〈書抜〉
考え方だけじゃなくて、物の見方も社会・文化に規定されている。つまり、時代・文化によって物の見え方はちがうのだ。当然個人個人によっても異なる。
言葉も道具も文字も「使い方次第」?
序
1 識字の暴力
2 制度化された識字
「識字術は、学校で学ばれるものだと考えられていることかも、識字と学校教育は切り離して議論することはできない。」(P.8)
「また、ミシェル・フーコーも、「教育の全システムとは、言説がもたらす知や力とともに、言説の所有を保持し、あるいは変容する一つの政治的方法で」あると語り、教育が、知識・権力を生みだし、かつそれらの力関係を固定するものであることを指摘している。」(P.9)__『言語表現の秩序』
「教育的営みが数量化され容易に優劣の関係へと導かれることの醜さに気づき、それから逃れようとしても、優劣の尺度上のある位置を定められ、その位置が一旦刻み込まれた識字は、一生消すことができない。なぜなら、そのような位置は本人の心の中ではなくて、外部(他人の心、あるいはどこかに保管されている記録)に存在するものだからである。」(P.10)
「「制度化された識字」について考えることは、「制度化された識字」を身に付けることを求められている子どもたちの未来を考えることでもある。「制度化された識字」は容易に数値化されやすい。そのような数値化は、必然的に優劣によってものを見る意識を形成するための、もっとも強力な方法となるのである。(LF)第二の予防的側面は、この「制度化された識字」を拒む子供たちが、私たちに訴えていることの意味を考えるものである。もちろんこうした子供たちは、強制的に求められる「制度化された識字」と、自分で創造していく自分たちのための識字が異なったものであることに気がついている。」(P.10)
3 〈不耕貧食〉の識字
(安藤昌益)「彼は、文字が文字所有者による抑圧の道具に成り果てることに異議を唱えたのである。」(P.12)
「そもそも大衆とは何か、語り手が自らをその大衆の一人として見ているかどうかは別としても、大衆の一人を自認する本人が、その大衆の中に入らない人々もいることに気づかないでいる場合がある。赤松啓介は、「常民」とは何かを考えているうちに、それからはみ出す人々がいることに気がつき、柳田民俗学の弱点を指摘している。」(P.13)
「昌益は、「外国語」とか「方言」と呼ばれる、それぞれの地域に見られることばの差異を当然同等の地位にあるべきものとして認められるべきだと主張する。」「識字の捉え方との関連で見ると、昌益の言う「直耕スル者」と「不耕貧食ノ徒」の区別は、権力の有無による大衆と支配者との単純な区別とは、明らかに次元を異にするものである。前者の区別は文字の所有に基づく文字に依拠する処世術が問題になるのに対し、後者は、文字の習得度または制度化された識字への忠誠度が問題となる。もちろん昌益は、「直耕スル者」の文字の習得度を計るなどという野暮なことは思いつくことさえなかったろう。個々人の識字には、他者が決めた尺度によって計られる必要が全くないのである。」(P.14)
4 〈識字〉と〈識字術〉
「識字という言葉のこのようなニュアンスの違いは、単なる識字という言葉の使われ方の変遷として見るべきものではないが、差し当たってまず、文字の読み書き能力、あるいは技術としての文字の使用という側面を〈識字術〉として、また〈識字〉は、そうした技術的側面の他に、文字の使用者、文字の使われ方、また文字が使われる〈場〉、そしてそれらすべての社会的な位置を決定する社会・経済的力学関係といった意味を含む、より広い概念として捉えて議論を進めてみたい。」(P.16)
「さらに重要なことは、識字術はたしかに一つの技術であるに過ぎないが、それを持つ者と持たない者の間に存在する力関係とは無関係の、中立の存在ではありえないという点である。」(P.18)__技術の非中立性。マルクーゼ『一次元的人間』
「しかし、中立性を強調すればするほど、中立性を保てないという逆説が生まれてくる。なぜなら、それは主流派の識字を社会の全ての構成員に押し付けるというイデオロギーになるからである。」(P.19)
5 識字の希少性
6 識字研究の必要性
(P.25)__メモ、メソポタミアの学校。学校=文字。書記官
「しかし、多元価値の共生を目指すためには、やはり〈識字〉を理解することが必要だと考えたい。多元価値が権力の強弱をともなって存在する文化の中では、フーコーの分析を参考に考えれば、〈教育〉や〈識字〉によってある価値が他の価値を〈抑圧〉するシステムとなることは、はっきりしているように思う。」(P.27)__「価値」という主観的概念
(ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』)「このような研究は、従来の社会分析の公準となってきた〈個人〉という基本単位、すなわち集団はいつでも個人に還元できるというアプローチとは異なるものである。すなわち、公準としての普遍的〈個人〉の存在を認めるのではなく、、「ひとりひとりの個人というものは、・・・相関的な規定性が複雑に絡みあいながら作用する場であって、そのような絡みあいは必ずしも首尾一貫していない(たいてい矛盾している)ということである。」と述べられるように、個人性そのものに疑問を呈することから始まるものである。いわば、個人が読んだり書いたりという、個人の日常的行為の分析は、すなわち個人そのものではなく、個人が置かれる関係性の分析である。」(P.28)
