消費・戯れ・権力 カルチュラル・スタディーズの視座からの文化=経済システム批判 浅見克彦著 2002/10/20 社会評論社

消費・戯れ・権力 カルチュラル・スタディーズの視座からの文化=経済システム批判 浅見克彦著 2002/10/20 社会評論社
CS?

「CS」で何を頭に浮かべますか。「BS・CS」ですか。ちなみに「BS・CS」のCSは Cammunication Satellites の略だそうです。BS(Broadcasting Satellites)は放送衛星を使っていて、CSは通信衛星を使っているのだそうです。

私は貧乏なので、地上波しか観ていませんでした。アナログ放送がなくなったとき、しかたなくTV(まだ使えた)を買い替えました。それからずっと我慢していた(子どもたちも我慢していたと思う)のですが、昨年、妻が東京オリンピックを観たいというので衛星アンテナをつけました(NHKの衛星料金はまだ払っていません)。CS(スカパー!)などの有料放送は、もちろん観れません。

CSをググると、56億件ほどがヒットし、最初の項目は「CSは、Customer Satisfaction(カスタマー サティスファクション)の略称とCustomer Success(カスタマー サクセス)の略称の場合があり、似ているようで両者の指す内容はまったく異なる。」

この本で言う「CS」は「カルチュラル・スタディーズ(文化研究[wiki(JP)])」のことです。「そういえば、CSという雑誌があったな」と思い出し、本棚を探したら「GS」でした(笑)。浅田彰さんたちが編集していて、副題は「たのしい知識」。いわゆる「ニューアカ」ブームの頃です。当時の私には「GS」は「グループ・サウンズ」のことだったのを思い出しました。

文化

「カルチュラル・スタディーズ」は、「文化(あるいは文明)」と言われるものの様々な分野(たとえば、経済学や政治学など)ではなく、「文化そのもの(文化全体)」を研究する学問と言ったらいいでしょうか。

文化(culture)とは何でしょうか。weblioを見てみましょう。

kwel-回転させたぐるぐる動かすこと、滞在することや住むことを表すcultureなど)。cycle由来として車輪

culture 語源 From Middle French culture (“cultivation; culture”), from Latin cultūra (“cultivation; culture”), from cultus, perfect passive participle of colō (“till, cultivate, worship”) (related to colōnus かつ colōnia), from Proto-Indo-European *el- (“to move; to turn (around)”).

私のイメージは、「その場でぐるぐると動くこと」。狩猟採集や遊牧のさいちゅうの滞在地、あるいは狩猟採集や遊牧に対する「定住」のことかもしれません。「cultivation」は「農耕」です。ちなみに、

colony 語源 From Latin colōnia (“colony”), from colōnus (“farmer; colonist”), from colō (“till, cultivate, worship”), from earlier *quelō, from Proto-Indo-European *el- (“to move; to turn (around)”).

なんとなくイメージしてください。

日本語では「文明」と同様「文」という字が入っているので、「文字」と関係があるように感じます。私は西欧でいう「文化」は「文字」と関わりが強いと思っているので、名訳だと思います。その意味では「文字のない文化」などというのは形容矛盾なのですが、とりあえず「人が集まって、何らかの固定的な社会を作ること」といった広い意味にとらえたいと思います(「社会」という言葉は使いたくないのですが、ほかの言い方がむずかしい)。

大衆消費社会
この社会が高度経済成長の跳躍を試みた時代、それはまさしく大衆消費社会の構造が織りあげられていった時代でもあった。だが、それは同時に、六〇年代まで社会の危機を実感させてきたラディカリズムの声高な批判と告発が、徐々に「暖簾に腕押し」の歯がゆさを経験しはじめた時代でもあった。(P.11)

私の親は、戦中戦後の「物」がない時代を経験しています。いつも「もったいない」と言っていました。お金だけじゃなくて、「もの」を大切にしなさいということです。私は、高度成長のさなかに育ちました。どんどん周りに「物」が増えてきた時代です。私の家も、周りの家も決して豊かではありませんでしたが、食べるものがなくて困ったという記憶はありません。両親が苦労していたのかもしれません。もし困っていたとしても、子供の前では言わなかったでしょうから。苦労を知らない子どもの私には、その暮らしは「豊か」だった記憶があります。ただそれは「物質的に」という意味ではありません。「気持ち的に」というと、ノスタルジックに聞こえてしまいますが。

社会に対する批判と反抗の要素は確かに存在した。にもかかわらず、ラディカリズムの声高な批判と告発に対して、多くの人々は「暖簾」のようにうけ流す態度をとったのである。こうした事態の一つの重要な背景をなすもの、それが消費文化の大衆化と消費主義的な生活態度の浸透なのである。(P.12)

人々の生活を社会体制への批判から遠ざけるように編成した焦点、それは消費または消費文化だった。(同)

消費が支える予防的な体制安定化メカニズム、そこにはまぎれもなく権力と支配の問題がある。(P.13)

私と著者とは同年代です。生まれも育ちも違うので、その意味では文化的な背景はちがいます。でも、同じような教育を受け、同じようなものをテレビで観、同じような音楽を聞き、同じような商品に囲まれ、同じような医療を受け、同じような政治状況のなかで、生きてきました。同じような「恋愛」をしていた可能性すらあります(恋愛は文化的なものだから)。家庭環境も似ていたかもしれません。多分「平均の下」あたりの家庭。当時、大学進学率はいまほど高くありませんでしたから、江戸時代でいえば貧乏侍の家が「子どもには学問を修めて欲しい」といった感じかな。

