言語の起源 人類の最も偉大な発明 ダニエル・L・エヴェレット著 松浦俊輔訳 2020/07/26 白楊社

言語の起源 人類の最も偉大な発明 ダニエル・L・エヴェレット著 松浦俊輔訳 2020/07/26 白楊社

トイレ本

トイレに置いてあって、用を足すときに読む本です。最近、トイレと風呂でしか本を読んでいない気がする(汗)。トイレ1回で、2ページ読むとして、1日5回トイレに行けば10ページ、1ヶ月で300ページ読めます。結構読めるでしょ。

エヴェレットの『ピダハン』はすでに読みました。著者は言語人類学者ですが、アマゾン川流域に住むピダハンの村にキリスト教の宣教師として布教のために行き、約30年間過ごしました。その時の経験が彼の学説を作っていると思います。その他にもたくさんの場所(民族、部族の中)で言語学の研究をしています。

この本は「言語の起源」という言語学の最大課題に挑んでいます。

アメリカ合衆国では、人類学は以下の4分野からなる。4分野を合わせて、しばしば四分類人類学(Quadrant Anthropology)、総合人類学(general anthropology)と言われる。

  1. 先史考古学 Archaeology
  2. 言語学(言語人類学)Ligustic Anthroplogy
  3. 生物人類学 Biological Anthropology
  4. 民族学・民俗学・文化人類学 Cultural Anthroplogy(wikipedia

著者はこの四分野を駆使して、言語の謎に迫ります。

ダークマター

著者の重要概念です。

非明示性とは、あらゆる会話のあらゆる発話、あらゆる小説のあらゆる一節、あらゆるスピーチのあらゆるくだりに「空白の点」、つまり話されることのない暗黙の知識、価値、役割、感情が含まれていることを意味するーー私が「ダークマター」と呼ぶ、言葉で特定されていない内容のことだ。(P.22-23)

たとえば「そう」という日本語の一言は、相手の言うことに同意するということだけじゃなくて、皮肉の意味もあるかもしれないし、疑問を呈しているかもしれません。もちろん、英語の「So」とは違います。話された状況や、相手が何を知っていると前提するかなど、あるいは日本の文化や環境まで含んでいます。

言語は決してすべてを表現はしない。文化がその細部を埋めるのである。(P.294)

相手が話すように話す

私はこの「話をともにする相手のように話す」という原理は、人間のあらゆる行動について言えると思う。食べるのをともにする相手のように食べるし、考えるのをともにする相手のように考えるといった具合に。われわれは広い範囲の共有属性をまとう。われわれのつながりが、生き方、行動のしかた、外見ーーつまり表現型を形成する。文化はわれわれのジェスチャーや話に影響する。体にさえ影響する。アメリカ人としては早い時期の人類学者だったフランツ・ボアズは、環境、文化、体系の関係を詳細に調べ、人間の体形は高度に柔軟で、その土地の生態的文化的両方の環境の力に適応して変化するという確かな説を打ち立てた。(P.405)

「食事の西洋化によって、日本人の体格は良くなった」と言われることがあります。「牛乳を飲むと背が高くなる(おっぱいが大きくなる)」と言われることもあります。言語はもとより、体格も遺伝子で決定するわけではない、という発想はいいですね。「親子(兄弟)は似てくる」とか、「ペットは主人に似てくる(あるいは、主人はペットに似てくる)」と言われることもあります。

「日本語のタタミゼ効果」(鈴木孝夫『日本語の感性が世界を変える』第二章参照)という言葉もあります。言語は、感情や感覚、物の見方そのものを規定します。

脳・知覚・心

人間は、見えるものを写真のように見ているでしょうか。日本人とアメリカ人は現実を同じように見ているのでしょうか。「人間」などといわずとも、私とあなたは見えているものが同じでしょうか。

「見えている」と思うのが、「心の理論」です。

言語のためには、必要ないくつかの前提条件、いわゆる「プラットフォーム」〔共通の足場〕がある。そのうちの二つが、文化と「心の理論」(人がみな同じ認知能力をもっていることの意識)だ。(P.73-74)

理由は人は誰もよく似た脳を持っているからであり、要するにこれこそが心の理論なのだ。(P.74)

そして、言葉を発するということは、

他人も自分と同じように考えていて、こちらが伝えたいことを理解するだろうと信じていればこそ、言語は機能する。(P.75)

