支配するためには馬を降りなければならない」。」(P.506)
「おおよそ五〇〇年ほど前までは、世界の人口の大部分が、いまだ徴税人の目の届かないところに住んでいるか、比較的簡単な方法で徴税を逃れることができたのだ。」(P.507)__徴税されるのは、人間だからである(動植物や自然は搾取されるだけ)。税は生きるための税(露骨なのは消費税)。徴税されるということは、「人間」として認められるということ。日本でその感覚ができるのは、普通選挙と民主主義、幻想としての自由(とその制限)ができてからだ。徴収する側は「人間」ではない。イザヤ・ベンダサンの日本宗教。
「進化論の問題点は、たがいに共生しながら発展してきた生活様式を、人類史のなかで別々の段階に再構成してしまうことである。」(P.507)__現代においてもさまざまな生活様式が並存しているが、それが世界的な支配ー被支配の関係、搾取関係になっている。そして、搾取の必要なしと考えられる地方は、存在するら認められていない。それはないものとされるか、なきものにされる。
「それゆえ、考古学者や人類学者ではない人たちが、大きなスケールで世界史について考えたり書いたりしようとすると、ほとんどのばあい、古いスキームに舞い戻ってしまうのである。」(P.508)
バンド社会:
部族:
首長制:
国家:
(首長)「賭はいえ、かれらが資源の大規模な再分配をおこなうことはめったになく、たとえあったとしてもすくなくとも組織的な仕方[気まぐれでない仕方]ではない。」(P.509)
「その支離滅裂をいくど指摘されようと、このような思考法がしつこく残っているのは、まさに目的論的でない仕方で歴史を想像すること、つまり、現在の社会の組織法がなんらかの必然性をもっていることを暗示しないような方法で歴史を把握することがきわめて困難だからである。
すでに述べてたように、歴史の只中に生きることの最も厄介な局面のひとつは、未来の出来事の成り行きの予測がほとんど不可能であるということだ。しかし、いったん出来事が起こってしまうと、なにか別のことが「起りえた」ということすら考えることができなくなってしまう。正しく歴史的といえる出来事には、おそらく二つの性質がある。事前に予測することができないということと、一度きりしか起こらないということである。」(P.510)__前者は世界共通。後者は西洋キリスト教的。
「比較することで、すくなくとも、どのようなことが起こりうるかを知ることができるし、あわよくばある出来事がある出来事につづいて起きるパターンの傾向を知ることができる。ただし、問題は、イベリア半島人[スペイン・ポルトガル人]によるアメリカ大陸の侵略と、それにつづくヨーロッパの植民地帝国の形成以来、それが実質的に不可能になったということだ。なぜなら、それ以来、政治・経済システムは究極的には一体となり、全世界的(グローバル)なものとなったからである。たとえば、近代国家、産業資本主義、癲狂院[精神科病院]の普及が、世界のある地域でたまたま合流しているのかを検討したいと考えても、端的に判断材料がない。この三つの現象は、地球が事実上単一のグローバルシステムである時代に発生したものであり、わたしたちはこれを別の惑星と比較することはできないのた。」(P.511)
「いまからおよそ一世紀前、ドイツのカール・ヤスパースは、今日わたしたちがしている思弁的哲学の主要な流派はすべて、前八世紀から前三世紀のあいだのほぼ同時期に、ギリシア、インド、中国で独立して誕生していると指摘した。ヤスパースはこの時期を「枢軸時代」と呼んだが、かれ以降は、ペルシアの預言者ゾロアスター(前八〇〇年頃)からイスラームの出現(前六〇〇年頃)まで、今日の世界宗教が誕生した時期をふくむ用語として拡張された。ヤスパースのいう枢軸時代の中核にあたる時代 ピタゴラス、釈迦、孔子が生きた時代を包摂する は、金属貨幣の発明や新しい形態の思弁的哲学が生まれただけでなく、それまでほとんど存在しなかったユーラシアの諸地域まで動産奴隷制度が普及した時代でもある。さらに、枢軸時代の帝国(マウリア朝、漢王朝、パルティア帝国、ローマ帝国)が相次いで崩壊したあと、動産奴隷制度は、それまでの貨幣制度とともに、後退していくことになる。」(P.512)
「それまでのあいだ、わたしたちがある程度の確信をもっていえるのは、一六世紀以降ヨーロッパからの侵略者が遭遇した社会は、何世紀にもわたる政治的対立と自覚的な議論の産物であったということだ。これらの社会は、その多くが、自覚的な政治的議論をおこなう能力そのものを、人間の最高の価値のひとつと考えていた社会だった。」(P.514)
11「Severi 2015 は、北アメリカの先住民の間で絵文字システムが使われていた証拠について論じ、かれらが「口承」社会であるとするのは多くの点で誤解を招くと述べている。」(P515)
「「夢占」はしばしば集団でおこなわれ、夢主の欲望を字義通りないし象徴的に実現するには、共同体全体を動員することもあった。ラグノーの報告によると、ウェンダットの町の冬の数カ月は、重要人物である男性や女性の夢を文字通り実現するために、集団で宴や劇を催すことにかなりの時間を捧げていたようだ。」(P.516)
ここでは、北アメリカのどの程度が統一された単一のクラン・システムをもつようになったのかが問われ、「ホープウェル交流圏」の役割が考察される
「すでに述べたように、タートル・アイランド(先住民による北米大陸の呼称)のほぼ全域に、同一の基本的なクラン名の一群が分布してることがわかっている。地域的差異は果てしなく存在していた。だが、それと同時に一貫した縁組関係も存在した。そのため、現在のジョージア州に住む、クマ、オオカミ、タカのクランの出身者が、オンタリオやアリゾナまで旅をしても、その中間のほとんどの地点で受け入れ先をみつけることができたのである。北アメリカではまったく関係のない(FF)六つの語族に属している文字通り何百もの異なる言語が話されていたことを考えると、このことはさらにおどろくべきものがある。」(P.516-517)__Nota Bene!! 言葉ができたのは、人類が親族関係、社会関係を持ったあとのことだといえるかもしれない。
「また、ひとつの共同体がひとつのクランだけで構成されているわけでもない。通常はかなりの数があり、二つ(つまり半族)にグループ分けされて、たがいにライバルとして振る舞い、スポーツで競い合ったり、死者を埋葬し合ったりして、相互に補っていた。それによって、個人の歴史を公的な文脈から消去するという包括的効果がもたらされた。つまり、名前が[同時に]称号であったがゆえに、共同体の片方のトップはつねにジョン・F・ケネディ、もう半分はつねにリチャード・ニクソンであるかのようになったのである。このような称号と名前の融合は、北アメリカ特有の現象である。このような現象は、形を変えてタートル・アイランドのほとんどの場所でみられつが、世界のそれ以外の場所ではどこにも見当たらないのだ。」(P.517)__歌舞伎など。「代目」がつくから違うのかな。