不自由はしなくても、「物」が大切だという感じはあります。だから、「物を持っている(所有している)」ということに安心感があります。「物が捨てられない」という人も、私以前の世代には多いのではないでしょうか(逆に何でも捨ててしまう同級生がいたから、それは個人差かもしれません)。私の子供の世代は、「電子書籍」とか「サブスク」が流行っているようです。手にとって触ることができない、ということが私には実感として「所有している」という気持ちになれません。「所有」は「持っている」という身体(感覚)的なものから「所有権(使用権)を所持している」という法関係(イデア関係)に変化してきています。この法関係というのは西欧的な「主体と主体」の関係ということなのですが、これについては後述します。

生産と消費

いわゆる「土台ー上部構造」論がそれである。(P.15)

にもかかわらず、マルクス経済学がいまだに商品の文化価値の生産と流通に積極的な関心をしめさず、消費分化のメカニズムと競争や資本蓄積との関わりを分析しようとしない現実は、このブラインド・スポットがどれほど解消しがたいものであるかを雄弁に物語っている。(P.16)

マルクス経済学が「生産中心主義」だとはよく言われることです。中国や旧ソ連も生産中心主義でした(になっていきました)。その理由は明確にはわかりませんが、マルクスが生産中心だというのは、『資本論』の副題が「政治経済学批判」だということからもわかるように、当時の「経済学」(アダム・スミスを中心とした古典経済学と言われるもの)が生産、および消費される前までの流通(交換)を扱っていた、つまり「資本」のための経済学だったからです。消費、あるいは「使用価値」は『資本論(経済学批判)』の対象外です。それでもいくらか使用価値について書いた箇所はあります。

商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの欲望を満足させる物(Ding)である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄(Sache)を変えるものではない。(『資本論』第一巻、大月書店第一分冊、P.47、カッコは引用者)

ある一つの物(Ding)の有用性は、その物(Ding)を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。(同、P.48)

Ding も Sache も「物」ですが、この例でもわかるように Ding は「物質」、Sache は「事柄(事物)」に近いようです。この論理はアリストテレスのプラトン批判に則っている気がします。交換価値(あるいは単純に「価値」)はイデアです。プラトンはイデアは、個物(諸物)から独立に存在する(諸物は生成消滅をするから)といったのに対して、アリストテレスは、イデア(形相)は個物(質料)から独立し得ないといいました。

だが、資本の支配に対抗する労働運動を長らくささえてきた、「売った労働の一部が支払われずにピンはねされる」という観念も(マルクスが明言するように)実は一つのイデオロギーだといわざるをえないし、そうでありながら運動の中でしばしば有効性を発揮してきたのである。あるいは、「機械が仕事を奪う」という主張がとにかく抵抗運動のなかで歴史的な意義を担ったことからしても、このCSの理解は、いわゆる「科学的」マルクス主義よりも、リアルだといいうるだろう(もちろんこのことは、対抗的な性質をもちさえすれば、運動の主張はどれでもかまわないということを意味するわけではない)。(P.72)

「イデオロギー」は観念(idea)の論理(logos、言葉)です。マルクスにとって、イデオロギー批判というのはプラトン(あえて言えば観念論)批判であって、論理(ロゴス)そのものの批判ではありません。経済批判はイデア批判です。生産は、pro-duce (引っ張り出す)ということですから、無から有を創るのではありません。あるものを目に見えるように引きだすというイメージです。西欧においては(基本的には)「無」というものが嫌われます。西欧の学問は「存在」についての学です。「価値(交換価値)は存在するのか」という問いが当然あって、その答えが「価値の実態は労働(時間)」である、という「労働価値説」が生じます。マルクスもそう考えていた、と言われますがそうでしょうか。

生産は、質料にもともとあった(内在していた)ものを人間のロゴス(形相、イデアにあうように)で引っ張り出す行為です。しかし、消費は、そのイデアに合致した成果を「もとに(質料に)戻す」ことではありません。人間(ロゴス)にはそんな能力はありません。口から出た言葉(ロゴス)を口のなかに戻すことはできないからです。構想(イデア)と原料(質料)を合致させる生産から始まって、それは流通し、価値(イデア)を実現させたところで「終点(終末)」に達します。そのあとはないのです。

それにちょっと異を唱えたのが、イリイチの「シャドウ・ワーク」です。流通から引き上げられた商品を「使用価値にする」行為が「シャドウ・ワーク」です。ちょっとしたことなのですが、これが西欧論理をひっくり返すような意味をもっていると私は思います。生産優位ではなく、消費を生産的な地位まで引き上げたからです。それが「物(Sache)」の本来の位置(あり方)です。それによって、消費の意味だけではなく、生産の意味も変わります。そして、それは「労働(真面目)」と「遊び」の意味も変えることになります。

それは、意味内容を所与のものとして、メッセージをたんに利用する消費ではなく、独自に意味構成を生産するものとしての消費なのである。(P.63)

スーパーで買ってきた、じゃがいもや肉から、「カレー」を作る、あるいは「肉じゃがを作る」。これが文化にとっては大切なことです。冷凍食品はこの大切な営みを奪い取ります。

受動・能動

中学校の英語の時間を思い出しましょう(というか、私の英語のレベルは中学で止まっています)。英語の動詞には「自動詞」と「他動詞」があります。自動詞は、目的語が必要ない動詞です。たとえば、「 It rained. 」(雨が降った)。 rain は他動詞でもあります。「 I rained questions on him.」(彼に質問を浴びせた)。