その期待を裏切られたときの感情をドラマ『Silent』が描いています。それをどう乗り越えるのか、今後の展開に(少し)期待しています。

著者は「脳」という「物質」と「言語」について、

つまり脳は他のどの器官とも同じ、身体的器官であり、体の構成素なのだ。この身体化は、思考における文化の役割とともに、脳が体を通じて物理的に世界に組み込まれていて、コンピュータとは違うということを意味する。

すると、ここに現れてきた脳の姿は、認知的にはモジュラー的ではない器官で、生まれつき言語に(あるいは料理やギター演奏に)特化した組織はない。これは、身体能力に関して存在する、生まれつき特化した領域とは正反対だ。一方で文化あるいは概念にかかわる能力にはそうした領域はない。(P.234-235)

いまでも「言語野」とか「言語中枢」という言葉が使われます。言語は人間に特有のものですが、人体実験はできないので、事故や病気で言葉を話せなくなった人、聞いて理解することができなくなった人(失語症の人)の脳の損傷場所を調べて、こういった部位が脳にあると仮定しています(近年はMRIで「見て」います)。これらを「言語処理のモジュール」と言ったりしますが、脳は「手を動かすモジュール」「自転車に乗るモジュール」「話すモジュール」「考えるモジュール」などが組み合わさってできたものではありません。

サーモスタットは思考するか

サーモスタットがエアコンのスイッチを入れるのは暑いと思っているからだと言うこともできる。あるいは、足の指先が丸まるのは、そうすれば暖かくなると指が考えれいるからだとか、あるいは植物が太陽に向かって伸びるのは、そうすべきだと信じているからだとか。確かに実のところ、会話の便法として信念が動物や雲や樹木などにもあるという言い方をする文化は、ピダハンやワリを始めとしてたくさん存在する。だが、私が生活をともにして調査をした部族はほとんどの場合、このような信念があるとするのを文字通りに意図しているわけではなかった。

信念とは、体(脳を含む)が、何かーーたとえそれが概念であっても植物であってもーーの方へ向けられているときに生じる状態だ。信念は言語と文化に参加している個人によって形成される。(P.415)

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? Do Androids Dream of Electric Sheep?』というフィリップ・K・ディックの小説があります。映画『ブレードランナー Blade Runner』の原作です。思考や言語をコンピュータの部品のように「モジュールの組み合わせ」で成り立つと考えると、いつかコンピュータが夢を見たり、自己意識を持ったりすると考えることにつながっていきます。ピダハンやワリの文化を「原始的」で「遅れている(劣っている)」と考える現代の「先進国」の人は、ピダハンやワリ以上にサーモスタットの意思を信じている(信念)とも言えるのではないでしょうか。

進化

本書の面白さはまだまだありますが、詳述はしません。

本書の随所に出てくる言葉に「進化」があります。

進化は確固たる事実だ。理論と言えるのは、進化がどのように起きるか、あるいはどう見えるかの説明ーー自然淘汰、遺伝、系統樹ーーのところだけであって、進化そのものは理論ではない。(P.44)

言語の「起源」を考えるということは、言語の始まりとその変化を考えるということです。

著者は、「生命の起源」から「現代人(ホモ・サピエンス)」までの変化を「進化」ととらえています。その進化が「どのように起きる」のかは、いろいろな理論がありますが、それは「法則」としては説明できません。ある推論(仮定)を立てたとしても、(歴史は)再現実験ができないので、証明できないからです。

私が知る限り、その理論は「突然変異」と「自然淘汰(自然選択)」からなっているようです(『偶然と必然』参照)。そして「起源(始まり)」があるということは、その変化は一方方向です。だから、時間も一方方向に流れると考えます。時間が一方方向だから、変化が一方方向だと考えるのではないのです。一方方向の変化の頂点が「人間(ホモ・サピエンス)」つまり「自分」なのです。自分を頂点・中心に考えるから、変化は一方方向で、そのためには、時間は一方方向でなければいけません。猿が人間に進化する(これはダーウィン進化論の曲解です)ことは許容できても、自分が猿になることは許されません。

そして、「単純なものから複雑なもの」に変化(進化)は向かいます。200年前までは、それはある方向(目的)をもっていました。「神の意志の実現」です。AからB、BからCへの変化(進化)は「論理的」です。それを「因果関係」と言います。

