日本における翻訳造語 ――「カセット効果」について 柳父章著 国際日本文化研究センター学術リポジトリ 公開日2015-11-13

日本における翻訳造語 ――「カセット効果」について 柳父章著 国際日本文化研究センター学術リポジトリ 公開日2015-11-13

いま、ウヴェ・ペルクゼン著『プラスティック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』の感想文を書きはじめたところです。「訳者あとがき」にもあるとおり、柳父さんの「翻訳語」と共通点があると思って調べました。

「カセット効果」は、1982年の『翻訳語成立事情』(岩波新書)にすでにあります。

だが、こういう新しい文字の、いわば向こう側に、individualの意味があるのだ、という約束がおかれることになる。が、それは翻訳者が勝手においた約束であるから、多数の読者には、やはり分からない。分からないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よく分からないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。

日本語における漢字の持つこういう効果を、私は「カセット効果」と名づけている。カセット cassette とは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分からなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。(『翻訳語成立事情』P.36-37)

「カセット」と聞くと、私は音楽用のカセットテープをイメージしますが(若い人にはわからないかも)、宝石箱のことだったんですね。「カセットテープ」とは粋なネーミングです。

輸入語(文字)の神秘性

物と同じように、文字もまたその用途はよく分からなくても、何かとても貴重なように扱われていた。入念に削って書かれて埋められた文字も、一般の人々の目につかない地中に埋められていたのである。当然表現や伝達の道具ではない。しかし、とにかくとても大事にされていた、ということが分かる。

同じような文字の扱い方の例は、古代大和に限らず、世界の至る所に見いだされる。とくに人類が文字を知るようになった初期、それは意味のある有用な道具としてよりも、意味不明の、しかし貴重な存在として扱われたようである。「意味不明の、しかし」というよりも、意味不明であるからこそ、ある貴重な存在となっていた、と私は考えたい。」(P.122)

輸入語(翻訳語)だけではなく、「文字そのもの」が神秘性をもっているということです。文字の神秘性は文学でもさまざまに表現されています(中島敦『文字禍』、円城塔『文字渦』等)。文学がその名の通り「文字を扱う」ものである以上、作者はそれ(自分の道具)にこだわりますから当然です。

文字に表されている「ことば」そのものも「言霊(Wikipedia)」と言われ、神秘性をもっています。

万葉時代に言霊信仰が生まれたのは、中国の文字文化(漢字)に触れるようになり、大和言葉を自覚し、精神的基盤が求められたこととも無縁ではないという指摘がある。(Wikipedia、川村湊 『言霊と他界』 講談社学術文庫 2002年 )

金田一京助は『言霊をめぐりて』の論文内で言霊観を三段に分類し、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」「祖先伝来の一語一語に宿ると考えられた言霊」とし、それぞれ「言語活動の神霊観」「言語表現の神霊観」「言語機構の神霊観」ということに相応しいと記している。(Wikipedia)

文字の神秘性は、「ことばの神秘性」を引き継いだのでしょうか。私にはわかりません。神秘性をもち、崇拝の対象となっているもので、「文字ではないもの」「ことばを表したものではないもの」はいくらでもあります。

私のもっている『新釈漢和辞典』(1969/11/10、明治書院)の「字」の解字にはこうあります。

会意。子に家を示す宀を加えて、家で子を生み育てる意を示す。子がつづいて生まれて家族がふえるように、一つの文字から次々に字が増えるので「もじ」の意に用いる。(P.276)

ついでに「文」は

象形。着物のえりの交わる形を示し、えりもとの美しい意から、「あやもよう」の意を示す。のち、文字・文章の意に用い、部首(ぶんにょう)として、あやの意を示す。(P.450)