「なぜ読むという実践は分析の対象となりうるか。それは、「目の叙事詩であり、読むという欲動の叙事詩である。経済そのものが〈記号の支配体制〉に変貌していて、読むことをますます肥大化させている。生産ー消費という二項式のかわりに、その一般的等価として、書くことー読むことを代置する(FF)こともできる」からである。」(P.28-29)
「すなわち、〈規範〉によって抑圧されているように見えながらも、それをすり抜け、自らのコードを生みだしているという、したたかな人間の姿が見えるのである。そのような、〈自らのコード〉こそ、〈自らの識字〉ではないだろうか、というのが私の考えである。」(P.29)
第一章 識字研究の諸相
はじめに
「さらに最近のユネスコが推進する識字キャンペーンでは、パウロ・フレイレの識字理論を取り入れることにより、識字術の獲得は、〈意識化〉により自己意識の高い自立した人間へと導くものとされる。」(P.39)
「リベリアのヴァイ文字による識字が、まったく暴力的側面を持たないように見えるのはなぜか。」(P.39)
1 識字の大分水嶺理論
「初期の識字研究テーマの一つでもっともよく触れられているのは、純粋な口承文化にはみられなかった理論的抽象的思考能力は、識字術によってもたらされたものだという仮説である。これを支持する理論は、日本では大分水嶺(Great Divide)理論などと翻訳されている。ジャック・グーディー、エリック・ハヴェロック、ウォルター・オング、デーヴィッド・オルソンなどが、その主な支持者である。」(P.41)
「識字術のみならず、さまざまな電子技術を手にして、しかも溢れるほどの情報に囲まれた生活をしていても尚、現代世界における伝承技術は、少なくとも周縁の人々にとっては、完全なものとは言えないからである。」(P.42)
2 識字術の認知心理学
(スクリブナー&コール)「彼らは、ヴァイの人びとはヴァイ文字をまったく知らない人を無知であるといって見下すことはなく、非識字者は識字者とまったく対等に見られていることを観察している。ヴァイ文字は人間と人間の価値を区別する手段として機能していないという、ヴァイの人々が西洋の識字観とは全く異なる識字観をもっていることの重要性は、認知心理学の枠組みの中ではほとんど意味を持たないかにみえる。認知心理学の追い求める識字観とは、論理的抽象的分析的思考の必要条件となる識字術なのである。」(P.47)
「しかしこの数量化へと導く過程で失われるものの中に、現代の識字をめぐる問題の核心があるとも言えるのだが、認知心理学者の多くはそういったことにはあまり関心がないようにみえる。」(P.48)__人を数値化すること。
「識字術を獲得することを奪われた人々が、識字の暴力の前で苦しみ、識字術はそうした暴力をふる(FF)うための効果的な武器となってしまったのが、現代の本当の「識字の危機」である。識字術自体は一つの技術に過ぎないかもしれないが、識字が識字術そのものであるように語られることも多い。」(P.48-49)
3 〈意識化〉と識字:パウロ・フレイレ
「(・・・)自分たちが置かれてきた状態は〈自然〉ではなく〈文化〉だと捉えるべきではないのか。このような問いを発することが自分たちにも可能であること、つまり、〈文化〉の創造あるいは〈歴史〉に参加できるのだという意識を、識字を習得する過程で気がついてもらうことが〈意識化〉である。」(P.50-51)__差異が優劣になるとき
「そもそも機能的識字なる概念は、社会の主流派の在り方を肯定して、非主流派の構成メンバーが主流派の社会に参加することが、あるべき姿であるとする識字観を前提にしているものである。」(P.52)
「しかも一旦数量化されることは、序列化を可能にすることになる。そうなると、当然知識・情報を多く持つ者が、知識・情報の少ないものに勝るという状況を生みだし、事実上トップに立たない限り、常に敗北者としての意識を持つことを強いられることになる。」(P.55)
「識字術は〈意識化〉を促すための道具の一つではあるが、序列化を許す識字は、権力ともなるのである。しかもその権力は、人が人を支配することに使われるだけでなく、人が自らの心を抑制するものともなる。」(P.56)__フーコーの生権力
「物体はコンテクストの影響を受けずに存在することができるが、物質はその置かれた環境の中で様々な形に変容させられるものである。だから(FF)識字を物体として捉えることは、機能的識字を獲得する(あるいはできる)のは、あくまでも個人の責任である、ということを正当化することになるのである。そこでは、識字の物質性は完全に忘れ去られる。〈文化〉としての識字は、〈自然〉としての物体的存在ではありえないにもかかわらず、〈自然〉の中に存在する物質のごとく、〈個人〉の責任において獲得されるものとして捉えられているのである。だから、フレイレの言う〈意識化〉も、主体としての個人の、個人の責任において行われる抽象化を伴う行為となってしまう可能性があるのだ。もし〈文化〉がそのような抽象化された概念として捉えられると、新たに識字を獲得した者が、識字を持たない者を支配する者に変わってしまうことを容易にする。そうである限り、〈個人〉の〈意識化〉に基づく識字という識字観によっては、フレイレの言う〈批判的意識〉を持った人間による社会の変革を進めることはまず不可能だと言わねばなるまい。主体的対応のジレンマとは、このことである。」(P.58-59)