因果関係

男女の体も違いが少なくなったーーつまり性的二形が縮小した。ヒトの雄は雌よりも平均で約一五%大きいが、この差は他の霊長類の各種と比べると小さい。霊長類の系統における性的二形の縮小には社会的な含意がある。霊長類の間では、雌雄の大きさが近いことは、つがいの絆、つまり単婚と相関している。雄の霊長類は、雌の餌や子育てを手伝う時間が増える。これはこの成熟に時間がかかるヒトのような霊長類にとってはとくに重要だ。

西洋の工業化された文化の中には、「子供時代」(自立した成人に達するまでに必要な時間)が人の平均寿命の三分の一にも及ぶところもある。雌雄が一生、あるいは子育ての間だけでも一緒にいるのであれば、雄はそれ以上、交配相手を求めて他の雄と争う必要はなくなる。(P.68-69)

「争う必要はなくなる」、そう思いますか。「〜に有利だ」「〜することができるようになる」・・・。これらは一見すると論理的整合性がとれている(理性的)ように思われます。西洋論理学は独特の因果関係という思考方法で成り立っています。そしてそれが進化論の基礎になっています。これとセットになっているのが「偶然」です。「偶然」は論証が必要ありません。偶然という非論理性が、論理性とセットになっているのが西洋的思考です。

著者自身が言っているように、「人間の言語あるいは人間の社会のいかなる人工物も、それが解釈される文化によってしか理解されない。」(P.403)のです。つまり、因果関係や進化論は「今の西洋文化が解釈したもの」にすぎないのです。

「脳が大きくなったから、知能が発達した」というような言われ方がよくなされますが、ホモ・エレクトゥスより現代人が「優れている」のが、「頭蓋の容積」などでわかるとすれば、西洋人は東洋人より優れていて、男は女より優れていることになってしまいます。

大人は子どもより優れている、と思っている「大人」は日本でも多いのではないでしょうか。

主語

主語、述語、名詞、動詞、形容詞などは、アリストテレス以来の西欧言語学です。筆者もその流れの中にいることは自覚していると思います。日本語には主語がない、いや別の形である、という論争がありました。昨日『ゆる言語学ラジオ』を聞いていたら、「主語はSpecTP」と言っていました(#171)。さらに次の回では「DO・PO」「所有の含意」の話です。

コンテンツは面白いのですが、「主語・述語」というのは、ギリシャ・ローマ時代のインド=ヨーロッパ語の解釈です。それは、当時の文化から離れてあったわけではありません。実際、古典ギリシア語をラテン語に翻訳するときに、すでに文化の違いの影響を受けました。それを日本語に当てはめる、つまり、日本語で解釈するときに「主語」があるかないかは日本語の問題というより、文化の問題です。日本語が日本のすべてを表しているわけではありません。言語に表れる部分(明示性)と、表れない部分(非明示性)、古典ギリシア語や英語で表れる部分、表れない部分は違います。子どもと話すとき、友人と話すとき、恋人と話すとき、外国人と話すとき・・・、相手によって言葉遣いが違うだけではなく、内容も違います。「子どもには、こういう言い方をしないとわからないかな」とか「外国人には、この単語は説明がいるよな」とか、考えますよね。

「所有」という概念(「感情」といってもいい)は、西欧と日本でまったく違います。「DO・PO」も、言語というより、使われ方の違いなような気がします。「cool」を「かっこいい」という意味で使うのはアメリカの俗語でした。でも、いまでは英語で一般的な気がします。よくテレビで「若者言葉」「JK言葉」が紹介されていて、「おじさんにはわかんないよねえ」などという結論になりますが、語順の変化や、それで受け取るニュアンスなども時代とともに変わります。というか、変わる文化の中に私たちはいます。半世紀前に私が学生時代に使った英和辞典は、「歴史的価値」はあっても、「実用的価値」があるのかどうかはわかりません。

「何をどのようにどれだけ話すか」というのは、文化・時代・相手・状況によって違ってくるのです。アリストテレス、サピア、ウォーフが見た印欧語と、本居宣長、時枝誠記、三上章が見た日本語は違います。私が見ている日本語と、JKが見ている日本語は違います。「見ているもの」というより「見え方」が違うのです。

私は、自分が受けてきた教育、自分の経験、自分の興味などで物を見ます。風景を見る時、私には雲が見えます。「ダリの雲」「モネの雲」・・・などに見えます。隣りにいる人には「象の雲」「カメの雲」・・・に見えているようです。山を見ても、私は木の種類がわからないので「青々としている」「はげている」くらいにしか見えません。それらを「〈私〉というバイアスでものを見ている」と言ってもいいでしょう。文化・歴史に規定された私です。もちろん、私が感じていることとJKが感じていることがまったく違うわけではありません。「甘い」といいう感じは、私とJKでは違うと思います。でも、私が「塩からい」と思うもの、「甘い」と思うものを逆に感じることはあまりないと思います。