また、「能動(態)」「受動(態)」で苦労した人もいるでしょう。「I hit him.」(私は彼を殴った)は「能動」、「I was hit by him.」(彼に殴られた)が「受動」ですね。その他に印欧語には「中動態」というのもありますが、英語では失われてしまいました。動詞は主語などで変化します。過去「形」や命令「形」でも変化しますし、「三単現のS」なんてものもあります。これらの例で明らかなことは、英語は必ず「主語をもつ」ということです。印欧語は必ず主語を持つかというと、そうでもないようです。英語の命令形には主語がないですよね。そのほか、動詞が変化することによって、主語を使わなくても良い場合もあります。ところが、英語は動詞の変化に乏しいので(フランスに占領されている間に動詞の変化が減ったようです)、主語が必須になりました。

能動・受動(する・される)の関係も主語の存在に依存します。主語(主格)が、したりされたりするからです。日本語では「雨が降った」といえば、主格は「雨」でしょう。「 It rains 」の主格は「 it 」ですが、それは何を表しているのでしょうか。空、大地、気象、神様・・・、わかりません。あえて言えば「雨」でしょうが、変ですよね。とにかく主語をつけなければならないからついているのです。

日本語では「雨に降られた」という表現もします。何となく「私」が主格で(省略されていて)、「受動態」のような気がしますが、どうでしょうか。Google翻訳さんにおねがいしましょう。

雨に降られた。 -> It rained.

昨日、雨に降られた。 -> It rained yesterday.

雨が降った。 -> It rained.

昨日、雨が降った。 -> It rained yesterday.

う〜ん、同じです。これでは「雨に降られた」という日本語のニュアンスがないです(近いのは「 I was caught in the rain. 」あたりでしょうか。「私は雨に捕まった」)。「雨に降られた」というのは「自分の意志とは関係なく雨が降っている状況に置かれた」ということですね。「彼女に振られた」はどうでしょう。

彼女に振られた。 -> She dumped me.

彼女を振った。 -> shook her.

ははは。本来は「I dumped her. 」でしょうか。「好きだ」は

好きだ。 -> I like.

君が好きだ。 -> I like you.

「好きだ」は「好き-で-ある」ということですから。「好きという状況に自分はある」ということです。これが「愛している」というともっと極端になります。

愛している。 -> I love you.

日本語には「I」も「you」もありません。「愛-して-いる」という日本語は、「する」という能動的な動詞が入っていますが、「いる(居る、ある)」という「状況」が続いています。

私はどうも「愛している」と言うのは苦手です(「好きだ」のほうが言いやすい)。日本語では「好きになる」という能動ではなく、かといって受動でもない、「そういう状況に巻き込まれる」というニュアンスが強いのではないでしょうか。「恋に落ちる」というのは、能動でも受動でもないでしょう。英語なら「 I fall in love. 」でしょうね。「 I fall in like.」というのは変に聞こえるのではないでしょうか。西欧人は能動的に人を「愛」します。「愛(恋愛)」というのは「能動的な行為」なのです。それは、意識しているかどうかではなく、そういう言語(文法)だということです。最近の日本人は、「能動的に愛する必要」があるようです。「私のこと愛してる?」というのは、「私のこと好き?」と「好きの程度」が違うのではなくて、「能動的に愛そうと(努力?)しているの?」というニュアンスが含まれています。そこから「愛さなければならない」などという発想も生まれてきます。『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても 』(戸田真琴著)という本もあります(読みたいけど、まだ読んでいません)。人を愛せないこと(愛する人がいないこと)は、なにか不幸なこと、人間としてなにか欠けているんじゃないか、と思われ始めています。英語、あるいは翻訳語(あるいは共通語と言われる標準日本語)で、日本人の思考形式が変わってきていると感じます。「そこに愛はあるんか」という人気の(?私は嫌いだけど)CMがあります。ほら、愛は「する」ものじゃなくて「ある」ものなんだよ、と思いたくなりますが、今の若い人は「そこに愛という能動的行為が存在するのか」というふうに解釈しているのかもしれません。

写真(メディア)

写真が「事実」を「あるがままに」映しているのではないことは、写真を撮ったこと、写真に写ったことがある人なら分かるはずです。現在は特殊な場合をのぞいて、白黒写真は使われません。昔は白黒写真が「写真」、つまり「真実(事実)を写したもの」でした。カラー写真から見ると、それは「事実」から遠いですよね。それが「動く写真(活動写真)」になり、テクニカラー(総天然色)になりました。無声映画は「トーキー」になりました。音もモノラルからステレオ(立体音響)になりました。

それを見るとき(聞くとき)には、その時の状況を思い出して(あるいは状況が思い出されて)情報を補っているのですが、そうでない人にはその状況を知ることはむずかしい。テレビもインタビューなどを撮したことがある人には、どこで誰に話しかけ、どういう意見を取り上げ、どういう編集(コラージュなども含めて)をするのかがわかっているはず(それがヤラセじゃないにしても)です。ドラマだって、カメラワークや編集で視聴者に意図を提示します。それみよがしのカットインや役者の表情のアップがなかったら、意図は伝わりにくいでしょう(視聴者はそれによってストーリーを前倒しして期待する)。演劇だって、作者の意図をどう伝えるのかをとことん考えられて、場面やセットや小道具や登場人物やセリフを作ります。演技者も、その意図を伝えるために「演技」をします。それは現実とは程遠いものです。