この歳で「文」「字」を調べるとは思いませんでした。「ぶんにょう」の漢字はあまりないようです。「斑・斐・斌」が挙げられています。

『文字禍』

せっかく「青空文庫」にあるので改めて読んでみました。一部抜粋。

文字の無かったむかし、ピル・ナピシュチムの洪水こうずい以前には、よろこびも智慧ちえもみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被ヴェイルをかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶ものおぼえが悪くなった。これも文字の精の悪戯いたずらである。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚ひふが弱くみにくくなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及ふきゅうして、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
老博士は浅薄せんぱくな合理主義を一種の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。
獅子がりと、獅子狩の浮彫うきぼりとを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板にしるされたものである。この二つは同じことではないか。
その時、今まで一定の意味と音とをっていたはずの字が、忽然こつぜんと分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一けんの家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦れんが漆喰しっくいとの意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体からだを見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪きかいな形をした部分部分に分析ぶんせきされてしまう。どうして、こんな恰好かっこうをしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢こんていが疑わしいものに見える。

「文字の精の悪戯いたずら」(災い)の箇所は、ソクラテスが言ったことだし、イリイチが「コンヴィヴィアリテのための道具」以来言っていたことと同様です。

「合理主義(=論理的)」が文字から生まれたかどうかは微妙です。むしろそれは印欧語文法、あるいはセム語の影響でしょう。

「実在(真実) => 書かれたもの => 歴史」が「歴史 = 書かれたもの = 実在(真実)」に逆転するところもすごいと思います。これによって歴史は時間を失い、「非歴史化」します。これは「実在(真実) => 書かれたもの(科学) => 専門用語」が「専門用語 =>プラスチック・ワード = 意味(実在)の喪失」に対応していると思います。

文字を「インクのしみ」や「石版の傷」特別するものは、「文化」です。音(声)をどうゆうふうに「しみ・傷」にするか、「しみ・傷」をどのように音(声)にするのか。それは地域や時代によって異なります。その「ルール」は「ヴァナキュラー」なものです。そのルールがわかれば、字を音にすることはできます。でも、その音が現す「意味」が分からなければ、それは風の音や犬の鳴き声と同じです。音から意味を取り出す(あるいは逆)ことによって、音は声になり、声は意味となります。

中島敦は天才です。

漢字造語

柳父さんは、「日本的漢字、二字造語」の理由をこう言います。

日本の漢字語が二字一語になったのは、第一に中国語の意味と区別する必要があったためである。そして第二に、漢字語が大和言葉の中で伝来の言葉と区別されるという機能のためであった。(P.122)

漢字には「音」と「訓」がありますが、多くの大和言葉は漢字の訓に送り仮名をつけます。でも、それは漢字仮名交じり文のことで、すべて漢字で書かれていたとしても、漢字一文字には和語、あるいは中国語が対応して、輸入語との区別がつく気はします。漢字は一字一字に意味がありますが、

日本製の漢字造語は、中国における用法と比較すると、要約すれば、その意味よりも形式面が重視されているという特徴がある。漢字の要素として、古来「形・音・義」の三つがあると言われるが、この「形」が、「音」や「義」よりも重視されている。この特徴が、近代以後の西洋語翻訳における漢字造語でも重要な働きをしているのである。(P.121)

なるほど。漢字造語では漢字の意味が薄れるということです。

「経済」という翻訳語は economy の翻訳語として今日使われている。これはもとは「経世済民」という economy の意味にいくらか近い意味の熟語から、二字を抜き出した造語である。形は二字で翻訳造語らしいが、「経」と「済」というその二字の漢字からは、economy の意味はほとんど伝わってこないのである。

たとえば、「経済」という文字を見る多数日本人は、その意味をどのようにして理解するのか。この文字の意味からではない。この文字の意味として、かつて学校で教わった定義とか、この文字が使われている文脈上の意味などから推察するのだ。この文字は、それを知るきっかけにすぎない。この理解の仕方は、英語を母語とする人々が economy の意味を理解する過程と同じであるように思われる。(P.123)

イリイチは言います。

話されたことばは、書かれたもののうちに生き続けます。昨日語られたことばが、いまなおそこに現前していると想像する  それはギリシア思想の根幹をなす考えです  ためには、昨日のことばがどこかに記録されており、したがってそれは再現されうるのたと想像しなければなりません。(イリイチ『生きる意味』P.337)