おっぱいとペニス

すでに見たように、性淘汰は、美しさ(雄の孔雀の羽)や、女性の胸が他の霊長類に比べて大きいことや(初期のヒト族も胸が豊かな女性を好んだらしい)、男性のペニスが長いことなどの身体的特性に関連する、進化による変化の大きな力としてダーウィンによっては早い段階から認識されていた。また、高い知能の持ち主の方が、知能を減退させる副作用がある精神や神経系の病気(髄膜炎のような)を生き延びる可能性が高いというのも、知能の向上を有利にする対価に加えられるかもしれない。あるいはそこから、雄も雌も、障害や長期的影響が比較的少ない形で病気を生き残った相手を選んだという形で性淘汰を促したかもしれない。(P.197)

ダーウィン自身も、「自然淘汰(自然選択)」論だけでは納得がいかなかったようで、『種の起源』で提唱した「性淘汰」理論を研究し続けます(『人類の起原(人間の由来、人間の進化と性淘汰) The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex』1871年など)。たんに自然に制約されるだけでない、生物の「主体性」のようなものを認める方にシフトしたわけです。

著者のエヴェレットは大きなおっぱいが好きなのかもしれません。好みは人それぞれですから、いいのですが、大きいおっぱいは母乳がたくさん出る、とか、大きなペニスが性交の時気持ちがいい、とかいう俗説は、進化論と同じ発想から生まれてきていると思います。ペニスについては、

ヒトの雄のペニスは霊長類の中では体の大きさに比して長い。これは人類が習慣的に対面して交接を行う唯一の霊長類であることの結果かもしれず、さらにこれが雌雄の絆を強化したこともありうる。あるいは、何らかの理由で、ヒトの雌が巨根の雄に惹かれるようになったという可能性もある。(P.199,注)

「可能性」の話ですが、巨乳、巨根、さらには巨尻も魅力だと言いたいのでしょうか。対面位(正常位)が「正常」だというのも近代以降の西欧文化から見た先入観(偏見)でしょう。それだけの民族が(主に)対面位を行っているのかは知りませんが、飼育されている猿が人の正常位を見て真似ることがあるようです。でも、すぐやめてしまいます。やってみたけど気持ちよくなかったんじゃないでしょうか。

「人間は脳でセックスする」と言われます。人間にとっては、性交も、そこに至る過程も文化の一つです。

ホモ・エレクトゥスは百万年も前に火の扱いを覚えた。食物に火を通して食べるようになったことで、ホモ・エレクトゥス以前のヒト族は、これまで摂取してきた脂肪とタンパク質を消化系で分解しやすくなった。逆に言えば、このときまでのヒト族は他の霊長類と同じように、食物に含まれる大量のセルロースを分解するためにより大きな腸が必要だったのだが、火を通すようになったことで、肉を多く食べられるようになり、その結果、前よりエネルギー豊富な食物の消費量を増やし、消化しにくい非加熱の植物への依存度が大きく下がった。そして、この火を使うことで可能になった食物の変化によって、自然淘汰でヒト族の脳が大きくなりやすくなった。なぜなら、消化器が必要とするエネルギーが減り、人体に占めるスペースも小さくなる一方で、〔肉食が可能という前提で〕カロリーを以前よりもはるかにすばやく、大量に摂ることが可能になったからだ。(P.70)

エンゲルスが『自然の弁証法』で書いていることそのものですね(国民文庫(1)、P.232〜)。同様のことは『家族、私有財産及び国家の起源』にも書かれています。つまり、モルガン以来の説です。

プロメテウスが神から火を盗んだギリシア神話は有名です。肉食の文化も広くあります。ただ、

ものの本に出てくる専門の狩猟民属、すなわち狩猟によってだけ生活する民属は、けっして実在しなかった。そうするには狩猟の獲物はあまりにも不確実だからである。(『家族、私有財産及び国家の起源』国民文庫、P.28)