それらが表す「現実」とは何んでしょうか。それは現実の一部(一面)であり、現実そのものではありません。視聴覚体験がコード化され、そのコードのもとに演技(制作)が行われます。演劇、ドラマ、CM、お笑い、Youtube、それぞれに別ではありますが、共通した演技コードがあります。そのコードは変わりますが、そのコードが意図の伝達を保証するのです。

先日、ベトナム戦争でパナーム弾の被害に遭った少女がとりあげられていました。それを写した写真が全米の世論を喚起し、戦争の早期終結に導いた、というような趣旨です。写真が社会を変える可能性は否定しません。日本でも、かわら版や浮世絵が江戸(明治)の世論を動かしたでしょうし、仏画や仏像が布教に果たした影響も大きいでしょう。

でも、「見る・見られる」という能動・受動の関係が日本に乏しかったとすれば、写真や仏画を見る目は違ったのではないでしょうか。日本人にとっては、写真も映画も仏像も「目の前にあり、自分がそれに包まれている」という感覚なのではないでしょうか。つまり、それらを自己から独立した「外的対象」としては見ていなかったかもしれないのです。

文化産業が、社会的に流通するテクストの圧倒的部分を生産しているとしても、そのテクストに与えられる意味は、受け手の能動性の発揮によって、生産で意図され予測された意味構成からズレ、別の形をとることも決してめずらしくはないのである。(P.107)

「作り手と受け手」の関係は、商品交換における「売手と買手」の関係です。マルクスは、商品売買における売手と買手だけではなく、生産過程のなかでも売手と買手をつねに対置します。それは「売る(売り)」と「買う(買い)」という二元論、一つの行為の両面性、能動と受動という印欧語文法(文化)(主客構造)そのものを批判しているととらえることもできるのではないでしょうか。

同一性と差異

本書の論点からかなりズレてきました。本書はCSのことを書いているのですから、CSについても触れなければ。ところが、巻末に掲げられている「文献一覧」を見ると、読んだことのある本が殆どありません。外国語の原書はもちろん読めませんし、邦訳されているものも、日本語の著作すら読んだことがないのです。私にはCSについて何かを語る資格も知識もまったくないのです。言い訳のようですが、本書はとても面白いのです。書抜だけで4万3千文字ほどになりました。私にとって、それはめったにないことです。それほど内容が詰まった本です。

自分が書いたものは自分で見えないものです。「岡目八目」といいますが、他人のほうが見えることもよくあります。他人の著作についてかくということは、「後出しジャンケン」のようで、とくに著者がご存命のときは申し訳なく思います。まあ、私が何を書こうと著者に影響があるとも思えませんが。

それに、前述のとおり、著者との共通点は多いのです。この感想文は「本の紹介」でも「本の要約」でもありませんから、共通点を書く気がないし、そこについては書抜もしていないのです。それでも4万字以上の大切な箇所があります。それは、なるほどと感心したところや、著者と共通していないところや、著者はこういう思いで書いたのだろうと慮るところなどです。もしこの文章を読んでくれる人がいたとすれば、これはあくまでも、私が本書を読んで「思ったこと」だということで、ご容赦いただきたいと思います。

この本の大きなテーマの一つは「差異化」ということです。ビールとワインの差、アサヒビールとサッポロビールとの差、キリンラガーと一番搾りとの差、

では、大衆消費社会の財がもつ文化的価値の核心は何か。一見トリッキーに映るだろうが、それは、財の意義の差異性自体にあるといわなければならない。他との差異において意味を受けとる関係こそ、財の価値が文化的なものとしてあることの核心なのである。(P.138)

文化産業の提供する文化価値を転形し、異質な価値を追求する消費者の能動性は、まさに差異的な文化価値の恒常的な刷新を後押しするという点で、むしろ大衆消費社会の文化的な支配構造の一部を構成しうる。だとすれば、文化産業が消費者を操作しているという主張は、その意図に反して、現代社会の文化的な支配の重要な基盤を見逃すものである。(P.166)

差異的な文化価値にオモシロさを見いだし、それをディスプレイしあう交歓を追求する社会的コミュニケイションの文化的空気、これが消費経済の動態をささえているのである。(P.167)

昔、「ニュービーズ」という洗剤があって、「新ニュービーズ」という商品が出たときに笑った記憶があります。今はもっとすごい。「プラスプレミアムアルファジキサスゼット・・・」など、どんどん長くなっていきます。商品の本来の機能ではなくて、その「差」を売っていることは明らかです。中身なんかどうでもいい、新しいことに価値があるのです。10年前のファッションが繰り返されたり、「レトロブーム」などということもありますが、「古ければいい」ということではありません。どこかに「新しさ」がなければならないのです。

なぜ新しいものがいいのか。そうではないのです。「新しいものは、いいもの、より完全なもの」つまり「進化(発展)」したものだからです。カラー写真ができて、白黒写真は「より不完全な(劣っている)カラー写真」になりました。進化論的な思考法ですよね。そういう社会では、老人は若者に比べて「より不完全な(劣っている)人間」として扱われます。これは時間(歴史)が一方方向に流れ、初めと終りがあり、繰り返さない、というキリスト教的思考法とマッチします。日本における輪廻の思想とは対象的です。

プラトン(ソクラテス)を読んでいると、当時のギリシアには輪廻的な「生まれ変わり」の思想があったようです。それが「死んだら終わりなんだ」という考え方に変わったのは、キリスト教(ヘブライズム)が流入してからではないでしょうか(天国や地獄という発想は、後からキリスト教に導入されたものです。アリエス『死の文化史』)。不思議なのは、「新しいものがいい」という西欧で日本より「伝統」が重んじられていることです。