「しかし、ポヴァティ・ポイントの土塁のような巨大構造物は、あきらかにその事例には該当しない。これらはゆっくりとした積み重ねではなく、事前に計画されたものなのである。」(P.519)
「はっきりしているのは、一年の大半で、これらの場所が、ほとんどないし完全に無人であったということだ。」(P.520)
「とすると、ゲームも埋葬も、あきらかに富の蓄積を阻害する傾向があったことになる。もっと正確にいえば、社会的差異を主に劇場的領域にのみ封じ込めておくことを保証するものであったことになる。」(P.522)
アメリカには1世紀以上もゴルフ場として使用されてきた世界遺産があります。
2024年に入っても会員は世界遺産の土塁群を利用したホールでゴルフを楽しむことができました。
世界遺産「ホープウェルの儀礼的土塁群」の8件の構成資産のひとつである「オクタゴン・アースワークス」です。
この場所には古代ホープウェル文化の遺構である土塁群があるのですが、1910年からゴルフ場として利用されてきました。
しかし、裁判と和解を経て、本年をもってゴルフ場としての使用を終了することになりました。
そして年明けの2025年1月1日より遺跡としての一般公開がはじまります。「ホープウェルの儀礼的土塁群」が世界遺産リストに登録されたのは2023年のことです。
そうすると登録時も裁判が進行中で、ゴルフ場として使用されていたことになります。
上の動画を見ると、小さな円形の土塁の内部がグリーンになっており、中心にカップが設けられています。
世界遺産のグリーンなんていう、とんでもないことになっていたんですね。(世界遺産ナビpamon)
ここでは、アメリカで最初の「国家」になりそうなカホキアのストーリーが語られる
「どのような要因の結合があったにせよ、一三五〇年ないし一四〇〇年ころには大量の離反が発生した。カホキアの大都市は、多様な人びとを、しばしば遠距離から集める支配者の力能を通して築かれた。今度は逆に、それらの人びとの子孫が、端的に立ち去ってしまったのである。「空白地帯」は、カホキアの都市が象徴していたすべてのものの自覚的拒否を意味している。」(P.533)
「そこでは、離脱すること、服従しないこと、あたらしい社会的世界を構築することという、わたしたちの三つの基本的な自由が、単一の解放のプロジェクトに統合されているのである。(中略)(FF)この地域には、人の住んでいない土地が広がっていたため(しばしば遺跡や彫像は残されているが、その制作者たちはとうの昔に忘れ去られている)、集団による移住はむずかしいことではなかった。わたしたちがいま社会運動(ソーシャル・ムーヴメントとよんでいるものは、多くの場合、[この時代には]文字通りの物理的移動(フィジカル・ムーヴメント)というかたちをとっていたのである。」(P.533-534)
ミシシッピ世界の崩壊とその遺跡の放棄とが、ヨーロッパ人が侵入してきた頃の、あたらしい形態の先住民の政治への端緒を開いたことについて
53「一八世紀に南東部にあらわれた先住民的諸形態の共和政体もまた、自然とのある種の関係を前提としていたが、それはけっして調和のとれた関係ではなかった。最終的にはそれは、戦争の関係だったのである。植物は人間の同盟者であるが、動物は敵である。適正な儀礼の手続きにしたがわず獲物を殺すことは戦争法に違反し、その報復として動物は人間の社会に病気を送り込んでくる。しかし同時に、狩猟といういとなみは、とくに男性にとっては、個人の自由というある種の理想を表現するものと理解される傾向があった。」(P.537)
「これまで述べてきたように、北アメリカの社会は、一部の例外を除いて、低い出生率と人口密度を特徴としていた。これが、移動を促進させ、農耕民が狩猟・漁撈・採集を中心とした生存様式に戻ること、あるいは端的に完全な移住をたやすくしたのである。いっぽう、女性はといえば、政治的役割をより強く担うようになった。これは、一般的に女性が、(男性)権力者から子づくりの機械としかみなされず、妊娠や育児をしていないときは紡いだり織ったりの工業的作業に従事していた、スコットのいう「穀物国家」とは対照的である。」(P.536)
59「多くの点で、当時の信仰世界経済(最初は香辛料貿易、つぎにドラッグ、武器、奴隷貿易を基礎とした)の基礎でもあった、ヨーロッパで台頭してきたソフト・ドラッグの使用法は、[先住民のそれとは]かなり異質なものであった。というのも、その使用法は、あたらしい労働の組織法にむすびついていたからである。中世には、ほとんどすべての人間がワインやビールのような軽い酩酊物質を日常的に摂取していたが、あたらしい体制では、仕事を促進するための軽いドラッグ(とくにタバコと並んで砂糖摂取のための媒体として利用されたコーヒーや紅茶)と週末用の強い酒とが分裂していった」(P.539)
のちにモンテスキューの『法の精神』で称賛されることになる自己構成原理を、オーセージ族はどのようにして体現するようになったのか
「ところが、つい最近を考えてみても、官僚になるための資格が、たいてい実際の行政活動とはほとんど実質的関係をもたない知に依拠していることを想起するなら、見方は変わってくる。むしろ、難解なる知だからこそ重要なのである。だから一〇世紀の中国や一八世紀のドイツでは、官僚志願者は、古語や死語で書かれた古典文学に精通しているかどうかの試験に合格しなければならなかった。いまでは、合理的選択理論とかデリダの理論についての試験をパスしなければならないように。行政技術は、試験をパスしたあと、練習、見習い、インフォーマルな指導といったもっと伝統的な方法によってのみ学ぶことができるのだ。」(P.540)
「というのも儀礼的プロジェクトにともなう英雄ゲームも、実のところ組織的支配の基盤などではまったくなかったのだから。」(P.540)
「第二に、政治的事象のなかで聖なる知が重要な役割を果たすと考えていたオーセージでさえ、みずからの社会組織を天から与えられたものとは考えておらず、むしろ法や知の発見 あるいはブレイクスル ーの積み重ねと考えていたという点。
なぜなら、すでに述べたように、わたしたちは、みずからの制度的組織法を自覚的に構成する人間という観念そのものが、主に啓蒙主義の産物であるという見方を自明視しているからである。」(P.546)