狩猟採集生活をしている民族において、主なる食料は女性が中心となって行う採集であるという報告もあります。逆に、イヌイットの食生活に占める植物の割合は低いでしょう。

イヌイットがどのくらい火を使うのかは知りません。でも、毎日毎食、火で肉や野菜を調理して食べるというのは、近代西洋文化のフィルターをとおして、他文化を見ているのだと思います(日本では、近代まで「四足のものは食べない」という文化でした)。

歴史と進化

過去を振り返ることで、我々はより賢明になる。現在の多くの民主主義国家が直面する新たな試練やトラブルの意味を、より正しく理解できるようになる。(ジョン・キーン著 岩本正明訳『民主主義全史』ダイヤモンド社、P.12-13)

歴史は進化であるということもできます。というか、歴史=進化なのです。『創世記』を信じるにしても、「ビッグバン」を信じるにしても、歴史(時間)に始まり(と終わり)があり、一方方向に流れる(変化する)というは一つの「考え方(思考方式)」「信念」でしかありません。

そしてそれは、〈私〉に始まり(誕生)があり、終わり(死)があるという思考方式を、歴史に適用したものだと私は思います。

私は「魂(霊)がある」とか、「輪廻転生がある」ということを信じているわけではありません。「ビッグバンはなかった」と思っているわけでもありません。〈私〉は「死んだらなくなる」と思っているし、それはとても寂しく、恐怖でもあります。ただ、それは〈私〉が「わたしのフィルター」をとおして、自分や自然(対象)を見ているだけであって、それとは別の「見方・考え方」もあると思っているのです。

「論理」は科学者、哲学者が言うように「自然に沿ったもの」「自然を言語化したもの」です。それはたまたまそういう発想であっただけで、自然を(存在を)説明する仕方は一つではありません。人類の一部はたまたまそういう考えを持ったというだけなのです。それが優性だったわけではないし、「唯一の真理」でもありません。言語が違うように、説明も違いうるのです。いや、言語の数だけ(文化の数だけ)説明あります。その理性(知性、論理)によって人類の優位を説明することは、単なる自己満足でしかありえません。人類は進化したわけではありません。少なくとも、進化しよう、生き残ろうとした(思った)わけではないのです。意識や言語を持とうと「思って」(あるいは便利だと「思って」)持ったわけでもありません。「サーモスタットがエアコンのスイッチを入れるのは暑いと思っている」からではないのと同じです。著者は、

人間による創出物は、ときとともに良くなっていくものだ。(P.257)

と言います。ホモ・エレクトゥスが話していた(だろう)言語よりも、現代人の言語のほうが「良くなっている(優れている)」と言っているのです。

朝の情報番組で、「便利グッズ」が紹介されます。「よくこんなことを考え出すもんだなあ」と感心し、「100円(300円、500円〜)で便利(楽)になるなら買いに行こう」と思ってしまいます。そして、部屋のあちこちには使われなくなった「便利グッズ」が転がるようになります(笑)。パソコンは、年々性能が上がって便利になります。私の家には、使わなくなったパソコンがたくさんあります(捨てたいとも思うのですが、捨てるのにもお金がかかります)。

人間は、他の動物に比べると認知能力が低いのです。犬のように鼻が利くわけでもないし、トンビや鷹のように遠くの小さいものを見ることもできません。それを「犬の鼻は優れている => 犬は優れている」と「優劣」をつける必要があるのでしょうか。むしろ、人間の認知能力が低いことが、「知能」の原因、「言語の起源」と考えるほうが自然な気がします。

全体論

目が見えなければ、音声言語のコミュニティでのジェスチャーを観察したことがないので、そのジェスチャーはその土地で見られるジェスチャーとは正確に一致しない。しかしまさにその事実が、ジェスチャーがコミュニケーションの一部をなしていて、言語が全体論的であることを示している。われわれはコミュニケーションをとろうとしているとき、できる限り自分の体を使う。つまり、われわれは自分が言っていることを手足や顔などで「感じて」いるのだ。(P.345-346)

マクニールは「共始原性(equiprimordiality)」という用語を導入した。これはジェスチャーと言語音声は、言語の進化において同等、かつ同時に存在したということを意味する。つまり、ジェスチャーがなかったら言語は存在しないし、存在しえないということだ。(P.346)

つまり、言語は文法、意味、ハイライターなしにはありえないということだ。その理屈で言えば、言語なしのイントネーションも、イントネーションなしの言語もありえなかっただろう。(P.346-347)

つまり、こうした初期の発話には「部分」はなく、全体だけがあるということだ。(P.347)