もちろん、ナチズムとアナーキズムといった「遊び」そのものの存否がかかった問題で、とりかえ可能な「恣意性」が許容されるわけではないが、少なくとも文化的コミュニケイションの戯れの地平では、ファースト・フードとホテルのランチ、ジーンズとブランド・スーツはもちろんのこと、自転車と乗用車、一流企業とパンクの道、ベートーベンとビートルズ、そして男らしさと女らしささえ、「遊び」の「手」としては序列づけが「決定不能」なのが、ポストモダン的な消費文化の現実なのである。(P.231)

ビートルズを聞き続けて半世紀以上たちます。私は最近、昔は聞くこともなかったベートーベンを聞くことが多くなりました。そして今思うのは「変わっていないんだなあ」ということです。ビートルズ(フィル・スペクター)がクラシックの要素を多用したこともあるのですが、西欧音階や変調の仕方など、ベートーベン(あるいはバッハ)の中にも散見されます。同じことはパンク・ミュージックにも言えます。どんなにノイジーな西洋音楽でも、そこには伝統に根ざしたものがあります。私は雅楽は聞きません。面白く(楽しく)ないからです。聞き慣れていないからかもしれませんが、そこには明確な断絶があるような気がします。

雅楽が1000年前と同じ音を出しているのかどうかはわかりません。きっと変わっているのでしょう。インドのラーガやバリのガムランも大好きですが、それらが西洋音楽の影響を受けているのかどうかもわかりません。西洋音楽が幾何学的な「ハーモニー」でできているとしても、それを「世界共通」なものと見る見方は、チョムスキーの生成文法と同じように西欧優位主義(進化論)に過ぎないと思います(実際古典ギリシアの音階と、バッハの時代の音階と、現代の音階とは違っています)。

「同じ」「違う」はどこにでもいつの時代にもあるでしょう。同一性が差異によって担保され、差異が同一性によって成り立っているのは当たり前です。ただ、同一性と差異をどう見るか、どちらに重点を置くのかは、文化によって違っています。

西欧における同一性の要求は、「対象の把握」から来ています。ソクラテス(プラトン)には二つの側面があります。一つは「動いている(変化している)ものは認識できないでしょう」ということです。少なくとも認識するまでの間は対象は同じ状態でなければなりません。もう一つは「固定されているものは状況から離れていくでしょう」ということです。書かれた文章は、周りの状況の変化や相手に関係なく同じことを表現しています。それを嫌って、ソクラテスは「対話」を重視しました。なぜそんな矛盾に陥ったのでしょうか。私が思うには、その原因はギリシア語(印欧語)にあると思います。能動・受動(・中動)がある印欧語にとっては主格が必要だからです。主格は、それ以外のものを必要とします。それが「対象」です。主格が行為する、あるいはされる対象が必要だからです。認知するもの(主格)と認知されるもの(客体)の絶対的存在です(その逆も同じです)。

セム語(ヘブライ語)がどのような構成を取る言語なのかは知りません。旧約聖書はヘブライ語です。アラビア文字(アラム文字)は古い文字です。シュメール語はセム語とは異なるようですが、シュメール文字は世界最古の文字とも言われます。ユダヤ教やイスラム教で偶像崇拝を禁止していることは、対象化(イデアの外在化)と関係があるのかもしれません。でも、キリスト教を含め、どれも「聖典」を持っています。これはソクラテスには考えられないことです。いつでも誰にでも同じ言葉で話しかけることなんて。

ギリシアに流れ込んだヘブライズムは(新約聖書はギリシャ語で書かれています)その輪廻的思考法を直線的思考法に変えていきます。それが進化論的思考につながっていくのだろうと思います。

主体(自己同一性)

「ID」という言葉をはじめて聞いたとき、私にはうまくイメージできませんでした。「私が私であることの証明」なんて、「そんなこと必要あるの」と思ったし、「そんなこと証明できないよね」とも思いました。今でもその感覚は消えません。でもそれは、「 This is a pen. 」と同様なことです。「A is A.」「I am I. 」ということですから。「私だ。」というのは英語では落ち着きが悪いのです。「私は私だ」と言うとしっくりくるのでしょう。英語の文章(たとえば小説)を見ると、「 He .  He . He .」とか「 I . I . I .」とか、どんどんでてきます。それを不自然とは思わないのでしょう。日本語で「私は〜。私は〜。私は〜。」なんて言ったら「自分のことばっかり言って」って嫌味を言われるかもしてません(最近、日本語でもそういう「代名詞」が増えてきていると思います)。

「私(主体・主格)の存在」は、印欧語の当然の要請です。対象の存在と、主格の存在は同じことですから。その要請は日本語にはありません。能動・受動と同じように、もともと「包まれるあり方」としての日本語には、そのような思考形式はないのです。主体・客体 subjective・objective は主観、客観とも訳されます。それも同様です。

アイデンティティがなかった日本には、いまだにそれは定着していないのではないでしょうか。それが私の違和感です。定着(確立)していない「アイデンティティの危機」は、西欧とは違う問題です。問題ではないというのではなくて、その切り分け(区別)が必要だということです。実際私は、60年以上生きてきて、今更アイデンティティの危機に直面しています。今まで当たり前だと思ってきたもの、自分が使っている言葉も含めてどうやら当たり前ではないと思い始めたからです。