The second is that even the Osage, who ascribed key roles to sacred knowledge in their political affairs, in no sense saw their social structure as something given from on high but rather as a series of legal and intellectual discoveries – even breakthroughs.(P.482)
「モンテスキューの熱心な読者であったアメリカの建国の父たちは、個人的自由の精神を保持しうる憲法[政体]を構築するさい、自覚的にモンテスキューの理論を実践に移そうとしたのである。かれらはそこから生まれた政体を、「人の国ではなく、法の国」と呼んだ。」(P.547)
The Founding Fathers of the United States, all avid readers of Montesquieu, were consciously trying to put his theories into practice when they attempted to create a constitution that would preserve the spirit of individual liberty, and spoke of the results as a ‘government of laws and not of men’.(P.482)
「具体的にだれと会ったのかはわからないが、モンテスキューは当時パリにいて、すでにこのようなテーマに取り組んでいた。オーセージの歴史家が指摘するように、モンテスキューが参加しなかったとは考えにくい。」(P.547)
ここでは、イロコイに立ち戻り、カンディアロンクが若い頃に親しんだとおぼしき政治哲学が考察される
「前にも述べたように、移動すること、服従しないこと、社会的つながりを再構築するといったかたちの自由が存在すること、そしてそれは、従順たるべく特別に訓練されていない人間にとっては(たとえば、この本を読んでいる人はそうである可能性が高い)、ごく自明とみなされる傾向にあるということである。それでも、ヨーロッパからの入植者が遭遇した社会、そしてカンディアロンクのような思想家が表明した理想は、特定の政治の歴史の産物としてはじめて理解できるのだ。ここでいう特定の政治の歴史とは、世襲的権力、啓示宗教、個人の自由、女性の自立といった問題が、いまだに自覚的な討議の対象となっていた歴史であり、すくなくともその三世紀のあいだ、全体的な方向性としてははっきりと反権威主義的であった歴史である。」(P.548)__「近代的自我」を身につけて、その「自我の自由」を求めることも大変だが(本書の著者やイリイチ)、近代的自我を身につける前に、「自己(自分)の自由」を求めることも大変である。近代的自我を身に着けた上でなければ、「自己(自分)の自由」を求めることができないなら、それは「資本主義を経ずに共産主義(社会主義)になることはできない」というレーニン主義となる。そうではないことが可能であるという「ザスーリチへの手紙」こそが、その可能性を示している。ソ連(ロシア)・中国が「(共産主義を目指す)社会主義ではない」、つまり「資本主義の変形に過ぎない」ことが明らかな現在、資本主義(個人主義)を身につけるのではなく、身につけない運動こそが重要である。アナーキズムも「個人」から出発するのではなく、個人主義を避ける運動として、国家を避ける運動として展開されなければならない。
「とはいえ、ホデノショニ、すなわちファイヴ・ネーションズ(セネカ族、オナイダ族、オノンダガ族、カユーガ族、モホーク族)の成立についてはガヤナシャゴワ Gayanashagowa と呼ばれる叙事詩が数多く残されている。この叙事詩で最も注目すべき点は、すくなくとも本論の文脈においては、政治制度を人間の意識的な創造物として表現している点である。」(P.549)
「ある社会の究極の価値意識を知りたければ、その社会が最悪の行動と考えているものをみるに越したことはないというのは、人類学上の常識である。」(P.551)__日本で最悪と考えられていることは?多分、法に違反することではない。ヨーロッパに於いては?方に違反する犯罪か、自分(良心)に違反する罪か。自分に対する罪と、他人に、あるいは社会に対する罪。
「ここで、本章の前半で述べた、抑圧された欲望としての夢にかんするイロコイの理論に戻らなければならない。この理論の興味深くも奇妙な点は、ある個人の夢をかなえることが、同じ共同体の仲間たる他者の責任と考えられていたことである。」(P.552)
「いいかえれば、北アメリカ先住民は、農耕から始まって強大な国家や帝国の台頭にいたる道筋は必然的であるとみなす進化の罠をほぼ完全に回避することができただけではなく、そうすることで、最終的には啓蒙主義の思想家たちに深い影響を与え、そして、かれらを通じて今日もなお、わたしたちのもとにある政治的感情を育んだのだ。
このいみで、すくなくともウェンダットは議論に勝利したといえるだろう。一七世紀のイエズス会のような立場に立って、人間の自由の原則そのものに反対を宣言することは、今日のヨーロッパ人にとっても、あるいはだれにとっても そこで実際にかれらがなにを考えていたにせよ 、ありえないことなのだ。」(P.559)
第12章 結論 万物の黎明
「この本は、よりよい問いを発しようという切実なる訴えからはじまった。」(P.560)
「こうなると、人間の競争を好む利己的性質を主要な動力とする「進歩」とか「文明」は、それ自体が救済となる。このような考え方は、億万長者のあいだでは非常に人気があるが、億万長者以外の人間たちにとってはほとんどなんの魅力もない。科学者にとってもそうだ。かれらはそれが事実と一致していなことを熟知しているからである。」(P.560)
「それに、西洋文明の発展により、だれもがいっそう幸福に、いっそう豊かに、いっそう安全になるという、もっとバラ色の楽観的説話には、すくなくともひとつの明白なる欠点がある。もしそんなにいいものだったら、なぜ西洋文明は自然に広がらなかったのか、なぜヨーロッパの権力者たちが五〇〇年以上もかけてよそさまの頭に銃口をむけて強制的に採用させなければならなかったのか、説明できないのだ(またもし「未開」の状態にあることが本質的に悲惨なことであるならば、情報をえたうえで選択を迫られたおなじ西洋人の多数が、なぜ機会があればすぐにでも未開の地に逃亡しようとしないのだろうか)。」(P.560-561)
「おそらく、啓蒙以降の近代人のみが、自覚的に歴史に介入し、その流れを変える能力を有していたのだろう、と、この点だけには、突如としてだれもが合意に達したようだ。たとえそうすることがよいのか悪いのかについては、激しく意見が割れたとしても。」(P.562)__Nota Bene!!