その再現のきっかけが「書かれたもの」です。

「経済 economy」は「犬 dog」という語彙とは違います。「犬」という漢字は象形文字ですが、それが絵のように犬に見え、その意味が「いぬ」だとわかるわけではありません。「犬」は「いぬ」という音(声)を表していて、その「いぬ」という音を聞いたときに、頭のなかに自分が経験した(見た)犬が思い浮かびます。「犬」という文字を「見て」、自分が見た具体的な犬を思い浮かべるためには、ワンクッションが必要です(シャレではありません)。西欧では中世まで、文字を読むということは「口に(声に)出して言う」ということでした。「黙読」という文化が定着するのはずっと最近のことです。

「犬」という文字を見てその意味がわかるためには、文字が内在化し、ある意味で「音(声)」から分離することが必要です。「経済」ということば(文字)も、ある経験や印象を惹起します。でもそれは「経済」ということばの「意味」を知ったあとです。「意味対象」と「意味記号」は完全に分離しています。「犬」の意味は「いぬ」という音(声)と、具体的な犬(経験)と同じです。意味対象を「シニフィエ」、意味記号を「シニフィアン」と言ってしまうと、文字と音声や「マーク(記号)」と区別できません。文字が内在化したあとでは、文字のもつ意味が消えてしまい、文字は超歴史的存在となってしまいます。そして、文字の神秘性はことばの神秘性と区別できなくなります。

「economy」には「οἰκονομία 家-分配、家政」から来ています。長い歴史があります。「οἶκος 家」「νέμω 当てる、充てがう」は現在でも使われているのではないでしょうか。「経済」は「経世済民」の略ですから、ちょっと異質です(経世済民とeconomyの関係は別として)。「平和」はどうでしょう。「平」と「和」、「平成」よりは何となく「和」のイメージがあります。あとは二文字がくっついて四文字以上担ったり(「自己」「同一」=>「自己同一」)、「的」とか「性」とかがくっついたり割り込んだりします(「自己同一性」「同一的自己」)。そうやって曖昧さやありがたさが増えていきます。

「プラスチック・ワード」と「カセット効果」

柳父さんの例が面白いので引用します。

(お経は・・・引用者)分からないけれど、有り難いと思って、頭を下げてじっと聞いている。今日でも、日本の大多数の寺で、こういう現象が続いている。

さまざまの文化現象についても同じような効果が観察される。今日テレビのコマーシャルなどでは、多数視聴者にはよく分からないはずの言葉が繰り返し叫ばれている例がある。「タウリン 1000 ミリグラム配合!」と叫ぶ。「タウリン」とは何か、たいていの視聴者は分からないはずだが、そういうコマーシャルが作られるということは、大多数日本人がこの言葉の「カセット効果」に引っかかるという事実を明かしている。」(P.124)

このCM以外で「タウリン」ということばを聞いたことがないので、私もタウリンの意味はわかりません。「コラーゲン」とか「コンドロイチン」「ヒアルロン酸」「グルコサミン」なんかも「お肌プルプル」とか「膝関節が元気」というイメージはありますが、どんなもんだかはわかりません。「ビタミン」は学校で習った気がするけど、何種類あるかすらわかりません。それらは「科学(化学、生化学)」のことばです。それらの学問では厳密に定義されているのでしょうが、それが日常言語に入ってくると「なんか体に良いもの」「ありがたいもの」という「権威」を身にまといます。いま世間を騒がせている「紅麹」。いまでも小林製薬のホームページには掲載があります(「紅麹とは」、「紅麹の成分と作用」)。

赤い発酵食 紅麹ってなに?

