外国人に対する日本語教育 水谷修著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収

サルの言語と人類の言語 伊谷純一郎著 『岩波講座 日本語学 別巻 日本語研究の周辺』1978/03/28,所収
「夜回り先生」ではありません

著者については存じ上げません。Wikipediaを見ると、同姓同名の「夜回り先生」がヒットしますが、生年月日からいっても別人です(「夜回り先生」も知らないけど)。

日本語を教える立場からの論文です。日本語教師というと金谷武洋さん(『日本語に主語はいらない』『日本語は亡びない』『日本語は敬語があって主語がない』など)が頭に浮かびますが、教える立場に立つと、いわゆる言語学者とは違うものが見えてくるようです。それは頭で考えたことと、経験(体験)したことの違いのように思います。この論文には日本語文法学の話はほとんど出てきません。でも同じような認識があるような気がしました。

日本における英語
日本人が、英語教育に注ぎこんできた情熱とエネルギーは莫大なものである。明治以降の日本では、欧米の文化や技術をいかに吸収するかということが、国家としての課題であった以上、そこに費やされたエネルギーの大きさは容易にうなずけるのであるが、現在でも事実上国民の大部分が、英語を長期にわたって学習しているという様相は、英語が国際語としての資格を備えているという条件を加味して考えても、植民地ではなかった国としては、世界でもまれなケースではなかろうか。とくに大部分の人にとって、英語を実際に使用する機会が極めて少ないという事実にもかかわらず、英語教育に対する日本人全体の関心の深さは、驚くべきものがある。(P.95)

中学校、高校で6年間、今は小学校でも英語を教えるようですね。6年間一つの外国語を勉強すれば、少しは読んだり話したりできるようになるはずですが、そういう人が多くないのは英語を使う機会がないからですよね。何かの役に立てる手段として英語を学ぶことも少ないと思います。たとえば、アメリカにいって演劇を勉強したいとか、何かの専門の研究のために英語の本を読む必要があるとか。たんにテストのために「一夜漬け」して覚えたことは、テストが終わるととたんに忘れます。それ以前に使わないことを勉強するのはとても苦痛です。数学や物理学もそうですよね。学校教育というのはそういうことに「耐える」ことを教えているだけかもしれません。

それに耐えた人は、いい点数をとって先生や親に褒められます。それだけではなくて、点数を取れなかった人を見下す傾向があります。私は、クイズ番組が好きです。自分の知識をひけらかすことで自己満足できますから。特にあのちゃんが出ている『呼び出し先生タナカ』が好きですが、おバカな回答をする芸能人を馬鹿にしている自分がいます。

外国人だと見ればアメリカ人だと思い、日本語でなければ英語だという態度は、日本語を学習する外国人に微妙な反応を起こさせる。

英語以外の言語に関心が少ないというだけではない。日本語自体についてさえ自信なきがごとくで、イギリス人やアメリカ人と話すとなると、どんなに相手が日本語ができても、あるいは日本語で話そうとする意図をもっていても、それをさえぎって英語を使おうとする傾向があり、日本語学習者の疑問をひきおこすことになる。(P.100)

これも私が経験したことです。日本で仕事や商売をしている外国人は仕事のために必要な日本語を知っている場合がほとんどですが、その人に英語で話しかけたことがあります。今思うと恥ずかしいのですが、苦労して勉強した英語を使う機会なんて、そんな時しかないじゃないですか。

歴史における言語教育

過去の歴史が証明するように、言語教育は政治的経済的目的によってしばしば支配されてきた、といってよい。日本の植民地支配のための日本語教育  大陸や南方における日本国民化のための教育の一環をになったことも、イギリスやフランスが植民地で行った言語政策も、有力民族による非力民族の支配施策にすぎなかった。

しかし、言語そのものに人間の考え方を変えていく機能があるように、外国語の利用の中にも、方法さえたしかなら、国際間の摩擦を減少させる可能性を持っているのである。いな、むしろ、ことばの使用という現実的なコミュニケーションの中だけに、その可能性はあるのであって、人類の幸福という大きな目標を基盤とした外国語教育と、使用の妥当性の追求がなされなければならないのであろう。(P.101)

以前、こんなことを書きました。

フランツ・ファノンは『黒い皮膚・白い仮面』で黒人に話しかける白人の態度を描いています。易しい言葉を選んでゆっくり話しかけます。そして、黒人が正確なフランス語を返してくると驚き、否定しようとします。日本人が外国人(金髪で白い肌の人とか、黒い肌の人とか、明らかに外国人だと思われる人)に話しかるときも同じですよね。ゆっくりと簡単な日本語を選んで話しかけます。相手が流暢な日本語で返事をすると、「日本人みたい」と言うわけです。私たちが、子供や老人に話しかけるときも同じです。ゆっくりと易しい言葉で話しかけ、子供や老人が若者同様に返答すると、驚いて「子供らしくない」とか「ジジイじゃない」とか驚いたり、否定したりしませんか。(拙稿「『老いる意味』感想文」)

私が経験したいくつかの海外では(観光地の物売りやガイドは別として)日本語を話す人はいません。日本語で話しかけられたこともないと思います(中国人に間違えられたことはあります)。フランス人はフランス語を大切にすると言われますが、デパートでも英語は通じませんでした。簡単な英語だから分かっているかもしれないのですが、「フランスに来たのならフランス語を話せ」という態度です。

日本はたしかに、先進国と目される国々からの文化、技術の英語を通しての吸収に、成功したのである。生活様式ばかりでなく、思考方式にまで、英語を通して得たものが大きく働いている。(P.96)