「物体は容易に目に見えるものであるが、物質は固定されてものとして目に映ることはない。その目に見えない、識字の物質性を捉えないかぎり、「しつけ」の強力さを理解することもできない。そのような「しつけ」は、「個人」が自らのこころをも支配する制度なのである。」(P.61)
4 〈機能的識字〉(Functional Literacy)
「体のどこかに障害を持つ人々場差別されるのは、経済的活動に従事できるか否かという見方が、その尺度となっていることの指摘である。」(P.63)__『読み書き能力のイデオロギーをあばく―多様な価値の共存のために』J.E. スタッキー
「識字力の低下、すなわち機能的識字の低下が、国家にとってなぜ深刻な問題であるのか。それは、(FF)すでに制度化された識字に基づく国家建設が危機に曝されるという観念があるからである。識字はすでに制度なのである。」(P.63-64)
「機能的識字とは、産業社会を構築するための基本的条件であり、その基盤となるのは、産業社会が求める「知」を伝えるための識字であって、農村社会に生きていきた非識字者の持つ口承的「知」ではないのである。」(P.64)
「従って、識字が制度であるかぎり、その制度からはみ出す者が出てくるのは必然である。そこに、その制度を批判する識字も必要となる。その一つの例が、次に述べる〈批判的識字〉である。」(P.65)
5 〈批判的識字〉(Critical Literacy)
「その観点から言えば、〈多文化主義〉は、主流派文化と政治的にぶつからないかぎりにおいて、その存在が許されるものだという含みを持つことになる。一方、〈差異の政治学〉は、〈多文化主義〉を認める限り、政治的なぶつかり合いは避けられないもの、というより、むしろそれは必然的でかつ必要なものであると捉える。」(P.70)
6 レイ・リテラシー(Lay Literacy)
イリイチ『生きる思想』
「英語の”clerical-lay”の組み合わせは、いわゆる聖と俗、玄人と素人の関係である。イリイチの言う”clerical literacy”は、文字を知る者から教わるという訓練を通して習得される、いわば技術としての識字術、読み書きの能力であり、レイ・リテラシーは、識字術によってもたらされる、〈識字化された精神〉とでも呼ぶべきものである。」(P.74)
「いわゆる、〈精神的識字化〉は、識字術が用いられている社会に住んでいる者が、識字術の獲得の有無にかかわらず被る現象であるということである。すでに、「一三世紀には、多くの一般大衆にとって、〈テキスト〉は、あらゆる生活形態と関わるメタファーとなった」という。そのような精神空間を獲得した者は、識字を通して考える精神を持つものとなる。「識字を通して考える精神とは、自我、自らの良心、記憶の深遠な再構築を暗示するものとなり、過去を認識し、死の瞬間に死者の書に立ち向かわなければならないという恐怖を感じることができる精神となるのである。もちろんこれらの新しい特徴はすべて、俗人も聖人も共有するものであり、学校や修道院の写本室(scriptoria)から、効果的に伝えられていくのである」。」(P.76)__プラトンは体育会的。生を留めたいと思った。識字空間での非識字
「すでに「サイバネティックス的精神は、教育機関の援助なしに、新しいタイプの一般的人間を飲み込んでいる」のである。」(P.77)
7 「識字の危機(Literacy Crisis)」の背景
「このような新しいリテラシーは、論理的分析的思考を可能とする、高度な認知能力を必要とするものであり、識字の基準は、社会的経済的変化とも密接に関係するものである。」(P.80)
a 変わる識字の基準
b アフリカ系アメリカ人にとっての識字
c 〈文化の識字〉(Cultural Literacy)
8 識字の歴史的変遷
a 一七世紀スウェーデン
b ニューイングランド
c 識字の神話
「時間を決めて生産性を上げるためには、労働者は産業社会が求めるモラルを身に付けておく必要がある。そのようなモラルの獲得のために、識字教育が利用されるのであって、識字そのものが産業化を押し進めるものではないのである。(LF)グラフの研究の最大の功績は、経済的発展、近代化、産業化と教育と識字の直接的関係を見い出そうとすることは、〈識字の神話〉に基づいていることを示したことだろう。そしてその神話が支えられる背景に、「訓練されることにおける訓練」という、近代化にとってどうしても必要とされる、労働者に不可欠とされる精神性が横たわっているということだ。」(P.100)__『資本論』。学校で何を学ぶかではなく、学校に行くこと、座って授業を聞くことが大切だ。日本の大学。アルバイトの常態化。
d 〈文化行動〉としての識字
(P.115、注)「もちろん、コンピュータがさらに普及すれば、同じ建物の中で学ぶという学校教育の概念自体が変わるかもしれない。例えば、オンラインを通して、自宅で教育を受けることが当たり前になるかもしれない。しかし、同じ場所に集まるか別の場所で学ぶかは異なっても、勝者と敗者を生み出す構造は変わらないだろう。」__勝者・敗者構造はもとより、一定時間パソコンの前にいる(座る)ということが大切である。コロナ禍。リモートワーク。