アイデンティティの消滅・無効化という認識を左右する、この重大な問題に答えるためには、自己という存在の二つの位相が整理されなければならない。一つは、それぞれの「遊び」でディスプレイされるパフォーマンスのよせ集めとしての自己の存在である。そこには、個々のパフォーマンスをささえる価値やテイストを追求する思考・意識も含まれはするが、しかしそれは、他者に見られることを反省的に自覚した自分の意識に対して、対象的なものとして現れる自己の存在である。これに対して第二の位相として、自分のそのつどのパフォーマンス、さらにはそれらの修正を反省的にとらえ、そのつどの「遊び」での自分の位置と価値を選択・修正したり、全体としての自分の対象的存在を了解したりする自己がある。それは、己の対象的な存在を自覚し、とらえ、方向づける、意識作用としての自己だといってよい。(P.236)

ここで言われているのは「見る自己と見られる自己」ということです。同じことは「我思う、ゆえに我あり」、つまり、思考の主体としての自己と思考の客体(対象)としての自己、とも表現できるでしょう。

遊び(戯れ)
コミュニケイションの相互的なやりとりへの訓化は、まさにコミュニケイションの「遊び」の習得であり、文化価値の変化と異質性を許容する空気の醸成は、社会のメカニズムに「遊び」をもたせることにほかならず、消費をめぐるコミュニケイション空間の設定は、差異化の相互的ディスプレイを楽しむ「遊び」の社会的展開なのである。(P.173)

遊びと仕事(真面目)という区別はどこからくるのでしょうか。「仕事と遊び」「真面目と不真面目」「緊張と気晴らし」「ハレとケ」など、同じように対になる言葉はたくさんあります。「仕事をするのが大人、遊ぶのは子供」「子供は遊びの天才」など様々な言われ方がされます。ホイジンガは

真に遊ぶためには人はふたたび子供にかえらねばならない。(高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫、P.402)

と言っています。この『ホモ・ルーデンス』というのは不思議な本で、理解しづらいです。遊びと文化について、

むしろ文化はその黎明における根源的な相のなかでは、なにか遊び的なものを固有の特質として保っていた、いや、文化は遊びの形式と雰囲気のなかで営まれていた、ということなのだ。この文化と遊びが重なり合った複合統一体のなかでは、遊びのほうが根本的な原初にあったもの、客観的に認識できるものであり、具体的にはっきり規定される事実であるのに対して、文化とは、ただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名付けた名称でしかないのである。(同書、P.111)

文化はその根源的段階においては遊ばれるものであった、と。それは生命体が母体から生まれるように遊びから発するのではない。それは遊びのなかに、遊びとして発達するのである。(同書、P.355)

「文化から遊びが生まれた」のではありません。逆だというのです。う〜ん、どうなんでしょう。私にはイメージできません。「言い過ぎなんじゃないか」という気もします。ただ、私は「真面目」や「仕事」が優先される社会に対する著者の痛切な批判を感じます。でも、「卵が先か、ニワトリが先か」という問いと同様、著者のねらいは「遊び」と「真面目」の対立を無効化しようとしたのではないかと理解しています。原書が出版されたのは1938年です。当時はオランダにナチスが忍び寄ってきていた時期です。その後、その後オランダは1940年にナチスに占領され、ホイジンガは1942年に収容所に入れられ、軟禁状態になるも1945年に死亡します。ナチズム(あるいはアナーキズム)を評価するほどの知識は私にはありませんが、このホイジンガの考え方はナチズムが「真面目」、つまり近代西洋、あるいは資本主義的な思考の帰結だと示唆しているように思えます。

『ホモ・ルーデンス』が出版されてから22年後(1960年)、アリエスは『<子ども>の誕生』を出版します。子どもは中世末期に「生まれた(発見・発明された)」というのです(まだ全部読んではいません)。子どもはいつの時代だっていたし、いつの時代も遊んでいた、ということではなさそうです。私が子どもの頃は、子どもは遊んでいました。親は今ほど子供に干渉しませんでした。今の子どもたちを見ていると、遊ぶ余裕がないように見えます。それは親の余裕の無さを反映しているように思います。

近代以降の西欧は、子どもに遊びを押し付けたような気がします。「仕事(真面目)」と「遊び」の対立、「生産」と「消費」の対立は、近代西欧が作り上げたものではないでしょうか。そのために仮想されたのが「おとな」と「子ども」なのでしょう。遊びが反体制性を帯びるのは、体制が遊びを排除しようとする(ある空間に閉じ込めようとする)からです。それは「仕事」と対になるものとして設定され、仕事が神聖(聖)で遊びは俗なものとされる。その意味では、遊びは近代においては反体制的です。資本主義社会においては、買わないこと(消費しないこと)は罪で、消費はしなければならないことです。それは「消費」そのものではなく、「買う」ということとイコールです。買うこと(消費すること)を強制するところに権力があるのです(そして、それが「稀少性=ニーズ」(イリイチ)によって成り立っていることは別稿)。

自由

私がずっと信じてきた「自由・平等」なんていうものもとても怪しくなってきました。「平等」については「同一性と差異」で述べた通りです。自由はどうでしょうか。

そればかりか、差異的な価値の追求をむしろ社会的な地位承認の条件にすることによって、一つの「強制された自由」として差異的な消費を「こなす」態度を消費者に浸透させ、消費経済を駆動する文化的基盤を形成し、その厚みを確保させるのである。(P.168)