「二〇世紀のほとんどで、人類学者は研究対象の社会を、一種の永遠の現在に生きているがごとく、非歴史的観点から表現する傾向があった。」(P.563)
「歴史上の出来事は予測不可能なものだから、実際に予測できる現象、つまり、ほぼおなじようにくり返し起こりつづける現象を研究するほうが科学的にみえた。」(P.563)
「エリアーデによれば、伝統社会では、重要なことはすべてすでに起こっている。(中略)(FF)つまり、エリアーデ、いうところの伝統社会では、都市を建設したり破壊したりユニークな音楽をつくったり、めざましいことを成し遂げたとしても、結局は神話的な人物の所業とされてしまうのである。それとは異なり、歴史はどこかに向かっている(最後の日、最後の審判、贖罪)という考え方を、エリアーデは「直線的時間」と呼んだ。「直線的時間」においては、歴史的事象も、過去のみならず未来との関係で意味をもつ。」(P.563-564)__Nota Bene!!
「としたら、それにかわってありうる唯一の説明は、ほとんどの人類社会が「伝統的」になったのは比較的最近のことだと主張することである。(中略)つまり、あらゆる人間が、わたしたちが典型的に現代的なもの(FF)とみなしているような高度に創造的な方法で考え行動することの可能であった、ある種のイロ・テンポーレが、つまり創造の時が、かつて実在したのであって、かれらのその主要な功績のひとつが、将来の革新の可能性をほとんど廃絶する方法をみいだしたことにある、と。
どちらの立場も不条理であることはいうまでもない。」(P.564-565)
「社会科学は主に、人間が自由ではないこと、つまり人間の行動や理解がみずから統御できない力によって規定されている事態を研究してきた。それゆえ、人間が集団的にみずからの運命を切り開いているようにみえたり、あるいは自由そのものを表現しているようにみえたりする説明は、すべて幻想にすぎないと退けられる傾向があった。やがて「ありうべき」科学的説明によって解明されるはずの幻想にすぎないというわけだ。あるいは、もし科学的説明がえられないのであれば(たとえば人はなぜダンスをおこなうのか?)、完全に社会理論の範囲外のものとして片づけられる。これが「ビッグ・ヒストリー」の大半がテクノロジーに強い関心を寄せる理由のひとつである。人類の過去を、道具や武器の原材料によって分類したり(石器時代、青銅器時代、鉄器時代)、あるいは一連の革命的ブレイクスルーとして記述したり(「農業革命」、「都市革命」、「産業革命」)することで、「ビッグ・ヒストリー」は、テクノロジーそのものが、今後何世紀にもわたって あるいは次の予期せぬブレイクスルーがふたたびすべてを変えてしまうまで 人間社会がとるであろう形態をほぼ決定しているかのように描きだすのである。」(P.565)
「テオティワカンやトラスカルテカの人びとが都市の建設や保全に石器を使っていたのに対し、モヘンジョダロやクノッソスの人びとは金属を使っていた。このような差異が、これらの都市の内部組織や規模にきわだったちがいをもたらしているようにはみえない。また、大規模な革新(イノヴェーション)が、つねに突然、革命的に生じ、その結果、すべてのものを変えてしまうという考え方も、わたしたちの知るかぎりでの証拠の裏づけがない。」(P.566)__Nota Bene!!
「新石器時代の社会における革新は、ある天才的な男性がその孤高のヴィジョンを実現するというものではなく、主に女性たちによって何世紀にもわたって蓄積されてきた知識の集合にもとづいており、そこでは一見すると地味であるものの実際にはきわめて重要な発見が延々とくり返されていたのである。」(P.566)
「わたしたちが朝食をとるたびに、何十もの新石器時代の発明の恩恵を受けていることだってありうる。酵母とわたしたちが呼んでいる微生物をくわえることでパンを膨らませることを最初に発見したのはだれだったろう?それはわからない。だが、それが女性であること、現在のヨーロッパ諸国に移住しようとしても「白人」とはみなされない可能性が高いことは、ほぼまちがいない。」(P.566)
「通常「ジェンダー平等」と呼ばれているもの(単純に「女性の自由」といったほうがいいかもしれない)と、ある社会における革新の度合いとのあいだに正の相関関係はあるのだろうか?」(P.567)
(A・M・カホート)「かれはあるところで「最初の王は死んだ王であったはずだ」とし、かような栄誉を授けられた人物が真に聖なる統治者となるのはその埋葬においてのみである、とさえ述べている。(中略)おどろいたことに、ホカートが予測したとおり、後期旧石器時代は、主に死後にめざましい富と栄誉をえたとおぼしき人物のために慎重に計画された、壮大なる埋葬の証拠を残しているのだ。」(P.568)
「今日、わたしたちのほとんどは、オルタナティヴな経済秩序や社会秩序がどのようなものであるのか、想像することさえますます困難になっているのだから。それと対照的に、わたしたちの遠い祖先は、そうした複数の秩序のあいだをたびたび往復していたようにみえるのだ。」(P.569)
「しかし、わたしたちにとって忘れてはならない重要なポイントは、ここでは「自由」を抽象的理想とか形式的理念(「自由・平等・友愛」のようなもの)として語って(FF)いるのではないということである。これまでの章では、人が実際に実践できるような社会的自由の基本形態についてお話してきた。(一)自分の環境から離れたり、移動したりする自由、(二)他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由、(三)まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由、である。
いまや理解できるのは、最初の二つの自由 すなわち「移動する自由」と「命令に従わない自由」 は、より創造的な三つ目の自由のための足場のような役割をはたしていたということである。この3つ目の自由の「足場」が実際にどのように機能したのか、いくつかを明らかにしてみよう。ヨーロッパ人が最初に遭遇した北アメリカ社会の多くでそうであったように、最初の二つの自由が自明であるとみなされているかぎり、王はつねに、つまるところ遊戯王としてしか存在できなかった。もしかれらが一線をこえれば[まじめな(シリアス)王になろうとするとき]、かつての臣下たちはいつでもかれらを無視するか、どこかよその場所に移ることができたのだから。」(P.569-570)
3「よく考えてみるならば、「言論の自由」や「幸福追求」のような、わたしたちが典型的な自由だと考えているものの多くは、実は社会的自由ではまったくない。好きなことをなんでもいう自由があるとしても、だれも気にしたり耳をかたむけたりしないのであれば、ほとんど問題にはならないのだから。同様に、好きなだけ幸せになることができたとしても、その幸せが他人の不幸と引き換えであるなら、それもまた大した意味をもっていない。おそらく、典型的な自由とみなされているものは、たいてい、ルソーが『人間不平等起源論』でこしらえた幻想、すなわち孤立した個人の生活という幻想を基礎としている。」(P.571)__Nota Bene!!