紅麹は米などの穀類をMonascus属の糸状菌で麹菌の一種である紅麹菌で発酵させたもので、赤色をしているため「紅麹」と呼ばれています。(「紅麹とは」)

健康障害を起こした人の何人がこのページを読んだか走りません。そして、読んでもわかりません。第一、「キン」と「ウィルス」の違いが分かる人がどのくらいいるのでしょうか。「ワクチン」と「治療薬」の違いはどのくらいの人が知っているのでしょうか。知っている人はワクチンの接種回数が短期間にどんどん増えていったのをどう思っているのでしょうか。

日本は有史以来、先進外国文化をとりわけ熱心に取り入れ、自らの言語、文化を豊かに築いてきた。それには、未知、不可解な異言語、異文化を進んで取り入れる「カセット効果」の働きのおかげがあったのではないか。

およそ互いに異なる言語や文化が出会うときの問題を、出会いの場から考えると、出会う相手の言語や文化は、必ず未知・不可解なところがあるに違いない。異言語、異文化の出会いは、未知、不可解から始まるのである。これに対して、一般に科学的方法は、既に知られた確かな事柄から出発し、その理論を積み上げていく。しかし、翻訳は知らない言葉との出会いから始まるのである。「カセット効果」は、通常未知との出会いから引き起こされるのである。(P.124)

柳父さんは「カセット効果」を単に否定しているわけではありません。「カセット効果」を「文化受容の要因」と考えているようです。日本が「豊か」になったのは「カセット効果」の「おかげ」と考えているようです。私は楽観家ではないので、そうは思いませんが。評価は別として、柳父さんの言う「カセット効果」は「受容する側」の問題です。それに対して「プラスチック・ワード」は「与える文化の側」の問題だともいえます。でも、それだけではありません。先日の国会答弁では質問する側も答弁する側も「カタカナ語」を羅列していました。答弁する側は「答弁書」を読むだけですから、内容がわからなくていいし、答えたこともすぐに忘れるでしょう。質問者も、再質問しなかったのは「時間がなかった」のではなくて、「わかっていなかった」のではないでしょうか。大切なのは「なんか意味のあることを国会で質問した」という国民へのパフォーマンスです。まさしくプラスチック・ワードの羅列でできた文章ですが、それによってなされるのは「国民支配の強化」です。プラスチック・ワードは、支配のための道具です。「カセット効果」を「受容する側の問題」、「プラスチック・ワード」を「与える側の問題」としてはいけません。それは権力の作用であり「植民地化」の問題なのです。日本語が「プラスチック・ワード」を受け入れる要因として「カセット効果」を捉え直す必要があると思います。




カセット効果


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



カセット効果とは、意味が分からない言葉や価値が分からない製品に接したときに、見かけの形(漢字なら二字で一語であること)や値段の高さなどが重要で、意味や価値が分かってないにもかかわらず、大事な意味や価値があるに違いないと思い込むことである。

ここでいう「カセット」とは、宝石箱(フランス語:cassette)の事。小さくて綺麗な宝石箱の中にはすばらしい物が入っていそうだが、その宝石箱は完成したばっかりであり、まだ何も入っていない。しかし、その中身は見えないため、かえってすばらしい中身が想像されるということから、この名称が名づけられている。


概要

翻訳語研究者、比較文化論研究者の柳父章が生んだ言葉であり、柳父はカセット効果について以下の点を指摘している[2]


  • カセット効果は、ことばが価値を持っているように働く。
  • カセット効果のもつ価値は、結局、意味としては説明できない。他のことばによる置き換え、という意味によっては説明できない。(中略)カセット効果のことばは、置き換え不能である。
  • カセット効果は、もともと無意味なことばの持つ効果である。(但し、まったく意味がない場合は、それほど多くはなく、あくまでもこれは理念型だ、としている。)

ただし、柳父はカセット効果について、日本が海外の先進的な文化を受容して独自の言語・文化を築いたという点を挙げて、「ある場合には自然であり、また言語、文化の活動にとって有益な結果をもたらしている」とも指摘している。

一例

仏教の僧侶の経文音読を耳で聞くとき、意味は解らないものの、有難いと思って頭を下げている。

大抵の視聴者は「タウリン」という言葉の意味は分からないはずだが、「タウリン 1000 ミリグラム配合!」と叫ぶテレビのCMが作られる。

「インフォームド・コンセプト」「バリアフリー」「イベント」「メリット」などのカタカナ語が新聞・雑誌・テレビ・ラジオにおいて頻出する。

学名などの学術用語においては、ギリシャ語及びラテン語系の難しい表現が用いられる。




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