第二章 識字とディスコース
1 識字社会言語学(Social Linguistic of Literacy)
a 〈言論の自由〉は規制可能か
「この判決は、「差別的発話ではなく、差別的行為」を裁いたものだという一般的解釈が不十分(FF)であるのは、差別的発言はしばしば肉体的差別的行為よりも精神的に深い傷を負わせるものであり、そのような暴力的差別を行使する物理的行為と発話行為をはっきりと区別することができないし、むしろそれらは一体となっているがゆえに差別となるからである。」(P.122-123)
「従って、表現の自由という砦を死守するためには、人種差別的発話も規制できないというのは、あくまでも、差別的発話をする側とそれを浴びせられる側の両者が対等の位置にある場合が前提となっていなければならないということになるだろう。」(P.124)__『Social Linguistics and Literacies: Ideology in Discourses』James Paul Gee
「「そのような侮辱的発話の先制的性質、すなわち、言葉による攻撃に対する言葉が出てこないのは、たいてい言葉は充分な反撃とはならないからである。・・・とくにその罵倒のメッセージと意味が、広く社会で受けいれられている通念と共鳴しているときはそうである(強調引用者)」。そのような人種差別的罵倒を浴びせられたものは、「その言葉の意味そのもの、すなわち、一日に百万回もあらゆるところで声高に叫ばれている意味を否定しなければならない」のである。」(P.124)__差別だけじゃなく弱者が発する声一般。ワクチンは毒だと言う(否定する)ことはできない。
b ディスコースとは
「ジーの言葉で言えば、ディスコースとは、「言う、行(FF)為する、考える、評価することの組み合わせ」、あるいは、「存在する、行為する、考える、話す、聴く、書く、読むことの統合」によって生み出される、意味を紡ぎ出す「場」の基盤となるものである。」(P.125-126)
c 識字とディスコース
「なぜなら、ディスコースとは、学習によっては獲得され難いものだからである。」(P.133)
2 ディスコースとイメージ
a 研究者の識字観
(ランガー)「おそらく彼女の言う識字的思考とは、やはり西洋的識字観を基盤とする、大分水嶺理論が仮定する文字の使用によってのみ可能となる論理的分析的思考を指しているように思える。であればこそ、そのような識字観にどっぷりと浸かり、識字がいわば空気になってしまった者にとって、それ以外の識字や思考を認めることが困難になるのである。」(P.137)
b メディア・イベントのなかのディスコース
c 〈悪文〉のディスコース
3 学際性
4 〈生態的識字〉(Ecological Literacy)
a 〈生態的識字〉
b 生態的識字と知識
「しかし、たとえばイリイチが言うように、識字の暴力は識字によってしか克服できないというジレンマを解決する方法を可能にするのも、少なくともわたしたちの識字社会においては、やはり〈識字(的思考)〉なのかもしれない。もはや私たちは、識字を棄てることができない。この識字的思考が唯一の思考とされてしまったのは、識字術の根源に潜む暴力的思考による。もちろんここで言う〈識字的思考〉とは、還元主義的な思考を求める西欧型の識字観に基づくものである。」(P.160)__還元主義(かんげんしゅぎ、英: Reductionism、独: Reduktionismus)は、日本で比較的定着している定義では1, 考察・研究している対象の中に階層構造を見つけ出し、上位階層において成立する基本法則や基本概念が、「いつでも必ずそれより一つ下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方のこと。2,複雑な物事でも、それを構成する要素に分解し、それらの個別(一部)の要素だけを理解すれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いもすべて理解できるはずだ、と想定する考え方
5 コンテクストのジレンマ
a 絶対主義と相対主義
b 状況主義
「しかし懐疑主義は、いわば哲学上の理論的レベルでの議論であって、日常生活のレベルでも懐疑主義をとることは、世界を理解することは事実上不可能になるのだから、それは一般的とは言えまい。むしろ日常レベルでは、文化の相対性は、ここの文化の相対性を主張する自(己、民族、文化)中心主義へと変わりやすい。」(P.163)
(P.167)__サピアウォーフの仮説
(P.168)__ウィトゲンシュタイン
c 想像力とディスコース
(Sharfstein)「「通常のコンテクストにおける人間は、知や感情、あるいは社会的反応も、完全に他者を欠く状態では存在できないものである」。」(P.169)__Sharfstein ”The Dilemma of Context"
d 識字のジレンマ
「〈識字のジレンマ〉が生まれる背景には、識字術は根元的に暴力であるが、識字の実践なしに識字術の根源的暴力を捉えることができないということがある。」(P.172)