「重要な要因のひとつは、人間社会が徐々に「文化圏」と呼ばれるものに分割されていったことにあるようにおもわれる。つまり、近隣集団がたがいに自己を定義し、典型的にはその差異を強調するようになった過程である。アイデンティティがそれ自体価値あるものとみなされるようになり、文化的分裂生成の過程を作動させはじめた。」(P.571)
「暴力は往々にして、それを通して、遊戯の諸形態が相対的に永続的な特徴を帯びるようになる経路である。(中略)遊戯王は人を殺害しはじめたときに遊戯王ではなくなるのだ。(中略、エレイン・スカリー)しかし、戦争(あるいは、彼女がいうところの「傷害の競技会 contests of injuring 」)とそれ以外のほとんどの種類の競い合いとの究極のちがいは、戦争で殺されたり傷つけられたりした人間は、競い合い終了後も殺されたまま、傷つけられたままであるということである。」(P.572)
「というのも、そこで主要な暴力に関与するのは二つのチームであって、一方のチームのメンバーは他方のチームのメ(FF)ンバーを平等な標的として扱うのであるから、ケリーはこれを「社会的代替可能性 social substitutability 」の原理と呼んでいる。つまり、ハットフィールド家の一員がマッコイ家の一員を殺害し、マッコイ家が報復するばあい、マッコイ家の標的なハットフィールド家の実際の下手人である必要はなく、ハットフィールド家の人間であればだれでもよい。おなじように、フランスとドイツのあいだで戦争が起こったばあい、フランス人兵士はドイツ人兵士をだれであれ殺すことができるし、その逆もまた然りである。住民全体の殺害は、この論理を一歩進めたものにすぎない。このような組織法が、とくに[人間にとって]本源的に備わっているわけではないし、人間精神に遺伝的に組み込まれているとする根拠もない。逆に、成人男性であったとしても、このように組織的かつ無差別な殺傷を納得させるには、必ずといっていいほど、儀礼や薬物、心理的技術を組み合わせて使用することが必要とされるものだ。」(P.572-573)__個人(近代的個人)を殺したり傷つけたりするわけではない。「個人的恨み」とは別のもの。
「印象的なのは、そのような証拠がいかに不均等[にあらわれる]かということである。集団間で激しい暴力がみら(FF)れる時代と平和な時代とが交互に訪れるのだ。そしてその平和な時代は往々にして何世紀もつづき、そのかん破壊的な紛争の証拠はほとんど、ないし、まったくみられない。戦争は農耕開始後の人類の生活に不断につきまとっていたわけではない。むしろ首尾よく廃絶されたとみえる時期が長期にわたっているのである。」(P.573-574)
「古代の政治システム とくにオルメカやチャビン・デ・ワンタルのように「首長制」や「国家」といった観点では定義しにくい政治システム は、社会的権力の基軸のひとつをどれほど突出して発展させたかという観点からのほうが、よりよく理解することができる(たとえば、オルメカのばあいはカリスマ的な政治的競い合い(コンテスト)やスペクタクル、チャビンのばあいは秘伝的伝統の統御(コントロール)など)。」(P.574)__あるいは、遊戯、祭りとしての選挙がまた行われた日本。
「そして、その権力の中心である宮廷や宮殿は、どれもある程度、家父長制的世帯の組織をモデルにしている。これは偶然にすぎないのだろうか?よく考えてみるなら、漢、アステカ、ローマなど、後世の王国や帝国のほとんどに、同じような特徴の組み合わせがみいだされる。いずれのばいも、家父長制的世帯と軍事のあいだには密接な結合があったのである。しかし、なぜそのようなことが必要なのだろうか?
この問いに表層的な答え以上のものをもとめることはむずかしい。その理由のひとつは、わたしたちの知的伝統が、結局のところ、こうした問いをめぐって考察するにあたって、帝国の言語の使用を余儀なくされている点にある。そしてその言語は、わたしたちがここで説明しようとしていることがらの多くに対して、あらかじめ説明や正当化を与えてしまっているのである。だからこそ、わたしたちは本書で、基盤的な人間の自由と支配の形態について、よりニュートラルな(あえて科学的といおうか)独自のリストを作成する必要を感じたのである。既存の議論は、ほとんどのばあい、ローマ法に由来する用語から出発するが、多くの点で、これがまずいのである。
ローマ法における自然的自由の概念は、基本的に、個人(暗に男性の世帯主)がみずからの財産をじぶんの好きなように処分する権利にもとづいている。ローマ法では、所有は正確には権利ですらない。なぜなら、権利は他者と交渉されるものであって、相互の義務をともなうものだからである。所有は端的に権力である。つまり「実力や法律によって」制限されていることがらを除いて、なにものかを保有しているものはそれでもって好きなことができるという、あっけらかんとした現実なのである。この定式には、それ以来、法学者を悩ませてきたいくつかの奇妙さがひそんでいる。というのも、そこには自由とは本質的に法秩序に対する原初的例外状態であるというふくみがあるからである。そこにはまた、所有とは、だれが事物を使用したりケアをしたりするかについての人びとのあいだの了解事項(FF)ではなく、絶対的権力を特徴とする人と対象物との関係である、といったふくみがある。たとえば、人間には、手榴弾を使って、やってはいけないことを除いてやりたいことがなんでもできる自然権があるというのはどういうことなのだろうか?このような奇妙な表現を、いったいだれが考えたのだろう?
その答えを示唆しているのは、西インド諸島の社会学者であるオルランド・パターソンである。かれは、ローマ法における所有(したがって自由)の概念は、基本的に奴隷法に発するものであると指摘している。所有物を人と物とのあいだの支配関係として考えることが可能である理由は、ローマ法においては、主人の権力が奴隷を、社会的権利や法的義務をもつ一個の人格としてではなく、物 a thing ( res、客体(オブジェクト)を意味する)とみなしているからである。」(P.575-576)__Nota Bene!!