この本の出版から半世紀が経ちます。その間に国際語としての英語の地位は高まったように思います。でも、多くの人が英語(あるいは日本語)を話せるようになることが「国際間の摩擦を減少させる可能性」だとは思いません。たしかに、外国人が日本語を勉強してくれたら日本を理解する助けになるでしょう。詳しくは次の「翻訳の問題」(柳父章)の感想に書くつもりですが、日本は英語ではなくて中国語(漢文)を解釈してきた長い歴史があります。そして、漢文や漢文を通して入ってきた仏教が日本の精神性に大きな影響を与えているのは確かです。でも、孔子や老子の思想がそのまま入ってきたとは思わないし、仏教もインドでの考え方がそのまま入ってきたわけではないのではないでしょうか。それは「日本的解釈」をされたものだし、今でもそういう解釈が大手を振って行われているように思います。古典ギリシアの哲学も、キリスト教も、近代哲学も全てそうではないでしょうか。

日本的なもの

ところが、本人にはそれのどれが「日本的」なものかは分からないのです。日本的なものだとわかるのは、学者ではなく、むしろ著者のように日本語を教えたことのある人かもしれません。私も知らなかったその例を一つ挙げます。

話し手が聞き手に話を聞いていることを確かめたいとき、あるいは話しを理解したか否かに不安を感じたときは、たとえそれが文の途中であったとしても、相手に「あいづち」を打つことを求めることがある。電話で話すときなどは典型的な例であるが、「四丁目の角を右にまがってね」と言ってポーズを置き、相手の「あいづち」を受けて「少し行く」と次へつづけていくという話し方の様式は、日本語に特徴的なものである。そのような話し方の様式を習慣として持たない大部分の外国人にとっては、日本人との電話による会話は非常に困難であって、相手になった日本人から「モシモシ」と何度も確かめられることになる。(P.126)

言語そのものではないが、言語行動に伴う動作や表情、あるいは言語行動に代わって行われる動作表情による伝達行為も、従来の教育の中では必ずしも重視されているとは言えない。それがコミュニケーションの上で果たす機能の大きさを考えると、この領域の研究、指導にも力が注がれなければならないであろう。(P.127)

語彙や文法だけでなく、イントネーション、表情や態度、間の置き方など、コミュニケーションは多種多様な要素から成り立っています。話される状況は特に大切でしょう。外国語を学んで知ることは、「外国人も日本人も同じなんだ」ということよりも、「日本語って、こういう言葉なんだ」ということかもしれません。そして、外国語を学ぶことで成功体験(成績が良くて褒められたとか)がある人が陥りやすいのは、「だから日本語は劣っているんだ」という劣等感です。優秀だと言われたことがあることによる劣等感です。中には「日本語を廃止すべきだ」とか「英語を公用語にすべきだ」とか言いはじめる人もいます。そこまでいかなくても「漢字を廃止すべきだ」とか「アルファベット表記にするべきだ」なんていう人もいます。

どんな言葉でも、子供の頃から教わっているのが「母語」ではありません。どんな言葉でも、いいわけではないのです。植民地の例で明白なように、言葉を支配の道具として使うことはできます(日本語でも共通語(標準語)が支配の道具となっているのは明らかです)。でも、道具はその風土や文化によって使い方が変化します(使われずに棄てられることもあります)。使いづらい道具は変えられます。毎年、新しい「若者言葉」が生まれます(「新語大賞」なるものもあります)。その要因は流行(トレンド)を追い求める消費社会にあると言われます。確かにそうなのですが、それだけではなくて、その奥には使いづらい道具(生きづらい世界)を変えようとする人々の力(思い)もあるのではないでしょうか。

日本語の特徴

最後に、日本語の特徴について気になった文章を一つ。

日本語は文末に至らなければその文の意味が確定しない、と言われることがあるが、少なくとも話しことばに関しては、これは正しくない。

文字によって書き表された文では、文の最初に書き手の意志や判断を示唆する副詞や接続詞が来る場合をのぞいては、文末が否定表現になるか肯定表現になるかも判然としない、ということはある。

しかし話しことばにおいては、たとえば「それは・・・」のような一般的な表現形式で始まる場合でさえも、そこに伴う音声上の諸特徴から、話者が賛意を示そうとしているか、否定的な態度であるかを、われわれは察知することができるのである。(P.120)

状況や話し方で「何を言おうとしているのか」がわかります。前記の「間」のようなことが可能なのも、文が終わらなければ、肯定か否定かわからないわけではないことと関係しています。文を終わりまで聞かずに割り込むこともよくあります(結果、勘違いだったということもあります)。日本語は環境依存が強いという言い方をされることもありますが、このような「察し能力」は「文字文章」の影響で衰えてきているのではないでしょうか。そうするとさらに「日本語は不便な言葉だ」ということになってしまいます。

このようなギャップは日本人が英語を使ってアメリカ人と会話をする場合にもおこってくることであり、また日本人同士であっても、関西人が東京語を聞く場合にも存在する可能性があると思われる。(P.121)

私と関西人、東京人、あるいは外国人とが「同じだ」ということを知ることは大切です。でも、「同じ」ではありません。「違う」のです。共同体(コミュニティ)が崩れてしまった社会においては、ことばの役目も変わります。そこでは「以心伝心」や「忖度」だけでなく「思いやり」すら通用しません。本来の日本語も通用しないかもしれません。でもそれは日本語が劣っているとか、西欧語が優れているとかとは関係ありません。世界が全部英語になるというような「バベルの塔の物語」を描いても、それは支配者の思う壺です。みんなが同じ顔をしている『ブッダ』(手塚治虫)も同様です。

むしろ、「若者言葉」をつくり出すエネルギーが秘めている「ヴァナキュラーなもの」も探すことが大切なのではないでしょうか。







[]

シェアする

フォローする