「すなわち、識字はコンテクストから離れて存在でき、かつ理解可能な技術だと捉えられているのである。」(P.172)
「しかしそれがなかなか難しいのは、識字活動が行われるコンテクスト自体、参加者の持つ権力と無関係に中立的に存在するものではないからである。」(P.175)
「しかし、識字観を変えるにはどうすればよいのか。ここで言えることは、まず、識字術を教えるときに、中立の技術として教えないことである。読み書きは、単なる「読み書き」という中立的技術では有り得ない。読み書きには、「何かを」という目的語が伴うことであると理解しなければならない。「何かを読み書きする」ということは、「読み書き」を教えるときにその「何か」を選ぶことを意味し、すでに政治的にも中立ではありえない。」(P.178)
第三章 識字と社会
はじめに
「すなわち、第二のディスコースの影響は、子供たち一人一人異なるものである。そうした事実が忘れられてしまうのは、学校での識字のモデルが、じつは、異なった経験・思考によって形成された識字でものを考えることを奨励するのではなく、さまざまな学問的ディスコース、すなわち学校で用いられる第二のディスコースを習得することを最終目標にしたものとなっているからである。」(P.189)
1 差別を生み出す識字
2 手話言語と発話言語
「私たちがここで考えている識字は、単なる読み書き技術としてではなく、文字を使って生きる人の生そのものとして捉えるべきであることは、すでに指摘した。」(P.194)
「生得説、言語の相対論、言語習得の臨界期などの概念は、その正否は別としても、生物学的概念でも現象学的概念でもなく、まさに社会的に作り出された、言語学特有の第二のディスコースの所産であると捉えなければならない。」(P.196)
「標準とされる発話言語ないしはそれに基づく標準識字は、標準とはされない話し言葉である母語の識字を抑圧し、さらに、発話言語の識字は、手話言語のリテラシーを抑圧しているのである。(LF)文字による識字は、単に情報を伝えるという意味では、一見コミュニケーションを促進するもののように見えるが、同時にコミュニケーションを妨害するものとして働く場合の何と多いことか。これは、文字は、音声や手話とは異なり、間接的な使われ方をされることにも原因がある。間接的であることによって、文字による識字は作者の手を離れ、コミュニケーションの成立の可否は完全に読み手に委ねられることになる。しかし、文字による識字の性質上、読み手がその書かれたものの背景となる第二のディスコースを所有していないとすれば、コミュニケーションは成立しない。(LF)そして多くの場合、そのような状況が生まれたとき、識字の暴力が存在していると考えられる。その点で識字の暴力とは、識字術の使用者によって生みだされるものであるが、識字術自体にも、根源的暴力が潜んでいるのではないかと考える必要もあるのではないだろうか。そして使用者の役割は、識字術が根源的に持つ暴力を認識した上で、その暴力性を限りなく小さくする努力をすることにあるのではないだろうか。言い換えれば、文字による識字は、コミュニケーションを促進するより、むし(FF) ろそれを妨害するものでもあることを認識した上で、書き手が可能な限り自分の持つ第二のディスコースを特権的に使用することを止めるべきであるということだ。そのためには、〈コミュニティー〉における識字の役割について考える必要がある。」(P.197-198)__言語の非人間化、客体的存在となる。言語(手話も含めて)が持つ全体性が文字では失われている。
3 識字とコミュニティー
(David W. Orr "The Problem of Disciplines")「彼のいう生態的非識字者とは、学問的専門分野に縛られた識字によるこのような教育を勝ち抜いてきたもので、生態環境を破壊することに無感覚になってしまった者のことである。すなわち、オーの用いる〈生態的識字〉の概念は、ハーシュの〈文化の識字〉に対立して存在するものもと言えるわけである。」(P.199)
「愛とか真理などという概念が虚しいものとしてしか響かないのが現代である。それは、実践をともなわない真理を説いてきた者たちが、まさに識字の暴力を利用して自分たちの都合の良い解釈を押し付けてきたからである。」(P.200)
「それでも、少なくとも、〈不耕貧食〉の上に築かれた第二のディスコースで語られる倫理観が偽物であることは、直感的に知っていると思う。だから、神の下の自由とか平等などと言われても、それを言葉通りに受け入れることは出来ないのである。」(P.201)__その中で生きてきてもそれが偽物だと感じるのはなぜか。それが自我以前への郷愁(怨恨、ルサンチマン)でなくてなんだろうか。
4 アーミッシュの識字観
a アーミッシュ
b アーミッシュの歴史
c アーミッシュと学校教育
d アーミッシュの識字
(Andrea Fishman, "Amish Literacy")「「三人称単数のような形態が、基本的に一人称複数の社会にとっては親しみのないものであるだけでなく、命題陳述、トピックセンテンス、一貫性、統一性、強調のような概念も、同様に馴染みのあるものではない」と、フィッシュマンは述べる。」(P.231)__主観性の薄い社会。客観性も薄い。論理性の薄い社会。文字があっても、主観を持たないことは可能?