「いっぽうで、自由(フリーダム)と解放(リバティ)は私的な問題であった。さらにそのいっぽうで、私的生活は、私有財産とみなされた被征服者に対する家長の絶対的な権力によって特徴づけられていた。
ローマ法の奴隷の大半が、文字通りの戦争捕虜ではなかったという事実は、ここではほとんど無視できる。重要なことは、かれらの法的地位がこのような言葉遣いで定義されていたことなのである。わたしたちのここでの目的からすると、注目すべきかつ啓発的であるのは、ローマの法律学においては、戦争の論理 敵は交換可能[無差別]であ(FF)ること、降伏すれば殺されるか「社会的に死んだ」状態にされた商品として売買されること 、したがって恣意的な暴力の可能性が、家庭生活の基盤であるケアの関係を含む最も親密な社会的初関係の領域に挿入されていたことである。」(P.576-577)
「わたしたちが使っている' family ' [家族]という言葉は、ラテン語で「家内奴隷」を意味する famulus を語源としている。それが familia という単一の paterfamilias 、すなわち男性世帯主の家内的(ドメスティック)権威のもとにあるすべての人間を意味する言葉を経て、現在の family となったのである。Domus はラテン語で「世帯(ハウスホールド)」を意味し、ひるがえって ' domestic 'や'domesticated 'のみならず、dominium という皇帝の主権と私有財産に対する市民の支配力(パワー)とを同時に表現する専門用語の語源となった。その結果、' dominant 'であること[支配的であること]、' dominion 'をもつこと[支配権を有すること]、' dominate '[支配する]といった(文字通り ' familiar 'な[おなじみの])観念へと帰着するのである。」(P.577)
「家父長制の家族が王の絶対的な権力の雛形となり、その逆もまた然りであったのだ。子は親に、妻は夫に、臣下は神からの権威である支配者に従わなければならなかった。いずれのばあいも、上位者は適切と思われるばあいには厳しい懲罰を与えるもの、つまり、おとがめなしに暴力を行使するものとみなされていた。さらにいうと、これらすべて、愛情や慈しみの感情とむすびついていることが前提とされていた。」(P.580)
「ウェンダットのばあい、暴力とケアは完全に分離されていた。」(P.581)
「ケアと支配のこの結合 というよりもおそらく混濁 は、たがいに関係し合う方法を再創造(リクリエイト)することによってみずからを再創造するという能力を、人類はどうして喪失したのかというより大きな問題にとってもきわめて重要であるとおもわれる。つまり、わたしたちがどのように閉塞したのか、そして、なぜ今日、わたしたちが自分たちの過去や未来を、より小さな檻からより大きな檻への移行以外のものとしておもい描くことができないのかを理解するために、重要なのである。」(P.581)
「わたしたちが格闘してきた最も頑迷な誤解は、おそらくスケールに関係するものである。支配構造は人口の大幅な増大の必然的帰結であるといった考え、つまり社会的ヒエラルキーと空間的ヒエラルキーのあいだには必然的対応関係があるという発想である。(中略)わたしたちは、人口の多い社会集団ほど、それを組織的に維持するために必要なシステムはより「複雜」になると素朴に仮定している文章に何度もくり返し遭遇した。複雑さはいまだ、往々にしてヒエラルキーの同義語として使われている。」(P.582)
「鉄器時代のヨーロッパの専門家である人類学者キャロル・クラムリーは、自然であれ社会であれ、複雑なシステムがトップダウンで組織される必然性はないと長年指摘してきた。ところが一般的にはそのようには考えられていない。おそらくそのような態度は、研究対象についてよりも、わたしたち自身のありかたをより多く語っているといえる。」(P.582)__Nota
「それは、未発達な、あるいは孤立した集団ではなく、多様な生態系を横断する、遠く離れた諸社会のネットワークであった。」(P.584)__Web。
「つまり、王はすべての臣民を平等に支配する存在であるため、親戚をもつべきではない。そして、奴隷もまた親族 kim をもたない。それまでのすべての人間関係からかれらは切断されているからである。」(P.585)
「第一の自由の喪失は、ますます第二の自由の喪失を意味するようになっていた。第二の自由の喪失は第三の自由の消失を意味する。」(P.586)
「つまり、わたしたちはどのようにしてただひとつの形態の社会的現実に閉塞してしまったのか、そしてどのようにして最終的に暴力と支配にもとづく関係がそのうちで正常化されるようになったのか?」(P.586)
「首長が従者に対して実際にどのていどの力を震えるかは、被保護者が逃亡してよそに避難することがどれだけ容易か、あるいは被保護者がすくなくとも親戚や一族、つまり、自分のために力を貸してくれる外部の人間との関係を維持することができるかによって異なってくる。首長の意志を実行するためにそうした従者たちが本当にどれだけたよりになるかはさまざまである。だが、そのような[たよりにできる]可能性[の存在]が大事なのである。」(P.588)
「王宮は必ずといっていいほど、変りものとか浮き世離れしているとみなされるような人間たちを惹き寄せるのだ。中国からアンデスまで、宮廷社会がこのようにあきらかに独特であるような人間たちを受け入れない地域はなかったようにみえるし、未亡人や孤児の保護者たることを自称しない君主もほとんどいなかった。」(P.588)
「文献は不在に充ちていたのだ。」(P.589)
「ある程度は、それは端的に適切な言語がないということなのだ。」(P.589)To some degree it was simply the lack of an appropriate language.(P.522)
「要するに、人類史のいくつかの大きな様相を前にして、わたしたちは字義通り言葉を失っているのだ。」(P.590)
All this achieves, at the end of the day, is to leave us literally at a loss for words when confronted with certain major aspects of human history.(P.523)
「どういうことかというと、数々の対立項を反転させるのである。社会的平等のイデオロギーが実際に存在したという明確な証拠がないかぎり、「平等」や「不平等」という言葉を捨て去るのだ。」(P.590)
「社会理論家は、過去の出来事について、あたかもすべての出来事が事前に予測できたかのように書く傾向がある。これはいささか不誠実な態度である。というのも、だれもが知っているように、未来の予測などというものが当たったためしなどはほとんどないのだから そしてこのことは社会理論家にもいえることなのだ。」(P.590)