自由という言葉は仏教用語して昔からあったようですが、明治初期に西欧の「 liberty、freedom 」の訳語として使われたとき、その意味がわかる日本人は殆どいませんでした。それもそのはずです。「自由」というのは「主体」に属するものです。主体のなかった日本に、アイデンティティ、生きがい、レゾンデートル・・・がありようがないのです。

「差異化の戯れ」が強制になる人もいます。あるいは消費が病気(依存症)になる人もいます。IR構想に賛否の声が上がっています。賭け事に依存する(中毒になる)人は世界中にいるでしょう。でも、主体性に乏しい日本と、主体性が絶対的な西欧とでは、問題の本質が違うように思います。「それは本人(主体性)の問題だ」という言葉が意味することは、文化によって違うのです。

しかし、選択自由とは、AでもBでもどちらでもよいという事態にほかならない。したがって、財の差異的な価値とは、どちらでもよいという「恣意性 arbitaire 」、あるいは他と「代替可能 substituable 」という意味での「非決定性」を抱えこむのである。財の差異的な文化価値の基本的な特性は、こうした「恣意性」と「非決定性」にこそ見いだされねばならない。そこには、人が社会的に成り立たせる、いずれの形でもありうる「人為」的な意味という文化的性格が、顕在的に現れているのである。(P.139)

一種類であれば、差異はありません。「他」を作ること、差を作ること、それが重要なのは「同一性と差異を見る文化」です(柄谷さんのいう「単独性」の拒否)。選択の可能性、それは一見、生産・生産者・生産物の過剰のように見えます。それを「農耕( cultivation )が生み出した」という人もいます。私は、余剰を得るために農耕が始まったわけではないとおもいます。「祭り」と「祈り」が始まりなのではないでしょうか(旧約聖書の「カインとアベル」の話は象徴的です)。それはまさしく文化です。どう作るか、どう食べるかだけではなく、ひょっとしたら「消化の仕方」も文化的かもしれません。納豆とヨーグルトが違うように、です。

しばしばCSが強調するように、大衆文化では快楽と支配とは表裏一体の共犯関係にある。それは、「権力=知=快楽」の連関をあぶりだしたフーコーから学ぶことのできる権力観でもある。(P.175)

餌をつければ魚がよってくる、人参をぶら下げれば馬が走る、そんなことはありません。お金をちらつかせれば人間が集まる(動く)というのは近代の発想で、ちらつかせる側も、集まる側も同じ言語ゲーム(文化)の中にいるです。

消費も一つのコミュニケイションの「遊び」である以上、こうした主体の「めまい」という契機を抱えている。(P.177)

「今の社会ではそうだ」「自分はそうだ」ということを「人間とはそういうものだ」と、つい思ってしまいます。お腹が空いていれば、食べ物で釣ることができる、などということは他の文化ではまれでしょう。たとえそれが子どもであっても、赤ちゃんであっても。母親以外の母乳を飲ませるためには、準備が必要です。粉ミルクを飲ませるためには、粉ミルクに仕掛けが必要になるでしょう。母親以外の母乳でも、粉ミルクでも喜んで飲む赤ちゃんはいるでしょう。でも、それを「商品」として販売するためには、少しくらい下痢する赤ちゃんがいたとしても、より多くの赤ちゃんが飲む必要があります。猫用のペットフードのことを考えてみてください。

自由選択の幅の拡大は、自由選択的な消費を志向する欲望と努力を基礎としている。(P.131)

西欧中世にはそんな意識がなかったと思います。労働に(賃労働に)就かせるために、資本(国家)が行った努力(強制)はマルクスが『資本論』で多くのページを割いて書いていたことです。人間は物質的に「より良き生(快)」を求める、という幻想は西欧近代に始まったものです(近代的自由意識)。古典ギリシアの「善」や「快」とは似て異なるものです。

親密性

彼/彼女は、たとえ物理的な意味での居住空間ではないとしても、何らかの形で戯れの扮技の世界に対して隔たりを確保しうる自分(たち)の「部屋」のなかで、「本当の」自分に意味を与えてくれる他者を必要としているのだ。戯れの扮技の世界から隔てられた自分(たち)の「部屋」のなかにいる「そのままの」自分を、「あるがままに」確認し肯定してくれる他者との交わり、それは、いわゆる親密性 intimacy の関係にほかならない。(P.266)

まず何よりも、文化的差異化の戯れの場面とは異なって、演技的アイデンティティではなく、「あるがままの」自分を「そのままで」肯定する態度をしめしてくれることが必要だろう。(P.267)

しかし、価値づけるとはどういうことか。あまりに広義な用法になるかもしれないが、それはある意味での愛を、自分にさし向けてくれることだといってよいだろう。(P.267)

「愛」について、著者は『愛する人を所有すること』で詳しく論じています。

政治的闘争や恋愛の破局などを経験したうえで、著者がたどり着くのは「アイデンティティ」の問題であり、最後は「親密さ」、「愛」です。私にはそれが著者の「叫び」のように聞こえました。聞こえたというのは、ほかでもない、それが私自身の叫びだからです。

日本人にとっての「愛」については、前述しました。「差異化の戯れ」に向き合う主体の態度はいくつかあります。

第一に、アイデンティティの防波堤を確保しえない主体は、自分を袋小路に追いこんだ文化的差異化の戯れの大波に向きなおり、そのいくつかの、あるいはすべての戯れに対して、ルサンチマンにみちた反発と攻撃をしかける可能性がある。(中略)それは、現代の文化的差異化を戯れる主体にとっては、文化そのものの否定と映るであろうし、文化を標榜する抵抗勢力からも総スカンを食らうだろう。(P.271)