「教室における教師の絶対的権威は、観念的には、私たちの識字社会では好ましいものとされないにもかかわらず、教師は多くの権威を背後に背負っているのが現実である。」(P.233)__権威と責任を背負わされている。「好ましい」と思われていないのはなぜ?
「むしろ現実は、識字の暴力性を認識できないが故に、識字の暴力が大手を振って歩ける社会が存在していると言える。(LF)アーミッシュの人々が、識字の暴力の行使を避けることが出来ているのは、おそらく、人間はそこに「居住」しているコミュニティーから切り離しては存在できないという、いわば人間と環境の問題を的確に捉えているからであると思う。」(P.233)
「オーの言葉を借りれば、私たちの従来の識字観の枠組みの中では、識字者になるための現在の高等教育を受けて、生態的非識字者になることの間になんの関係も見いだせないのである。便利さという、科学技術がもたらす誘惑に対して、私たちは非常に弱い存在でしかない。だからこそアーミッシュの人びとは、科学技術の発展がもたらすもの、人間をコミュニティーから切り離してしまうものに対して、執ようなまでに抵抗してきているのだろう。」(P.234)
「独創性を賞揚し、コミ(FF)ュニティーを無視した個人主義を善とする社会では、人びとは、識字の暴力を認識することは、かなり困難になっている。」(P.234-235)
「識字の暴力を決定的にするものは、識字術それ自体ではなく、何か他の原因があると考える必要がでてくる。その何かとは、「教育という過程」であると、ホスキンは主張する。」(P.236)__Keith W. Hoskin, "Technologies of Learning and Alphabetic Culture : The History of Writing as the History of Education"
5 「教育の歴史は文字使用の歴史である」
「結論から先に言うと、ロゴス中心主義の起源は、文字の使用そのものではなく、文字を学ぶ体験と、その体験から生まれてくる、世界を文字的に読み取る思考の獲得によるものだ、という。」(P.137)__Hostin。テロップをみてしまう。テロップの暴力。
「いわば、識字術という目に見える技術ではなくて、「学ぶことを学ぶ」という、目に見えない技術・プロセスにその起源を認めるというものである。」(P.237)
a ライティングと音声中心主義
「デリダが「代補のロジック」と呼ぶようなパラドックスの中では、補助であるはずのライティングが、常に中心を占めているように見えるわけである。文字の権威が誰の目にも明らかであるにもかかわらず、文字は補助であると捉えられねばならないことから、ライティングは、常に信用できないものとなる。(LF)このような捉え方をした人間として知られているのが、プラトンである。」(P.238)
「文字や文節の「完璧」な解読が、必然的に「完璧な」読みへと導くと考えられていた。しかし、それは同時に、知識(そして教育哲学)の新しい権威の誕生をうながした。」(P.240)__Hoskinからの引用
「また、知(FF)識としての識字を持たぬ者は、識字=知識の権威を認めざるをえないという、〈精神的識字化〉とでも呼べる状態が生まれることになる。このような現象は、とくに、ホスキンが識字中心主義と呼ぶ、一九世紀以降の識字社会において、より顕著になる。識字中心主義は、筆記試験、試験結果の数量化、ライティングという、三つの実践によって強固な基盤を築いたのである。」(P.240-241)
b 〈計測可能な者〉の誕生
「ライティングが必然的に伴う試験がもたらす二つの可能性とは、「記述と分析が可能な客体としての個人」が生まれることと、「包括的な現象を測定し、集団を記述し、集団として捉えられる事柄を特徴付け、個々人に見られる差異を評定し、ある〈人間集団〉における差異の分布を見極めることができることを可能にする、一つの比較体系」を作り上げることを可能にすることである。まさに「試験は、知識の形成のある種のタイプを、権力の行使の、ある種の形態へと結び付ける一貫した装置を導入した」のである。それは、「客体化の装置」である。」(P.241)__『監獄の誕生』P.187-191
「さらに、そのような文書化の技術を伴う試験は、人間を一つの「事例(case)」として扱うことを可能にする。」(P.242)
「現代の人間であるフーコー、すなわち自分自身学ぶことを学び、筆記によって採点される試験という現代的制度を通して成功を勝ち得た人間が、試験(検査)を、自我に影響をおよぼすことになる自明の慣習として捉えることができたのである。」(P.243)__Hoskinからの引用。
c ライティングと試験
「人間の私利を捨てずに、どうやって理性的かつ公正な社会を築くことができるのかという問題をスミスは、〈自我〉を新しい定義によって捉えることで解決する。すなわち、自己を「行為者」ではなくて、「自己の観察者」として捉えることによって、いわば、もう一人の自分を外部の権威を持つ代理人に見立てて、「今どう在るのか」と「どう在るべきか」を区別できることになり、私利を持った自己を正当化できると考えたのである。」(P.247)