「つまるところ、それらの事象は実在していたわけだ。たとえ過去をみつめるわたしたちの習慣が、それらの事象を脇に追いやるように強いたとしても。(中略)それが意味しているのは、人間社会とはどのようなものかについて、わたしたちはまったく異なる考えのもとで生活していたこともありえたということなのだから。(中略)しかしいっぽうで、それはまた、いまでも人間が介入できる諸可能性は、わたしたちが考えているよりもはるかに大きいことをも示唆している。」(P.591)
「神話自体が問題なのではない。神話を、悪しき科学、未熟な科学と誤解してはならない。すべての社会に科学があるように、すべての社会に神話がある。神話は、人間社会が経験に構造と意味を与える方法なのだから。」(P.592)__経験に意味を与える=「経験の定義」『往復書簡』P.76。
「マックス・プランクはかつてこう述べている。「新しい科学的真理は、既存の科学者に、それが間違っていたことを納得させることで古いものに取って代わるのではない。古い理論の支持者がやがて死に絶え、後続の世代が新しい真理や理論を身近で明白なものと感じることで、そうなるのだ」。わたしたちは楽観主義者(オプティミスト)である。そうなるのに、さして時間はかからないと考えたい。」(P.592)
「そう、わたしたちはいまや、すくなくとも神話世界のただなかにいることだけは知っているのだ。」(P.593)
謝辞(デヴィト・ウェングロウ)
いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて
1 「いまこそ人類史の流れを変えるとき、まずは過去から」
2 行動作業のはじまり
(モース「国民論」文庫P.187)「社会は借用で生きている。社会は借用の可能性によって定義されるよりも、むしろ借用の拒否によって定義される。」(P.602)__Nota Bene!! 。人間も。自分でゼロから作り出すものなどない。
3 『万物の黎明』の衝撃
(P.606)__歴史的事象(出来事)と出来事とのあいだ。ピラミッドなどの遺跡がない時代。権力者の歴史ではなく、民衆の歴史(暮らし)。権力者は、変わった人ではあったが、民衆との差はなかった。民衆の事件はあるか。民衆は固有名詞で呼ばれることはない。
4 『万物の黎明』とゴードン・チャイルド
『ヨーロッパ文明の黎明』The Dawn of European Civilization
「わたしたちは、集団的自己創造のプロジェクトである。人類史にそのような切り口からアプローチしたらどうなるだろうか?」(P.609)
「したがって、かつて未熟であったが、だんだん成熟していったのではなく、人類は当初より、成熟していたということ。」(P.610)
「閉塞」stuck
5 「ポップ人類史」と『万物の黎明』
「チロルのアイスマン、エツィ」
「それらが語るのは、かつて人類社会では、社会組織が季節的に変化するのが当たり前であったという事実だ。」(P.612)__野生動物と同じ。40度を超えたとき、クマはどうするのか。多分、外を歩かず、穴の中などでじっとしているのではないか。クーラをつけて働き、気温を上げるのとは違う。なんせ毛皮は脱げないのだから。
「それをふまえるなら、チロルのアイスマンとロミート2とあいだの矛盾は矛盾でなくなる。それは人類社会が一様ではなかったということなのだ。」(P.613)
6 ラフな手引き
「なにしろ、わたしたちはこの日本語訳七〇八頁をひもとくなかで、後期旧石器時代から現代にいたるまでの人類史数万年を、世界のすみずみまで経めぐりながら旅をすることになるのだから、大変だ。」(P.613)
(1)構成につてい
(2)各章について
第3章
「人類は当初よりただひたすらに人間だった かくして、本書の核心をなす問いが定式化される。人類の「社会的不平等の起源はなにか」ではなく、人類は「どのようにして停滞したのか」という問い、平等の喪失ではなく、自由の喪失の問いである。」(P.619)
第4章
「おおまかにいって中石器時代 「前一万二〇〇〇年あたりからの数千年にわたる複雜な時代」 が焦点化されるといっていいだろう。」(P.619)
(諸文明の起源)「人びとが、驚異的な長距離移動を常態とし、離合集散をくり返していた後期旧石器時代の「コスモポリタン」ないわば「なめらかな世界」から、中石器時代を経て新石器時代にむかうにつれて人びとは独自の「文化」を形成し、閉域としての「社会」を構成するようになる(これが、閉塞のひとつの条件をなしている)。世界は狭くなっていったのだ!」P.619)
(自由民)「本章ではあらためて、平等主義的社会といわれるものの実質が自由社会であり、その社会を構成する人びとが「自由民」であることが確認されるが、」(P.620)
(私的所有)「それを通して、「私的所有」が人類の歴史と同じくらい古いものであると推測されるが、それが(おそらく非資本主義的近代の)人類社会の大半では、「儀礼の檻」によって社会のごく一部の領域に封じられ、権力とのむすびつきを阻止されている。ここにも、奴隷所有と密着していた古代ローマに由来するヨーロッパにおける所有権(FF)観念を、人類史において異例中の異例のもの(そしてきわめて暴力的なもの)として相対化をはかる、本書をつらぬく(あるいはグレーバーの著作をつらぬく)問題設定をみてとることができる。」(P.620-621)
第5章
(分裂生成)「ひとつは、地理的な運動、つまり、借用の受容と借用の拒否といった現象に現れる、諸集団、諸地域のアイデンティティにかかわる同一化と反同一化の運動。こちらはモース的アスペクト。そしてもうひとつは、支配、より正確には支配の拒絶にかかわる運動。」(P.621)
(創造的拒絶 creative refusal )「「創造的拒絶」とは、ひとつの文化が、近傍の文化と自覚的に異なる価値や慣習、趣味を選択し、みずからのアイデンティティを形成していくダイナミズムを表現している。」(P.621)
第6章
「わたしたちは、おいしいパンをたのしみながら、なおかつ「コムギの奴隷」であることも拒絶したのである。」(P.622)
「つまり、この三〇〇〇年もの長期の時間は、人間の未熟ゆえの進歩の遅さではない。そのギャップは、人間がコムギの奴隷となることを拒否しながら、農耕とつきあい、実験的に戯れ、イノヴェーションを積み重ねていた、長期の時間を示している。」(P.623)
『国家をもたぬよう社会は務めてきた:クラストルは語る』酒井
「新石器時代に生まれた人類史を画する真の革新のほとんどは、天才的な男性がみずからの孤高のヴィジョンを実現するというものではなく、主に女性たちによって何世紀にもわたって蓄積されてきた知識の集合体にもとづいており、そこでは、一見すると地味であるものの実際にはきわめて重要な発見が延々とくり返されていたというのある。これらの新石器時代の発見の多くが、自動織機や電球とまったく同様に、日常生活を大きく変貌されてしまう累積的効果をもっていたのだ。」(P.624)