第二に、これとはまったく対照的な形で自暴自棄に走る可能性も考えられる。アイデンティティの飛散と破壊を余儀なくさせる、さまざまな戯れの渦へと埋没していく試みである。(P.272)

第三に、文化的差異化の戯れに向きなおるのではなく、あくまでアイデンティティの防波堤を築きあげるべく、親密性の関係の確保に最大の努力を集中するという方向が考えられる。(中略)戯れる主体相互のあいだでの差異的文化価値にもとづく評価と楽しみを尻目に、少なくとの現代的な文化からは隔たった、人としての絆の問題に関心を集中すること。それはある意味で、マス・コミュニケイションを軸とする現代の文化的戯れに対する素朴な倫理的反抗といえるかもしれない。(P.272-273)

これらは「恋愛」に向き合う主体の態度にもそのまま当てはまります。

どの曜日のどのドラマでも、少なからず「恋愛」がテーマとなっています。今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、平安時代の「恋」を「現代の恋」と同様に扱っています。私は吉高さんのファンなので、あまりいいたくはないのですが、平安時代の恋と現代の恋が同じだなんて思いません。恋愛に積極的な、つまり能動的な女性の姿など、現代社会の困難を1000年前に投影したものでしかありません。

ドラマや映画や小説で繰り広げられる「恋愛」を追いもとめる現代人の姿は、広告を引き受け、多くの商品の前で右往左往する姿と同じなのではないでしょうか。『愛する人を所有すること』の感想文でも引用しましたが、

 女の顔

女は情熱に驅られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも差支へない。(芥川龍之介『侏儒の言葉』岩波書店、全集第七巻 1978/02/22、P.449)

「女」としていますが、男も同じです。「少女らしい」としてますが「子供らしい」と言ってもいいでしょう。明治維新以来日本に流れ込んできた現代社会(商品社会)、あるいは主体性社会の矛盾を見事に表していると思いませんか。いみじくも著者が書いた、

そうではなく、「ミシンとこうもり傘のあえもの」のごとく、ほぼまったく無縁な対立しあう価値やテイストを次々と自分の選択としてディスプレイするさいに、「自分は何なんだ」という問いをそのつど置きざりにしてゆくしかないことこそが、主体にとっての問題なのである。(P.226)

と、なんと似ていることでしょう(「「解剖台の上での、ミシンと蝙蝠傘との偶発的な出会いのように美しい」はロートレアモンの『マルドロールの歌』(1869)に出てくる言葉で、のちのシュルレアリスムの方法概念です)。

1000年前には「人を好きになること」がなかったと言っているのではありません。1000年前も、一万年前も、「恋に焦がれる気持ち」はあっただろうし、その結果として「子どもができる」事もあったでしょう。でも、つい半世紀、あるいは一世紀前は「好きになること」と「結婚すること」と「子どもを授かること」は別のことだったのです。

おそらくはいうまでもないことだが、本書は、現代の文化状況における支配と権力との崩壊が、戯れの主体のアイデンティティ問題を焦点として生起するなどと主張するものではない。この社会のラディカリズムが、いまだに支配構造の文化的な次元に関心を欠如させている現状に警告を発したいのと同様に、それが、現代社会を生きる主体の危機に重大な関心をしてしていないととに警鐘をならしたいだけである。(P.275)

本書がたどりついたのは、この文化的コミュニケイションを通じた社会の支配構造と、そのコミュニケイションを戯れる主体のアイデンティティの危機とが分かちがたく結びついている、という認識にほかならない。(同)

「消費」「戯れ」「アイデンティティ」「コミュニケイション」「親密さ」、私はこれに「恋愛」を加えたいと思います。

そして、それらが60代も後半になった私の今の悩みです(恋愛に年齢は関係ありません)。

著者の今の立ち位置はわかりません。著者は優しすぎます。真面目すぎます。「優しさ」や「真面目」が褒め言葉なのかどうか、著者がどう感じるかはわかりません。誰も「優しさ」だけで生きていくことはできないし、「真面目」を通すこともできないでしょう。そんなことをすれば疲れ果ててしまうし、それが様々な抵抗にあうことは想像に難くありません。それでも「書かなければならない」と思っていたのだろうと思います。

私は宗教が大嫌いです。創価学会であろうと、キリスト教であろうと、統一教会であろうと、オーム真理教であろうと大嫌いです。私が遅ればせながらも注目しているイリイチはクリスチャンでした。その優しさ、真面目さは、クリスチャンだからこそなのかも知れないと思いました。著者は学者としてではなく人間として誰かのためになりたいと思い、悩み続けているんだろうと思います。大学教員として学生との関わりのなかで、私とは比べられないほどに若い人の気持ちが分かるのだろうとも思います。そして、政治においても恋愛についても「真摯に」向き合ってきたのでしょう。

こんな感想文は、何の役にも立たないかもしれません。それでも同じ時代を生きてきた人間として、書かせてもらいました。






[著者等]

浅見/克彦
1957年、埼玉県生まれ。北海道大学教員。専攻は経済学、社会思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

マルクス主義の三つのブラインド・スポットのうち、マス・コミュニケーションの問題に視点を定め、CS(カルチュラル・スタディー)を欠を埋める手段として取り上げ、文化と消費の問題にも触れながら議論を進める書。



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