「すなわち、「自己の行為を自ら診断する」ことで、「観察者−試験者」と「行為者−被験者」という、二つの自己が同一の自己の内部に存在できることを認めるである。」(P.247)
d テストによる人間の断片化
「未来志向のテストの特徴は、「意味するもの(テストの結果)が意味されるもの(被験者の未来の行動)に優先する」ことである。また「意味するものは、意味されるものを作り出すために用いられるコードの役割を果たす」という、「実際の行動よりも、その可能性が優先する」という事態をうみ出す。このような状況では、過去の行動から未来の行動を予測することは、もはや効率的でも効果的でもなくなる。」(P.249)__F. Allan Hanson, "Testing Testing : Social Consequences of the Examined Life"
「たとえば識字の基準を計るテストは、生徒が習得すべき規範からの逸脱をはっきり示すことから、主流派の規範を獲得していない生徒は、矯正(FF)されるべき対象となる。さらに、「試験結果は、他人の目で人間を再定義するだけではなく、自分の目でも自分を再定義するものとなる」。極端な場合には、客観化された試験結果を通してしか自己を定義することができないという事態を招く。」(P.249-250)
「「歴史上かつてないほど、社会の中の個人に関する情報が集められている。しかしながらそれは、それぞれの項目を細部に渡って調べるものではあるが、それらが繋がれることはほとんどないような知識のようなものである。そのような知識は、異なった場所に保存され、異なった目的で使用されるのである」。このようなテストによって生み出される知識は、「自我の断片化」をますます押し進めるものとなる。」(P.251)__学問の細分化。医学が診療科に分かれ、あちこちの病院に行かなければならない。
「しかも知識・情報が権力となるオンラインの時代においては、個人の計り知れないところで情報が蓄積されていくことから、情報へのアクセスや情報量が、支配の関係を容易に作り出すのである。さらに、「個人に関しての知識の産出と提出は、テストをする側の支配下にある」のである。」(P.252)
6 識字の将来
a コンピューターは中立の道具か
「このような構造は、同時に、必要な情報を手に入れることが出来る立場にある者が、そうでない者より支配力が強いのは当然である。」(P.256)
b オンラインの識字
「書籍である本に代表される印刷物の識字は、まず著者と読者がはっきりしている。さらに伝統的著者と読者の関係は、著者は読者が知りえないある知識を所有するという、一段高いところに位置付けられ(FF)るような、いわば権威ある存在である。しかも、その識字で用いられる文字や慣用は、社会の主流派のものである。このような、伝統的識字の暴力的側面は、パソコン通信のコンピューターの画面に現れる識字においては、かなり弱められる。オンラインの識字の特徴の一つは、伝統的意味での著者の存在が薄らぐことである。もちろんあるテキストを最初に作り出す人間は存在するに違いないのだが、一旦編集画面上に呼び出されたテキストは、容易に書き換えることが可能である。印刷本ではできなかったことが自由にできるようになり、もはや著者は存在しないといって好いような情況が生まれる。(LF)まさに、「テキストを作り出す責任を持つのは読み手である。ある特定の目的を達成するために既存の材料を繋ぎ合せて書くのは読み手である」と言えるのである。」(P.258-259)__Myron C. Tuman, "Word Perfect : Literacy in the Computer Age"。印刷本についても同様だという考えが必要。印刷本の著者も、読者の殆どには面識がない。何となく、コンピューターを知らなかった者が、「新しい技術」に対して驚いて、なんとか理解しようとしているような感じを受ける。
「言い換えると、最初から筋書きのない断片だけを(FF)たよりにドラマを構築するのは、極めて難しいのであり、むしろある程度の〈筋書き〉を持っているが故に、ハイパーテキスト効果的に使えるということである。」(P.260-261)
(P.263)__永遠=持続可能