すべては全体との関係で構造化されている。そしてこの階層構造は逃れようもなくゲシュタルトの出力を生み出す。つまり、われわれが知っていることの総体は、われわれが知っていることのすべてをただまとめたものより大きい系を形成することを意味する。交響曲はその音符のリストよりも大きいのと同じだ。(P.409)

この全体(total)は、ファシズムの代名詞である「全体主義(totalism)」のことではありません。でも、これは近代西洋科学、言語学の根本原理に関わることです。

言い換えると、「cat」には「c-a-t」と三つのスロットがあり、それぞれのスロット用のフィラーは英語の言語音から得られる、ということだ。(P.298)

「キャット」という「音」を「c-a-t」という文字にして分解する(分析する)ということは、「c」と「a」と「t」という部分が集まって「キャット」という全体になるという発想です。そしてそれ自体が、西洋科学的発想なのです。「文字で考える」ということ、「キャット」という音を文字で表しいるという発想そのものが西洋的なのです。pat、pet・・・、cat が c-a-t だと考えるのは文字文化、それも「アルファベット文化」です。cat はそれで一つの音、一つの全体です。漢字やかなの文化では若干異なりますが、それでも音(言語)を文字で表しうると考えるところは同じです。「おはよう」は「お-は-よ-う」ではありません。「押忍」「押忍」だけで文はできる(オリバーな犬)し、何度も「グー」を出して意思を伝えることもできます。部分としての言葉や音があるのではなくて、イントネーションやジェスチャー、話す相手、時間や場所などの話された環境、そして文化(ダークマター)の全体が存在するだけなのです。

積み重ね

誰もが文化の一部であり、誰かの創造性、アイデア、先行する試み、自分が住まう知識の世界の一部をなしているのだ。あらゆる発明は時間をかけて、すこしずつ積み重ねられていく。言語もまた、例外ではない。(P.15)

積み重ね、単純なものから複雑なものというのは、現実という全体を「叙述する」つまり「分けて描く(書く、記録する)」ことによる複雑化です。全体を「より正しく」「より詳細に」描こうとするので、それはどんどん複雑になります。それのいい例が「法令」です。法令が複雑になるのは現実が複雑になったせいではありません。一つ一つ規定していこうとすると、どんどん複雑になってしまうのです。弁護士の仕事は、「考える」ことではなくて「憶えること」になっているのではないでしょうか。複雑になる法令と、積み重なる判例。それがすべてなら弁護士の仕事も、データベースと検索エンジンに取って代わられてしまうでしょう。

でも、たぶんそういうことにはなりません。なぜなら、人の行為、思考、言語、などはすべてが「一つの全体」として存在しているからです。それを部分として記述可能であるという発想は、言語を「便利グッズ」のように、「使い捨ての道具」にしてしまうのではないでしょうか。

[著者等]ダニエル・L・エヴェレット(Daniel L. Everett)言語人類学者。ベントレー大学アーツ& サイエンス部門長。言語をテーマとした著書を数多く発表している。邦訳は『ピダハン――「 言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)。松浦俊輔翻訳家、名古屋学芸大学非常勤講師。訳書に、フィッシャー『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?』、メイザー『ゼノンのパラドックス』(白揚社)、ダンバー『ことばの起源』(共訳)、バーリング『言葉を使うサル』、ウェッブ『記号とシンボルの事典』(以上、青土社)など。
言語はいつ、どのようにして生まれたのか「人類の生物学的・文化的な起源に関する本で、古典として残るものは非常に少ない。だが、ダニエル・エヴェレットの『言語の起源』はそのうちの一冊になると私は思う」――エドワード・O・ウィルソン (ハーバード大学名誉教授)「文化中心の言語理論をわかりやすく解説してくれる良書」――ピーター・リチャーソン(カリフォルニア大学デーヴィス校名誉教授)人類史上最も偉大な発明である「言語」。その起源をめぐっては、これまで様々な議論が交わされてきた。言語はいつ、誰が最初に使いはじめたのか?人は言語を突然変異によって獲得したのか、それとも漸進的な変化によって身につけたのか?そもそも、他の動物のコミュニケーションと人間の言語は何が違うのか――すなわち、言語とは何か? ノーム・チョムスキーが提唱した生成文法への反証であるとされた「ピダハン語」の研究で一躍有名となった、異端の言語学者ダニエル・L・エヴェレットが、言語学のみならず、人類学、考古学、脳科学などの知見をもとに、すべての問いに答える。著者渾身の一冊

[ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4826902205]

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