第7章
「農耕の形成は世界中にコアをもち、それぞれ独特の経緯をたどり、多くの狩猟採集民は、すべての農耕のための条件をもちながら、その導入を拒絶したり、あるいは遊戯農耕の多様な形態を発明したりしていた。(中略)コノエコロジカルな柔軟性は、栽培を世界史のノーリターンとする人類史観からはみえなくなったものである。」(P.624)
第8章
「先ほど、かれらの共同作業の二つのフックについて、そのひとつが農耕以前の狩猟採集民の多種多様生を知らしめ、その意味を解明することにあると述べたが、もうひとつがこのスケールの問題、つまり、社会の規模が大きくなればなるほど、人びとはトップダウンの命令権力によってしかまとまらない、というスケールにかかわる常識である。」(P.625)
第10章
「そこでかれらは国家に代えて、あるいは国家を超えて、社会的権力の基盤となる三つの原理に分解してみるよう提起する。暴力、情報(知)、カリスマである。そしてそれらは、具体的には、主権、行政管理、競合的政治フィールドといった形態をとる。近代国家にはこの三つのが備わっている。主権、行政装置、そして政治家たちが競合し合う選挙制度。しかし、それ自体、人類史においてきわめて独特であり、しかもその三つの要素の編成の仕方も独特である。(中略)かれらはそこで、とくにひとつの要素のみ依拠するばあいを支配の第一次レジーム first-oder regimes といい、二つのばあいは、第二次レジーム decond-order regimes 、三つのばあいは、第三次レジーム third-oder regimes とする。」(P.628)
「こうした概念とその組み合わせによる社会体の分類があらわれると、わたしたち、とりわけ研究者はいささか安堵するところだろう。(中略)したがって、この第10章の記述は、わたしたちのなじんだ知のスタイルに最も近いものだ。」(P.629)__分類して安心する。分類することによる知覚と認識。言語の在り方。固有名とは別。イデア。定義。固有名は定義ではない。
第11章
「歴史を実験によって検証することは不可能である。というのも、歴史のただなかにあるわたしたちは、実験室のような閉じられた系を構成することができないからだ。」(P.630)__コーラ。
第12章
(フランツ・シュタイナー)「おそらく、この二人のユダヤ系の著者は、かれの境遇とそこから由来するとおぼしき問題設定に深く共感したにちがいない。」(P.631)__「3」が好き。アリストテレスは「2」が好き。
7 批判と反論
8 共同作業と「文明」の変貌
「しかし、ここで強調しておきたいことは、ウェングロウそしてグレーバーが、ルソー=ホッブス的パラダイムがひらく、戦争と侵略、搾取、家父長制、供犠、モニュメント、物質的繁栄、必然的歴史意識などの系列からなる文明観に対して、それらに対立するひそやかな、しかし真のより基盤的な文明の系列を浮上させることに成功したという点だ。とりわけそれは、第6章「アドニスの庭」において、新石器時代の「遊戯農耕」をめぐって展開されることになる。」(P.635)__源氏物語やシェークスピア、アラビアンナイト、アーサー王に自分と同じものを見出すが、その社会は単純で未発達(未成熟)な現在だとみなす。
9 友情と自由
「そもそも本書でもいわれるように、人間の意識も「対話」であり、孤立状態は抽象においてしか存在しないとするなら(「常時接続」の時代でもあるし)、問題は、つながりの脅迫と孤立の礼賛のあいだで、わたしたちは友情の契機を喪失しつつあることにあるのではないか。」(P.636)__Nota Bene!!
「わたしたちが死ぬほどつらい職場でもやめられないのは、離脱すればあすから生活にこまるからだ。そうなると、いやなことがあっても逆らえなくなる。もちろん、社会全体を変えるなんて夢にも思えなくなる。こうしてひとつの社会は、「閉塞」していくのである。」(P.637)
10 わたしたちは変わ(え)ることができる
(ウェングロウ)「わたしたちの全歴史をふり返るなら、わたしたちが遊び心と創意にあふれた種であることがわかる。略取と拡大 「成長か死か」 の自滅的ゲームに閉塞し、ルールを変更する術を忘れてしまったのは、つい最近のことなのだ。」(P.640)
11 さいごに
《書きぬき終わり》
《メモ》
3ヶ月でマスター
狩猟採集社会よりも農耕社会、石器社会よりも鉄器社会、歩行社会(?)よりも自動車社会、本社会よりもスマホ社会、村社会よりも都市社会、共同体社会よりも個人社会、封建社会よりも民主社会・自由主義社会・資本主義社会、階級社会よりも平等社会
他人の失敗を望んだり喜んだりするのは日本的。勝った者が正義というのとは違うのだけど。
「勝てばいいんだろう」ということがで表現すると同じだけど。
「義」はあっても、正義( Justice )というのは別。
正しい者が勝つという気持ちはなかった。任侠映画。バッドエンドが好き?西洋映画(『ゴッド・ファーザー』)とは違う。正しくても負ける。負けたから正しくなかったということではない。勝ち負けと善悪は別のことだった。そこには多数決もなかったと思う。西洋においても。
日本におけるゴシップは、「悪を見つけること」じゃないし、そのために「社会的地位」をなくすことは、その人が悪だということとは別。歎異抄。
負け戦でもおこなう。日本軍。
それが仏教的か儒教的かわからない。多分そういう見方をしてはいけないんだろうと思う。日本古来のもの(ヴァナキュラー)かどうかもわからない。
それを言葉や文字で表すことができるということから違うのだと思う。
だれかを想う気持ちがあっても、それを言葉にすることはできないし、言葉とは別にそういう想いがあるあるわけでもない。隠喩、歌、詩で表現しようとした(西洋においても多分)。
述語すること、述べること、話すこと、定義すること、書くこと、それらが意味することは、それらが意味されるものとは別のものとして在る(有る)と考える。ソシュール。
語ることができないもの、たとえば「無意識」は、隠喩でしか語れない。恋も、痛みも同じではないか。人と人のあいだには言葉も文字もあるけど、それだけではない。
西洋人は、述語することは単純化することだとわかっている。そして、単純化しなければわからないと思っている。だから自己主張する。日本人は「以心伝心」という。会話は、口、耳だけでなく、目や鼻や手足を使う。話されている状況が含まれる。その日の天候も使われる。
だから、そこには科学が排除しようとしている偶然がかならずある。偶然があるから(必然じゃないから、固定されていないから)こそ、意志があって自由があるのだから。
酒の肴と刺身のツマ。酒中心か肴中心か。
ロックとクラシックは全く違うか、音楽の革命か。Beatlesにはバロック音楽(バッハ)がよく合う。
雅楽と歌謡曲(ADO、sixtones)との断絶とも言える差。西洋においても(たとえばイギリスにおいても)そういった断絶はあったのだと思う。視点(視線)の違いなど、詳しくはわからないけど。