「印刷の識字に見られる線的かつ連続的思考は、筋道を立てる上で是非とも必要なものである。人間は、そのような線的で連続的思考をすることによって思考を整理してきた。そのような線的思考は、人間の経験を筋道立てて記録するものでもある。それがなければ、自らの現在の位置を理解することもできない。従って、そのような思考を保つ印刷の識字の役割の重要性がまだ感じられる今こそ、オンラインの識字のあるべき姿を想像し創造していかねばならない。」(P.265)__「人間」という言葉が出てきたら、怪しいと思わなければ。アリストテレスそのもの。「人間は死ぬ。アリストテレスは人間である。ゆえに・・・」A=B、B=C、C=D・・・。線的思考=チューリングマシン。歴史の中の自分は大切だけど、歴史というは書かれたもの。文字ができて5000年。やっと文字が持つ意味がプラトンとともにわかってきたのか。コンピューターが当たり前になったとき、その世代にはコンピューターの意味がわからないのか。それこそが「識字」の問題ではないのか。それでも自分が生まれ育った環境としての文化の「批判」は可能か。
あとがきにかえて
「しかし、「現実」も「仮想現実」も、物質的に、すなわち識字によって「間接化」された世界だと捉えると、その二つの世界には、もはや境界線は存在しない。すなわち、肉体的・物体的接触という基準ではなくて、抽象的・物質的接触があれば「世界」が構成可能であると考えれば、「仮想現実」も「現実」も区別不能になるからである。識字によって組み立てられる世界は、まさにそのような世界である。それはもはや「仮想現実」対「現実」の識別ができるようなものではなくて、個人にとっては一つの〈現実〉にほかならないのである。」(P.281)
「その「第二のディスコース」を、「学習」によって獲得するよう求められるのが一般の信者の姿であるが、「修行」もその過程の一つである。」(P.281)
「信者はそのただ一つの究極のディスコースを「学習」によって獲得することを求められるのである。そしてそれをマスターした者のみがそうでない者を指導できるわけだが、実際には「第二のディスコース」を「学習」によって獲得することは理論的には不可能である。その不可能な部分を無理やり可能にしようとするところに、識字の暴力性がもっとも強く現れるのである。」(P.282)__暴力性=一つの文化的規範
「というよりも、新しいメディア・テクノロジーが発達しても、私たちは、文字・活字文化が作り上げてきた思考、すなわち印刷本に顕著にみられるような、直線的な「筋書き=ガイド」を必要とする思考を捨てることはできないのではないか。」(P.283)__自我を棄てることができない。
「問題は、筋書きを築いていく過程が、唯一「学校」とい(FF)うメタファーでしか捉えられない「場」における「教育の過程」と化すようになると、往々にしてそのディスコースは単数になってしまうことである。」(P.283-284)__コンピューターゲームをやるにもルールを学習することが必要。
「したがって、コンピューター技術による思考の幅を広げる可能性を探る前に、いかにして複数の筋書き=ガイドを想像しまたそれに共感できる能力を身につけるかということが議論されなければならない。現状では、コンピューターというメタファーで捉えられるさまざまな技術は、すでに身につけた筋書き=ガイドを固定化する力のほうが強いうように思える。基本的に、識字術は、「現実」を媒介=間接化する技術であり、コンピューターはさらに、その間接化を徹底しておし進めるものとして使われているように見える。」(P.284)__イビピーオ。
「しかし、識字は個人の努力によって獲得される中立の技術としての読み書き能力ではない。識字はある「文化」を背負った「第二のディスコース」である。だから本来、それを「個人」の責任の範囲で捉えることは間違いなのである。」(P.286)__手話という言語と、手話言語者という文化。
「そのような「場」の一つとしての「教育」という「場」において、識字は特定のディスコースを固定するために使われてきた。またそれは、そこで用いられるディスコースのみが唯一の「基準」であるという錯覚を植え付け、その「基準」から外れることの恐怖感を「強迫観念」として社会的に固定してきたとも言える。」(P.289)
「また、こころの中で一度「真実」として定着したものは、それを否定するもう一つの「真実」を肯定するまでに、長い時間がかかることも経験してきた。」(P.290)
一九九五年六月二〇日 菊池久一
〈メモ〉
識字(文字)の暴力
SNSが持つ暴力性は「言葉の暴力」ではなく「文字の暴力」です。これを「ヘイトスピーチ」と呼ぶことに違和感を持つ人もいると思います。その違和感が大切だと思います。
文字とことば
大切なのは、文字ではなくて言葉です。言葉にも体制維持的(保守的)な言葉と革新的な言葉があるでしょうか。その場合、保守的、革新的というのはどういう意味をもっているのでしょうか。日本の政治をみていると、どっちも資本のためにあるようにおもえます。アメリカなんかはまさにそうですよね。
言葉をあらわすのが文字
もともと、言葉と文字は別のもの。抽象性、
乖離の可能性、固定と変化
口語と文語
候文、歌舞伎、浄瑠璃、講談、戦時中の報道映画、ラジオ放送、玉音放送
文語がもつ、権威性
文字の優位性は崩れた?
文学上の口語、口語による文学は可能か?
文字による言葉の変化、文字が言葉にあたえる影響
文字が思考にあたえる影響